澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「あなた何様?」「わたしゃ五輪様」

(2021年8月3日)
 今朝の報道で知った。「五輪車両 当て逃げか」「ボランティア 関係者乗せ」「車2台に追突、走り去る」「女性2人負傷」「側壁にも衝突」「大破したまま『送迎優先』」などと各紙が見出しを打った事件。一昨日(8月1日)夕方のこと。

 そこのけそこのけ五輪が通る、と言わんばかりの不愉快。これは、例外事象ではあるまい。むしろ、五輪関係者の意識や姿勢を象徴する事件ではないか。

 東京オリンピックの大会スタッフ(関係者)を乗せた乗用車が1日夕、東京都内の首都高速道路で車両2台に相次いで追突する事故を起こし、そのまま走り去っていた。警視庁は道交法違反(事故不申告)などの疑いで、東京オリンピック大会ボランティアとして車を運転していた神奈川県に住む会社員(50代男性)から事情を聴いている。

 警視庁によると、事故は1日午後6時ごろ、首都高の台場出入り口(港区)―葛西出入り口(江戸川区)付近で発生。立ち去った車両はボランティアの50代の男性会社員が運転。車両は都内から千葉県に大会スタッフ1人を運ぶ途中で、男性は警察に対し「オリンピックのスタッフを送ることを優先した」と話している。

 大会スタッフを乗せた乗用車は、前を走っていたトラックと軽ワゴン車に追突したほか、前後して複数回にわたって側壁にも衝突した。軽ワゴン車に乗っていた女性2人が病院に搬送され、軽傷を負った。

 乗用車は前部が大破したまま十数キロ走り続け、千葉県内のインターチェンジを降りたところで同県警が停止を求めて運転手の男性に職務質問した。男性は事故を起こしたことを認めた上で「(乗せていた)大会スタッフの送迎を優先した」と話しているという。

 大会組織委員会は「本来、ただちに警察へ報告するなど事故の初動対応にあたるべきところ、当該ドライバーは現場を離れてしまったとの報告を受けており、組織委としても重ねておわび申し上げる。事故の再発防止に努める」としている。

 大会関係者が絡む交通事故は、五輪が開幕した7月23日以降、75件発生。軽傷の人身事故が1件あり、そのほかは物損事故だった。今回の事故を含めると76件となる。事故以外にも一時不停止や違法駐車の放置などの交通違反が28件確認されている。(以上、主に「毎日」の記事による)

 消防車や救急車の交通優先権は誰もが認めるところ。清掃車や道路工事車両、福祉施設車両への敬意も惜しまない。例外はあるにせよ警察車両も同様である。市民社会全体の共通の利益のためとの合意も信頼もあるからである。しかし、たかがオリンピックにそのような合意も信頼もない。怪しげなボッタクリ連中と政権とがつるんだ不要不急のイベント。そのスタッフの送迎のための車両に、何の公共性があろうか。

 「オリンピックのスタッフを送ることを優先した」という、このボランティアの責任は重い。「市民の怪我の手当よりもオリンピックが大事」と言っているのだから。しかし、さらに責任を問われるべきは、この車両に乗車していた「大会スタッフ」という人物である。事故後は直ちに自ら被害者の安否確認を最優先とし、救急車を呼び警察に通報すべきであった。あるいは、運転者にそのように指示しなければならない立場であった。にもかかわらず、「前部が大破したまま十数キロ走り続け」とは、いったい何を考えていたというのだ。まさしく、「そこのけそこのけ五輪が通る」の姿勢ではないか。

 報じられている大会組織委員会の弁明も通り一遍、他人事のごとくではないか。この点について本日の「毎日」に、「ボランティア 笑顔消え」「不慣れな運転・道 ストレス」の大きな記事。中に、次の一節(要約)がある。

 「2日にはボランティア運転手の男性が首都高速道路で追突事故を起こし、そのまま走り去っていたことが報じられた。女性(ボランティアの一人)は事故が起きたことには驚かなかった。組織委は運転手が足りないと多くのボランティア応募者に伝え、都心の運転に不安があると答えた人には『カーナビに従うだけなので大丈夫』などと安全性に欠ける説明をしていたからだ。
 事前研修は30分ほど運転するだけ。『職業ドライバーではない私たちが不慣れな道を走るのはストレスが多い』。英語に不慣れな運転手もいるのに、行き先を指定するアプリにも不具合が続いていたという。
 ボランティアから笑顔が消え、義務感で参加する人も生まれた大会は後世にどう語り継がれるのだろうか。」

「IOCの正体見たり ぼったくり」ー オリンピックとは何であるかを学ぶ

(2021年8月2日)
 本日の毎日朝刊コラム「風知草」に、山田孝男が「五輪で学んだこと」を書いている。その中に次の一節がある。

 「日本人は、大会開催に至る過程で、IOC(国際オリンピック委員会)が、国際公務員を擁する善意の公共機関などではなく、営利に敏感で透明性の低い、厄介なスポーツ興行団体であることも学んだ。

 IOC会長と有力理事は各国の知名士や大企業と結びつき、<貴族化>している。バッハ会長は今、1泊300万円(値引きで250万円とも)というホテルオークラのスイートルームにいる。ほぼ全額を大会組織委員会が払う契約が露見し、IOCの全額負担になったという報道もある。

