「憲法日記」の新装開店
春。新しい出発のとき。引越の季節でもある。
本「憲法日記」は、4月1日の本日、これまで長く間借りしていた日民協ホームページから引越をして、本サイトにての新装開店である。独立を宣言する心意気なのだが、これまでと何がどう違うことになるのかは、まだよく分からない。少なくとも、大家に気兼ねすることなく、独立自尊、のびのびと、言わねばならぬことを言いたいように言えることになる。もの言わぬは腹ふくるる業とか。恐いものなし。なんでも言うことにしよう。
一昨日、久しぶりの同級会を開催した。安保闘争の余韻収まらぬ1963年に大学に入学し、中国語をともに学んだクラス仲間。
ちょうど50年前のことである。西側で中国を承認していたのは、まだイギリス一国のみだった。法・経・文・教の文系学生全部の中から27人の少人数クラス。中国語を選択する者が圧倒的少数派であった時代のこと。
あれから半世紀。立身出世とも名望とも、もちろん富貴とも、無縁の仲間11人があつまった。
紅顔可憐の少年も 今や白髪三千丈
袖摺りあったあの頃の 昔語りの懐かしや
あの頃、学問とは何か、教養とは何かを考えた。今でも良くは分からない。
少なくとも、ひからびた古典を渉猟し、知識を積み重ねるものではないはず。権力に仕える技術を磨くことでもなく、資本に奉仕する業を習得することでもない。自分の生き方を導き、自分の生き方の揺るがぬ指針となるもの。そんなものなのではないか。
とすれば、憲法理念の把握、憲法過程の把握、憲法政治の分析、そして憲法運動の実践などは、学問や教養そのものといえないだろうか。人類史が共通の理想として確認したものが憲法の理念となり、その理念を阻む者と支持する者との対立の中で、自らの態度を決めなければならない。憲法を学び考えるとはそのようなことではないか。自らの生き方と社会や歴史との関係を能動的に認識し、切り結ぶことでもある。
同級会に集まったほぼ全員が積極消極の護憲派。懐旧談だけでなく、原発問題や小選挙区制なども話題になった。私の発言は、当時と何も変わっていない。ブレがないというべきか、進歩がないというべきか。
今後、改憲問題・改憲阻止運動をメインテーマに、ブログを書き続けるつもり。ご愛読をお願いしたい。
(2013年4月1日)
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新装開店のサービスに一編のエッセイを。
『スズメのこと』
クレア・キップス著の「ある小さなスズメの記録ー人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクレランスの生涯」(文藝春秋)という可愛らしい本がある。第二次大戦後にイギリスで出版されると、世界中で翻訳され大反響を呼んだ。日本では、鳥についての著書の多い児童文学者の梨木香歩さんによる翻訳が2010年に出た。
1940年7月、クレアは丸裸で目もあかないスズメの子を拾ってクレランスと名付けた。ドイツ軍による空爆が始まる少々前のロンドンである。翼と片足に障害のある、このスズメと共寝をして暖めて、ミルクやゆで卵の黄身を与えて見事に育て上げたのだ。市民防衛隊員のクレアにつれられて、この小スズメはその愛らしさで、空襲におびえる人々を慰め、励ますことになった。クレアと綱引きをしたり、両手を合わした「防空壕」へサイレンの合図で隠れるなどいろいろの芸をした。その仕草の愛らしさに、人々は悲しみや恐怖をしばし忘れることができた。子供たちだけでなく英国民全体のマスコットとして有名になった。
戦後二人はピアニストのクレアの伴奏でクレランスが歌うミニコンサートをしたりして、はたも羨む生活を楽しむ。11歳の時クレランスは卒中を起こして、生来障害のあった身体がもっと不自由になったが、クレアの懸命な治療と介護によって回復した。 「不屈の意思をもったこの相棒は決して降参しなかった。」「陽気で熱中しやすく、衝動的で、自分のやりたいことをよく心得ており、目的が容易にぶれることはなかった。周りの環境への適応力は一貫しており、勇気と陽気さは病気で衰弱しているときでさえ、決して失われることはなかった。私に対する誠実は終生疑いようもなかった。」とクレアは述べている。
そしてお別れ。1952年8月23日。クレランスの死因は極度の老衰、12歳7週と4日だった。
この話に深い愛着をおぼえてならない理由は、私も10年ほど前、道端でスズメの子を拾って育てた経験があるからだ。本当に本当に可愛らしかった。食事の時は家族のハシの上を渡り歩いて、黄色いクチバシで自分の好みの食べ物をつついて食べた。カボチャの甘煮や塩ジャケが大好物だった。髪の毛の中が大好きで、モゾモゾと動き回って、居心地よくしつらえて寝入ったものだった。羽が生えそろって飛べるようになると、電灯の笠に止まったり、本棚の隙間でかくれんぼをして遊んだ。
そしてお別れ。夏の暑い日少し開けた窓の隙間から外へ飛び出していって二度と戻らなかった。これでいいのだと思いながら、自分の力で生きていけるかと胸が痛んで、電線や木の上ばかり見て歩いていた。手のひらで動く毛玉の感触がしばらく残っていた。
また、夜中に門柱に止まって震えているヒヨドリのヒナを保護したこともあった。クチバシが長くて柄も大きくて、可愛さの点ではスズメの子に少々劣ったように思う。明くる朝になると大きな昆虫をくわえた勇敢な母鳥が家の中まで入ってきて連れ帰ってくれた。この時はこれ以上ない行き届いた結末に安堵したものだった。
「ぼくとりなんだ」という和歌山静子さんの絵本(日本野鳥の会出版)では、「助けてあげなければ」と拾うと、親鳥から引き離すことになる、といっている。むやみに「ヒナを拾わないで」ということである。
でも、ヒナに羽も生えていず、震えていて、天気が雨もよいの夕方で、上の電線にはカラスがいるというような場合は拾ってもいいのではないでしょうかね。何と言われようと、絶対に拾うと思う。そんな幸運がもう一度訪れてくれますように。