澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

すべてのハラスメントを一掃して、個人の尊厳が確立された社会を

個人の尊厳は尊重されねばならない。しかし、現実の社会生活においては、強者があり弱者がある。富める者があり貧しき者がある。生まれながらにして貴しとされる一群があり、人種・民族・門地により差別される人々がある。時として、強者は横暴になり、弱者の尊厳が踏みにじられる。

憲法は「すべて国民は個人として尊重される」(13条)と宣言し、「法の下の平等」(14条)を説く。これは社会に蔓延する、個人の尊厳への蹂躙や差別の言動を許さないとする法の理念の表明というだけではない。その理念を実現するための実効性ある法体系整備の保障をも意味している。個人の尊厳と平等が確立された社会を実現するには、憲法13条や14条をツールとして使いこなさねばならない。

その具体的な手法の一つとして、社会は「ハラスメント(Harassment)」という概念をつくり出した。弱い立場にある者、差別される側からの、人間の尊厳を侵害する行為の告発を正当化し勇気づけるための用語である。言葉が人を励まし行動を促すのだ。

ハラスメントの元祖は、「セクハラ」(セクシャル・ハラスメント)である。弱い立場にある女性の尊厳を傷つける心ない男性側の言動を意味する。ジェンダー・ハラスメントと言ってもよい。強者の弱者に対する不当な人権侵害は糾弾されなければならないとする基本構造がここに示されている。

同じく、職場の上司がその立場を笠に着て、部下に対してする不当な言動は「パワハラ」(パワーハラスメント)となる。企業こそは人間関係の強弱が最もくっきりと表れるところ。取引先ハラスメントも、下請けハラスメントもあるだろうし、古典的には労組活動家ハラスメントも、権利主張にうるさい社員ハラスメントもある。

強者の不当な言動が被害者を精神的に痛めつける側面に着目するときは、「モラハラ」(モラルハラスメント)とされる。セクハラも、パワハラも、モラハラの要素を抜きにはなりたたない。

強者が弱者に対してその尊厳を蹂躙する不当な言動という基本構造から、個別のテーマで無数のハラスメント類型が生じる。

学校を舞台にした校長や管理職から教職員に対する陰湿なイヤガラセは、スクールハラスメント、あるいはキャンパス・ハラスメントとして把握される。部活やクラスのイジメやシゴキも、これに当たる。大学の場でのこととなれば、「アカハラ」(アカデミック・ハラスメント)である。

職場や学園で、「俺の注いだ酒が飲めないと言うのか」「さあ呑め。イッキ、イッキ」という、「アルハラ」(アルコール・ハラスメント)。周囲の迷惑を顧みず、煙を撒き散らす「スモハラ」(スモーク・ハラスメント)。

もっと深刻なのが、「結婚を機に退職するんだろう」「戦力落ちるんだから、職場に迷惑」という「マリッジ・ハラスメント」。そして、最高裁が「妊娠を理由にした降格は男女雇用機会均等法に違反する」と判決してにわかに脚光を浴びることになった「マタニティ・ハラスメント」(マタハラ)である。差別は職場だけでなく家庭生活にもある。DVにまで至らなくとも「ドメステック・ハラスメント」があり、「家事労働ハラスメント」も指摘されている。

それ以外でも、人間関係の強弱あるところにハラスメントは付きものである。医師の患者に対する「ドクハラ」(ドクター・ハラスメント)、弁護士のハラスメントも大いにありうる。聖職者の信者に対する「レリジャス・ハラスメント」もあるだろう。ヘイトスピーチとされているものは、「民族(差別)ハラスメント」「人種(差別)ハラスメント」にほかならない。

安倍政権の福祉切り捨てや労働者使い捨て政策は、国民に対する「アベノハラスメント」(アベハラ)である。本土の沖縄県民に対する居丈高な接し方は、「沖縄ハラスメント」(オキハラ)ではないか。

東京都教育委員会が管轄下の教職員に「ひのきみハラスメント」を継続中なのはよく知られているところ。これとは別に、「テンハラ」という分野がある。「天皇制ハラスメント」である。「畏れ多くも天皇に対する敬意を欠く輩には、断固たる対応をしなければならない」とする公安警察の常軌を逸したやり口をいう。ハラスメントの主体は警察、強者としてこれ以上のものはない。テーマは天皇の神聖性の擁護、民主主義社会にこれほど危険なものはない。典型的には次のような例である。

市民団体「立川自衛隊監視テント村」のメンバーであるAさんは、半年以上にわたって公安刑事の執拗な尾行・嫌がらせを受けた経験がある。その尾行の発端となったのは天皇来訪に対する抗議の意思表示だった。
国民体育大会の競技観戦のためにAさんの近所に天皇夫妻がやって来た。市は広報で市民に「奉送迎」を呼びかけ、大量の日の丸小旗を配布した。このときAさんは、「全ての市民が天皇を歓迎しているわけではない」ことを示そうと、日の丸を振る市民の傍らで、天皇の車に向けて「もう来るな」と書いた小さな布を掲げた。それだけのこと。「憲法で保障された最低限ともいえる意思表示でした」というのがAさんの言。

その数日後から公安刑事の尾行が始まった。尾行は、決まって天皇が皇居を離れてどこかに出かける日に行われた。自宅付近・職場・テント村の活動現場などAさんは行く先々で複数の公安刑事につきまとわれた。刑事は隠れることもなく、Aさんに数メートルまで接近したり、職場のドア越しに大声を出すといった嫌がらせまでしたという。そして、極めつけが「あんなことしたんだからずっとつきまとってやる」というAさんに対する暴言。これが、テンハラだ。

Aさんを支援する立川自衛隊監視テント村や三多摩労働者法律センターは、次のように言っている。
「これまでも、天皇の行く先々で同様のことが行われてきました。国体や全国植樹祭といった天皇行事が行われるたびに、公安警察による嫌がらせや、微罪をでっち上げて逮捕する予防弾圧が繰り返されてきました。『不敬罪』の時代ではありません。天皇制に批判的な表現は、天皇の前でも当然保障されるべきです」

すべてのハラスメントを一掃して、個々人の尊厳と平等が擁護される社会でありたいものだと思う。
(2015年3月29日)

愚かなり 自民党女性局長

八紘一宇とは、かつての天皇制日本による全世界に向けた侵略宣言にほかならない。しかも、単なる戦時スローガンではなく、閣議決定文書に出て来る。1940年7月26日第2次近衛内閣の「基本国策要綱」である。その「根本方針」の冒頭に次の一文がある。

「皇国ノ国是ハ八紘ヲ一宇トスル肇国ノ大精神ニ基キ世界平和ノ確立ヲ招来スルコトヲ以テ根本トシ先ツ皇国ヲ核心トシ日満支ノ強固ナル結合ヲ根幹トスル大東亜ノ新秩序ヲ建設スルニ在リ」

紘とは紐あるいは綱のこと。八紘とは大地の八方にはりわたされた綱の意。そこから転じて全世界を表す。全世界を一宇(一つの家)にすることが、皇国の国是(基本方針)というのだ。一宇には家長がいる。当然のこととして、天皇が世界をひとまとめにした家の家長に納まることを想定している。「皇国を中核とする大東亜の新秩序を建設する」というのはとりあえずのこと、究極には世界全体を天皇の支配下に置こうというのだ。

「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」「不逞鮮人」「鬼畜米英」「興亜奉国」「五族共和」「大東亜共栄圏」「大東亜新秩序」等々と同じく、侵略戦争や植民地支配を正当化しようとした造語として、今は死語であり禁句である。他国の主権を蹂躙し、他国民の人権をないがしろにして省みるところのない、恥ずべきスローガンなのだ。到底公の場で口にできる言葉ではない。

