えっ? なんですって? もう一度言ってごらんなさい? 「都民ファーストの会」の代表交代のプロセスが不透明ですって? いったい誰がそんなこと言っているの? そんなこと、この私の前で言えること?
あなたもあなたよね。以前私に向かって「大山鳴動して鼠一匹」って言った愚かな記者がいたでしょう。「それは失礼というものでしょう」と一喝したら黙ったけど。私には、口の利き方に気をつけた方がいいわよ。
私、ここから表情と口調をよそ行きに変えます。ここから報道しなさいね。
都民ファーストの会代表だった野田数さんから9月10日付で代表辞任の申し出がありました。理由は、知事特別秘書の仕事に専念するためということ。それで、翌11日に党規約に則って私と2人の都議の3人で代表選考委員会を開いて荒木千陽都議を新代表に推薦しましたの。
今日(13日)の都民ファーストの都会議員総会で、推薦の通り新代表人事が承認されたと聞いておりますよ。党規約に基づいた手続ですけど、それが何か?
都議会の臨時会も終えて都民ファーストも新人ばかりだったのが落ち着き、都民に選ばれた議員が代表する状況がこれで整った感があります。荒木さんは、7月の都議選で初当選した総務会長の女性で度胸がある。まさしく都民ファーストの魂でいろいろやってくれると思いますよ。
もちろん、野田さんも、荒木さんも、私の秘書だった人。それに何か問題が?
「なぜいま、唐突に野田さんが辞任したか」ですって? 先ほど、知事特別秘書の仕事に専念するためと申しあげたでしょう。それ以上、何も出てきませんわよ。私が何か言うはずもないでしょう。
「新代表選考委員会ができたことも、荒木さんの代表推薦も知らなかった。晴天の霹靂だ」なんて、大袈裟にツベコベ言っている都議がいたんですって。それがなにか? 開かれた組織だからこそ、そんなツベコベも言えるんだし、メディアの耳にもはいるんじゃないかしら。
そりゃあ私も、これまでの都政をブラックボックスと批判して、「見える化」を進めるとは言ってきましたよ。「都民ファーストの会」の政策決定プロセスを可能な限り公開していくなんてことも確かに言ったおぼえはありますよ。でもね、状況はすっかり変わりましたでしょ。もう、私の都知事としての政治的基盤はしっかりと確立しましたからね。あの頃言ったことに一々縛られていたのでは政治を前に進めることはできませんよ。都民ファーストの会の代表が誰だって、プロセスがどうだって大した問題ではないでしょ。
都議選後に、私から野田さんに代表交代をした際は、私と野田さんの2人で「臨時役員会」を開いて人事を決めたんです。今度は、私と都議2人の「代表選考委員会」で決めました。規約に則った手続ですよ。えっ? 規約を見せてくれですって? 議事録はあるのかって? それは失礼じゃございません。そんな必要はないでしょう。
都会議員総会が代表を選出したのか、それとも選考委員会が選出して都議総会が承認したのかって? そもそも選考委員会委員の選出手続は規約上どうなっているかですって。 そんな細かいことはどうでもよいことでしょ。
ええ、規約はインターネットには掲載していませんよ。「どうして?」って、そんな必要ないからですよ。もちろんホームページで党員の募集はしています。並みの党なら、綱領と規約に賛同して入党の申込みをするんでしょうが、うちの党は信頼関係に基づいて党を運営するんだから、規約の公表なんて不要なんです。
もちろん、綱領はホームページにアップしていますよ。「宇宙から夜の地球を見た時、世界は大きな闇と、偏在する灯りの塊に見える…。」という書き出しの、あの有名な奴。無内容でひどいという批判もあるけど、その批判はやっかみね。
なんですって? 行政の透明性の徹底とか、情報公開を売りにしている都民ファーストが、自分のことになると、まったく不透明で、結局のところ二枚舌ですって?
あなたねえ、どこの記者? 「それは失礼というものじゃない」。そもそも都政と政党の運営の問題をごっちゃにしているんじゃないの。都政はパブリックよ。透明性も情報公開も必要でしょ。政党はダイバーシティよ。お分かり? 多様なあり方があってよいじゃないの。規約が曖昧だとか、ネットに掲載ないとか、規約を見せずに党員募集しているとか、そんな些末な批判があればご自由にどうぞ。都民が、次の選挙で決着をつけてくれるわ。圧倒的な民意が私と都民ファーストの会にあるのよ。そこをよーくご自覚遊ばせ。
この頃、うるさいのよ。「都民ファースト」ではなく、「自分ファースト」だろうとか、「百合子ファースト」だとか。ひどいのは、「都民ファシストの会」とまで。でもね、私は都民のため、都民目線を忘れたことはございませんことよ。舛添要一さんが、朴槿恵元大統領と約束した、韓国人学校敷地提供の件を一存で反故にしたり、9月1日の朝鮮人虐殺慰霊行事への追悼文送付をやめたり。私のことを歴史修正主義者だとか、生粋のレイシストなんていう人がいるけど、大まちがいね。
私は、嫌韓、反韓の姿勢が都民に受けると思ってやっているだけ。だって、選挙権のある人に選ばれたのですもの。私を選んだ選挙権のある人の祖父の代の人々が、関東一円で自警団を作って、武器を持って朝鮮人狩りをして、大規模で残虐な集団殺人行為を行ったことなんて事実と認めたくないでしょう。だから、虐殺が事実であればこそ、都民有権者の気分がよいようにしているだけ。韓国人学校も同じこと。
私こそが、選挙民の立場をよく考えているんだから、私こそ民主主義者なの。お分かり?
(2017年9月14日)
9月1日である。この日を、私は個人的に「国恥の日」と呼ぶことにしている。
通例、外国から受けた恥辱を国民的に記憶して忘れてはならないとするのが「国恥の日」。かつて中華民国は、日本からの二十一箇条要求を承認した5月9日、あるいは柳条湖事件の9月18日を国恥紀念日として国民の団結心に訴えた。また、韓国民は、韓国併合条約発効の8月29日を庚戌国恥日として記憶している。
日本にとっての9月1日は、日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺したことを思い起こすべき日である。自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと誓うべき日。
94年前の関東大震災は、関東一帯に居住する住民に悲惨な犠牲を及ぼした自然災害であった。その犠牲者を追悼するとともに、再びの惨禍をなくす(あるいは軽減する)努力をなすべきは当然のことである。
ところが、別の問題が発生した。震災の直後に、自然災害ではない恐るべき非人道的な人災が生じたのだ。それが、日本人民衆による在日朝鮮人・中国人に対する虐殺である。自然災害による住民の犠牲と、民衆による他民族殺戮の二つは、質を異にするまったく別異の事件である。ことさらにこの両者を混同して論じる欺瞞は許されない。
虐殺には、軍と警察が深く関わっていたことが広く知られている。国の責任を論じるには、軍と警察の行為が重要になる。しかし、私には、自警団という名の民衆が武装して、朝鮮人狩をして、集団で撲殺し刺殺し、縛って川に投げ込むなどの蛮行におよんだことが衝撃である。私たちの父祖が、なぜこんなことを起こしたのか。正確に知り、記憶しなければならない。そのための、「国恥の日」である。
1923年の関東大震災から94年目となる今日(9月1日)、朝鮮人虐殺の犠牲者を追悼する式典が、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑の前で営まれた。これまで慣行として都知事から寄せられていた朝鮮人犠牲者に対する追悼文は、今年はなかった。
都知事小池百合子への批判の高まりを反映して、今年の追悼式参加者数は、昨年に倍する500人に上った。
追悼式実行委員長の宮川泰彦さんは、かつて同じ法律事務所で机をならべた私にとっては同僚弁護士。その怒りがよく伝わってくる。
式辞の中で彼は、小池百合子を厳しく批判した。
「都知事が追悼文をとりやめたことは到底容認できない。流言飛語による虐殺で命を奪われた犠牲者、遺族や関係者に寄り添う姿勢が全く見えない」「虐殺の歴史にあえて目を背けている」「都知事にはいま一度立ち止まって、参列者の声、多くの人の声に耳を傾けることを求める」「恐怖と混乱、そして差別意識によって過ちが引き起こされた。忘却は再び悪夢を生む。悲惨な出来事を忘れてはならない」
小池百合子の弁明はこうだ。
「大法要で犠牲となった全ての方々への追悼を行っていきたいという意味から、追悼文を出すことは控えさせてもらった」
これは、集団による他民族虐殺の犠牲を、ことさらに自然災害の犠牲と同列視して、意識的に自然災害死のなかに埋没させる悪質なレトリックと指摘しなければならない。小池百合子は、語り継がなければならない悲惨な行為と犠牲と責任とについて、語り継ぐことをやめたのだ。
小池百合子自身が排外主義的傾向あることは、周知の事実だった。前任の舛添要一は、当時の韓国大統領・朴槿恵との間に「韓国人学校用地としての都有地貸与」の合意を交わしていた。小池百合子は、就任直後にこの合意を白紙に戻して物議を醸している。
