(2022年4月29日)
本日は「昭和の日」。大型連休の初日だが、東京は生憎の本降りの雨。しかも肌寒い。ツツジも、サツキも、フジも、冷雨にうたれて気の毒の限り。
このぐずついた天候のごとく、このところよいニュースがない。コロナ・ウクライナ・知床事故・道志村…。そして、諸式の物価高である。世の物価はなべて上がるが、賃金は上がらない、年金は下がる。株価だけが人為的な操作で持ちこたえ、持つ者と持たざる者との格差拡大に拍車がかかる。これでどうして、政権がもっているのやら。さらには、敵基地反撃能力だの、中枢機能攻撃だの、核シェアリングだの、防衛費倍増だの。ヒステリックで物騒極まりない見解が飛びかっている不穏さ。
そう思っていたら、北海道新聞のデジタル版に、以下の記事。
「改憲の賛否再び拮抗 9条改正「不要」57% 本紙世論調査」というのだ。これは朗報である。闇夜に一筋の光明とは大袈裟だが、元気が湧く。
「5月3日の憲法記念日を前に、北海道新聞社は憲法に関する全道世論調査を行った。
憲法を「改正すべきだ」は42%(前年調査比18ポイント減)、
「必要はない」は43%(同13ポイント増)
で拮抗(きっこう)した。
前年は新型コロナウイルスへの不安の高まりなどを背景に改憲意見が強まったが、再び賛否が二分する状態に戻った。
戦争放棄を定めた憲法9条については「改正すべきではない」が前年から横ばいの57%で、「改正すべきだ」の35%(同1ポイント減)を上回った。
自民党などはロシアによるウクライナ侵攻を機に9条改正に向けた議論の進展を図っているが、市民の間に改憲論は強まっていないことが浮き彫りになった。」
これが、憲法記念日直前の、全道の憲法意識なのだという。これから、順次全国の世論調査が実施され結果が発表されることになるだろうが、「市民の間に改憲論は強まっていない 」とは幸先のよい調査結果ではないか。
いま、ロシアのウクライナ侵攻を奇貨として、反憲法勢力が懸命に笛を吹いている。曰わく、「自分の国は自力で防衛しなければならない」「平和を望むなら、軍事力の増強が不可欠である」「それに桎梏となっている憲法を、とりわけ9条を変えなければならない」と。
この笛を吹いている側の勢力が、自・公・維・国の保守4党。しかし、国民はけっしてこの笛に踊らされてはいないのだ。むしろ、平和への危機意識が「9条守れ」の声に結実しているのではないか。道新の世論調査が、貴重なその第一報となった。さて、これから、メーデーがあり、憲法記念日となる。改憲阻止の世論を大きくしていきたいもの。
ところで、「昭和の日」である。昭和という時代は1945年8月敗戦の前と後に2分される。戦前は富国強兵を国是とし、侵略戦争と植民地支配の軍国主義の時代であった。戦後は一転して、「再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることの決意」から再出発した、平和憲法に支えられた時代。戦前が臣民すべてに天皇のための滅私奉公が強いられた時代であり、戦後が主権者国民の自由や人権を尊重すべき原則の時代、といってもよい。
本日は、戦前の軍国主義昭和を否定し、戦後の平和主義昭和を肯定的に評価すべき日でなくてはならないが、なんと、本来の「昭和の日」に、もっともふさわしからぬ人物の誕生日を選んだことになる。疑いもなく、昭和天皇と諡(おくりな)された裕仁こそが、戦前の狂信的軍国主義を象徴する人物にほかならないのだから。
あの昭和前期の軍国主義の時代、国民には裕仁や軍部の手口が、見えなかった。いま、プーチン・ロシアが、隣国ウクライナに侵略戦争中の「昭和の日」を迎えてこのことを思い起こすべきだろう。
プーチンの国内世論の支持はすこぶる高いと報じられている。皇軍の侵略を支えた日本国民の民意はそれを圧倒するものだったろう。プーチンの手口はヒロヒトの軍隊とよく似ている。戦前の日本の歴史を見据えて、プーチン・ロシアの責任を見極めよう。そして、プーチンもヒロヒト同様に、内外に戦争の惨禍をもたらした戦争犯罪者であり、平和への敵であることを確認しなければならない。
戦前の軍国主義昭和を否定し、戦後の平和主義昭和を肯定する立場からは、憲法の理念を擁護し、憲法の改正を阻む決意あってしかるべきである。そうであって初めて、「昭和の日」の意義がある。
(2022年4月6日)
改憲の危機は、安倍晋三と結びついて語られてきた。タカ派で歴史修正主義者の安倍晋三が首相なればこその改憲の危機。国民の意識が、改憲を望むものではないのに、改憲を煽ってきたのが、安倍晋三。改憲勢力は、安倍の存在と、国会での改憲派の議席数増を、千載一遇のチャンスと捉えた。当然護憲派には危機感があった。
その安倍晋三があっけなく政権を投げ出し、これでしばらくは憲法は安泰かに見えたが、このところ雲行きがおかしい。ハトかと思われていた岸田の正体が、どうも怪しい。維新という新たな改憲勢力の策動もある。衆参両院の憲法審査会の動向が混沌としている。「緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うべきだ」などという発言に驚かざるを得ない。
毎回の憲法審査会を傍聴している仲間の弁護士から提案があって、本日、法律家団体の意見をまとめて、下記の緊急声明となった。憲法審査会の動きを注視し監視するよう、呼びかけたい。
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あらためて緊急事態条項創設改憲案に反対する法律家団体の緊急声明
2022年4月6日
改憲問題対策法律家6団体連絡会
社会文化法律センター 共同代表理事 海渡 雄一
自由法曹団 団長 吉田 健一
青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 上野 格
日本国際法律家協会 会長 大熊 政一
日本反核法律家協会 会長 大久保賢一
日本民主法律家協会 理事長 新倉 修
はじめに
今通常国会における衆議院憲法審査会は、予算審議中の2月10日に始まり、これまでほぼ毎週開催という異例ずくめの展開となっている。新型コロナ感染拡大を受けて、早急にオンラインによる国会審議について議論等が必要として始まった衆議院憲法審査会は、現在、自民、公明、維新の会、国民民主などの改憲推進派委員が一体となって、感染症や大災害、ロシアのウクライナ侵攻のような国家有事に備えて憲法に緊急事態条項を創設すべきとする議論を口々に語り、まずは緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うべきなどとの発言も出ている。