ところが、この言葉が国会の質疑の中で飛び出した。3月16日の参院予算委員会の質問でのこと、国会議員の口からである。恐るべき時代錯誤と言わねばならない。

私は世の中のことをよく知らない。三原じゅん子という参議院議員の存在を知らなかった。この議員が元は女優で不良少女の役柄で売り出した人であったこと、役柄さながらに記者に暴行を加えて逮捕された経歴の持ち主であることなど、今回の「八紘一宇」発言で初めて知ったことだ。

この人が「ご紹介したいのが、日本が建国以来、大切にしてきた価値観、八紘一宇であります」と述べている。こんな者が議員となっている。これが自民党の議員のレベルなのだ。しかも党の女性局長だそうだ。安倍政権と、八紘一宇と、愚かで浅はかな女性局長。実はよくお似合いなのかもしれない。

この人には、八紘一宇のなんたるかについての自覚がない。ものを知らないにもほどかある。いま、こんなことを言って、安倍政権や自民党にだけではなく、日本が近隣諸国からどのように見られることになるのか。そのことの認識はまったくなさそうなのだ。

自分の存在を目立たせたいと思っても、哀しいかな本格的な政策論議などなしうる能力がない。ならば、セリフの暗記は役者の心得。世間を驚かせる「危険な言葉」をシナリオのとおりに発することで、天下の耳目を集めたい。そんなところだろう。この発言には誰だって驚く。「八紘一宇」発言は確かに世間を驚かせたが、世間は何よりも発言者の愚かさと不見識に驚ろいたのだ。

発言内容を確認しておきたい。八紘一宇が出てきた発言は、麻生財務相に対する質問と、安倍首相に対する質問とにおいてのものである。質問は、租税回避問題についてであった。歴史認識や教育や教科書採択や、あるいは戦争や植民地支配の問題ではない。八紘一宇が出て来るのが、あまりに唐突なのだ。その(ほぼ)全文を引用しておきたい。

「三原参院議員:私はそもそもこの租税回避問題というのは、その背景にあるグローバル資本主義の光と影の、影の部分に、もう、私たちが目を背け続けるのはできないのではないかと、そこまで来ているのではないかと思えてなりません。そこで、皆様方にご紹介したいのがですね、日本が建国以来大切にしてきた価値観、八紘一宇であります。八紘一宇というのは、初代神武天皇が即位の折に、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)になさむ」とおっしゃったことに由来する言葉です。今日皆様方のお手元には資料を配布させていただいておりますが、改めてご紹介させていただきたいと思います。これは昭和13年に書かれた『建国』という書物でございます。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

ということでございます。これは戦前に書かれたものでありますけれども、この八紘一宇という根本原理の中にですね、現在のグローバル資本主義の中で、日本がどう立ち振る舞うべきかというのが示されているのだと、私は思えてならないんです。麻生大臣、いかが、この考えに対して、いかがお考えになられますでしょうか。」

「三原参院議員:これは現在ではですね、BEPS(税源浸食と利益移転)と呼ばれる行動計画が、何とか税の抜け道を防ごうという検討がなされていることも存じ上げておりますけれども、ここからが問題なんですが、ある国が抜けがけをすることによってですね、今大臣がおっしゃったとおりなんで、せっかくの国際協調を台なしにしてしまう、つまり99の国がですね、せっかく足並みを揃えて同じ税率にしたとしても、たったひとつの国が抜けがけをして税率を低くしてしまえば、またそこが税の抜け道になってしまう、こういった懸念が述べられております。

総理、ここで、私は八紘一宇の理念というものが大事ではないかと思います。税の歪みは国家の歪みどころか、世界の歪みにつながっております。この八紘一宇の理念の下にですね、世界がひとつの家族のように睦み合い、助け合えるように、そんな経済、および税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものをですね、安部総理こそがイニシアティブをとって提案すべき、世界中に提案していくべきだと思うのですが、いかがでしょうか?」

三原議員は、麻生財務相に対する質問の中で、清水芳太郎『建国』の抜粋をパネルに用意し、これを読み上げた。こんなものを礼賛する感性が恐ろしい。こんな批判精神に乏しい人物を育てたことにおいて、戦後教育は反省を迫られている。この『建国』からの抜粋の部分について、批判をしておきたい。

『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。』

そんな馬鹿な。国際関係を戦前の「家」になぞらえる、あまりのばかばかしさ。世界のどこにも通用し得ない議論。聞くことすら恥ずかしい。「世界が一家族のように睦み合うべき」とするのは、「一番強い家長を核とする秩序」を想定している偏頗なイデオロギーにほかならない。他国を侵略して、天皇の支配を貫徹することによって新しい世界秩序をつくり出そうという無茶苦茶な話でもある。「一番強いものが弱いもののために働いてやる制度」とは、「強い」「弱い」「働いてやる」の3語が、差別意識丸出しというだけでなく、「3・1事件」や関東大震災時の朝鮮人虐殺などの歴史に鑑み、虚妄も極まれりといわざるを得ない。こんな妄言を素晴らしいと思う歪んだ感性は、相手国や国民に対する根拠のない選民思想の上にしかなり立たない。

『これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。』

日本こそが、近隣諸国に対して、弱肉強食策をとり、弱い国を搾取し、力によって無理を通して、弱い民族をしいたげてきた。八紘一宇の思想は、その帝国主義的侵略主義、他国民に際する差別意識の上になり立っているのだ。その差別意識は完膚なきまでにたたきのめされて、我が国は徹底して反省したのだ。今にして、八紘一宇礼賛とは、歴史を知らないにもほどがある。

『世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる』

あからさまに日本を「世界中で一番強い国」として、自国が世界を支配するときに、世界平和が実現するという「論理」である。中国にも、朝鮮にも、ロシアにも欧米にも、「世界中で一番強い国」となる資格を認めない。日本だけが強い国であり神の国という、嗤うべき選民意識と言わざるを得ない。

いかに愚かな自民党議員といえども、一昔前なら、「八紘一宇」を口にすることはできなかったであろう。露呈された安倍政権を支える議員のレベルを嗤い飛ばす気持ちにはなれない。時代の空気はここまで回帰してしまったのか。民主主義はここまで衰退してしまったのか。自民党安倍政権の危うさの一面を見るようで気持が重い。

もしかしたら、日本の国力が衰退して国際的地位が低下しつつあることへの危機感の歪んだ表れなのかも知れない。それにしても、歴史と現実を踏まえた、もう少しマシな議論をしてもらいたい。
(2015年3月19日)

「分離」こそが「差別」なのだ

曾野綾子という作家。普段は読んで不愉快にならぬよう避けて遠ざけている存在。しかし、今回は産経への彼女の寄稿が人種差別だとして批判が高まっている。無視してすますわけには行かないようだ。しかも、批判の先鞭をつけたのが南アの大使だというから、関心を持たざるを得ない。

曾野は、批判に反論している様子だが、その反論の仕方にも興味津々である。この代表的右派をもってしても、「差別して何が悪い」とは開き直れない。「私が人種差別主義者とは誤解だ」と弁明に努めざるを得ないのだ。

遅ればせながら、2月11日産経の話題のコラムを読んでみた。「曾野綾子の透明な歳月の光」と題する連載のコラムのようだ。この回の標題は「労働力不足と移民」。「『適度な距離』保ち受け入れを」という副題が付けられている。