各紙の報じるところでは、「犠牲となった全ての方々に対する都慰霊堂大法要での都知事追悼文」(安藤立美副知事代読)に、朝鮮人犠牲者への言及はまったくなかったという。まさしく、小池百合子は、虐殺の歴史を直視することなく、これを自然災害犠牲者の中に埋没させたのだ。その罪は深い。歴史修正主義、排外主義の潮流に身を置くものと、近隣諸国や世界からも厳しい批判を受けざるを得ない。
94年を経てなお、歴史を直視することも、真摯な反省もできない。これをこそ、国恥というべきだあろう。
**************************************************************************
むかし むかしのこと
どのくらい昔かというと、
まだ、みんしゅしゅぎという考え方のないほどの大昔
ある国に、すこしかわった女王さまがおりました
女王さまは こくみんが自分をどう見ているか
こくみんのなかでの 自分の人気を
たいそう気にするかたでした
ですから つねづね
「わたしは こくみん みんなの意見を よく聞きます」
「わたしくらい こくみんみんなの声に耳をかたむける 王さまはない」
といっていました
「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
すこし変わった聞きかたをするのです
じぶんをほめるたみの声を聞くときには右の耳で聞くのです
じぶんと同じ意見を聞くときも右の耳なのです
じぶんをほめない きびしいたみの声を聞くときには
左の耳で聞きました
じぶんとちがう意見を聞くときも左の耳なのです
たみの声は女王さまにとって心地よいものばかりではありません
するとどうでしょう
だんだんと心地よいことを聞くための女王さまの右の耳だけが大きくなっていったのです
はんたいに 女王さまにとっては心地よくないことを聞く左の耳はだんだんと小さくなっていきました
そして、とうとう女王さまの右の耳は象の耳になりました
うちわよりももっとおおきな よく聞こえる象の耳
左の耳はあるかないかのカエルの耳になりました
小さいだけではなく ほとんど聞こえなくなったのです
こうして女王さまは
「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
実のところは、
「じぶんとおなじいけんか、じぶんをほめるいけん」
だけしか聞こえなくなってしまったということです
どんとはれ
(2017年9月1日)
9月1日都立横網町公園における関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式。昨年までは、毎年恒例となっていた歴代の都知事の朝鮮人犠牲者への追悼文の送付が、今年は小池百合子の意識的な決断によってなくなった。
豊洲か築地か、優柔不断で決められない都知事と揶揄されたポピュリスト小池である。日本人の対朝鮮人虐殺問題では決然とレイシストの立場を鮮明にしたのだ。これは、小池都政の評価に決定的な重大事といわねばならない。この追悼文送付の有無は、日本人の恥ずべき歴史の汚点を事実と認めてこれに真摯に向きあうか、それとも歴史を都合よく修正するかの姿勢を公的に問うものだからである。
この小池の決断を促したのが、自民党都議団の中での最右翼と言われる古賀俊昭。右翼レイシスト集団の先頭にあって、自警団という名の日本人民衆が、無辜の朝鮮人に対して行った戦慄すべき残虐行為を認めるべきでないとの主張者である。
私が古賀を知ったのは、悪名高い石原都政での「10・23通達」発出直後のこと。この通達を援護して、都立校に日の丸・君が代強制秩序を押しつけようという都議会内勢力の尖兵として、である。
こんな人物がまだこの世にいるのかと驚いたのは、2005年12年8日の都議会本会議での彼の質問。冒頭に「大詔渙発」が出てきたことである。
議事録を見ると以下のとおりである。
「本日は、大東亜戦争開戦の大詔渙発より六十四周年に当たります。さらにことしは、日露戦勝から百年の節目であると同時に、日本文化史上最大級の事業である我が国最初の勅撰和歌集「古今和歌集」が成立して千百年になります。それまでの漢詩文偏重に終止符を打ち、和歌を日本文化のかなめにしたこの平安朝時代に編さんされた「古今集」の祝賀の歌の初めに、詠み人知らずとして、国歌君が代の原歌があります。本日は、そうした国史の意義を踏まえながら、一般質問を行います。初めに、学校式典における国旗・国歌の適正な取り扱いと、それに関連する特殊法人NHKの報道について問題点を指摘し、同時に所見を伺います。…」
「大詔」も「渙発」も、今や完全な死語である。米英に対する宣戦布告を国民に広報する、「大東亜戦争開戦の大詔渙発」は結構長い。その冒頭は次のようなもの。
「天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ、昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス。朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス。朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ、朕カ百僚有司ハ勵?職務ヲ奉行シ、朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ、億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ」(原文に句読点はない)
天皇が勝手に戦争を始めたのだ。「もう戦争を始めちゃったから、みんながんばれよ」という、上から目線の代物。そのおかげで、東京も、沖縄も、広島も長崎も、日本中の国民がたいへんな被害にあった。戦争を仕掛けられた相手国にもこの上ない惨禍をもたらし、何百万人もの犠牲者を出したのだ。
大詔渙発とは、国内外に惨劇をもたらした償いようもない重大な責任をともなう天皇の過誤。ところが、古賀はまったくあの戦争を反省していないのだ。歴史に学ぶところのない、典型的な歴史修正主義者。
その古賀が、本年(2017年)3月2日の東京都議会本会議において、工藤美代子著「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」を論拠に、朝鮮人犠牲者の数がこんなに多いはずはないとして、次のように知事に質問した。
○都内墨田区に所在する東京都立横網町公園に建つ朝鮮人犠牲者追悼碑などの問題について質問を行います。
本年は、十万人余が犠牲となった大正十二年の関東大震災から九十四年になります。この震災の混乱の中での不幸な事件により生じたのが、朝鮮人犠牲者であります。
横網町公園内に朝鮮人犠牲者を追悼する施設を設けることに、もとより異論はありませんが、そこに事実に反する一方的な政治的主張と文言を刻むことは、むしろ日本及び日本人に対する主権及び人権侵害が生じる可能性があり、今日的に表現すれば、ヘイトスピーチであって、到底容認できるものではありません。
追悼碑には、誤った策動と流言飛語のため六千余名に上る朝鮮人がとうとい生命を奪われましたと記されています。この碑は、昭和四十八年、共産党の美濃部都知事時代に、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会が建てて、東京都に寄附したものでありますから、現在、碑文については東京都に全責任があります。
本来は、当時、都が受領に際し、六千余名、あるいは流言飛語などの表記、主張に対しては、公的資料などによる根拠を求めるべきでありましたが、何せ共産党を中核とする革新都政でありましたから、相手のいうがままであったと思われます。
私は、小池知事にぜひ目を通してほしい本があります。ノンフィクション作家の工藤美代子さんの「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」であります。工藤さんは、警察、消防、公的機関に保管されている資料を詳細に調べ、震災での死者、行方不明者は二千七百人、そのうち不法行為を働いた朝鮮独立運動家と、彼らに扇動されて追従したために殺害されたと思われる朝鮮人は約八百人、また、過剰防衛により誤って殺害されたと考えられている朝鮮人は二百三十三人だと調べ上げています。この書籍は「SAPIO」に連載され、現在、産経新聞から単行本として出版されています。
(略)
流言飛語に関しても、当時の我が国の治安状況を知るべきであり、震災の四年前に朝鮮半島で勃発した三・一独立運動に関与した朝鮮人活動家が多数日本に来て、ソビエトや日本人無政府主義者の支援を受けて頻繁に事件を起こしていたことは、現存する当時の新聞記事からも確認できるのであります。
また、彼らは、当時皇太子殿下であった後の昭和天皇のご成婚に合わせての危害行動を準備していました。そのほか、現に震災に乗じて凶悪犯罪が引き起こされたことは、具体的に事件としてたくさん報道されています。