 バッハ以上に尊大な印象を与えてやまないコーツ副会長も同じホテルにいるらしい。我々は、差別解消をうたう五輪憲章の総元締IOCが、社会的格差という時代の課題に無頓着である現実も学んだ。

 84年の米ロサンゼルス大会以来、ひたすら商業化路線を突き進んできた五輪に大きな転機が訪れた。さまざまな未熟さが露見し、成熟が問われている。不格好だが、時代を画する大会になっている。」

 端的に言えば、パンデミック下の東京五輪で学んだことは、「IOCの正体見たり ぼったくり」ということである。ないしは「尊大な興行師」、あるいは「たかり屋」でもあろうか。授業料は3兆3000億円と、とてつもなく高くついたが。

 ぼったくり連中が五輪の正体を教えてくれる以前の日本人のオリンピックについてのイメージは、聖なるものではなかったか。

 私自身も、教えられたとおり、オリンピックには長い間プラスイメージを持っていた。古代ギリシャではポリス間の戦乱が絶えなかったが、4年に1度のオリンピアードの際には戦をやめて、この平和の祭典に参加した。その勝者には、名誉を表す月桂樹の冠だけ、その余の賞金も賞品もなかった。近代オリンピックは、その古代ギリシャの崇高な平和の祭典を復興したものである。国際協調主義、人種や民族を超えた平等の理念で貫かれている。

 そのオリンピックの正体とは、国威発揚、商業主義、そして政権の浮揚策である。中でも目に余るのがボッタクリ精神横溢の商業主義。国費を使いまくってのたかり屋への奉仕。祝賀資本主義という言葉をよく聞くようになった。本日の赤旗に、「コロナ禍 問う五輪」の記事。安保法制に反対する学者の会などが開催したオンラインシンポの紹介である。こちらは、7人の学者による多角的なオリンピックの徹底批判。胸に落ちる。以下は、その7学者発言の要約である。

広渡清吾・東大名誉教授 「政権浮揚のための東京五輪強行」

 新型コロナは収束の兆しが見えず、その対処に人類の英知が問われている。市民の命と暮らしを守るのが政治の役割だが、日本政府と東京都、組織委員会は、その見識を失っている。政権浮揚のための東京五輪強行だが、事態は十分にハルマゲドン化している。これを切り開く議論を行おう。

鵜飼哲・一橋大名誉教授 「祝賀資本主義の収奪」

 五輪という「祝祭」は、「資本を再建する祭典」である。同時に、「招致された非常事態」であり、略奪のメカニズムでもある。商業主義を加速させるが、祝祭の後は必ず不況となり、さらなる規制緩和や増税のダブルパンチが待っている。

井谷聡子・関西大准教授 「五輪後に福祉カット」

 近代五輪の第1回大会は女性を排除した。クーベルタンの近代五輪の理念には、色濃く優生思想がある。近年の「五輪の肥大化」の中で、東京大会でも施設の大規模化の一方で、野宿者らが排除されている実態がある。五輪後には、財政再建の名による福祉カットが起きるだろう。声を上げなければならない。

大沢真理・東大名誉教授 「母子家庭の貧困深刻」

 五輪とコロナ禍の前から、日本の生活保障制度が低所得者と社会的弱者を冷遇し、保健所体制を大幅削減してきた。コロナ禍での若い女性の自殺増を招いており、命と暮らしの危機だ。とりわけ、母子家庭の貧困が深刻になっている。

岡野八代・同志社大教授 「自由束縛する菅政権」

 学問の営みとは、残酷さを避けること、最悪の事態を避けることに眼目がある。五輪とコロナ禍をめぐって菅首相をはじめとした政治家の自己中心的な振る舞いが際立っている。教訓を引き出すためにも、異論や批判を排除しない学問の自由が必要だ。

石川健治・東大教授 「緊急事態条項の危険」

 加藤勝信官房長官は、コロナ禍を「憲法に緊急事態条項を新設する絶好の契機だ」と発言している。しかし、元来の緊急事態の法理は、英国で発達した「客観的緊急事態理論」であって独裁権力を想定するものではない。独裁権力を作るために生まれた「主観的緊急事態理論」とは別物なのだ。

佐藤学・東大名誉教授 「人間の尊厳を取り戻すたたかいを」

 コロナ・パンデミックという「惨事」と、五輪という「祝賀」が同時進行している現状。社会的に弱い立場の女性や子どもにしわ寄せが及んでいる。奪われている私たちの自由と人権と人間の尊厳を取り戻すたたかいが必要だ。

 このパネルディスカッションの司会は、中野晃一・上智大教授だった。

1936年ベルリン大会の孫基禎と、TOKYO2020の張家朗(エドガー・チョン)を巡る事件 ー 歪んだ大国主義を映し出すオリンピック

(2021年8月1日)
 8月である。平和を語るべき季だが、今年はコロナ禍と五輪禍の重なった特別の8月。猛暑も一入身に沁みる。

 五輪禍とは、コロナ蔓延阻止に怠惰で、コロナ蔓延に手を貸している政権の姿勢を意味するだけではない。もっと積極的な諸悪、商業主義・国家主義・政権の便乗主義をいう。開催国日本の「五輪禍」は顕著だが、香港にも特別な形での「五輪禍」が及んでいる。

