澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

国旗国歌への敬意表明強制はなぜ許されないかー放送大学解説への反論

ときたまFMラジオ「放送大学」の講座に耳を傾ける。ときに、質が高く内容の濃い講義にあたって、ハッピーな気分になる。もちろん、いつものことではなく、不愉快になることもしばしば。

きっかけは、大学で同級だった佐藤康邦君が放送大学の教授になったこと。プラトンやカント、ヘーゲル、マルクスなどの講義をしている。哲学、倫理だけでなく、文学や絵画にまで及ぶ彼の話がとても面白い。とはいうものの、たいていは朝6時からの45分間。寝床の中での受講は、殆どうつらうつらとしているうちにおわる。それでも叱責されることはない。ぜいたくな時間だ。

ここしばらく、6時から6時45分までが、「近代哲学の人間像」「西洋哲学の誕生」という佐藤君が中心の講義。昨日(3月21日)寝床のなかて夢うつつで聞いている内に、プログラムは終了した。いつの間にか、番組は移って、教育公務員に対する懲戒問題という、恐ろしく非哲学的なテーマの講義に切り替わっていた。

教育公務員に対する懲戒における裁量権の逸脱濫用論が語られ、「日の丸・君が代」強制問題にもかなり詳細に触れられていた。累積的に処分内容が加重される東京都教育委員会のシステムを、比例原則に反するものとして原則違法とし、減給以上の処分を取り消した最高裁の立場に好意的な内容。そして、明日(3月22日)は憲法論という予告。

本日(3月22日)、睡魔と闘いながら、寝床の中で坂田仰日本女子大学教授の「学校と法」第14回の講義を聴いた。中身は、「日の丸・君が代」強制事件の最高裁判決についての無批判な容認論。真面目に、この講座を聴いている人への影響も大きいことだろう。批判が必要と思って、この稿を起こしている。うつらうつらの聞き書きだから、正確な引用はできないことをお断りしなければならないが、大筋は外れていないはず。

坂田教授は最高裁の判断に賛成する理由をこのように説明する。
「このような例を考えてみると分かりやいのではないでしょうか。ギャンブルは犯罪には当たらず処罰すべきではないという信念をもった警察官がいるとしましょう。『憲法29条の財産権規定によれば、自分の財産をどう処分しようと自由なはずなのだから、ギャンブルを犯罪として取り締まることは違憲である』というのが彼の信念であり思想です。この信念に基づいて、『自分の思想・良心の侵害に当たるから、ギャンブル犯への逮捕状の執行は拒否する』と言えるでしょうか。おそらく、圧倒的多数の方が『そんなことができるはずはない』とお考えになるはずです。自らの思想良心に反するとして国旗国歌強制を違憲とする教員の論理は、この警察官の考えと基本的には同じものと考えられるのではないでしょうか」

正直のところ驚いた。あまりに、稚拙な議論の組み立てではないか。さすがにこれだけで説明は終わらない。「この立論に対しては、二つの方向からの反論が想定されます」として、次のように続く。

「一つは、警察官がおこなう職務執行行為と、教員がおこなう教育という行為の質的な差異を無視するものだということです。前者は権力作用であり、後者は非権力作用であって、この両者を同じように取り扱うのは間違っているという批判が考えられます。しかし、この批判は、教育には権力作用が伴うものであることを無視したものであることにおいて、妥当ではありません。子どもを学校に呼び出し、教室での授業を強制することにおいて、教員のおこなう教育も権力作用なのです。

もう一つは、ギャンブルを容認する思想と、国旗国歌強制を排斥する思想との価値序列の差異を理由とする批判です。しかし、これも納得できる批判ではありません。そもそも憲法19条を生みだした近代の自由主義思想は、一切の思想良心を等しく尊重する立場にたつもので、思想良心の内容による価値序列を認めないものであったはずだからです」

どちらの説明も、放送大学を受講しようとするほどの人にもっともと思わせるほどの説得力はない。この議論は、「自己の主観的な思想良心が侵害されているというだけの理由でいかなる職務命令も拒否できる」という乱暴な主張に対する反論としては成立する。しかし、さすがに最高裁はそんな前提での理由付けをしていないし、教員側もそのような単純な主張はしていない。

また、坂田教授流の立論は、公務員の職務内容を捨象し、すべての公務員を同等に見なしたうえで、思想・良心による職務命令拒否の余地を一般的になくしてしまうこととなる。今や旧時代の遺物として妥当性を否定されている特別権力関係論の蒸し返しに過ぎない。結局のところ、これでは職務命令絶対有効論にほかならないではないか。