一読して、「えっ? こりゃなんじゃ?」「これはひどい」という感想。およそ作家の文章としての香りも品格もエスプリもない。ただただ、内に秘めた差別意識を丸出しに表にしただけの代物。さすがに、産経の紙面に相応しいというべきか。

コラム前半の内容をこうまとめて、大きくは間違ってない。
「今、日本は若い世代の人口が減少し、若年労働力補充のために労働移民を受け入れざるをえない」「特に高齢者の介護のために、近隣国の若い女性たちに来てもらう必要がある」「その移民には、法的規制を守ってもらわなければならない」

この人の文章は、ひねりのない平板な内容なのに文意をつかみにくい。「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らなければならない」という一文がある。うっかり、「日本人の雇い主に対して移民労働者の権利を守らせるよう制度を作れ」というのだと誤解してははならない。「条件を納得の上で出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである」と文章が続くのだ。「厳重に守るべき移民としての法的身分」とは、移民者の権利ではなく義務を指している。「法的身分を弁えてこれを守れ」と主張するのは、移民を受け入れる日本人の側なのだ。出稼ぎ労働者の虐待が問題になっているこの時代にナショナリストの面目躍如である。

さて、ここまでを前提として「外国人を理解するために、居住をともにするということは至難の業だ」と、話はいったんまとめられる。意味上は、これが結論。要するに、日本の老人の介護のために、近隣諸国の若い女性労働力を移民として受け入れざるを得ないが、「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」というのだ。これを差別という。

コラムの記事はこれで終わらない。唐突に、話題は南アに移る。「職は与えても、居住をともにして交流することはごめんだ」という結論の根拠を補充するためにである。

彼女は、ヨハネスブルグの一軒のマンションについて語る。アパルトヘイト政策の時代には白人だけが住んでいたマンションに黒人が住むようになった。彼らは買ったマンションにどんどん一族を呼び寄せた。マンションの水の使用量が増えて水栓から水が出なくなり、白人は逃げ出して住み続けているのは黒人だけになった、

これをもって、曾野は結論を繰り返す。
「爾来、私は言っている。『人間は事業も仕事も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がよい』」

曾野の、嘘か真か検証のしようもないこの話に頷いた人があれば恥じるがよい。あなたも立派な差別主義者なのだから。

曾野が語っているのは、移民受け入れに伴う制度についてである。「労働力としての移民は受け入れざるをえないが居住は分離する」という制度についてなのだ。その制度の合理性の例証に、アパルトヘイト後の南アの「実例」を語って、居住を分離する必要を説いているのだ。

曾野のこの文章を読んで、なお曾野を差別主義者と言わないのは差別を容認する共犯者と言わねばならない。

曾野の主張はアパルトヘイトそのものである。本来、アパルトヘイトとは、差別という意味ではなく、「分離」という意味に過ぎない。「それぞれが多様な伝統や文化、言語を持っている。それぞれのグループが独自に寄り集まって発展するべきだ」「アパルトヘイトは差別ではなく、分離発展である」とされた。公民権運動が主敵とした「セパレート・バット・イコール」の思想と通底している。「けっして差別はしませんよ。あなた方にも同等の権利を与える。ただ、一緒には暮らさない。コミュニティは別にするだけ」という。この「分離」自体が「差別」なのだ。これでは永遠に宥和は訪れない。紛争と不安の火種が永続するだけ。

アパルトヘイトでは居住区を分離したうえで出稼ぎを認めた。曾野の発想とまったく同じである。曾野は明らかに出稼ぎ移民者の宗主国意識でものを語っている。近隣諸国が怒って当然。ダシににされた南アが怒って当然。日本人である私も、不愉快で腹が立つ。
(2015年3月6日)

「ニッキョーソ!」は、罵り言葉たりうるか

「罵り言葉(ののしりことば)」というものがある。憎むべき相手に、最大限の打撃を与えようとして投げつけられる言葉。「悪口」・「雑言」・「悪罵」と言い替えてもよいが、「罵り言葉」が陰湿な語感をもっともよく表しているのではないか。

罵り言葉には、相手を貶め、最も深く突き刺さる言葉が選ばれる。差別用語がその典型。また、相手の身体的なコンプレックスを衝く言葉も罵り言葉の定番。しかし、罵り言葉の使い方は難しい。その鋭利な切れ味は、相手だけでなく自らをも切り裂くことになるからだ。

身体の障がいや容貌、身体的特徴についての罵りは、言葉を発したその瞬間、相手に届く以前に、自らを大きく傷つける。銃なら暴発である。既にこの種の用語は使えない時代となっているのだ。国籍・人種・民族・信仰・出自・性差等についても同様のはずだが、その理解ない人もいてまだ根絶に至っていない。そのため、ときに物議を醸すことになる。

問題は、思想的政治的立場や発言を封じようとして投げつけられる罵り言葉である。適切に使うことは難しい。何よりも言語である以上は、その言葉が人を傷つける意味を持つことについての共通の理解がなければならない。それがなければ、発言者の悪意が相手に通じることはなく、なんの打撃を与えることもできない。

多くの場合、ある属性をもっていることの指摘が悪罵となる。しかし、指摘される内容が、恥ずべきことであり、非難に当たるかは自明ではない。しかも、このような罵り言葉には、鮮度がある。陳腐なものは切れ味が落ちる。さりとてあまりに斬新を狙うと意味不明となってしまう。

かつての日本社会では、弑逆・不敬・謀反・不忠・不孝は、最高の罵り言葉であった。しかし、今やすべて死語と言ってよかろう。惰弱・卑怯・未練なども同様ではないか。また、かつてのナショナリズムの高揚とともに、漢奸・売国奴・国賊・非国民などの語彙が生まれ、育ち、猛威を振るった。これが、今は死語になったと思っていたところ、ネットの世界でゾンビのごとく甦っている様子だ。ネットは文化の飛び地に過ぎないのか、リアル世界での排外主義復活の反映なのだろうか。「反日」という、罵り言葉としてはネット特有の未熟な用語の氾濫とともに不気味さは拭えない。

罵り言葉を適切に選んで、上手に罵ることは、意外に難しいのだ。罵る側の知性も品性もはかられることになるのだから。そんなことを考えていたときに、「事件」が起きた。「安倍晋三・トンデモ罵り事件」である。

事件は、昨日(2月19日)の衆議院予算委員会でのこと。民主党玉木雄一郎議員の質問の最中、あろうことか、安倍首相が唐突に「日教組!」などとヤジを飛ばし委員長からたしなめられる一幕となった。議員の質問は西川農水相が砂糖業界から受けた寄付金を巡ってのものだったという。

以下が、安倍首相らの発言内容。

安倍首相 「日教組!」
玉木議員 「総理、ヤジを飛ばさないでください」
玉木議員 「いま私、話してますから総理」
玉木議員 「ヤジを飛ばさないでください、総理」
玉木議員 「これマジメな話ですよ。政治に対する信頼をどう確保するかの話をしてるんですよ」
安倍首相 「日教組どうすんだ!日教組!」
大島委員長「いやいや、総理、総理……ちょっと静かに」
安倍首相 「日教組どうすんだ!」
大島委員長「いや、総理、ちょ…」
玉木議員 「日教組のことなんか私話してないじゃないですか!?」
大島委員長「あのー野次同士のやり取りしないで。総理もちょっと…」
玉木議員 「いやとにかく私が、申し上げたいのは…」
玉木議員 「もう総理、興奮しないでください」
.
この応酬に、「関係ないヤジじゃないか」などのヤジで一時議場騒然だったという。なお、玉木議員は、財務省の出で日教組出身者ではないそうだ。