 香港の人々がテレビに映った表彰式の中国国歌にブーイングをした。これを煽ったとして一人の男性が逮捕された。このイヤなニュースに胸がふたぐ。戦前の皇国日本と、中国共産党が支配する現代中国と、どうしてこうまで似ているのだろうか。「神聖な君のため国のため」の滅私奉公と、「無謬の党が指導する偉大な中華民族のため」という精神構造が酷似しているのだ。もちろん、自然にこうなるはずはない。両者とも、念の入った教育プログラムの成果である。

 1936年のベルリン五輪のマラソンでは、朝鮮人孫基禎は日本選手としての出場登録を余儀なくされ、金メダルを獲得した。当然のことながら、孫の勝利は朝鮮民族の栄光だった。地元の「東亜日報」が表彰台に立つ孫の写真を加工しユニホームの日の丸を消して掲載したことが事件となった。記者の逮捕や新聞の発行停止の弾圧に発展した。孫自身が、民族意識が強く世界最高記録樹立時の表彰式でも「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだという。天皇制日本、甘くはなかったのだ。

 時は下って、2021年香港。一昨日(7月30日)、香港当局は、ショッピングモールで東京オリンピック(五輪)の表彰式を見ていた際に中国国歌にブーイングしたとして、警察が40歳の男性を逮捕したことを発表した。天皇制日本と同様、中国も甘くはないのだ。

 この男性は、26日にショッピングモールで大勢で表彰式のライブ配信を見ていた際、中国国歌を「侮辱」した疑いが持たれているという。映像には、フェンシングの張家朗(エドガー・チョン)選手が香港で25年ぶりの金メダルを獲得した様子が映っていた。中国国歌が流れた際に「私たちは香港だ」などと抗議の大合唱が巻きおこったという。「私たちは香港だ」という大合唱は、「私たちは共産党が指導する中国(国民)ではない」という含意であったろう。逮捕されたのは、このブーイングを煽ったとされる男性。

 警察の側から見れば、ジャーナリストを名乗るこの男性は、中国国歌「義勇軍行進曲」を「侮辱」したということになる。昨年6月施行の国歌条例に違反した疑いで逮捕された。同条例に違反の逮捕第1号で、有罪となれば法定刑の最高刑は禁錮3年だという。

 あらためて思う。これこそ、「五輪禍」であろう。オリンピックの競技が、ナショナリズムを煽る舞台となつている。これは不正常な事態なのだ。国家代表ではなく、個人・個々のチーム単位の競技にあらためるべきであり、表彰式での国旗掲揚も国歌演奏もやめようではないか。

燃え盛る「聖火」を消せ。あの禍々しい劫火を。

(2021年7月30日)
 火は妖しくも美しい。それ故に火は人を呼び寄せ人を惑わす。火はときに、その危うさを人に忘れさせ、人は火に魅入られて身を焼き身を滅ぼす。火に群がる蛾と人と変わるところはない。

 今、少なからぬ人々が「聖火」に引き寄せられ、その虚飾に惑わされ酔わされている。その火の危険を忘れ、あるいは危険を正視せず、危険に気付かないふりをし続けている。その怠惰は、多くの人々の身を焼き身を滅ぼすことになる。今必要なのは、一刻も早く、その危険を正視して「聖火」を消すことだ。直視せよ。あれは、人々の災厄を招いている劫火なのだ。

 昨日(7月29日)の東京都内新規コロナ感染確認者数は3865人と発表された。全国では10699人、初めて1万人の大台を超えた。言葉の真の意味での緊急事態である。東京では直近1週間の人口10万人当たりの感染者数111人を超えた。ステージ4下限の4倍を上回る。国民の生命と健康、そして生活が脅かされている。

 東京五輪は、7月23日に開会となった。その日から昨日までの東京の感染者数の推移は、下記のとおりである。
 
7月23日(金) 1659人 (開会式当日)
7月24日(土) 1128人
7月25日(日) 1763人
7月26日(月) 1429人 (連休明け初日)
7月27日(火) 2748人 (連休明け2日目)
7月28日(水) 3177人 (連休明け3日目)
7月29日(木) 3865人 (連休明け4日目)

 4連休が明けてからは、感染爆発と言って誇張ではない。この感染爆発が東京五輪開催と無関係という強弁は通らない。「東京五輪は、国民の犠牲を厭わず開催されねばならない」「都民やアスリートの安全よりも、東京五輪が重要だ」「まだ、アルマゲドンは起こっていない」と言うのなら、話の筋は通っている。危険この上ないスジではあるが。

 東京五輪の安全安心がお題目だけのことであるのは、誰もが知っている。バブルには「どこでもドア」が完備している。今回のオリンピックに限らず、選手の素行がよいわけはない。本日正午までの五輪関係感染者数は累計193人である。母数を確定しがたいが、これは無視できない多数である。しかも潜伏期間を考えれば、これからが心配なのだ。

 祝祭としての東京五輪が、「感動」を呼ぶものであればあるだけ、「感動」しやすい人々にパンデミックの現状認識を稀薄化させている。限りある医療リソースが東京五輪に奪われている。

 この事態に、菅義偉・小池百合子のコメントの情けなさは、言語に絶する。この二人への批判を機に、「楽観バイアス」という言葉が飛び交うようになった。今年の流行語大賞の有力候補である。人には、見たいものしか見えない。「聖火」に吸い寄せられた人には、その火の恐ろしさは見えない。見えても語らない。菅・小池とも、この事態に楽観論しか語らない。