改憲問題対策法律家6団体連絡会は、安倍首相当時にとりまとめられた自民党改憲4項目案(?憲法9条に自衛隊明記?緊急事態条項の新設?合区解消?教育充実)に一貫して反対してきたが、今般、あらためて緊急事態条項の創設をはじめとする改憲案に強く反対するとともに、主権者を蔑ろにして衆議院憲法審査会で進められている改憲論議に抗議をするものである。
1 緊急事態条項の危険性
自民党らの狙う緊急事態条項は、9条改憲とあいまって戦争などの緊急事態において、国権の最高機関である国会の立法権を奪い、内閣や首相が独裁的に国民の人権制限を行うことを可能にするものである。緊急事態条項は、立憲的な憲法秩序を一時的にせよ停止し、行政府への権力の集中と強化を図って国家・政権の危機を乗り切ろうとするもので、立憲主義と民主主義を破壊する大きな危険性を持つ。
「民主政治を徹底させて国民の権利を十分擁護致します為には、左様な場合の政府一存に於いて行いまする処置は、極力之を防止しなければならぬのであります。言葉を非常と云ふことに藉りて、その大いなる途を残して置きますなら、どんなに精緻なる憲法を定めましても、口実を其処に入れて又破壊せられる虞れ絶無とは断言し難い」(第90回帝国議会:金森徳次郎国務大臣答弁)として、憲法はあえて緊急事態条項を設けていないのであって、その意味を重んじるべきである。
2 緊急事態を理由とする改憲は不要 国会議員は自らの責務を尽くせ
戦争・内乱・大規模自然災害・パンデミックなどの対応については、すでに充分な法律が整備されており、憲法に緊急事態条項を置く必要性はない。すでにある法律でもし足りないところがあれば、それを議論して法改正を行うことこそが国会議員の責務である。金森国務大臣も答弁している通り、何より重要なことは実際に予想できる特殊な緊急事態に備えて、平素から対応を考えて準備をしておくということである。そのために、立法及び法律改正が必要であれば、濫用の虞れがないよう十分に国会で審議を尽くして、法令を完備しておくことこそが重要である。国会議員のこれらの責務を放棄し、あるいは国会議員にはその能力がないと認めて、内閣に白紙委任するような改憲を口にすること自体、国会議員として許されない行為である。
また、神戸や東日本大震災並びに新型コロナ感染拡大などの経験から言われていることは、せっかく高度に整備された法制度があるにもかかわらず、平時から災害やパンデミックに備えた事前の準備がほとんどなされていないためにそれをうまく運用できなかったという点である。その点の検証と改善こそが緊急に必要なのであり、改憲議論は不要であるばかりか、災害やパンデミックから国民の命を守るために真に必要な国会での議論を阻害しかねないのであって有害である。
3 緊急事態での国会議員の任期延長改憲は不要である
大規模災害等で選挙ができないと国会議員が不在となって国会の機能が維持できないから、国会議員の任期延長を認める改憲が必要であるなどの議論がなされている。
憲法は「参議院議員の任期は、6年とし、3年ごとに議員の半数を改選する。」(憲法46条)。したがって、参議院議員が同院の定足数(総議員の3分の1;憲法56条1項)を欠くことはない。衆議院の解散後に緊急事態が発生した場合には、参議院の緊急集会(憲法54条2項但書)を開催し緊急事態に対応することは可能である。憲法はそのような事態をも想定して参議院の緊急集会を規定している。
衆議院議員の任期満了の場合について憲法54条2項但書の類推適用が認められるかについては、学説上は肯定説が有力である。もっとも、この点については、任期満了により選挙ができないような状況が生じないよう、任期満了までに必ず衆議院選挙を行うような公職選挙法31条等の改正で解決できるのであって、そもそも改憲は不要である。必要な法改正をすぐに行えば済むことである。
以上のとおり、憲法は国会の機能が常に維持できる体系を用意しているのである。改憲推進派は、日本全土が沈没して選挙が実施できないような極端な事態を想定して任期延長改憲が必要と主張するが、そのような極端な事例を出して議論すると「間違う危険性が強い」(本年2月24日高橋和之東大名誉教授)。「何よりも重要なのは、憲法に手を付ける前に、まず、緊急時における対応についての法制を準備しておくということではないか」(同日只野雅人一橋大学大学院教授)。こうした憲法研究者の意見は重要であり、その意味を理解しないで軽々に扱うことは許されない。
選挙が実施できない地域では繰延投票制度(公職選挙法57条)を利用すれば済む。また、日本弁護士連合会が、2017年12月22日付「大規模災害に備えるために公職選挙法の改正を求める意見書」で提言するように、?平時から選挙人名簿のバックアップを取ることを法的に義務付けること、?避難所又は避難先で被災者が元の住所を入力することで、被災者の所在地を把握できる仕組みを構築すること、?大規模災害が発生した場合でも実施できる選挙制度の創設として、ア指定港における船員の不在者投票類似の制度の創設、イ郵便投票制度の要件緩和など、先ずは公選法改正で対応できることをやるべきである。
4 国会議員の任期延長改憲は、国民の参政権を侵害し権力による濫用の危険が大きい
国会議員の任期延長は、国民固有の権利(憲法15条1項)である選挙の機会を奪うということであり、民主政治の根幹を揺るがしかねない。
任期延長とその期間を決めるのが国会議員自身または内閣であるとすれば、自らの地位延命のために、あるいは、政権や国会多数派にとって不利な時期の選挙を避けるために任期延長をはかるといったご都合主義、お手盛りの危険が常につきまとうのであり、国会議員自らが軽々に任期延長の議論をすること自体、厳に慎むべきものである。わが国では1941年に衆議院議員の任期が任期満了前に立法措置により1年間延期されたことがある。選挙を行うと「挙国一致防衛国家体制の整備を邁進しようとする決意について、疑いを起こさしめぬとも限らぬ」からという理由で選挙が延期され、その間に真珠湾攻撃を行い非戦論を封じてアメリカ・連合軍との無謀な戦争に突入したのである。この教訓が端的に示すとおり、緊急の事態にあっては、むしろ民主政治を徹底し国民の審判の機会を保障することこそが必要である。
