(2021年10月28日)
本日、総選挙の期日前投票を済ませた。小選挙区選挙では普段は支持しない政党の候補者に投票し、比例代表選挙では支持する政党の名を明記して投票した。
さて、最高裁裁判官の国民審査をどうするか。審査対象11人の裁判官の誰に、どのような理由で「×」をつけるべきか。
日本民主法律家協会のプロジェクトチームと23期弁護士ネットワーク合同での議論の結論は、下記のとおりである。
★選択的夫婦別姓に反対した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、岡村和美、長嶺安政各裁判官)に「×」を!
★正規・非正規の格差是正に反対した裁判官(林道晴裁判官)に「×」を!
★冤罪の救済に背を向けた裁判官(深山卓也裁判官)に「×」を!
★一票の格差を放置した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、草野耕一、岡村和美各裁判官)に「×」を!
★裁判と裁判官を統制してきた司法官僚(林道晴、安浪亮介各裁判官)に、「×」を!
以上が真っ当な判断なのだが、これをまとめて微修正を加味して個人的には以下の3案を考えた。
(1) 国民審査を、司法のあり方に対する国民の批判結集の機会として生かすために、全11裁判官に「×」を付けよう!
そもそも、安倍・菅政権が任命した裁判官である。その人選・任命の経過もまことに不透明。安倍菅政権への批判と裏腹の問題として全11裁判官を不信任とすべきではないか。
(2) この間の判決内容を見れば、宇賀克也裁判官だけが憲法に忠実な真っ当な姿勢を貫いているではないか。宇賀克也裁判官までを他と一緒に「×」をつけてはならない。宇賀克也裁判官を除いて、他の10裁判官に「×」を付けよう!
(3) 制度の趣旨から見て、容認できない少数の裁判官に的を絞って「×」を集中すべきだ。それがインパクト強く、国民が三権の一角である最高裁を監視していると印象付けることができる。その意味で、林道晴裁判官に「×」を集中しよう!
(2)案には、原爆症認定訴訟弁護団から無視し得ない反論がある。
「原爆症認定集団訴訟で、昨年(2020年)2月、第三小法廷(裁判長宇賀克也、戸倉三郎、宮崎裕子、林道晴、林景一)から最低・最悪の判決を受けました。原爆症認定は、被爆者の疾病が放射線に起因すること(放射線起因性)、当該疾病が現に医療を要する状態にあること(要医療性)という2つの要件があります。主な争点は放射線起因性で、この間行政訴訟としては異例の9割の勝訴率で勝ち抜いてきました。そこで厚労省は、従来柔軟に対応してきた要医療性を厳格に審査するという戦術で対抗してきました。それも下級審では突破してきたのですが、最高裁で丸っきり厚労省の言いなりの判決を受けてしまったのです。
具体的には、経過観察をしているだけでは要医療性を満たさない、として、手術後の経過観察を受けている被爆者の原爆症認定を否定してしまったのです。これによって原爆症認定集団訴訟の全面解決は極めて困難な状況に追い込まれました。この判決を主導したのは宇賀克也に間違いありません。宇賀は裁判長であり教科書にそれを示唆する記述もあるからです。以上の次第で私は宇賀克也に×を付けたい気持ちで一杯です(以下略)」
この反論で私は大いに迷わざるを得なかったが、結局は(2) 案で投票した。やはり、裁判官を差別化した評価があってしかるべきだと考えてのことである。
なお、先輩弁護士から以下の意見のメールをいただいた。
「殆どの人は、分からないまま、投票用紙を受け取って、そのまま投票箱に入れています。投票用紙を受け取らないという選択肢があることを知りません。私個人では、投票依頼の電話をするときに、必ずそのことを話しています。『分からない人は、投票用紙を受け取らないで良いです』ということを、選管に徹底するように申し入れした方が良いのではないでしょうか。私は、いつも投票所に行ったとき、そこにいる職員に、そうして下さいと申し入れているのですが、まるで意味が分かっていないのか、無視されます。」
本日、同じ経験をした。確かに、「殆どの人は、分からないまま投票用紙を受け取ってそのまま投票箱に入れて」いる。これは看過しがたい。
現場の職員に、「これでは棄権の権利が無視されるのではないか」と語りかけたら、上司と思しき人が出てきた。あらためて、「どの裁判官に×を付けるべきか分からない人は、どうすれば良いの?」と聞くと、「『投票したくない』と申し出ていただけたら、投票用紙を預からせていただきます」という答だった。
「そういう投票棄権の選択肢があると言うことは、予めお知らせしないんですか。以前は、そういう掲示もあったはずですが。」と聞くと、「そういうお知らせをするように指示は受けていません。過去のことは存じません」とのこと。
「とすると、現実には投票棄権の選択は難しいのじゃありませんか?」
「私たちは棄権の選択あることを想定していません」
「それがおかしい。あなただって、11人の裁判官の一人ひとりについて、信任すべきかすべきでないか、自信をもって判断できますか。判断に自信のない人に、結局裁判官信任の結果となる投票をさせるのはまちがっていませんか」
「結局あなたは、棄権したいと言うことですか」
「いや、私は棄権しません。でもこのような投票者の意思がゆがめられる国民審査のあり方がおかしいと思う」
「では、そういうご意見があったということは、選管に報告しておきます」
これで、私の「抗議」は打ち切り。しょうがないから、その場の人に呼びかけた。
「皆さん、最高裁裁判官の国民審査で誰に×を付けてよいか分からない方は、棄権ができます。投票用紙の受け取りを拒否するか、投票用紙を職員に返還してください。なんにも書かない投票用紙を投票箱に入れると、全部の裁判官を信任したことになってしまいますから気を付けてください。むしろ、よく分からなければ、最高裁を監視しているという意味を込めて全部×を付けてください」
かつて「司法の独立を守る国民会議」の一員として、鷲野忠雄さんにくっついて中央選管に申し入れに行ったことがある。「国民審査の投票については、せめて棄権の方法を表示していただきたい」という趣旨。どれだけ実行できたかはともかく、中央選管はノーとは言わなかった。その後のフォローを疎かにしていたことを反省しなければならない。
(2021年10月23日)
「3・11」「1・17」「3・10」「6・23」「8・6」「9・1」…。人は、それぞれに、月と日を記憶する。私にとっては「10・23」が忘れてはならぬ日となっている。2003年以来、今日まで。
18年前のこの日、東京都教育委員会が悪名高い「10・23通達」を発出した。東京都教育委員会とは、石原慎太郎教育委員会と言って間違いではない。この通達は、極右の政治家による国家主義的教育介入なのだ。学校儀式における国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明、つまり「国旗(「日の丸」)に向かって起立し国歌(「君が代」)を斉唱せよ」という職務命令を全教職員に徹底せよと強制する内容。
形式は、東京都内の公立校の全ての校長に対する命令だが、各校長に所管の教職員に対して、入学式・卒業式等の儀式的行事において、「国旗に向かって起立し国歌を斉唱する」よう職務命令を発令せよ、職務命令違反には処分がともなうことを周知徹底せよというもののだ。実質的に知事が、校長を介して、都内の全公立校の教職員に、起立斉唱命令を発したに等しい。教育法体系が想定するところではない。
