澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「現状変えればなんでも革新」? それはないでしょう

本日(11月29日)の毎日新聞夕刊で、詩人アーサービナードが、「日本語は消滅に向かっている」と嘆いている。彼は、本気で日本語の衰退を心配しているのだ。その最大の原因は安倍晋三に象徴される対米従属にあるという。鋭い詩人の感性がそう言わせている。

詩人でない私には、そこまでの危機感はない。しかし最近戸惑うことが多い。言葉が時代とともに移ろうことは避けられないが、これが急激に過ぎると、コミュニケーションに支障をきたすことになりかねない。

極端に至れば、真理省のスローガンとなる。
 戦争は平和である (WAR IS PEACE)
 自由は屈従である (FREEDOM IS SLAVERY)
 無知は力である(IGNORANCE IS STRENGTH)

既に、「保守」と「革新」のイメージが、若者層ではすっかり様変わりしていると話題になっている。
 革新とは、現状を変えること。
 保守とは、現状を肯定することだ。
 だから、「憲法改正」は革新で、「憲法守れ」は保守なのだ。
 したがって、自民党が革新で、共産党は保守である。

この「論理」は、「革新」の代わりに、「リベラル」あるいは「改革派」の用語でも語られる。これは、真理省一歩手前ではないか。

 改憲阻止運動をめぐる議論も込み入ってきた。「護憲的改憲論」もあれば、「改憲的護憲論」もあるそうだ。妖しげな人物が、「護憲のための改憲論」を喧伝している。「9条の理念を実現するための9条改憲論」、「保守に先制した改憲論」もあるという。はて、なんとも面妖な。問題は、言葉の変遷だけの問題ではなさそうだ。まさしく、真理省のスローガン状態。「新九条論」はさまざまなパターンに細分化しつつあるようだ。

たまたま、室橋祐貴という若いライターの文章を目にした。

若い世代の自民党支持率は高く、今回の衆院選でも、18~19歳の47%、20代の49%(ANN調べ)が比例で自民党に投票したという。しかし、けっして若者が「保守化」しているのではなく、若者基準では自民や維新こそが「改革」ないし「リベラル」で、「共産党」や「民進党」は現状維持の「保守」なのだそうだ。

「自民党支持の結果から、若者は「保守化」していると見られがちだが、若者から見れば、自民党は「改革派」であり、決して現状維持を望んでいる訳ではない」。なんだ、そりゃ?

「特に10代や20代前半にとっては政権末期の民主党や、民主党政権時代の「自民党=野党」のイメージが強く、「改革派」の自民党、「抵抗勢力」の野党(民進党、共産党)という構図で捉えているようだ。」という。

その室橋が紹介する若者の意見に驚かざるを得ない。

「自民党は働き方改革やデフレ脱却など、抜本的ではなくとも、悪かった日本の景気や雇用状況を改革しようとしているように見える」

「野党はアベノミクスに変わる経済政策の具体策を提示できておらず、単に自民党政権の政策を中止しろと言っているだけ。年功序列とか前時代的な給与・労働体系を守ろうとする現状肯定派であり、旧来の枠組みから脱出することのない保守的なものに映る」

そして、極めつけは、中学3年の男子学生(15)の言。「共産党や民進党は政権批判ばかりしていて、共産主義も過去の時代遅れの思想で古いイメージが強い。自民党は新しい経済政策で株高などを実現させており、憲法改正も含めて改革的なものを感じる」。

15歳が共産主義を「過去の時代遅れの思想」と言う時代なのだ。かつての天皇制権力は、15歳を洗脳して多くの軍国少年を作りあげた。今の資本主義社会は、労せずして、15歳を反共主義者とすることに成功している。資本主義批判のもっとも、根底的で体系的な思想としての共産主義が15歳児に貶められているということなのだ。

保守と革新の用語の使い方には、暗黙の前提があったはず。それは、歴史はある法則性をもって進歩していくという考え方だ。独裁から民主へ。権力の専制から人民の政治的自由へ。全体主義から個の確立へ。人権の軽視から重視へ。身分的差別から平等の確立へ。機会の平等から結果の平等へ。格差のない経済社会へ。戦争から平和へ。ナショナリズムからインターナショナリズムへ。そして、搾取と収奪と抗争を克服した社会へ…。

漠然としたものではあっても、このような歴史の進歩を押し進めようとするのが「革新」の立場であり、これを押しとどめようとするのが「保守」。歴史を逆行させようというのは、「反動」と呼ばれる。

現状を変更しようという試みも、それが歴史の方向から見て退歩であれば「保守」か「反動」の挙であって、「革新」とは言わない。その退歩を押しとどめようというのは、現状維持でもまさしく「革新」の事業である。

今、歴史のジグザグの中で、革新が十分な力量をもっていない。本来であれば、「革新」の立場は、よりよい憲法を目指す真の意味での改憲でなくてはならない。とりあえずは、天皇制を廃止して身分制度の残滓を一掃すること。ナショナリズムを克服して、全ての人種・民族に徹底した平等を保障すること。すべての人の生計の基盤を実質的に保障すること。国民世論の分布を正確に議会に反映する選挙制度を作ること、などが考えられる。

しかし、現実にはこれが難しいから、今精一杯現行憲法を守っているのが「革新」の立場。これを敢えて逆行させようというのが自民党。現状変更でも、「平和から戦争へ」という逆行の改憲なのだから、これを「革新」とは呼ばないのだ。ゆめゆめお間違えなきよう。
(2017年11月29日・連日更新第1704回)

自民党の「合区解消改憲案」の前途に暗雲

第48回総選挙は、形の上では「改憲派圧勝」だった。安倍政権にとっては念願の改憲実現に向けての絶好のチャンス。改憲へ具体的な一歩を踏み出さねばならない。時期を失すれば改憲世論はジリ貧となり、永遠に改憲の機会を逃すことにもなりかねない。さあ、今だ。アベ一族はそう意気込んでいるに違いない。

だが、改憲をめぐる世の中の雰囲気は、なかなかアベの思うとおりとはなっていない。明らかに安倍一強の力の衰えを世論が感じ取っているのだ。だから、これまでアベにおもねり、阿諛追従していた風見鶏の一群が、姿勢を変えてきた。いつまでもアベの下駄の雪であることに、先行きの不安を禁じえないのだ。それが、改憲問題に表れてきている。

アベの意気込みにかかわらず、改憲のハードルは高い。まずは自民党内での原案をとりまとめなければならないが、いままでのようには行かない。党内の各勢力が、ものを言い始めているではないか。次いで、連立を組む公明と摺り合わせなければならない。しかし、公明は明らかに及び腰だ。今回選挙では、公明は票も議席も大きく減らした。アベといつまでも蜜月ではさらなる退潮を余儀なくされる。さらに、野党第1党の立憲民主党を抱き込まねばならない。これが難物…のはず。残る希望と維新はたいしたことはない…だろう。共産・社民は相手にせず…に違いない。最後の難関は、国民投票。あらゆる世論調査が、けっしてアベ改憲路線を容認していない。

結局国民は改憲など望んでいない。その空気は、アベ一族以外も肌で感じている。アベ以外の政治勢力にとっては、改憲に本腰を入れる状況ではないのだ。それでも、アベとその取り巻きが焦って急げば、手痛い失敗をすることになるだろう。その失敗は取り返しがつかない。半永久的に改憲の企みは封印されることにもなる。

