ときおり吉田博徳さんから難しい質問を受ける。先日の電話は、こんな風だった。
「香港の情勢が気になってならないんですよ。どう見ても、大国である中国が、香港市民の民主化要求を掲げる運動を弾圧している。これは、国家が国民の人権を侵害している図ですよね。このことについては、世界中の国や世論が中国を糾弾しなければならない。ところが、これに対して、中国は『香港の問題は中国の国内問題だ。国外からの内政干渉は許されない』と言っていますね。ホントに、そうなのでしょうかね。」「ひとつ、今度会うときにお話しを聞かせてください」
で、今日が「今度会うとき」となった。なんとなく、弁解じみた逃腰の話にしかならない。
「この間の宿題ですが、普通、弁護士は実務で国際法なんかやりません。それに、国際法ってきちんと体系ができているわけではありませんで、大国の実力がまかりとおる側面が大きいということもある。きちんとした話にはなりませんよ。」
「いったい、どんな風に問題を整理して考えればよいのでしょうかね」
「国際法秩序は主権国家を基礎単位に構成されていますから、どうしても、まず国家ありきから出発せざるを得ないのでしょうね。ですから、国家主権を相互に尊重するという意味での『内政不干渉の原則』が議論の出発点。そして、人権原理がこの原則をどこまで制約するか、と考えるしかないでしょうね」。
「内政不干渉の原則は常識的に分かりますが、明確な成文の根拠があるんでしょうか」
「主権国家の存立を認める以上は、内政不干渉は当然の原則となりますが、国連憲章第2条第7項に、『この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉する権限を国際連合に与えるものではな』い、とあります。国連すら干渉できないのですから、各国が干渉できるはずはない。また、『友好関係原則宣言』と呼ばれる『1970年国連総会決議』が、『いかなる国又は国の集団も、理由のいかんを問わず、直接又は間接に他国の国内問題又は対外問題に干渉する権利を有しない』と確認しています。つまりは、大国といえども小国の存立を尊重して、干渉してはならないということで、内政不干渉の原則は積極的な意義をもっていると評価できることになります」
「ところが、現実の問題としては、一国の政府が国内の少数民族や少数派宗教の信仰者を弾圧して人権を蹂躙するとき、国際世論や他国からの批判を封じる口実が内政不干渉の原則となっていますね。」
「そのとおりです。そういう問題意識から、内政不干渉の原則に対抗する、《国際人権》観念が、勃興してきました。1948年の世界人権宣言、1966年採択の国際社会権規約(A規約)・自由権規約(B規約)は、人権の普遍性・国際性を謳って、各国に人権のスタンダード遵守を求めるものとなっています」
「人権の原理に普遍性があるのなら、国家主権に優越しませんか。日本国憲法だって、国家よりも個人の尊厳がより重要なものとしているのでしょう」
「うーん。そこまで言い切れるかは疑問ですが、人権原理の普遍性を高らかに謳うものとして、1993年の世界人権会議で採択された『ウィーン宣言および行動計画』があります。『全ての国家が全ての人権と基本的自由を普遍的に尊重し保護する義務を遂行する必要があることを厳粛に再確認する』『すべての人権は普遍的であり、国際社会は全ての人権を地球規模で、公平に、同じ根拠で、同じ重大性を持って扱わなければならない。全ての人権と基本的自由を促進し保護することは国家の義務である』というものです。
「これなら、人権侵害を行っている国を、他国の政府や国民が批判することは、まったく問題になりませんね」
「この宣言以後、特定の国の人権問題についての批判の言論を内政干渉とは主張できなくなったと言われています。人権侵害の情報がきちんとした根拠にもとづくものである限り、他国の人権に懸念を表明したり批判することは内政干渉とは考えられません」
「では、いったい、国家主権を侵害する内政干渉とはどんなことを指すのでしょうかね」
「結局は、他国の人権侵害防止や救済のためとして、強制力を用いること。とりわけ武力を用いて威嚇したり、あるいは武力介入すること、と狭く考えられるようになっています。」
「なるほど、人権侵害国には、国連・各国・国際世論が総力をあげて批判することが重要で、武力行使はもっと事態をこじらせることになるでしょうね」
「香港の事態に関しては、中国の態度を批判することになんの問題もないと思いますよ」
「アメリカで可決された『香港人権・民主主義法』は内政干渉にならないのでしょうか」
「アメリカの主権行使の範囲を出ていないと考えられます。内容は大きく2点あって、その一つは、現在香港に与えている関税やビザ発給などに関する優遇制度を、今後は毎年の検証に基づいて、見直すか否を判断するということ。もう一つは、香港の自治や人権を侵害した人物に対し、アメリカへの入国禁止や資産凍結などの制裁を科すこと。いずれも、米国の主権行使の範囲内のことでしょう」
「やっぱり、アメリカだけでなく、国連もその他の国々も世論も、人権原理から中国に対して厳しく批判することが必要ですね」
「その点に異論はありません」
(2019年12月21日)
一昨日(12月18日)、「ジャパンライフ全国被害弁護団連絡会」が、安倍晋三の「桜を見る会」疑惑に関連して声明を発し記者会見を行った。「安倍首相は、山口隆祥元会長を「桜を見る会」に招待した経緯を、被害者らに誠意をもって説明すべきだ」とする趣旨。弁護団代表は、さらに同日、国会内で行われた野党の合同ヒアリングにも参加して、被害者の立場から内閣府の担当官に,強い姿勢で「誠実な説明」を求めた。
「桜を見る会」疑惑の本質は、安倍晋三とその取り巻きの行政私物化である。国家の私物化といってもよい。なによりもこのことの重みを明確にしておかねばならない。