 楽観バイアス・シンドロームは、菅・小池にとどまらない。立憲民主党の安住淳国対委員長が、東京オリンピックに関し「選手村でクラスターが起きるなど新たな状況が生まれない限り、中止は現実的でない」と述べたという。まず、これには驚いた。、菅・小池を糾弾して、誰が国民の味方であるかをアピールする絶好の機会を逃したのではないか。

 さらに、同党の枝野幸男代表までがこれに続いた、昨日(7月29日)の記者会見で、新型コロナウイルス感染拡大の中で開催されている東京五輪について、わざわざ中止を求めないと述べたという。その理由として、「すでに五輪の日程が進んでおり、多くの選手や関係者が来日して活動している」「中止すればかえって大きな混乱を招くと強く危惧している」と述べたとのこと。国民の命と健康を犠牲にしてまで実現しなければならない「混乱回避」とはいったい何なのだ。

 さらに、「アスリートの皆さんには競技に集中して全力を出していただきたい」「長年の努力の成果を自信を持って発揮できるよう、テレビの前で応援しているし、日本選手の活躍を喜んでいる」とまで語ったという。

 恐るべし、楽観バイアス・シンドローム。そして、「聖火」の危険な魅力。だからこそ、直ちにその火を消さなければならない。 

オリンピックが涵養するナショナリズム

(2021年7月26日)
 私は月刊誌文化で育った。漫画週刊誌が世を席巻する以前のことだ。小学生だけの寄宿舎2階の隅に図書室があり、少年・少年クラブ・少年画報・まんが王・少女・少女クラブ・リボン・なかよし・女学生の友・小学三年生などなんでも読めたし、なんでも読んだ。どっぷりとその世界に浸かった。

 手塚治虫・馬場のぼる・福井栄一らのマンガは文句なく面白かった。山川惣治らの絵物語というジャンルもあった。そして、それなりの文字情報もあった。連続小説もあり、歴史や科学の解説記事あり、そしてスポーツものが大きな比重を占めていた。

 その子ども向けスポーツ記事には戦前のオリンピックにおける日本人選手の活躍ぶりにページが割かれていた。日本凄い、日本人立派、のオンパレードだった。記憶に残るのは、まずは村社講平のスポーツマンシップだ。そして、西田修平・大江季雄の「友情のメダル」。織田幹雄・田島直人・南部忠平、みんな世界に負けなかった。前畑がんばれ。人見絹枝はよくやった。バロン西の戦死は惜しまれる。小学生の私は、この種の話が大好きで無条件に感動した。こんな話を通じて、日本人であることを自覚し、日本に生まれたことを好運にも思った。既に、小さなナショナリストが育っていたのだ。

 おそらくは、当時の日本社会が子どもたちに与えたいと願ったものが月刊出版物に忠実に反映していたのだろう。スポーツ界のヒーローの描き方の根底には、疑いもなく、敗戦の負い目や国際社会に対する劣等意識があった。これにこだわっての、本当はこんなに凄い日本、日本人は本来こんなにも立派なのだと押し付けられ、多くの子どもたちがこれを受容した。もちろん私もその中の一人。

 今にして思う。オリンピック金メダリスト孫基禎のことも、国民的ヒーローであった力道山が在日朝鮮人であることも、少年雑誌には出て来なかった。天皇や戦争などの暗い話題は誌面から避けられていた。さすがに国粋主義は出てこなかったが、ナショナリズムは色濃くあった。

 戦前の攻撃的なナショナリズムとは違い、戦後のあの時期のナショナリズムは、国民的規模の劣等感の表れであったかと思う。今は、こんなに肩身の狭い思いを余儀なくされているが、本当は日本人は優秀で、日本は世界に負けないんだ、という肩肘張っての強がりの姿勢。

 オリンピックは、このようなナショナリズムを思い出させ、再構築する好機なのだ。対外的な劣等意識にとらわれている人、人生経験の浅い人ほど、日本選手の活躍に「感動」を押し売りされ、断れなくなる。私も小学生のころ、そうであったように。
 

オリンピックの非人間性と、自分をもたないアスリートの悲劇

(2021年7月25日)
 私は小学2年生から4年生までを、清水市立駒越小学校に通った。戦後間もなくの1951年4月から54年3月までのこと。この地は富士がよく見え、三保の松原にほど近い風光明媚なところ。当時は田舎で、周囲は農村と漁村の入りまじった土地柄だった。その小学校の秋の運動会が一大行事として印象に残っている。校内行事の規模を超えて、地域行事となっていた。

 運動会プログラムの最後が、地区対抗のリレーだった。確か、それぞれの地区が、1年生から6年生まで各学年の男女1名ずつを選手とする計12名のチームを作る。そのリレー競走が異様に盛り上がる。

 何チームができたのかは覚えていない。増村(ぞうむら)、蛇塚(へびづか)、折戸(おりど)、駒越(こまごえ)等々の村落ナショナリズムが実に強固なのだ。運動会が近づくと、どこの地区はもう選手を決めた。特訓をやっているそうだ、という噂が伝わってくる。