その第1ハードルの自民党内の意見とりまとめ。これまでの党内論議から、改憲テーマは以下の4点に絞られている。
 A 憲法9条に自衛隊明記
 B 緊急事態条項の整備
 C 教育無償化
 D 合区解消

もちろん、Aが本命。次いでB。Cは維新取り込みのトリック。Dは、関心が島根・鳥取、徳島・高知の地域限定テーマ。

総選挙直後の今、自民党がA・B・C・Dの各テーマについて、気勢を上げるのかと思いきや、どうもそのようではない。A・B・Cは、いずれも先送りだという。Dのみが残ったが、さして意気が上がる様子でもない。

昨日(11月17日)の毎日新聞一面左肩に、「自民改憲案:年内集約断念、参院合区解消は大筋了承」の見出し。

「自民党は16日、安倍晋三首相が掲げる自衛隊の明記など4項目の党憲法改正案について、年内の取りまとめを見送る方針を固めた。衆院選で議論が遅れたことなどから党内集約が間に合わないと判断した。党執行部は年明けにもまとめたい考えだが、首相が想定する「来年の通常国会で改憲原案発議」がずれ込む可能性もある。一方、自民憲法改正推進本部(細田博之本部長)は16日の全体会合で、参院選の合区を解消する憲法47条、92条改正案のたたき台を大筋了承した。」

「一方、自民の重点4項目のうち▽自衛隊明記▽教育無償化▽緊急事態対応--の3項目は党内でも意見集約のメドが立たない。首相は「丁寧」な政権運営を強調しており、他党との議論に想定以上の時間がかかる可能性もある。自民改憲推進本部の岡田直樹事務局長は16日の記者会見で党改憲案について「スケジュールありきでない。積み残した課題もある」と指摘した。」

さて、ほかの3点はダメでも、これだけはその大筋了承されたという「合区解消改憲案」。その「自民党・憲法47条・92条改正案のたたき台」とはどんなものか。

「たたき台は、国政選挙について法律で定めるとしている47条に、選挙区の区割りは行政区画などを勘案するとの条文を追加。さらに参院議員が『広域的な地方公共団体の区域から少なくとも一人が選出される』などのただし書きを加える。」という。

具体的には次のとおり。
<現行憲法47条>「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」

これに、次の一文を追加する案だという。
「各選挙区は、人口を基本とし、行政区画、地勢等を総合的に勘案して定めなければならない」「参議院議員の全部または一部については、改選ごとに各広域的な地方公共団体の区域から少なくとも一人が選出されるよう定めなければならない」

<現行憲法92条>「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」
これに次の一文を追加するという。
「地方公共団体は、基礎的な地方公共団体及びこれを包括する広域的な地方公共団体とすることを基本とし、その種類は、法律で定める」

なんだか笑っちゃいたくなる改憲案。憲法ではなく、本来は公職選挙法を改正するだけで済む問題。人口の都市部への集中で、参院選挙の定数が不均衡となった。一票の格差を是正するために、昨年(2016年)の参院選で「鳥取・島根」「徳島・高知」の2合区が導入され、一票の最大格差を3.08倍に縮小した。しかし、合区では「地方の声が届かない」「地元密着の政治家が育たない」と地元からは解消要求の声が高い。

だからと言って憲法を変えなければならない問題ではない。合区するのには公選法改正の手続だけでできた。分区することも、国会が決めればよい。もちろん一票の格差をなくする工夫と手立てをしてのこと。むしろ、改憲をしてまで一票の格差を認めようという発想がおかしい。

現行憲法は、「選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める」のだから、国会の工夫の余地は限りなく大きい。一票の格差を解消するには、地方区の定員を増やせばよい。あるいは、ブロックごとの比例代表制を採用すればよい。もちろん、比例代表の全国区だけにすれば、理想的な一票の格差解消が実現する。議員定数を増やすことに躊躇は不要である。欧米に比較して、日本の議員数は少ないのだし、費用が心配なら、議員一人あたりの歳費を削ればよいだけのこと。

さて、ようやく自民党内では具体化するかに見えた、合区解消改憲案。早くも前途多難なのだ。

今朝(11月19日)の毎日新聞第5面。「参院改革協:合区解消改憲 賛同なし」の見出し。

{参院各会派の代表者による改革協議会は17日、選挙制度専門委員会(岡田直樹委員長)を開いた。選挙区の「合区」をなくしたい自民党が都道府県単位に戻すよう主張したのに対し、公明党などは「1票の格差」是正を重視する立場を表明。自民党は現在、合区解消の憲法改正案を検討中だが、他党との隔たりは大きいままだ。」

自民党から、各会派の反応を探った形だが、うまく行かなかったようだ。
「公明党の西田実仁参院幹事長は、国会議員を『全国民の代表』と規定した43条と自民党の案は矛盾するのではないかと指摘。『参院の権限縮小には反対だ』と明言した。公明党は全国を10程度のブロックに分けた大選挙区制にして定数配分を調整し、格差是正を図るべきだと提案した。共産党も合区を解消する改憲は『14条(法の下の平等)に違反する』と反対し、全国9ブロックの比例代表制を提唱した。国会の『1院制』を目指す日本維新の会は『道州制導入による選挙制度の抜本改正』を訴え、社民党は現行憲法下での制度改正を主張した。衆院選で混乱した民進党は党内論議が進んでおらず、足立信也氏が個人的な意見として、選挙区で複数候補への投票を認める『連記制』に言及した。」

自民党のみが、「合区解消のための改憲提案」。公明も含め、他党の全てが、改憲なしの改革案か、現状のままでよいとの意見。選挙では大勝したはずの自民党が孤立しているのだ。自民党が、憲法問題に関して民意を代表しているわけではないことをよく物語っている。
(2017年11月18日)

森友・加計・丁寧・謙虚、もうそんなの必要ない

本日の衆参各院本会議。首相の所信表明演説があった。森友も加計も、まったく触れられることはなかった。おかしいじゃないか、謙虚な姿勢で丁寧に説明すると言っていたはず、などと言っている自分の甘さが恥ずかしい。そんなのウソだと分かっていたはずではないか。

所信表明演説の結びは、次のとおりだつた。
「日本の未来をしっかりと見すえながら、今なにを成すべきか、与野党の枠を越えて建設的な政策論議を行い、ともに前に進んでいこうではありませんか。ともに知恵を出し合いながら、ともに困難な課題に答えを出していく、そうした努力のなかで憲法改正の議論も前に進むことができる、そう確信しています。
政策の実行、実行、そして実行あるのみであります。我が国が直面する困難な課題に真正面から立ち向かい、ともに日本の未来を切り開いていこうではありませんか。」

この人の言うことはいつもおかしいのだから、いまさら言い立てるのもむなしいが、まことにヘンな演説。確かに言葉はあれども、伝えるべき中身のない見本として、恰好の教材。こんな話をしてはいけませんよという戒めとして、国語の教科書に掲載してもよい。

「日本の未来をしっかりと見すえながら」→いったいどんな未来をしっかりとイメージしているのだろうか。アベ流の「未来」とは、指示と忖度によって日本中に獣医学部の校舎が林立し、小学校では直立不動で教育勅語の暗唱が行われている日本ではなかろうか。あるいは、国防軍が闊歩する日本? ちーがーうーだーろー!

「今なにを成すべきか」→いったい安倍晋三は首相として「何をなすべき」と考えているのか。今さら、「なにを成すべきか議論を行おう」ですって? ちーがーうーだーろー!