安倍晋三とその取り巻きのやったことは、公私混同という醜行である。彼らの頭の中では、「公」と「私」の区別が溶けてなくなっているのだ。アベ後援会の活動も自民党の活動も「私」の分野のものである。本来、すべて私費で行われなければならない。「桜を見る会」は政府の公的な行事である。参加者の選定も、その招待も、会の進行も、本来「公」の活動である。この区別を殊更に無視して、「桜を見る会」という「公」の行事を、「私」の安倍後援会活動の一端に組み込んだ公私混同が、まず糾弾されなければならない。
のみならず、安倍晋三とは内閣総理大臣の座にある者である。言うまでもなく、内閣総理大臣とは公権力のトップに位置する職務である。彼の場合の「公」と「私」との区別は、法の支配や立憲主義と密接に関わる。近代以前には、王や領主の私的な家法が、そのまま国法でもあった。そこでは、権力者の意思はすなわち国の意思であって、権力者の私的行為と公的行為の区別の必要はなかった。しかし、近代国家では、権力者の恣意の振る舞いは許されない。憲法に従い国民の利益のために働く意思と能力を持つ者に、その限りで権力が預けられ、その範囲で権力の行使が許されるのである。近代社会では、権力の私物化など、原理的にあり得ないのだ。
ところが、安倍晋三という人物は、権力を私物化し、「私」の利益のために「公」を利用しているのだ。この人物には国民の利益のために働く誠実さと能力を欠くことにおいて、権力を預かる資格がない。
そのことを確認した上で、「反社の方々」や「甚大な被害を輩出している詐欺師」を「桜を見る会」の招待者としたことの非を、派生問題として把握しなければならない。が、この派生問題は、実はたいへんに大きなインパクトを持っている。
被害者弁護団は、「桜を見る会」の招待状が同社の宣伝や勧誘に利用されたことで「多くの被害者がジャパンライフを信頼できる会社と誤解した」と指摘。長年にわたって悪徳商法を展開してきた山口を功績・功労があった者として招待した経緯について「(安倍首相は)被害者に対し、誠意をもって説明すべき」だと強調している。
ジャパンライフとは大規模な詐欺組織である。山口隆祥とは、その総帥の詐欺師にほかならない。安倍官邸はこの詐欺師を「桜を見る会」に招待し、招待された詐欺師は、総理主催の公的行事に招待されたことを,社会的信用の証しとして最大限に活用した。
現在破産手続き中の同社の負債総額は2405億円、契約者は7000人に上るものの、破産手続き中の同社が被害者に返金できる資金はないという。そこで弁護団は、同社の元顧問らに顧問料の返還を求めるよう管財人に要請し交渉中という。元内閣府官房長・永谷安賢、元特許庁長官・中嶋誠、元科学技術庁科学技術政策研究所長・元日本オリンピック委員会(JOC)理事・佐藤征夫、経済企画庁長官秘書官・松尾篤元、元朝日新聞政治部長・橘優らである。いずれも、被害者を信用させるに足る地位にいた顧問ら。その合計金額が1億4500万円に上るという。
ジャパンライフが悪徳業者として話題に上ってから20年余にもなる。かくも長期に永らえ、かくも甚大な被害に至ったのは、行政や大物政治家との癒着があったからである。多くの天下り官僚を受け入れてもいた。政治資金パーティーには、毎年100万円?200万円を支出していた。この癒着の象徴として、「桜を見る会」の招待がある。
また、同社はこれまで4度の行政処分を受けており、その悪名を内閣府が知らなかったはずはない。それでも、公的に山口に「桜を見る会」の招待状が届き、詐欺商法に利用させた。これについて、内閣府も官邸も可能な限りの調査をし説明をしようという誠実さのカケラもない。名簿の保存がないから、山口を招待したことすら確認できないという、説明拒否に終始する態度なのだ。誰がどのような理由で推薦し、内閣府がどのような根拠で招待に値すると判断したのか、その過程を誠実に調査して明確にすれば、安倍政権の公私混同ぶり、権力者の放埒な振る舞いが白日のもとにあぶりだされるからなのだ。
「桜を見る会」への詐欺師招待は、必ずしも問題の本質ではない。しかし、たいへん分かり易く、行政の私物化がもたらす弊害を明らかにしている。同時に、行政が資料の廃棄を急いだ理由をも教えてくれてもいる。はからずも、詐欺師正体が、「桜を見る会」疑惑の正体を照らし出すものとなっているのだ。
(2019年12月20日)
伊藤詩織さんの山口敬之に対する損害賠償請求訴訟。昨日(12月18日)、よい判決となった。公にしにくい性被害の不当を訴えて声を上げた、伊藤さんの勇気と正義感に敬意を表したい。
被害者は私憤で立ち上がるが、行動を持続するには,私憤を公憤に昇華させなければならない。でなければ社会の支持を得られないからだ。はらずも、伊藤さんの行動はそのお手本になった。
被害者伊藤さんの支援の人びとのピュアな雰囲気と、加害者側の応援団の臭気芬々との対比が一興である。この醜悪な山口応援団の面々を見れば、その背後に安倍晋三ありきという指摘にも頷かざるを得ない。応援団に誰が加わっているのか、その面子というものは、ものを言わずともそれ自体で多くを語るものなのだ。
私は、判決全文を読んでいない。裁判所が作成した「要旨」を読む限りだが、客観状況に照らして、被告山口のレイプは明白で、十分に刑事事件としての起訴と公判維持に耐え得る案件だと思われる。何ゆえ山口が不起訴になったのか、その背後に官邸の指示や要請はなかったのか。あらためて、本格ジャーナリズムの切り込みを期待したい。
ところで、私の格別の関心は、この事件の「反訴」にある。
伊藤さんが、慰謝料など1100万円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴したのが、2017年9月。被告山口は、今年(2019年)2月に反訴を提起した。
この反訴は、「(伊藤が)山口の行為をレイプと社会に公表することで、(山口の)名誉が毀損された」とする損害賠償請求訴訟。その慰謝料請求額が1億3000万円という高額で話題となった。