 この学校に通う、地元民でない2グループがあった。一つは、近所にあった東海大学の教職員宿舎の子どもたちで、「官舎の子」と呼ばれていた。もう一つが、私のような宗教団体の寄宿舎から通う、1学年15人ほどの子どもたち。宗教団体の名から「PLの子」と呼ばれていた。「官舎の子」も「PLの子」も、勉強はできて行儀がよく標準語を話す子どもたちだったが、地元の子どもたちには腕力で敵わず、運動能力も遙かに劣っていた。だから、もちろん尊敬される存在ではありえない。このグループもリレーのチームを作ったが、常に最下位を争っていた。通例、文武は両立しがたいのだ。

 この最下位2チームを除いてのことだが、各チームのリレー選手に選ばれるとたいへんなプレッシャーが掛かることになる。各村落の期待を背負って、勝てば褒めそやされるが、負ければ針のムシロなのだ。リレーの勝敗には、各地区の名誉がかかっている。子どもたちが、地区の名誉のために、懸命に走るのだ。和気藹々なんてものではない、村落間の対抗意識のトゲトゲしさが印象に残る。その対抗意識のなかでの子どもたちの痛々しい姿。

 もしかしたら、あの小学校のリレーが、私のスポーツ観の原点なのかも知れない。アスリートとは痛々しいもの。対抗意識で分断された部分社会を代表して、その名誉を賭けての代理戦争の選手となる者なのだ。勝てば褒めそやされるが、負ければ惨めな針のムシロの哀れな存在。

 子どもたちはクラス対抗では盛り上がらない。クラスは、便宜的に区分されたに過ぎず、来年にはクラス編成は変わる。クラスに対する帰属意識は育たない。クラス・ナショナリズムは成立しないのだ。しかし、クラスを横断した村落ナショナリズムは確実に存在した。それぞれが、そこで生まれ育ち将来も生き続けなければならない村落へのアイデンティティを強固にもっていた。

 地区対抗リレーでは、子どもたちが自分のためでなく、村落ナショナリズムを背負って、村落共同体の代表として走った。だから、各村落共同体がこぞって声援を送り、子どもたちは懸命に痛々しく走ったのだ。おそらくこのリレーは、普段は意識しない各村落間の対抗意識を顕在化させ煽るものであったろう。

 スポーツは競技と切り離しては成立しない。競技は競争の相手方を必要とするだけでなく、自分の属する集団の名誉や経済的利益を賭して行われる。学校の名誉のために、職場対抗の選手として、地域を代表して、さらには国家のために競技をすることになる。これは、単位社会間の代理戦争である。そのゆえに、大いに盛り上がることにはなるが、選手本人には限りない重圧が掛かることになる。当然に押し潰される人も出て来る。

 前回1964年東京オリンピック開催時には、私は大学2年生だった。アルバイトに明け暮れていた私には競技に関心をもつほどの暇はなく、テレビも持っていなかったから、騒々しさ以外には感動も印象も残っていない。ただ、陸上競技でのたった一人の日本人メダリスト円谷幸吉が、その後に傷ましい自殺を遂げたことから、この人についての記憶だけが鮮明に再構成されている。

 次のオリンピックには金メダルを。そのような国民の期待に応えようとした律儀な自衛官は、68年メキシコオリンピックの年の1月、頸動脈を切って凄惨な自殺を遂げた。当時27歳、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」との遺書を残してのこと。

 この事件は衝撃だった。国家の名誉と期待を背負わされた青年がその重みに耐えかねて、その重圧から逃れるための自殺。国家とは国民とは、そしてナショナリズムとは何と残酷なものだとあらためて知った。加えて、アスリートを押し潰すオリンピックというイベントの非人間性も印象に残った。

 円谷の精神の中では、国家や国民という存在が限りなく大きく重いものであったのだろう。卑小な自分は、国家や国民の期待に応えなければならないとする生真面目な倫理観があったに違いない。それが達成できなくなったときには、自分の生存自体を否定せざるを得なかったのだ。自我も主体の確立もない、ただ国家のために走らされる哀れなアスリートの悲劇である。

 駒越小学校では、あの村落対抗リレーはまだ存続しているのだろうか。一昨日から始まったTOKYO2020では、まだ無数の円谷が競技をしているのではないだろうか。

東京オリンピック開会強行の日の違和感の数々

(2021年7月24日)
 パンデミック下の東京オリンピックの開会強行は、1941年12月8日の開戦に似ているのではないか。あの日醒めた眼をもっていた国民の気持を擬似体験している印象がある。国家というものは、ホントにやっちゃうんだ。ブレーキ効かずに突っ込んじゃう。反対しても止められない。いったい何が、本当に国家というものを動かしているのだろうか。

 昨日(7月23日)は、違和感だらけ。まずは、ブルーインパルスの演技に大きな違和感がある。あれは、戦闘機だ。戦争を想定して有事に人殺しを目的とする兵器ではないか。オリンピックが平和の祭典とすればその対極にあるもの。本来、人前に出せるものではない。

 ブルーインパルス飛行を見物に集まる人に、さらなる違和感。「感動した」などと口にする感性を疑う。「オリンピック開催を強行すれば空気は変わる」と、愚かな為政者にうそぶかせる国民も確かにいるのだ。それが、この国の現状を支える主権者の一面なのだ。決して、多数派だとは思わないが。