「与野党の枠を越えて建設的な政策論議を行い、ともに前に進んでいこうではありませんか。」→いったい、「前」ってどちらなの? アメリカの方? 大日本帝国の方? どっちも、ちーがーうーだーろー!

「ともに知恵を出し合いながら、ともに困難な課題に答えを出していく、そうした努力のなかで憲法改正の議論も前に進むことができる、そう確信しています。」→あたかも憲法改正を認める方向に議論が進むことを、与野党共通の課題といわんばかり。ちーがーうーだーろー!

「政策の実行、実行、そして実行あるのみであります。」→中身がない。具体性がない。分析がない。過程がない。段取りがない。聞き手への配慮がない。だから説得力がない。

「我が国が直面する困難な課題に真正面から立ち向かい、ともに日本の未来を切り開いていこうではありませんか。」→具体性ないだけじゃない。気持ちが悪い。こんな首相とともに日本の未来を切り開いていくなんて、まっぴらご免だ。

毎日の夕刊はこう解説した。
「安倍晋三首相の17日の所信表明演説は、安倍内閣では最も短い。学校法人「加計学園」「森友学園」を巡る問題への言及はなく、6月に内閣支持率が急落した時から繰り返してきた「丁寧な説明」「謙虚さ」の言葉もない。今後の国会論戦に臨む真摯さが問われる。」

朝日は、志位和夫・共産党委員長の言葉を紹介した。
「(安倍晋三首相の演説は)一言で言って中身がない、空疎な、嫌々やっているような演説だった印象だ。この国会はまず何よりも、森友・加計疑惑、一連の国政私物化疑惑の問題が大きなテーマ。総理はこの森友・加計疑惑について、丁寧に説明すると言いながら所信(表明演説)では一言も、「(森友の)も」の字も、「(加計の)か」の字もなかった。…全体として国民に語るべきものが全くない。まともに野党と議論していこうという姿勢がない演説だった。大変大きな問題だと思って聞いた。」

そう。「(森友の)も」の字も、「(加計の)か」の字もなかった。「(謙虚の)け」の字も、「(丁寧の)て」の字もである。もう、みそぎは済んだ、いまさら謙虚や丁寧のふりをする必要もあるまい、という露骨な態度。完全に国民がなめられている。あるいは、こんな首相を戴くにふさわしい国民の民度だということなのだろうか。

ところで、11月14日朝日川柳欄に次の2句。

 権力の岩盤のごと校舎建つ(滋賀県 松浦武夫)

なるほど、岩盤とは既得権益やそれを守るための規制のことではない。岩盤とは権力そのものなのだ。安倍晋三その人が岩盤。加計学園の校舎が象徴する権力が岩盤。ドリルで穴を穿つべき厚く固い岩盤とは、安倍政権自身であり、安倍に私物化された行政そのものではないか。

 顔出さず「万感迫る」とケロリ加計(鳥取 安田和文)

安倍の腹心の友という加計孝太郎。まさしく、ケロリと言ってのけるというイメージ。
森友学園の籠池夫妻は、学校経営の夢破れただけでなく、逮捕されて身柄は拘置所にある。それに比べて、加計孝太郎は陰でケロリなのだ。籠池夫妻の思想は、唾棄すべきものだが、この両人は逃げ隠れしない。メディアにも向き合い、国会でも自分の信じるところを堂々と披瀝した。加計孝太郎はずっと陰に隠れたままだ。

「政治家」に対して、「政治屋」という蔑称がある。政治家としてもつべき理念も理想もなく、金儲けのために政治の舞台にいる「似非政治家」のことだ。籠池夫妻はともかく、加計孝太郎を教育者ではなく「教育屋」と呼ぶにふさわしい。あるいは、「教育ビジネスマン」「教育商売人」であろうか。類は友を呼ぶ。同病相哀れむ。安倍晋三と腹心の友というのか。なるほどピッタリだ。
(2017年11月17日)

安倍首相の「加憲的九条改憲論」に欺されてはならない。

本日は定例の「本郷・湯島九条の会」の街頭宣伝行動の日。だが、あいにく、私は東京にいない。代わって、澤藤大河がマイクを握った。下記の内容であったという。

ご通行中の皆さま。恒例の「本郷・湯島九条の会」からの訴えです。

安倍首相は、今年の5月以来憲法9条改正を明言しています。
どのような形になるか、具体案はまだ明らかになってはいませんが、現行の憲法9条の1項と2項をそのままにして、9条に第3項を付け加える意向と伝えられています。たとえば「前項の規定にかかわらず、自衛隊を違憲と解釈してはならない」などという第3項案が漏れ聞こえてきます。

安倍首相のねらいは、国民の改憲に対する抵抗感をできるだけ小さくすること。そして、それでいて国政の選択肢をしっかりと拡げることにあります。はっきり言えば戦争という選択肢をもつ国家を作ること。自衛隊を戦争のできる組織に変えようということなのです。

国民の抵抗感を薄めるために、安倍首相は、「9条を改憲しても、自衛隊の実態は変わらない」とか、「国ができることは同じまま」などと言っています。しかし、本当に、「変わらない」のでしようか。「同じまま」なのでしょうか。

改正しても、政府のできることが今と全く同じなのであれば、巨額の費用をかけて憲法改正など行う必要はないはずです。安倍首相の言葉の裏には、今の憲法ではどうしてもできないことを、何とかできるようにしたいという、狙いが隠されています。安倍首相の言葉をそのまま信じてしまうことは危険です。この隠された政権側の強い衝動を見抜かなければなりません。

憲法とは、国家に対する規範です。
国がしてはいけないことを規定することで国の暴走を止め、そのことによって国民を守るための規範です。憲法9条も、「国は絶対に戦争をしてはならない」、「戦争をしないたいための保証として、軍隊を持ってはならない」という規範なのです。

しかし、9条は戦後保守政権の度重なる解釈改憲によって、危機にさらされてきました。日本には巨大な米軍基地と強大な自衛隊があります。そして、安保法制のなかで集団的自衛権の行使までが認められるに至っています。

それでも憲法9条が歯止めとして働いて、許していないことは大きいのです。なによりも、憲法9条がある限り、米軍基地や強大な自衛隊の存在を違憲として批判できます。集団的自衛権の行使を認める安保法制を違憲とする訴訟が進行中です。

また、安保法制が集団的自衛権の行使を認めるに至ったとはいえ、それは「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という「存立危機事態」に限定されています。安倍政権としては、日本が米軍とともに世界に出て行って戦争をすることに、フリーハンドがほしいのです。

憲法9条に、安保法制によって性格を変えた自衛隊を明記することは、原理的に集団的自衛権行使を任務とする軍事組織を憲法上の存在として認めることにほかなりません。結局は、米軍の弾よけにされ、世界中で戦争をすることができるようになるのです。けっして、9条改憲を許してはならないと思うのです。

これに対して、現実には自衛隊が存在しているのだから、自衛隊を憲法に書き込むことで、政府の統制をしっかりと自衛隊に及ぼすべきだと主張する人もいます。自衛隊を憲法に根拠を有する組織とすることで、立憲主義的統制ないし文民統制を及ぼすべきだというのです。

