澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「後法は前法を破る」―9条3項の新設は2項を破ることになる。

学生時代の親しい友から電話がかかってきた。
友「安倍晋三が、『加憲的な9条改憲』ということを言いだしたろう。あれは、いったいどういうことなんだ?」

私「9条1項の戦争の放棄、9条2項の戦力不保持には手を付けずにそのまま残しておいて、9条3項か、9条の2を新しく付け加えるというあれね。」

友「『自衛隊を憲法上の存在として明記する』というのだから、自衛隊の合憲化をねらっていることは間違いない。けど、よう分からんのは、ホントにそれだけなのかどうか。これまでの政府の解釈も、『自衛隊は違憲の存在ではない』のだから、わざわざ憲法改正までやるほどのことはないだろう」

私「『加憲的改憲』は公明党の主張だから、その賛成を得やすいというところは、大いにあるだろうね。自民党改憲草案のように、9条2項を削除して国防軍を制定するということでは、危険すぎて現実性がない」

友「けどな。ホントに『自衛隊は違憲ではない』ことを明確にするだけのことだったら、手間暇かけてこんな改憲手続をわざわざ用意するはずがない。必ず、ウラがあるんだろう。」

私「9条3項でも9条の2でも、これが新しく付け加えられことで、9条1項2項の解釈が違ってくることは大いにありうる。」

友「そこが、ポイントなんだな。『新しく付け加えられた9条3項が、9条1項2項の上書きをする』などという解説を読んだが、『上書き』ではよく分からない。こんなときの法律用語があったろう。」

私「有名な法諺に『後法は前法を破る』というのがある。『後法は前法を廃止する』ともいうようだ。『後法優先の原則』と言っても同じこと。」

友「9条1・2項と、新3項とは矛盾するという前提で、新3項が1・2項の内容まで変えてしまうということだな。」

私「そうだ。まずは、9条1~2項と、新3項との解釈に齟齬がないように、統一的な解釈を試みなければならない。しかし、いかんせん『陸海空軍その他の戦力は保持しない』という2項の定めと、新3項の『自衛隊の存立』。両者が矛盾なく並立することは常識的に困難だろう。」

友「9条3項におくことで合憲化しようという自衛隊は、ホントに今のままの自衛隊なのかね。将来『戦力に変質しうる自衛隊』ではないのか」

私「そのまえに、『今のままの自衛隊』がなんであるかを確認しなければならない。戦争法によって集団的自衛権行使や他国軍への『後方支援』の権限を付与された自衛隊なので、『専守防衛の自衛隊の合憲化』では決してないことが重要だろう」

友「なるほど、そのように言われると、3項の新設によって2項が破られてしまうということの意味が見えてくる。」

私「小狡いアベのやることだ。うんと悪いことに決まっている。と構えるのが正しい対処だと思うね」

友「しかし、なんで後法が優先するのだろう」

私「直近の憲法制定権者の意思が、従前のものより尊重されてしかるべき、ということだろうね。」

友「いったい、新3項の具体的な条文案はどうなるのだろう。」

私「けっこう具体的な案文作りは楽ではないと思うよ。やましい意図を隠しながらのダマシのテクニック」

友「報道だと、自民党は現行9条『堅持』の姿勢を示して公明党の理解を得、年末までの改正案取りまとめを目指す。保岡興治は『来年の通常国会が終わるまでに発議できればベスト』ということじゃないか」

私「2020年施行を逆算すれば、そんなペースだが、そんなにうまくいくはずはない」

友「そうだな。落ち目のアベ。落ち目の自民党だよな。傲りの挙げ句の支持率低下だ。今度の都議選でもお灸を据えられることになるのだろう。」

私「アベには哲学も理念もない。現行憲法のどこをどう変えねばならぬという信念がない。この無原則が彼の強み。改憲派を糾合する立場としてはうってつけだと思う。ともかく憲法に傷を付けたいという、反憲法の情念だけは人一倍強い。そのアベの求心力が落ちてくれば、自民党も与党もまとまらない。日和見維新も遠ざかる。右翼連中からも惰弱と指弾されることになる。そんな彼にとっての悪循環が始まったように見えるよね。ようやくのことだけど」
(2017年6月25日)

アベの加憲的9条改憲提案に欺されてはならない

日本民主法律家協会の理事会で、アベの九条改憲論がひとしきりの話題となった。アベ自身が、5月3日の改憲派集会において、ビデオメッセージで発表した提案。御用新聞として読売を指名し、「詳しくは読売をよく読んで」と言って物議を醸したあの改憲論。「9条1・2項はそのままにして、3項(あるいは、9条の2)に、自衛隊を明記する」というあの加憲的改憲論。

いわゆる「新9条論」者の対応や、日本会議の伊藤哲夫論文(月刊「明日への選択」)が、「こうすれば、(護憲派の)反対の大義名分はあらかた失われるであろう」「護憲派から、現実派を誘い出すきっかけにもなる」との主張をどう見るか。

見方はいろいろだ。大別すれば、アベの譲歩と焦りの側面を大きく見て、現行の自衛隊が憲法上公認されるだけでそれ以上の意味はないという楽観論と、実は憲法論上も9条2項を死文化してしまう危険な策謀だという警戒論と。

楽観論に立つと、運動論的に危惧が生ずることになる。これまでの「自衛隊違憲=集団的自衛権・個別的自衛権ともに違憲」論者と、「自衛隊合憲=集団的自衛権違憲・個別的自衛権合憲」論者(専守防衛派)との緊密な連携に楔が打ち込まれるのではないかとの危惧である。

しかし、警戒論は「現にある自衛隊がその装備と編成において軍隊としての実態を持つ以上、自衛隊を合憲化するとは、9条2項を死文化することになる」「なによりも、集団的自衛権行使を容認した戦争法とともにある自衛隊を憲法上の組織とすれば、集団的自衛権行使を憲法上容認することになる」。さらには、「自衛隊を憲法に書き込むことは、これまでは憲法9条2項に縛られていた自衛隊が、その縛りから脱することだ。際限なく、『自衛隊という名の軍隊』が肥大化する恐れがある」「米軍との連携も、軍法会議も、集団的自衛権行使の要件も、大きく変わることになる」という。この意見が多数派。

森英樹理事長からは、以下の指摘があった。
まずは、「自衛隊を明文で書き込む」という、その書きぶりが問題。伊藤哲夫・日本政策研究センター代表(日本会議常任理事・政策委員・安倍ブレーン)は、「最優先すべきは護憲派陣営への反転攻勢である…。そのために改憲はまず加憲から、である。これは護憲派に大々的な『統一戦線』を容易には形成させないための積極戦略である。加憲なら、反対する理由はないのではないか。憲法第9条に3項を加え、『但し前項の規定は確立された国際法に基づく自衛のための実力の保持を否定するものではない』といった規定を入れることである」(同センター機関誌『明日への選択』2016年9月号)と言っている。

なるほど、書きぶりが問題だ。伊藤が提案する9条3項案の文言、「但し前項の規定は確立された国際法に基づく自衛のための実力の保持を否定するものではない」は、集団的自衛権行使容認を憲法上明文化するものではないか。アベが5月3日にビデオメッセージで言った「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」とは、まったく違ったイメージ。こちらがホンネと言わざるを得ない