 「日の丸」掲げて「君が代」歌っての開会式に違和感。私は、開会式など観てはいないが、ナショナリズム涵養の舞台となったようだ。これからは、各国対抗のメダル獲得競争が展開される。これがオリンピックやりたい連中の狙いの本音。オリンピックやらせたくない派の反対理由でもある。

 本日の毎日新聞「余録」の書き出しが、「表彰式における国旗と国歌をやめてはどうか」。1964年東京五輪開幕日の毎日社説の一節であるという。こうなれば、私の違和感も、払拭されることになる。しかし、各紙、今やそんな社説を書く雰囲気ではない。

 余録は、こう続けている。「元々、国家の枠を超えて国際主義を体現しようとしたのがオリンピック運動の原点だ。68年メキシコ五輪時のIOC総会では廃止に賛成が34票で反対の22票を上回ったが、採択に必要な3分の2に届かず、否決された▲その後、旧ソ連など共産圏が反対の姿勢を強めたこともあり、廃止論は姿を消す。むしろ五輪を国威発揚に結びつけることを当然と考える国が増えた。ナショナリズムの容認が五輪の商業主義や巨大イベント化を支えてきたともいえる」

 さらなる違和感が、菅義偉・小池百合子の天皇に対する態度を非礼と非難する一部の論調である。天皇が開会宣言のために起立しているのに、菅・小池が直ちに起立せず遅れての起立を「不敬」とする復古主義者からの攻撃に、国際的なマナーに反するという鼻持ちならない「国際派」からの批判が重なる。そのどれもが、天皇に権威をもたせることを自分の利益と考える連中の、とるに足りないたわ言。

 オリンピック憲章の大部分は、常識的な文言を連ねたものだ。たとえば、次の一節。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」

 天皇とは、この憲章の一節における「社会的な出身、出自やその他の身分などの理由による、差別」の典型であり、身分差別の象徴にほかならない。貴あるからこその賤である。天皇の存在が日本の差別を支えている。「いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」とするオリンピック開会式の場で、身分差別の象徴である天皇への敬意を当然としてはならない。差別の象徴である天皇への敬意が足りないと非難される筋合いはない。

 開会式のニュースで少し心和んだのは、「オリンピックはいらない」「東京五輪を中止せよ」「オリンピックより国民の命を大切に」などのデモの声が、競技場内にも届いたという。開会式の場は、別世界ではないのだ。

 何よりも気になることは、今朝の各紙を見ると、緊急事態宣言下の東京であることが忘れられたような雰囲気であること。昨日の東京の人出は多かったようだ。オリンピック開会の強行は、反対論者が予想したとおりとなった。しかし、そのことによる感染拡大への影響の有無は、2週間ほども先にならないと分からない。

 1941年12月8日の開戦は、多くの人の人命を奪い国を滅ぼした。2021年7月23日が、これと並ぶ禍々しい日とならないことを願うばかり。 

DHC吉田嘉明の姑息なヘイトコメントへの「謝罪」 ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第194弾

(2021年7月23日)
 昨日(7月22日)、毎日新聞(デジタル)が久々にDHCを記事にした。東京オリンピック直前のタイミングに、いま日本が直面している数々の問題を考えさせる恰好の素材を提供するものとなっている。

 DHC・吉田嘉明の、ヘイト体質・独善性・時代錯誤・無反省・卑怯・姑息・批判者への攻撃性・非寛容性等々の姿勢については、これまで繰り返し指摘してきた。その多くの問題が、東京オリンピック開会直前に批判の対象となった差別・イジメ・無反省・時代錯誤・グローバルスタンダードに重なるのだ。DHC・吉田嘉明、いつもながらの反面教師ぶりである。

 毎日新聞記事のタイトルが、「ヘイト声明のDHCが『マル秘』謝罪文 提出先には非公開を要求」というものである。この見出しが私には感無量である。天下の毎日が見出しに、何の遠慮もなく、「ヘイトのDHC」と書くようになった。「ヘイト」と「DHC」が何の違和感もなく自然な結びつきになっている。さらに、「『マル秘』謝罪文」「提出先には非公開を要求」と、躊躇も萎縮もなくDHCのみっともなさを追求している。確実にDHCは追い詰められているのだ。そして、その背後にはヘイトの言動に厳しい世論の高揚がある。

 DHC批判は、DHCや吉田嘉明に対する批判を超えて、DHCを支える取引企業や取引金融機関、連携する自治体へと拡がりつつある。つまりは社会的な反ヘイトの包囲網を作ろうという反ヘイト市民運動のレベルアップである。これは、注目すべき動向ではないか。

 毎日新聞は、DHCとの連携自治体に関しては、情報公開制度を活用することで、DHCや自治体の反ヘイトの本気度や交渉経過を明らかにしようと思い立ったのだ。その機敏さに敬意を表したい。

 毎日新聞は、DHCと協定を結ぶ自治体に情報公開請求し、DHCが提出した文書などがあれば明らかにするよう求めた。「文書は存在しない」と答えた自治体もあったが、茨城県守谷市や北海道長沼町など4市町がA4判の文書計約70枚の公開を得たという。そのようにして得た開示情報に基づく結論を毎日はこう纏めている。

 「DHCがホームページに在日コリアンを差別する文章を掲載した問題で、DHCは非を認めて謝罪する文書を、協定を結ぶ自治体に水面下で提出していた。しかし、DHCは公式の謝罪や説明を避けており、謝罪文を渡した自治体にも文書の非公開を要求している。」