しかし、これは、本末転倒の議論です。
法律というのは、規範であり、規範というのは現実を規律するものです。
現実に妥協して、規範を現実に合わせてしまっては、規範の意味がありません。
たとえば、刑法199条は殺人罪を定めて、人が殺されることを防止しようとしています。しかし、残念ながら殺人はそれでもなくなりません。そんなとき、私たちは、社会から殺人がなくならない現実に合わせて、殺人罪をなくし、殺人を合法化しようとするでしょうか。

法は理想を追求し、現実をリードし規律するものです。法が、現実に屈してあきらめてはならないのです。平和の理想を捨てることは、現実をさらに危険な方向に動かすことになります。

あるいはまた、日本の軍事力を強化することで、平和を守るべきだという人もいます。そのために9条が邪魔だというのです。

しかし、これは戦争を違法化する国際法の努力を見過ごした議論です。
国際法上、戦争は基本的に違法であり、特に侵略戦争は絶対に違法化されています。
戦争を憎み平和を愛する諸国民の国際世論や、戦争を違法化する国際法の到達点を無視し、軍事的な威圧が平和をもたらすというのは、あまりに偏った見方です。
現に、日本には、毎年5兆円の防衛費をかけ、20万人以上公務員を有する巨大組織である自衛隊が存在していますが、それが軍事的均衡や平和をもたらしているのでしょうか。北朝鮮のミサイル開発を止めることができたのでしょうか。
これでは、足りないというのであれば、あと、何兆円かけ、何万人の定員の組織にすれば、ミサイルを止められるというのでしょうか。

憲法9条は、日本に軍隊を持たせず、戦争をさせないための規範です。
軍隊を持たず、交戦権もなければ、戦争を起こせるはずがないからです。
他国からの侵略を防ぐためにも、憲法9条は、有効なのです。他国を軍事的に威圧しなければ、他国から脅威と思われないからです。
9条を遵守し、本当に他国に脅威を与えなければ、日本が標的にされることはありません。

今、日本の外交は、トランプに寄り添い、トランプに追随するばかりです。
真に平和を目指すのであれば、9条を遵守し、積極的に軍事的緊張を緩和すべく、あらゆる地域で平和外交を進めるべきです。

日本が第二次世界大戦後戦争をしていないことは、外交上とても大きな財産です。
さらに、唯一の被爆国として、また、戦争を放棄し軍備の不保持を宣言した平和国家として、世界的な権威を獲得することが可能です。そうすれば、平和外交による自国の平和も維持できます。それが、本来の憲法9条の理念にほかなりません。

この憲法9条の平和主義の理念は、けっして空想的なものではなく、現実的な平和維持の手段として理解すべきなのです。
(2017年11月14日)

秋空に 9条まもれの 大集会

久しぶりの抜けるような青い空。空はこんなにも青く高かったのかと思わせた、今日文化の日。71年目の日本国憲法公布の記念日。その日、国会を包囲した大群衆が、憲法を守れ、9条を守れ、平和を壊すな、と声を合わせた。

 秋空に 9条まもれの 大集会
 国会は 9条まもれの 大群衆
 集う人 9条まもれの 大合唱
 響き合う 9条まもれの 声と声

コールの声は力強かった。

改憲反対!
9条まもれ!
戦争反対!
9条生かせ!

戦争する国絶対反対!
戦争したがる総理はいらない!
アベ政権をみんなで倒そう!
立憲野党と市民は共闘!

諦めないぞ!
諦めないぞ!

「安倍9条改憲NO! 全国市民アクション 11・3国会包囲大行動」である。
平和をまもろう! 命をまもろう! 9条まもろう! そして、共闘の力で「アベ9条改憲反対の圧倒的世論をつくり出そう」という大集会。

何人かのスピーカーが、「皆さんありがとう。元気をいただきました」と発言した。そんな集会になった。私も、そんな気持。天候に感謝したい。

メインステージでは、立憲民主党(枝野幸男代表)、日本共産党(志位和夫委員長)、民進党(江崎孝参議院議員)、社民党(福島瑞穂副党首)が、いずれも力のこもった演説をした。自由党も、小沢一郎代表がメッセージを寄せた。

しかし、今日の集会の主役は、野党の党首たちではなく、明らかに国会を包囲した大群衆だった。主催者発表で、「参加者数は4万」とアナウンスされたとき、「えっ?」という声があがった。「もっと人数は多いんじゃないの?」という意外感。私の周りでの人の多さは、一昨年の「戦争法反対運動」時の群衆に匹敵する印象だったから。

トップを切っての枝野スピーチの冒頭で、「市民の皆様に背を押されて、立憲民主党立ち上げた」との発言があった。そのとおりだ。世論を背に政治家は行動する。「9条改憲NO!」についても同様だ。立憲民主党の背を、その党首枝野幸男の背を、市民が「アベ9条改憲に断固NO!」と言うべしと押しているのだ。枝野自身の憲法についての過去の発言がどうであろうとも、今、野党第一党として安倍政権と対峙する限りは、「9条改憲論」に反対を貫かざるを得ない。その他の野党についても同様である。

そのような意味で、立憲民主党・日本共産党・民進党・社民党・自由党の5党が、自公の与党に対峙する「立憲野党」と言ってよい。希望の党と維新とは、アベ改憲を支える補完勢力。色分け鮮明になってきたではないか。

選挙結果にめげていてはどうしようもない。まだ負けてなんかいない。さあ、がんばろう。私たちの憲法を壊させない。市民がそう決意を固め、野党勢力に「アベ9条改憲に断固NO!」で頑張れと、活を入れ、「元気を配った」集会だった。
(2017年11月3日)

臍を噛むまい。「憂しと見し世も 今は恋しき」と。

永らへば またこの頃や しのばれむ
 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

百人一首でおなじみの藤原清輔の詠。『新古今集』から採られているそうだが、これは恐い歌だ。希望のない、絶望の歌。この頃そう思う。

この先もっと長く生きていて、憲法の理念が輝く民主的な時代を見ることは、どうやらできそうもないようだ。改憲を唱える反動勢力が跳梁するひどい時代と思っている今日この頃だが、この先になって思い返してみると今の時代が懐かしく思い出されてくることになってしまうのだろう。「ああ、あのときはまだマシだった」と。いま、振り返ってみれば、あのときにはムチャクチャだったと思っていた昔の日々も、今に較べればまだマシだったと恋しいほどに思い出されるのだから。きっと同じことが繰り返されるに違いないのだ。

この歌に貫かれているのは徹底した厭世観だ。世の中、今日より明日がよくなるはずがない。これまでも、どんどん悪くなるばかりだったのだから。一昔前に比べて今はなんとひどいことになっているのだろうか。何年か経って、一昔前となったこの頃を振り返ってみても、今よりよくなっていようはずはない。

驚いたのは、ブッシュ大統領親子が共同して、トランプ批判の声明を出したことだ。トランプのやり方が生温いというのではない。その人種差別主義の言動を真っ向から批判している。あのブッシュ親子にさえ、乱暴で非人権的と批判されているのが超大国アメリカの現政権なのだ。悪しきポピュリズム、反知性主義、排外主義、アメリカの独善。あの当時には、「ひどい」、「最悪」と思われたブッシュでさえ、「今は恋しき」対象なのだ。

アメリカだけではない。日本も同様なのだ。55年体制確立以来、自民党政権は長期低落傾向にあった。弥縫を重ね公明党を抱き込み、何とか延命を重ねた自民党。長く、事実上は改憲をあきらめていた。それがどうだ。安倍晋三という、改憲執念勢力の代表各が首相におさまっている。あの当時は、金権、反動、最悪と思われた田中角栄も、中曽根康弘も、「今は恋しき」ではないか。