これは、スラップの一種である。訴訟という舞台での高額損害賠償請求をもって、原告を恫喝しているのだ。伊藤さんと同じ立場で訴訟を企図する性被害者たちの提訴萎縮効果をも招くものとなっている。
こういう非常識な反訴提起という訴訟戦術には、代理人弁護士の個性が大きく関与している。この弁護士は、愛知県弁護士会に所属する北口雅章弁護士。実はこの人、自身のブログに、伊藤さんの訴えについて「裁判に提出されている証拠に照らせば、全くの虚偽・虚構・妄想」と記載。被害の様子をつづった伊藤さんの手記の出版は「(山口の)名誉・社会的信用を著しく毀損する犯罪的行為」と書き込んでアップした。このブログは今は消去されて読めないが、弁護士としての品位を欠くものとして、懲戒手続が進行している。
懲戒請求は、まず綱紀委員会で審査される。ここで、懲戒審査相当の議決あって始めて懲戒委員会が審査を開始する。
愛知県弁護士会の綱紀委員会は、本年(2019年)9月12日、当該ブログの内容は、伊藤さんの名誉感情を害し、人格権を侵害するものと認定し、「過度に侮蔑的侮辱的な表現を頻繁に交えながら具体的詳細に述べ、一般に公表する行為は、弁護士としての品位を失うべき非行に該当すると判断した」と報じられている。
被懲戒者側は、「虚偽の事実の宣伝広告によって山口の名誉が毀損されていることに対する正当防衛」と主張したが、綱紀委員会は一蹴している。北口は、この議決を受けてブログ記事を削除している。もちろん、それでも懲戒委員会の審査が進行中である。
私は愛知県弁護士会が同弁護士に対して厳しい懲戒処分をするよう期待する。スラップ訴訟提起の不当・違法は明らかで、これを主導する弁護士には、制裁あってしかるべきなのだ。私は、「スラップやった弁護士は懲戒」の定着を望ましいと思っている。厳密には、本件は「代理人となってスラップを主導したから懲戒」という事案ではない。「スラップの主張を、ブログでも品位を欠く態様で公表したから懲戒」なのだ。しかし、本件は望ましい懲戒への、栄光ある第1歩の案件となるやも知れない。
さて、当然のことながら、山口からのこの反訴請求は全部棄却された。「判決要旨」は、まことに素っ気なく、次のようにまとめている。
【(原告伊藤の)被告(山口)に対する不法行為の構成】
原告(伊藤)は自らの体験・経緯を明らかにし、広く社会で議論することが、性犯罪の被害者を取り巻く法的・社会的状況の改善につながるとして公表に及んだ。
公共の利害にかかわる事実につき、専ら公益を図る目的で表現されたものと認めるのが相当であること、その摘示する事実は真実であると認められることからすると、公表は名誉毀損による不法行為を構成しない。プライバシー侵害による不法行為も構成しない。
なお、1億3000万円の反訴提起に必要な印紙額は41万円。山口が本件判決を不服として控訴するとなれば、訴額は本訴反訴合計で1億3330万円。必要な印紙額は63万3000円となる。もちろん、弁護士費用は別途必要となる。庶民には大金だが、稼いでいる記者には大したものではないのかも知れない。
(2019年12月19日)
(幕が開くと、執務室らしいしつらえ。上手に事務机があり、奥に日の丸と教育勅語の額。そして、岸信介の写真が飾ってある。)
(中年の男が、舞台の中央に立つ。狷介な風貌だが、やつれた雰囲気。大仰な語り口で、投げやりに観客に向かってしゃべり始める)
あ?あ、なんということだ。内政・外交なにもかもうまく行かない。いったい、どうしちゃったんだ。こうなると、みんな冷たい。この間まで、おどおどと私の顔色を窺っていた連中が、急によそよそしくなった。
私は今までツキだけで生きてきた男だ。政治家の家に生まれたのがツキのはじめ。その後何の苦労もなく政治家になり、世の右翼的潮流に乗った。一度は、選挙に大敗して、ぶざまに政権を投げ出したが、民主党政権のオウンゴールに助けられて返り咲いた。その後は選挙の度に北朝鮮が危機感をあおってくれたり、野党が分裂してくれたり。なんとなく、うまくいってきた。もちろん、小選挙区制が助けてくれたことも大きいが、こんなに長期の政権が続いたのは、ツイていたとしか言いようがない。
ところが、その大切なツキの総量を、どうやら使い果たしてしまったらしい。最近つくづくとそう思うんだ。もう、私にツキは残っていないんだなって。大事なことは、ツキよりも、ツキがあるとみんなに思わせることだ。周りの人々が私にツキが残っていると思えば、みんなが私の方に擦り寄ってくる。カネの欲しい人、権力の分け前を要求する人、名前を売りたい人、そんなさもしい人たちばかり。そんな人たちが、潮が引くように私の周りから消えていく。寂しいものだ。落ち目は辛いよ。
私は、反共と復古的ナショナリズムを鼓吹する以外に、何の政治信念も理想もない。行きがかり上、私を支持する人々のために憲法改正のスローガンをクチにし続けてきた。憲法のどこをどう変えようという信念もないし、贅沢な望みもない。憲法のどこにでもよい,ほんの少しでも改正の疵をつけようということがホンネなのだ。誰のためでもない、自分の功績を後世に残そうということ。
しかし、どうもそれさえも現実には難しい。両院の憲法審査会は,野党の反対で動かない。公明党もだらしなく、慎重姿勢だ。世論調査の結果もまったく芳しくない。八方ふさがりだ。
思えば、平成から令和へ、なんて新元号発表で浮かれていた半年前が懐かしい。あの頃はまだ総裁4選だってあり得たと思っていた。天皇制とは、政権が利用するためにある。我ながら、みごとに利用したものと満足していたんだが。
消費増税がケチの付き始めなのかも知れない。景気の腰折れだけでなく、軽減税率導入問題のめんどくささが、決定的な不人気となった。ポイント還元も、いったい何をやっているのやら、わけのわからなさに拍車をかけた。
そして「桜を見る会」疑惑だ。私が直接の名指しで追及を受けているのだから、これが痛い。しかも痛みがまだ続いている。