指摘されてみると、新たに書き込むという9条3項の文言をどうするかは、一義的ではなく、改憲派の合意形成も容易なものではなかろう。

幅の大きな書きぶりのうち、「護憲派に『統一戦線』を形成させない」という目標に徹すれば、集団的自衛権行使容認につながる文言は極力押さえなければならない。しかし、改憲派の目指すところは、結局のところ自衛隊を憲法上認知して堂々たる国防軍としたいのだ。アベの加憲的9条改憲論を甘く見ていると、足をすくわれかねない。

仮に自衛隊の存在容認だけの加憲であったとしてもなお、9条2項の自衛隊に対する縛りが失われる。自衛隊の質的量的増強につながるとになる。まさしく、アリの一穴をこじ開けることになりかねないのだ。

アベのホンネを警戒するに越したことはない。うっかりアベ提案を、譲歩と妥協の産物とだけ甘く見ていると欺されかねない。アベのやることだ。ずるくて、あくどいに決まっていると見ておくべきが正解であろう。とすれば、「護憲派の『統一戦線』破壊」はあり得ぬことなのだ。
(2017年6月6日)

「改めて憲法の意義を確認し、立憲主義を堅持しよう。」ー日弁連定期総会宣言案

5月26日、日本弁護士連合会は2017年度の定期総会を開催する。以下が、その総会で付議され採択予定の宣言案である。「改めて憲法の意義を確認し、立憲主義を堅持する」との表題が付せられている。

「日本国憲法が施行されて、今年で70年を迎えた。今日、国家による自由への介入の強化、恒久平和主義に反する集団的自衛権の行使を可能とした安保法制など立憲主義の危機ともいえる状況が生じている。今こそ、70年の歴史を振り返り、また、人権侵害と戦争をもたらした戦前への深い反省の下、この憲法が、近代立憲主義を継承し、先駆的な規定を設けたことの意義と、市民の取組のよりどころとしての役割を果たしてきたことを、未来に向けての指針として、この危機を乗り越えていくことが求められている。

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであり、私たち一人ひとりが、不断の努力により自由と権利を保持し、立憲主義を堅持する責務を負っていることを確認することが、何よりも重要である。

当連合会は、改めて基本原理である基本的人権の尊重、国民主権、恒久平和主義と、それらを支える理念である立憲主義の意義を確認し堅持するため、今後も市民と共にたゆまぬ努力を続ける決意である。」

実は、昨年(2016年)10月の人権擁護大会でも、日弁連は「憲法の恒久平和主義を堅持し、立憲主義・民主主義を回復するための宣言」を採択している。2005年の同大会でも、「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」である。このところ、「立憲主義の堅持ないし回復」が重ねての意見表明を必要とする大きな課題として意識されている。「立憲主義」が揺らいでいる。あるいは危機が忍びよっているということなのだ。

堅持あるいは回復の宣言を重ねなければならない「立憲主義」とは何であるか。その説明を日弁連自身が次のように述べている。
「国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを『立憲主義』といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です。」

したがって、立憲主義が揺らいでいる、あるいは危機にあるということは、憲法によって制限されているはずの国家権力が制約から外れて暴走しているということだ。憲法が、国家権力を縛りつけておく力量を喪失しつつあると危惧せざるを得ない事態なのだ。

その傾向は、安倍政権誕生以来著しい。あるいは、立憲主義が危うくなる時代状況が安倍政権を生み出したのかも知れない。いずれにせよ、安倍内閣と立憲主義は、相容れない関係にある。したがって本来は、暴走する安倍政権に警告を発すべきが筋である。あるいは、安倍政権を支えている諸勢力に、立憲主義尊重を突きつけなければならない。

しかし、弁護士全員の強制加盟団体である日弁連である。まさか安倍退陣を迫るなどできようはずもない。結局のところ宣言は、「私たち一人ひとりが、不断の努力により自由と権利を保持し、立憲主義を堅持する責務を負っていることを確認する」「当連合会は、改めて立憲主義の意義を確認し堅持するため、今後も市民と共にたゆまぬ努力を続ける決意である」として、「私たち一人ひとり」と「当連合会の努力」の課題にとどめている。

とはいえ、宣言案には、職能集団である日弁連の危機意識も相当強く滲み出ている。
「今日、国家による自由への介入の強化、恒久平和主義に反する集団的自衛権の行使を可能とした安保法制など立憲主義の危機ともいえる状況が生じている。」というのだ。

「国家による自由への介入の強化」の最たるものが、共謀罪創設のたくらみであろう。特定秘密保護法もしかり。総務大臣の電波メディアへの「停波恫喝」もしかり。沖縄での平和運動への暴力的介入もしかりである。

「恒久平和主義に反する集団的自衛権の行使を可能とした安保法制」も、立憲主義危機の顕著な徴表である。何しろ、憲法に縛られるはずの内閣が、「気に入らない憲法だから、解釈を変えてしまえ」と、閣議決定で憲法解釈を覆してしまったのだ。明文改憲ができないから、閣議決定で「壊憲」に及んだというべき事態である。

「今こそ、人権侵害と戦争をもたらした戦前への深い反省の下」も、含蓄が深い。対峙しているのが、「戦後レジームからの脱却」を呼号し、「(伝統の)日本を取り戻す」とスローガンを掲げる現政権なのだから。

「この憲法を…未来に向けての指針として、この危機を乗り越えていくことが求められている。」というのは、断固現行憲法を擁護するという宣言である。私は、その点でこの宣言案を支持する。

「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものであり、私たち一人ひとりが、不断の努力により自由と権利を保持し、立憲主義を堅持する責務を負っていることを確認することが、何よりも重要である。」は、明らかに憲法97条を下敷きにした文章。周知のとおり、自民党の改憲草案は同条の全文削除を提案している。ここにも、日弁連の日本国憲法堅持の姿勢を見て取ることができる。

権力には絶えざる批判が必要である。しかし、権力は、批判をきらい、社会の全てを支配し膝下におこうという衝動を常にもつ。そのような権力に、一歩も引くことなく対峙すべきことを使命とする幾つかの部門がある。ジャーナリズムがそうであり、大学がそうだ。けっして権力の支配に組み込まれてはならず、権力から距離を持ち、独立していなければならない。司法もそうだ。とりわけ、在野法曹は権力から独立し、必要な批判を怠ってはならない。今こそ、在野性に徹した権力批判が必要なときなのだ。
(2017年5月16日)

「日本国憲法施行70年に際し、安倍首相の改憲発言と戦争法の発動を断固糾弾する」ー日民協声明

日本国憲法が施行されて70周年の2017年5月3日に相前後して、安倍晋三政権による憲法破壊の暴挙が相次いだ。

安倍首相は、5月1日に開催された「新憲法制定議員同盟」の集まりで、「改憲の機は熟してきた。必ずや歴史的一歩を踏み出す」と挨拶したのに続いて、5月3日に開催された改憲派の集会にビデオ・メッセージを寄せて、「憲法9条に自衛隊の存在を明記した条文を追加して、2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と述べた。また、日本維新の会が主張する憲法改正による教育無償化に関して、「高等教育についてもすべての国民に真に開かれたものとしなければならない」と述べ、実現に意欲を表明した。