そして都政だ。石原慎太郎時代には、こんな保守反動の知事は空前であるばかりでなく絶後だろう、と思ったものだ。しかし、どうもそうではなさそうだ。小池百合子都政は、明らかに猪瀬・舛添時代以下だ。もしかしたら、石原時代よりもひどいことにもなりかねない。その理由は、知事子飼いの政党が議会の第一党になっているからだ。それだけではない。石原慎太郎が筋金入りの右翼で、排外主義者で、差別主義者だったことは天下周知のことだった。ところが、小池百合子がなにものであるかについては、よく知られていないという事情もある。

ようやく、大手メディアが小池批判をするようになってきた。本日(8月21日)の毎日「<政治団体>日本「ファースト」どこへ 米国第一のコピペ?」という記事はその典型だろう。

記事の書き出しは、「小池百合子東京都知事の側近、若狭勝衆院議員が設立した政治団体『日本(にっぽん)ファーストの会』が揺れている」というもの。
識者のコメントを連ねる手法で、「『アメリカ・ファースト』とうり二つ 排外主義連想の指摘も」とし、「東京都議選で都民ファーストはいきなり第1党に躍り出た。」「利益誘導型の旧来の自民党政治が顔を出して無党派層の不満が高まるなか、小池氏はポピュリズムをうまく利用し、民進党に代わって『受け皿』になった」「日本ファーストは近隣諸国からどうみられるか。排外主義を連想するなという方が無理だ」「政策決定者である私が決めた。文書としては残していない。『情報公開は東京大改革の一丁目一番地』と言いながら、結局は『自分ファースト』だった」。若狭氏は7月9日の報道番組で新党のスタンスとして「憲法改正が必要というのは共通している。安倍さんとあえて対立構図を作ることはない」と述べた。「自民党との本質的な違いは見えにくい」。

慎重な言い回しだが、「小池百合子を警戒せよ」「小池百合子にだまされるな」という警告である。安倍晋三、橋下徹、小池百合子などのポピュリストに警戒せよ、だまされるな、ということでもある。

私は、心底心配せざるを得ないのだ。安倍晋三のごとき知性に欠けた反文明人の利己主義者を長く首相に据えておく、「この頃」の世の雰囲気についてである。民主主義運用の難しさについてということでもある。もう少し先になって、「素晴らしい憲法だったと悔やむ日が」(8月21日万能川柳欄・浜松よんぼ)としてはならない。「あの頃に世を憂しと見しは、杞憂なりしか」と詠う日が来なければならない。漫然と待つのではなく、その日が来るように努力を重ねなければならない。それは、可能なはずなのだから。
(2017年8月21日)

憲法日記・連続更新第1600回に靖国を論じる。

毎日の更新を続けている当ブログは、本日で連続第1600回となった。

休眠していていた「憲法日記」を再開したのは、2013年1月1日。その前年12年12月総選挙での第2次安倍政権発足が暮れの26日、これに危機感を抱いてのことだ。

安倍晋三という右翼の歴史修正主義者が、「戦後レジームからの脱却」、「日本を取り戻す」などというスローガンを掲げて政権に返り咲いた。支持勢力は、保守ではない。明らかに右翼ではないか。

あの第1次政権投げ出しの経過が印象に強かった。この上なくぶざまでみっともない本性をさらけ出したひ弱な政治家。誰も、彼がすぐれた政治理念をもつカリスマ的な指導者だとは思ってはいない。むしろ、愚かで浅薄な人物というのが定評。その愚かで浅薄な安倍晋三が、右翼勢力の支持で再びの政権に就いた。時代の風が、右から吹いていることをいやでも意識せざるを得ない。

彼は、右翼を糾合してこれをコアな地盤とし、保守派と「下駄の雪・公明」を巻き込んだ勢力で、戦後営々と築き上げられてきた民主主義の破壊を目論んだ。戦後的なるものを総否定した戦前回帰の復古主義である。そのことは、日本国憲法の否定と、限りなく大日本帝国憲法に近似する自民党改憲草案に象徴的に表れていた。

こうして、平和や民主主義や人権を大切に思う側の国民による、総力をあげての安倍政権との闘いが始まったのだ。私もできることをしなければならない。それが、2013年1月1日からの当「憲法日記」である。書き始めた当時は、日民協の軒先を借りてのことだった。自前のサイトに移って、思うがままに書けるようになったのが、2013年4月1日。この日のブログを第1回と数えて、本日が1日の途切れもなく第1600回となった。

ところが、まだ、安倍政権が続いている。気息奄々の安倍晋三が、いまだに憲法を変えたいと執念を見せている。だから、私も、この日記を書き続けなくてはならない。憲法の安泰を見届けるまでは。

これまでの1600日。ブログのテーマに困ったことはほとんどない。私には手に余る大きなテーマで書き始めてとてもまとまらず、さて困ったとなって代わりに何を書こうか。と思案することは少なくない。そういうときは、産経の社説に目を通すのだ。困ったときの産経頼み。産経こそがこコアな安倍支持勢力の代弁者。もちろん読売も安倍的右翼勢力だが、産経の方がものの言い方がはるかにストレートで分かり易い。だから、産経社説はありがたい。本日も、批判の対象としてご登場いただく。

昨日(8月16日)の産経社説は、「戦後72年の靖国、いったい誰に『申し訳ない』のか 首相も閣僚も直接参拝せず」というタイトルだった。言い古された、陳腐きわまる靖国擁護論である。その全文を太字で記して、批判を試みたい。もっとも、批判も陳腐なものとならざるを得ないのだが。

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 戦後72年の終戦の日、靖国の杜には雨にもかかわらず、多くの参拝者が訪れた。国に命をささげた人々の御霊に改めて哀悼の意を表したい。
・宗教観念や信仰の内容を他者が批判する筋合いは毫もない。亡くなった人の霊がこの世に残るという信仰を持ち、特定の宗教施設に亡き人の霊が宿っているとして、霊が祀られている施設への参拝者が訪れることを非難する者はなかろう。憲法20条で保障される信教の自由を尊重すべきが、常識的な姿勢。戦没者遺族の心情は自ずと尊重されるべきである。
・但し、「国に命をささげた」人々の意味は定かではない。まさか、戦没者のすべてが、喜んで「国に命をささげた」と言っているわけではなかろうが、戦没者を一括りにして、意味づけをすることは慎まなければならない。
・なお、今年(2017年)の8月15日靖国参拝者数は、雨がたたってかいつになく少数で静謐であったというのが、各紙の報道である。産経社説だけが、「靖国の杜には雨にもかかわらず、多くの参拝者が訪れた。」と書いている。現実ではなく、願望を優先せざるを得ないのだろう。

