寒く、じめじめした、陰鬱な日が続くが、季節はまぎれもなく夏である。暑中見舞いをいただいて、すでに小暑であることに気付く。七十二候では「蓮始開」の侯。
全国の自由法曹団や青年法律家協会系の法律事務所から、暑中見舞いを兼ねた事務所ニュースが届く。いずれも力作で、楽しく目を通す。
カラー印刷のレイアウトに凝ったものが多い中で、珍しく単色の無骨さが却って目立つのが、横浜合同法律事務所の事務所ニュース。
表紙に大きく、「暑中お見舞い申しあげます?憲法を護るための選挙の夏です」と書き込まれている。その下に、所員のメーデー参加時の集合写真(モノクロ)が掲載されている。大きな横断幕には「守るべきは、平和で安全な暮らし?安心して生活するため、憲法9条をいかそう?」というスローガン。「憲法9条を守ろう」ではなく、「憲法9条を活かそう」というのが、いかにも法律事務所らしい。
最初のページに、「民主主義を機能不全にしないために」という、小口千恵子弁護士の論稿。「民主主義の死」の危険を警告して刺激的である。
かつて民主主義は革命やクーデターによって死んだ。しかし、現代の民主主義の死は選挙から始まる。選挙というプロセスを経た強権的なリーダーが、司法を抱き込み、メディアを黙らせ、憲法を変える。『合法的独裁化』が世界中で静かに進む。これがハーバード大の2人の教授著の「民主主義の死に方」で指摘されている内容である。
安倍政権は、これまで国政選挙で5連勝してきた。……その結果、国会の討論が機能しなくなり、内閣に不利な情報は隠蔽・改ざんされ、忖度が横行し、最終的には数を頼んでの強行採決で法案が成立し、一強政権がますますのさばる結果となる。
前述の文献では、民主主義は、「相互的寛容」(競い合う政党がお互いを正当なライバルとして受け入れる)と「自制心」(節度をわきまえる)ことで成り立っているとされている。しかし、沖縄の辺野古問題でも明らかなとおり、安倍政権の下では民意は顧みられることもなく、国会の多数決原理のみ強調されて民主主義の根幹が無視され続けている。
独裁者を抑制するためには、独裁者に有利となるような制度に作り替えさせてはいけないし、また、民主主義の砦として人類の英知を結集して作り上げた憲法を独裁者のために献上してはならない。独裁者の暴走を許さず民主主義を守るために、来る国政選挙において、そのための投票行動が求められている。
「民主主義の死に方 ― 2極化する政治が招く独裁への道―」(原題“How Democracies Die”、スティーブン・レビツキー、ダニエル・ジブラット共著)は、濱野大道訳で、昨年(2018年9月)新潮社から出版されている。新潮社自身が、「司法を抱き込み、メディアを黙らせ、憲法を変える――。日本にも忍び寄る危機。」とキャッチを書いている。
新潮の惹句は、次のように続けている。
https://www.shinchosha.co.jp/book/507061/
世界中を混乱させるアメリカのトランプ大統領を誕生させ、各国でポピュリスト政党を台頭させるものとは一体何なのか。欧州と南米の民主主義の崩壊を20年以上研究する米ハーバード大の権威が、世界で静かに進む「合法的な独裁化」の実態を暴き、我々が直面する危機を抉り出す。全米ベストセラー待望の邦訳。
この書については、「論座」に、堀由紀子さん(編集者・KADOKAWA)の的確な書評がある。
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2018111900005.html
その一部を引用させていただく。
言わずもがなだが、民主主義は民衆が主権の国家のことで、対義語は独裁主義だ。民主主義は崩壊し、独裁主義となる。その転換が、クーデターなどの劇的なものであれば、両者の入れ替わりはわかりやすい。
しかし本書によれば、民主主義は、「多くの場合、見えにくいプロセスによってゆっくりと侵食されていく」。クーデターが起きるわけでも、緊急事態宣言が発令されるわけでも、憲法が停止されるわけでもない。選挙によって選ばれた政治家が、民主主義を少しずつ崩壊させて、憲法を骨抜きにし、「合法的に」独裁者となって君臨するというのだ。
こういった独裁者の登場を防ぎ、民主主義を護るために憲法は存在するのだが、著者たちは、「憲法は常に不完全だ」と言い切る。どれほどしっかりしたと思われる憲法であっても、恣意的な解釈や運用が可能なため、それだけでは民主主義は護れないという。
ではなにが民主主義を護るのか。それは「相互寛容」と「組織的自制心」の2つだという。
「相互寛容」とは、対立相手を自分の存在を脅かす脅威とみなさず、正当な存在とみなすこと。つまり、「政治家みんなが一丸となって意見の不一致を認めようとする意欲のこと」だ。
もうひとつの「組織的自制心」は、厳密には合法であっても、明らかにその精神に反するような行為は行わないようにすること。丁寧な言動やフェアプレーに重きを置き、汚い手段や強硬な戦術を控えなければいけないということだ。
ちなみに、この本の中では、日本のことは触れられていない(池上彰さんの巻頭解説を除いて)。しかし私は、今の日本との相似性を意識せずに読めなかった。カバーにある言葉、「司法を抱き込み、メディアを黙らせ、憲法を変える――。『合法的な独裁化』が世界中で静かに進む。全米ベストセラーの邦訳」をどう感じるだろうか。空気のように当たり前の民主主義を次世代に渡していくために。本書はその大きな手がかりをくれる。
民主主義の土台であり、民主的政治過程の出発点でもあるのが選挙であったはず。だからこそ、民主主義の実現を望む多くの人びとが、普通選挙制度の獲得に文字どおり身を呈し、権力者がこれを妨害してきた。ところが今、「現代の民主主義の死は選挙から始まる」と言われるに至っているのだ。
「司法を抱き込み、メディアを黙らせ、憲法を変える」。これは、まさしく、安倍政権の悪行を指している警鐘ではないか。安倍政権こそが、すでにそこにある「日本の政治的危機」ではないか。
来たる参院選は、憲法の命運がかかっているだけではない。民主主義の生死さえかかっているのではないか。次の選挙を、「民主主義の死」の第一歩としてはならない。
(2019年7月15日)
昨日(6月26日)、第198通常国会が150日の会期を終えて閉会となった。既に7月4日公示・同月21日投開票の参院選挙日程が確定している。いよいよ、日本国憲法の命運を左右する選挙戦の到来だ。
この国会会期中、改憲審議は1ミリの進行もなかった。衆参両院とも議席数では3分の2を上回る改憲派が、この千載一遇のチャンスを生かすことができなかったのだ。これはまさしく、民意のしからしむところ。議席分布と、改憲世論とはけっして相関していない。数では勝る自・公・維の改憲派議員も、改憲ゴリ押しの無理はできないことがよく分かっているからなのだ。
しかし、自民党は今回の選挙公約6本の柱の最後に、「憲法改正を目指す」を掲げた。自民党がこの選挙で「勝利」することとなれば、改憲への弾みとなり得る。
また、市民連合と5野党会派の「共通政策」も、その筆頭に「安倍政権が進めようとしている憲法『改定』とりわけ第9条『改定』に反対し、改憲発議そのものをさせないために全力を尽くすこと」を挙げた。野党陣営の「選挙勝利」は、改憲阻止の大義となる。
憲法の命運がかかる選挙ではあるが、実は必ずしも選挙の勝敗が憲法に関する民意如何で決せられるわけではない。選挙では、多くのイシューをならべて有権者の支持が競われるからだ。
いま、民意が改憲を望んでいるわけではない。だから、改憲勢力が、改憲提案を大きく前面に掲げて民意を問おうとすることはしない。安倍晋三が、昨日の記者会見で言ったことは、「(参院選の)最大の争点は安定した政治のもとで新しい改革を前に進めるのか、あの混迷の時代に逆戻りさせるのかだ」というものだった。必ずしも、改憲を前面に押し出し、改憲是非で、民意を問おうなどというものではない。
安倍は、民主党政権時代を極端に暗い世相に描き、経済の振興こそが最大の課題だとする。