同首相は、これを「内閣総理大臣としてではなく、自民党総裁としての意見表明だ」としているが、そのような手前勝手な「使い分け」はおよそ通用しない。憲法99条によって憲法尊重擁護義務を負い、かつ73条1号により「法律の誠実な執行」の事務を担って、66条3項によって「行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」内閣のトップとしての立場をわきまえない、憲法無視の態度に他ならない。日限を明確にし、かつ内容もきわめて具体的な改憲発言である以上、首相の権限逸脱のそしりも免れない。この問題を国会で追及されてまともに答えずに発した「読売新聞を読め」との言は、国会軽視と自らの職責の無自覚も甚だしい。

その発言内容に着目すれば、自衛隊の存在を明記する第3項の9条への追加、いわゆる「加憲」は、9条改憲の一形態に他ならず、現行憲法を「改正」する点においては、自民党の2012年改憲案と何ら異なるところはない。自衛隊の存在を合憲化する3項を加えれば、現在の9条1項と2項の意味は自ずと変わるのであり、より端的に言って、3項によって「上書き」された2項の「戦力不保持」の規定は死文化する。そして、合憲化される自衛隊は、2015年制定の安保法制(戦争法)によって集団的自衛権行使や他国軍への「後方支援」の権限を付与された自衛隊であって、「専守防衛の自衛隊の合憲化」では決してない。3項の追加を契機にして、いずれは軍法会議や緊急事態条項の提起にまで及ぶことは必至である。また、高等教育を含む教育の無償化の問題は、あえて憲法に書き込まなくても法律の制定や予算措置で実現可能なことであり、この問題の「憲法化」は、むしろ現在の日本における喫緊の教育課題であるはずのこの問題の「先送り」を意味する。

さらに、安倍政権は、GWのさなかに、北朝鮮とアメリカとの対立と緊張が激しさを増す情勢の下、安保法制によって新設された自衛隊法95条の2による「米艦防護」の「任務」を米側の要請を受けて自衛艦に付与し、自衛艦は米艦と太平洋上を並航した。ところが、安倍首相や菅義偉官房長官らは、今回の活動の内容について国会で質問されてもつまびらかにせず答弁を拒否している。もし、自衛艦の行動が米艦の軍事作戦に対応したものであれば、状況から判断して北朝鮮に対する「武力による威嚇」に他ならず、これらは国連憲章2条4と日本国憲法9条1項に違反する危険極まりない軍事行動である。

本協会は、4月19日、「軍事力で問題は解決しない!米朝対立による戦争の危機を回避せよ」を緊急声明として発表したが、その趣旨をここでも再確認したい。今回の「米艦防護」を口実にした自衛艦の行動は、安保法制とその発動が、「軍事秘密」のベールに包まれて国民と国会の監視を受けることなく行われること、その意味において安保法制は、憲法9条に違反すると同時にアジアの平和にとって役立つどころか戦争の引き金になりかねない危険極まりないものであることを如実に示した。

私たちは、以上のような安倍首相の改憲発言と安倍政権による違憲の戦争法の発動を断固糾弾するとともに、施行70年を迎えてますますその価値が高まりつつある日本国憲法を守り、アジアひいては世界の平和のためにこれを実現していくための努力を今後とも続けていくことをここに宣言する。

2017年5月11日
日本民主法律家協会
理事長  森 英樹
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以上が本日確定し発表した、日本民主法律家協会の安倍晋三改憲発言に関する抗議声明である。

論点はいくつもあるが、本声明の特色は、「自衛隊の存在を合憲化する3項を加えれば、現在の9条1項と2項の意味は自ずと変わる」ことの指摘にある。いうまでもなく、「自衛隊」は日本国憲法上の概念ではない。問題は、これを憲法に押し込むことがどのような意味を持ちうるか。単なる現状の追認にとどまるだろうか。

7・1閣議決定と戦争法によって、自衛隊とは集団的自衛権行使可能な実力組織となっている。つまり、海外で戦争遂行が可能な装備と編成を常備し、ことある折には個別的自衛権の行使を超えた実力の行使をなしうるとの解釈が可能なものとなっている。

安倍晋三が9条3項をおくことによって合憲化しようという自衛隊は、そのような「自衛隊」なのだ。けっして、「戦力にあたらない実力組織」などという無色のものではなく、戦争法によって黒く色塗りされた、戦うことのできる「自衛隊」にほかならない。その結果、「3項によって『上書き』された2項の『戦力不保持』の規定は死文化する。そして、合憲化される自衛隊は、2015年制定の安保法制(戦争法)によって集団的自衛権行使や他国軍への『後方支援』の権限を付与された自衛隊であって、『専守防衛の自衛隊の合憲化』では決してない」と説明されているとおりなのだ。
(2017年5月11日)

「憲法改正は五輪音頭の囃子に乗せて」ーアベ流改憲メッセージ

ご来場の右翼の皆様、こんにちは。「自由民主党」総裁のアベ晋三です。
本日は、5月3日の憲法記念日にちなんだ、「第19回公開憲法フォーラム」に、私のホンネをビデオメッセージとしてお届けいたします。

この集会にご参加の「民間憲法臨調」や「美しい日本の憲法をつくる国民の会」の皆様。世の中では「右翼」と蔑まれている皆様こそが私の同志、腹心の友であります。皆様方が常日頃から、打てば響くように、私の憲法改正への執念を忖度され、支えていただいていることを大変心強く感じております。また、皆様が陰に陽に、日本国憲法を論難し攻撃する言動を重ねておられることに、心からの敬意を表するとともに感謝申し上げる次第です。

私たち右翼にとって、憲法記念日とは、日本国憲法を改正して、大日本帝国憲法時代の輝かしい御代を取り戻す決意と覚悟を固める日。それがお約束ではありませんか。右翼の一端を担う自由民主党にとっても、憲法改正は立党以来の党是です。自民党結党以来の悲願でありながら、なんと70年間、この唾棄すべき日本国憲法に指一本触れることができませんでした。憲法はたった一字も変わることなく、施行70年の節目を迎えるに至りました。なんたる屈辱。なんたる国辱。歴代の総裁が受け継いでできなかった憲法改正を、このワタクシ・アベ晋三はどうしてもなし遂げたい。その決意です。

次なる70年に向かって日本がどういう国を目指すのか。今を生きる私たちは、少子高齢化、人口減少、経済再生、安全保障環境の悪化など、我が国が直面する困難な課題に対し、真正面から立ち向かい、未来への責任を果たさなければなりません。私は、そのように何度も声高に言い続けてまいりました。

正直のところ、「少子高齢化」「人口減少」「経済再生」の3点については、なぜ憲法改正の根拠となるのか、その対応策としてどのような改正が必要になるのか、実は私自身もよく分かりません。もしかしたら、憲法を変えなければ対処できないというのは、大きな嘘なのかも知れません。しかし、それでもよいのです。私は政治家で学者ではないのですから、正確なことをお話しすることが仕事ではありません。国民のみなさんが、それで良しという気分になっていただけば、万事オーライなのです。

フクシマ第1原発から、放射能の汚染水がダダ漏れなのは、日本人ならみんな知っていたこと。それでも敢えて、「完全にブロックされ、アンダーコントロールの状態にある」と平気で言ったことによって東京五輪誘致を成功させたではありませんか。あのブェノスアイレスでの発言のどこがまずかったというのでしょうか。真実よりも、結果なのです。