 なるほど、さもありなん。いかにも、DHC・吉田嘉明の手口である。彼の謝罪は真摯なものではない。しかも覚悟あっての行動ではないから、陰でこそこそという姑息でみみっちいことになる。DHC・吉田嘉明の辞書には、信念の二文字はない。だから、やることが情けなくてみっともなく、正々堂々の片鱗もない。

 茨城県守谷市が開示した資料には、6月9日にDHC地域健康サポート局の担当者が市役所を訪れ、松丸修久(のぶひさ)市長らに経緯を説明した際の記録がある。それによると、担当者は「人権に関わる不適切な内容の文章の非を認め、発言を撤回しました」「同様の行為を繰り返さないことをお誓い申し上げます」などと謝罪する文書を提出。「会長は、思ったよりも波紋が広がったことについて反省している。個人の意見を聞いてほしいという気持ちがあったようだ」と釈明した。

 その上で、公式な謝罪や説明には消極的な姿勢を示した。守谷市に対して「(文章を)削除した経緯等の説明文をHPに載せることはしない」「問い合わせには全てノーコメントで対応する」と説明。市に渡した謝罪文も「内容はマスコミに説明いただいてよいが、文書としての開示はしないでほしい」と求め、文書に社印も押さなかった。

 守谷市はその後、これらの文書について「市民への説明責任を果たせない」と不十分な点を指摘。会社の説明であることを明確にするため社印を押すことや、再発防止に向けた具体策を記載することなどをメールで求めた。しかしDHCの担当者は「文書が新たな批判や問題を呼ぶことは避けたい」として拒んだ。

 東京オリンピック組織委の幹部スタッフとして任を解かれた、森・佐々木・小田山・小林らは、いずれも自分の精神の根幹にある差別意識や個人の尊厳への無理解に真摯に向き合い、これを克服しようとの誠実さをもたない。彼らは、いまだに真に自らを省みることはなかろう。この点で、DHC・吉田嘉明と軌を一にする。

 吉田嘉明の精神の根幹に染みついた差別意識である。その不当、理不尽を如何に説こうとも、理解を得て矯正することはおそらく不可能であろう。しかし、この社会はヘイトの言動を許さず、ヘイトには制裁が伴うということを身に沁みて分からせることは可能である。

 彼が、ヘイトの姿勢を固執すれば世論に叩かれ、社員は肩身の狭い思いを余儀なくされる。DHCにまともな人材は枯渇することになるだろう。消費者による不買という手段の制裁が功を奏する段となれば、DHC・吉田嘉明はヘイトの表現が高く付くものであることを学ぶだろう。

 森・佐々木・小田山・小林らは、世論からの厳しい糾弾に曝され、その任にとどまることができなかった。吉田嘉明はオーナーであるから職を失う恐れはない。DHC・吉田嘉明のヘイトを矯正するには、「世論・消費者」の行動によって、差別・ヘイトは社会から厳しい制裁を受けるものであることを思い知らせる以外にはないのだ。

東京オリンピック開会前日のこの禍々しさ。

(2021年7月22日)
 東京オリンピック開会の前日である。なにか禍々しいことが押し寄せて来そうな不気味な雰囲気。

 その不気味さの理由の第一は、コロナ蔓延の急拡大である。東京都の新型コロナの新規感染確認者数は本日1979人となった。先週木曜日比で671人の増である。本日までの7日間平均は1373.4人で、前の週の155.7%となる。なお、本日の全国での新規感染者数は5397人と5000人の大台を超えた。感染急拡大の真っ最中での開会式となる。祝祭の気分など出てくるはずもない。今なら、まだ中止にできる。

 不気味さの理由の第二は、開会式開始まで40時間を切っての幹部スタッフの解任劇である。開閉会式のディレクター・小林賢太郎の「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」というコントに批判が集中しての解任。また、また、なのだ。これは深刻である。「何度も繰り返される光景に、現場は冷め切っている」(朝日)のは当然だろう。関係者の祝賀の気分もやる気も失せて当然。今なら、まだ中止にできる。

 イジメ虐待吹聴の小山田や、ホロコーストごっこの小林は、本来は汚れた五輪に似つかわしい。居座ってもらった方が、オリンピックの何たるかが分かり易く、教訓的である。そのような汚れた場に出席することが、自らのイメージダウンにつながると思うのがノーマルな判断。欠席表明者が相次いでいる。

 NHKの報じるところでは、「オリンピック開会式 スポンサー企業の3分の2が欠席」だという。高いカネを出してスポンサー企業となってはみたものの、この禍々しい東京五輪と親しいことは、却って明白な負のイメージなのだ。

 NHKが、明日の東京オリンピック開会式に出席が認められているスポンサー企業78社に対応を取材したところ、回答した55社のうち37社(67%)が会社関係者は出席しないと答えたという。出席すると答えた企業は12社で、このうちトップが参加するのは、わずか1社。徹底的に嫌われた、イメージ最悪のオリンピックなのだ。

出席しない各社が理由をこう述べている。
アサヒビール 「感染拡大の状況や東京会場における無観客開催が決定したことを踏まえた」
東京ガス 「安心・安全な大会を開催するという組織委員会の方針に従い、連携、サポートしていくため」