「経済は低迷し、中小企業の倒産。今よりも4割も多かった。高校卒業し、大学を卒業して、どんなに頑張ってもなかなか就職できなかった。今よりも有効求人倍率が半分にしか過ぎなかったあの時代。全てのきっかけはあの参院選挙の大敗であります。まさに私の責任であり、そのことは片時たりとも忘れたことはありません。令和の新しい時代を迎え、あの時代に逆戻りをさせてはならない。そう決意をしております」
つまりは、安倍自民が前面に押し出すのは、経済問題であり、アベノミクスの「成果」なのだ。もちろん、アベノミクスが息切れし、その「成果」への実感が多くの人に乏しいことはアベ自身も良く知るところ。だから、「前政権の時代はひどかった」ことを強調して、「あれよりは今ずいぶんマシでしょう」となり。「あの時代に戻ってもよいとでも思っているのですか」と畳み込んでいるのだ。それが「政治の安定」か、「不安定な決められない政治」に戻すのか、という二者択一を突きつける問題設定となっている。
アベの戦略は、言わば「経済で票と議席を取って」、「その議席獲得の成果を改憲実現に生かす」というものだ。だから、改憲阻止を我がことと思う者は、今経済についても語らなければならない。アベノミクス批判の立場で。
この参院選は、「年金選挙」であり、「消費税選挙」である。総じて、経済や財政・税制のありかたが主たる問題となる。経済に関する論争を避けて通れない。
いまは、資本主義爛熟の世である。市場経済は、見えざる神の手による合理的な調和をもたらすとは、世迷い言。実は、この見えざる神は、多くの人を不幸に突き落とす死に神でしかない。
資本主義経済とは、これを野放しにしておけば、飽くなき資本の利潤追求欲求が多くの人々を搾取し収奪し尽くすことになる危険な存在である。富める者と貧しき者との不公正な格差は無限に広がり、長時間労働も幼児労働も蔓延し、植民地支配や好戦国家をも産み出す。その弊を除去するためには、経済の外からの別の理念による統制が必要なのだ。
民主主義の統治は、資本の搾取や収奪の自由を規制する。民主制国家の租税は、資本主義が原理的に作り出す貧富の格差を緩和するための、所得や富の再分配機能をもたなければならない。具体的には、徴税の場面では、担税能力の格差に対応する応能主義が原則となり、累進課税でなくてはならない。また、税の使途の局面では、国民の生存権を全うする福祉政策に適合するものでなくてはならない。
われわれ戦後教育を受けた世代は、福祉国家論を当然の常識として育った。国家は国民の自由を妨げてはならないと禁止されるだけでなく、富裕者からの富を集めて福祉政策を行うべく命令され、これを実行すべき任務を負っている。国家とは、財政とは、税務とは、そのように資本主義の矛盾を緩和して、資本の論理に対置される、人間の尊厳擁護の論理に奉仕するためにある。
このような視点から消費税を見れば、応能主義でもなければ、累進制でもない。むしろ、逆進制ではないか。どうして、こんな制度が、今の世に許されるのか。さらに、消費増税とは許しがたい。
そして年金制度。これも、所得と富の格差を緩和し、多くの人の老後の安泰を確保すべきものとして、年金支給原資に国庫資金を大きく組み入れてしかるべきなのだ。自助努力を強調する与党は、そもそも国家の成り立ちについての自覚に乏しいといわねばならない。
さて、これから、追々と参院選における経済的な論点の各論について書き継いでいきたい。改憲阻止のために、消費税・年金を論じようということだ。
(2019年6月27日)
本日(6月16日)初めて、益子に「朝露館」を訪ねた。13名の小さなグループの一員として。そこで、関谷興仁・石川逸子ご夫妻に、展示内容の説明を受けた。
関谷興仁とは何者か、彼の陶板彫刻美術とは何か。丸木美術館のホームページの中に、当時同美術館館長だった針生一郎が、「関谷興仁陶板作品私観」として語っている。2003年7月のこと。一部を抜粋して引用する。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2003/sekiya.htm
関谷興仁は1965年ごろまで組合活動に熱心な教師だったが、定年前にやめてクリーニング屋を経営しながら、新左翼の救援活動にたずさわるうち、80年代はじめから「何も考えずに」陶器づくりに集中しようと、益子の窯元に弟子入りした。
だが、土をこねると造形する暇もなくうかびあがるのは、大戦中のホロコースト、日本軍の殺戮、本土空襲や沖縄戦、特攻隊や原爆の無数の戦没者と、戦後の解放闘争や水俣のような公害の犠牲者たちの顔、顔だったという。
「僕には、こうして悼むしか、今に対する対し方はない。それは僕自身を悼むことである」という制作メモの一節が、わたしには切実に響く。
作品の構成をみると、主題別に厳選されたというより、これしかないと記憶からうかびあがった詩(詞)を彫りこんで焼成した陶板を組みあわせ、あるいはインスタレーション風に配置している。
金明植の叙事詩『漢拏(ハルラ)山』、石川逸子の90年代の長詩『千鳥ヶ淵へ行きましたか』、正田篠枝、深川宗俊の短歌、大原三八雄の英詩、石川逸子の詩集『ヒロシマ連祷』から成るヒロシマ・シリーズ。
とりわけ妻である石川逸子の詩は、さすがに詩的ヴィジョンの深まりを身近に受けとめてきた人生の同行者らしく、丸木位里と俊の『原爆の図』とそれ以後の共同制作に似た味わいがある。
戦争と戦後の無限の怨念をいだく死者の沈黙に迫ろうとする彼の仕事は、もしかしたら現代陶芸に新しいジャンルをきりひらくかもしれない。
(針生一郎 美術評論家・丸木美術館館長)
朝露館は、夥しい無辜の理不尽な死に想いを致す場である。本日、ここで石川逸子さんが、2編の自作の詩を朗読され、一同が聴き入った。
一編は、「千鳥ヶ淵に行きましたか」という長編詩の一節。そして、「もっと生きていたかった?子どもたちの伝言」と表題する詩集の一編「一枚の地図」。マレーシアにおける皇軍の蛮行をテーマにした、以下の詩。
一枚の地図
ここに
一枚の地図があります
市販の地図でいくら探しても
地図のなかの村は 見つからない
五十四年前
跡形なく消えてしまった村
マレーシア・ネグリセンビラン州ジュルブ県
イロンロン村
その地図を描いたのは
村が廃墟となったとき
十四歳の少女だった蕭月嬌
幻となった村の風景を
長く 胸にあたため
憤怒と悲哀のなかで 描きました
イロンロン村をゆったりと蛇行して
川はながれています
右手は鬱蒼とした山地
村の中央 川と道路の間には
大きな錫の精錬工場
蕭月嬌の家の裏手には学校
道路に面していくつかの店
小さな古い飛行場に
旗が二本 なびいています
村に入る道
また広い道路に沿って
あるいは川に沿って
家々が建ち並び
その一軒一軒に
住んでいた人の名が 丁寧に記されています
蕭来源
駱発
鐘月雲
張生
という具合に
まわりを山に囲まれ
空気はあくまで清らかに
作物は実り豊かに
戦いの日にも桃源郷のように
穏やかだった 村
つつましく 堅実に
助け合って働いていた村人たち
蕭月嬌は
母と姉 弟との 四人家族
畑で せっせと働きながら
日々 ただ楽しかったのです
一九四二年三月十八日
日本軍が不意にあらわれる
その日まで
その日
十四歳の蕭月嬌は
母を 弟を 失いました
ちょうど昼休み 十九歳の姉と家の食堂にいて
自転車に乗って村に入ってくる 日本軍人らに気づき
あわてて姉と裏門から抜けだし
這ってパイナップル畑に隠れたため
二人だけ助かったのです
まさか村中殺されるとは思わず
「日本軍はクーニヤンを見ると犯す」
という噂に逃れたのでした
夜になって
さらに隣村まで逃れ
バナナ園の溝に隠れて
はるか燃え上がるイロンロン村を見ていました
姉と抱き合い
そんな遠くまで聞こえてくる
村人たちの絶叫を 震えながら 聞いていました
翌朝帰っていった村は
いっぱいの死体
母も 弟も
生きてはいなかった
幼い弟はさんざん斬られてすぐ死ねず
道に這い出したのでしょう
もがき苦しんだ姿で息絶えていました
「おう どうしてこんな目めに会わなくてはならないのか!」
一九八六年夏
日本にやってきて
むせび泣きながら
証言された蕭月嬌さん
四十四年の月日が経っていました
姉は日本軍に連行されるのを恐れて
すぐ婚約者と結婚し
孤児となって過ごした解放までの
三年八ケ月
飢え
野の草 タニシを取って
空腹をごまかし
栄養失調で目は黒ずみ
死に近い日々だった
「おうどうしてこんな目に会わなくてはならないのか!