しかも、国会議員の任期を延長したからといって国会が開かれる保証はない。改憲派の狙いは選挙を避けて権力を温存したうえで緊急政令等の内閣・首相の独裁で政治を行うことにあるとみるのが正確であろう。憲法53条の国会召集要求をコロナ禍でさえも2回にわたって無視するような自公政権を見ればこの危険は一層の現実味を持つと言えよう。
緊急事態における国会議員の任期延長は、以上のとおり、国民主権・民主主義の根幹にかかわる議論であり、権力による濫用の危険が極めて高く、立憲主義を破壊する危険がある。憲法審査会で軽々に議論をして、しかも多数決で「とりまとめ」るなどといった暴挙は、絶対に許されない。
5 まとめ
任期延長の議論のとりまとめが済めば、次は、緊急政令と人権制限、憲法9条の改憲議論に突き進むことは、現状の改憲派の動静から見て明らかである。
わたしたち改憲問題対策法律家6団体連絡会は、コロナ禍で多くの市民が苦しむ中、民主主義と立憲主義を葬りかねないような議論が衆議院憲法審査会で行われていることに強く抗議するとともに、緊急事態下における国会議員の任期延長についての意見のとりまとめを行うことに対しては断固反対するものである。
以上
(2022年4月2日)
メールやメーリングリストの普及によって、仲間同士の情報や意見交換は実に便利になった。さらに、最近はズームやチームのオンラインの活用。電話とファクスの時代に長く過ごした身には、今昔の感に堪えない。
ところで、自由法曹団には、テーマ別に幾つかののメーリングリストがある。そこでの意見交換は、にぎやかで楽しい雰囲気。その内の一つに、最近ある弁護士がこんな書き込みをした。
知り合いの(定年後)再任用の教員から、こんなことを尋ねられました。
「毎年、一年ごとに任用されることになり、その都度教育委員会に誓約書を提出するのですが、その文言が以前は「憲法を遵守し」だったのに、今年の書式には「憲法を擁護し」となっていました。これって、どう違うんでしょうか。変更には悪しき意図がありませんか。弁護士さんの感覚はどうですか。」
さて、皆さんのご意見はいかがでしょうか。
これに、にぎやかに意見が寄せられた。
「誓約書としてはその言葉の変更自体で特段の差はないように思う」「99条の条文をよく見たら『遵守』ではなく『擁護』となっていたことに気付いたから、『擁護』の方がふさわしいと考えた。その程度のことではないでしょうか」という以外は、次のように、概ね好意的・肯定的な意見が多かった。
「直感的に、『遵守』より『擁護』の方は改憲を許さん的な意味でむしろ奮っているのではないかと思いました。辞書を調べると、『遵守』は単に厳格に守るということですが、『擁護』はやはり危害から庇い護る事とあります。これは教育委員会の中のどなたかの計らいだとすると、かなりメッセージ性の強い変更のように思います。悪しき意図を感じるものではありません。」
「『遵守』は98条の最高法規性の条文で、『擁護』は99条の憲法尊重擁護義務の条文なんですね。誓約書には、もちろん99条の方がしっくりきますね。これを変更した方は、この2つの条文の意味を理解したのかもしれません。私は賛成です!」
「文言変更の意図がどこにあるのかわかりませんが、結果的には良い方向になっているということですね。この教育委員会を訴訟の相手にしている立場としては、それほど立派な組織とは思われませんが、誓約書の件については結果オーライといったところではないでしょうか。」
「これが弁護士的感覚かというと自信はないですが、すごくいいじゃんと思います」
私も意見を述べたが、少数派であった。少し敷衍して、改めてコメントしておきたい。
憲法学者・佐藤功の名言として、「憲法が君たちを守る。君たちが憲法を守る」というフレーズが知られている。子ども向けに書き下ろした『憲法と君たち』の中の一節だという。「憲法が国民を守り 国民が憲法を守る」「憲法が市民を守り 市民が憲法を守る」と言い換えてもよい。
「憲法は君たちを守る」は、憲法が国民の人権や民主主義を守る根拠となるという法的な作用を語っている。そして、「君たちが憲法を守る」は、国民が憲法の命じるところに従うべきという意味ではない。主権者である国民に憲法改悪を阻止し、憲法の理念を実現する努力を求める呼びかけとしての政治的メッセージと読むべきだろう。この後者の国民の政治的な作用として「憲法を守る」を、憲法擁護というにふさわしい。縮めれば、「護憲」である。
他方、「国民が憲法の命じるところに従うべきという意味での『憲法を守る』義務」は存在しない。国民の憲法遵守義務というものは観念しがたい。が、むろん、公務員には憲法遵守義務がある。
憲法の条文を意識せずに「憲法を守る」というときには、
「現行憲法の定めに従う」という意味と、
「現行憲法の条文や理念を改悪させない」という意味の
両義がある。
前者を『遵守』、後者を『擁護』と使い分けると意味がはっきりする。前者は法的な概念で、後者は政治的概念だと言うしかない。
この言語感覚からは、憲法99条の公務員の「憲法を尊重し擁護する義務」という用語の使い方が国語とズレている。本来、99条は『擁護』ではなく『遵守』がふさわしい。
現に公務員の採用時には、「憲法遵守」と宣誓している例も多いようで、この言葉づかいは条文上間違い、などと言われることがある。しかし私は、国語としては「遵守」の方が正しいのだと思っている。
この県教委が、教員に対して、「日本国憲法を遵守するのみならず、(改憲を阻止して)憲法を擁護する」という宣誓文言がふさわしい、との含意での誓約を求めているとすれば素晴らしいことだろうが、それはあり得ない。憲法99条の条文の文言のとおりに、公務員の「憲法を尊重し擁護する義務」という用語を使うように変更しただけのことであろう。
問題は国民皆の憲法意識にある。国民が憲法遵守の義務を負うことはない、権力者や天皇に憲法を遵守させなくてはならない。そして、この日本国憲法とその理念を飽くまで擁護しようと意識すべきなのだ。
(2021年11月3日)
秋日和の「文化の日」である。いうまでもなく憲法公布記念の日。この憲法、総選挙における改憲派の大勝をさぞかし嘆いていることだろう。
祝日法(国民の祝日に関する法律)では、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とされている。憲法の理念を、「自由」「平和」「文化」としたのであろう。「自由の日」「平和の日」でもよかったはずだが、どういうわけか「文化の日」。