安倍首相に限らず、右翼の連中は総じて日教組批判が持論。「あれもこれも、教育が悪いからだ」「日本の教育を悪くしたのは日教組だ」「だから、あれもこれもみんな日教組の責任だ」というみごとな三段論法が展開される。

持論としてのこのような信念は愚論あるいは暴論というだけのこと。ところが、安倍晋三という人物の頭の構造では、「日教組!」が罵り言葉として成立すると信じ込んでいるのだ。玉木議員にこの言葉を投げつけることが、何らかの打撃になるものと信じ込んでの発言なのだ。これは、彼がものごとを客観的に見ることができないことを示している。

「日教組どうすんだ!日教組!」という彼のヤジは軽くない。まさしく、罵る側である安倍晋三の知性も品性もさらけ出す発言なのだから。飲み屋で、どこかのオヤジが騒いでいるのではない。これが一国の首相の発言なのだ。

私たちの国の首相に対しての「罵り言葉」を探す必要はない。彼の言動を正確に再現するだけで足りるのだ。その言動の確認自体が、彼への最大限の打撃になるのだから。
(2015年2月20日)

「間違った歴史を真に終わらせるために」ーワイツゼッカー逝く

昨日(1月31日)、元ドイツ連邦大統領のリヒャルト・フォン・ワイツゼッカーが亡くなった。われわれには、ドイツの大統領という存在がなかなか理解しにくい。任期5年の国家元首として、党派性の薄い立場だという。血筋ではなく、国民を代表するにふさわしい良識と知性を体現することをもって国家と国民統合の象徴としての機能を期待されているのだ。要するに、尊敬される言動が任務の内容ということではないか。これはたいへんなことだ。ワイツゼッカーといい、ガウクといい、それに相応しい人物と国民の信頼は厚いという。安倍だの麻生だのの類とは大違い。これは、残念ではあるが、ドイツ国民と日本国民の良識と知性の差でもあることを認めざるを得ない。

ワイツゼッカーが「荒れ野の40年」と題して連邦議会で演説をしたのは、ドイツ敗戦から40周年となる1985年5月8日。その10年後の8月に日本で戦後50周年の村山談話の発表となり、60周年では小泉談話が続いた。そして今年8月、余計なことに安倍談話が出るという。

安倍談話は、村山談話と対比されるだけでなく、ワイツゼッカーとも比較されることになる。良識と知性の格差は覆うべくもない。国恥となりかねないのだから、やめた方が賢明ではないか。

ワイツゼッカーの名演説は、大きな波紋を巻き起こした。「過去に目を閉ざす者は現在に対しても盲目となる」という一節が現代の名文句として有名となった。歴史を直視し、自らが犯した罪と真摯に向き合うことで、はじめて近隣諸国との真の「和解」が可能となるという文脈。これは、同じ全体主義国家として敗戦した日本にとっての優れたお手本以外のなにものでもない。

この名演説、意外に長文である。それに、決定訳を知らない。本日の毎日新聞に、要旨が掲載されているが、これすら相当に長い。文章としてもおさまりがよくない。思いきって、我流にスクリプトして、心にとどめ置きたい。

そして、「ドイツ国民」を「日本国民」に、「ユダヤ人」を、「中国人や朝鮮人」に読み替えて、正確に歴史を記憶するところから、間違った歴史を真に終わらせる方法を考えたいものと思う。

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私たちは、この日(敗戦記念日)に向き合う必要がある。この日はドイツにとってお祝いの日ではない。多くのドイツ人は祖国のため戦うのをよしとした。だがそれは犯罪的な政権の非人間的な目的に寄与するものだった。この日はドイツの間違った歴史の終わりの日だ。

この日は記憶の日でもある。記憶とはそれが自分の内部の一部となるように正直に、純粋に思い出すことだ。私たちは独裁政権によって殺されたすべての人、特に強制収容所で殺された600万人のユダヤ人を記憶する。命を失ったドイツ国民や兵士、祖国を追われたドイツ人を記憶する。ロマ民族や同性愛者、宗教・政治上の理由で殺された人を記憶する。死者の苦しみや、傷つき、強制的に断種され、逃走し、空襲の夜を過ごした苦しみを記憶する。

どの国も戦争や暴力に罪深い間違いを犯した歴史から自由になれない。罪は少数の者に主導されたが、ドイツ人一人一人はユダヤ人の苦難に共感できたはずだ。良心を曲げ、現実を見ず、沈黙していた。

先人は重い遺産を残した。私たち全員が過去に対する責任を負わされている。それは過去を乗り越えることではないし、過去は変えられない。過去に目を閉ざす者は、現在も見えなくなる。非人間的な行いを記憶しない者は、また(非人間的な考えに)汚染される恐れがある。和解は記憶なしにはあり得ないことを理解すべきだ。

若者は当時のことに責任はない。だが歴史から生み出されるものに責任はある。若者に呼びかける。憎しみや敵意に陥らず、共生することを学び、自由を尊び、平和のために努力しよう。
(2015年2月1日)

本日の神奈川新聞に見るスジの通った姿勢

たまたま、本日(9月28日)の神奈川新聞に目を通した。
全国ニュースからローカルニュース、そして論説・特報、投書欄までの充実ぶりを立派なものと感心した。なるほど、確かに中央紙より地方紙にこそジャーナリスト魂が宿っている。

とりわけ、社会面の「事件『繰り返させない』 横浜・米軍機墜落37年 横須賀で平和集会」の記事に、地元神奈川県民の立ち場からの取り上げ方が典型的に表れている。要約しようと思ったが、もったいなくて、全文を引用させていただく。

「住民3人が死亡、6人が負傷した横浜・米軍機墜落事件から37年となる27日、横須賀市長沢の『平和の母子像』前で集会が開かれた。事件で妻が重傷を負った椎葉寅生さん(76)も参加。『このような事件を再び繰り返させない日本をつくろう』と訴えた。
 1977年の墜落事件から8年後の85年、犠牲者の死を無駄にせず、事件を語り継ごうと像が建てられた。以来毎年、集会が開かれている。
 被害者の冥福を祈るため、毎年参加している椎葉さんは『これは事故でなく、墜落事件。二度と繰り返してはいけない』と強調。事件を風化させまいという思いに加え、日本を取り巻く安全保障の変容についても触れ、安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定について『憲法9条で戦争は禁止されている。それを解釈で中身を変えようとした。こんなことを許したら国会も議員も必要なくなる。どうか皆さん、憲法9条を守ろうじゃないですか』と呼び掛けた。
 米軍機に関わる事故は後を絶たず、昨年12月には三浦市で米軍ヘリが不時着に失敗した。『米軍基地がある限り、事故はなくならない』と椎葉さん。一方、米軍の新型輸送機オスプレイが県内にも飛来している現状について『あれは論外。米国が日本政府に売りつけようとしている。医療や福祉の予算は削られているのに、私たちの税金が使われている』と怒りをあらわにした。
 事件は77年9月27日、在日米海軍厚木基地(大和、綾瀬市)を離れたジェット偵察機が、エンジントラブルで横浜市緑区(現・青葉区)の住宅地に墜落。全身やけどなどで親子3人が死亡し、6人が負傷した。」

もしやと思って、神奈川新聞のホームページを検索してみた。案の定である。
「ニュース」が6項目に分類されている。「社会」「政治・行政」「経済」「子育て・教育」「医療・介護」、そして「在日米軍・防衛」なのだ。
http://www.kanaloco.jp/topic/sub-category?categoryid=13&limit=100