「桜」疑惑では、記録の廃棄が問題となった。例の招待者名簿だ。もちろん常識的にはどこかに残っているさ。でも、都合が悪いから廃棄したと言った以上は、今さらありましたと言えるわけがない。いや、それだけじゃない。あの名簿を根ほり葉堀り調査されたらたいへんなことになる。みっともないことは承知で、シュレッダーにかけた、データも消去した、復元はできない、とがんばらざるを得ないんだ。だから、苦しい。75日が過ぎ去るのをじっと待つしかない。
でも、「桜」疑惑の裾野は広い。五輪チケット問題の首相枠まで、問題とされている。もちろん、「そんなものはあるわけない」と言えないから辛い。答弁書の書き方がいかにもまずい。「お答えは困難」というのだから、その回答自身が新たな話題になってしまってる。
ホントは、大学入試共通テスト問題が一番痛い。国民の関心が高いテーマだから。あれは、首相肝いりでやったことだ。もちろん私が得意とする民間委託ありきの手法。民間との癒着が疑われて当然なのだ。ベネッセに儲けさせるシステムだったんだろうというわけだ。これから、政治資金の流れが突っ込まれる。
私の意を受けて、これを現場で推進したのが下村だ。下村自身が教育で儲けている産業人だ。その責任は免れない。「身の丈」発言の萩生田も、首相側近と誰もが認めるところだ。その二人が大チョンボだ。改憲問題にも効いてくる。痛い、痛い。
COP25では、進次郎に期待したが散々だった。マスコミの論調が、無能な進次郎の責任ではなく、内閣にこそ責任があるというのが、思惑外れ。指摘されれば、誰でもそう思うだろうということが、また、癪のタネ。
もひとつ困ったことが、和泉洋人の「京都不倫出張」問題だ。和泉は私の側近として、前川喜平に会っている。前川が証言したところでは、「和泉洋人首相補佐官から官邸に呼び出され、『総理は自分の口からは言えないから私が代わって言う』」と、加計学園の獣医学部設立認可促進を文科相に働きかけた人物。こんな形で話題とされたのでは、私がたいへん困るではないか。
さらに、カジノ疑惑だ。東京地検特捜部が動いているようだが、どういうことだ。どうして、官邸の困るようなことができるのか。いつたい、いつから、そんなにえらくなったんだ。外為法違反で捜査されている秋元司は今年9月まで内閣府副大臣だ。しかも、昨年10月まではIR担当だ。疑惑の内容は、中国企業から秋元にカネが渡っているということだろう。そんなことを暴かれたら、政府が困る。大所高所から、ことを収めてもらわねばならない。
そしてそして、また森友の蒸し返しだ、情報公開請求の一部拒否を違法とする国側敗訴の大阪高裁判決が言い渡された。あの悪夢が繰り返されるかと思うと、不愉快極まりない。
最後が、山口敬之問題だ。伊藤詩織が山口敬之に勝訴した。これは、困る。知られているとおり、山口敬之は私にゴマを摺った御用記者だ。私を持ち上げた『総理』を書いている。だから、「安倍政権が不起訴に持ち込んだ」と世間が噂している。その真偽をまた聞かれることになる。「回答は困難」というしかないか。
落ち目になると、人か離れて苦労が集まる。なにもかもうまく行かない。
(大仰な身振りで)
あ?あ、なんということだ。
(暗転。そして幕)
(2019年12月18日)
本日の毎日新聞夕刊、「あした元気になあれ」という連続コラム欄に、「憲法を実行せよ」という、なんとも直截な、しかも大きな活字のタイトル。小国綾子記者の執筆で、「憲法を実行せよ」は中村哲医師の言葉。
「憲法を実行せよ」。アフガニスタンで亡くなった医師、中村哲さん(73)が6年前、茨城県土浦市の講演で聴衆に向けて力強く放った言葉が忘れられない。憲法を「守れ」ではなく「実行せよ」。耳慣れない表現が心に刺さった。
彼の講演はこんなふうだった。「この国は憲法を常にないがしろにしてきた。インド洋やイラクへの自衛隊派遣……。国益のためなら武力行使もやむなし。それが正常な国家だ、と政治家は言う」。そう苦言を呈したあと、中村さんは冒頭の言葉を口にしたのだ。
パソコンに残るその日の私の取材メモ。<講演でまず心を動かされたのは、スライドに大きく映し出されたまぶしいほどの緑の大地の写真だった。干ばつで砂漠化したアフガニスタンの大地を、緑豊かな耕作地へと変えてきた中村さんの力強さ。この人のすごさは「実行」してきたことだ。「100の診療所より1本の用水路を」と。そんな「実行の人」が壇上で言う。「憲法は守るのではない、実行すべきものだ」>
「…他国に攻め入らない国の国民であることがどれほど心強いか。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法9条はリアルで大きな力で、僕たちを守ってくれている」
「リアル」という言葉にも、はっとさせられた。日本で平和憲法を「ただの理想」「非現実的」と言う人が増えていたあの頃、アフガニスタンで命の危険と背中合わせの中村さんは逆に「リアル」という言葉を使ったのだ。」
小国記者のいう「6年前」とは、2013年6月のこと。6月6日の毎日夕刊「憲法よーこの国はどこへ行こうとしているのか」に、中村哲さんのインタビュー記事が載った。優れた記者によるインタビュー記事として出色。
私は、翌6月7日の当ブログにこの記事を引用して、「憲法9条の神髄と天皇の戦争責任」というタイトルをつけた。
https://article9.jp/wordpress/?p=506? (2013年6月7日)
憲法9条の神髄と天皇の戦争責任
小国記者の本日の記事。6年前と同じ中村医師の言葉が、以下のとおりに引用されている。
最後に「あなたにとって9条とは?」と尋ねた時の、中村さんの答えをここに書き残しておきたい。忘れてしまわないために。
「天皇陛下と同様に、これがなくては日本だと言えないもの。日本に一時帰国し、戦争で亡くなった親戚の墓参りをするたび、僕は思うのです。平和憲法とは、戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌(いはい)』だと」