なんとなく世の中は変わってきた。だから、なんとなく憲法も変えた方がよいのではないだろうか。あまり深くものごとをお考えにならない多くの国民の皆様が、漠然とそう考えていただけたら、それで大成功なのです。アベ内閣の支持率も、そのようにして保たれているのですから。

「安全保障環境の悪化」はやや別です。これは、明らかに憲法九条の改正につながります。ですから、真実であろうとなかろうと、国民の意識に定着し、それによって国民世論が九条改憲を容認する仕掛けを作らなければなりません。

邪悪な近隣諸国がわが国に対する攻撃の意図をもっていると、繰りかえし繰りかえし煽ることで、実は「安全保障環境の悪化」は現実化するのです。
「中国も北朝鮮も恐いぞ、彼らはわが国を敵視している」「彼らの軍備増強はわが国への攻撃の意図あればこそだ」「だからわが国も軍備の増強を」。そういえば、相手国も、木霊のように同じことを言って、軍備の増強に精を出すことになります。これが、好循環。労せずして、九条改憲を実現する環境が調ってくるのです。

もっとも、わが国の国民の平和意識にはなかなかに強固なものがあります。一挙に、九条を全面改正して、日本を戦争ができる国にすることは容易なことではありません。そこで、ここは小手先の小細工が必要となります。国会議員の3分の2に以上の賛成を得たうえ、国民に提案して過半数の同意を獲得する現実的な提案が必要です。たとえば、こんな風に九条改正案を提案するのはどうでしょうか。

「今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。『自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ』というのは、あまりにも無責任です。私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、『自衛隊が違憲かもしれない』などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。」

このような国民への呼びかけが重要だと思うのです。自衛隊を語るには、なによりもまず真っ先に、「災害救助」を持ち出さなければなりません。「災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日…その任務を果たしている」と言えば、あたかも「災害救助」が自衛隊の本務であるかの錯覚を呼び起こすことが期待できます。「災害救助」に真面目に取り組む自衛隊を憲法上の存在として位置づけよう。なかなかうまい作戦ではありませんか。

もちろん、ホンネは9条の1項も2項も変えたい。とりわけ、2項の「戦力不保持」は変えなければなりません。それは同志の皆様と同じ思い。しかし、ここは作戦として、「急がば回れ」でなくてはなりません。

だから、表向きにはこう言っておくのです。
「平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、『9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む』という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。」

なんにせよ、70年間無傷という手強い憲法です。改正手続に一度でも失敗したら、半永久的に改正はできなくなります。下手をすると、逆方向の社会主義革命的な改正の機運が盛りあがって、われわれ右翼の側が「憲法を守れ」と言わざるを得ない事態にもなりかねないのです。

さてそこで、現実の問題です。右翼と自・公の与党だけでは、改憲を実現する勢力としては心もとない。そこで期待できる改憲グループとして、維新を仲間に入れる必要があります。そのためには、彼らが主張している教育無償化の問題を憲法改正のテーマとして取り上げる必要があります。

教育無償化の実現が、憲法改正を待たなければできないことであるかどうか。そんなことは、どうでもよいのです。維新の教育無償化政策をヨイショと持ち上げることで、仲間が増えるのですから、これを利用しない手はないのです。

さらに、問題は改憲の時期です。私の任期の間にやりたい。やらせていただきたい。たまたま、2020年が東京五輪の年です。ぜひとも、この年を改正された新しい憲法施行の年にしたいのです。

オリンピックと憲法。本来は何の関係もありません。でも、強引に結びつけることが大切なのです。それが政治というものなのです。問題は、時代の空気。空気だけなのです。なんとなく、国民のみんなが、そのような空気を感じ、なんとなくそのような風が吹いていると思えばそれでよいのです。

1964年の東京五輪を機に、日本は大きく生まれ変わりました。その際に得た自信が、その後、先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。2020年にも、日本は新しく生まれ変わるのです。そのような気分になっていただき、オリンピックついでに、70年間無傷の憲法をリニューアルしようというのです。オリンピックをダシにした、憲法改正計画です。

本日は、「憲法擁護」「憲法改悪阻止」「改憲ではなく、憲法を生かせ」という、護憲派の集会が、日本中で大規模に開催されているようです。私は、行政府の長としては、憲法擁護・遵守義務を負う立場ですが、そちらの集会とはまったくの没交渉です。改憲派の皆様とだけ、親しくしたいと思います。

これを契機に、私もあらゆる権謀術数を弄して、憲法改正という歴史的使命をしっかりと果たしていく決意であることを改めて申し上げます。憲法改正に向けて、同志の皆様、ともに頑張りましょう。
(2017年5月4日・連続第1495回)

祝・憲法施行70周年の憲法記念日

古稀は、年老いたことへの慰めの日ではない。古来稀なるとされた長い人生を経てなお、矍鑠たることの祝いと励ましの日である。憲法も同じだ。今日は、単に日本国憲法が年を経たことの、懐古・懐旧の日ではない。70年日本国民が、平和憲法と平和を守り抜いた誇りの日として祝おう。そして、もっともっと憲法を使いこなすべく、決意をかためるべき日なのだ。

その憲法記念日の東京新聞。本日の「平和の俳句」が眼に突き刺さる。胸が痛む。
  長兄次兄戦死父焦土の首都に焼死せり 江川節夫(84)東京都練馬区

これに付された、いとうせいこうの解説も句作さながら。さすがのものだ。
「このゴツゴツした字余り。慟哭の呪文のごとき文字列。そこに作者八十四歳の思いがぎっしりと詰まっている。八人きょうだいの末っ子。」

社会面に、江川さんを取材した記事がある。「平和継がなければ」「戦争は家族を破壊する」「揺らぐ憲法の理念 あきらめムード危ぶむ」という大きな見出し。

その最後に、江川さんの言葉がある。
「平和を守り続けてきた憲法の大切さは、理論的に言うだけでは伝わらない。家族を破壊する戦争の悲しみ、苦しみを若い人に語り継がなければ」

まったくそのとおりだ。平和憲法は、理論的に生み出されたものではない。家族や知人を失った、生き残りの日本人の悲しみと苦しみこそが生みの親であった。70年間、この平和憲法を守り抜いてきたのもまた、日本人の戦争体験とその継承による、悲しみと苦しみの記憶だった。もちろん、これに加害責任の自覚も伴っている。

日本国憲法とは、なによりも平和憲法なのだ。戦争の惨禍に対する痛苦の反省から生まれたが、戦争の記憶が薄れると、再びの軍事大国化願望が首をもたげてくる。アベのごとき、平和憲法に露骨な敵意をもつ者に、政権を担わせてしまっているのだ。

本日・憲法記念日は戦争を忌避し、平和の価値を再確認すべき日。しかし、各紙の社説は、一様ではない。憲法に対する、とりわけその平和主義に対する姿勢のコントラストが著しい。

産経は極右と政権の立場を代弁して、「北朝鮮をめぐる情勢は、日本にとって戦後最大の危機となりつつある 日本国民を守る視点を欠く憲法は一日も早く正そう」と言っている。読売も、「憲法施行70年 自公維で3年後の改正目指せ」と改憲の応援団役を買って出て旗を振っている。

