追憶 菊池久三先生(岩手靖国違憲訴訟原告)
近々ロゴスから、ブックレット「壊憲か、活憲か」を出す予定で、原稿を書いている。
予定では、下記執筆者4人の共著。私一人が脱稿していない。
「〈友愛〉を基軸に活憲を」 村岡到
「憲法を活かす裁判闘争」 澤藤統一郎
「自民党改憲案への批判」 西川伸一
「五日市憲法草案は現憲法の源流」 鈴木富雄
128頁で1100円が予価。
私の、「憲法を活かす裁判闘争」は、岩手靖国違憲訴訟の経験を素材に今の時点で、憲法を活かす裁判運動の経験をまとめてみようというもの。できあがったら、お読みいただくようお願いしたい。
当時の資料に目を通していたら、靖国訴訟の原告のお一人、菊池久三先生(1916-1995. 北上市)が亡くなられたときの追悼文が出てきた。
「どんぐりころころ」という菊池久三先生の遺稿集の片隅に掲載していただいたもの。尊敬する先輩の生き方を書きとめておきたい。
筋を貫く生き方ー菊池久三先生の印象
手許のずいぶんと古ぼけた手帳を繰ってみると、久三先生との初めての出会いは一九八〇年一二月六日である。古い手帳から往事の懐かしい記憶がよみがえる。
その数日前、 懇意の柏朔司さんから紹介の電話をいただいていた。北上に政教分離の運動を進めているグループがあって、君の事務所を訪ねて行くから法律的な相談に乗ってやっていただきたい、という。その中心人物として「菊池久三」という名を初めて知った。岩手靖國違憲訴訟のプロローグである。
初対面の先生は、紛れもない「教師」だった。それも、「教え子を再び戦場にやってはならない」との思いを熱く語り続ける生粋の「教師」だった。この、出会いの日の印象は最後まで変わることはなかった。
法廷における久三先生の思い出の最たるものは、控訴審での本人としての証言だった。尋問は仙台の手島弁護士が主担当、私がサブだった。延べ一〇時間を越えた尋問準備の打ち合わせは、菊池先生には相当の負担であったと思う。
満席の法廷傍聴者は、政教分離運動の支援者が半分、公式参拝推進派の遺族会動員が半分。そのなかでの久三先生の証言は法廷を圧した。青年学校の熱意あふれる教師として子供たちに忠君愛国の教えを説いたこと、教え子の出征に際して「生きて還ると思うなよ、靖國神社で会おう」と送り出したこと、そして、その教え子たちの真新しいいくつもの墓標を見つけたときの悔恨。戦後は、再び教壇に立つ資格はないと思った自分が、「平和教育・民主主義教育を進めることで、贖罪したい」と思い返し決意したその経緯……。
その決意を一筋に貫いた人であればこその迫力に満ちた証言だった。堂々たる証言は、久三先生の堂々たる人生の発露であった。
訴訟が終わって、お目にかかるたびに私の子供のことを話題にされた。この点も教師なのだな、と印象を深くした。平和教育・民主教育を生涯の仕事とされた久三先生にとって、私は戦後初期の教え子の世代、私の子供は先生の最後の教え子よりやや若い世代。悲惨な戦争体験や戦前の不合理な社会の苦い体験が世代から世代にどう承継されているのか。平和や民主主義擁護の熱い思いがそれぞれの世代でどう育まれているか。気になってならなかったのだと思う。若い世代への期待もひとしおだったのだろう。
久三先生にとって、岩手靖國訴訟の提起は自分の生き方の貫徹の結果として、ごく自然なことだった。久三先生は、この訴訟に関わった私たちに、みごとな筋の通った生き方の手本を見せてくれた。やっぱりどこまでも、久三先生は人の師であった。
戦後の民主教育を支えた師を記憶に留めておきたい。
(2016年4月17日)