これをクリックすると、「沖縄からのメッセージ 辺野古・普天間 届かぬ『ノー』涙も出ず」「横須賀基地にGW配備6年 撤回求め市民ら行進」「【照明灯】日米密約問題」「深谷通信所跡地 横浜市が市民暫定利用に前向き」「【社説】辺野古移設 計画の混迷は不可避だ」などの記事が並んでいる。地域に根ざした確かなジャーナリズムが存在するという感慨を禁じ得ない。(なお、「GW配備」とは、原子力空母「ジョージ・ワシントン」のこと。念のため)

もう一つ、紹介に値するのが、「紙面拝見」という識者による神奈川新聞検証記事。本日の論者は、横浜在住のフェリス女学院大学矢野久美子教授。

「差別意識と向き合う」というタイトルで、外国人労働者、ヘイトスピーチや朝鮮学校の処遇問題などの民族差別について、同紙の報道に依拠して語っている。以下はその一部。

「9月8日付論説・特報面での師岡康子さんの言葉を書き留めておきたい。『人種差別撤廃条約は植民地主義や奴隷制度への反省の上に結ばれたものだ。例えば、ヘイトスピーチについての勧告で「根本的原因に取り組むべき」としているのも、植民地主義に根ざした朝鮮人への差別であると認識しているからだ』
 記事によれば、国連人種差別撤廃委員会の審査では関東大震災における朝鮮人虐殺についても『いつ調査を行うのか』と問われたが、日本政府は『1995年に人種差別撤廃条約を締結しており、その以前に生じた問題は条約には適用されない』と答弁したという。『反省の上に結ばれた条約』なのだから、歴史の事実がどう伝えられているかということも重要な論点だろう。9月9日、10日付論説・特報面では、横浜市の社会科副読本で朝鮮人虐殺の記述が改訂されるプロセスが書かれている。これらの記事から歴史認識が現在の差別や政治動向と連動していることがよく分かる。『植民地支配を正当化するために熟成された差別意識』(9月1日付照明灯)と向き合うことこそが、今問われているのだろう。」

神奈川新聞の記事だけに拠って、今日的な人権問題や憲法問題ついて、これだけのことが語れるのだ。
中央各紙にも、このような姿勢がほしい。
(2014年9月28日)

不忘『九・一八』 牢記血涙仇

本日は「九・一八」。1931年9月18日深夜、奉天近郊柳条湖で起きた鉄道「爆破」事件が、足かけ15年に及んだ日中戦争のきっかけとなった。小学館「昭和の歴史」の第4巻『十五年戦争の開幕』が、日本軍の謀略による柳条湖事件から「満州国」の建国、そして日本の国際連盟脱退等の流れを要領よく記している。

その著者江口圭一は、ちょうど半世紀後の1981年9月18日に柳条湖の鉄道爆破地点を訪れた際の見聞を、次のように記してその著の結びとしている。

「鉄道のかたわらの生い茂った林の中に、日本が建てた満州事変の記念碑が引き倒されていた。倒された碑のコンクリートの表面に、かつて文化大革命のとき紅衛兵によって書かれたというスローガンの文字があった。ペンキはすでに薄れていた。しかし、初秋の朝の日射しのもとで、私はその文字を読み取ることができた。それは次の文字だった。
不忘“九・一八” 牢記血涙仇」

印象の深い締めくくりである。ペンキの文字は、「九・一八を忘るな。血涙の仇を牢記せよ」と読み下して良いだろう。牢記とは、しっかりと記憶せよということ。血涙とは、この上なく激しい悲しみや悔しさのために出る涙。仇とは、仇敵という意味だけではなく、相手の仕打ちに対する憎しみや怨みの感情をも意味する。

「9月18日、この日を忘れるな。血の混じるほどの涙を流したあの怨みを脳裡に刻みつけよ」とでも訳せようか。足を踏まれた側の国民の本音であろう。足を踏んだ側は、踏まれた者の思いを厳粛に受けとめるしかない。

柳条湖事件を仕組み、本国中央の紛争不拡大方針に抗して、満州国建設まで事態を進めたのが関東軍であった。関東軍とは、侵略国日本の満州現地守備軍のこと。「関」とは万里の長城の東端とされた「山海関」を指し、「関東」とは「山海関以東の地」、当時の「満州」全域を意味した。

私の父親も、その関東軍の兵士(最後の階級は曹長)であった。愛琿に近い、ソ満国境の兵営で中秋の名月を2度見たそうだ。「地平線上にでたのは、盆のような月ではなく、盥のような月だった」と言っていた。「幸いにして一度も戦闘の機会ないまま内地に帰還できた」が、それでも侵略軍の兵の一員だった。

世代を超えて、私にも「血涙仇」の責の一部があるのだろうと思う。少なくとも、戦後に清算すべきであった戦争責任を今日に至るまで曖昧なままにしていることにおいて。

何年か前、私も事件の現場を訪れた。事件を記念する歴史博物館の構造が、日めくりカレンダーをかたどったものになっており、「九・一八」の日付の巨大な日めくりに、「勿忘国恥」(国恥を忘ることなかれ)と刻み込まれていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。

柳条湖事件は関東軍自作自演の周到な謀略であった。この秘密を知った者が、「実は、あの奉天の鉄道爆破は、関東軍の高級参謀の仕業だ。板垣征四郎、石原莞爾らが事前の周到な計画のもと、張学良軍の仕業と見せかける工作をして実行した」と漏らせば、間違いなく死刑とされたろう。軍機保護法や国防保安法、そして陸軍刑法はそのような役割を果たした。今、すでに成立した「特定秘密保護法」が、そのような国家秘密保護の役割を担おうとしている。

法制だけではなく、満州侵略を熱狂的に支持し、軟弱外交を非難する世論が大きな役割を果たした。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは、当時既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「満州の権益を日本の手に」「これで景気が上向く」というのが圧倒的な世論。真実の報道と冷静な評論が禁圧されるなかで、軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そのような、巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。

今の世はどうだろうか。自民党の極右安倍晋三が政権を掌握し、極右政治家が閣僚に名を連ねている。自民党は改憲草案を公表して、国防軍を創設し、天皇を元首としようとしている。ヘイトスピーチが横行し、歴史修正主義派の教科書の採択が現実のものとなり、学校現場での日の丸・君が代の強制はすでに定着化しつつある。秘密保護法が制定され、集団的自衛権行使容認の閣議決定が成立し、慰安婦問題での過剰な朝日バッシングが時代の空気をよく表している。偏頗なナショナリズム復活の兆し、朝鮮や中国への敵視策、嫌悪感‥、1930年代もこうではなかったのかと思わせる。巨大な負のスパイラルが、回り始めてはいないか。

今日「9月18日」は、戦争の愚かさと悲惨さを思い起こすべき日。隣国との友好を深めよう。過剰なナショナリズムを警戒しよう。今ある表現の自由を大切にしよう。まともな政党政治を取り戻そう。冷静に理性を研ぎ澄まし、極右の煽動を警戒しよう。そして、くれぐれもあの時代を再び繰り返さないように、まず心ある人々が手をつなぎ、力を合わせよう。
(2014年9月18日)

今日は、日本の歴史に慚愧の遺産が刻印された日

9月1日「震災記念日」である。姜徳相の「関東大震災」(1975年中公新書)と、吉村昭の「関東大震災」(1973年菊池寛賞受賞・77年文春文庫版発行)とを読み返した。