この言葉をもう二度とご本人の口から聞けないことが悔しい。「憲法を実行せよ」という言葉の意味を今、改めて考える。
私は繰り返し、中村哲医師を尊敬に値する人と述べてきた。今も、その気持は変わらない。だが、この小国記者が引用するこの中村医師の言葉に限っては、どうしても違和感を禁じえない。疑問をもって問い質すことをせずインタビューを終えた小国記者の姿勢にも納得しかねる。
「憲法9条とは、これがなくては日本だと言えないもの。平和憲法とは、戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌』だ」。やや舌足らずだが、このことは分かる。中村医師は、憲法9条を戦争の惨禍か生んだ不戦の誓いと理解している。厖大な悲劇を象徴する位牌の前で、この悲劇を生んだ戦争を拒否することが、「憲法を実行」することだというのだ。
しかし、「天皇陛下と同様に、」というのは、理解不能である。文脈では、「天皇陛下も、これがなくては日本だと言えないもの。戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌』だ」ということになるが、これでは意味不明ではないか。
あるいは、「天皇陛下も、これがなくては日本だと言えないもの。」というだけの意味なのかも知れない。しかし、「天皇がなくては、この国は日本だと言えない」というのは、愚にもつかない戯言。いうまでもないことだが、主権者国民なくしてはこの国は成り立たない。しかし、天皇がなくてもこの国は立派に日本として成り立つのだ。「国破れて山河あり、天皇なくとも日本あり」なのだ。
現行憲法を改正して、天皇のない日本を構想することは極めて容易である。実は,天皇をなくして国民生活になんの不便もない。国費の節約にはなるし、国民主権の実質化と、権威主義的国民性の矯正に資することにもなろう。もちろん、天皇とは政治的な利用の道具としてあるのだから、危険を除去することでもある。
「天皇陛下は、戦闘員200万人、非戦闘員100万人、戦争で亡くなった約300万人の人々の『お位牌』だ」と、中村医師が言ったとすれば、天皇に対するこれ以上ない痛烈な皮肉ではないか。
皇軍の兵士は、天皇の名による戦争に駆りだされた。天皇の命令によって徴兵され、天皇の命令によって殺人を強要され、天皇のためとして犠牲の死を賜った。その数200万人。また、天皇が開戦し天皇が国体護持にこだわって終戦を遅らせたために犠牲となった非戦闘員が100万人。天皇が300万人の位牌だというのは、なるほど言われてみればそのとおりなのだ。死者一人に一個、その人の死を記録し具象化するものとしての位牌。天皇は、戦没者300万人の死に責めを負うものとして、永劫に死者から離れることのできない位牌なのだ。
6年前のインタビュー記事の最後は、次のとおり。そして、私の感想も。
窓の外は薄暗い。最後に尋ねた。もしも9条が「改正」されたらどうしますか? 「ちっぽけな国益をカサに軍服を着た自衛隊がアフガニスタンの農村に現れたら、住民の敵意を買います。日本に逃げ帰るのか、あるいは国籍を捨てて、村の人と一緒に仕事を続けるか」。長いため息を一つ。それから静かに淡々と言い添えた。
「本当に憲法9条が変えられてしまったら……。僕はもう、日本国籍なんかいらないです」。悲しげだけど、揺るがない一言だった。
未熟な論評の必要はない。日本国憲法の国際協調主義、平和主義を体現している人の声に、精一杯研ぎ澄ました感性で耳を傾けたい。こういう言葉を引き出した記者にも敬意を表したい。
(2019年12月17日)
共同通信社が12月14(土)、15(日)の両日に実施した全国電話世論調査によると、安倍内閣の支持率は42.7%で、11月の前回調査から6.0ポイント下がった。不支持率は43.0%で、支持と不支持の逆転は昨年12月以来だという。
首相主催の「桜を見る会」の疑惑に関し、安倍晋三が「十分に説明しているとは思わない」は83.5%に上った。首相の自民党総裁4選に反対は61.5%だった。そう報じられている。
私には信じがたい。こんな体たらくのアベ政権を支持するという人が本当にこの社会に4割もいるのだろうか。こんな、嘘とゴマカシにまみれ、記録は隠す、捨てる、改竄する。国政私物化をもっぱらとするこんなみっともない内閣を支持する「4割の人」の顔を見たい。
さらに私には信じがたい。「桜を見る会」の疑惑に関し、安倍晋三が「十分に説明していると思わない人が、83.5%にとどまっていることが。世の中は広い。安倍晋三が「十分に説明していると思う」人が、いや正確には、「十分に説明していると思う振りをしようとする人」が11.5%もいるのだ。これこそ、固いアベ支持基盤。ドリルでも崩れない岩盤の11.5%。「なんでもかんでもアベに賛成」「理屈なんぞはどうでもよい。ひたすら安倍内閣を守る」という、この11.5%はいったいどんな人たちなのだろう。
おそらくは、40%のうち、30%が消極的アベ支持層。残りの10%が、「アベ絶対支持層」なのだろう。あまり楽しい作業ではないが、この強固な10%は、いったいどんな人たちなのか、想像を逞しくしてみよう。
まず、アベ政権の改憲・壊憲路線を徹底して支持しようという人びと。いや、むしろ改憲先導派と言ってよかろう。アベを首相に据え、アベを操作して改憲を実現しようとしている面々。アベが政権党の総裁であり、首相であるうちが、千載一遇の改憲チャンス。アベが失脚すれば、もしかしたら、改憲は永遠のゼロとなるやも知れない。ならば、アベの人格や品行がどうであれ、改憲のためにはアベのやることは、なんでも支持しないわけにはいかない。アベがボロを出しているのは苦々しいが、そのボロを繕おうという涙ぐましい人びと。これは、相当数いるのだろう。