こうした世相と治安状況の中で、日本人自警団が過敏になり、無関係の朝鮮人まで巻き添えになって殺害された旨の文言こそ、公平、中立な立場を保つべき東京都の姿勢ではないでしょうか。
(略)
歴史の事実と異なる数字や記述を東京都の公共施設に設置、展示すべきではなく、撤去を含む改善策を講ずるべきと考えますが、知事の所見を伺います。
また、小池知事は、昨年九月一日、同公園で行われた日朝協会が事務局を務める関東大震災犠牲者追悼式典に追悼の辞を寄せています。当組織の案内状には、六千余名、虐殺の文言があります。東京都を代表する知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、今後は追悼の辞の発信を再考すべきと考えますが、所見を伺います。
(以下略)
古賀の追悼行事攻撃は、右翼ジャーナリストとして知られる工藤美代子本を援用して、朝鮮人虐殺犠牲者の数を過小に見積もり、否定し得ないところは、「それなりの理由があった」とするものなのだ。南京大虐殺は正確な犠牲者数が分からないのだからなかったも同然という論法に酷似している。
ネット上で、この工藤美代子本を検証するサイトが充実している。
その筆頭に挙げるべきが、《「朝鮮人虐殺はなかった」はなぜデタラメか一関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する―》という下記URL。
http://01sep1923.tokyo/
「20分でわかる『虐殺否定論』のウソ」や、「虐殺問題関連資料庫」に掲載の、黒澤明や清川虹子の生々しくも貴重な証言をぜひお読みいただきたい。リンク先も充実している。
中に、「工藤美代子/加藤康男『虐殺否定』本を検証する」というページがある。下記ブログを引用するページ。
http://kudokenshou.blogspot.jp/
「このブログは、工藤美代子/加藤康男による『関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定する本』を検証するために、『民族差別への抗議行動・知らせ隊+チーム1923』が作成するものです。」とされているが、具体的で説得力がある。
朝鮮人虐殺を否定する怪しげな工藤美代子本を手にかざして、小池百合子に対して、朝鮮人虐殺への追悼文は送るなと働きかけたのが右翼古賀。。小池百合子の耳は、右側の耳だけがとてもよく聞こえるようである。工藤や古賀の言には、聞き分けがよいのだ。
どう考えてもおかしい。納得しがたい。
(2017年8月27日)
8月が終わりに近い。毎年この時期になると、し残したことのあるような、忘れ物があるような、なんとなく焦りにも似た気持になる。当ブログも、8月のうちに言っておくべきことを言い尽くせていない。
何を素材にすれば、言い残した語るべきことを語れるか。典型右翼の言論に対置する反論の形式が分かり易い。そのような観点で素材を探してみたが、適切なものが見つからない。結局、神社新報(神社本庁の準機関紙)の論説に落ちついた。8月21日付「終戦記念日 英霊への感謝と自戒を常に」と表題するものである。
同論説は、表題のとおり、「終戦記念日に際して、(1) 英霊への感謝と、(2) 英霊に恥じぬ自戒」とを呼びかけるもの。しかし、もちろんそれだけのものではない。そして、戦争観、戦没者観がよく出ている。
論説は、4個のパラグラフから成っている。必ずしも、各パラグラフが論理的に連関しているというわけではない。その意味で、出来のよい論説とは言いがたい。
○第1パラグラフは、戦没者の慰霊や追悼のあり方を述べる。
「『戦没者を追悼し平和を祈念する日』である八月十五日、今年も靖國神社をはじめ全国の護国神社には多くの人々が参拝し
て英霊に感謝を申し上げ、東京・日本武道館では天皇・皇后両陛下御臨席のもとに、政府主催の「全国戦没者追悼式」が執りおこなはれた。
戦後七十二年を経過し、戦争の記憶を持つ人々が減っていく中にあっても、国を護るために遠く戦地に赴き、もしくは戦禍によって命を落とされた方々に思ひを馳せようとする心は綿々と受け継がれてをり、靖國神社・護国神社で社頭に額づき、また両陛下の黙祷に合はせて御霊の安らかなることを祈ってゐる。
先の大戦のことを思ひ、慰霊の誠を捧げることはごく自然におこなはれ、数多くの人々がそれを当然のことと理解してゐるが、残念ながらさうした雰囲気に反する行動も見られる。六月の「沖縄全戦没者追悼式」における野次や罵声なども含め、慰霊や追悼といふ厳粛であるべき場において、相応しくない行為に及ぶ人たちに対しては、ぜひともその再考を促したい。」
8月15日、国民が追悼した対象が、「国を護るために遠く戦地に赴き、もしくは戦禍によって命を落とされた方々」と表現されている。これは天皇(明仁)の戦没者追悼式での式辞からの転用だが、「(国を護るために)遠く戦地に赴いた」のは、帝国主義的侵略戦争に駆り出されたということだ。けっして自国を守るために、国土への侵入者と戦ったものではない。にもかかわらず、被侵略国の被害者に対する謝罪も反省も、追悼の言葉すらもない。これが宗教者の言だろうか。
また、本当に、「先の大戦のことを思ひ、慰霊の誠を捧げることはごく自然におこなはれ、数多くの人々がそれを当然のことと理解してゐる」だろうか。死を悼み、死者を回想してその人を偲び、その死を悼んで追悼すること自体は自然におこなわれていることだろう。しかし、ここで論じられているのは、戦争犠牲者一般の死を追悼することではない。皇軍兵士の戦没者だけを特別に「英霊」(優れた霊魂)と称して、これに「慰霊の誠を捧げる」と顕彰するのだ。死んだ兵士に、「あなたは立派だった」「あなたは優れた行いをした」と称賛しているのだ。こうして、侵略戦争の性格や戦争責任の所在は切り捨てられる。靖國神社や護国神社への参拝は、そのようなことさらの意図をもった、特殊な戦死者への接し方なのだ。
なお、慰霊や追悼が厳粛であるべきことは論を待たない。しかし、厳粛な問題であればこそ、死者の政治的利用は許されない。慰霊や追悼に名を借りた、現政権の9条改憲策動への靖国神社利用を許してはならないのだ。
○第2パラグラフは、信教の自由援用の問題である。
「もとより、自らの信仰から英霊祭祀に異議を唱へる人々に対しては、信仰の営みの観点から我々が信ずる英霊祭祀のあり方を示し、そこに存する我々の意志を地道かつ明確に示していくことが必要であるだらう。
しかし、この慰霊の日にあたり、ややもすれば反対することが目的化したやうな集会なども開かれ、例へば「平和安全法制」や「共謀罪」などに関する主張を絡め、または現政権への批判を持ち出して、慰霊とはかけ離れた極めて政局的な事柄を論じるやうな向きも見られる。また一方で、自らの信仰を充分に咀嚼しないまま、英霊祭祀に反対するやうな勢力に対していたづらな反論を試み、混乱に拍車をかけるやうなこともあってはならない。いづれにしても、不毛な論議が雑音のやうに入り乱れ、真摯な祈りを妨碍するやうなことが最も懸念されるところである。」
興味深いのは、「(靖国の)英霊祭祀に異議を唱へる人々」の二分論である。その一として、「自らの信仰」を動機とする一群の人々のあることを認めている。戦没者、あるいはその遺族が、自らの信仰から英霊祭祀に異議を唱えることに対しては、必ずしも感情的な反発をしていない。神社側の信仰の営みとして神社側が信ずる英霊祭祀の意志を地道に示していくしかないという。「あなたたちと私たちの、それぞれの信仰の衝突なのだ。ここは、私たち流を貫かせていただく」という姿勢。
「英霊祭祀に異議を唱へる人々」の別の一群とは、「慰霊とはかけ離れた極めて政局的な事柄を論じるやうな向き」である。神社側は「真摯な祈り」を捧げており、これに政治的な立場から異を唱えることは、「真摯な祈り」の妨害と位置づけられている。
しかし、戦没兵士の死をことさらに美化し、特別の意味づけを行っているのは、(靖国)神社側である。戦争や兵士の死の真実を明らかにし、その死の意味を明らかにする議論は、同じ過ちを繰り返さないために、避けて通ることはできないのだ。これを「真摯な祈り」の妨害として議論を封じることは、結局は戦争と戦死の美化論につながらざるを得ない。
○第3パラグラフは、8月15日の意味づけを中心とした叙述。さしたる論争点はない。
「いふまでもなく八月十五日は、「大東亜戦争終結ニ関スル詔書」の玉音放送があり、終戦の象徴的な日となってゐる。終戦の日としては、ポツダム宣言を受諾した八月十四日や、ポツダム宣言に基づく降伏文書の調印日である九月二日、またはサンフランシスコ講和条約発効日の四月二十八日など、いくつかが挙げられようが、やはり昭和天皇が御親らポツダム宣言受諾の旨を国民に示された八月十五日が似つかはしく、加へて月遅れの盆と重なることで、さうした意味合ひが強くなってゐる感がある。
盆行事は本来旧暦の七月十五日だが、太陽暦採用にあたって月遅れの行事が八月十五日におこなはれるやうになり、各家庭では祖霊を迎へたり墓参りをしたりと、さまざまな行事がおこなはれる。それゆゑに多くの人々が休暇を取って帰省することになり、東京都心は正月に人々が帰省したときのやうな、ある意味で独得な静けさにも包まれる。さうした都会の中で「全国戦没者追悼式」が執りおこなはれ、隣接する靖國神社では、ほぼ終日に亙って降り続いた雨に濡れることも厭はず、神前で真摯に祈りを捧げる人々が列をなしてゐた。」