前者は、「未曾有の天災に生き残った人をよってたかってなぶり殺しにした異民族迫害の悲劇を抜いて、関東大震災の真実は語れない」「朝鮮人の血しぶきは、日本の歴史に慚愧の負の遺産を刻印した」との立場に徹したドキュメント。後者も、125頁から229頁までの紙幅を費やして、震災後の朝鮮人虐殺、社会主義者虐殺(亀戸事件)、大杉栄・伊藤野枝(および6才の甥)惨殺の経過を詳細に描写している。

姜の書の中に、「自警団員の殺し方」という一章がある。「残忍極まる」としか形容しがたい「なぶり殺し」の目撃談の数々が紹介され、「死体に対する名状し難い陵辱も、また忘れてはならない。特に女性に対するぼうとくは筆紙に尽くしがたい。『いかに逆上したとはいえこんなことまでしなくてもよかろうに』『日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない』との感想を残した目撃者がいることだけ紹介しておこう」と結ばれている。

中国では柳条湖事件の9月18日を、韓国では日韓併合の8月29日を、「国恥の日」というようだ。今日9月1日は、日本の国恥の日というべきだろう。現在の日本国民が、3世代前の日本人が朝鮮人に対してした残虐行為を、恥ずべきことと再確認すべき日。

災害を象徴する両国の陸軍被服廠跡地が東京都立横網町公園となっており、ここに東京都慰霊堂が建立されている。その堂内に「自警団」という大きな油絵が掲げられている。いかなる意図でのことだろうか。無慮6000人の朝鮮人を虐殺したこのおぞましい組織は、各地で在郷軍人を中心につくられた。

「在郷軍人というのは何か。軍人教育を受け、甲午農民戦争や日露戦争やシベリア出兵、こういうもので戦争経験をしている。朝鮮人を殺している。こういう排外意識を持った兵士たち」(姜徳相講演録より)なのだ。

なるほど、甲午農民戦争(1894年)や日露戦争(2004年)を経て、日韓併合(2010年)、シベリア出兵(1918年)、そして3・1万歳事件とその弾圧(1919年)を経ての関東大震災(1923年)朝鮮人虐殺なのだ。当時、既に民族的差別意識と、民族的抵抗への憎悪と、そして後ろめたさからの報復を恐れる気持ちとが、広く国民に醸成されていた時代であった。歴史修正主義派は、この点についての責任糊塗にも躍起だが、「新たな戦前」をつくらないためにも、多くの日本人に、加害者としての歴史を確認してもらわねばならない。

過日、高校教師だった鈴木敏夫さんから、「関東大震災をめぐる教育現場の歴史修正主義」という論文(大原社会問題研究会雑誌・2014年6月号)の抜き刷りをいただいた。その中に、高校日本史の教科書(全15冊)がこの問題をどう扱っているかについての分析がある。
「朝鮮人・中国人虐殺に触れているか。人数の表記はどうなっているか」「虐殺(殺害)の主体はどう書かれているか」「労働運動、社会主義運動の指導者の殺害に触れているか」について、「さまざまな努力により、濃淡の差はあるが、…総じて最近の学界の研究成果を反映した内容になっている」との評価がされている。

末尾の資料の中から、いくつかの典型例を紹介したい。

東京書籍『日本史A 現代からの歴史」が最も標準的で充実してる記載といえよう。
○小見出し「流言と朝鮮人虐殺」
「社会的混乱と不安のなかで、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こすという事実無根の流言が広まった。警察・軍隊・行政が流言を適切に処理しなかったこと、さらに新聞が流言報道を書きたてたことが民衆の不安を増大させ、流言を広げることになった。
 関東各地では、流言を信じた民衆が自警団を組織した。自警団は、在郷軍人会や青年団などの地域団体を中心にして、警察の働きかけにより組織された。彼らは刀剣や竹槍で武装し通行人を検問して朝鮮人を取り締まろうとした。こうしたなかで、首都圈に働きにきていた数多くの朝鮮人や中国人が軍隊や自警団によって虐殺された。「朝鮮人暴動説」は震災の渦中で打ち消されたが、虐殺事件があいついだのは、民衆の中に根強い朝鮮人・中国人蔑視の意識があったからであった。
 また、震災の混乱のなかで、労働運動家や社会主義者らにも暴行が加えられ、無政府主義者大杉栄らが殺害される事件が起きた。」
(注に、死者数として「朝鮮人数千人、中国人700人以上と推定される」

清水書院『高等学校日本史A 最新版』が最も詳細。
○[こらむ関東大震災]
「1923年9月1日午前11時58分、関東地方をマグニチュード7.9という大地震が襲った。ちょうど昼食の準備の時間で火を使っていた家庭も多く、各地で火災が発生した。家屋の大半が木造で、水道も破壊され消火活動がほとんど不可能であったことも被害を拡大させた。東京・横浜両市の6割以上が焼きつくされ、関東地方全体で10万の死者と7万の負傷者を出し、こわれたり焼けたりした家屋は70万戸に及んだ。通信も交通もとだえ、余震が続くなかで、翌日から朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ、放火をしてまわっている、暴動をおこすらしいなどのうわさが流れはじめた。
 東京市および府下5郡にまず戒厳令が出され、続けて東京府、神奈川・千葉・埼玉3県にその範囲が拡大された。『戒厳』とは、戦争に準ずる内乱や暴動の場合に、軍事上の必要にこたえて行政権と司法権を軍司令官に移しこれに平時の法をこえた強大な権限をあたえることであるが、この戒厳令下で、軍隊と警察は『保護』と称しで大量の朝鮮人をとらえ、留置場に収容したり、殺したりした。また民衆もうわさを信じ、在郷軍人会や青年団、消防団などを中心に自警団をつくり、刀剣・竹やり・木刀などで武装して、通行人を検問し、朝鮮人を襲った。この朝鮮人に対する殺傷は東京・神奈川・埼玉・千葉などを中心に7日ごろまで続き、約6、000人が殺された(『韓国独立運動史』による。内務省調査では、加害者が判明した分として。朝鮮人231人、中国人3人としている)。そのほか中国人も多数被害にあっており、江東区大島だけでも約400人が虐殺された。
 また労働運動家10名が警察にとらえられ、軍隊に殺された亀戸事件、甘粕事件がおこるなど、首都を壊滅状態にした災害の混乱のなか、警察や軍隊そして民衆の手による、罪も無い人びとの虐殺がおこなわれた」
(注に、「亀戸事件」「甘粕事件」の説明がある)

実教出版『高校日本史B』は、簡略ながら必要事項がよく書き込まれている。
○小見出し「関東大震災」
「1923(大正12)年9月1日、関東大震災がおこった。震災直後の火災が京浜地方を壊滅状態に陥れ、混乱のなかで、『朝鮮人が暴動を起こした』などという民族的偏見に満ちたうわさがひろめられ、軍隊・警察や住民が組織した自警団が、6、000人以上の朝鮮人と約700人の中国人を虐殺した。また、無政府主義者の大杉栄・伊藤野枝が憲兵大尉甘粕正彦に殺害され(甘粕事件)、労働運動の指導者10人が軍隊と警察によって殺害された(亀戸事件)。」
さらに、次の段落で、「天譴論」にふれている。また「政府は個人主義の風潮、社会主義の台頭を警戒して、国民精神作興詔書を出すなど思想取り締まりを強化した。震災は国家主義的風潮が強まるきっかけともなった。」と書いている。