「自由」と「平和」に並ぶ第3の理念としては、「国民主権」「民主主義」がふさわしい。四字では釣り合わないというのなら、「民権」「民主」。「国民主権の日」も「民主の日」も、すてきなネーミングではないか。「国民が主権者であることを確認して、民主主義の発展をことほぐ日」である。この度の総選挙の結果は、「自由」と「平和」と「民主主義」に影を落とすものとなった。
「文化をすすめる」「文化の日」は、その主体も内容もよく分からないが、戦後のこの時代には、「軍国日本」「大国化願望」を否定する文脈で「文化立国」が語られていた。文化とは、「自由」「平和」「民主主義」のいずれをもイメージする言葉であったのだろう。
周知のとおり11月3日は、明治天皇・睦仁の誕生日である。この人、幼くして幕府と西南雄藩連合との政争の具となり、薩長閥に担がれて維新政府の傀儡となった。そして、大日本帝国憲法が制定されるや、神権天皇となり統治権の総覧者となった。おそらくは不本意な人生であったろうが、生涯その矩を超えることはなかったようだ。
日本国憲法は大日本帝国憲法の拠って立つ基本原理を否定するところから出発している。この社会にある旧憲法の残滓と対峙し、これを一掃すべきが、主権者である日本国民の責務と言うべきである。その日本国民は、かつては臣民として主権者たる睦仁や裕仁に臣従を余儀なくされていた。その隷従の時代を懐かしんだり、奴隷主に等しい睦仁の誕生日を祝したりする時代の空気の復活を許してはならない。
にもかかわらず、総選挙での保守側の大勝という衝撃の結果は、私たちのこの社会の民主主義の未熟さを示して余りある。改憲派の議席も3分の2を超えているのだ。流れを上ろうとする水鳥の如く、絶えず全力での水掻きを続けないと、たちまちにして時代は後戻りする。逆コースが現実なものとなりかねない。
秋日和の「文化の日」、あらためてそれぞれが日本国憲法の理念を大切にしようと決意をすべき日でなければならない。
(2021年11月2日)
私のメールボックスに、メルマガ「週刊正論」が定期的に送られてくる。私が積極的に申し込んだはずはないのだが、わざわざ断るのも面倒で手続の時間も惜しい。だからいつまでも送られてくる。もっとも、日付が元号なことだけで不愉快で、滅多に目を通すことはない。
ところが、昨夕の配信記事には、ギョッとさせられた。《メルマガ「週刊正論」令和3年11月1日号》のタイトルが、【「反共」4党で憲法改正に突き進め】というもの。「国家基本問題研究所」の「今週の直言」に掲載された月刊「正論」発行人有元隆志の論考だという。
「反共・4党」とは、自民・公明・維新・国民のこと。「反共4党よ、今こそ好機到来ではないか。憲法改正に突き進め」、これが「反共右翼」の現状認識であり、共通目標なのだ。少々不愉快ではあるが、抜粋してご紹介する。
◇衆院選で自民党は国会を安定的に運営できる絶対安定多数を単独で確保した。さらに自民、公明の両与党と、公約に憲法改正の方向性を明記した日本維新の会、国民民主党を加えると、改憲勢力は憲法改正発議に必要な310議席を優に超えた。政権発足から間もない岸田文雄首相は、選挙戦で公約したように「憲法改正を実現すべく最善の努力」をしてほしい。
◇今回の選挙戦では、日本共産党が立憲民主党と「限定的な閣外からの協力」で合意し、多くの選挙区で候補者を一本化した。ところが、岸田首相は選挙戦終盤になるまで、遊説などでこの問題に言及しなかった。憲政史上、初めて共産党の政権参画が実現するかもしれない重大な問題を先頭に立って訴えるべきだった。岸田首相には猛省を促したい。
◇衆院選の結果を「反共」という視点でみると、自民、公明、維新、国民民主という枠組みができる。4党の議席数を合わせると憲法改正発議が可能な345議席に達した。参院では4党を合わせると169議席で、発議に必要な164議席を上回る。
◇憲法改正に強い意欲を示した安倍晋三政権下では、自公両党だけで衆参両院で3分の2以上の議席を確保していても改正は実現しなかった。維新と国民民主党の協力を得られれば、実のところは改憲に積極的ではなかった公明党も重い腰を上げる可能性もある。
◇「聞く力」があると自負する岸田首相は、維新や国民民主の意見に耳を傾けながら憲法改正への協力を得て、改正実現に動くべきだ。それが岸田首相に課せられた使命である。
右翼の見るところ、「反共」即ち「改憲」である。「親共」即ち「護憲」なのでもあろう。憎き敵こそ共産党であり、共産党を核として護憲勢力があり、反共勢力はそのまま改憲勢力なのだ。この図式からは、今こそ改憲のチャンスと映るであろう。しかし、さてどうだろうか。
自民・公明・維新・国民、その議員と支持者がはたしてすべて改憲派であろうか。改憲に突っ走って、各政党をまとめられるだろうか。反共4党が一致できるだろうか。そして、反共各党が明確な改憲方針を打ち出したとき、今回投票した支持者をつなぎ止められるだろうか。
岸田や山口、玉木などの反共野党の領袖が、所属議員の数合わせだけで軽々に改憲発議に踏み切れるとは思えない。発議して国民投票で勝てる見通しがもてるだろうか。仮に発議したうえでの国民審査で敗北したとすれば、その政治的ダメージははかりしれない。そのとき、再度の改憲発議ははるかな未来に遠のくことにならざるを得ない。
それでもこの選挙結果である。今しばらくは、右翼が跳梁して【「反共」4党で憲法改正に突き進め】という雰囲気が残るのだろう。その今でこそ、それを許さぬ護憲陣営の運動が求められているというべきなのだ。
(2021年3月16日)
昨日(3月15日)の記者会見で、国連のドゥジャリク事務総長報道官は、クーデターへの抗議デモが続くミャンマーで治安部隊の弾圧により「これまでに女性や子どもを含む少なくとも138人の平和的なデモ参加者が殺害された」と述べた。グテレス事務総長は同日の声明で、国軍による弾圧激化について「がくぜんとしている」「デモ参加者の殺害や恣意的な拘束は基本的人権を侵害しており、自制や対話を求める国連安全保障理事会の呼び掛けにも反している」と批判した。
ミャンマーの人口は5000万人余。その9割が仏教徒だという。仏教徒の戒律として、出家には十戒、在家信者にも五戒が課せられる。五戒とは、不殺生戒・不偸盗戒・不邪婬戒・不妄語戒・不飲酒戒。その筆頭が《不殺生戒》。生きとし生けるものの命を奪ってはならないとする戒めだというが、もちろん「人を殺してはならない」がメインである。
漢の高祖は、法は三章のみと言った。「人を殺す」「人を傷つる」「人の物を盗む」を罪とする。モーゼの十戒も、「汝、人を殺す勿れ」と言う。古今東西を通じて、「殺人」は社会が許さない違法な行為であり、「殺してはならない」という規範は、人の倫理として深く心に刻まれている。