あの当時、元気だった次弟の言葉を思い出す。「都民がアホや。石原慎太郎なんかを知事にするセンスが信じられん」。そりゃそのとおりだ。私もそう思った。こんなバカげたことは石原慎太郎が知事なればこその事態、石原が知事の座から去れば、「10・23通達」は撤回されるだろう、としか考えられなかった。
しかし、今や石原慎太郎は知事の座になく、悪名高い横山洋吉教育長もその任にない。石原の盟友として当時の教育委員を務めた米長邦雄や鳥海巌は他界した。当時の教育委員は内舘牧子を最後にすべて入れ替わっている。教育庁(教育委員会事務局)の幹部職員も一人として、当時の在籍者はない。しかし、「10・23通達」は亡霊の如く、いまだにその存在を誇示し続け、教育現場を支配している。
この間、いくつもの訴訟が提起され、「10・23通達」ないしはこれに基づく職務命令の効力、職務命令違反を理由とする懲戒処分の違法性が争われてきた。
最高裁が、
秩序ではなく人権の側に立っていれば、
国家ではなく個人の尊厳を尊重すれば、
教育に対する行政権力の介入を許さないとする立場を貫けば、
思想・良心・信教の自由こそが近代憲法の根源的価値だと理解してくれさえすれば、
真面目な教員の教員としての良心を鞭打ってはならないと考えさえすれば、
そして、憲法学の教科書が教える厳格な人権制約の理論を実践さえすれば、
「10・23通達」違憲の判決を出していたはずなのだ。そうすれば、東京の教育現場は、今のように沈滞したものとなってはいなかった。まったく様相を異にし、活気あるのになっていたはずでなのだ。
10月31日、総選挙の投票日には、公立校に国家主義を持ち込もうという現政権を批判して、立憲野党4党(立民・共産・社民・れいわ)の候補に投票しよう。そして、最高裁裁判官の国民審査においては、最高裁を総体として批判する意味において、遠慮なく審査対象11人の全員に「×」をつけていただきたい。
全裁判官に「×」はやや無責任に思える、比較的マシな裁判官には、「×」をつけたくない、とおっしゃる方は、宇賀克也裁判官にだけは「×」を付けずに投票されたい。
その理由については、下記のURLを参照願いたい。
国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf
第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html
(2021年10月20日)
弁護士の澤藤です。
弁護士生活50年、憲法を携えて仕事ができることを誇りにしていますが、必ずしも憲法に忠実ではない裁判所に不満を持ち続けて来ました。ですから、国民審査の際には、厳しい目で審判を、と訴えてきました。
これまでも、国民審査のたびごとにリーフレットは作成されてきましたが、今回のリーフはよく出来ていると思います。よくできているの意味は、どの裁判官に、どんな理由で「×」をつけるべきかを明示していることです。読む人に親切な内容とも言えると思います。
国民審査は、個々の裁判官の適不適を審査する制度となっています。しかし、私はむしろ、これを最高裁のあり方を問う制度として活用すべきだと思っています。
日本国憲法には、美しい理想が掲げられています。その理想を実現する役割を担うのが裁判所であり裁判官です。その頂点に位置する最高裁の裁判官に限って国民審査の対象になります。主権者である私たち国民は、国民審査の機会に最高裁のあり方を可とするか不可とするかの審判を行うことで、最高裁だけでなく、全国の裁判所をより良い方向に変えていくことができます。
まずは、最高裁はその判決や決定において、憲法に忠実に人権を擁護してきたか。結論から言えば、判決内容に関しては、以下のとおり不十分と言わねばなりません。
?選択的夫婦別姓に反対した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、岡村和美、長嶺安政の各裁判官)に「×」を!
?正規・非正規の格差是正に反対した裁判官(林道晴裁判官)に「×」を!
?冤罪の救済に背を向けた裁判官(深山卓也裁判官)に「×」を!
?一票の格差を放置した裁判官(林道晴、深山卓也、三浦守、草野耕一岡村和美各裁判官)に「×」を!
最高裁は二面の性格をもっています。その一面は、全国唯一の最上級審として判決や決定を統一する裁判体としての性格ですが、実はもう一つ、司法行政の主体としての性格も併せ持っています。
国民審査においては、最高裁の判決の内容が国民の目からみて、憲法の番人にふさわしいか、というだけでなく、司法行政の主体として憲法が想定している裁判所を構成しているかという視点をもつべきだと思うのです。
すべての裁判官にとって、その独立こそが生命です。政治権力にも、いかなる社会的な権力や権威にも揺らぐことなく、自らの良心と法にのみに従った裁判をすることによってこそ、法の正義を貫き国民の人権を擁護することが可能となります。
ところが最高裁で司法行政を司る「司法官僚」はその人事権を梃子に、全国の裁判官を内部的に統制し、この50年にわたって裁判官の独立をないがしろにしてきたと指摘せざるを得ません。判決内容だけでなく、この点についての国民的批判も重大だと考え、その観点から
?裁判と裁判官を統制してきた司法官僚(林道晴、安浪亮介各裁判官)に、「?」を!
と訴えます。
なお、このリーフレットの作成には、「日本民主法律家協会」の会員とともに、「23期弁護士有志ネットワーク」の弁護士が参加しました。23期弁護士は、50年前の1971年4月「司法の嵐」と言われた時代に、弁護士となりました。当時、石田和外最高裁長官(退官後、「英霊にこたえる会」の初代会長)を典型とする司法官僚と鋭く対峙してきました。そのテーマは、裁判官の思想・良心の自由であり、裁判官と司法の独立をめぐってのものでした。
憲法や司法の独立を大切にする法律家としての立場から、国民の皆様に、最高裁裁判官国民審査を大切な機会として生かしていただくよう訴えます。
以上の件に関して、詳しくは、下記URLをご参照ください。
国民審査リーフレット
https://www.jdla.jp/shinsa/images/kokuminshinsa21_6.pdf
第25回最高裁国民審査に当たっての声明
https://www.jdla.jp/shiryou/seimei/211020.html
(2021年10月2日)
総選挙が間近である。10月26日公示・11月7日投開票の日程が最有力視されている。その総選挙に併せて、最高裁判所裁判官国民審査が行われる。総選挙の投票所では、衆議院議員の小選挙区と比例代表の投票と、そして最高裁判所裁判官国民審査と、3枚の投票用紙を交付され3回の投票を行うことになる。
とかく影が薄いと言われる最高裁裁判官の国民審査だが、最高裁に民意を反映させるおそらくは唯一の貴重な機会。最高裁裁判官に国民の監視の目が光っていることを意識させなくてはならない。この国民審査にご注目いただきたい。無意識のうちに、すべての裁判官を信任するようなことは避けていただきたい。できれば、周りの人にも注意喚起をお願いしたい。
戦前の「天皇の裁判官」には、国民審査という発想はなかった。現行日本国憲法下で始まった国民審査は、今度が25回目。2017年10月22日の前回国民審査後現在までに就任した下記現職最高裁裁判官11名が審査対象となる。
深山卓也(裁判官)、三浦守 (検察官) 、草野耕一(弁護士)、宇賀克也(学者)、林道晴 (裁判官) 、岡村和美(行政官)、長嶺安政(外交官)、安浪亮介 (裁判官) 、渡邉惠理子 (弁護士) 、岡正晶 (弁護士) 、堺徹(検察官)