次に、アベ政権の経済政策で潤っている人びと。いや、甘い汁を吸っている輩。格差貧困の拡大を安い労働力創出の賢い政策とし、消費増税で大企業減税の財源を捻出するというのだから、「アベ様命」と考えざるを得ない。それに、安倍内閣が、湯水のごとく公的資金を株式市場に注ぎ込んでくれるお蔭として、株式相場の値上がりをほくそ笑んでいる一群。「安倍さんやめちゃ困るよ。濡れ手で粟の儲けがなくなる」。
それに、加計孝太郎を筆頭に、アベ夫妻のお友達として、おこぼれに与っている人びと。アベのご恩に報いることこそ人の道。そんなことが教育勅語にも書いてあったような、ないような。アベ晋三は、お友達のために、岩盤規制にドリルの穴を開けた。その穴から滲み出た蜜に群がった品性卑しい人びと。
さらに、美しい日本にこだわる、歴史修正主義者諸君だ。日本は、美しい歴史と伝統をもっている。皇軍が侵略戦争などやったきずもない。従軍慰安婦なんて嘘。朝鮮を植民地にしたんじゃない。頼まれて、統治してやったんだ。南京虐殺も、関東大震災の在日虐殺も、ぜんーんぶ作り話。と思っている人びと、思いたい人びと。安倍内閣の後ろ盾があればこそ、ヘイトスピーチも思い切ってできた。アベ政権がなくなったら、見捨てられるんじゃないか。アベには、がんばってもらわなきゃ。
とにもかくにも反共一点張りという人たち。アベが悪口として言う「キョーサントー」や「ニッキョーソ」に、心の底から共感する連中。この人たちは、アベシンゾーこそは反共の旗手、安倍内閣は反共の砦と信じてやまない。アベがいればこそ、共産党に睨みをきかせている。今、アベを政権の座から降ろしたら、たちまち共産党の暴走を許すことになる、と共産党を買い被り過大評価する人たち。
日本の防衛のためには、核装備も、通常軍事力も、もっともっと必要なのに、アベがいなくなったら、防衛力が削減されて日本は危険極まりなくなる。日本は、中国に呑み込まれるかも知れないし、北朝鮮にもバカにされると、本気で信じている神経症の人びと。
最後に、「桜を見る会」にアベ政権からご招待を受けた、反社の方々、悪得商法の面々。地元下関の後援会員。みんなそれぞれ、アベあればこその晴れがましい「お・も・て・な・し」。アベ政権が倒壊したら、陽の当たるところにいられなくなる。
中には、自分は常に少数派でいたいという、奇特な人もいるのかも知れない。ともかく、みんな質問に正確に答えていない。自分の考えを正確に述べるのではなく、自分がどう答えるかの影響を考えて、回答しているのだ。何が何でもアベを支持という、この絶対支持派10%が、ほぼ右翼勢力支持派の実数に重なる。
ところで、内閣支持率は12月13日発表の時事通信社の調査でも、前月比7.9ポイント減の論調査40.6%と急落。「安倍離れ」はじわじわ始まっている、そう報じられている。民意のアベ離れ。これがクリスマスプレゼントであり、お年玉だ。来年の桜の季節には、アベザクラを散らしたい。
(2019年12月16日)
昨日に続いて、もう少し三鷹事件のこと。
下山・三鷹・松川という、社会を震撼させた大事件が続いて発生したのは1949年夏のこと。むろん,私は当時のことは知らない。私の世代では松川こそが大事件という印象だが、往時を知る人は、東北の一角で起きた松川事件よりは、首都東京での三鷹事件の政治的インパクトが遙かに大きかったという。
7月15日夜8時24分に国鉄三鷹駅構内の無人列車が暴走し、駅内外で死者6名、負傷者20名を出す大事故となった。その翌日16日には、吉田茂首相の「不安をあおる共産党」という長文の談話が発表されている。そのなかで、「虚偽とテロが彼らの運動方法なのである」と言っている。犯人は共産党という決めつけの公報だった。昨今のアベ政権もひどいが、当時の吉田内閣は輪をかけてひどかった。これをマスメディアが批判せず、むしろ政権に呼応した。朝日・毎日・読売ともである。共産党が世論の矢面に立たされ、労働運動の勢いが殺がれた。
こうして、国鉄労働者10万人馘首反対運動の先頭に立っていた共産党が勢力を失い、労働運動内での共産党の影響力も低下した。三鷹事件の全体像は、共産党と、党指導の労働運動弾圧を目的とした政治的謀略事件というべきだろう。下山・三鷹・松川のすべてがそのような性格をもった「事件」だった。
三鷹事件では、その権力のもくろみを貫徹することはできなかったが、竹内景助という犠牲者を生んだ。犠牲になったのは竹内だけでない。その家族も悲惨だった。
逮捕された竹内には,妻の政(まさ)との間に幼い3男2女があった。しかも、竹内は事件前日の7月14日に整理解雇の対象となって馘首されている。その後、政は一人で、5人の子を育てた。並大抵の苦労ではない。しかも、政は竹内の救援運動にも時間を割かなければならなかった。
私は、学生時代に国民救援会に出入りしていた。当時は、愛宕署近くにあった木造の「平和と労働会館」の一室だった。あの建物が火災に遭う直前のある日、そこで一人の中年の女性が事務作業をしていた。山田善二郎さんから、その人が竹内景助さんの奥さんだと教えられた。挨拶程度はあったようにも思うが、言葉を交わした記憶はない。厳しいような、寂しいような,その人の雰囲気を覚えている。
「無実の死刑囚」の中で、加賀乙彦が竹内から聞かされた言葉を紹介している。
もうどうしようもなく、気が滅人っちゃうんです。家族がかわいそうです。もともと貧乏だったのが、おれのおかげでなお貧乏になっちゃってね。うちのヤツ(女房)が生活保護に内職をしても追いつかず、救援会の差人れてくれた金を、おれが渡して何とかやりくりで、ほんとうにかわいそうだ。
竹内政は,1950年4月1日の第7回通常国会「厚生委員会の生活保護法案に関する公聽会」に公述人として出席して、次のように発言している。
私は現在三鷹町に住んでおりまして、生活保護を受けておりますが、今の生活保護料では、とても七人の家族ではやつて行かれないのでございます。ですから、ぜひ生活の保障をしていただけるようにお願いいたしたいと思います。