日経は、「身近なところから憲法を考えよう」という。時代に切り結んでいるかはともかく、改憲の旗は振っていない。毎日は「施行から70年の日本国憲法 前を向いて理念を生かす」。朝日は「憲法70年 先人刻んだ立憲を次代へ」と、それぞれ見識を示している。

感動的なのは、やはり東京新聞。「憲法70年に考える 9条の持つリアリズム」というタイトル。穏やかな語り口で、問題の核心に切り込んで説得力がある。

同社説は、次のリードを置いている。
「日本国憲法が施行されて七十年。記念すべき年ですが、政権は憲法改正を公言しています。真の狙いは九条で、戦争をする国にすることかもしれません。」

アベ政権の改憲のねらいを「戦争をする国にすること」と端的に喝破している。「戦争のできる国にすること」「戦争を政策の選択肢としうる国にすること」とまだるっこしいことをいわない。なるほど、政権の究極の狙いは「戦争をする国にすること」に帰着するのだ。

社説の本文は、冒頭に金森徳次郎の言を、末尾に石橋湛山の文を引用している。
<今後の政治は天から降って来る政治ではなく国民が自分の考えで組(み)立ててゆく政治である。国民が愚かであれば愚かな政治ができ、わがままならわがままな政治ができるのであって、国民はいわば種まきをする立場にあるのであるから、悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない>(金森)

<わが国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、国を滅ぼす>(湛山)

この湛山の言葉を受けて、同社説は「これが九条のリアリズムです。『そういう(国を滅ぼす)政治家には政治を託せない』と湛山は断言します。九条の根本にあるのは国際協調主義です。不朽の原理です」と解説する。

そして最後をこう締めくくっている。
「国民は種まきをします。だから『悪い種をまいて収穫のときに驚くようなことがあってはならない』-。金森憲法大臣の金言の一つです。愚かな政治を招かないよう憲法七十年の今、再び九条の価値を確かめたいものです。」

同社説の中の次の各指摘を真摯に受けとめたいと思う。

「九条も悲惨な戦争を体験した国民には希望でした。戦争はもうこりごり、うんざりだったのです。かつて自民党の大物議員は『戦争を知る世代が中心である限り日本は安全だ。戦争を知らない世代が中核になったときは怖い』と言っています。今がそのときではないでしょうか。」

「それなのに一部は反省どころか、ますます中国と北朝鮮の脅威論をあおり立てます。同時に日米同盟がより強調され、抑止力増強がはやし立てられます。抑止力を持ち出せば、果てしない軍拡路線に向かうことになるでしょう。」

本日の「施行70年 いいね!日本国憲法-平和といのちと人権を!5.3憲法集会」は55000人の参加で盛りあがり、インパクトのある集会となった。憲法改正阻止の大運動に向けて、力強さを感じる。4野党の党首クラスと、沖縄の風の伊波洋一が、護憲とアベ政権打倒を訴えた。

護憲の理念は、単に成文憲法の改悪阻止にとどまらない。その時々に、憲法の理念をめぐっての、個別のテーマが必ず存在する。

本日の集会で、繰り返し訴えられたテーマは、「共謀罪」「沖縄」「戦争法廃案」「脱原発」「軍学共同反対」「脱格差・反貧困」「反ヘイト」。そして「アベ政権の暴走を許さない」「野党と市民の共闘」であった。

あらためて、憲法の平和主義の理念の内実と、これをないがしろにする日米安保体制への批判を再確認した。帰りのバスで見た歩行者天国の平和で穏やかな風景。これを守るのは、断じてカールビンソンではない。市民の生活の平穏を守るのは、平和憲法であり、憲法に依拠して平和を守ろうとする人々の熱い思いと行動なのだ。
(2017年5月3日・連続第1494回)

アベ改憲願望発言に見える焦り

超党派の「新憲法制定議員同盟」(会長・中曽根康弘元首相)という組織がある。これが、昨日(5月1日)「新しい憲法を制定する推進大会」を開催した。同集会には、自民党のほか、民進、公明、維新、こころの各党から、改憲派議員が出席したという。日本を昔の暗い時代に逆戻りさせようとの「組織的改憲共謀」の準備行為に該当する。

この集会開催は例年のことだそうだが、昨日はアベ晋三が現職の首相として初めて出席して、壇上から発言した。「憲法改正について強い意欲を示した」と報じられている。

「新憲法制定議員同盟」の「新憲法制定推進大会」である。「新憲法制定」は「憲法改正」とはまったくの別物。この集会で「憲法改正」を語ることが腑に落ちないが、アベの頭の中では、どう整理されているのだろうか。

産経が「首相の発言詳報」を掲載している。アベ自身が「本日は自民党総裁の安倍晋三としてここに立っておりますので、念のため申し上げたいと思います。」と断っているのに、「首相の発言」である。産経のことだ。含むところがあるに違いない。

産経の伝えるところを読んでの限りだが、アベの改憲論は「憲法のどの条項でもよい、ほんの少しでもよい。どのようにでも、なんでもよいから、ともかく改憲」というもの。改憲を自己目的化してしまって、なにゆえ、憲法のどこをどう変えようというのか、その具体案の提示がまったくない。だから、理念も理想も語るところはない。それゆえ、彼の語りかけにはまったく迫力がない。人に訴え、心を揺さぶる力がない。改憲の焦点が定まらない以上どうしようもないのだ。

「機は熟した。今求められているのは具体的な提案だ。理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときで、しっかりと結果を出さなければならない」「この節目の年に必ずや歴史的一歩を踏み出す。新しい憲法を作っていくことに全力を傾けると誓う」との言葉が空回りだ。

客観情勢は、アベ改憲願望に順風を送ってはいない。「自民党は、圧倒的な第一党として現実的かつ具体的な議論を憲法審査会においてリードしていく覚悟だ」「憲法改正を党是に掲げてきた自民党の歴史的な使命ではないか」と、彼は訴えたという。しかし、今国会での憲法審査会審議は、衆院でも3回に過ぎず、参院はまだない。明らかに改憲機運は停滞しており、アベ発言は焦りにも聞こえる。

産経によるアベ発言の詳報は次の通り。太字がアベ発言(抜粋)で、細字が私の突っ込みである。

 60年の節目にあたっても(私が)内閣総理大臣でしたが、この年ようやく国民投票法が成立しました。憲法改正に向けた大きな一歩をしるすことができたと考えています。あれから10年がたち、18歳投票権など3つの宿題も解決された中にあって、憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている。かつては憲法に指一本触れてはいけないという議論すらもありました。しかし、もはや憲法を不磨の大典だと考える国民は非常に少数になってきたと言ってもいいのではないでしょうか。

「憲法を不磨の大典だと考える国民」は昔から非常に少数だ。憲法改悪阻止派の多くの国民は、できることなら憲法をよりよいものに変えたいと思ってきた。たとえば、天皇という公務員職をなくし、自由や平等を形式的なものから実質的な保障に裏打ちされたものに進歩させ、人権と民主主義と平和をより豊かで確実なものにしたいと願ってきた。だから、「アベ自民党には、憲法に指一本触らせない」とは言っても、憲法を完成した「不磨の大典」として、拝跪の対象とすることはない。「憲法改正の国民的な関心は確実に高まっている」は、本当だろうか。各種世論調査に表れた結果は、少なくとも9条など憲法の中核に関しては、改正賛成派は過半数に達していない。むしろ、減少しているではないか。