○第4パラグラフでは、神社流の慰霊のあり方の肯定を強く押し出している。
「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営みには、もちろん戦争の惨禍に思ひを馳せ、平和を誓ふ祈りが含まれることは当然であり、決して好戦的なものではない。平和を護ることを常に意識し、挑撥をくり返す周辺国に対して充分な備へをおこなひ、また友好国との連携に努めることも当たり前のことである。ただ闇雲に「平和」の言葉を唱へるだけでは、決して真の平和は護れない。歴史と現実を直視し、時に毅然たる態度を執らねばならないことはいふまでもない。
また八月十五日の祈りを捧げるとき、平素の自らの行為についても充分に考へる必要があらう。果たして今の自らが英霊に恥ぢないやうな生活を送り、浄明正直といふ言葉に反してゐないかといふことも含め、常に自戒の念を持つ必要性を指摘したい。
八月十五日といふ節目の日に際し、英霊が護らうとしたこの日本において日々の生活を送れてゐることへの感謝の念を持ち、また内外の情勢への的確なる対応を常に考へ、そして、現今の平和な世の中を後世に伝へるためにも、改めて祈りを捧げるものである。
平成二十九年八月二十一日」
「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営み」という表現が曲者である。兵士の戦死を、意味のない無駄死にだったとは国民感情において口にしにくい。とりわけ、遺族の面前では。そこで、立派な目的をもった戦争で、国のために立派な死を遂げたと、死が美化されることになる。戦死の美化は、必然的に戦争目的の美化をともなう。国の膨張政策や軍国主義までカムフラージュされる。そして、戦った敵国は、邪悪で卑劣な国でなくてはならない。このようにして、英霊への感謝と顕彰は、戦争に対する反省をないがしろにし、次の戦争の準備に利用されることになる。
しかし今の国民感情を考慮するとき、平和の大切さに言及せざるを得ない。論説は、微妙な言い回しで、「慰霊と顕彰の誠を捧げる営みには、もちろん戦争の惨禍に思ひを馳せ、平和を誓ふ祈りが含まれることは当然」という。どうして「もちろん」なのかは了解しがたい。「戦没者の慰霊と顕彰」は、軍事的行為として過去の戦争の肯定そのものではないか。好戦的なものといって差し支えない。
さらには、「平和を護ることを常に意識し、挑撥をくり返す周辺国に対して充分な備へをおこなひ、また友好国との連携に努めることも当たり前のことである。」という。ここに述べられていることは、英霊の名を借りての「中国・北朝鮮に対する軍事的防備の増強」と、「アメリカとの軍事同盟強化」のアピールである。英霊に名を借りた、好戦的防衛政策の鼓吹にほかならない。
そして、神社イデオロギーのホンネが出てくる。
「ただ闇雲に『平和』の言葉を唱へるだけでは、決して真の平和は護れない。歴史と現実を直視し、時に毅然たる態度を執らねばならないことはいふまでもない。」
ここに、「平和」と「真の平和」のダブルスタンダードが語られている。ここでの「真の平和」は、安倍晋三のいう「積極的平和主義」に酷似する。平時から軍備を調え、必要なときには毅然として軍事力を行使せよ、というのだ。それが、「英霊に感謝を申し上げ、慰霊と顕彰の誠を捧げる営み」の意味するところとして、言及されているのだ。「靖国派」の面目躍如ではないか。
もちろん、平和を実現するためには、「ただ闇雲に『平和』の言葉を唱へるだけ」ではたりない。「歴史と現実を直視する」ことを通じて、徹底した靖国派との論争が必要である。そして、あらゆる国との間で核廃絶や軍縮に「毅然たる態度」を執り、紛争のタネをなくするために国際協調の「的確なる対応」を考えなければならない。
(2017年8月26日)
本日の毎日新聞・万能川柳欄に、このきつ?い一句。
アベを見て性善説に疑問湧く 宝塚・忠公(招待席)
安倍晋三が、歴史修正主義者であり、好戦的性格であり、さらには嘘つきで徹底したジコチュウ派であることは、この間天下周知の事実となった。それにしても、「性善説に疑問湧く」とは痛烈極まりない。
アベだけではない。実は小池百合子も同断なのだ。小池百合子の行為を見ても、人の性は本来善なりとの説に疑問が湧く。その邪悪な行為の一つが、本日報道されている。
東京新聞が今朝(8月24日)の朝刊で抜いた。他紙も続いて、これを追った。東京の見出しは、「関東大震災の朝鮮人虐殺 小池都知事が追悼文断る」。心配していたことが現実になった。衝撃は大きい。が、これでようやく小池百合子の本性が国民の目に露わになってきた。「都民ファースト」ではない。「大日本帝国ファースト」であり、「日本民族ファースト」なのだ。
都立横網町公園は、関東大震災で多くの焼死者を出したことで知られる陸軍被服廠跡地だったところ。ここに、関東大震災と東京大空襲被災者の慰霊堂が建っている。その同じ公園の一角に、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」がある。そこには、次の碑文が刻されている。
「この歴史
永遠に忘れず
在日朝鮮人と固く
手を握り
日朝親善
アジア平和を
打ちたてん
藤森成吉」
この追悼碑は建立実行委員会の東京都への強い働きかけで墨田区横網の都立公園に建てられたもの。追悼碑建立の経過が次のとおり、書かれている。
「1923年9月に発生した関東大震災の混乱のなかであやまった策動と流言蜚語のため6千余名にのぽる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を知ることは不幸な歴史をくりかえさず民族差別を無くし人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。思想・信条の相違を越えてこの碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
? 1973年9月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立実行委員会」
毎年9月1日には、この碑の前で、朝鮮人犠牲者追悼式が行われる。民間の実行委員会が主催するもの。日朝協会東京都連が中心になっている。この主催者の要請に応じて、歴代知事が追悼文を寄せてきた。石原慎太郎も、猪瀬直樹も、舛添要一もである。昨年は小池百合子も追悼文を寄せた。まさしく日本人の良心の行為には、行政も応えざるを得なかったのだ。それを、小池百合子は、今年から意識的に方針転換して追悼文を送らないという。
昨年寄せられた都知事の追悼文は、「多くの在日朝鮮人の方々が、言われのない被害を受け、犠牲になられたという事件は、わが国の歴史の中でもまれに見る、誠に痛ましい出来事」などというものだという。このくらいのことが、今年もどうして言えないのだろうか。一人の人間として、加害者たる日本人の一員として、心が痛まないのだろうか。人の性は本来善ではなかったのだろうか。
関東大震災後の朝鮮人虐殺の全貌は、吉村昭『関東大震災』(菊池寛賞受賞作・文春文庫)と姜徳相『関東大震災』(中公新書)の2冊に詳しい。混乱の中で、多くの朝鮮人が文字通り虐殺されたのだ。中国人も犠牲になっている。虐殺したのは、日本人住民である。特殊な人たちではない。ごく普通の人々が、自警団を作って、刃物や竹槍などの武器を持ち寄って、朝鮮人狩と虐殺に狂奔したのだ。恐るべき蛮行というほかはない。
30年ほど以前のこと、私はカンボジアを訪れた。そこで、クメールルージュが革命の美名のもとに行った残虐の数々の現場を見てきた。不愉快な体験ではあったが、冷静にものを見、聞くことができた。あくまで他人の国のできごとだったのだから。
その直後に私は旧満州に旅して、731部隊の跡地や、平頂山事件の現場などを見た。覚悟はしていたつもりだったが、そのときの衝撃は大きかった。とうてい平穏ではいられない。日本人がこの残虐な蛮行を行ったのだから。そして、私の父親も関東軍の下士官だったから。幸い、私の父は、ソ満国境の警備だけで帰国したが、配属次第ではこのような残虐行為に関わったかも知れない。
関東大震災時の朝鮮人虐殺は、戦争中のことではない。国外のできごとでもない。普通の日本人が、自分の暮らしの場所で、突然に殺人鬼になったのだ。侵略戦争も、植民地支配も忘れてはならないことだが、震災後の朝鮮人虐殺は、もっと異質の恐怖の民族的体験である。けっして、この事件から目をそらしてはならない。加害者としての自覚を忘れてはならない。
私が子供だった時代。大人たちには暗黙の秘密があった。公然と語られることはなかったが、男の大人たちは戦地で「悪いこと」をしてきたのだ。それを隠して暮らしている、そんな漠然とした空気を感じていた。