この世から
戦争を消滅させたい
それが願いです」
ハンカチで日を押さえ 言われました
イロンロン村
今は
一面に 生い茂る草草
ところどころぽうぽうとひょろ高い樹が生え
風にしなう 荒れはてた土地
そこに
かつて美しい村があり
人々が行きかい
つつましく働き
夢を語っていたことを
一枚の地図だけが 示しています
**********************************************************************
益子に行ったら、朝露館を訪ねてみてください。
〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子4117-3
電話番号 0285-72-3899
但し、開館時期は限られています。
春期(4月?6月) 秋期(9月?11月)
開館日:金曜・土曜・日曜
開館時間:12:00?16:00まで
※開館時期以外のお問い合わせはこちら
TEL:03-3694-4369(9:00?16:00)
なお、ホームページが充実しています。
http://chorogan.org/http://chorogan.org/access.html案内のユーチューブもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY
ぜひ、私のブログもどうぞ。
益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)ご案内
https://article9.jp/wordpress/?p=12202
(2019年6月16日)
「あたらしい憲法のはなし」は、青空文庫で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001128/files/43037_15804.html
これに目を通して驚いた。底本が、日本平和委員会発行のものだという。この底本平和委員会版「あたらしい憲法のはなし」は、1972年11月3日初版発行で、2004年1月までに、なんと38版を重ねている。確かに、ロングセラーなのだ。日本平和委員会発行ということは、日本の正統護憲勢力からお墨付きを得ていると言ってよい。何を隠そう、私も日本平和委員会の末端会員である。
護憲勢力から最も評価されたのが、「第6章 戰爭の放棄」であろう。確かに、ここは違和感なく読める。まず、全文を掲出しよう。
六 戰爭の放棄
? みなさんの中には、こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。それともとうとうおかえりにならなかったでしょうか。また、くうしゅうで、家やうちの人を、なくされた人も多いでしょう。いまやっと戰爭はおわりました。二度とこんなおそろしい、かなしい思いをしたくないと思いませんか。こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。このまえの世界戰爭のあとでも、もう戰爭は二度とやるまいと、多くの國々ではいろいろ考えましたが、またこんな大戰爭をおこしてしまったのは、まことに残念なことではありませんか。
そこでこんどの憲法では、日本の國が、けっして二度と戰爭をしないように、二つのことをきめました。その一つは、兵隊も軍艦も飛行機も、およそ戰爭をするためのものは、いっさいもたないということです。これからさき日本には、陸軍も海軍も空軍もないのです。これを戰力の放棄といいます。「放棄」とは「すててしまう」ということです。しかしみなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
? もう一つは、よその國と爭いごとがおこったとき、けっして戰爭によって、相手をまかして、じぶんのいいぶんをとおそうとしないということをきめたのです。おだやかにそうだんをして、きまりをつけようというのです。なぜならば、いくさをしかけることは、けっきょく、じぶんの國をほろぼすようなはめになるからです。また、戰爭とまでゆかずとも、國の力で、相手をおどすようなことは、いっさいしないことにきめたのです。これを戰爭の放棄というのです。そうしてよその國となかよくして、世界中の國が、よい友だちになってくれるようにすれば、日本の國は、さかえてゆけるのです。
? みなさん、あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように、また戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。
いくつも、心に留めなければならないフレーズがある。
こんな戰爭をして、日本の國はどんな利益があったでしょうか。何もありません。たゞ、おそろしい、かなしいことが、たくさんおこっただけではありませんか。
戰爭は人間をほろぼすことです。世の中のよいものをこわすことです。
(戰力の放棄に関し)みなさんは、けっして心ぼそく思うことはありません。日本は正しいことを、ほかの國よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません。
立派な文章だと思う。しかし、どうしても手放しでの賛美はできない。この文章の足らざるところに、やはり批判が必要だ。
まず何よりも、ここには被害感情と厭戦の気分は書き込まれているが、加害責任については、まったく触れられていない。
この一文は「こんどの戰爭に、おとうさんやにいさんを送りだされた人も多いでしょう。ごぶじにおかえりになったでしょうか。」から始まっている。そのとおり、「日本は兵隊を戦地に送り出した」のだ。だから、戦争とは長く、「外地」でのできごとだった。その「外地」に、兵隊として「送りだされたおとうさんやにいさんたち」は何をしたか。もちろん、侵略者として闘ったのだ。明らかな加害者だった。
「こんなおそろしい、かなしい思い」は、実は皇軍に蹂躙された近隣諸国の民衆が真っ先に味わったことなのだ。その加害の責任に、この書が言及するところはない。
もう一つ。戦争の加害責任に触れないだけでなく、日本の植民地支配にも触れていない。台湾・朝鮮・満州などの支配について、「いったい、日本はこれまでどんなことをしてきたのでしょうか」と反省を述べるところが皆無なのだ。
また、「どうして戦争が起きたのでしょうか」「誰に責任があったのでしょうか」と考えさせる視点もない。国民を戦争に駆りたてた、教育や言論統制や国民監視体制や、思想統制についての反省も皆無である。
戦争を命じた天皇の責任、「上官の命令は天皇の命令」として軍を統帥した天皇の責任、戦争を煽る道具としてこの上なく便利な役割を果たした神なる天皇についても一言も書かれていない。
この教科書をつくる過程で、どのような綱引きが行われたのだろうか。次の文章には、筆者が言いたいことが押さえつけられたような印象をもたざるを得ない。
「だから、こんどの戰爭をしかけた國には、大きな責任があるといわなければなりません。」
これは、日本としての反省を文章化したものだろうか。
終わりは、「あのおそろしい戰爭が、二度とおこらないように」で文章を終わらせず、「戰爭を二度とおこさないようにいたしましょう。」と結んである。
戦争は、自然災害ではない。「二度とおこらないように」祈るだけではなく、「二度とおこさないようにいたしましょう」と、やや主体性ある姿勢を見せているのだ。さらに、「おこさせないようにいたしましょう」だと、天皇や財閥や保守政治家に釘を刺す内容となったはずなのだが。
ところで、「護衛艦『いずも』の空母化」や、「政府 F35戦闘機を105機購入へ」と話題となる時代が到来している。