どんな経歴のどんな人物が最高裁裁判官になって、どんな裁判をしてきたのか。有権者によく知ってもらうことが必要である。日本民主法律家協会は、国民審査の都度、その努力を重ねてきた。今回もそのような情報を提供するとともに、誰を罷免すべき裁判官として「×」の対象とするか、呼びかけることになる。当ブログも、その旨を発信してお知らせしたい。
最高裁判所は判例統一のための全国唯一の裁判所だが、裁判体としての機能をもつだけでなく、司法行政の主体でもある。全国すべての下級裁判所裁判官の人事を掌握する組織として、独立しているはずの裁判官を統制する存在となっている。
司法権は、立法権・行政権から独立していなければならない。また、実際に裁判を行う裁判官には司法行政からの独立が求められる。にもかかわらず、現実の裁判官には司法行政からの独立は困難であり、司法部は権力中枢からの独立が困難というほかはない。政権の思惑は、最高裁の中枢に伝わり、最高裁の意向は全国の裁判官に伝播する。上からの思惑の伝播は、それに呼応する忖度の連鎖となって、政権に親和性の高い判決群が形成される。憲法に忠実な裁判所は幻想というしかなく、憲法理念を顕現する判決は稀少なものとなっている。
この現実を批判すべき国民審査だが、その投票は罷免を可とする裁判官に「×」を付けるだけの制度となっている。うっかり立派な裁判官に「○」を付けると無効票になってしまう。では、誰に「×」を付けるべきか。
最も望ましいのは、裁判官の来歴や関与判決を知ってご自分で判断することだが、実はなかなか難しい。よく分からない場合に、何の印も付けずにそのまま投票してしまえば、全裁判官を信任したことになる。よく分からない場合には、躊躇なく全員に×をつけることをお勧めする。裁判所全体に批判をもっているという国民の意思の表明として意義のある全裁判官「×」である。
全員「×」に抵抗ある人には、「分からないから棄権」することにしていただきたい。少なくも信任しているのではないという、積極的な意思表示になる。これまで、私たちは選挙管理委員会に「棄権」の行使がし易いように環境を調えるよう何度も申し入れをしてきた。必ずしも徹底しない場合もあるから、現場で棄権の意思表示をしっかりしていただきたい。
「全員「×」は能がない。一人くらい真っ当な裁判官はいないのか」と言われれば、間違いなく宇賀克弥裁判官(元東京大学大学院教授。行政法専攻)は立派な裁判官。だから、「宇賀克弥(うがかつや)」をメモしておいて、この人を除く10人に「×」の投票をお勧めする。宇賀裁判官は主要な判決の姿勢すべてが素晴らしい。
10人の「×」は面倒だ。一人だけ「×」を付けるとしたら誰だろうか、と言われたら、躊躇なく林道晴裁判官(元、東京高裁長官)に「×」をお勧めする。司法行政を担う典型的な司法官僚。国民が最高裁の姿勢を批判する場合に、その代表として「×」を受けるべき立場の人。
2020年10月13日(第三小法廷)のメトロコマース事件(有期労働契約労働者の待遇格差問題)判決、2020年11月18日(大法廷)2019年参院選の一票の格差判決、2020年12月22日(第三小法廷)袴田事件再審請求特別抗告審決定、2021年6月23日(大法廷)「夫婦別姓」に係る特別抗告審決定などで、すべて宇賀裁判官と林裁判官とは相反する結論に至っている。
今後何度か、この問題についての情報を提供したい。国民審査に関する広報に目を通しても、不都合なことは書いていない。くれぐれもご用心を。
(2021年9月26日)
「蟷螂の斧を構えたままの姿です」という一文に目が留まった。81歳の方の文章、「蟷螂の斧を構えた」のが1964年のこと。以来、その姿勢を崩していないというのだ。しかもこの方は元裁判官。この姿勢の維持は、当局の強い圧力に抵抗してのこと、並大抵の覚悟でできることではない。私もそう言えるようになりたい。その心意気に学びたい。
「核兵器の廃絶をめざす日本法律家協会(略称:日本反核法律家協会)」という団体がある。自らを、《「人類と核は共存できない」との立場から、日本の法律家や法律家団体を幅広く結集し、志を同じくする国際組織や市民社会と連携して、核兵器の廃絶、ヒバクシャ援護、原発に依存しない社会の実現をめざす諸活動にとりくむ団体です。》と紹介している。
「日本反核法律家協会」の機関誌(季刊)の名称が、分かり易い「反核法律家」。その108号(2021年秋号)が本日届いた。巻末(60ページ)に、「NEW FACE」という新入会員の自己紹介欄がある。ここに、「81歳の自己紹介」として、埼玉弁護士会の北澤貞男弁護士が寄稿している。
北澤さんは、定年まで勤め上げた元裁判官。元青年法律家協会裁判官部会の会員で、その後継の如月会にも所属し、その流れを汲む裁判官ネットワークの活動にも携わっておられた。退官後弁護士となって、日民協の活動に参加、人権を守るいくつもの裁判に携わってもいる。首尾一貫、ブレない方なのだ。
その北澤さんが、昨年(2020年)の師走に、誘われて81歳で「日本反核法律家協会」の会員になられたという。その北澤さんの自己紹介記事の一部を抜粋してご紹介したい。
私は、…1966年4月に判事補となり、2004年12月に定年退官するまで裁判官の地位にありました。修習生の前期に青法協に加入し、その姿勢のまま現在に至った感じです。蟷螂の斧を構えたままの姿です。
北澤さんの青法協加入が1964年のことになる。57年余も、蟷螂が斧を構えたままの姿勢を保ち続けて来られたというのだ。これは並大抵のことではない。右翼や自民党と一体化した最高裁が、青法協裁判官に対する脱退攻撃を始めたのが1969年頃からである。大勢いた青法協裁判官が、石田和外ら司法官僚の恫喝や勧奨に屈して崩れていく中で、さまざまな報復や差別に屈せず、筋を通し、信念を貫き、自らの法律家としての矜持を守った少数の裁判官がいた。その一人が北澤さんだ。
2005年2月に弁護士登録をしましたが、先輩等から誘われるまま、中国「残留孤児」国家賠償請求事件、東京大空襲国家賠償請求事件、そして安保法制違憲訴訟に一弁護士として関与することになりました。
これらの訴訟に関与して考えさせられたことは、「国家権力」の正体とそれを担う者たちの意識の在りようについてです。最も感じたことは、国家の「人民」に対する「冷たさ」です。天皇制国家から国民主権の民主政国家に変わっても、国家の冷たさは変わっていません。戦争被害受忍論はそれを象徴する理屈です。国民主権が定着していないことだけでなく、そもそも国家は特定の人間が大勢の「人民」を支配する巧妙なシステムのようです。
平和を希求する民衆が安保法制違憲訴訟を提起して活動していますが、下級審の判決は、保護されるべき権利・利益が認められないとして、安保関連法の憲法判断と立法違法の判断を回避し、門前払いに近い判決が続いています。国家権力の中枢に関わる事件ですから、難しいとはいえ、裁判官の姿勢は「国家権力」の影に隠れ、日本国憲法の威力から身を守っている(保身)かのようです。
ブレることのなかった元裁判が、保身としか見えない現役裁判官の姿勢に切歯扼腕しているのだ。自らを「蟷螂」という北澤さんだが、私も蟷螂だ。先輩蟷螂を見習って、大きく斧を振り上げ続けたい。
(2021年9月25日)
コロナ禍がもたらした思いがけない福音に、オンライン会議の普及がある。これまでは東京周辺の人としかできなかった会合が、オンラインなら全国の誰とでも可能となった。交通の時間も費用もかからずに。
50年前に、司法修習と修習生運動を共にした23期の弁護士の気の合った仲間が、「23期弁護士ネットワーク」というグループを名乗って、今年の4月、まず「司法はこれでいいのか」という本を出版し、4月24日には出版記念の集会を開催した。その準備はZoom(ズーム)での会議がなければできなかったこと。