教員の側から多くの訴訟が提起されているが、単純に「自分の思想にそぐわないから」「日の丸・君が代の強制には従えない」というだけの原告側の立論ではない。たとえば、敬虔なクリスチャンの教師が、信仰の上では天地創造説を信じていたとしても、物理、地学、生物、歴史の授業では天地創造説を真理として教えてはいけない。ビッグバンも、大陸移動も、進化論も、考古学も、自分の信念に反するとして授業を拒否することは許されない。もちろん、天孫降臨や神武東征の天皇制神話の奉戴者も、現代の定説としての歴史の教授を拒否することは許されない。こんなことは、当然のことだ。そんなことは現実に問題になっていないし、なり得ることでもない。

実は、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、進化論を教えることの強制とはまったく違う問題なのだ。だから違憲の主張となり訴訟の提起に至っている。もちろん、警察官のギャンブル摘発とも違う。これを一緒くたにすることはあまりに乱暴な議論。

どこが違うのか。まずは、何よりも国家を個人の価値に優越するものとする取扱いは、いかなる場面においても許されることではない。ましてや、主権者たる国民に対して、その意に反して国家への敬意を表明せよという強制は許されない。これは、教育条理や公務員秩序に無関係に、いかなる場においても貫徹されなければならない大原則である。

個人と国家との関係をどう把握すべきか。このことは憲法の最大関心事である。自由主義憲法の基本原則は、まさしく個人の尊厳を最高の価値序列に位置づけるもので、国家はその僕に過ぎない。人権を侵害することのないように公権力の発動が抑制的でなければならないことは常識に属する。

主権者であり人権主体でもある国民個人に対して、公権力が国家の象徴である国旗国歌に敬意を表するよう強制することは、憲法的には背理であり、価値倒錯として許されることではないのだ。この場合当然に、精神的自由権の権利主体である教員は、憲法19条を根拠とした権利主張をなし得ることになる。

以上のとおり、個人と国家との直接的な対抗関係ないしは価値序列の優劣を問題にする点で、国旗国歌への敬意表明強制は、他と異なる特殊な問題局面なのである。ギャンブル肯定の例を比較に持ち出せようはずもない。

さらに、「日の丸・君が代」に敬意を表することは、公教育本来の内容ではない。ましてや、強制などが許されるはずはない。特定の教育理念を標榜する私立学校であればともかく、公教育において国旗国歌に敬意を表明するよう強制することは、国家主義的イデオロギーの受容を教育内容とするものとして憲法の許す教育ではあり得ない。そもそも国家は特定のイデオロギーをもってはならない。国家への敬意表明に抵抗感のない国民を育成しようというのは、明らかに憲法が想定する教育から逸脱するものとして、これを許容し得ない教員の思想良心を侵害するものである。

教育には、知育・徳育・体育の3分野があるとされる。知育が、真理を伝達する教育、あるいは真理を獲得すべき主体の能力開発する教育が、教員の職責に属することに異論はなかろう。体育も、基本的にこれに準ずる。問題は徳育である。人としての道徳や倫理の教育の名目によって、特定の価値観の注入をすることには、厳格な警戒を要する。国旗国歌に対する日本人、国際人としてのマナーを学ぶ機会を名目としての国旗国歌強制は、まさしくこれに当たるもので、あってはならないことなのだ。

問題を、生身の教員個人その人が具体的に有する思想・良心の侵害としてとらえるだけでなく、憲法が想定し期待する教員としての職責にあるべき思想・良心の侵害を考慮した方が分かり易いかも知れない。公権力が国家主義的イデオロギーを子どもに注入しようとするとき、教師はその防波堤となってこれを防ぐべき思想・良心を持つことが、期待され想定されているというべきであろう。

なお、坂田説による説明は、標準的な学界の通説からは、権力の側に偏っていると指摘せざるを得ない。普通の考え方なら、精神的自由に関する人権侵害があった場合には、公権力による当該の人権侵害を正当化するに足りる厳格な憲法適合性審査基準の要件をクリヤーしなければならない。

このことについては、宮川光治最高裁裁判官(当時)が、貴重な少数意見において明確に述べ曖昧さを残さない違憲判断をしたところである。通説的な学説からはこれが常識的な判断方法であろうが、坂田説はこれに触れるところがない。最終的に権力追随の結論に至ることまで非難はしないが、講義では公正・公平に目配りして、重要な論点の解説を落としてはならない。学問とはそういうものではないか。

そういう講義でなければ聴いていてハッピーな気分にはなれない。
(2015年3月22日)

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