ミャンマーの治安部隊や国軍の兵士とて、人である。その多くは、仏教徒でもあろう。どうして、平和なデモ隊に銃を向け、実弾を発射できるのだろうか。命じられたからとしても、どうして人殺しができるのだろうか。どうして、圧倒的な民衆の側に敵対し、殺人までできるのだろうか。
今、ヤンゴンで、マンダレーで、白昼路上での大規模な集団殺人が行われている。殺す側と殺される側が対峙しているとき、「その等距離の位置を堅持する」「両者の言い分を聞こう」などと
人権を語るべき国も個人も、ともかく「殺人をやめよ」と声を発しなければならない。
ヤンゴン市内在住のジャーナリストからのこんな報道に接すると胸が痛む。
SNS上には、国軍が民間人に発砲する「蛮行」の様子を示すさまざまな動画がアップされている。中でもひどいのは「発砲を嫌がる警官を軍人が脅して、民間人を撃つよう命令する」様子を映したものだ。BBCが3月15日に伝えたところによると、抗議デモ開始以降、ミャンマー全土で少なくとも120人以上が死亡したという。
見せしめ的な殺害行為もある。かねて「何体の遺体が集まったら国連は行動を起こすんですか?」と書いた紙を持ち、孤軍奮闘している姿が各国のニュースサイトに報じられた男性、ニーニーアウンテッナインさん(23)は2月28日、ヤンゴン市内のデモの主要スポット・レーダンで当局により射殺された。国際社会に向け、メディアに発信する人間は消される状況にある。(さかい もとみ)
軍政は戒厳令を発している。ミャンマーでは、法の支配が停止され、軍が権力を掌握しているということである。軍政の最高意思決定機関「国家統治評議会」は、昨日(3月16日)付の国営紙で、ヤンゴン6地区に発令した戒厳令の詳細を公表した。軍法会議を設置し、政府や国民の不信、恐怖をあおる行為や政府職員の規律に悪影響を与える行為、偽情報の流布など23項目を犯罪とした。最高刑は死刑、上訴は認めないなどとする内容。デモ参加者らへの弾圧をさらに強める可能性が高いと報じられている。
人権と民主主義とはセットになっている。目的的な価値である人権を擁護するために手段的な価値としての民主主義が重要なのだ。民主主義が崩壊するとき、人権も失われる。民主主義の崩壊を象徴するものが戒厳令にほかならない。自民党改憲案(2012年)は、戒厳令と紙一重の詳細な緊急事態条項が提案されている。ミャンマーの出来事は、けっして対岸の火事ではない。
例年のごとく、はつなつの風薫る季節に憲法記念日である。しかし、今日吹く風にはコロナの臭気が混じっている。そのコロナ風のおかげで、メーデーも改憲反対大集会も「オンライン集会」となった。
正式な集会名は、「平和といのちと人権を!5.3憲法集会2020」。当初は有明公園での大集会を予定していたが、本日13時からの国会前集会をネット中継することに。主催者の御苦労と無念は察するが、気勢を殺がれること甚だしい。
今年も、憲法の受難を意識しながらの憲法記念日である。現行の日本国憲法を理想の憲法と持ち上げるつもりはさらさらないが、その根幹が人類の叡智の結実であることに疑いはない。天皇教の教典である大日本帝国憲法などとは、比較すべくもない。
本来なら、この根幹を大事にしつつも、より良い憲法を求めて正しい意味での「憲法改正」運動が展開されてしかるべきなのだが、如何せん革新陣営にはその力量に欠ける。保守勢力の「憲法改悪」の策動を阻止する運動を積み重ねて、ようやく日本国民はいま日本国憲法を自らのものとしつつある。
憲法の危機が叫ばれる都度、日本国民は、日本国憲法が想定する主権者として鍛えられてきた。いままた、その危機のさなかにある。考えてみれば、日本国憲法の基本精神は権力者性悪説である。もとより、近代立憲主義が権力を危険視し、危険な権力を規制しようとするものである。権力は、常に腐敗の危険を内包してというだけではなく、腐敗せぬ健全な権力も危険なのだ。
権力者から嫌われ、疎まれ、煙たがれ、何とか「改正」しようとの標的とされる憲法であってこそ、まともな近代憲法として存在価値がある。改悪阻止運動の高揚も必然となる。
治者としての権力と、被治者としての国民とは、常に緊張関係にある。憲法をはさんで、両者は対峙しているのだ。権力は憲法によって与えられた権限を最大限活用し、あわよくば暴走をしてでも国民を押さえ込もうとする。国民は憲法を武器として、危険な権力に対峙し規制しようとする。この対立の関係は永久運動である。
しかも、今権力を握っているのは、政治と行政を私物化し、嘘とごまかしの正真正銘の性悪政権、安倍内閣である。この安倍を権力に押し上げている勢力が、改憲をねらっている。日本国民が、こぞって危険な改憲阻止に立ち上がって当然なのだ。
そして、今や「新型コロナ感染対策」という「緊急事態」にあって、憲法の有効性が攻撃を受けている。もとより、感染症蔓延を阻止するための、合理的な私権の制約はありうることである。しかし、例外的な私権の制約は、合理性が確認された最低限のものでなくてはならず、国民の納得と同意がなくてはならない。また、厳密に時限的な措置でなければならず、事後の検証も不可欠である。これらは、すべて現行「日本国憲法」が当然とするところである。
特措法に基づく緊急事態宣言の効果として行政権力がなし得ることは万能ではなく限定的ではある。しかし、非常時において行政権が立法権の干渉を排し権力を行使して私権を制約し得るという「緊急事態条項」の基本形の具備は明確である。この事態での政府や自治体の暴走に対する警戒を軽視してはならない。
この事態に、「非常の事態なのだから政府の権限を強化すべきだ」「いまは権力批判のときではなく、一致して政府の施策を支持すべきだ」という類いの言論に与してはならない。非常時における国民の同調圧力に迎合してもならない。
考えてもみよ。合理的な「新型コロナ感染対策」が、強権から生まれることはあり得ない。強権の発動は施策の合理性を阻害するものでしかない。明らかに、専門家の知見を含む国民の意見の総意のみが、最も合理的な対策を形作る。そして、常に施策実行の過程は徹底した透明性を確保された検証にさらされなければならない。不十分であれば直ちに変更するためである。最も合理的な施策が、私権を制限することになることはありうる。国民が民主的に参加して合理性を確認した施策であればこそ納得が可能であり、スムーズな実行が可能となる。また、当然のことながら、全体のために個人の利益が犠牲になるときには、適正な補償が必要となる。