山川出版社『詳説日本史』は背景事情への目配りがよい。
○小見出し「関東大震災の混乱」(コラム)
「関東大震災後におきた、朝鮮人・中国人に対する殺傷事件は、自然災害が人為的な殺傷行為を大規模に誘発した例として日本の災害史上、他に例を見ないものであった。流言により、多くの朝鮮人が殺傷された背景としては、日本の植民地支配に対する恐怖心と、民族的な差別意識があったとみられる。9月4日夜、亀戸警察署構内で警備に当たっていた軍隊により社会主義者10名が殺害され、16日には憲兵により大杉栄と伊藤野枝、大杉の甥が殺害された。市民・警察・軍部ともに例外的とは言い切れない規模で武力や暴力を行使したことがわかる。」

一方、採択率は微々たるものだが、「『つくる会』系教科書の先輩格」(鈴木)である明成社『最新日本史』の記載は次のとおり。「これでも検定を通るのかと驚く」(同)のレベル。
○小見出し「戦後恐慌と関東大震災」(縦書き)
「大正十二年(1923)九月一日、大地震が関東一円を襲い、京浜地帯は経済的には大打撃が受けた(関東大震災)。」
・注1「大震災による被害は、全壊一二万戸。全焼四十五万戸、死者・行方不明者十万数千人に及んだ。混乱の中、無政府主義者大杉栄と伊藤野枝が憲兵大尉甘粕正彦に殺害された。また、朝鮮人に不穏な動きがあるとする流言に影響された自警団による朝鮮人殺傷事件が頻発した。その一方、朝鮮人を保護した民間人や警察官もいた。また、政府は戒厳令を布き事態の収拾に当たった。」

心ある高校生には、教科書から一歩踏み出して、せめて吉村昭「関東大震災」に目を通してもらいたいと願う。決して心地よいことではないが、勇気をもって歴史と向かいあうことの必要性が理解できるのではないだろうか。
(2014年9月1日)

国連・人種差別撤廃委員会のヘイトスピーチ処罰勧告

戦争を語るべき8月も残り僅か。昨日に続いて、話題はヘイトスピーチ。

日本における民族的な差別意識は、侵略戦争と植民地侵脱の準備の過程で人為的につくられ、煽られたものだ。かつての圧倒的な文化大国・中国、文化先進国・朝鮮、そして西洋文明の一端を形成していたロシアやその国民に対して、日本国民は概ね畏敬ないしは敬愛の念を抱いていた。少なくも近世まではそうだった。

しかし、そのような消極的民族意識では対外戦争はできない。とりわけ、国家の総力を挙げての近代戦争は不可能である。戦争には、経済的・軍事的な国家総動員だけではなく、国民精神総動員が必要で、国民精神動員の方向は、仮想敵国への差別意識を植えつけ、これを侮蔑し、さらには憎悪の対象とすることにある。敵として憎む心なければ、闘うことはできないのだから。

植民地政策の遂行にも、根拠のない自国の優越意識と、煽動された他国への侮蔑的感情の醸成が必要であった。

そのような国民精神を、国家主導の教育とメディアが作り出した。当時の国民の多くが煽動された結果とはいえ、これに易々と掬い取られた。

日米友好の象徴として語られる「青い目の人形」がアメリカから日本各地の小学校に送られたのは1927年のことである。私の母の母校も人形をもらっている。ちょうど母が6年生のころのことだ。この人形は大切にされたはず。

その母が成人し結婚するころには、人形を送ってくれた国民を「鬼畜米英」という社会になっていた。人種や民族による差別意識の醸成は、人権の侵害であるだけでなく平和への脅威であり、再びの戦争の準備でもある。ヘイトスピーチは、それ自体が人権侵害であるばかりでなく、平和への脅威としても根絶を要する。

あらためて「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」を読み直してみた。
その前文の一節に、「人種、皮膚の色又は種族的出身を理由とする人間の差別が諸国間の友好的かつ平和的な関係に対する障害となること並びに諸国民の間の平和及び安全並びに同一の国家内に共存している人々の調和をも害するおそれがあることを再確認し…」と明記されている。

いま日本に蔓延しているヘイトスピーチは、「日本と近隣諸国間の友好的かつ平和的な関係に対する障害、諸国民の間の平和及び安全を害して」おり、また「日本という同一の国内に共存している、日本人と日本以外の出自をもつ人々との調和をも害する」ることが明らかではないか。差別は、国家間・国民間の平和と安全そして調和を害することが国際条約において確認されているのだ。

ところで、この国際条約のハイライトは第4条である。読みやすく抜粋して引用しておきたい。

「締約国は、
《人種の優越性若しくは皮膚の色や種族的出身の優越性の思想若しくは理論に基づくあらゆる宣伝及び団体》又は
《人種的憎悪及び人種差別を正当化し若しくは助長することを企てるあらゆる宣伝及び団体》
を非難し、
《差別のあらゆる扇動又は行為を根絶することを目的とする迅速かつ積極的な措置をとること》
を約束する。

このため、締約国は、世界人権宣言に具現された原則に十分な考慮を払って、特に次のことを行う。
(a)人種的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布、人種差別の扇動、すべての暴力行為又はその行為の扇動及び人種主義に基づく活動に対するいかなる援助の提供も、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言すること。
(b)人種差別を助長し及び扇動する団体及び組織的宣伝活動その他のすべての宣伝活動を違法であるとして禁止するものとし、このような団体又は活動への参加が法律で処罰すべき犯罪であることを認めること。」

「人種(民族)的優越又は憎悪に基づく思想のあらゆる流布や差別の扇動は、法律で処罰すべき犯罪であることを宣言」したうえに、「人種差別を助長し及び扇動する宣伝活動を犯罪として禁止する」ことが締約国の義務となっている。これがグローバルスタンダードなのだ。

この国際条約は、1965年12月21日第20回国連総会で全会一致で成立した。しかし、我が国が批准したのはなんと30年後の1995年12月15日。締約順位は146番目であった。人権後進国との批判は避けられない。

しかも、日本は、第4条に関して「日本国憲法の下における『集会、結社及び表現の自由その他の権利』の保障と抵触しない限度において、これらの規定による義務を履行する。」という留保を宣言している。だから、日本にはヘイトスピーチそのものを処罰対象とする刑罰規定はない。

その国際条約の履行を確保するために、条約自身が国連に「人種差別撤廃委員会」を置くことを定めている。その委員会が、日本のヘイトスピーチに大きな関心をもった。7月の「規約人権委員会」の勧告に続いて、昨日(8月29日)日本政府に対して、さらに厳しい勧告がなされたことが報道されている。

勧告の全文は大部で多項目にわたるもののようだ。ヘイトスピーチ問題だけではなく、慰安婦問題にも、「琉球民族問題」にも触れているという。

毎日の報道を抜粋する。
「ヘイトスピーチ 起訴含め刑事捜査を日本に勧告 国連委
ジュネーブにある国連の人種差別撤廃委員会は29日、異なる人種や少数民族に対する差別をあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)を行った個人や団体に対して『捜査を行い、必要な場合には起訴すべきだ』と日本政府に勧告した。インターネットを含むメディアでのヘイトスピーチについても適切な措置をとることを要請。

国連人権委員会も7月、ヘイトスピーチなど人種差別を助長する行為の禁止を勧告。両委員会の勧告に強制力はないが、国連がヘイトスピーチへの厳しい対応を相次いで求めたことで、日本政府や国会は早期の対応を迫られた形だ。

撤廃委員会の最終見解は、前回に比べ、ヘイトスピーチの記述が大幅に増加。日本での問題の深刻化を印象づけた。見解は、日本での暴力的なヘイトスピーチの広がりに懸念を表明。一方で、ヘイトスピーチ対策を、その他の抗議活動などの『表現の自由』を規制する『口実にすべきではない』ともくぎを刺した。