いよいよ期は熟してきました。
まったくそうは思わないね。国民の関心は、憲法改正からは確実に薄れている。

今求められているのは具体的な提案であります。もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけないと思います。

勝手なことを言ってもらっては困る。「もはや改憲か護憲と言った抽象的で、そして不毛な議論からは私たちは卒業しなければいけない」という改憲派の願望は分かる。しかし、現実は「改憲か護憲か」という綱引きがこの国の政治の基軸をなしている。しばらくは、「卒業」などできっこない。そもそも「改憲か護憲か」と言う議論は抽象的ではない。わが国を軍事大国化し、権力を集中強化して、人権を抑制しようという「改憲派」の策動と、それと対峙する「護憲派」の対峙ではないか。その議論を「不毛」とごまかし、切り捨ててはならない。

この国をどうするのか、わが国の未来へのビジョン、理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すときです。そして、しっかりと結果を出していかなければならない。

今こそ、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示すとき」? まだ示してないの? 2012年の「自民党改憲草案」は、「理想の憲法の具体的な姿を自信を持って国民に示した」ものではなかったというわけ?

政治とは結果であります。自民党は谷垣(禎一)総裁の時代に憲法改正草案をまとめ、国民にお示ししました。これは党としての公式文書であります。しかし、私たちはこれをそのまま憲法審査会に提案するつもりはない。どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。

あっ、そう。「自民党改憲草案」は当て馬だったという訳ね。

どんなに立派な案でも衆参両院で3分の2を形成できなければ、ただ言っているだけに終わってしまいます。政治家は評論家ではありませんし、学者ではない。

なるほど。だから、失言も放言も妄言も「でんでん」も、いい加減なことが言えるんだ。勉強不足も恥ずかしくないんだ。

ただ立派なことを言うことに安住の地を求めてはいけない。
おやおや、こうも開き直れるものかね。たまには立派なことを聞きたいと思うのだが、どだい無理な話か。

70年前、日本は見渡す限り焼け野原でした。しかし、先人たちは決して諦めなかった。先ほど中曽根先生から大変力強いごあいさつをいただきましたが、中曽根先生をはじめ、多くの尊敬すべき先人たちが廃虚の中から敢然と立ち上がり、祖国再建のため、血のにじむような努力をされました。そして70年後を生きる私たちのために、世界第3位の経済大国、世界に誇る自由で民主的な日本を作り上げてくれました。

えっ? 国民が日本国憲法を守り続けてきた戦後70年を積極評価するというの? 日本国憲法による統治の70年を「世界に誇る自由で民主的な日本」と言って、なぜ改憲が必要だというの?

私たちもまた先人たちにならい、この節目の年にあたり、今こそ立ち上がるべきときです。
わけが分からない。「先人たち」は日本国憲法の下で「世界に誇る自由で民主的な日本」を作ってきたと言いながら、突然どうして、今こそ改憲に立ち上がるべきとき、となるというのか。アベ君、論理が混乱しているよ。

私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げ、憲法改正、そして新たな国造りに挑戦していこうではありませんか。

むしろ、こう言うべきだろう。
「私たちの世代に課せられた責任をしっかりと果たさなくてはなりません。次なる70年、私たちの子や孫、その先の世代が生きる日本の未来をしっかり見据えながら、大きな理想を掲げたこの憲法を遵守し、憲法の理念をいっそう具体化し充実させることによって、新たな国と社会の構築に挑戦していこうではありませんか。」

少子高齢化、厳しさを増す安全保障情勢。平和で豊かな日本をどうやって守っていくのか。私たち全員が顔をあげ、その視線を未来に、そして世界に向けていく必要があります。足下の政局、目先の政治闘争ばかりにとらわれ、憲法論議がおろそかになることがあってはいけません。憲法を最終的に改正するのは国民です。しかしそれを発議するのは国会にしかできません。私たち国会議員はその大きな責任をかみしめなければなりません。

分かることは、とにもかくにも「改憲」ありきの結論にもっていきたいという執念だけ。妄念と言ってもよい。これで国民を説得出来るわけがない。改憲の焦点が定まっていないのだから、空回りにしかなりようがない。

アベ発言の最後は、超党派の改憲派出席議員に向かって、「皆さん、一緒に頑張っていきましょう。」で結ばれている。「皆さん、憲法改正のために一緒に頑張っていきましょう。」の意味だが、「憲法改正」を「憲法擁護」に一括変換して、「皆さん、憲法擁護のために一緒に頑張っていきましょう。」と結んでも、さしたる違和感がない。それほどの抽象的議論であり、その程度の改憲指向発言なのだ。
(2017年5月2日・連続第1493回)

伊勢神宮での内閣総理大臣年頭記者会見

皆さん、明けましておめでとうございます。
アベ・シンゾーから、新年のご挨拶を申しあげます。
憲法学界や宗教界からは、憲法20条3項に定める政教分離原則に違反ではないかという強いご指摘あることは重々承知の上で、今年も年頭には伊勢神宮に参拝し、内閣総理大臣としての年頭記者会見は、ここ伊勢神宮で行います。内閣記者クラブの皆様方には、一言のイヤミも問題提起もなく、快くこの地まで足を運んでいただきましたことに、厚く御礼を申し上げます。

昨年は、災害が相次いだ年でした。被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。本年は、どうか平穏で、豊かな一年を過ごせるように、との思いで、先ほど伊勢神宮を参拝してまいりました。私の理想とするところは、まさしく天皇を戴く国をつくることにあります。その国では、国家・国民の幸せと皇室の弥栄とが不即不離一体の美しい形をなし、皇室の祖先神をはじめとする神々のご加護が満ちあふれるのです。ですから、年頭の伊勢神宮参拝と、この地での記者会見は私にとって欠かせないものであることをご理解ください。

世の中には、社会のためにあるいは恵まれない人々のために、献身的な活動をされている多くの立派な人々がいます。しかし、この際そのような方を一切無視して、自衛隊の諸君にだけ敬意と感謝を表したいと思います。遠く離れたアフリカの地には、PKO5原則が整わぬままに送り出された国連PKO部隊参加の自衛隊員がいます。その駆けつけ警護の任務では、明日にもなにが起こるか分からない事態なのですから、その強い使命感と責任感に感謝しなければなりません。今に、すべての学校で、日の丸を掲げ君が代を唱うだけではなく、「兵隊さんのおかげです。兵隊さんよありがとう」と歌う日が来るよう、願うものです。

さて、本年は酉(とり)年であります。酉年は、しばしば政治の大きな転換点となってきました。本年も、変化の一年となることが予想されます。そうした先の見えない時代にあって、大切なことは、ぶれないこと。頑迷固陋に最初の方針を変えないことが大事なのです。大日本帝国も軍部も、大東亜戦争を始めたら戦局不利となっても、ぶれずに最後までよく闘ったではありませんか。