おそらく、関東大震災時の朝鮮人虐殺も、同じだったろう。誰もがみんな忌むべきできごととして知っていたことなのだ。しかし、思い出したくないし、触れられたくないこととして、蓋をされてきた秘密だったのだ。
見たくない歴史には蓋を。汚れた歴史は美化を。これが歴史修正主義というものだ。小池百合子とは、その実践者なのだ。日本人のした蛮行を事実のとおりに見つめようという良心の行為に背を向け、水をかけようというのだ。
この小池の方針転換のきっかけは、今年三月の都議会一般質問での、古賀俊昭の質問である。古賀は、極右として知られている人物。これが、前記の追悼碑の碑文にある犠牲者数「六千余名」という数を「根拠が希薄」と攻撃した。
これに対する小池百合子答弁は以下のとおりである。
○知事(小池百合子君) 古賀俊昭議員の一般質問にお答えを申し上げます。
? まず、都立横網町公園におけます関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑についてのご質問でございます。
? この追悼碑は、ご指摘のように、昭和四十八年、民間の団体が資金を募集し、作成したものを受け入れる形で、犠牲者の追悼を目的に設置したものと聞いております。
? 大震災の際に、大きな混乱の中で犠牲者が出たことは、大変不幸な出来事でございます。そして、追悼碑にある犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知はいたしております。
? 都政におけますこれまでの経緯なども踏まえて、適切に対応したいと考えます。
? そして、この追悼文についてでありますけれども、これまで毎年、慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方において、例に従って送付したとの報告を受けております。
? 今後につきましては、私自身がよく目を通した上で、適切に判断をいたします。
「適切な判断」が、追悼文送付はすべてやめる、ということなのだ。なお、都側は犠牲者数について「六千人が正しいのか、正しくないのか特定できないというのが都の立場」としている(東京新聞)。
もちろん、犠牲者数については諸説ある。その吟味については、姜徳相『関東大震災』に詳しい。なぜ諸説が生じたか。行政が調査をしなかったから、というのは不正確。行政が調査を徹底して妨害したからなのだ。関東全域での犠牲者数を6000余とするその根拠や各地の内訳一覧表が同書の巻末に掲載されている。
南京事件も同様だ。「犠牲者数の厳密な証明ができない以上はすべてが捏造」という「ロジック」。実は日本人のした残虐行為や民族差別を覆い隠したいのだ。
知事よ。小池百合子よ。心あらば、90年前に異国の地で虐殺された隣国の民衆の慟哭を聞け。これを追悼しようという、日本人の良心の行為に応えよ。
(2017年8月24日)
8月15日。国民の感覚では、72年前の本日に15年続いた戦争が終わった。戦争に「負けた」ことの不安や悔しさもあったろうが、戦争が「終わった」ことへの安堵感が強かったのではないか。これ以上の戦争被害はひとまずなくなった。空襲の恐怖も、灯火管制もこの日で終わった。非常時に区切りがついて、ようやくにして日常が戻ってきた日。
法的には、8月14日がポツダム宣言受諾による降伏の日だ。そして、降伏文書の調印は9月2日。しかし、多くの国民が戦争の終結を意識したのは8月15日だった。
この日の正午、NHKが天皇の「終戦の詔書」を放送している。1941年12月8日早朝の「大本営発表」からこの終戦の日まで、終始NHKは太平洋戦争遂行の道具であり続けた。天皇や軍部に利用されたというだけではない。国民に対する煽動と誤導への積極的共犯となった。
ところで、この「玉音放送」の文章は、官製悪文の典型という以外にない。こんなものを聞かされて、「爾臣民」諸君の初見の耳に理解できたはずはない。持って回った、空虚な尊大さと仰々しさだけが印象に残るすこぶる付きの迷文であり駄文というべきだろう。ビジネス文書としてこんな文章を起案したら、上司にどやされる。
あのとき、天皇はまずこう言わねばならなかった。
「国民の皆様に、厳粛にお伝えいたします。昨日、日本政府はアメリカ・イギリス・中国・ソ連連名の無条件降伏勧告書(ポツダム宣言)に対する受諾を通告して、無条件降伏いたしました。戦争は日本の敗北で終わったのです。」
そして、こうも付け加えなければならなかったろう。
「戦争を始めたのは、天皇である私と、政府と軍部です。戦争で大儲けした財閥はともかく、一般国民の皆様が戦争責任の追及を受けるおそれはありません」
「天皇である私と政府は、何千万人もの外国人と、何百人もの日本国民の戦没者に対して、戦争をひき起こした者としての責任を痛感しております。誠実に戦後処理を行ったあとは、命をもってもその責任をとる所存であります」
「私の名による戦争を引き起こして、取り返しのつかない事態を招いたことを、幾重にもお詫びもうしあげます。そして、国民の皆様に日本の復興に力を尽くしていただくよう、よろしくお願いいたします。」
72年後の本日。戦争責任を引き受けることのないまま亡くなった当時の天皇の長男が、現天皇として全国戦没者追悼式で式辞を述べた。そのなかに次の一節がある。
「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対して、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります。」
「深い反省」の言葉があることに注目せざるを得ない。同じ場での安倍晋三の式辞には、反省も責任もないのだから、十分に評価に値する。また、憲法前文のフレーズを引用して、「今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことをせつに願い」と言っていることにも、同様である。
なお、天皇の式辞のなかに宗教的な臭みのある用語のないことに留意すべきだろう。この点は、よく考えられていると思う。これに比して、安倍の式辞には、御霊(みたま)が3度繰り返されている。「御霊(みたま)の御前(みまえ)にあって、御霊(みたま)安かれと、心より、お祈り申し上げます。」という調子。靖国神社参拝と間違っているのではないか。非常に耳障りであるし、意識的な批判が必要だと思う。
さて、天皇の「深い反省」について考えてみなければならない。誰が、誰に、何を反省しているのか、である。
まず、反省の主体は誰なのだろうか。天皇個人なのだろうか。天皇が象徴する日本国民なのだろうか。あるいは、戦争当時の天皇(裕仁)を代理しているのだろうか。それとも、抽象的な日本国の漠然たる反省だということなのだろうか。
また、「深い反省」を語りかけている相手は、軍人軍属の戦没者だけなのだろうか。「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」という表現は、原爆や空襲被害者も含まれているのだろうか。また、日本人戦没者だけなのだろうか。被侵略国の犠牲者ははいっているのだろうか。戦没者以外の傷病者はどうなのだろうか。
さらに、いったい何をどう反省しているのだろうか。まさか、負けるような戦争をしたことではあるまい。戦争をしたこと自体であろうし、戦争するような国を作ったことなのだろう。「反省」には責任がともなうことは自覚されているだろうか。どのように責任をとるべき考えているのだろうか。
巨大な惨禍をもたらした戦争の反省のあり方が、一億総懺悔であってはならない。
まず、統治権の総覧者であり宗教的権威をもって戦争を唱導した天皇に最大の戦争責任があることは論を待たない。そして、天皇を御輿に担いで軍国主義国家を作って侵略戦争と植民地支配に狂奔した政治支配層の責任は明確であろう。これに加担したNHKや各紙の責任も大きい。そして、少なからぬ国民が、八紘一宇や大東亜建設、五族協和などのスローガンに浮かれて戦争に協力し、戦争加害国を作りあげたことの責任と反省も忘れてはならない。
国民それぞれが、それぞれことなる質と量との責任を負っていることを確認すべきなのだ。一般国民は、天皇や軍閥との関係では被害者であり、近隣諸国との関係では加害国の一員としての立場にある。
そして思う。今、私たちは、再びの戦前の過ちを繰り返してはならないことを。言論の自由を錆びつかせてはならない。好戦的な政府の姿勢や、歴史修正主義の批判に躊躇があってはならない。附和雷同して、国益追求などのスローガンに踊らされてはならない。近隣諸国への差別的言動を許してはならない。平和憲法「改正」必要の煽動に乗じられてはならない。
かつての臣民に戻ることを拒否しよう。主権者としての矜持をもって、権力を持つ者にも、権威あるとされる者にも、操られることを拒否しよう。平和を擁護するために。
8月15日、あらためての決意である。
(2017年8月15日・連続第1598回)
重慶大爆撃訴訟(現在、東京高裁係属中)を支える「弁護団」と「連帯する会」が発行している『重慶大爆撃 会報』が40号となった。訴訟の進行は困難な局面に差し掛かっているが、この訴訟は大きな問題提起をなし得ている。