その後も頻繁にZoom(ズーム)会議を開いて、意見交換をしている。札幌、東京、名古屋、京都、大阪などの参加者が、簡単に顔を合わせ、話し合うことができるのだから、これは便利だ。
23期共通の関心事は司法問題。どうすれば、《憲法が想定する、真に独立した人権の砦としての裁判所》をつくることができるだろうか、という問題意識。
そのような観点からの活動の第一歩として、本日は、オンライン学習会を開催した。『原発訴訟から司法を考える』とタイトルした企画。
企画書は次のように述べている。
「今回は、3・11の福島原発事故以後の原発差止訴訟を取り上げます。ご存じの通り、全国各地で差止訴訟が提起されていますが、勝訴判決はわずかですし、勝っても上級審では全て覆されています。あれだけの被害を出し、史上最大最悪の公害と言われる原発被害を経験したのにもかかわらず、この結果は何を意味するのでしょうか、また何が原因となっているのでしょうか。さらには、どうすれば裁判所を変えていけるのでしょうか。それらを探りながら、前回の集会に引き続き、再度、ハードケースで勝訴判決が出ない司法の問題点、現状を議論し、今後の裁判に役立てたいと思い、今回の企画を準備しました。」
パネリストは次のお二人。
*島田広弁護士50期
大飯原発福井訴訟団長として、いわゆる樋口判決を得るも控訴審等で最高裁シフトを経験。
*井戸謙一弁護士(元裁判官)31期
裁判官時代志賀原発2号機の運転差止を認める判決を下す(当時全敗の中)。差止訴訟に限らず、「ふくしま集団疎開裁判」等の団長も。
メインの講師、井戸さんのお話は、明晰で興味深いものだった。司会をお願いした北村栄弁護士が、周到な準備を経た質問をしてくれたおかげもある。いくつか、印象に残ったことを、私なりの理解で書き残しておきたい。
?刑事訴訟とは実体的真実を見極めるための手続ではない。「ギルティ」と証明できない限りは、「ノットギルティ」なのであって、被告人が真に潔白であるか否かは問題にならない。
?実は、民事訴訟も同様に挙証責任の配分というルールに従っての判断に至る手続で、本来は安全性具備の挙証責任は被告の電力会社側にある。ところが、多くの原発差し止め事件判決が、先例とされている行政訴訟の伊方原発事件の法理に従って、挙証責任を逆転させて住民を敗訴させてきた。私は、民事訴訟のルールの通りに判決したまでのこと。
?それでも、初めての差し止め判決を出すには緊張感が伴ったし、その後も変わった裁判官という目で見られた印象を拭えない。自分の裁判官としてのキャリアに影響あることは予てから覚悟していた。だから、ローンなどは、早めに完済するよう、心がけていた。
?裁判官を説得するには、争点を絞り、書面は短く、記録は薄く、主張は簡潔に、専門的なことを噛み砕いて文系の裁判官に分かり易くということが望ましい。現実にはなかなか困難だが。
?原告の主張を実現するには法廷外の運動も大切だと思う。傍聴席が満員であれば、国民が注視している事件だという緊張が生まれる。公正判決要請などの署名は、書記官限りで裁判官にまで上がってこない扱いが多いが、なんとなくたくさんの署名があったということは話題になるもの。
?いま大切だと思っていることは、科学的知見を裁判所に納得してもらうために、良心的な科学者集団の叡智を結集すること。具体的には、これまで余り注目されなかった地盤工学に関する研究者たちの助力を得ている。
?原発関連訴訟に関しては、3・11事故による被害の確認は重要だと思う。事故直後のあの緊迫感は時とともに風化しつつあると思わなければならない。
?国を被告にする事件だからといって、裁判官が国におもねることはないと思う。しかし、国策の根幹に関わるような事件では、話は別。たとえば、沖縄の問題ではそれが顕著に表れていると思う。
?かつては、結論では棄却の判決でも、その理由中の傍論で原告の望む事実認定をし、あるいは違憲違法を語った例が多かった。最近ではそれが少ない。安保法制違憲素諸判決には一件もない。裁判官の意識の変化かも知れない。
?裁判官は、組織に隠れた存在になってはならない。評価すべき判決も批判すべき判決も、裁判官・裁判長の固有名詞を冠して特定すべきだ。だから、ネットで実名を挙げての裁判批判もあって当然だと思う。
(2021年8月30日)
香港の事態にこだわり続けざるを得ない。1989年に天安門で起きたことが、今形を変えて香港で進行しつつあるのだ。民主主義崩壊の現実は、とうてい他人ごとではない。目をそらしてはならないと思う。
伝えられているとおり、8月24日、香港弁護士会(ソリシター(事務弁護士)の団体)は年次総会を開催して、新理事を選任した。理事会は20人で構成されており、今回はそのうち5人が改選となった。
この小さな選挙が注目されたのは、香港政府の露骨な介入があったからである。もちろん、香港政府の背後には中国共産党の存在がある。中国共産党の恫喝に屈しない「リベラル派」が、どれだけ健在で勢力を維持できるかに関心が集まった。
林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、香港弁護士会に対して「政治に関与すれば関係を絶つ可能性がある」と警告していた。「関係を絶つ」の具体的な内容は理解し難いが、これが脅し文句になるのだ。「弁護士会は政治に関与せぬのが利口だ」と脅されたのだ。この局面で「政治に関与」と言えば、中国共産党の支配に対する批判の言動意外にはあり得ない。
本来、弁護士とは反権力・在野の存在、こんな脅しに屈するはずもない、という見方は甘い。「リベラル派」の中心と目されていた現職の候補者ジョナサン・ロスは、「自身や家族の安全を守るため」として立候補を辞退した。「リベラル派」を堅持することは、「自身や家族の安全への危害をも覚悟せざるを得ない」ほどに、厳しいことなのだ。こうして、理事改選は、「親中派」が5議席全部を獲得する結果になった。
しかし、香港弁護士会、決して抵抗の姿勢を失ったわけではない。同じ総会で、法曹界の大物・馬道立氏(香港最高裁判所の前首席判事)を招聘して記念講演をさせている。
この人、2010年から21年1月まで最高裁首席判事を務めた人だという。日本で言えば、最高裁長官を10年続けたという稀有な経歴の人。かつての田中耕太郎並みなのだ。これまで、「司法の独立」こそが香港の法制度の肝で、香港の「一国二制度」の核心は「司法の独立」にあると説いてきたのだという。この人の講演が素晴らしい。
林鄭月娥行政長官とその背後の中国共産党は、「香港弁護士会の政治への関与」を牽制し、「弁護士会は、政治的行動をするな」と恫喝した。馬講演は、これを意識して、《法治や司法の独立は「政治的概念ではない」》という内容だったという。
赤旗(北京=小林拓也)によれば、講演の要旨は以下のとおりである。
「馬氏は「法治は政治的概念ではない。司法の独立も法治の一つに含まれ、これも政治的概念ではない」と強調。また、「法治の側面として、法律の前では公平と平等が求められる」と訴えました。その上で、「香港の法治を支持する発言をすることは、正しいことであり、公共の利益にかなう」と指摘。弁護士会や法律に携わる者は「公共の利益のために活動すべきだ」と述べ、法治や司法の独立のために発言するよう呼びかけました。」
これを、私流に解釈してみたい。
「法治」(法の支配)は、合理的な法に従って権力の行使が行われなければならないという大原則である。国家も、党も、党幹部も、法を逸脱することも法を恣意的に枉げることも許されない。司法は、その「法治」の最後の砦である。権力の横暴に毅然として対処しうる「独立した司法部」あればこそ、法治は貫徹される。