 東京・九段の靖国神社は、わが国の戦没者追悼の中心施設である。幕末以降、国に殉じた246万余柱の御霊がまつられている。うち213万余柱は先の大戦の戦没者だ。終戦の日に参拝する意義は大きい。
・靖国神社が、わが国の戦没者追悼の中心施設であったことは歴史的事実ではある。しかし、今は、「一宗教法人であって、それ以上のものではない」ことを明確にしなければならない。
・「国に殉じた246万余柱の御霊」の表現はいけない。膨大な戦没者とその遺族のなかには、「国に殉じた」気持をもち、靖国の顕彰や奉祀を感謝の念をもって受け容れている人もいるだろう。しかし、遺族が合祀されていることを徹底して嫌忌している人もいる。「国に殉じた」のではなく、「国に命を奪われた」と考えている人たちも少なくないのだ。
・「終戦の日に参拝する意義は大きい。」とは、なんとも無内容な一文。もし、「終戦の日に参拝する意義」が、今次の大戦において「国に殉じた」人々を顕彰することにある、というのなら、それは余りに偏った独善的イデオロギーの表白である。

 靖国は静かな追悼の場である。その国の伝統文化に従い戦没者の霊をまつり、祈りをささげることはどの国も行っていることだ。
・「靖国は静かな追悼の場である」。それだけのことなら、なんの問題もない。この宗教施設が戦没者を偲ぶ場としてふさわしいと考えている個人が、それぞれの思いで追悼の場とすればそれでよい。ところが、それではもの足りぬという人々がいる。国の関わりが必要という思惑をもつ人々が、靖国を静かな追悼の場でなくしているのだ。
・「その国の伝統文化に従い戦没者の霊をまつり、祈りをささげることはどの国も行っていることだ。」
これは、ずるい文章だ。文脈からすると、「どの国も行っていること」が述語なのだから、これが主要な命題との印象を受ける。本当に、戦没者に対する靖国的祭祀が国際的な普遍性を持っているのかを吟味しようとすると、「その国の伝統文化に従い」という特殊性に逃げられる。いったいどっちなんだ、と言いたくなる文章。
・実は、どっちでもないのだ。靖国とは、国際的な普遍性を持っていないことは当然として、日本固有の伝統文化に従った戦没者の霊のまつり方でもない。近代天皇制政府が拵え上げた似非伝統なのだ。

 とりわけ国の指導者が、国民を代表して哀悼の意を表することは、当然の行いだ。それが堂々と行われないのはなぜなのか。
・国が全戦没者を追悼する式典は、「全国戦没者追悼式」として毎年8月15日に挙行されている。その問題性なきにしもあらずだが、産経が、「国の指導者が、国民を代表して堂々と戦没者に哀悼の意を表することを行わないのはなぜか」というのは間違っている。
・宗教法人靖国神社が、国家行事を行うにふさわしからざる場であることは、自明であって、ここで「国の指導者が、国民を代表して哀悼の意を表する」などは絶対にあってはならない。もちろん、明確に違憲な行為でもある。

 安倍晋三首相は自民党総裁として玉串料を納めたが、直接参拝しないのはやはり残念である。
 この日の閣僚の参拝は一人もいなかった。寂しい限りである。
・はたして、安倍晋三首相の玉串料奉納は私人としての行為であったか。極めて疑問であるが、参拝はできなかった。内閣総理大臣としての玉串料奉納もしないポーズはとらざるを得ない。乱暴な安倍晋三も、憲法を守らざるを得ないと、ようやくにして理解してきた。その限りでけっこうなことだった。
・一般論だが、産経が「残念」「寂しい」と表白する事態は、憲法に笑顔をもたらすものである。

 かつて首相が閣僚を率いて参拝するのは、普通の姿だった。中国が干渉するようになったのは、中曽根康弘首相が公式参拝した昭和60年8月以降である。
 長期政権を築いた小泉純一郎首相は平成13年から18年まで年1回の靖国参拝を続けたものの、多くの首相が参拝を見送っている。いわれなき非難を行う中国や韓国への過度の配慮からだ。それがさらなる干渉を招いてきた。
 安倍首相も25年12月に参拝した後、参拝を控えている。
・首相や天皇の公式参拝(公的資格による参拝)は、憲法20条3項の政教分離原則が禁じるところである。わが国は、主権者の意思として、国家がすべての宗教との関わりを持つことを禁じた。その宗教とは憲法に明示されていないが、なによりも天皇を神の子孫であり現人神とする国家神道(=天皇教)であった。なかでも、国家神道の中の軍国主義側面を司る靖国神社である。
・また、日本国憲法はアジア諸国に対する侵略戦争を反省する不戦の誓いとしての性格を有している。だから、日本国憲法の理念は、日本一国だけのものではなく、アジア諸国全体のものとも言える。わが国は、憲法の運用において独善に陥ることなく、近隣諸国の声に耳を傾けなければならない。

 首相はこの日、名代の柴山昌彦総裁特別補佐に「参拝に行けずに申し訳ない」と託したという。だれに対して申し訳ないのか。英霊の前で平和と国の守りをしっかりと誓うべきである。
・安倍晋三は、「参拝に行けずに申し訳ない」という必要はない。「国家を代表する立場でありながら、特定宗教団体に玉串料など奉納し特別の関わりを作ってしまい、申し訳ない」と日本国憲法と憲法制定権力者である国民に詫びなければならない。
・靖国は、平和を誓うにふさわしい場所ではない。神も神社もいろいろだ。学問の神に商売繁盛を願うのも、地獄の神にこの世の栄達を願うのも筋違い。宗教的軍事施設である靖国は、平和を祈る場ではない。もともとが戦死者に向かって、「あなたの死を無駄にしない。次の戦いでは必ず勝って見せる」と誓う儀式の場なのだから。

 春秋の例大祭など機会を捉え、参拝してもらいたい。
 靖国の社頭では、戦没者の遺書や書簡が月替わりに紹介、配布され手に取る人も多かった。8月のこの日の文は、24歳の若さで西太平洋のトラック諸島で戦死した陸軍中尉が「父上様」と記し、「墓標は、つとめて小たるべし」と自身のことをわずかに、国を守る思いがつづられていた。
 海外の激戦地には、いまなお多くの遺骨が眠っていることも忘れてはならない。
 戦没者の孫、ひ孫世代の子を連れた人も目立った。国や故郷、家族を思って逝った尊い犠牲のうえに国が築かれてきた歴史を改めて知る日としたい。
・戦争を忘れてはならない。とりわけ、戦争で悲惨な死を遂げた若者たちの苦悩と悲惨を忘れてはならない。そのことに、異存のあろうはずはない。
・引っかかるのは、産経が繰り返す「国のため」「国を守る」「国を思い」「その犠牲の上の国」である。
産経社説には右翼言論の常として、「わが国」だけがあって、戦った相手国がない。相手国の国民がないのだ。あたかも、戦争で悲惨な死を遂げた若者たちの苦悩と悲惨は、わが国特有のものだったごとくではないか。中国をはじめとするアジア諸国民の若者たちにも、英・米・蘭・ソの連合国の兵士たちも、まったく同様であった。過酷な植民地支配をうけた朝鮮もである。
・にもかかわらず、靖国神社は、けっして1931年以来の戦争が侵略戦争であったことを語らない。また、けっして皇軍の蛮行を語らない。ひたすらに戦争を正当化し、戦死を美化するのみである。

この立場に与するのが産経新聞であり、産経が支持するのが、安倍政権である。その安倍政権が、いまだに生き延びている。嗚呼、しばらくブログは続けざるを得ない。

(2017年8月17日・毎日連続更新第1600回)

「政治とは大衆を欺くことである」ー憲法改正の決意を語ろう。

恥ずかしながら私が、政権与党の総裁であり、この国の総理大臣だ。
この欄を借りて政治の要諦を語りたい。常々私が思っていることで新味はない。しかし、今の政局において私の考えを確認しておくことは無意味ではない。とりわけ、今次の内閣改造の意図をご理解いただくために有益ではなかろうか。