「ほかの國よりさきに、正しいことを行ったはずの日本」が、今や「正しくないこと」に手を染めている。まこと、「世の中に正しいことぐらい強いものはなく、正しくないことぐらい弱いものはありません」。だから、われわれは、いま、安倍政権のもとで、心ぼそい思いをしなければならないのだ。
たまたま本日(12月13日)、日中戦争での日本軍南京入城の日。
(2018年12月13日)
周知のとおり、日本国憲法は、1947年5月3日に施行された。その年の8月、文部省は新憲法の解説書をつくっている。よく知られている「あたらしい憲法のはなし」である。新制中学校1年生用社会科の教科書として発行されたもの。1947年8月2日文部省検査済とされている。
「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」の15章からなるもの。《再軍備》《逆コース》が災いして、1950年に副読本に格下げされ、1951年から使われなくなった。そういわれている。
ときに礼賛の対象とされてきた「あたらしい憲法のはなし」だが、今見直して、その内容は時代の制約を受けたものと言わざるを得ない。とりわけ、天皇に関する解説は、萎縮して何を言っているのかよく分からない。こんなものを戦後民主主義の申し子のごとく、褒めそやしてはならない。以下に、第5章『天皇陛下』の全文とその批判を掲記しておきたい。
五 天皇陛下
こんどの戰爭で、天皇陛下は、たいへんごくろうをなさいました。
えっ? 「こんどの戰爭で、天皇陛下は、国民の皆様にたいへんごくろうをかけてしまいました」のお間違いではありませんか。天皇(裕仁)もその家族も苦労なんかしていませんよ。国民は、天皇が始めた戦争で、文字通り辛酸を嘗めたのです。「苦労しました」なんてものじゃない。徴兵され、あるいは徴用され、上官からのビンタを受け、戦地で死の恐怖に曝され、ジャングルの中で飢えに苦しみ、空襲で焼け出され、実に310万人もの死者を出したのです。天皇(裕仁)とその家族は、戦地へ行くことも死の恐怖に怯えることもなく、なによりも飢えていないじゃないですか。
なぜならば、古い憲法では、天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかったので、國民の考えとはなれて、とうとう戰爭になったからです。
「なぜならば」って、「なぜ、天皇が、こんどの戰爭でたいへんごくろうをなされたのか」という理由ですよね。そんなこと、わざわざ教科書に書くことじゃないでしょう。でも、「天皇をお助けして國の仕事をした人々は、國民ぜんたいがえらんだものでなかった」だけは、多分正しい。たとえば、東条英樹に組閣を命じたのは、國民ぜんたいではなく、天皇(裕仁)自身だったのですからね。
そこで、これからさき國を治めてゆくについて、二度とこのようなことのないように、あたらしい憲法をこしらえるとき、たいへん苦心をいたしました。ですから、天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。
「二度とこのようなことのないように」って、日本語の正確な読み方では、「二度と天皇陛下が、たいへんごくろうをなさるようなことのないように」ってこと。そんなことのために、憲法をこしらえたの? そんなふうに憲法をこしらえるために苦心したというの? ヘンなの。でも、「天皇は、憲法で定めたお仕事だけをされ、政治には関係されないことになりました。」は、そのとおり。ここだけ、天皇に「陛下」が付いていませんね。これは偶然?
憲法は、天皇陛下を「象徴」としてゆくことにきめました。みなさんは、この象徴ということを、はっきり知らなければなりません。日の丸の國旗を見れば、日本の國をおもいだすでしょう。國旗が國の代わりになって、國をあらわすからです。みなさんの学校の記章を見れば、どこの学校の生徒かがわかるでしょう。記章が学校の代わりになって、学校をあらわすからです。いまこゝに何か眼に見えるものがあって、ほかの眼に見えないものの代わりになって、それをあらわすときに、これを「象徴」ということばでいいあらわすのです。こんどの憲法の第一條は、天皇陛下を「日本國の象徴」としているのです。つまり天皇陛下は、日本の國をあらわされるお方ということであります。
こんな説明で分かるはずはありません。「天皇は『日本の國をあらわされるお方』」って言うんですか。それって何のことだか分かりません。ほんとうは、この文章を書いた人もさっぱり分かっていないんですね。天皇自身だって、なんだか分からない。だから、「はっきり知らなければなりません。」といわれても、「なんだか分かりません」としか言いようがない。分かったふりをする必要はありませんよね。
それぞれの学校にバッジがあり校旗があって、バッジを付けていたり校旗を掲揚していれば、どこの学校の生徒かがわかります。象徴の説明としてはよく分かりますね。でも、天皇って本当にバッジみたいなもんですか。校旗みたいなもんですか。アメリカにも、フランスにも、中国にも韓国にも、天皇はいません。なぜ戦後の日本に天皇がまだいるのか、本当に必要なのか、ここには何も書いてありません。書けないんですよね。なんだか得体が知れないけれど、否定しがたくともかく存在するもの。語るときには、敬語を使わなければならないもの。それが天皇ですね。天皇ってなんだ、と説明しなければならないので、憲法に書いてあるとおり、「象徴」と書き込んでみただけ。でも、本当にはなんの説明にもなっていない。そんなものですよね。
また憲法第一條は、天皇陛下を「日本國民統合の象徴」であるとも書いてあるのです。「統合」というのは「一つにまとまっている」ということです。つまり天皇陛下は、一つにまとまった日本國民の象徴でいらっしゃいます。これは、私たち日本國民ぜんたいの中心としておいでになるお方ということなのです。それで天皇陛下は、日本國民ぜんたいをあらわされるのです。
この辺が、文部省の本音でしょうか。「一つにまとまっている」のが良いことだと考えているんですね。戦時中、日本の国民は「一億火の玉」となり、「一つにまとまって」侵略戦争に邁進しました。その「火の玉」の中心にいたのが天皇ですが、その反省はないのでしょうか。日本の国民を、もう一度天皇中心の「一億火の玉」にしたいのでしょうか。どうしてまた、あらためて日本國民ぜんたいがこんなにも危険な天皇を中心にまとまらなければならないというのでしょうか。
このような地位に天皇陛下をお置き申したのは、日本國民ぜんたいの考えにあるのです。これからさき、國を治めてゆく仕事は、みな國民がじぶんでやってゆかなければなりません。
おや、そうでしょうか。天皇制をなくそうという意見もあったはずです。多くの国民が天皇の名による戦争で苦しみ、10万もの人が、治安維持法によって天皇の警察に逮捕されひどい目に遭わされたのですから。けっして、「日本國民ぜんたい」の考えであったはずはないとおもいますが。
天皇陛下は、けっして神様ではありません。國民と同じような人間でいらっしゃいます。ラジオのほうそうもなさいました。小さな町のすみにもおいでになりました。ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません。これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。
これって、教科書の文章ですよね。とてもヘン。二つの文を結ぶ順接の接続詞「ですから」が理解不能です。前の文は「天皇は神でない」ということで、後の文は「天皇にごくろうのないようにしなければなりません」ということ。なぜ、「天皇は神でない」ということを理由ないし根拠として、「ですから、私たちは、天皇を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」と言えるのでしょうか。論理として成立し得ません。「これで憲法が天皇陛下を象徴とした意味がおわかりでしょう。」と言われたって、金輪際分かるはずがない。