現在一箇月、額にして六千百四十八円いただいております。家族としては、母が一人おりまして、ほか六人の家族で、七人になりますが、母の分としては、生活保護からはいただいておりませんので、ぜひ母の分も生活保護から出していただきたいと思つております。
第二に、生活状況を簡單にお話したいと思います。食事にいたしましても、一日の食事は、朝はすいとんをいただいたり、お晝は麦のおかゆを食べたり、夜は御飯にみそ汁ぐらいの状況でありますが、主食としまして、一箇月四千円かかります。あとの二千百四十八円は調味料、それから住居と電気の拂いにいたしております。住居の方は、今失業をしておりますので、三百円拂わなれけば、立退きを命ぜられると思つて、むりをしてまで住居の方だけは拂つております。そのほか燃料としての炭やまきに五百円かかります。また二人学校に行つておりますので、教育費が二百二十円かかつております。調味料は一月五百円でございますけれども、今月いただけば、来月はいたたかないようにしても私のところではほかの費用にまわしております。そのほか野菜とか、お魚類は、一月に一回五十円見当のものを七人でいただいております。実際私たちの生活は、ほんとうにみじめで、まして育つ盛りの子供ばかりをかかえておりますので、この生活では、まつたく栄養失調と申しますか、そういうような状態になる次第でございます。
その次に衣料としましては、私たちは一回戦災にあいまして、着のみ着のままでおりますところに、現在の生活に入りまして、下着類も何一つ買えない始末で、子供の下着にしても、継いだ上にまた切れたりしておりまして、まつたく近所の方から見たら、まるでこじきのようなかつこうをしております。それでも私はがまんして子供に済せておりまして、子供たちは別に何とも申しません。今一番小さいのが医者にかかつておりますけれども、民生委員の保護では、注射も一回だし、往診も一回だというような状態なものですから、赤十字病院の方へかかつておりますけれども、その拂いも、どうにかこうにかやつておりまして、食物を節約したりして、医者の方を拂つたりしております。
そういうわけでありまして、私も何か内職をしたいと思いますけれども、小さい子供をかかえておりましては、とうてい内職もできないと思つております。そのほか主人がああいうところに入つておりまして、差入れだの何かの費用もありますけれども、それの方は主人にあきらめてもらつて、月に一回か二回という程度にしておりまして、なるべくなら、生活できるだけの保障を今後お願いしたいと思います。
簡單でございますが、以上申し上げます。
「無実の死刑囚」の中で、高見沢さんは、こう語っている。
竹内は、8月1日に逮捕され裁判にかけられることになるが、逮捕直前の家族との日常生活はどのようなものであったか。
後に竹内は「再審理由補足書」(上)の中で、「7月11日は、徹夜明け休み、12日、13日は月一回の連休だったので、長男(7歳)と次女(4歳)を連れて、国分寺の丘の雑木林を借りて開墾して作っていた畠ヘジャガイモを掘りにゆき、帰りに付近の川で水遊びをしたり、家に居るときは境浄水揚の方へ子供を連れて写生に行ったり、また飼っていた山羊や近くの菜園の作物の世話をしたりして」おり、三鷹事件が発生した7月15日には、「朝のうちは線路の北側に作っていた畠の作物の手入れや山羊の世話をして子供と畠にいて、9時頃帰宅して食事をし」た、と綴っている。
そのような家族との穏やかな生活こそが、竹内の日常生活であった。「春を待ついのち」には、子供への慈愛と妻への深い愛情を綴った手紙が数多く掲載されていて、どれ一つとして涙なしには読めない。
冤罪も弾圧も,多くの人を不幸にするのだ。
(2019年12月15日)
高見澤昭治さんの近著「無実の死刑囚? 三鷹事件 竹内景助」(増補改訂版)を読み終えた。読後感は重い。
日本評論社刊のこの書物の発行日は、2019年10月1日。周知のとおり、東京高裁が遺族からの再審請求を棄却したのが7月31日である。この増補改訂版は、「再審開始決定」を想定しての、言わば「再審開始決定・祝賀記念版」として出版準備がなされていたに違いない。それが、弁護団にとっては思いもかけない棄却決定となり、裁判所・検察への抗議と、世論への訴えの書となった。泉下の竹内とその妻(政)は、度重なる試練をどう受け止めているだろうか。
私は、学生時代に松川事件の救援運動の末端に関わった。その関わりの限りで、三鷹事件にも関心をもってはいた。松川も三鷹も、あるいは菅生も、青梅も白鳥も鹿地事件も「階級的弾圧としての謀略」と考えていた。松川の全員無罪を言い渡した仙台高裁門田判決後の時期、三鷹事件でも共産党員被告全員無罪が確定していた当時のこと。
松川も三鷹も、法廷闘争において既に赫々たる成果を上げ得たとの印象が強く、三鷹事件の再審はさほどの規模をもつ運動にはなっていなかった。そのことに、なんとはなしの引け目のような違和感を持ち続けてきた。非党員竹内景助一人を有罪にしながら、11名の党員被告全員無罪を大きな成果と喜んでいることへの引っかかりである。
しかも、竹内は一審判決では無期懲役だったが、控訴審では弁護人の方針に従って事実を争わないままに死刑判決を得た。そして、最高裁判決は8対7で、上告を棄却し竹内の死刑を確定させた。一票の差が生命を奪う判決となったのだ。なんという後味の悪い経過であったろう。
確かに、竹内の供述は揺れ動いた。否認・単独犯行・共同犯行を、法廷の供述で行きつ戻りつし,裁判所は単独犯行と認定した。この供述の揺れはどうしてなのだろうか。三鷹事件の裁判に関心をもつ者がおしなべて謎とするところである。同書は、この点について弁護人からの働きかけの問題点を幾度となく指摘している。たとえば、次のように。
『文藝春秋』1952年2月号に、獄中の竹内からの寄稿が掲載されている。「おいしいものから食べなさい」という題名。文章は次のような書き出しで始まっているという。