日本は人種差別撤廃条約に加盟するが、ヘイトスピーチの法規制を求める4条は『表現の自由』を理由に留保している。委員会はこの留保の撤回も求めた。

国連の日本に対する苛立ちがよくわかる。また、「ヘイトスピーチ対策を、その他の抗議活動などの『表現の自由』を規制する『口実にすべきではない』ともくぎを刺した。」という言及にはよく耳を傾けなければならない。とりわけ、自民党は。そして、高市早苗政調会長は。

従軍慰安婦問題については、産経の報道が詳しい。
「慰安婦の人権侵害調査を」国連人種差別撤廃委 ヘイトスピーチ捜査も要請
国連の人種差別撤廃委員会は29日、人種差別撤廃条約の履行を調査する対日審査を踏まえ、慰安婦問題について、慰安婦に対する人権侵害を調査し、責任者の責任を追及することなどを勧告する「最終見解」を公表した。

最終見解では、…「真摯な謝罪表明と適切な補償」を含む包括的な解決を目指し、慰安婦への中傷や問題を否定する試みを非難するよう求めた。

20、21日の対日審査では元慰安婦が「売春婦」とも呼ばれていることなどへの懸念が委員から示され、日本側は従来の取り組みを説明するなどした。4回目となる同委の最終見解で慰安婦問題への言及は初めて。

また、沖縄の人々を「先住民族」だとして、その権利を保護するよう勧告する内容も含まれているという。
最終見解は、日本政府が沖縄の人々を「先住民族」と認識していないとの立場に「懸念」を表明。また、消滅の危機にある琉球諸語(しまくとぅば)の使用促進や、保護策が十分に行われていないと指摘。教科書に琉球の歴史や文化が十分に反映されていないとして、対策を講じるよう要求した。(琉球新報)
ことほど、差別問題は広範囲にわたる。差別自体に憤りを禁じ得ないことは当然として、歴史認識と結びつき、かつての侵略戦争や植民地主義と一体となった民族差別に、わけても今進行している安倍政権下でのヘイトスピーチの横行に、平和主義の観点からも敏感でなければならないと思う。
(2014年8月30日)

ヘイトスピーチ規制を口実にした政権批判のデモ規制を許してはならない

命題? 「言論の自由は民主主義に不可欠な基本権として最大限に尊重されねばならない。公権力はこれを規制してはならない。」
命題? 「ヘイトスピーチは人間の尊厳を否定する唾棄すべき言論として排斥されねばならない。公権力はこれを規制しなければならない。」

おそらく、多くの国民が上記2命題の両者をともに肯定するだろう。「在日韓国・朝鮮人をののしるヘイトスピーチ(憎悪表現)に対し、67%が『不快だ』と答え、『不快ではない』は7%だった(毎日・8月25日)」という世論調査結果はうなずけるところ。

しかし、「言論の自由は尊重せよ」「ヘイトスピーチは取り締まれ」は、いずれも決して政権の真意ではない。できることなら政権批判の言論の自由は規制したい。本音をいうならヘイトスピーチに目くじら立てたくはない。ヘイトスピーチを許容する排外主義の空気が安倍政権を生み、安倍政権の誕生がヘイトスピーチの蔓延を勢いづかせ助長しているのだ。

しかも、「尊重すべき言論」と「取り締まるべきヘイトスピーチ」との境界は、必ずしも明確とは言い難い。あるいはことさらに曖昧にされる危険も避けられない。

そのため、ヘイトスピーチの規制が、言論一般の規制となる可能性を否定し得ない。両刃の剣となりうることを憂慮せざるを得ない。

なにしろ、立法段階でも、法の適用の段階でも、ヘゲモニーを握っているのはこれまでの保守とは明らかに異なる安倍政権の側である。信頼できようはずがない。

まず、どのような法律が作られるか。今の国会の勢力分布では、羊頭狗肉よろしく、「ヘイトスピーチ規制法」の看板で、「言論弾圧立法」が成立する虞なしとしない。

さらに、法の適用が公平に憲法の理念に忠実になされる保証もない。突出した歴史修正主義者を首相に戴いている内閣である。従軍慰安婦問題ではNHKに圧力をかけ、河野談話を見直し、靖国参拝を強行し、過去の戦争を侵略戦争とは認めようとはしない立場を鮮明にし、さらに「自らの魂を賭して祖国の礎となられました昭和殉難者の御霊に謹んで哀悼の誠をささげます」とまで言っている人物が権力を行使するのだ。

国連規約人権委員会はこの7月に、日本政府に対し「ヘイトスピーチ禁止措置」を求める改善勧告を出している。国際的に見て、日本の「ヘイトスピーチ」は看過できない重大問題となっているのだ。何とかしなければならない。

それでもなお、規制立法には不安が残ると逡巡しているところに、案の定というべき「自民党ヘイトスピーチPT」の動きである。まずは、産経のネットニュースが次のように報じた。

「国会周辺の大音量デモ、規制検討 自民ヘイトスピーチPTで」という見出し。
「ヘイトスピーチ規制」ではなく、「国会周辺の大音量デモ規制」が主役にすり替えられているではないか。

「自民党は28日、『ヘイトスピーチ』と呼ばれる人種差別的な街宣活動への対策を検討するプロジェクトチーム(座長・平沢勝栄政調会長代理)の初会合を党本部で開き、憲法が保障する『表現の自由』を考慮しながら対策を検討することを確認した。国会周辺での大音量のデモに対する規制も併せて議論する。」

「一方、拡声器を使った国会周辺での街宣活動は現在も静穏保持法で禁じられている。ただ、同法による摘発事例は少なく、高市早苗政調会長は『国民から負託を受けているわれわれの仕事環境も確保しなければならない』と述べ、同法改正も含め検討する考えを示した。国会周辺では毎週金曜日に反原発のデモが行われている。」(2014.8.28 13:15から抜粋)

さすが産経。自民党の意図をよく読んでいる。本来、「ヘイトスピーチ」と「国会周辺でのデモの規制」とは何の関わりもない。曰くありげに二つを結びつけ、「国会周辺では毎週金曜日に反原発のデモが行われている」とその標的とするところを的確に読者に伝えている。

ヘイトスピーチ規制をダシに、反原発・反格差のデモを規制しようというのだ。国連からの勧告や世論を逆手に、「ヘイトスピーチ規制」という羊頭を掲げて、「言論の自由規制」という狗肉を売ろうというのだ。

東京新聞が的確に解説している。
「自民党は二十八日、人種差別的な街宣活動『ヘイトスピーチ』(憎悪表現)を規制するとともに、国会周辺の大音量のデモ活動の規制強化を検討し始めた。デモは有権者が政治に対して意思表示をするための重要な手段。その規制の検討は、原発や憲法などの問題をめぐる安倍政権批判を封じる狙いがあるとみられる。」

安倍政権を批判するところに、言論の自由尊重の意味がある。ヘイトスピーチ規制を政権批判の言論規制にすり替えられてはたまらない。ヘイトスピーチは社会のマイノリティーの人格を貶める言論。国会デモは、権力に対する市民の批判の言論である。両者の理念には、天と地ほどの差異がある。

冒頭の「命題?」を絶対に譲ってはならないのだ。ましてや、「命題?」を逆手にとっての言論規制をさせてはならない。メディアの扱いの小さいことに、一抹の不安を覚える。言論の自由に関わる問題に、鈍感に過ぎないか。
(2014年8月29日)

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