権力にあるものが、「法治」や「司法の独立」を嫌うことは当然である。が、司法の職責にある者の使命は、権力に疎まれることを覚悟して、「法治」や「司法の独立」を全うすることにある。司法が、権力の横暴を許してはならない。弁護士会も司法の一翼を担っている。自らの使命を自覚していただきたい。
司法の崇高な使命を快く思わぬ権力者は、「法治」や「司法の独立」を、「政治的」として攻撃する。しかし、「法治」や「司法の独立」の原則を敢えて放棄することこそ、まさしく「政治的偏向」なのだ。権力者の言に一歩譲歩すれば、際限なく権力の横暴を許し、人民の権利や自由の抑圧を看過することになる。「法治」も「司法の独立」も、断じて「政治的概念」ではない。権力者の詭弁を許してはならない。
また当然のことながら、「法治」は、法律の前での公平と平等を求める。権力をもつ者にももたざる者にも同じように法を適用することを形式的平等という。権力をもつ者には厳格に、もたざる者には寛容に法を適用することを実質的平等と言い、公正という。権力者に寛容に、非権力者に厳格に法を適用することは、権力者には望ましいことではあろうが、法律家としては恥ずべきことである。
あらためて確認しよう。法とは正義である。正義の本質は、多数人民の権利と自由と尊厳を擁護することにあり、その正義は権力の横暴を抑制することによって貫徹される。
今、世界が注視する中で香港の「法治(法の支配)」や「司法の独立」の原則を守ることは、歴史的な課題となっている。崇高な法律家の使命として、今こそ勇気をもって声を上げよう。「法治」も「司法の独立」も揺るがせにしてはならない。
(2021年8月28日)
三権分立の目的は、統合された強力な権力を望ましからぬものとして権力機構を分散させることであり、立法・行政・司法の各部のチェック・アンド・バランスを適切に保つことで、権力機構の一部門への過度の権力集中を抑制することでもある。
現実には、立法・行政・司法という3部門の中では、得てして行政が肥大化し易く、司法が弱体化しがちである。そこで、「司法の独立」というスローガンが重要な意味をもつ。直接には立法権・行政権からの、そしてその背後にある政治権力からの、「司法の独立」がなくては、法の支配も民主主義政治も人権の擁護も実現し得ない。「司法の独立」あればこそ、数の力を恃む立法府や、強力な権力機構として国民個人と対峙する行政府の専断・暴走を阻むことが可能となる。
司法の独立の核心は、個々の裁判官の独立にある。裁判官は、政治権力からも、社会的同調圧力からも、行政府からも、立法府からも独立していなければならない。そのために、裁判官には、憲法上の身分保障がある。
にもかかわらず、現実の裁判官には、独立の気概に乏しい。その中にあって、司法行政の統制に服することなく意識的に市民的自由を行使しようという裁判官は貴重な存在である。最高裁にも政権にもおもねることなくもの言う裁判官の存在も貴重である。
そのような貴重な存在としての裁判官として、岡口基一裁判官が目立った存在となっている。明らかに、司法当局の目にも、政権・与党の目にも、目障りな存在となっている。いま、この貴重な裁判官が訴追され、国会の弾劾裁判所にかけられている。その成り行きは、我が国の「司法の独立」の現状を象徴することになる。
裁判官の身分剥奪は、衆・参議員各7人で構成される裁判官弾劾裁判所の罷免判決以外に手段はない。判決は罷免か否かである。中間の判断はない。
岡口基一裁判官の罷免は、裁判官を萎縮させ、物言わぬ裁判官、政治権力に忖度する裁判官を再生産することにつながる。司法の独立の核心を揺るがすことであり、政治権力による司法部に対する統制を許すことにもなる。けっして岡口罷免の判決をさせてはならない。
下記は、最近立ち上がった、「不当な訴追から岡口基一裁判官を守る会」の共同声明、そして、青年法律家協会・自由法曹団の各抗議・要請の声明である。
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岡口基一裁判官の罷免に反対する共同声明
本年6月16日、仙台高等裁判所判事である岡口基一氏が、裁判官訴追委員会により裁判官弾劾裁判所に罷免訴追された。訴追状によれば、都合13件にわたる訴追事由が挙げられているところ、いずれも職務と関係しない私生活上の行状であり、その全てがインターネット上での書き込み及び取材や記者会見での発言という表現行為を問題とする訴追となっている。
訴追事由13件のうち10件は、殺人事件被害者遺族に関するものであり、その中には遺族に対してなされたものもあり、内容的あるいは表現的に不適切なものもないわけではなく、この点同判事にも反省すべき点があるのかもしれない。しかしながら、弾劾裁判による罷免は、裁判官の職を解くのみならず退職金不支給、法曹資格の剥奪という極めて厳しい効果をもたらす懲罰であり、裁判官の独立の観点から、軽々に罷免処分がなされてはならない。重大な刑事犯罪により明らかに法曹として不適任な者に対してなされてきた従前の罷免の案件とは異なり、本件には刑事犯罪に該当する行為はなく、行為そのものも全て職務と関係しない私的な表現行為であって、従前の罷免案件に比べ明らかに異質である。このような行為に対する罷免は過度な懲罰であり、岡口氏個人としての人権上も極めて問題であるばかりか、裁判官の独立の観点から憂慮すべき事態である。また、本件が先例となることにより、裁判官の表現行為その他私生活上の行状に対する萎縮効果も極めて大きい。本件行為に不適切性があるとするなら、話し合いや直接の謝罪等で解決されるべきであり、罷免とすることは相当ではない。
私たちは、裁判官弾劾裁判所に対し、従前の案件との均衡や弾劾裁判所による罷免の重大性等を十分考慮の上、罷免しないとする判決をされるよう要請する。
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岡口基一裁判官に対する裁判官訴追委員会による訴追に抗議し、
弾劾裁判所に対し、岡口裁判官に対する罷免の宣告を行わないことを強く求める決議
1 岡口裁判官に対する訴追
報道によれば、2021年6月16日、国会の裁判官訴追委員会(委員長・新藤義孝衆議院議員)が、岡口基一裁判官(以下「岡口裁判官」という)について、裁判官弾劾裁判所に対して罷免を求めて訴追することを決定したとのことである(以下「本件訴追」という)。
2 弾劾裁判のあらまし
(1) 身分保障の限界としての弾劾
裁判官の独立(憲法第76条3項)を実効性あるものにするために、裁判官には強い身分保障が認められており、裁判官の罷免は、心身の故障のために職務をとることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない(憲法第78条)。
国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設けている(憲法第64条1項)。裁判官を罷免等する手続きは裁判官弾劾法に定めがあり、まず訴追委員会が開催され、訴追委員会の訴追に基づき、弾劾裁判が行われる。
(2) 訴追委員会の訴追と弾劾裁判
裁判官弾劾法に基づき設置され衆・参議員各10人で構成される裁判官訴追委員会は、裁判官弾劾裁判所への訴追権を独占する機関である(裁判官弾劾法第5条、第14条)。
衆・参議員各7人で構成される裁判官弾劾裁判所が、訴追された裁判官に罷免事由があると判断して罷免の裁判を宣告した場合には、当該裁判官は裁判官としての職を失うとともに(裁判官弾劾法第37条)、事実上法曹資格も失う(弁護士法第7条2号、検察庁法第20条2号)。