アベノミクスは失敗だという声が巷に満ちていますが、けっしてぶれることなく、金融政策、財政政策、そして成長戦略の三本の矢をうち続けてまいります。刀折れ矢が尽きても、アベノミクスをふかしつづけます。

また、内政だけでなく、外交も失敗続きだという悪評にめげることなく、積極的な地球を俯瞰する外交を展開してまいります。ときどき、自分でも何をやっているのか分からなくなりますが、一枚も二枚も上手の鵺どもを相手にしているのですから、まあ、成果のないのもいたしかたないと自分を慰めています。

あの昭和20年も酉年でありました。我が国の戦後が始まった年です。戦争で全てを失い、見渡す限りの焼け野原が広がっていました。しかし、先人たちは決して諦めませんでした。廃墟と窮乏の中から敢然と立ち上がり、戦後、新しい憲法の下、平和で豊かな国を、今を生きる私たちのため、創り上げてくれました。

本年は、その日本国憲法の施行から70年という節目の年に当たります。この70年間で経済も社会も大きく変化しました。かつては素晴らしかった日本国憲法も、完全に時代遅れのものとなりました。日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増しています。こうした困難な課題から、もはや目を背けることはできません。戦後を創り上げた70年前の先人たちに倣って、今を生きる私たちもまた、こうした課題に真正面から立ち向かわなければなりません。未来への責任を果たさなければなりません。

そのために何をなすべきか。いうまでもなく、憲法を変えなくてはなりません。どのように変えるべきか。いうまでもなく、戦後レジームから脱却して、美しい明治憲法の精神に立ち返ることです。そのようにして、億兆国民が元首たる天皇陛下のもとに心を一つにして、どこの国にも負けない強い日本をつくることが肝要です。

国防こそが、政治の要諦です。次なる70年を見据えながら、未来に向かって、今こそ辺野古にも高江にも、強力な米軍基地を作らねばなりません。それだけではなく、産業も学問も教育もメディアも、すべての国民の営みが強い国家を作るため、国防のためのものでなくてはなりません。今年こそは、そのよう観点から新しい国づくりを進めるべきときです。

私は、積極的平和主義の旗を高く掲げます。私の言う「積極的平和主義」を、憲法の平和主義と同じものだと誤解する向きもあるやに聞いていますが、とんでもないことです。憲法の平和主義とは、いかなる事態においても闘うことを放棄した敗北主義ではありませんか。これは私の採るところではありません。積極的に、軍備を充実し戦争を辞さないとする構えを崩さないこと。これが平和を守ることになるのです。本気になった戦争の準備こそが、平和を守ることになります。軍備を充実し戦争ができるよう法制を整える。これが、私の言う積極的平和主義なのですから、くれぐれもお間違えなきよう願います。

こうして、日本を世界の真ん中で輝かせる。そのような輝く国の子供たちこそが我が国の未来そのものではありませんか。子供たちの誰もが、家庭の事情にかかわらず、尊敬される軍人になって国家に貢献するという夢と希望を持ち、それぞれの夢に向かって頑張ることができる、そういう日本を創り上げていく決意であります。

私たちの未来は人から与えられるものではありません。私たち日本人が自らの手で自らの未来を切り拓いていく、その気概が今こそ求められています。私たちの子や孫、その先の未来を見据えながら、本年安倍内閣は、国家主義原理の憲法改正を見据え、国民の皆様が具体的に改憲の論議のできる環境作りを本格的に始動してまいります。

最後となりましたが、本年が国家と皇室と政権と、そして憲法改正のために素晴らしい一年となりますことを心から祈念いたしまして、年頭における所感とさせていただきます。
(2017年1月5日)

明けましておめでとうございますー「目出度さもちう位也この春は」

あらたまの年の初めである。目出度くないはずはない。街は静かで人は穏やかである。誰もが、今年こそはという希望をもっている。欠乏や飢餓や恐怖は、見えるところにはない。が、その目出度さも、「ちう位」というしかない。

今年(2017年)の5月3日に、日本国憲法は施行70周年の記念日を迎える。この70年は、私の人生と重なる。振り返れば、その70年の過半は、希望とともにあった。漠然したものではあれ、昨日よりは今日、今日よりは明日が、よりよくなるという信念に支えられていた。「よりよくなる」とは、すべての人の生活が豊かになること、人が拘束から逃れて自由になること、そして貧困が克服されて格差のない平等が実現し、人が個性を育み自己実現ができること、その土台としての平和が保たれることであった。

敗戦ですべてを失った戦後の歩みは、平和を守りつつ豊かさを取り戻す過程であった。自由や平等や人権保障の不足は、「戦前の遅れた意識」のなせる業で、いずれは克服されるだろうと考えられていた。楽観的な未来像を描ける時代が長く続いた。しかし、明らかに今は違う。今日よりも明日がよりよくなり、上の世代よりも若い世代が、よりよい社会を享受するだろうとは思えない。いつから、どうしてこうなったのだろうか。

私が物心ついて以来、民主主義信仰というものがあった。戦前の誤りは、一握りの、皇族や軍部、藩閥政治家や財閥、大地主たちに政治をまかせていたからである。完全な普通選挙を実施したからには、同じ過ちが繰り返されるはずはない、というもの。天皇を頂点とする差別の構造も、官僚や資本の横暴も、民主主義の政治過程が深化する中でやがてはなくなる、そう考えていた。

しかし、経済格差のない男女平等の普通選挙制度が実現して久しい今も、多くの人が政権や天皇批判の言動を躊躇している。官僚や資本の横暴もなくなりそうもない。それどころか、平和さえ危うくなってきた。民主主義信仰は破綻した。少なくとも、懐疑なしに民主主義を語ることはできなくなった。

政治や制度が多数派国民の意思に支えられていることを民主主義と定義すれば、民主主義的な搾取や収奪の進行も、民主主義的な戦争もあり得るのだ。人種差別も思想差別も優生思想もなんでも「民主主義」とは両立する。トランプの登場やアベの政治は、そのことに警鐘を鳴らしている。

格差と貧困が拡がり深まる社会にあって、「お目出度とう」とは言いがたい。国民一人ひとりの尊厳が大切にされて、こころから「おめでとう」と言い合える、「ちう位」ではない目出度い正月をいつの日にかは迎えたいと思う。

立憲主義大嫌いのアベ政権である。今年の憲法記念日に、憲法施行70年を盛大に祝うとは到底思えない。このことは、一面「怪しからん」ことではあるが、権力によって嫌われる憲法の面目躍如でもある。日本国憲法は、政権から嫌われ、ないがしろにされ、改悪をたくらまれていればこそ、民衆の側が護るに値する憲法なのだ。

今年も、憲法改悪を阻止と、憲法の理念を実現する運動の進展を願う。その運動の進展自身が、民主主義を支える自立した市民を育むことになる。微力ではあるが、当ブログもその運動の一翼を担いたいと思う。
(2017年1月1日・元旦)

「押しつけられた憲法」ではない。「守り抜いた憲法」だ。

ご近所の皆さま、ご通行中の皆さま。こちらは「本郷湯島九条の会」です。「平和憲法を守ろう」、「平和を守ろう」、「日本を、再び戦争する国にしてはならない」。そのような思いで、活動している小さなグループです。小さなグループですが、同じ思いの「九条の会」は全国に7500もあります。