 表向きの理由は無観客の開会式に特権者ヅラでの出席はブランドイメージに傷が付くというだけのものだが、その裏には東京五輪のイメージの悪さがしっかりとある。

 一方、「出席する」と回答したのは21%にあたる12社で、6社が未定。出席者については、会社のトップと答えたのは1社にとどまり、幹部クラスが2社。また7社は提供した物品の確認や運営の記録のために現場レベルの担当者を派遣すると答えている。

 また、経団連、日本商工会議所、経済同友会の経済3団体トップが、そろって欠席するほか、各国の要人の中でも出席を見合わせるケースが相次いでいる。政治家もしかり。確実に史上人気最低のオリンピックである。

 天皇(徳仁)には、このオリンピックへの出席の是非を語る自由は一切ない。大衆からの対天皇人気を気にする守旧派は、こんなオリンピックの開会式に天皇を出席させたくはないのだろうが、菅政権は天皇に出席と開会宣言の朗読を指示している。天皇と東京オリンピックが似つかわしかろうとそうでなかろうと、天皇の出席と開会宣言の朗読が、天皇や皇室のイメージにどのような影響を与えようと、天皇(徳仁)に内閣の指示を拒否する裁量の余地は一切ない。

 さて、明日はどうなるのだろうか。コロナの拡大と医療の逼迫はどこまで進展するのだろうか。まさかとは思うが、スタッフの解任はさらに続くことにはならないか。開会式への出席者はさらにどれだけ減ることになるだろうか。なにか禍々しいことが押し寄せて来はしないだろうか。そんな不気味な前夜である。

おぞましい《TOKYO2020》の聖火を消せ!

(2021年7月21日)
 東京五輪の開会予定日が明後日(7月23日)に迫っている。TOKYO2020の幕開けは、東京都の緊急事態宣言のさなかとなる。のみならず、なんというタイミングだろう。このオリンピック期間は、第5波のコロナ感染拡大時期にピタリと重なる。本日東京の新規コロナ感染者は1832人。1週間前の水曜日よりも680人増えている。16日間の五輪の初日は、おそらくは2000人の新規感染者を出し、最終日には3000人を越すと予想されている。

 多くの人がこの感染拡大に心を痛めている。そして、確実に感染拡大のリスクファクターとなる東京オリンピックの中止を求めている。しかし、主催者側は、決してオリンピック中止の声に耳を傾けようとはしない。いったい何のために、そこまで無理をしての東京五輪なのか。五輪ってなんだ。その開催にどんな積極的意義があるというのか。

 復興五輪のウソは明白となった。簡素な五輪の公約も破られた。コロナに打ち勝った証しは完全に裏目に出た。みんなして一緒にコロナと闘う? それでは何のために闘うのかという回答になっていない。分かり易いのは、金のため、利権のため、売名のため、政治的権勢のための東京五輪である。

 菅義偉は、本日付けウォール・ストリート・ジャーナルのインタビューで「やめることは、いちばん簡単なこと、楽なことだ」「挑戦するのが政府の役割だ」と強調したと報じられている。この人の言うことだ、本気で受けとめる読者もなかろう。

 それはともかく。菅義偉よ、ならば聞きたい。政府は、何のために何を獲得しようと危険な五輪開催に固執して挑戦しているのか。楽ではないのに、国民の生命と健康を賭けてまで。

 菅が明確に語るところはない。忖度しても、「安全安心」と「しっかり」と「感動」くらいしか思いつかない。

 政権の第一の任務は国民の生命と健康そして暮らしを守ること。緊急事態宣言下に、国民の生命と健康を賭して五輪への挑戦をすることではない。

 菅は、五輪開催強行の意図について、本音を語るところがない。代わって、これを積極的に語っているのが、安倍晋三である。彼は、「月刊Hanada」8月号での櫻井よしことの対談において、東京五輪の開催に反対する人たちのことを「反日」と攻撃しつつ、あけすけにこう語っている。

「国民が同じ想い出を作ることはとても大切なんです。同じ感動をしたり、同じ体験をしていることは、自分たちがアイデンティティに向き合ったり、日本人としての誇りを形成していくうえでも欠かすことのできない大変重要な要素です」
「日本人選手がメダルをとれば嬉しいですし、たとえメダルをとれなくてもその頑張りに感動し、勇気をもらえる。その感動を共有することは、日本人同士の絆を確かめ合うことになると思うのです」
「このコロナ禍のなかにあって、来年は北京冬季オリンピックが予定されていますが、自由と民主主義を奉じる日本がオリンピックを成功させることは歴史的な意味があり、また日本にはその責任がある」

 「同じ想い出を作る」「感動の共有」「日本人としての誇り」「勇気をもらえる」「日本人同士」「絆」…。何と安っぽい手垢のついた言葉の数々。こういう言葉を使うことが恥ずかしくないのだろうか。

 要するに、ナショナリズム高揚のためのオリンピックなのだ。これが、コロナ蔓延拡大のリスクを押しても強行しようという東京オリパラ開催の右翼の動機なのだ。金を目当てのおぞましさもさることながら、ナショナリズム高揚目的は、さらに禍々しい。

 こんな連中の思惑で危険なオリンピックをやらせてはならない。おぞましいTOKYO2020の「聖火を消せ!」と声を上げ続けよう。  

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