弾劾による罷免事由は?職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったとき?その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき、のいずれかに該当する場合にのみ認められる(裁判官弾劾法第2条)。
3 過去の罷免事例
日本国憲法制定後現在に至るまで、弾劾裁判所への訴追事件は9件である。
そのうち罷免となったのは、?事件記録を放置して395件の略式命令請求事件を失効させたり知人の相談を受けて逮捕状を発したりした事案(1956年)?調停の申立人から酒食の饗応を受け、相手方の親戚の調停委員に酒を持参したりした事案(1957年)?検事総長の名をかたって内閣総理大臣に電話をかけた謀略電話の録音テープを新聞記者に聞かせた事案(1977年)?担当する破産事件の破産管財人からゴルフクラブ等の供与を受けた事案(1981年)?現金の供与を約束して児童買春した事案(2001年)?裁判所職員にストーカー行為をした事案(2008年)?電車内で下着を盗撮した事案(2013年)の7件である。
いずれも重大な犯罪行為や違法行為もしくはそれに類する著しい不正行為が問題とされたものである。
4 本件訴追の問題点
(1) 本件訴追は裁判官の表現の自由を侵害するもの
憲法第76条3項が、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定めているのは、裁判の公正を保つために、裁判官に対する不当な干渉や圧力を排除し、裁判官の独立を実現するためである。
裁判官に強い身分保障を認めることで裁判官の独立を確保しようとした憲法の趣旨からすれば、国会議員により構成される弾劾裁判所によって恣意的な裁判官の罷免がなされることはあってはならず、罷免事由としての「職務上の義務に著しく違反し、又は職務を甚だしく怠ったとき」「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」は極めて厳格に解釈されなければならない。
本件訴追の対象となった具体的事実は未だ明らかではないが、報道等によれば、SNSでの発信やラジオ番組での発言が対象となったようである。対象となった言動が重大な犯罪行為や違法行為を構成するものであるということは現時点では認められず、各種報道および岡口裁判官自身の発信からすれば、過去の罷免事由に匹敵するような「裁判官としての威信を著しく失うべき非行があった」事実はうかがえない。
そもそも、裁判官であっても、一市民として憲法上の権利を有することは当然であり、裁判官にも表現の自由は保障される(憲法21条1項)。SNSでの発信やラジオ出演といった表現行為も、当然憲法上の権利としてすべての裁判官に保障されるものであり、岡口裁判官以外にもSNSを利用している裁判官や書籍を出版している裁判官、テレビ出演をする裁判官は存在している。
従前罷免事由に該当するとされた事案は主として重大な犯罪行為や違法行為等一見して明白な非行行為というべき事案であったところ、そのようなものに該当しない岡口裁判官の表現行為について本件訴追の対象とされたのであれば、訴追委員会の決定は岡口裁判官の表現の自由を侵害するものである。
SNSやラジオでの発言等について、一般的には表現の自由の範囲内にとどまるものであるにもかかわらず、当該発言者が裁判官であるということをもって罷免事由とされ失職し法曹資格を失うという先例ができれば、裁判官の表現行為に対する絶大な委縮効果となり、他の裁判官の表現の自由も侵害される結果となる。
(2) 裁判官の独立を犯し市民の裁判を受ける権利の侵害につながること
岡口裁判官の表現行為は、これまでの過去の罷免事由と比べても、「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」に該当するとは言い難く、表現行為そのものを理由としてなされた本件訴追は、恣意的・濫用的なものと言わざるを得ない。
このような裁判官に対する弾劾制度の濫用がまかりとおれば、裁判官の独立は画餅に帰し、市民の人権を擁護すべき裁判官としての使命を十分に果たすことができなくなるのは必至である。その結果として犠牲になるのは市民の裁判を受ける権利である。
これまでも、平賀書簡事件や宮本裁判官再任拒否事件、寺西判事補事件など、最高裁判所がその人事権を利用して裁判官の独立を侵害する行為が繰り返されてきた。岡口裁判官についても、その表現行為に対する戒告処分が最高裁判所によりなされているが、この戒告処分については、当部会は2018年12月1日、岡口裁判官の表現の自由を不当に侵害するとともに、裁判官の独立をも脅かすものであるとして「岡口基一判事に対する戒告処分に対し、強く抗議する決議」を挙げているところである。しかし今回の事態は、国会議員により構成される訴追委員会が裁判官の表現行為を問題視し、弾劾裁判所を通じて恣意的に露骨な統制を行おうとしているという点で、これまでとは次元が違うものであり、裁判官の独立を侵害する極めて深刻な事態である。
とりわけ岡口裁判官は、2020年の検察庁法改正問題について政府・与党の立場とは異なる見解を法律家として発信したり、LGBTQなどの少数者の人権保障を推進する立場からの発信等をしたりしているが、本件訴追にはそのような岡口裁判官の存在について疎ましく思う勢力の意向が強く反映されている疑念を抱かざるを得ない。
これは、岡口裁判官個人の問題にとどまらず、すべての裁判官、ひいてはすべての市民の人権にかかわる重大な憲法上の問題である。
5 結論
当部会は、訴追委員会による本件訴追に対して、強く抗議をするとともに、弾劾裁判所に対し、岡口裁判官に対する罷免の宣告を行わないことを強く求めるものである。
2021年6月27日
青年法律家協会弁護士学者合同部会
第 5 2 回 定 時 総 会
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岡口判事に対する訴追及び職務執行停止決定に抗議し、
裁判官の独立の保障を求める声明
2021年8月27日
自 由 法 曹 団
団長 吉田健一
1 国会の裁判官訴追委員会は、本年6月16日、岡口基一判事(以下「岡口判事」という)について、裁判官弾劾裁判所に対し罷免を求め訴追し、これを受理した裁判官弾劾裁判所は、本年7月29日、岡口判事の職務を停止する決定をした。これらは、いずれも憲法の保障する裁判官の独立を侵害するものであり、自由法曹団は裁判官訴追委員会、及び裁判官弾劾裁判所に対し、厳重に抗議する。
2 憲法は「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職務を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定め(憲法76条3項)、裁判官の独立を保障すると共に、それを実効あるものとするため、強い身分保障を定めている。そのため、裁判官は、心身の故障のために職務をとることができないと決定された場合を除いては、公の弾劾によらなければ罷免されない(憲法78条前段)。弾劾による罷免事由は?職務上の義務に著しく違反し、または職務を甚だしく怠ったとき、?その他職務の内外を問わず、裁判官としての威信を著しく失うべき非行があったとき、のいずれかに該当する場合にのみ認められる(裁判官弾劾法2条)。
3 このように裁判官の独立が認められ、身分が強く保障がされているのは、裁判が公正に行われ人権の保障が確保されるためには、裁判官がいかなる外部からの圧力や干渉をも受けずに職責を果たすことが必要であるからである。さらに司法権は非政治的権力であり、もともと政治権力からの干渉の危険が大きく、それを許すと司法の本来的役割である少数者の人権保障を図ることができなくなる。したがって、とりわけ政治権力からの独立を確保することが重要だからである。
