益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)で聴き入る石川逸子の詩
本日(6月16日)初めて、益子に「朝露館」を訪ねた。13名の小さなグループの一員として。そこで、関谷興仁・石川逸子ご夫妻に、展示内容の説明を受けた。
関谷興仁とは何者か、彼の陶板彫刻美術とは何か。丸木美術館のホームページの中に、当時同美術館館長だった針生一郎が、「関谷興仁陶板作品私観」として語っている。2003年7月のこと。一部を抜粋して引用する。
http://www.aya.or.jp/~marukimsn/kikaku/2003/sekiya.htm
関谷興仁は1965年ごろまで組合活動に熱心な教師だったが、定年前にやめてクリーニング屋を経営しながら、新左翼の救援活動にたずさわるうち、80年代はじめから「何も考えずに」陶器づくりに集中しようと、益子の窯元に弟子入りした。
だが、土をこねると造形する暇もなくうかびあがるのは、大戦中のホロコースト、日本軍の殺戮、本土空襲や沖縄戦、特攻隊や原爆の無数の戦没者と、戦後の解放闘争や水俣のような公害の犠牲者たちの顔、顔だったという。
「僕には、こうして悼むしか、今に対する対し方はない。それは僕自身を悼むことである」という制作メモの一節が、わたしには切実に響く。
作品の構成をみると、主題別に厳選されたというより、これしかないと記憶からうかびあがった詩(詞)を彫りこんで焼成した陶板を組みあわせ、あるいはインスタレーション風に配置している。
金明植の叙事詩『漢拏(ハルラ)山』、石川逸子の90年代の長詩『千鳥ヶ淵へ行きましたか』、正田篠枝、深川宗俊の短歌、大原三八雄の英詩、石川逸子の詩集『ヒロシマ連祷』から成るヒロシマ・シリーズ。
とりわけ妻である石川逸子の詩は、さすがに詩的ヴィジョンの深まりを身近に受けとめてきた人生の同行者らしく、丸木位里と俊の『原爆の図』とそれ以後の共同制作に似た味わいがある。
戦争と戦後の無限の怨念をいだく死者の沈黙に迫ろうとする彼の仕事は、もしかしたら現代陶芸に新しいジャンルをきりひらくかもしれない。
(針生一郎 美術評論家・丸木美術館館長)
朝露館は、夥しい無辜の理不尽な死に想いを致す場である。本日、ここで石川逸子さんが、2編の自作の詩を朗読され、一同が聴き入った。
一編は、「千鳥ヶ淵に行きましたか」という長編詩の一節。そして、「もっと生きていたかった?子どもたちの伝言」と表題する詩集の一編「一枚の地図」。マレーシアにおける皇軍の蛮行をテーマにした、以下の詩。
一枚の地図
ここに
一枚の地図があります
市販の地図でいくら探しても
地図のなかの村は 見つからない
五十四年前
跡形なく消えてしまった村
マレーシア・ネグリセンビラン州ジュルブ県
イロンロン村
その地図を描いたのは
村が廃墟となったとき
十四歳の少女だった蕭月嬌
幻となった村の風景を
長く 胸にあたため
憤怒と悲哀のなかで 描きました
イロンロン村をゆったりと蛇行して
川はながれています
右手は鬱蒼とした山地
村の中央 川と道路の間には
大きな錫の精錬工場
蕭月嬌の家の裏手には学校
道路に面していくつかの店
小さな古い飛行場に
旗が二本 なびいています
村に入る道
また広い道路に沿って
あるいは川に沿って
家々が建ち並び
その一軒一軒に
住んでいた人の名が 丁寧に記されています
蕭来源
駱発
鐘月雲
張生
という具合に
まわりを山に囲まれ
空気はあくまで清らかに
作物は実り豊かに
戦いの日にも桃源郷のように
穏やかだった 村
つつましく 堅実に
助け合って働いていた村人たち
蕭月嬌は
母と姉 弟との 四人家族
畑で せっせと働きながら
日々 ただ楽しかったのです
一九四二年三月十八日
日本軍が不意にあらわれる
その日まで
その日
十四歳の蕭月嬌は
母を 弟を 失いました
ちょうど昼休み 十九歳の姉と家の食堂にいて
自転車に乗って村に入ってくる 日本軍人らに気づき
あわてて姉と裏門から抜けだし
這ってパイナップル畑に隠れたため
二人だけ助かったのです
まさか村中殺されるとは思わず
「日本軍はクーニヤンを見ると犯す」
という噂に逃れたのでした
夜になって
さらに隣村まで逃れ
バナナ園の溝に隠れて
はるか燃え上がるイロンロン村を見ていました
姉と抱き合い
そんな遠くまで聞こえてくる
村人たちの絶叫を 震えながら 聞いていました
翌朝帰っていった村は
いっぱいの死体
母も 弟も
生きてはいなかった
幼い弟はさんざん斬られてすぐ死ねず
道に這い出したのでしょう
もがき苦しんだ姿で息絶えていました
「おう どうしてこんな目めに会わなくてはならないのか!」
一九八六年夏
日本にやってきて
むせび泣きながら
証言された蕭月嬌さん
四十四年の月日が経っていました
姉は日本軍に連行されるのを恐れて
すぐ婚約者と結婚し
孤児となって過ごした解放までの
三年八ケ月
飢え
野の草 タニシを取って
空腹をごまかし
栄養失調で目は黒ずみ
死に近い日々だった
「おうどうしてこんな目に会わなくてはならないのか!
この世から
戦争を消滅させたい
それが願いです」
ハンカチで日を押さえ 言われました
イロンロン村
今は
一面に 生い茂る草草
ところどころぽうぽうとひょろ高い樹が生え
風にしなう 荒れはてた土地
そこに
かつて美しい村があり
人々が行きかい
つつましく働き
夢を語っていたことを
一枚の地図だけが 示しています
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益子に行ったら、朝露館を訪ねてみてください。
〒321-4217栃木県芳賀郡益子町益子4117-3
電話番号 0285-72-3899
但し、開館時期は限られています。
春期(4月?6月) 秋期(9月?11月)
開館日:金曜・土曜・日曜
開館時間:12:00?16:00まで
※開館時期以外のお問い合わせはこちら
TEL:03-3694-4369(9:00?16:00)
なお、ホームページが充実しています。
http://chorogan.org/http://chorogan.org/access.html案内のユーチューブもあります。
https://www.youtube.com/watch?v=_n2xAHwSpEY
ぜひ、私のブログもどうぞ。
益子・「朝露館」(関谷興仁陶板彫刻美術館)ご案内
https://article9.jp/wordpress/?p=12202
(2019年6月16日)