「現行憲法の立場でも、十分に新型コロナ蔓延の事態に対処できる」のではない。「現行憲法の立場を十分に活かすことによってこそ、新型コロナ蔓延の事態に対処できる」「信頼できない政権にお任せしたら、国民の命と家計は取り返しのつかないこととなる」のだ。この事態を改憲へのステップとして利用しようなどとは、見当違いも甚だしい、とんでもないこと。しっかりと眼を見開いて、危険な政権の暴走と、改憲策動に歯止めを掛ける言論が必要である。
2020年の憲法記念日。薫風心地よけれども、風波は高い。
(2020年5月3日)
新型コロナウイルス対策のためとする特措法改正には、各界からの反対が強い。宗教界も例外ではない。
「信教の自由」を侵害する新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する宗教者緊急声明(3月13日付)を紹介する。
呼びかけは、日本キリスト教協議会総幹事 金性済氏。緊急事態宣言の市民生活に及ぼす本質的な危険性と共に、宗教者として「信教の自由」が脅かされる危機感をもって、NCC東アジアの和解と平和委員会や「平和をつくりだす宗教者ネット」が中心となって、宗旨をこえて宗教者がこの法改定に反対する緊急声明に至ったものという。
まことに行き届いた、もっともな内容であって、このような各界からの意見表明の積み重ねが、政権の危険な意図を挫折させることになるだろう。
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「信教の自由」を侵害する新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する宗教者緊急声明
私たちは、日本国憲法第9条を守りつつ、あらゆる戦争を許さない平和をつくりだすことを願い求め、共に祈り合う宗教者であります。
今、世界を揺るがす事態となった新型コロナ・ウイルス問題をめぐり、安倍晋三首相は、去る3月5日、“緊急事態宣言”発令を念頭に入れた「新型インフルエンザ等対策特別措置法」改定の準備について言明し、10日の閣議で国会上程が決定され、3月13日の国会で制定させようとしています。国会審議においては、すでに1月28日より、新型コロナ問題に関連して、緊急事態条項をもつ憲法の改定が一部国会議員たちによって言及されてきました。
かねてより自民党・与党によって提唱されてきた憲法改定案の一項目である「緊急事態宣言」は、重大な問題をはらんでいることが指摘されてきました。総理大臣を中心とする内閣が国家の緊急事態を宣言することにより、行政府が立法権をも独占してしまうならば、それは憲法秩序を停止してしまい、重大な人権侵害と立憲民主主義の秩序を破壊してしまう恐れがあることを、戦時下の日本やナチス・ドイツの歴史的経験から私たちは知っているのです。
この度の新型コロナ・ウイルスの感染拡大事態について、安倍政権が既存の法制度のもとに、迅速かつ周到な対応を怠ってしまったことを省みず、いきなり「緊急事態宣言」の手段を選択しようとする企ては、新型コロナ・ウイルス問題を奇貨としながら、憲法改定の意図まで含み持つ本末転倒的な対応というほかありません。
私たちがとりわけ憂慮することは、もしも「緊急事態宣言」が総理大臣によって発動されれば、都道府県知事に市民社会生活の広範囲にわたる行動を規制する権限が与えられ、自粛要請によって市民の外出が制限され(移動の自由を保障する憲法22条違反)、社会・教育施設などの使用が制限されることが考えられます。それはまた、宗教者が状況を慎重に見極めつつも、自主的に判断し、宗教活動を営むことさえ制約されることにつながり、「信教の自由」を侵害するものとなりえます。
安倍政権は、1月末の段階において感染症法や検疫法の下でなしうる対応が後手に回り、さらにクルーズ船(ダイヤモンド・プリンセス号)乗船者に対する対処や下船後の対応についても、適切な政策を打ち出せず、結果的に感染拡大を引き起こす失策を繰り返してきました。
このような失敗を省みず、安倍首相は3月2日、参議院予算委員会にて「新型インフルエンザ等対策特別措置法と同等の措置を講ずることが可能となる立法措置を早急に進める」と発言しました。感染問題をめぐり、安倍首相は2月27日に、専門家会議での協議や関係省庁との慎重な検討も踏まえることなく、科学的根拠もないまま、全国一斉休校「要請」措置を突然出すことにより、社会に大きな混乱をもたらしました。このような安倍政権がさらに緊急事態を宣言することに、私たちは大きな脅威と危険を覚えずにおれません。
さらに、去る3月1日の「3.1独立運動」記念式典の演説において、韓国の文在寅大統領は、日本政府に「共に危機を克服しよう」と呼び掛けたにもかかわらず、その4日後、中国と韓国からの入国を、何の外交的協議や専門家協議もなく一方的に制限する措置を発表しました。安倍政権によるこのような非情・非礼なる措置は、悪化した日韓関係の改善に向けた配慮など一顧だにしない傲慢で排外的な対応というほかありません。
私たち宗教者は、日本も世界のどの国もが協力し合い、一日も早く新型コロナ・ウイルスの感染による災いを、互いの友愛と英知と希望をもって克服していく日を迎えることを心から祈願するものであります。
そして、この人類的危機に際して、むしろ立憲民主主義の秩序を揺るがし、「緊急事態」の名を借りた権力の集中と、人権蹂躙的統制へ道を開くことに対して断固反対するものであります。
(2020年3月17日)
昨日(3月13日)、新型コロナウイルス感染症を適用対象に加える「新型インフルエンザ特措法」の改正法が成立した。3月11日の審議開始からわずか3日間での成立である。内容は、新型コロナを法の適用対象に加えるだけで、ほかの規定は変えなかった。
衆参両院の決議はいずれも全会一致ではなかった。賛成は、自民・公明・維新と、立憲民主・国民民主・社民の共同会派。共産・れいわ・碧水会・沖縄の風が反対。その他の野党の中からも数人の反対・棄権・欠席があったことがせめてもの救い。
どさくさ紛れの火事場泥棒的法改正だが、新型コロナ感染症への適用に関しては、政令で対象期間を来年(2011年)1月31日までと定めた。それまで、緊急事態宣言の発動を阻止しなければならない。