4 弾劾裁判所への訴追権を独占する訴追委員会の委員も、罷免の判断をする弾劾裁判所裁判員も衆参両議院の議員のみで構成されるので(裁判官弾劾法5条1項、16条1項)、これが三権の相互抑制機能の一つとして国会に認められた権限(憲法64条)であるとしても、裁判官の独立が特に政治権力からの独立を強く要請されていることに鑑みれば、その権限行使は自ずと慎重かつ抑制的であることが求められる。
そのため、これまで弾劾裁判所へ訴追され罷免となった事案は、検事総長の名を語って内閣総理大臣に電話をかけた謀略電話の録音テープをメディアに提供したものや、児童買春、裁判所職員へのストーカー行為、電車内での下着の盗撮等の明白かつ重大な犯罪行為や違法行為等に限られているのである。
5 今回、訴追の対象となったのは、報道等によれば、岡口判事の自ら担当していない民事事件及び刑事事件のSNSや自らのブログへの投稿内容が問題とされたようである。しかし、その発言についても、少なくとも明白かつ重大な犯罪行為や違法行為、あるいはそれに匹敵するものは見当たらず、これまでの罷免事由とされたものと同等のものは存在しない。むしろ、裁判官であっても市民としての表現の自由は当然保障されるものであり、今回の訴追は、表現の自由の侵害という意味で重大であると共に、また当該表現内容についての評価が分かれるとしても、このような問題について弾劾の対象とすることは、政治権力からの干渉を呼び込む余地を常に残すものとなり、裁判官の独立は重大な危機に瀕することとなる。ひいては公正な裁判の実現が阻害され、司法による国民の人権保障そのものが機能しなくなることさえ危惧される。
6 職務の停止についても同様である。弾劾裁判所は「相当と認めるとき」に、訴追を受けた裁判官の職務を停止することができる(弾劾裁判所法39条)が、この「相当と認めるとき」についても、裁判官の政治権力からの独立が強く要請されていることに鑑みれば、当該裁判官が職務を行うことそのものが「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」と同視できる場合に限定されると解すべきである。そうでなければ罷免の結論が出る以前に、安直に同等の効果を及ぼすことが可能となり、裁判官の身分保障に真っ向から反することになるからである。
岡口判事は、犯罪行為を行ったものでも、違法行為を行ったわけでもないのであるから、同人が職務を行うことそのものが「裁判官としての威信を著しく失うべき非行」と同視できる場合に該当しないことは明らかであろう。
7 裁判官の独立、身分保障は、公正な裁判を実現するための不可欠の前提である。これまで述べてきた通り、その中でも、とりわけ重要なのが政治権力からの独立であり、これが担保されなければ、国民の人権保障は実現されない。
岡口判事に対する今回の訴追、及び職務停止は、いずれも罷免事由としての合理性・相当性を欠き、結果として裁判官への政治的干渉となっており、到底看過することはできない。
自由法曹団は、弾劾裁判所に対し、岡口判事の職務停止を直ちに撤回するよう求めると共に、罷免の裁判をすることのないよう強く求める次第である。
以上
(2021年8月25日)
竹田恒泰という「右翼言論人」が起こした典型的なスラップ訴訟、東京地裁でみっともない負け方をしたのが今年の2月5日。下記URLで判決全文が読めるが、この判決を読む限り、当然に負けるべくして負けた請求棄却判決。明らかな無理筋の提訴なのだ。
https://yamazakisanwosien.wixsite.com/mysite/%E8%A3%81%E5%88%A4%E8%B3%87%E6%96%993
その後のことを知らなかったが、竹田は控訴していた。昨日(8月24日)東京高裁で、控訴棄却の判決言い渡しとなったという報道である。当然の判決で、竹田には恥の上塗りとなった。
時事の配信記事では、「作家の竹田氏、二審も敗訴」「差別指摘は『公正』 東京高裁」と見出しを付けている。この報道が要約する高裁判決の内容は、以下のとおりだ。
「ツイッターで『差別主義者』『いじめの常習者』などと指摘されたのは名誉毀損だとして、作家の竹田恒泰氏が紛争史研究家の山崎雅弘氏に550万円の損害賠償と投稿の削除などを求めた訴訟の控訴審判決が24日、東京高裁であり、高橋譲裁判長は『各ツイートは公正な意見論評の表明』とし、竹田氏側の控訴を棄却した。
判決などによると、山崎氏は2019年11月、竹田氏が富山県朝日町教育委員会主催の講演会に講師として招かれることについて、中高校生に『自国優越思想』を植え付けるなどと批判する投稿をしていた。
高橋裁判長は、竹田氏が書籍やツイートで中国や韓国に対し攻撃的、侮蔑的表現を多数使用したと認定。山崎氏の投稿は『(竹田の)言動や表現方法から導かれる意見論評として不合理と言えない』と結論付けた。」
時事の報道では、「控訴審判決は、竹田の言論を中国や韓国に対し攻撃的、侮蔑的表現」と認定。これを根拠としての竹田に対する「自国優越思想」「差別主義者」「いじめの常習者」という批判は許容されることが明らかになった。竹田は、藪を突いて蛇を出した。あるいは、啼いたばかりに撃たれたのだ。
とは言え、スラップは言論の自由に対する敵対行為である。スラップの被害は被告とされた特定の人だけにとどまるものではない。多くの表現者の言論を萎縮させる。自由な言論に支えられている民主主義社会全体が被害を受ける。
竹田は心の底ではこう思っているかも知れない。「裁判には負けたが、山崎には労力も時間も金も使わせた。竹田を叩けば本当に裁判をかけてくるという実績を作ったのだから、提訴は無駄ではなかった」と。
だから、スラップ訴訟には反撃が必要なのだと思う。この点については、この訴訟の一審判決の直後に下記の記事を書いたので繰り返さない。
竹田恒泰のスラップ完敗判決から学ぶべきこと(2021年2月7日)
https://article9.jp/wordpress/?p=16267
前回触れなかったこと、2点についてコメントしておきたい。
山崎雅弘のツィートに、下記の記事がある。
「先方の意図はよくわかりませんが、(スラップの)訴状に『原告(竹田恒泰)は、作家で明治天皇の玄孫にあたり、』と書いてあります。作家は職業なので普通だと思いますが、誰々の子孫という家柄の話は本人の能力と関係ない偶然の産物ですから、裁判の訴状に書く人はあまりいないのでは、と想像します。」
山崎という人は実に慎み深い。「先方の意図はよくわかりません」「誰々の子孫という家柄の話は…訴状に書く人はあまりいないのでは」という程度で筆を納めている。私は、竹田も竹田だが、こんなことをわざわざ書いた代理人弁護士の感覚を疑う。
「差別主義者」「自国優越思想」の適否を問題としている訴訟である。原告自ら、天皇の係累であることをひけらかしてどうする。墓穴を掘るに等しい。本気で勝つ気のない裁判であることを自白しているのではないか。
天皇こそが差別構造の象徴であり、その頂点に位置するものである。竹田の寄る辺は、前世紀の遺物としての血筋・家柄しかないのだ。最も恥ずべき、最も唾棄すべき人格としての家柄自慢。これ、「差別主義者」の心理以外のなにものでもない。
そして、もう1点。下記の一文をお読みいただきたい。誰の文章で、誰に宛てたものか、すぐにお分りだろうか。
「私の経験上、弁護士の多くは負けることが分かっていても訴訟したがります。負けてもお金になるから。あなたの知り合いの弁護士は、負けるリスクについても説明したのですかね? 私の弁護士は、勝ち目のない訴訟はやめるように助言してくれます。それが本当に信頼できる弁護です。」