非論理的で出来の悪い文章。当時の文部省のお役人は、こんな程度だったのでしょうかね。もしかしたら、結論が先に決まっていたのかも知れません。「ですから私たちは、天皇陛下を私たちのまん中にしっかりとお置きして、國を治めてゆくについてごくろうのないようにしなければなりません」とまとめる必要があったのでしょうね。また、もしかしたら「ですから」って付けたのは、わざと子どもたちへの突っ込みどころをこしらえたのかも知れません。わざわざヘンな文章をこしらえて、子供たちに天皇の存在に対する疑問を醸成するよう深謀遠慮があったのかも。これも文部官僚による面従腹背の伝統だと思えば、当時の文部省のお役人の優秀さがよく分かります。
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?「森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会」からの訴えです。
「会」は、麻生財務大臣の辞任を求める<署名運動>と<財務省前アピール行動+デモ>を呼びかけています。
財務省前アピール行動+デモ
11月11日(日)
13時? 財務省前アピール行動
14時 デモ出発
■<署名>と<財務省前アピール行動+デモ>の資料一式をまとめたサイト■
http://sinkan.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/1111-5336-1.html
ぜひ、これをメールやツイッタ?で拡散してください。
■できるだけメッセージを添えてネット署名を■
上記の「まとめサイト」の右サイド・バーの最上段に、
1.署名用紙のダウンロード http://bit.ly/2ygbmHe
2.ネット署名の入力フォーム http://bit.ly/2IFNx0A
3.ネット署名のメッセージ公開 http://bit.ly/2Rpf6Pm
が貼り付けられています。
ぜひとも、ご協力をよろしくお願いします。もちろん、メッセージを割愛して、ネット署名だけでも結構です。
なお、署名の文面は以下のとおりです。
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財務大臣 麻生太郎 様
無責任きわまりない麻生太郎氏の財務大臣留任に抗議し、即刻辞任を求めます
森友・加計問題の幕引きを許さない市民の会
10月2日に発足した第4次安倍改造内閣で麻生太郎氏が財務大臣に留任しました。しかし、第3次安倍内閣当時、財務省では、佐川宣寿氏が理財局当時の国会での数々の虚偽答弁、公文書改ざんへの関与の責任をとって国税庁長官の辞任に追い込まれました。また、福田淳一氏は女性記者への破廉恥なセクハラ発言を告発され、事務次官の辞職に追い込まれました。いずれも麻生氏が任命権者の人事でした。
しかし、麻生氏は厳しい世論の批判にも居直りを続け、事態を放置しました。それどころか、森友学園への国有地の破格の安値売却について、録音データなど動かぬ証拠を突きつけられても、なお、「処分は適正になされた」「私は報道より部下を信じる」と強弁し続けました。
福田次官のセクハラ行為については、辞任が認められた後も「はめられたという意見もある」などと暴言を吐きました。
なによりも、第3次安倍内閣当時、財務省では公文書の隠蔽、決裁文書の改ざんという前代未聞の悪質きわまりない国民への背信行為が発覚しましたが、それでも麻生氏は、会見の場で記者を見下す不真面目で下品下劣としか言いようがない答弁を繰り返しました。
こうした経歴の麻生氏が私たちの税金を預かり、税金の使い道を采配する財務省のトップに居座ることに、私たちと大多数の国民は、もはや我慢の限界を超えています。
麻生氏を留任させた安倍首相の任命責任が問われるのはきわめて当然のことですが、任命権者の意向以前に私たちは、麻生氏自身が自らの意思で進退を判断されるべきだと考え、次のことを申し入れます。
申し入れ
麻生太郎氏は財務省をめぐる数々の背任、国.に対する背信の責任をとって直ちに財務大臣を辞任すること
私は上記の申し入れに賛同し、以下のとおり、署名します。
(2018年11月8日)
ご近所の皆様、ここ本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま。こちらは平和憲法を守ろうという一点で連帯した行動を続けています「本郷・湯島九条の会」です。私は近所に住む者で、憲法の理念を大切にし、人権を擁護する立場で、弁護士として仕事をしています。
真夏の真昼時、暑いさなかですが、平和を守ろう、憲法9条を大切にしようという熱い訴えに、少しの時間耳をお貸しください。
73年前の今日、1945年8月14日午前10時に千代田区内某所で「特別御前会議」なる戦争指導者全員が参集した会議が開かれ、その席でポツダム宣言受諾を決定しました。そしてこの日、天皇(裕仁)の名で連合国(米・英・中・ソ)にその旨を通告し、法的には日中戦争・太平洋戦争が日本の無条件降伏で終了しました。調印式が9月2日横浜沖のミズーリ号上で行われたのは、ご存じのとおりです。既に、ムソリーニは虐殺され、ヒトラーは自殺して、イタリア・ドイツは敗北していましたから、最後の枢軸国日本の敗戦は、第2次大戦の終了でもありました。
そして、翌8月15日正午、天皇が読み上げた「大東亜戦争終結に関する詔書」の録音がNHKのラジオで放送されて、国民に敗戦を知らせました。国力を傾け尽くし、310万人の自国民死者と、2000万人にも及ぶ近隣諸国の犠牲者を出した末に、ようやくにして悲惨な侵略戦争は終わりました。
8月15日正午の天皇の放送は、1億国民からさまざまな思いで受けとられ、さまざまな記録が残されています。名古屋の武田徳三郎さんと志津さん夫妻の場合はこうでした。
夫妻の息子二人は、学徒動員で軍需工場に働いていましたが、名古屋の大空襲で、二人とも亡くなりました。夫妻は、必死になって、夜昼となく遺体を探しますが、ついに肉のカケラも服の端切れさえ見つからなかった。80キロあった徳三郎さんの体重は50キロまで減ったということです。「死のう」「いや、ワシらが死ねば、弔いをする者がなくなる」と思う日々が続いて、8月15日を迎えます―。
天皇陛下の玉音放送があった。「一億玉砕」とばかり信じていた。…だが、四球のラジオから流れる玉音は、ザァザァという雑音の中で無条件降伏を伝えた。…「そんなバカな! 手をあげてやめられる戦争なら、なぜもっと早くやめてくれなんだ。陛下さま、ワシの息子らは、これで犬死になってしもうたがや―」徳三郎さんは泣き崩れた。(毎日新聞社編『名古屋大空襲』)
これを引用した近代史研究者の色川大吉は、1975年にこう書いています。
私はこの部分を天皇(註・裕仁)に読んでもらいたいと思う。「手をあげてやめられる戦争なら、なぜもっと早くやめてくれなんだ!」 この悲痛な叫びは、ポツダム宣言の受諾をめぐって天皇制の存続を条件にグズグズ日を延ばしていたあいだにも、50万人以上の民衆を殺し、徳三郎さん夫妻のような、もはや永久に救われない運命を負った庶民を無数に生み出してしまったのである。
無数の悲劇を重ねて、長い長い戦争が終わりました。再び、この戦争の惨禍を繰り返してはならない。多くの人々の切実な思いが、平和憲法に結実しました。とりわけその9条が、再びの戦争を起こさないという国民の決意であり、近隣諸国への誓約でもあります。
大日本帝国憲法は戦争を当然の政策と考え、軍隊の組織編成や、国民を戦争に動員する手続を定めています。戦争を抑制しようという憲法ではなく、主権者である天皇の名による戦争を煽った憲法と言ってもよいと思います。きっぱりとこの好戦憲法は捨て去られ、平和憲法が採択されました。
