澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「A級戦犯分祀に続く靖国参拝」を許してはならない。

各紙の報道によれば、先月(10月)27日、福岡県遺族連合会(古賀誠会長)の県戦没者遺族大会において、靖国神社に合祀されているA級戦犯14人を分祀するよう求める決議を採択した。

分祀を求める理由は「天皇皇后両陛下、内閣総理大臣、全ての国民にわだかまりなく靖国神社を参拝していただくため」とのこと。天皇や首相だけでなく一般国民への違和感のない参拝促進には、A級戦犯の分祀が不可欠としているわけだ。

同連合会は2009年に「A級戦犯の扱いは、合祀された1978年以前の『宮司預かり』に戻す」べきとする見解をまとめている。今回初めて「分祀」の要求に踏み込んだということ。また、関連報道では、全国の遺族会で分祀を求める決議が行われたのは初めてだが、複数の県の遺族会でも分祀決議への同調を探る動きがあるという。
古賀会長は、予てからのA級戦犯分祀論者。2002年?2012年には財団法人日本遺族会の会長を務めていた。また、1993年?2006年には遺族会を代表して靖国神社総代(10人)の内の一人でもあった。全国遺族会の重鎮であり、靖国を支える有力者である。福岡の動きの全国への影響力は侮れない。

この動き、実現不可能として無視してはならない。実現の可能性あるものとして大いに警戒を要するものと思う。

ところで、分祀は可能なのか。そもそも分祀とは何か、具体的に何をすることが求められているのか。ことは宗教論争の外皮をまとった政策論争である。宗教的な解釈としては何とでも言える。何とでも言えるとは、ある日前言を翻してもいっこうに差し支えないということだ。

神道では、八百万(やおよろず)の神が存在する。神社に祀ると祭神という。この祭神を数える数詞は「柱」である。複数の祭神をひとつの神社に祀ること、あるいは先の祭神が鎮座する神社に別の祭神を追加して祀ることが合祀である。これは分かり易い。靖国では、臨時大祭における招魂の儀の度に合祀が繰り返され、祭神は2座(皇族2柱で1座、その他おおぜいの全祭神で1座)246万余柱となっている。

分祀の概念は一見明白とは言い難いが、合祀の逆の現象として、ある神社の複数柱の祭神の一部を他の神社に移すことを「分祀」と理解してよいと思う。靖国の祭神246万余柱のうちの「東條英機の命」を筆頭とする14柱を、靖国神社から別の神社に遷座するという儀式を行い、同時に霊璽簿(れいじぼ)から抹消するという手続きになろうかと思われる。

死者の霊魂が招魂という儀式によって靖国の祭神となるとの意味づけは飽くまで観念的なものでしかない。それとまったく同様に、246万柱の靖国神社の祭神の内生前A級戦犯とされた者14柱の霊魂を祭神から外して他の場所に移すという観念的な行為ができないはずはない。

「教義の理論上分祀はできない」などという根拠はありえない。格別に神道の「理論」などあるわけがない。氏子たち、つまりは遺族たちの宗教的な感情に反しない限りは、分祀は可能である。要するに神社と氏子らの考え次第なのだ。

この点、靖国神社自身の現時点での考え方は、次のように「所謂A級戦犯分祀案に対する靖國神社見解」に示されている。

「靖國神社は、246万6千余柱の神霊をお祀り申し上げておりますが、その中から一つの神霊を分霊したとしても元の神霊は存在しています。このような神霊観念は、日本人の伝統信仰に基づくものであって、仏式においても本家・分家の仏壇に祀る位牌と遺骨の納められている墓での供養があることでもご理解願えると存じます。神道における合祀祭はもっとも重儀な神事であり、一旦お祀り申し上げた個々の神霊の全神格をお遷しすることはありえません。」

分霊という言葉で、「一つの神霊を分けても、元の神霊はそのまま存在する」という例は多くある。昔、江戸の町の名物として「伊勢屋稲荷に犬のくそ」といわれたほど、伏見稲荷からの分祠(勧請)をした稲荷神社が氾濫した。もちろんこれで「本社」としての伏見稲荷の祭神や心霊が減ずることにはならない。靖国神社のコメントは、このような事例を念頭において一般化し「一旦お祀り申し上げた個々の神霊の全神格をお遷ししてもゼロとなることはありえません」「これが日本人の伝統信仰に基づく神霊観念」というもの。宗教的信念については争いようがないが、「これ(のみ)が日本人の伝統信仰に基づく神霊観念」と言われると、その部分に限っては反駁の余地がある。伝統に基づく心霊観念上、祭神が削除されることもあるのだ。

私の手許に「神道の基礎知識と基礎問題」(小野祖教著)という書物がある。靖国問題に取り組んだ当時に購入した書物のひとつで800頁を越す大著。そのなかに、「祭神の取扱い」という一節があり、祭神の決定、変更、訂正について、戦前の内務省の解釈を引用して、次のとおり記されている。

「祭神の変更
 イ 祭神の一部増加((1)神社合併により、(2)祭神に縁故ある神を増合祀するため)
 ロ 祭神の一部削除((1) 考証による誤謬発見により、(2)神社を創設し祭神の一部をそこに分祀するため)」

以上のとおり、ロ(2)に「神社を創設し祭神の一部をそこに分祀するための祭神の一部削除」が明記されているのだ。

A神社に合祀されている甲乙丙3柱の祭神の内、丙1柱について新たなB神社を造営してそちらに遷座して分祀する場合には、A神社については祭神の一部(丙)が削除されて甲乙だけになるということである。「伏見稲荷から末社を勧請しても、宇佐八幡本宮の神霊には何の変化も生じない」という場合とは明らかに異なるのだ。分祀反対派の「神道の教義上、分祀は不可能」を鵜呑みにしてはならない。

ほんとのところは政策論争だから、結局は、神社は氏子の意見に耳を傾けざるを得ない。福岡が真っ先に分祀論に踏み出した、そのインパクトは小さくない。ある日靖国神社が「東條英機の命」以下の14柱を分祀することは不可能ではないとして、分祀を実行する可能性は十分にある。したがって、将来実現可能な選択肢として考えなくてはならない。

実は、分祀の成否自体はさしたる重要事ではない。重要なのは、分祀に引き続いてありうる「天皇・首相・閣僚、そして多くの国民のわだかまりない靖国神社参拝」である。これが実現するとなれば、悪夢というほかはない。

靖国神社の本質はA級戦犯の合祀にあるよりは、264万余柱の兵の合祀にこそある。A級戦犯の合祀以前から靖国問題はあり、A級戦犯の分祀が実行されたとしても靖国問題が解決するわけではない。「分祀に続く靖国公式参拝」を許してはならない。
(2014年11月6日)

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