誤解を恐れずに結論からはっきり申しあげておこう。政治とは大衆を欺くことである。そう割り切れることが政治家としての資質であり、欺しのテクニックこそが政治家に求められている技術なのだ。

大衆の望むところを把握して、大衆の望むとおりに国政を運用する。それは唾棄すべき大衆迎合政治以外のなにものでもない。それでは、国家かくあるべし、民族かくあらねばならないという、理想や理念が欠けることになる。政治家たるものは、大理想、大理念を抱いて、その実現のために邁進しなければならない。大衆の意思実現のために政治家がいるのではない。政治家たるものは、自分の理想・理念をもって大衆を動かすのだ。必ずしも、理性的な共感を得る必要はない。感性のレベルでも、利益誘導でもなんでもよい。発揮されるべきは欺しのテクニックなのだ。

政治はリアリズムである。理想・理念を語って大衆の支持を得られるとは限らない。むしろ理想・理念に反発するのが大衆の常と言ってよい。政治の究極の目的は、最大多数の大衆の幸福だ。しかし、大衆は多様であり盲目でもある。大衆自らに幸福への道筋を切り開く能力はない。だから、大衆を善導する政治家が必要であり、その善導こそが欺しなのだ。

今、パターナリズムは評判が悪い。しかし、子が自らの人生を決定する能力を欠く以上、親が子のためを思って、その人生に介入することに何の不都合があろうか。政治家と大衆とは、まさしくこの関係にある。

厄介なのは、民主主義という枷だ。天皇の権威、国体の権威、国防保安法や治安維持法の時代であれば、親が子に対する体罰同然の実力の行使が可能だった。今、それができない。とすれば、政治家は大衆を欺すしか方法がない。

最も望ましいのは、大衆の洗脳だ。大衆が、政治家の思想や理念をあたかも自らが望んだごとくに仕向けることだ。それができなくても、消極的な支持が獲得できればよい。アベにまかせていれば、経済も外交も国防もそんなにひどいことにはならないだろうと、是認していただけたら、それで十分。そこまで大衆を欺して、私の理念にしたがってこの国を経営すること。それが、政治というものであり、政治家の役割なのだ。

羊頭を掲げて狗肉を売るのは、商道徳としては許されないことかも知れない。しかし、政治家は大衆に狗肉が必要だと考えれば、信念をもって狗肉を売らねばならない。狗肉を狗肉として売ることが難しければ、積極的に羊頭を掲げるべきなのだ。

話を具体化しよう。私が目指す政治の理想は二つある。一つは、戦後レジームを否定してあるべき日本を取り戻すことだ。かつては、個の尊重だの、個人の尊厳だのという浮ついた観念はなかった。一億の日本民族が大日本帝国に結集して、富国強兵を誇っていたではないか。あの教育勅語が醸しだす美しくも強い輝ける時代にまで時間軸を巻き戻さねばならない。そして、国防に心配のない国家を建設するのだ。

もう一つは、岩盤規制を打ち砕いて、徹底した企業活動の自由を保障することによる豊かな社会の創出だ。世の中を徹底した競争社会とし、厳しい優勝劣敗の結果としての格差を是認して、一億総活躍国家を実現するのだ。

どちらの理想にも反対者が多い。個人の尊重こそが公理だとか。平等こそが美徳だとか。成長よりも分配だ。自助原理よりは福祉国家だ、という類。要するに、国家主義や民族主義を嫌っての利己主義なのだ。

これを克服しねじ伏せるには、個人主義・自由主義を立脚点としている現行の日本国憲法を変えるしかない。個人よりも家庭が大切で、家庭よりは地域、そして地域よりは国家が最も大切だと根本的な価値観の大転換をしなければならない。そのための憲法改正が私の悲願なのだ。

ようやくにして、両議院の議席の3分の2を改憲派で占めるところまできた。内閣の高支持率も維持してきた。欺しのテクニックが功を奏したのだ。もう一息で、憲法改正が実現できる。そんなところで、焦りと緩みが出た。

これまで、長く続いていた内閣の高支持率が急落した。たった8億円程度の国有地払い下げの価格値引きの不透明。そして、私の友人が経営する学校法人の希望に添った新学部設立認可の件だ。これを機に、私への不満が噴出した。実は、共謀罪や集団的自衛権行使容認に対する国民的批判がもっと深い底にある。そして内閣の不人気は、直近の選挙結果にも表れている。

しかし、もう一歩の憲法改正を失敗に終わらせるわけにはいかない。こういうときにこそ、政治家のホンモノ度が試される。「頭が高い」といわれれば、いくらでも頭を下げよう。一回で足りなければ3回でも5回でも。8秒では短ければ1分頭を下げてもよい。説明が足りないと言われれば、何度でも繰り返し説明をしよう。大切なのは、政治家が理念を捨ててはならないことだ。私は、リアリズムに徹して、それが有効であることを計算して、頭を下げる。説明を繰り返す。

もっとも、低姿勢で反省するとは繰り返すが、反省は「丁寧な説明の不足」の限り。けっしてそれ以上には言及しない。だから、大阪航空局や近畿財務局の行為を解明して責任を明らかにすることはけっしてしないし、加計学園の国家戦略特区指定取り消しもけっしてしない。もちろん、絶対に憲法改正を撤回するとは言わない。この課題は継続するのだ。これを撤回したら、いったい何のための隠忍自重か、わけの分からぬことになる。

「アベ一強」が評判悪いようだから、私に批判的な人物も閣内に取り込む。こうして、低姿勢で経済優先の仕事人内閣の組閣は、すべて憲法改正のためなのだ。すべては、私流のやり方で究極的に大衆を幸福にするために、豊かで強い経済と国家を作るための方便なのだ。私の政治的理想と憲法改正の悲願実現のために、いま私は、「大衆を欺く技術」を最大限発揮しているのだ。

臥薪嘗胆という言葉は今の私のためにある。かつて臥薪嘗胆の末、呉王夫差はやがて越王勾践を破った。私は日本国憲法を改正するのだ。そういうことなのだから、私にお力添えをお願いしたい。
(2017年8月4日)

ついに出た!『内閣支持率 29.9%』のインパクト

次々と発表される各社世論調査での安倍内閣支持率低下が止まらない。遂に本日(7月14日)発表の時事通信の調査結果で、危険水域と言われる支持率30%割れのの数字が表れた。高慢のアベの鼻が折れた。第1次アベ政権投げ出しの醜態が思い出される。この支持率の数値が当然という思いと、これまでの高支持率はいったい何だったのかという釈然としない思いとが交錯して複雑な気持ではある。

ジリ貧が明らかとなった安倍内閣だが、手負いのアベがどう出るかはまだ読めない。これにまわりがどう反応するかも分からない。改憲の動きはどうなることやら。

常識的には、沈没しそうな船からは乗組員が逃げ出す。乗組員だけではない。ネズミだってヒアリだっておなじこと。逃げ遅れると、船長と不本意な心中となりかねない。これまではウマ味がありそうだとくっついていた有象無象が離れていくことになって、求心力は一気に消滅する。崩壊を待つだけのアベ政権に、もう何をする力もないだろう。

しかし、ジリ貧であればこそ今のうちにできることをやっておかなくてはならない、「我が亡き後に洪水は来たれ」と、猪突猛進することも考えられないではない。

次に選挙をすれば両院とも自民惨敗は明らかで、改憲勢力3分の2の議席は、再びはない永遠の夢となるかも知れない。それなら、今のうちに改憲発議をやってしまえ。捨て鉢にそうなりはしまいか。そのとき、自民の大勢はどうするだろうか。公明は、それでも下駄の雪を演じるだろうか? オポチュニストの集団である維新は風をどう読むだろうか?