日本国憲法は、戦争を放棄し戦力を保持しないことを憲法に明確に書き込みました。それだけではなく、この憲法には一切戦争や軍隊に関わる規定がありません。9条だけでなく、全条文が徹頭徹尾平和憲法なのです。戦争という政策の選択肢を持たない憲法。権力者が、武力の行使や戦争に訴えることのないよう歯止めを掛けている憲法。それこそが平和憲法なのです。
ところが、歴代の保守政権は、この憲法が嫌いなのです。とりわけ、安倍政権は憲法に従わなければならない立場にありながら、日本国憲法が大嫌い。中でも9条を変えたくて仕方がないのです。
彼が言う「戦後レジームからの脱却」「日本を、取り戻す」とは、日本国憲法の総体を敵視するという宣言にほかなりません。「戦後」とは、1945年敗戦以前の「戦前」を否定して確認された普遍的な理念です。人権尊重であり、国民主権であり、議会制民主主義であり、なによりも平和を意味します。戦後民主主義、戦後平和、戦後教育、戦後憲法等々。戦前を否定しての価値判断にほかなりません。安倍首相は、これを再否定して「戦前にあったはずの美しい日本」を取り戻そうというのです。
戦後73年、日本国憲法施行以来71年、国民は日本国憲法を護り抜いてきました。それは平和を守り抜くことでもありました。そうすることで、この憲法を自らの血肉としてきました。平和は、憲法の条文を護るだけでは実現できません。国民の意識や運動と一体になってはじめて、憲法の理念が現実のものとして生きてきます。平和憲法をその改悪のたくらみから護り抜き、これを活用することによって恒久の平和を大切にしたいと思います。
そのため、安倍9条改憲を阻止して、「戦後レジームからの脱却」などというふざけたスローガンを克服して行こうではありませんか。夏、8月、暑いさなかですが、そのような思いを新たにすべきとき。憲法9条と平和を大切にしようという訴えに、耳をお貸しいただき、ありがとうございました。
(2018年8月14日)
本日(4月19日)の朝刊で、武田清子さんが4月12日に亡くなられていたことを知った。思想史学者で国際基督教大名誉教授。1917年のお生まれは、丸山真男(1914年生)や鶴見俊輔(1922年生)らと同世代で、享年がちょうど100となる。
靖国訴訟に携わった際に、「天皇観の相剋ー1945年前後ー」に目を通した。
その際には、アメリカ占領軍の対日占領政策における天皇制廃止論と天皇制存続論との「相克」としてだけ理解した。戦後民主化の障害物として廃止の対象とする天皇観と、効率的に支配と民主化に利用できるものみる天皇観との相克。
連合国の天皇や天皇制への批判は厳しかった。たとえば、同書の中に、終戦直前のワシントンポスト(1945年6月29日付)が報じるギャラップ世論調査の紹介がある。天皇(裕仁)の取り扱いに関するアメリカの世論は、以下のとおりである。
処刑 33%
終身刑 11%
追放 9%
裁判で決定 17%
日本を動かすパペットに利用せよ 3%
軍閥の道具だから何もしない 4%
雑・回答なし 23%
天皇個人を処罰し天皇制を廃止すべし、というのが圧倒的な戦勝国の世論だった。「日本の天皇制が根こそぎに除去されるまで、日本人を文明人の仲間とすることは不可能である」(『シカゴ・ニュース』)、「あの、中世的ミカド・システム(天皇制)が、温存されている限り、太平洋にはけっして平和はあり得ない」(『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』)、「裕仁は、日本の軍事的冒険に直接的に責任がある」(雑誌『ネーション』)などの米国内の論調が紹介されてもいる。オーストラリアの世論は、さらに天皇や天皇制に厳しいものだったという。
しかし、天皇(裕仁)は「処刑」・「終身刑」・「追放」にはならず、「裁判で決定」にすらならなかった。この範疇の世論合計が70%にも達していたにもかかわらずである。彼は、戦犯としての起訴を免れ、3%の支持しかなかった「日本を動かすパペットに利用」という政策が採られることになった。
これは、奇妙ではないか。圧倒的な世論を背景とした峻厳なラティモアらの天皇制廃止派と、占領政策の効率的な運用という観点からのグルーら妥協的天皇制温存派の「相克」において、どうして前者が敗れて後者の採用となったか。当時の私はその関心だけで読んだ。しかし、これは皮相な読み方だったようだ。
この書の広告文に、「廃止か保持か―日本降伏をめぐる英・米・オーストラリア・中国など連合国側のさまざまな天皇観の対立・相剋をはじめて実証的に明らかにし、戦後改革を伝統社会の変容のドラマとして解明した画期的研究。諸外国の「鏡」に映し出された天皇制のイメージは、同時に日本人のいかなる思考や集団行動様式を反映しているのか。」とある。相克は、「諸外国の『鏡』に映し出された日本自身の天皇制の二重のイメージ」だということがこの書の眼目のようなのだ。
著者自身が、朝日.comのインタビューで、次のように分かり易く、明快に語っている。
「1945年前後の連合国では、天皇観が対立していました。アメリカの中国専門家オーエン・ラティモアは『アジアにおける解決』で、天皇制を廃止しなければ日本の民主化はできないと主張しました。オーストラリアも天皇制廃止論の強い国の一つでした。一方で、アメリカの駐日大使だったジョセフ・グルーは、天皇は秩序維持に不可欠な『女王蜂』であり、右翼や軍国主義者を排除すれば天皇がいても日本は民主化できる、と楽観的でした。
この相剋の帰結は、天皇の人間宣言や象徴天皇制となりますが、実は外国という鏡に映った日本の中の相剋だったというのが私の見方です。そもそも明治維新のシンボルとしての天皇観に対立があった。吉田松陰は『天下は一人の天下』と絶対主義的な天皇観であり、山県太華は『天下は天下の天下』と制限君主的な天皇観でした。
明治憲法の起草者である伊藤博文の思想も二重構造でした。『万世一系ノ天皇』は『神聖ニシテ侵スヘカラス』だから、天皇は憲法も超える存在だと民衆には説く。他方で、政治家や民権論者に対しては、憲法は君主権を制限するものだという解釈を示す。これはその後、超国家主義である国体明徴運動と、民本主義の大正デモクラシーや天皇機関説とに分解していきます。
二重構造の天皇観が、敗戦で連合国という異質の文化と出会い、民主化というドラマが始まりました。その時、連合国と共演した日本人は誰なのか。私は、天皇の側近だったようなオールドリベラリストではなく、大正デモクラシーや天皇機関説でインパクトを与えられ、民主化への希望を懐に持っていた一般民衆だったと思いました。そういう人たちが新憲法を支持した。(以下略)」
なるほど、相克しているのはもともとわが国に古くからあった「二重構造の天皇観」なのだ。これをキーワードに読み直すと、いろんなことが見えてくる。
著者は、近代日本の形成過程の中に、天皇に関する二つのイメージ、二つの相対立する天皇観が存在し、その両要素がパラドキシカルな緊張関係を保ちながら機能していた、と分析する。
単純化していえば、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」と、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」との、二つの天皇のイメージが、近代日本を貫いて二重構造・二元制をなして機能してきた。これが近代日本の内包する天皇観の相克で、こうした相矛盾する天皇観が外国の鏡に自らを投影し、それが無条件降伏後の日本の占領政策にはね返ってきた、というのだ。
具体的には、「神話的・絶対主義的・大権主義的天皇観」からは天皇制廃止の方針しか出てこない。しかし、「憲法の制限のもとに君主権を行使するところの『民主主義』的天皇観」からは天皇制を温存しつつ、平穏な民主化という選択肢が現実的なものと映ることになる。日本の占領政策は後者をメインに折れ合って、天皇の権威を利用して成功裡に平穏な民主化を実現したことになる。