言うまでもないことだが、近代憲法とは、個人の人権を権力の侵害から擁護するために、主権者が与えた権力規制の命令体系である。憲法の命ずるところに従って、権力の行使は人権侵害のないように制約される。ところが、国家緊急の事態においては、その例外がまかり通らねばならないとする考え方がある。その例外を憲法自体に書き込む例もあり、個別の法にそのような例外を設ける例もある。2012年成立の「新型インフルエンザ特措法」は、「緊急事態宣言」時には、そのような「立憲主義の例外」を安易に認める。危険な立法と言わざるを得ない。
大日本帝国憲法には、いわゆる「国家緊急権規程」が満載であった。第14条(戒厳大権)、第8条(緊急勅令)、第31条(非常大権)、第70条(緊急財政処分)などである。条文は以下のとおりである。
第14条(戒厳大権)
1項 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2項 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第8条(緊急勅令)
1項 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
第31条(非常大権)
本章(第2章 臣民権利義務)ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第70条(緊急財政処分)
1項 公共ノ安全ヲ保持スル為緊急ノ需用アル場合ニ於テ内外ノ情形ニ因リ政府ハ帝国議会ヲ召集スルコト能ハサルトキハ勅令ニ依リ財政上必要ノ処分ヲ為スコトヲ得
戒厳が宣告されれば、こんなことになる。
戒厳令第十四条 戒厳地境内於テハ司令官左ニ記列ノ諸件ヲ執行スルノ権ヲ有ス
但其執行ヨリ生スル損害ハ要償スルコトヲ得ス
第一 集会若クハ新聞雑誌広告等ノ時勢ニ妨害アリト認ムル者ヲ停止スルコト
第二 軍需ニ供ス可キ民有ノ諸物品ヲ調査シ又ハ時機ニ依リ其輸出ヲ禁止スルコト
第三 銃砲弾薬兵器火具其他危険ニ渉ル諸物品ヲ所有スル者アル時ハ
之ヲ検査シ時機ニ依リ押収スルコト
第四 郵便電報ヲ開緘シ出入ノ船舶及ヒ諸物品ヲ検査シ並ニ陸海通路ヲ停止スルコト
第五 戦状ニ依リ止ムヲ得サル場合ニ於テハ人民ノ動産不動産ヲ破壊燬焼スルコト
第六 合囲地境内ニ於テハ昼夜ノ別ナク
人民ノ家屋建造物船舶中ニ立入リ検察スルコト
第七 合囲地境内ニ寄宿スル者アル時ハ時機ニ依リ其地ヲ退去セシムルコト
(口語訳)戒厳令が敷かれた地域内では、通常の立法・行政・司法は停止して、司令官が以下の専権をもつ。仮に、これによって誰かに損害が生じても、賠償はしない。
1 不都合な集会や、新聞雑誌広告の発行は停止する
2 軍が必要な諸物品を調査して、その輸出を禁止する
3 銃砲弾薬兵器火具などの危険物の所在を検査して取り上げる
4 郵便電報は開封し船舶や諸物品を検査し陸海の交通路を遮断する
5 やむを得ない場合は、人民の家屋や財産を破壊し焼却する
6 昼夜の別なく人民の住居・建物・船舶に立ち入って検査する
7 必要あれば住民を追い出すこと
関東大震災直後の1923年9月3日の関東戒厳令司令官通知万世一系なにごと以下のとおりである。
(同司令部は、9月2日緊急勅令による「行政戒厳」によって設置されたもの)
一 警視総監及関係地方長官並ニ警察官ノ施行スベキ諸勤務。
1 時勢ニ妨害アリト認ムル集会若ハ新聞紙雑誌広告ノ停止。
2 兵器弾薬等其ノ他危険ニ亙ル諸物晶ノ検査押収。
3 出入ノ船舶及諸物晶ノ検査押収。
4 各要所ニ検問所ヲ設ケ
通行人ノ時勢ニ妨害アリト認ムルモノノ出入禁止又ハ時機ニ依り水陸ノ通路停止。
5 昼夜ノ別ナク人民ノ家屋建造物、船舶中ニ立入検察。
6 本命施行地域内ニ寄宿スル者ニ対シ時機ニ依リ地境外退去。
二 関係郵便局長及電信局長ハ時勢二妨害アリト認ムル郵便電信ヲ開緘ス。
また、ヒトラーが政権簒奪の手段としてまず用いたのが、以下のワイマール憲法第48条2項である。
「ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復させるために必要な措置をとることができ、必要な場合には、武装兵力を用いて介入することができる。
この目的のために、大統領は一時的に第114条(人身の自由)、第115条(住居の不可侵)、第117条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第118条(意見表明の自由)、第123条(集会の権利)、第124条(結社の権利)、および第153条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。」
そして、悪名高いナチスドイツの「授権法」(全権委任法)は、わずか全5条だった。これが、ヒトラー独裁の法的根拠となった。
正式名称 「民族および国家の危難を除去するための法律」1933年3月23日成立
1.ドイツ国の法律は、ドイツ政府によっても制定されうる。
2.ドイツ政府によって制定された法律は、憲法に違反することができる。
3.ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。
4.ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
5.本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日までの時限立法である。
日本国憲法には一切の緊急事態条項がない。その理由を制憲国会(第90帝国議会)における政府(担当大臣金森徳次郎)答弁は、こう語っている。
「緊急勅令及ビ財政上ノ緊急処分ハ、行政当局者ニ取リマシテハ実ニ調法(重宝)ナモノデアリマス、併シナガラ調法ト云フ裏面ニ於キマシテハ、国民ノ意思ヲ或ル期間有力ニ無視シ得ル制度デアルト云フコトガ言ヘルノデアリマス、ダカラ便利ヲ尊ブカ或ハ民主政治ノ根本ノ原則ヲ尊重スルカ、斯ウ云フ分レ目ニナルノデアリマス、ソコデ若シ国家ノ伸展ノ上ニ実際上差支ヘガナイト云フ見極メガ付クナラバ、斯クノ如キ財政上ノ緊急措置或ハ緊急勅令トカ云フモノハ、ナイコトガ望マシイト思フノデアリマス」
「民主政治ヲ徹底サセテ国民ノ権利ヲ十分擁護致シマス為ニハ、左様ナ場合ノ政府一存ニ於テ行ヒマスル処置ハ、極力之ヲ防止シナケレバナラヌノデアリマス言葉ヲ非常ト云フコトニ藉リテ、其ノ大イナル途ヲ残シテ置キマスナラ、ドンナニ精緻ナル憲法ヲ定メマシテモ、口実ヲ其処ニ入レテ又破壊セラレル虞絶無トハ断言シ難イト思ヒマス、随テ此ノ憲法ハ左様ナ非常ナル特例ヲ以テ――謂ハバ行政権ノ自由判断ノ余地ヲ出来ルダケ少クスルヤウニ考ヘタ訳デアリマス、随テ特殊ノ必要ガ起リマスレバ、臨時議会ヲ召集シテ之ニ応ズル処置ヲスル、又衆議院ガ解散後デアツテ処置ノ出来ナイ時ハ、参議院ノ緊急集会ヲ促シテ暫定ノ処置ヲスル、…コトガ適当デアラウト思フ訳デアリマス」