戦後日本は、旧日本軍(皇軍)による中国への侵略と加害の歴史に正面から向き合ってこなかった。戦後72年を経てなお加害についての真摯な謝罪と反省はなく、両者の和解は成立していない。この訴訟と、日中両国にまたがるこの訴訟を支える運動とは、究極の和解を目指すものと言えよう。
この会報40号に、「靖国神社と靖国神社参拝の本質について」と題する張剣波さん(早稲田大学講師・政治学博士)の講演録が掲載されている。被害者の側から日中両国民の和解の必要が語られていて、紹介に値するものと思う。
氏は、日中両国民間の和解の必要について、大意こう語っている。(なお、以下の紹介文は、文意を変えない程度に、澤藤が要約したもの)
「和解は不可欠なのです。和解がないと、心のわだかまりは残ります。そもそもそれは、正義に反します。政治的政策的な動機で田中角栄が中国を訪問して、日中国交正常化以降、一時期日中友好の時代もありました。でも結局、それが非常に脆いものだったのです。歴史問題が障害になって日中友好の時代はあっという間に過ぎ去ってしまいました。
和解というプロセスがないと、戦争につながるという懸念が残ります。日本が再び戦争への道を走る。その危険性は、今も全くないとは言えない。多くの人が心配するところです。しかし、私は元侵略者が再び侵略戦争をやるという可能性以上に、侵略された側が強く大きくなって復讐のために何かをやる、その方を私は心配するのです。そんなことのないように、やはり和解という問題は重要なのです。」
その上で、氏は和解の障害としての靖國神社の存在について語っている。靖国を語ることは、日本軍の戦没兵士の功罪を語ることであり、中国での戦争の性格を語ることでもある。当然のことではあるが、被害側の氏の言葉は、私たちにとって重く、しかも鋭い。
「歴史問題を語る時に、日本軍の戦没者の性格は、中国からみると極めて簡単な問題ですけれども、日本の中では、これは非常に難しく微妙な問題になっているのです。私が日本に来たばかりのときに、大学でお世話になった日本人の先生が仰ったことを今でも鮮明に覚えています。『あなたの家族や親戚の人が戦死していたとしたら、それでもあなたは家族の死をもたらしたその戦争を間違った戦争だった、と言えるだろうか』というのです。なるほど、日本の普通の庶民は、やはりそういう風に思うのだ、こんな偉い先生でもそう思うのだ、ずっと頭の中に、その話が残っている。これは、戦死者、戦没者の性格について私が考える一つのきっかけにもなりました。
中国の一般民衆からすれば、日本による戦争の侵略性と犯罪性は明らかで、侵略と犯罪に加担した日本軍の兵士の罪は戦死しても消えない。ところが、侵略戦争と犯罪に加担した日本軍の軍人がその罪を背負ったまま靖国神社に祀られている。神として、英霊として。
重慶空爆を行って中国軍に撃ち落とされた兵も、731部隊で人道に悖る行為をした将兵も、靖国神社に祀られています。彼らは、紛れもなく侵略者であり犯罪者です。これを祀る靖国神社というのは、侵略戦争を支える軍事的な施設であり、侵略の道具でした。
侵略された側から見た場合、日本軍の戦没兵士は侵略者であり犯罪者であって、彼らを多角的に理解しなければならない理由はありません。靖国神社は、このような侵略者、犯罪者を、英霊として、神として祀っている。これは、全く正当性を持だない。反正義であり、反人類である。そのような施設を参拝することは、なおさら正義に反する。参拝してはならない。
このような前提にたって、靖国神社あるいは靖国神社参拝を考えれば、靖国神社の存在がある限り和解は困難です。侵略戦争に加担して死亡した者を美化する施設はあってはならない。まして、そのような施設を参拝するということは、絶対にあってはならない。和解の妨げになります。
保守系の議論の中で靖国神社参拝問題が政治問題になるのはA級戦犯分祀ということが争点になります。A級戦犯を靖国から分祀すればこの問題は終わるから、外国の首脳にも靖国神社を参拝させる、日本の政治家も堂々と参拝しても良いと。そのような主張が結構あるのです。しかしそうあってはならないのです。決してA級戦犯だけの問題ではない。A級戦犯をそこから出したからもう参拝しても良い、ということにはならないのです。」
靖国神社問題の最もやっかいなところは、戦没者遺族の心情を神社側が絡めとっているところにある。靖国の英霊とは、客観的には侵略戦争の尖兵である。被害国から見ての侵略者であり犯罪者である。しかし、「自分の親が戦死していたとしたら、その親を侵略者であり犯罪者と呼べるだろうか」「自分の子の死をもたらしたその戦争を間違った侵略戦争だったと言えるだろうか」という問は、受けとめるのにあまりに重たい。
靖国神社は、家族の死をこの上なく美化し意味あらしめてくれる。戦没者遺族にとって、これ以上ない慰藉の場なのだ。しかし、同時にその慰謝は天皇が唱導した侵略戦争への無批判な賛美につながる。
そうあってはならない。本来遺族は、大切な家族を兵士とし無惨な死へと追いやった、国の責任をこそ追及すべきなのだ。まさしくこれこそが歴史認識の根幹に関わる問題。あまりに重いが、いかに重くとも歴史の真実は真実として受けとめなければならない。被害を受けた側の怒りや嘆きは、比較にならぬほどに大きく深刻なのだから。
(2017年7月17日)
両国駅にほど近い墨田区横網に、横網町公園がある。関東大震災(1922年)の頃は陸軍被服廠跡地として空き地であったが、震災に伴う火災でここに避難した3万8000人が焼け死んだ傷ましい大災害の現場として記憶されている。
今は、公益財団法人東京都慰霊協会が管理する東京都慰霊堂や復興記念館がある。震災・戦災の犠牲者追悼の場となっているのだ。
その公園の一角に、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」がある。
横網町公園を管理する公益財団法人東京都慰霊協会は、この碑を「関東大震災時の混乱のなかで、あやまった策動と流言ひ語により尊い命を奪われた多くの朝鮮人を追悼し、二度とこのような不幸な歴史を繰り返さないことを願い、震災50周年を記念して昭和48年(1973)に「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼行事実行委員会」により立てられた碑です。」と紹介している。
追悼碑には
次の碑文が刻されている。
「この歴史
永遠に忘れず
在日朝鮮人と固く
手を握り
日朝親善
アジア平和を
打ちたてん
藤森成吉」
また、追悼碑建立の経過が次のとおり、書かれている。
「1923年9月に発生した関東大震災の混乱のなかであやまった策動と流言蜚語のため6千余名にのぽる朝鮮人が尊い生命を奪われました。私たちは、震災50周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。この事件の真実を知ることは不幸な歴史をくりかえさず民族差別を無くし人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。思想・信条の相違を越えてこの碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
1973年9月 関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑建立実行委員会」
毎年9月1日に、この碑の前で関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典が行われる。日朝協会都連が事務局を務めてのもの。これに都知事からの追悼の辞の奉呈が慣例となっている。私も、昨年は参列した。今年も参加したいと思っている。
日本の植民地支配は歴史の汚点として率直に認め謝罪すべきが当然である。関東大震災時の軍民による朝鮮人に対する虐殺行為は、とりわけ恥ずべき歴史の1ページであるが、この事実を覆い隠そうとすることはさらに恥ずべき行為となる。まずは事実を知ることが繰り返さない第一歩。吉村昭『関東大震災』(文春文庫)と姜徳相著『関東大震災』(中公新書)の両書は日本人必読の書である。
右翼レイシストは、このときの自警団という名の日本人民衆が、無辜の朝鮮人(と中国人)に対して行った戦慄すべき残虐行為を認めたくない。その先頭に立っているのが、自民党の都議古賀俊昭。
本年(2017年)3月2日の東京都議会本会議において、古賀は、工藤美代子著「関東大震災 朝鮮人虐殺の真実」を論拠に、朝鮮人犠牲者の数がこんなに多いはずはないとして、次のように知事に質問した。
「小池知事は、昨年九月一日、同公園で行われた日朝協会が事務局を務める関東大震災犠牲者追悼式典に追悼の辞を寄せています。当組織の案内状には、六千余名、虐殺の文言があります。なお、この団体は、昨年は申請したようでありますけれども、過去、公園占用許可申請書を一度も提出することもなく公園を使用していたほか、都立公園条例で行為の制限条項により、改めて知事の許可を必要とする広告宣伝、物品販売を堂々と行っていました。