常識的には、「私」は山崎雅弘で、「あなた」は竹田恒泰のように読めるだろう。スラップを提訴したのは、竹田恒泰の方なのだから。しかし、事実は奇であり、常識でははかれない世界の話。これは竹田恒泰のツィート(2019年11月29日午後11:42)である。「あなたの知り合いの弁護士」は、原文では「山崎雅弘氏の知り合いの弁護士」となっている。
不思議に思う。竹田恒泰が、自分が代理人として選任した弁護士から、敗訴のリスクを聞かされなかったはずはない。「勝ち目のない訴訟はやめるように助言」を受けたはずなのだ。敗訴によるダメージは決して小さくはない。現実に、敗訴を重ねた今、弁護士との信頼関係はどうなつているのだろうか。
もし、適切な助言なしに竹田のいう「勝ち目のない訴訟」に敢えて及んだとすれば、代理人弁護士の責任は大きい。この点は、下記の当ブログを参照いただきたい。
澤藤統一郎の憲法日記 ? スラップの提訴受任は、弁護士の非行として懲戒事由になり得る ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第193弾 (article9.jp)
控訴審判決書を受領した日の翌日から起算して14日以内であれば、敗訴者側は上告・上告受理申立が可能である。負けることが分かっていても、竹田は上訴することになるのだろうか。3度目の恥の上塗りは、おやめになった方がよいのだが。
(2021年3月21日)
都教委の悪名高い「10・23通達」(2003年)以来、都内の全公立校に卒業式・入学式のたびに、君が代斉唱時の「起立」の職務命令が発せられている。違反者には懲戒処分である。
もうすぐ懲戒処分取消の第5次訴訟の提起となる。原告は14名となる予定。3月31日と提訴日を決めて、いま訴状の作成準備を重ねている。
その準備の中であらためて思う。憲法を守るしっかりした司法があれば、国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制などはあり得ないものを。嘆かわしきは、憲法に忠実ならざる司法の姿。
その訴状の冒頭の一部(未確定版)を引用しておきたい。裁判所にこの訴訟の概要を説明する一文、新聞ならリードに当たる部分の一部である。
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本件訴訟の概要と意義(抜粋)
☆ 本件は毀損された「個人の尊厳」の回復を求める訴えである
(1) 精神的自由の否定が個人の尊厳を毀損している
本件は原告らに科せられた懲戒処分の取消を求める訴えであるところ、本件各懲戒処分の特質は、各原告の思想・良心・信仰の発露を制裁対象としていることにある。原告らに対する公権力の行使は、原告らの精神的自由を根底的に侵害し、そのこと故に原告らの「個人の尊厳」を毀損している。
原告らは、いずれも、公権力によって国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明を強制され、その強制に服しなかったとして懲戒処分という制裁を受けた。しかし、原告らは、日本国憲法下の主権者の一人として、その精神の中核に、「国旗・国歌」ないしは「日の丸・君が代」に対して敬意を表することはできない、あるいは、敬意を表してはならないという確固たる信念を有している。
国旗・国歌(日の丸・君が代)をめぐっての原告らの国家観、歴史観、憲法観、人権観、宗教観等々は、各原告個人の精神の中核を形成しており、国旗・国歌(日の丸・君が代)に対する敬意表明の強制は、原告らの精神の中核をなす信念に抵触するものとして受け容れがたい。職務命令と、懲戒処分という制裁をもっての強制は、原告らの「個人の尊厳」を毀損するものである。
(2)国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の意味
国旗・国歌が、国家の象徴である以上、原告らに対する国旗・国歌への敬意表明の強制は、国家と個人とを直接対峙させて、その憲法価値を衡量する場の設定とならざるを得ない。
国家象徴と意味付けられた旗と歌とは、被強制者の前には国家として立ち現れる。原告らはいずれも、個人の人権が、価値序列において国家に劣後してはならないとの信念を有しており、国旗・国歌への敬意表明の強制には従うことができない。
また、国旗・国歌とされている「日の丸・君が代」は、歴史的な旧体制の象徴である以上、原告らに対する「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、戦前の軍国主義、侵略主義、専制支配、人権否定、思想統制、宗教統制への、容認や妥協を求める側面を否定し得ない。
「日の丸・君が代」は、原告らの前には、日本国憲法が否定した反価値として立ち現れる。原告らはいずれも、日本国憲法の理念をこよなく大切と考える信念に照らして、日の丸・君が代への敬意表明の強制には従うことができない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明することはできないという、原告らの思想・良心・信仰にもとづく信念と、その発露たる儀式での不起立・不斉唱の行為とは真摯性を介して分かちがたく結びついており、公権力による起立・斉唱の強制も、その強制手段としての懲戒権の行使も各教員の思想・良心・信仰を非情に鞭打ち、その個人の尊厳を毀損するものである。司法が、このような個人の内面への鞭打ちを容認し、これに手を貸すようなことがあってはならない。
(3) 教育者の良心を鞭打ってはならない
また、本件は教育という営みの本質を問う訴訟でもある。
原告らは、次代の主権者を育成する教育者としての良心に基づいて、真摯に教育に携わっている。その教育者が教え子に対して自らの思想や良心を語ることなくして、教育という営みは成立し得ない。また、教育者が語る思想や良心を身をもって実践しない限り教育の成果は期待しがたい。『面従腹背』こそが教育者の最も忌むべき背徳である。本件において各原告が、「国旗不起立・国歌不斉唱」というかたちで、その身をもって語った思想・良心は、教員としての矜持において譲ることのできない、「やむにやまれぬ」思想・良心の発露なのである。これを、不行跡や怠慢に基づく懲戒事例と同列に扱うことはけっして許されない。
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制によって、教育現場の教員としての良心を鞭打ち、その良心の放棄を強制するようなことがあってはならない。
(4) 原告らに、踏み絵を迫ってはならない
原告らは、公権力の制裁を覚悟して不起立を貫き内なる良心に従うべきか、あるいは心ならずも保身のために良心を捨て去る痛みを甘受するか、その二律背反の苦汁の選択を迫られることとなった。原告らの人格の尊厳は、この苦汁の選択を迫られる中で傷つけられている。
原告らの苦悩は、江戸時代初期に幕府の官僚が発明した踏み絵を余儀なくされたキリスト教徒の苦悩と同質のものである。今の世に踏み絵を正当化する理由はあり得ない。キリスト教徒が少数だから、権力の権威を認めず危険だから、という正当化理由は成り立たない。
思想・良心・信仰の自由の保障とは、まさしく踏み絵を禁止すること、原告らの陥ったジレンマに人を陥れてはならないということにほかならない。個人の尊厳を掛けて、自ら信ずるところにしたがう真摯な選択は許容されなければならない。
以上のとおり、本件は毀損された原告らの「個人の尊厳」の回復を求める訴えである。その切実な声に、耳を傾けていただきたい。