安倍内閣の改憲策動を許さない。平和憲法を壊してはならない。政策の選択肢として戦争をなし得る国にしてはならない。全国津々浦々で、7500の「九条の会」が声を上げています。しばらくご静聴ください。

日本国憲法は、70年前に公布されました。言わば、今年が古稀の歳。人間と違って、年老いるということはありません。ますます元気。ますます、役に立つ憲法です。私たちは、これを使いこなさなくてはなりません。

しかし、この憲法が嫌いな人がいます。なんとかしてこの憲法を壊したい。別のものに変えてしまいたい。その筆頭が、今の総理大臣。最も熱心に、最も真面目に、憲法を守らなければならない立場の人が、日本中で一番の憲法嫌い、最も熱心に日本国憲法を亡き者にしようと虎視眈々という、ブラックジョークみたいな日本になっています。

皆さまご存じのとおり、この人は「戦後レジームから脱却」して、「日本を取り戻す」と叫んでいます。「戦後レジーム」とは、日本国憲法の理念による社会のあり方のこと。日本国憲法の理念とは、国際協調による平和、民主主義、そして一人ひとりがかけ替えのない個人として人格を尊ばれる人権擁護のこと。

総理大臣殿は、そんな社会が大嫌いなのです。そのホンネが、2012年4月に自民党が公式に発表した「日本国憲法改正草案」に生々しく書かれています。

この改憲草案は、102条1項に、「すべて国民はこの憲法を尊重しなければならない」と書き込みました。これはおかしい。憲法とは、本来主権者である国民が権力を預けた者に対する命令の文書です。だから現行憲法は、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に憲法を尊重し擁護する義務を課しています。「国民に対する憲法尊重義務」を書き込むことは、憲法の体系を壊すこと、憲法を憲法でなくしてしまうことにほかなりません。

そして、自民党改憲草案は、現行憲法の「第2章 戦争の放棄」を、「第2章 安全保障」と標題を変えます。これは極めて示唆的です。日本は、戦争を放棄した国ではなくなるということです。今の自衛隊では戦争ができない。戦争するために差し支えのない国防軍を作ろうというのです。軍法会議も憲法に明記しようというのです。こうして、戦争を国の政策の選択肢のひとつとして持ちうる、戦争のできる国に変えようというのです。

もちろん、政権は、国民の権利も自由も大嫌いです。言論の自由をはじめとする国民の権利は大幅に切り下げられます。国民の自由に代わって、責任と義務が強調されることになります。「公益と公の秩序」尊重の名の下に国家・社会の利益が幅を利かせることになります。

それだけではありません。緊急事態条項というとんでもない条文まで紛れ込ませました。日本国憲法制定のための議会の審議では「権力に調法だが、それだけに危険だから憲法には置かないことにした」という代物です。戦争・内乱・自然災害などの「緊急事態」においては、国会を停止させようというのです。その代わりを内閣がする。法律でなければできないことを政令でできるようにする。予算措置も、内閣だけで可能というのです。

そして、自民党改憲草案の前文は、日本を「天皇を戴く国」とし、天皇を元首としています。憲法に、国旗国歌条項を書き入れるだけではもの足りないと、国民に国旗国歌尊重義務を課するという徹底ぶり。これが、安倍晋三が称える、「日本を取り戻す」というものの正体ではありませんか。

元首たる天皇が権威を持ち、国防軍が意のままに行動でき、反戦平和の運動や政府批判の言論が弾圧される。個人主義などもってのほか、人権ではなくお国のために尽くしなさいと教育がなされる国。それが、自民党・安倍政権が目指す「取り戻すべき日本」というほかはありません。

政権や自民党は、「憲法は外国から押しつけられたものだから変えましょう」という。これもおかしい。この70年の歴史を曇りない目で見つめれば、アメリカと日本の軍国主義者たち、日本国憲法は邪魔だという権力者たちが、日本国民からこの憲法を奪い取ろうとしてきた70年であったというべきではありませんか。

私たち国民にとっては、押しつけられたのではなく、守り抜いた日本国憲法ではありませんか。このことを私たちは、誇りにしてよいと思います。

憲法への評価は、立場によって違うのが当然のこと。一握りの権力に近い立場にいる者、経済的な強者には、邪魔で迷惑な押しつけかも知れません。しかし、大部分の国民にとっては、嫌なものの押しつけではなく、素敵なプレゼントだったのです。

もし、仮に日本国憲法を押しつけというのなら、押しつけられたものは、実は日本国憲法だけではありません。財閥解体も、農地解放も、政治活動の自由も、言論の自由も、労働運動の自由も、政教分離も、教育への国家介入禁止も、みんなみんな「押しつけられた」ことになるではありませんか。「押しつけられたものだから、ともかくいったんは、ご破算にしてしまえ」ということになりますか。

今年は、女性参政権が実現してから70年でもあります。46年4月の歴史的な衆議院議員選挙で、はじめて女性が選挙に参加しました。憲法を押しつけというなら、男女平等も押しつけられたもの。「外国から押しつけられた女性の参政権は、日本の醇風美俗を失わしるもの。だからご破算にして元に戻せ」などというおつもりですか。日本国憲法押しつけ論は、もうバカバカしくて何の説得力もありません。

憲法の制定にも携わった憲法学者である佐藤功が、こう言っています。
「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」

ここでいう「君たち」とは私たち、一般国民です。政治権力も経済権力もない圧倒的多数の相対的弱者のこと。「憲法は弱い立場の国民を守る」からこそ、国民にとって守るに値する日本国憲法なのです。だから「弱い立場にある私たち国民が憲法を守ってきた」のです。憲法を都合よく変えたいとする強い立場にある人たちとのせめぎあいを凌いでのことなのです。

これまで、日本国憲法を守り抜いて、自分たちのものにしてきたからこそ、憲法の古稀を目出度いものとしてお祝いしようではありませんか。

なお、一点付け加えます。日本国憲法は、国家よりも個人を大切にしています。ところが、今東京都の教育現場では、都教委が教員に国旗国歌(日の丸・君が代)に敬意を表するよう「起立・斉唱」の職務命令を発し、これに従わなかった教員に懲戒処分を濫発しています。これは、個人よりも国家を貴しとする思想にもとづくもの。しかも、教員の思想良心の自由を侵害する権力の行使であり、教育の内容に公権力が介入してはならないとする教育基本法が定める大原則の侵害でもあります。これではまるで戦前の日本。あるいは、まるでどこかの独裁国家のよう。到底自由な国日本の現象ではありません。

このことについては、幾つもの訴訟が提起されていますが、今最も大きな規模の「東京「君が代」裁判・4次訴訟」での原告本人尋問が、11月11日(金)に行われます。どなたでも、98席が満席になるまで、手続不要で傍聴できますので、ぜひお越しください。
 時 11月11日(金)午前9時55分~午後4時30分
所 東京地裁103号法廷

6人の原告の皆さんが、いま、この社会で、東京の教育現場で起こっている現実が生々しく語られます。きっと、感動的な法廷になります。そして、石原都政以来の憲法蹂躙の都政と東京都の教育行政に、ご一緒に怒ってください。よろしくお願いします。

ご静聴ありがとうございました。
(2016年11月8日)

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