この分析は、天皇・天皇制の考察を中心に、戦前と戦後の連続性と断絶性の契機を考える基本視点を提供するものでもある。天皇制の相克の折り合いは、戦前と戦後の断絶性と連続性との折り合いでもある。天皇制を温存した戦後は、戦前的な多くのものを引きずって今日に至っている。天皇制温存の「民主化」は平穏な過程というメリットとともに、自ずから不徹底な限界を内在する宿命にもあったのだ。
わが国戦後の天皇制存続下の民主化は、昨今における北朝鮮の金体制温存下での民主化の課題を彷彿とさせる。微温的に天皇制を温存しつつこれを「無力化」した日本の戦後民主主義改革の如くに、金体制の存続を保証しつつ、民主化や国際協調が可能なのだろうか。
(2018年4月19日)
本日(2月20日)は多喜二忌。1933年の今日、小林多喜二は築地署で虐殺された。その葬儀の会葬者も一斉に検挙された。この無念の思い忘れまじ。天皇制権力の暴虐許すまじ。そう思いを新たにすべき日。再びあの暗黒の時代の再来を許してはならない。こんな時代の「日本を取り戻」させてはならない。思想・良心の自由、結社の自由、表現の自由、政治活動の自由の貴重さを銘記しよう。そして、その自由獲得のために闘った先人の気概と覚悟を偲ぶ学ぶべき日。
筆名「575fudemakase」氏のサイトに、多喜二忌を詠んだ俳人の50余句が集められている。転載をお許しいただこう。
http://fudemaka57.exblog.jp/23611557/
なお、下記のURLにも同じ句が集められている。
http://taka.no.coocan.jp/a5/cgi-bin/HAIKUreikuDB/ZOU/SHAKAIseikatu/932.htm#takiji
門外漢の私には、とても取捨選択などできない。全句を転載させていただく。(「かぎかっこ」は出典)
かなしげな犬の眼に逢ひ多喜二の忌 河野南畦 「湖の森」
ごぼりごぼりと今もこの川多喜二の忌 原田喬
てのひらで豆腐切らるる多喜二の忌 関谷雁夫
ふつつりと海の暮れたる多喜二の忌 成田智世子
もり塩に人の世灯る多喜二の忌 佃藤尾
スコップに雪の切れ味多喜二の忌 辻田克巳
タラバ蟹足括られて多喜二の忌 村井杜子
バラバラのパックの蟹買ふ多喜二の忌 斎藤由美
傷ぐるみ漉されしおもひ多喜二の忌 栗林千津
口シヤより蟹船の着く多喜二の忌 吉田君子
吹かれゐて髪が目を刺す多喜二の忌 角谷昌子
咽ぶごと雑木萌えおり多喜二忌以後 赤城さかえ
多喜二忌のあをぞらのまま夜の樅 大坪重治
多喜二忌の全灯点る魚市場 木村敏男
多喜二忌の埠頭に刺さる波の先 源 鬼彦
多喜二忌の夜空に白き飛行船 板谷芳浄
多喜二忌の崖に野鳥の骨刺さり 友岡子郷 「遠方」
多喜二忌の市電に走り追ひつくも 本多静江
多喜二忌の干して軍手に左右なし 長岐靖朗
多喜二忌の星大粒に海の上 菖蒲あや
多喜二忌の毛蟹抛られ糶(せ)られけり 菖蒲あや「あや」
多喜二忌の海真つ青に目覚めけり 木村敏男
多喜二忌の海鼠腸抜かれをりにけり 矢代克康
多喜二忌の焼いても口を割らぬ貝 飯田あさ江
多喜二忌の稿更けわたる廻套(まわし)かぶり 赤城さかえ
多喜二忌の肉食の眼のひかるなり 谷山花猿
多喜二忌の魚は海へ向けて干す 大牧 広
多喜二忌やまだある築地警察署 三橋敏雄
多喜二忌やベストの釦掛け違ふ 二宮一知
多喜二忌や地に嫋嫋と濡れわかめ 大木あまり「山の夢」
多喜二忌や工衣の襟のすりきれし 福地 豊
多喜二忌や焦げ目のつかぬ炊飯器 五十嵐修
多喜二忌や発禁の書を読み返し 遠藤若狭男
多喜二忌や糸きりきりとハムの腕 秋元不死男
多喜二忌や赤き実残る防雪林 佐々木茂
多喜二忌や鈍色の浪くづれたる 大竹多可志
夫若く故郷出でし日多喜二の忌 石田あき子「見舞籠」
指で裂く鰯の腹や多喜二の忌 生江通子
比内鶏噛みしめている多喜二の忌 有賀元子
汽罐車の目鼻の雪や多喜二の忌 平井さち子「完流」
沖どめの船が水吐く多喜二の忌 原田青児
洗ふ皿くきくきと鳴く多喜二の忌 岡部いさむ
海に降る雨横なぐり多喜二の忌 吉田ひろし
煙草火を借りて離任す多喜二の忌 国枝隆生
爪深くインク浸みをり多喜二の忌 鈴木智子
石斧のごとき残雪多喜二の忌 関口謙太
紅梅の夜空がそこに多喜二の忌 原田喬
蟹に指挟まれ多喜二忌の渚 石井里風
蟹缶の赤きラベルや多喜二の忌 有田 文
躍りゆく水の分厚さ多喜二の忌 佐々木幸
錐揉んでてのひら熱き多喜二の忌 伊藤柳香
音のして飯炊けてくる多喜二の忌 森田智子
饅頭に焼ごてを当て多喜二の忌 久保田千
このなかの一句。「夫若く故郷出でし日多喜二の忌」の若き夫とは、石田波郷のこと。あき子はその妻で自身も俳人。多喜二忌を悲惨な思い出とするのではなく、出立や希望に重ねているのだ。
「多喜二忌やまだある築地警察署」と詠んだ三橋敏雄は、生年が1920年で2001年に没した俳人。多喜二虐殺の頃には13才だったことになる。
その年代の彼が、戦後に「まだある」と詠んだ感慨はどんなものだっただろうか。「あってはならないものがまだある」「忌まわしいものが厳然と滅びずにまだある」ということだったろう。そして、「まだある」のは築地署の建物だけでなく、戦後も続く権力機構としての警察の恐ろしさではなかっただろうか。
三橋敏雄が「まだある」と詠んだ当時の築地署は多喜二虐殺の現場を残したものであっただろう。何年か前、私も築地署に行きその周囲も見てきた。もちろん建て替え済みの庁舎となってはいたが、築地署の裏門近くには、多喜二の死亡診断書を書いた前田医院が残っていた。ここで多喜二が殺されたのか、現場は思いを深くする力をもっている。
なお、昨年の今日、市田忠義さんのツィートが、朝日の俳壇から次の句を紹介している。
『光てふ縛れざるもの多喜二の忌』(向日市・松重 幹雄)
大串章・選評 「今日は多喜二忌。拷問によって獄死した小林多喜二は時代の光であった。」(今朝の朝日 俳壇)
多喜二忌の今ころは、寒さは厳しくも、光の春。光とは希望だ。権力が人の身体を縛ることはできても、心の中の光てふ希望までは縛れない。
(2018年2月20日)
昨日(7月24日)、閉会中審査の衆院予算委員会において、安倍晋三はこう述べたという。
「『李下に冠を正さず』という言葉がある。私の友人が関わることで、国民から疑念の目が向けられることはもっともなことだ。私の今までの答弁ではその観点が欠けており、足らざる点があったことは率直に認めなければならない。常に国民目線に立ち、丁寧なうえにも丁寧に説明を重ねる努力を続けていきたい」
殊勝な言葉のつもりなのかも知れないが、なんとも軽く歯が浮く。責任の重さの観点が決定的に欠けている。
「李下に冠を正さず」の成語の出典は、『古楽府』の「君子行」だという。デンデン総理が、「ボクだってこれくらいのことは知っている」とひけらかして見せたわけだ。
出典の原文は、以下の短い文章。
「君子防未然、不處嫌疑間。瓜田不納履、李下不正冠。」
《君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に處(お)らず。瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず》と読み下すようだ。君子たる者、嫌疑をかけられちゃおしまいよ、ということ。
また、調べて見ると、前漢の「列女伝」に、「経瓜田不納履、過李園不整冠」という成句があるという。
《瓜田を経るも履を納れず、李園をよぎるも冠を整さず》と読むのだろうか。これも同じ意味。