都知事選自民惨敗後の世論調査の結果(いずれも、7月7~9日調査)は、以下のとおり驚愕の連続。

NNN  支持32% 不支持49%(差17%)
読売   支持36% 不支持52%(差16%)
朝日   支持33% 不支持47%(差13%)
NHK  支持35% 不支持48%(差13%)

永田町では、「支持率は4割がボーダーライン。2カ月続けて4割を割り込むと危険水域」なのだそうだ。この数字はアベ内閣が明らかに「危険水域」入りしたことを示している。これに加えての時事通信調査である。

時事通信 支持29.9% 不支持48.6%(差18.7%)

時事通信の本日発表の世論調査結果が、「安倍内閣の支持率は前月比15.2ポイント減の29.9%となった。2012年12月の第2次安倍政権発足以降、最大の下げ幅で、初めて3割を切った。不支持率も同14.7ポイント増の48.6%で最高となった」「学校法人「加計学園」の獣医学部新設をめぐる問題が響いた。東京都議選で稲田朋美防衛相が、自衛隊を政治利用したと受け取られかねない失言をしたことなども影響したとみられる。」「加計学園に関する安倍晋三首相の発言を信用できるかどうか聞いたところ、「信用できない」が67.3%に上り、「信用できる」の11.5%を大きく上回った。首相が説明責任を果たしているかどうかについても、「果たしていない」79.9%に対し、「果たしている」7.1%となり、首相に対する国民の不信感の高まりが浮き彫りとなった。首相の政権運営は険しいものとなりそうだ。」

「アベ内閣支持率29.9%」は衝撃と言ってよい。国民はアベ内閣とアベ個人に厳しい目を向けている。素晴らしいことだ。

ところが政党支持の調査を見ると手放しでは喜んではおられない。
自民党 21.1%(前月比-3.9)
民進党  3.8%(同-0.4)
公明党  3.2%(同-0.3)
共産党  2.1%(同-0.3)
維新   1.1%(同-0.2)
社民   0.3%(同±0)
支持なし65.3%(同+4.5)

確かに、アベ内閣からも自民党からも人心は大きく離れつつある。しかし、その受け皿がない。国民が信頼に足りるとする、アベ内閣ないしアベ自民党への対抗政治勢力の形成が不十分なのだ。

野党4党と市民運動の連携による「野党連合」こそがその受け皿にならねばならない。それに成功しないと、政治不信だけが蔓延する「議会制民主主義の危機」の時代が訪れることにもなりかねないのだから。
(2017年7月14日)

アベ9条改憲案の危険性

先日の日民協総会での意見交換の場で、仙台から出席の研究者から「今、5月3日以来安倍首相が提案している9条改憲案を『加憲的改憲案』と呼称することには違和感を覚える」という発言があった。「加憲」とは、厳密に新たに書き加えられた条文が既存の憲法条項の解釈に影響を及ぼすことがない場合にのみ使うべきで、条文の書き加えが既存の条文の意味を変えるおそれがある場合に安易に「加憲」と言ってはならない、というご趣旨。なるほど、そのとおりだ。

9条3項(あるいは9条の2)に、既にある自衛隊を明記するだけ。この条文を書き加えるだけだから「加憲」。この「論理」を是認してしまうと、まさにアベの思惑に乗せられてしまうことになる。憲法に自衛隊を明記することは、これまでの憲法の条文の意味を変えてしまうことになるのに、その注意をそらしてしまうからだ。

5月3日のアベ提案は、「9条1項(戦争放棄)と2項(戦力不保持)を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」というもの。しかし、そもそも9条1項(戦争放棄)と2項(戦力不保持)をそのままにして、憲法に自衛隊を明文で書き込むことなどできることだろうか。とりわけ、戦力不保持と自衛隊の存在とは両立し得ない二律背反ではないのか。それでも強引に自衛隊の存在を明文化した場合には、いったい何が起きるのだろうか。なによりも、「自衛隊を明文で書き込む」とはどんな条文となるかが肝腎だ。

6月22日の各紙が伝えている。
安倍晋三首相が提起した「自衛隊」を明記する憲法改正を巡り、自民党が検討する条文のたたき台が、21日判明した。新設する「9条の2」で、自衛隊を「我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織」と定義したうえで、「前条(9条)の規定は自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない」としている。執行部はこの案を軸に協議を進める考えだが、2項(戦力不保持)や2012年の党改憲草案との整合性を問う声もあり、9月にも策定する改憲案の集約が難航する可能性もある。(毎日)
共同配信記事は、次のように伝えている。
「自民党の憲法改正推進本部が、憲法9条に自衛隊の存在を明記する安倍晋三首相(党総裁)提案を踏まえ、今後の議論のたたき台とする条文案が21日、判明した。現行9条と別立ての「9条の2」を新設し、自衛隊について『わが国を防衛するための必要最小限度の実力組織』と規定。戦力不保持などを定めた現行9条2項を受ける形で『自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない』と明示した。首相が自衛隊の指揮監督権を持つことも盛り込んだ。党関係者が明らかにした。」
「推進本部は21日、全所属議員を対象とした全体会合を開き、9条への自衛隊明記案を巡って本格的な議論をスタート。賛成論が出る一方、9条2項との整合性の面などで異論もあった。条文案は示されていない。自民党は年内の改憲案策定を目指しており、早ければ秋にも具体的な条文案を巡って公明党との調整に着手したい意向だ。」

憲法9条2項が「戦力」の保持を禁止しているのだから、自衛隊は「戦力」であってはならない。ということは、自衛隊を「戦力」ではないことにすれば、違憲の存在ではなくなる。そこで、歴代政権は戦力を「固有の自衛権行使のために必要な最小限度を超える実力」と定義し、自衛隊は「固有の自衛権行使のために必要な最小限度内の実力組織」であるから戦力ではなく、したがって合憲としてきた。

しかし、アベ政権になって事情は変わった。長く、集団的自衛権の行使は憲法上できないとしてきた解釈を変えたのだ。自衛隊は基本性格を変え、もはや専守防衛の自衛隊ではない。同盟国の要請に応じて、海外での武力行使も可能な実力組織としての側面を持つものとなっている。その自衛隊を憲法上の存在として、「前条(9条)の規定は自衛隊を設けることを妨げるものと解釈してはならない」とすれば、明らかに9条1項、2項の意味が変わってくる。

戦争法反対運動が盛りあがったのは、「自衛隊違憲論者」だけでなく、「自衛隊の合憲性は認めるが専守防衛に徹すべきだ」とする論者も一緒に、集団的自衛権行使に反対したからだ。

自民党の「たたき台」案は、明らかに専守防衛路線否定を明文化するものにほかならない。戦争法の違憲を明文で合憲化することでもある。ということは、自衛隊違憲論者も、専守防衛なら合憲の論者も、共同してアベ9条改憲に反対しなければならない。反対運動は、自ずから大きなものとならざるを得ない。
(2017年7月12日)

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