東京都を代表する知事が歴史をゆがめる行為に加担することになりかねず、今後は追悼の辞の発信を再考すべきと考えますが、所見を伺います。」「歴史の事実と異なる数字を記述した碑を、東京都の公共施設に設置・展示すべきではなく、撤去を含む改善策を講ずるべきと考えますが、知事の所見を伺います。」
これに対する小池の知事答弁は、次のとおり、かなり危ういものである。
「都立横網町公園におけます関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑についてのご質問でございます。この追悼碑は、ご指摘のように、昭和四十八年、民間の団体が資金を募集し、作成したものを受け入れる形で、犠牲者の追悼を目的に設置したものと聞いております。
大震災の際に、大きな混乱の中で犠牲者が出たことは、大変不幸な出来事でございます。そして、追悼碑にある犠牲者数などについては、さまざまなご意見があることも承知はいたしております。
都政におけますこれまでの経緯なども踏まえて、適切に対応したいと考えます。
そして、この追悼文についてでありますけれども、これまで毎年、慣例的に送付してきたものであり、昨年も事務方において、例に従って送付したとの報告を受けております。
今後につきましては、私自身がよく目を通した上で、適切に判断をいたします。」
「私自身がよく目を通して適切に判断」に注目せざるを得ない。これまでの慣例により毎年送付し続けてきた追悼文である。この慣例は、鈴木俊一も、青島幸男も石原慎太郎も、猪瀬直樹も舛添要一も従ってきたもの。
小池は、本来こう言うべきだった。
「犠牲者数についての議論は本質的なものではありません。傷ましい朝鮮人の犠牲があったことは確かなのですから、これを歴史の闇に葬ってはならないとするのが小池都政の基本方針です」。あるいは「これまで永年にわたって都民を代表する立場で継続してきた朝鮮人犠牲者への追悼文です。今さらこれをやめることは、却って大きな逆のメッセージを発信することになります。軽々にやめるわけにはいかないことをご了承ください。」
こう言わない小池答弁には、これまでの慣例見直しのニュアンスを含むものというほかはない。右翼勢力にも秋波を送って追悼文不送付もあり得るとのメッセージ。
いまや、小池百合子の一挙手一投足が問われている。その本質を問い質すとともに、大いに警戒しなければならない。
(2017年7月5日)
本日(4月29日)は、大型連休の初日となる「昭和の日」。昭和天皇と諡(おくりな)された裕仁の誕生日。この人、1901年の生まれで1926年に神様(憲法上は「神聖にして侵すべからず」とされる存在)となった。以来1945年までは、4月29日が「天長節」とされた。46年に人間に復帰し、以来89年に亡くなるまで、この日は「天皇誕生日」であった。その没後、前天皇の誕生日は、「緑の日」となり、次いで2007年から「昭和の日」となって現在に至っている。
祝日法では、「昭和の日」の趣旨を「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」としている。当然に、昭和天皇(裕仁)の存在を意識し念頭に置いた記載である。「激動の日々」とは、天皇制ファシズムと侵略戦争の嵐の時代のこと。「復興を遂げた昭和の時代を顧み」とは、敗戦を機として社会と国家の原理が民主主義へと大転換したことを指し、「国の将来に思いをいたす」とは再びの戦前を繰り返してはならないと決意をすること、である。
いうまでもなく、昭和という時代は1945年8月敗戦の前と後に2分される。戦前は富国強兵を国是とし侵略戦争と植民地支配の軍国主義の時代であった。戦後は一転して、「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」から再出発した、平和憲法に支えられた時代。戦前が臣民すべてに天皇のための滅私奉公が強いられた時代であり、戦後が主権者国民の自由や人権を尊重すべき原則の時代、といってもよい。
「国や社会の将来に思いをいたす」ためには、過去に目を閉ざしてはならない。「昭和の日」とは、なにゆえにあの悲惨な戦争が生じたのか、加害被害の実態はどうだったのか、誰にどのような戦争の責任があるのか、を主権者としてじっくりと考えるべき日。とりわけ、この日には昭和天皇の戦争責任について思いをいたさなければならない。同時に、「戦後レジームからの脱却」などと叫ぶ政権の歴史認識検証の日でもある。
だから、今日(4月29日)は「昭和天皇の戦争?『昭和天皇実録』に 残されたこと・消されたこと」(山田朗・2017年1月27日刊)に目を通し、昭和天皇の戦争責任を再確認した。
同書は、「昭和天皇の戦争指導、戦争を遂行するシステムとしての天皇制に焦点をあて」、戦後期に形成された「天皇平和主義者論」や「情報は天皇に達していなかったとする見方」を拡大再生産している『実録』の記載を検証する労作である。
この書についての岩波の惹句は以下のとおり。
「軍部の独断専行に心を痛めつつ、最後は『聖断』によって日本を破滅の淵から救った平和主義者ー多くの人が昭和天皇に対して抱くイメージは果たして真実だろうか。昭和天皇研究の第一人者が従来の知見と照らし合わせながら、『昭和天皇実録』を読み解き、『大元帥』としてアジア太平洋戦争を指導・推進した天皇の実像を明らかにする」
まさしく、この惹句の通りの内容となっている。
冒頭のかなり長い〈はしがき〉が、「はじめに?『昭和天皇実録』に 残されたこと・消されたこと」と表題され、その中に次の一文がある。
本書の構成と各章のねらいについて説明しておこう。
第?部 「大元帥としての天皇―軍事から見た『昭和天皇実録』の特徴」(第一章・第二章)では、昭和戦前期における天皇と国家戦略・軍事戦略との関係、天皇と国民統合・軍隊統率との関係など様々なファクターを全体的に検討し、第?部「昭和天皇の戦争-j即位から敗戦まで」(第三章〜第六章)では、天皇の戦争指導に焦点をあてて「実録」が何を歴史的記録として残し、何を残さなかった(消去してしまった)のかを検証する。
そして、「終わりに」で、著者はこう語っている。
本書は、『実録』で残されたこと、消されたことという観点から、その叙述の検討をしてきた。
『実録』において軍事・政治・儀式にかかわる天皇の姿が詳細に残されたことは、歴史叙述として大いに評価してよい点であるが、過度に「平和主義者」のイメージを残したこと、戦争・作戦への積極的な取り組みについては一次資料が存在し、それを『実録』編纂者が確認しているにもかかわらず、そのほとんどが消されたことは、大きな問題を残したといえよう。なぜならば、『実録』が発表・刊行された以上、昭和天皇について、あるいは昭和戦前期における天皇制について調べようとする人々は、まず、この公式の伝記に目を通すからである。その際、史料批判の観点を十分に有さない読者にあっては、『実録』によって強い先入観を植え付けられてしまう恐れがある。
『実録』における歴史叙述は、従来の「昭和天皇=平和主義者」のイメージを再編・強化するためのものであり、そのストーリー性を強く打ち出したものである。‥『実録』は、私たちが掘り起こし、継承し、歴史化していかなければならない〈記憶〉を逆説的に教えてくれるテキストであるといえよう。
著者に敬意と謝意とを表したい。
ところで、「天皇誕生日」をキーワードに検索していたら、4年前の当「憲法日記」にぶつかった。少しだけ、バージョンアップしたものにしてその一部を再掲する。
かつて、祝日には学校で、「祝日大祭日唱歌」なるものを歌った。1893(明治26)年8月12日文部省告示によって「小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜」として『祝日大祭日歌詞並楽譜』8編が撰定された。その「第七」が「天長節」という唱歌。その歌詞を読み直すと、当たり前のことだが天皇制と「君が代」とが切っても切れない深い関係にあることが思い知られされる。それにしても、これは聖歌だ。神に捧げる信仰歌を全国民に歌わせていたのだ。臣民根性丸出しの天皇へのへつらいこれに過ぎたるはなく、歌詞を読むだに気恥ずかしくなる。
今日の吉き日は 大君の。
うまれたまひし 吉き日なり。
今日の吉き日は みひかりの。
さし出でたまひし 吉き日なり。
ひかり遍き 君が代を。
いはへ諸人 もろともに。
めぐみ遍き 君が代を。
いはへ諸人 もろともに。
なお、『祝日大祭日歌詞並楽譜』に掲載8編の全部を挙げれば、以下のとおり。
? 第一 君が代
? 第二 勅語奉答
? 第三 一月一日
? 第四 元始祭
? 第五 紀元節
? 第六 神嘗祭
? 第七 天長節
? 第八 新嘗祭
不動の第一は、さすがに「君が代」。あまり知られていないが、第二が今話題の「教育勅語奉答」歌である。その歌詞も紹介しておこう。教育勅語の「核」となるものが天皇賛美と天皇への忠誠であることがよく分かる。こんなものを子どもたちに歌わせていたのだ。気恥ずかしさを通り越して、腹が立つ。天皇制とは、コケオドシと虚飾の押しつけで成り立っていた。まさしく、日本中が塚本幼稚園状態であり、オウム真理教状態だったのだ。なお、この作詞者は旧幕臣の勝海舟だという。