李園に実がたわわに成るころ、なにゆえ、その実の下において冠を正してはならないのか。答は自ずと明らかである。そんなことをする輩は、十中八九は李泥棒だからである。もう少し正確に言えば、「李下に冠を正す」行為は、李泥棒が嫌疑をごまかすための所作と相場が決まっているからである。収穫期の瓜田に入り込めばウリ泥棒。もっとも、必ずそうだと決めつけることは危険で例外の存在を否定できない。しかし、「李下に冠を正す」行為あれば明らかに嫌疑濃厚なのだ。
だから、原典も《君子は未然に防ぎ、嫌疑の間に處らず》と言って、「李下に冠を正す」行為を厳にいましめ、嫌疑の間に陥った場合には言及していない。瓜田でも李園でも、嫌疑をかけられた君子たる身には、みっともない言い訳はそれ自体見苦しい。「いったん疑われたらアウト」ということなのだ。
安倍晋三の言葉は軽すぎる。まだ、自分が国民からアウトの宣告を受けていることに気付いていないようなのだ。彼は、自分に「李下に冠」の行為があったから反省するという。しかし、「李下に冠」の行為を見咎められることは、窃盗の嫌疑をかけられること。そのような恥辱は君子には耐えがたいことのだ。ましてや一国の総理。「李下に冠」の疑惑を自覚すれば、潔く身を引く以外にはない。
安倍晋三は言う。「私の友人が関わることで、国民から疑念の目が向けられることはもっともなことだ」と。しかし、これではごまかしの域を出ない。国民目線に立つというのなら、もっと率直に誠実にこう言うべきなのだ。
「私・安倍晋三は、腹心の友のために、友が経営する学校法人の獣医学部新設の認可に関し、国家戦略特区諮問会議委員長の任にあることを奇貨として、公正であるべき行政をゆがめ、本来認可すべきではない特区認定をしたのではないかと、国民の皆様から重大な疑惑を招きました。
この「えこひいき疑惑」「政治の私物化疑惑」は、信なくば立たない政治の信頼に癒すべくもない深刻な損傷をもたらしたもので、民主主義社会における政治家として万死に値する深い罪を自覚し、自ら相応の責任を取らねばならないと覚悟を固めました。
私は、この責任を取って国会議員としての職を辞すことにいたします。当然に内閣総理大臣としての欠格事由にあたりますので、内閣は総辞職をし、総選挙をしなければなりません。国民の皆様には、再び政治の私物化などという疑惑を招く国会議員や内閣が誕生することのないよう投票にはくれぐれもご注意いただきたく、ふつつかながらせめてもの希望を申しあげます。
また、加計孝太郎さんには、私の不徳によってご迷惑をおかけしたことを深くお詫び申しあげ、新学部設立は諦めていただくようお願いいたします。そして、今後は慎重に友を選ばれるよう、《己に如かざる者を友とするなかれ》という論語の一節を贈らせていただきます。
以上のとおり、『李下に冠を正してしまった』政治家としての責任をとることを表明する次第です。」
(2017年7月25日)
私は、長年の習慣として赤旗は丹念に読む。貴重な情報が提供されているからでもあるし、同紙の意見や論評に敬意を有してもいるからだ。
昨日(2017年4月1日)も、いつもと同じように赤旗に目を通したが、問題となった紙面の変化には気付かず、各紙夕刊の報道で初めて知った。あらためて読み直して各紙報道の正確性を確認し、いささか落胆した。第1面「しんぶん赤旗」の題字の右横、号数を特定する「2017年4月1日 土曜日 日刊第23800号」の表記に、小さな活字で「(平成29年)」と添えられていたのだ。
さらに注意して紙面に目を通すと、第2面の左下に小さな囲み記事。7行の「お知らせ」があった。「『しんぶん赤旗』は、読者のみなさまのご要望を受け、本日付より1面題字横の日付に元号(平成29年)を併記します」という、事務的な文章。
これは、いけない。いただけない。小さく目立たないようで、原則に関わる重大な変化。赤旗に元号は似つかわしくない。是非とも、元に戻して、赤旗紙面から元号を駆逐していただきたい。でなくては、赤旗に対する共感も敬意も失せてしまうことになりかねない。
私は1971年弁護士登録以来10年間は、業務として作成する書面の作成日付を慣行に従って元号で表示していた。作成日付だけでなく、文面の内容でも年の特定は元号で行っていた。引っかかるものはあったが、読み手のある文章。私だけが西暦表示では、独りよがりでもあり裁判所や相手方にも不便とも考えてのことであった。
転機は1981年に岩手靖国違憲訴訟を受任したことだった。この訴訟を通じて、あらためて天皇制や国家神道、それを支える諸々の大道具小道具のことを学び直し、真剣に考えた。明治維新をなし遂げた中央集権政府は、人民の精神の内奥にまで立ち入った支配のシステムを構想し、国家神道という時代錯誤の天皇教を作りあげた。この宗教国家を維持するために、硬軟さまざまな手法が編み出されたが、一世一元の制もその一つである。
敗戦によって天皇主権と、国家神道は制度上なくなったが、その残滓は至るところにある。日の丸・君が代・元号の存在が大きい。それだけでない。叙位・叙勲・祝日・賜杯・天皇賞・恩賜・「皇室御用達」の類。すべては、権威に従順な国民意識涵養のための小道具である。その影響力を可能な限り小さくすることが、憲法の理念を実践しようとする者の努めだと思い至った。
それ以来、陛下や殿下の呼称を拒否しよう。叙勲を祝うことはやめよう。君が代斉唱時には起立しない、そして元号使用をやめようと決意した。思想が変わったわけではない。思想を行動に移さなければならないと思いを定めたわけだ。私は弁護士だ。社会から行動の自由を与えられている。この自由を、憲法の理念を全うする方向で行使しなければならないという意識もあった。
こうして、元号使用をすっぱりとやめた。訴状も準備書面も、弁論要旨も告訴状も、内容証明郵便も、すべて西暦で書くようになって、既に35年ほどにもなる。元号使用をやめて西暦表示に切り替えた最初は、いろいろ面倒なこともあった。なにしろ、元号使用一色の世界に、強引に西暦表示を持ち込むという雰囲気。裁判官からいやな顔をされたことも再三ある。あからさまに、「西暦だと感覚的に分かりにくい。相手方の主張との対比も面倒なので、元号表示にしていただけないか」といわれたことが、記憶の限りで2度ある。もちろん、これを拒否して元号使用を強制されることはなく、そのことが私の依頼者の不利益となることは皆無だった。
いま、明らかに世の空気は変わった。ビジネスの世界では、世界標準である西暦の利便性が元号を圧倒している。メディアの世界も、NHKと産経だけはいざ知らず、西暦表示が席巻している。これを旧に復する愚を犯してはならない。
苦労して西暦表示に切り替え実践していたころ、思想的に同じ姿勢を貫いていた最有力勢力が赤旗だった。旧天皇制に最も苛烈な弾圧を受け、最も果敢に闘ったのが日本共産党だったのだから、当然といえば当然。その一貫した姿勢が、頼もしかった。
報道では、「赤旗は1947年以降、西暦と元号を併記してきたが、昭和天皇の死去以降、西暦のみにした」とのことだが、どの新聞よりも、西暦表示統一に熱心だったし、元号使用の強制に反対する立場だった。
それを、今頃元号併記に逆戻りとは情けない。西暦表示使用にがんばっている多くの人に失望を与える。政治的なインパクトは小さくない。赤旗は、軽々に動かしがたい原理原則をもつことで、固定層としての読者を獲得してきたはず。「利便」や「読者の要望」で、その原理原則をゆるがせにしていくと、核となる読者層から見離されることになりかねない。「この程度は原理原則とは関係なかろう」と譲歩を重ねていくと、ラッキョウの皮を剥いていくように芯が見えなくなってしまうのではないか。そのときは、誇り高き前衛の旗がしおたれてしまうことになる。
昨日の赤旗は、「読者のみなさまのご要望を受け、本日付より1面題字横の日付に元号(平成29年)を併記します」とあった。私も「読者のみなさま」の一人として申しあげる。
「天皇制に対するこれ以上の迎合も譲歩もやめ、国民主権や立憲主義の原理原則を徹底する立場を堅持して、元号表記はすっぱりとおやめいただきたい」
(2017年4月2日)