70年余以前の、この日本国憲法制定の初心を、今噛みしめる必要があるだろう。新型インフル特措法改定案に反対した山添拓議員(共産)の、昨日(3月13日)参院本会議での反対討論(要旨)を紹介しておく。
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新型コロナウイルス感染症に、多くの人が不安を感じています。今求められているのは、感染拡大を防ぎ、検査体制と医療体制をいっそう充実させるとともに、くらしと経済を守る政治責任を果たすことです。ところが政府は、本法案を通すことを最優先にしています。
特措法の最大の問題は、緊急事態宣言の下で行政に権力を集中させ、広範な権利制限が可能となることです。
外出自粛の要請が可能とされます。学校や保育所、介護老人保健施設など、多くの人が利用する施設の利用の制限・停止を要請し、指示できるとされます。医療施設建設のために土地や建物を同意なく使用できるとされます。
こうした多岐にわたる措置は、憲法が保障する移動の自由、経済活動の自由、集会の自由や表現の自由などの基本的人権を制約し、くらしと経済に重大な影響を及ぼします。
特措法は、自由と権利の制限は「必要最小限度」としていますが、その保証はありません。さまざまな措置により市民に生じる経済的な損失について、補償する仕組みもありません。
幅広い人権制限が発動されれば、市民生活と経済活動に広範な萎縮効果が及びます。
自由と権利の重大な制約を可能とするにもかかわらず、法律上の歯止めが曖昧です。
都道府県知事にこうした強力な権限をもたせるのが、首相による「緊急事態宣言」です。ところが、その発動要件は法律上不明確です。
「重篤」とは何か、「相当程度高い」とはどの程度か、「まん延」とは何か、これらを誰が、いかなる根拠で判断するのかの定めがありません。科学的根拠について、専門家の意見を踏まえる仕組みがありません。
「宣言」の発動や解除に際し、国会の承認は求められていません。私権制限を一時的かつ一部とはいえ行政権に集中させるのに、国会の事前承認すら求めないのは重大です。
さらに「宣言」下では、「指定公共機関」であるNHKに対し首相が「必要な指示をすることができる」とされ、その内容や範囲に限定はありません。これでは、政府にとって都合の悪い事実は報道させないことも可能となり、国民の知る権利を脅かしかねません。
本法案は、衆議院で3時間、本院でも参考人質疑を含め4時間20分の質疑時間で委員会採決に至り、十分な審議すら行われていません。政府は本日の質疑でも、現状は緊急事態宣言を発する状況ではないとしています。急いで審議・採決を進める必要はありません。
憲法改定に前のめりの安倍首相の下で、自民党議員が「緊急事態条項を改憲項目に」と発言しています。安倍政権に緊急事態宣言の発動を可能とすることは容認できません。
(2020年3月14日)
昨日が3月10日、東京大空襲によって無辜の非戦闘員10万人が虐殺された日。戦争被害だからとして到底甘受しえない、あまりに巨大で悲惨な体験。それまで多くの国民にとって、戦争とは外地で行われるものであり、危険は出征した男たちが引き受けるはずのものであった。1945年のこの日は、戦争とはすべての国民に否応のない深刻極まる惨禍をもたらすものと思い知らされた日でもある。
戦争は天災ではなく人災である。起こした人がおり責任者がいる。その戦争責任の追及が求められる。中国に対しても米英に対しても、戦争を仕掛けたのは日本の側なのだから、虐殺された10万人の怨みは、戦争をたくらんだ日本の為政者・天皇制政府にも向けられなければならない。最高責任者天皇の責任を追及しなかったことが、歴史的禍根である。
そして、本日が3月11日。2011年の東日本大震災の記憶は生々しい。東北3県の2万余の人が津波でかけがえのない命を失った。天災の被害者には、哀悼の意を捧げるしかない。しかし3・11には、天災にとどまらず戦争と本質を同じくする人災がそれに続いた。福島第1原発の事故による放射線被害である。地震大国日本において原発を国策とし、しかも津波対策を怠った者の責任を不問に付してはならない。今、民事・刑事の訴訟を通じて、この大事故の責任追及が行われている。なお、当時の私の思いは、下記のブログに書き尽くしている。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563
あの日から9年経った今、世はコロナウィルス禍に萎縮した事態にある。これも、一面は天災であり、またもう一面は人災でもある。安倍政権のコロナ対策は、納得しうる根拠に欠け、無為無策のうちに感染被害を拡大した。そして、無為無策を非難されるや、一転して根拠を示すことなく、根拠に欠けた過剰な対策をとるようになった。
その理由の一つは桜疑惑に代表される自らの不祥事の糊塗であるが、それにとどまらない。コロナ禍の蔓延を奇貨とした、改憲への国民の誘導を考えているのだ。
泥棒とは、不名誉な人物であり、あるいは行為である。火事場泥棒という言葉の語感は、単なる泥棒の比ではない。なんという忌まわしく、汚い、怪しからん、奴というイメージがある。安倍晋三がやろうとしているのは、その類である。
「火事場」とは、新型コロナウィルスの蔓延の事態をいう。国民が戦々恐々としているというだけではない。現実に多くの人の就業や営業に差し支えが生じて苦しんでいるときに、その事態を自己の野望の実現に利用しようというのだ。
「泥棒」とは、新型インフルエンザ特措法の改正をいう。盗まれようとしているのは、立憲主義にほかならない。憲法は、国民の人権を擁護するために為政者の権力行使を制約する体系として作られている。ところが、国家の緊急事態を口実に、為政者にフリーハンドを与えるという危険極まりない例外の設定が、「緊急事態」。この特措法はその危険を内包している。
安倍晋三は、「緊急事態宣言」をやってみたいのだ。その実績が、次には憲法改正につながるとのではないか魂胆あればこそ。しかし、緊急事態条項は、憲法レベルでも、法律レベルでも、危険極まりない。国政を私物化し、嘘とごまかし、公文書の隠匿改竄を日常とする安倍政権にこんな危険なオモチャを与えてはならない。
(2020年3月11日)