あやに畏き 天皇(すめらぎ)の。
あやに尊き 天皇の。
あやに尊く 畏くも。
下し賜へり 大勅語(おほみこと)。
是ぞめでたき 日の本の。
国の教(をしへ)の 基(もとゐ)なる。
是ぞめでたき 日の本の。
人の教の 鑑(かがみ)なる。
あやに畏き 天皇の。
勅語(みこと)のままに 勤(いそし)みて。
あやに尊き 天皇の。
大御心(おほみこころ)に 答へまつらむ。
なお、現天皇明仁が誕生したとき(1933年12月23日)には「皇太子さまお生まれになった」(作詞北原白秋・作曲中山晋平)という奉祝歌がつくられ唱われた。
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
天皇陛下喜び みんなみんなかしは手
うれしいな母さん 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
皇后陛下お大事に みんなみんな涙で
ありがとお日さま 皇太子さまお生まれなつた
日の出だ日の出に 鳴つた鳴つた ポーオポー
サイレンサイレン ランランチンゴン 夜明けの鐘まで
日本中が大喜び みんなみんな子供が
うれしいなありがと 皇太子さまお生まれなつた
皇位継承者(皇太子)誕生への祝意強制の社会的同調圧力には、背筋が冷たくなるものを感じる。天皇を中心とした「君が代」の時代は、戦争と植民地支配の時代であり、自由のない時代であった。本日、昭和の日は、「君が代」「教育勅語」そして、「皇太子さまお生まれになった。日本中が大喜び。うれしいなありがと」などと唱わされる時代をけっして繰り返してはならない。今日はその決意を刻むべき日である。
(2017年4月29日・連続第1490回)
誰の執筆かを考えることなく、次のブログ記事を虚心にお読みいただきたい。4月6日に、アップされたものだ。
教育勅語の復活?!
4月に入り各学校では新入生が期待と不安を胸に抱き、登校する姿が目立ちはじめた。しかし未だに一連の森友問題は迷路に彷徨ったままである。異常とも言える速さの小学校許認可手続きや、大幅値引きの国有地払い下げ問題を、早期に解明することは言うまでもないが、塚本幼稚園の教育方法の異常さは、さらに深刻である。
園児たちに教育勅語を集団で暗誦させた動画は、とても衝撃的だった。私は以前の投稿で「洗脳」ではないかと述べたが、他の識者からも同様な指摘があった。善悪や価値判断の乏しい幼児に一方的な価値観を植え付けることは、明らかに洗脳である。
その後、ある閣僚からは教育勅語の内容を肯定する発言があり、また、先週末民進党議員の質問主意書に対する政府答弁書でも、「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することは否定しない」と述べているが、私はいささか違和感を覚える。
教育勅語に掲げた徳目として、例えば「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ」などは、いつの時代にも通用する普遍的な価値であろう。しかし勅語は天皇が臣民に与えた性格を持ち、なおかつ「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」などの部分を捉えて、戦前の軍部や官憲による思想統制の道具とされてしまったことは言うまでもない。
だからこそ昭和23年に衆参両院において「排除」「失効確認」したのである。「憲法や教育基本法に反しない形」で教育勅語を教材に使えるのだろうか。またここに述べられている徳目は、数多くの逸話や昔話などの教材によって、既に道徳教育の中に生かされている。ことさら勅語を教材とする理由が見当たらない。
百歩譲って教材に使うとしても、解説なしで使うことは慎むべきである。戦前の軍国主義教育の象徴のように使われてしまったことや、戦後はこの反省によって失効していることをきちんと教えることは、最低限求められる。
もう、ネタバレではあるだろうが、これは自民党代議士のブログ記事。船田元の「はじめのマイオピニオン – my opinion -」というコーナーに掲載されたものだ。まことに真っ当、日本国憲法の精神をよく理解しての文章といってよい。
http://www.funada.org/funadapress/2017/04/06/%e6%95%99%e8%82%b2%e5%8b%85%e8%aa%9e%e3%81%ae%e5%be%a9%e6%b4%bb/
野党議員のものと言っても、ジャーナリストの文章と言っても通用する。自民党内にも真っ当な保守がいる、いや真っ当な保守としての発言を敢えてする人がまだいることにホッとする。アベのごとき真っ当ならざる右翼連中ばかりではないのだ。
もう一度読み直してみよう。
「未だに一連の森友問題は迷路に彷徨ったままである」「異常とも言える速さの小学校許認可手続きや、大幅値引きの国有地払い下げ問題を、早期に解明することは言うまでもない」
森友問題の幕引きを急ぐ政権に対する痛烈な批判。
「塚本幼稚園の教育方法の異常さは、さらに深刻である」
大局的見地からは、ここが最大の問題点だ。「異常」「深刻」が大袈裟でない。
「園児たちに教育勅語を集団で暗誦させた動画は、とても衝撃的だった」「善悪や価値判断の乏しい幼児に一方的な価値観を植え付けることは、明らかに洗脳である」
これが、健全で真っ当な感覚。良識と言ってもよい。あの「洗脳」の場面を見て、涙を流して感動したのが首相夫人で、妻から話を聞いて評価したのが安倍晋三。この夫婦の感覚が不健全で真っ当ならざるものなのだ。塚本幼稚園だけでなく、我が国の首相夫妻が、「異常」なことが「深刻」な問題なのだ。
「ある閣僚からは教育勅語の内容を肯定する発言があり」
名前を出せば、イナダ朋美防衛相、松野博一文科相、そして菅官房長官。その他は、アベの心中を忖度して沈黙することで、勅語肯定発言に同意を与えた。
「先週末民進党議員の質問主意書に対する政府答弁書でも、『憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することは否定しない』と述べているが、私はいささか違和感を覚える」
これが、「自分は自民党議員だが、アベ一統とは、見解を異にする」という見識。
「勅語は天皇が臣民に与えた性格を持ち、なおかつ『一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ』などの部分を捉えて、戦前の軍部や官憲による思想統制の道具とされてしまったことは言うまでもない」「だからこそ昭和23年に衆参両院において『排除』『失効確認』したのである」
おっしゃるとおりだ。
「『憲法や教育基本法に反しない形』で教育勅語を教材に使えるのだろうか」
この一文が、このブログ記事の白眉だ。痛烈な勅語活用肯定派への批判となっている。もちろん、アベ政権の批判にも。
「百歩譲って教材に使うとしても、解説なしで使うことは慎むべきである。戦前の軍国主義教育の象徴のように使われてしまったことや、戦後はこの反省によって失効していることをきちんと教えることは、最低限求められる」
この人は、慶應の教育学専攻修士課程修了とのこと。作新学院の学院長でもある。教育に携わる者としての矜持が滲み出ている。
**************************************************************************
なお、1948年に衆参両院における教育勅語についての『排除』『失効確認』決議を挙げておこう。これが、教育を論じる際のスタンダードなのだ。
教育勅語等排除に関する決議(1948年6月19日衆議院決議)
民主平和国家として世界史的建設途上にあるわが国の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の改新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となっている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、従来の行政上の措置が不十分であったがためである。
思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すものとなる。よって憲法第98条の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。
右決議する。
教育勅語等の失効確認に関する決議 (1948年6月19日参議院本会議)
われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。
しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。
われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。
右決議する。
(2017年4月8日)