「おいしいものから食べなさい。冒頭から、まことにおかしなことを書きはじめたが、正月の料理だの、婚礼祝いの御馳走だの、要するに、日常茶飯の間において、人は御馳走が出たら、一番うまいものから順に食べて、まずいものはなるべく後に残しておくがいい、という至極当たり前のことなのである。ところが、こんな当然過ぎることを、私は齢30過ぎになって、しかも死刑囚という汚名に呻吟する身になって、初めて理解したのだ。」
奇妙な書き出しであるが、一般の読者に興味を持って読んでもらうために、自分の小さいときからの性癖を紹介し、死刑囚となった原因がそこにあるということを印象づけるねらいがあった。手記には検事の拷問的な取調べについても厳しく糾弾していたが、支援運動などに携わっているものにとって一番衝撃的であったのは、単独犯行であるといい続けることが他の共産党員の被告を救うためにも、また竹内自身のためでもあると弁護人から説得されたことが詳細に書かれ、さらに共産党を批判した部分であった。
その内容については、すでに引用して紹介したので省略するが、上告が退けられた後には、「竹内君、余り心配しなさんな。すぐには殺されないだろうからね…」と弁護人から言われ、「この一点非のうちどころのなき冷酷、非情な一言を聞いて、私ははじめて彼の陰謀に踊らされてきた自分の愚かさを悟ったのである」という思いを書き綴っている。そしておそらく編集部で付けたと思われる「共産党員の背徳」の項では、「想えば彼等に信頼、友情、人間愛などを期待した私は本当に馬鹿者であった。私は彼等を責めるより先に、自分の間抜けさを責めなければならないかも知れない」と記している。それが「おいしいものから食べなさい」という表題をつけた真意だというのだ。
普通、人はまず美味しいものから箸をつける。竹内は、自分もそのようにすべきだったと後悔しているのだ。むろん、美味しいものとは「無罪」である。無実なのだから、揺るがずに無罪を叫び続ければよかった。ところが、優先順位を間違えて、私的な利益に箸をつけることなく、共産党や労働運動への信義という、苦い味のものに箸をつけてしまったというのだ。その結果が、死刑の判決だった。
また、精神科医として竹内と面会した加賀乙彦は、竹内がこう言ったと記している。
「おれは弱い人間なんですね。弱いから人をすぐ信用してしまう。党だって労組だって、大勢でお前を全面的に信用するといわれれば、すっかり嬉しくなって信用してしまった。それが過ちのもとでした。けっきょく、党によって死刑にされたようなもんです。」
竹内は共産党員ではなかったが、明らかに党には敬意とシンパシーをもっていた。その彼の単独犯行自白の維持は、迷いつつも身を犠牲にして党を救おうという意図に出たものだったのだろう。彼なりの使命感であり、ヒロイズムであり、誠実な生き方であったと思われる。しかし、まさかその結果が死刑判決とは思ってもいなかった。
死刑判決の後は、凄まじい覚悟で、上告趣意書を書き、厖大な再審請求書の作成に没頭する。再審請求書とその補充書は併せて60万字にも及ぶという。その執念の再審請求にようやく曙光が当たり、実を結ぶかと思われたそのときに、竹内は獄中で無念の死に至る。
竹内景助。その劇的な生涯は多くのことを語りかけている。この好著を通じて、ぜひ彼の語りかけてくるところに耳を傾けられたい。
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(2019年12月14日)
思いもかけない現実の出来が、認識を変え意見を変える。「NHKから国民を守る党」なるものの出現が、私には衝撃だった。そして、自分の公共放送に対する見解が、このような人びとと似通って見られることに大いに戸惑い、かつ恥じた。私とN国、どこがどのように意見が違うのだろうか。どのようにすれば、理念の相違を押し出せるのだろうか。
この党の自らの定義が、「NHKにお金を支払わない方を全力で応援・サポートする政党」であり、それがメインのキャッチフレーズにもなっている。「NHKをぶっ壊す!」とともに、これが一定の国民の胸に響いたのだ。
立花孝志は、ホームページの「党首あいさつ」において、「NHKから国民を守る党は、文字通りNHKから国民をお守りする為の党です。NHKが行っている戸別訪問は、勝手にNHKの電波を各世帯に送りつけて、NHKを見ていなくても集金する送りつけ商法です。…」などと言っている。
結局、N国とは「NHK受信料の不当な集金から国民の経済的利益を守る党」である。けっして、「政権の走狗としてのNHKの本質をぶっ壊す」とは言わない。「権力に従順なNHKの基本体質を批判する」とも、「大本営発表放送の偏頗から民主主義と国民を守る」ともいうものではないのだ。
私は、宗旨を変えた。NHKを一塊の均質の組織として見ることを止めよう。そのような批判の仕方を止めよう。NHKを二層の対立物として捉えなければならない。「権力に操作され、権力を忖度し、権力と癒着するNHK上層部」と、「上層部との軋轢の中で、良質の番組を制作しようと努力している現場フタッフ」との二層の構造。上層部を批判し、現場を励まさなければならない。
本年7月の参院選におけるN国の得票は、NHKの受信料徴収に国民の根深い反感があることを教えた。NHKは、そのことに対する反省はすべきだろう。だが、所詮は右翼の別働隊に過ぎないN国の攻撃に萎縮する必要はない。そもそも、N国の賞味期限が長いはずはない。
立花は、売名目的での立候補を繰り返している。最近のものが、今月(12月)8日投票の小金井市長選挙。開票結果は以下のとおり。N国・立花の惨敗である。
1 当 西岡真一郎 無所属 18,579
2 落 かわの律子 無所属 10,759
3 落 森戸よう子 無所属 10,399
4 落 立花 孝志 N国 678
市区長選挙における供託金の金額は100万円で、供託金没収点は有効投票総数の10分の1。今回市長選の投票総数は40,904だったから、その10%は4,090票である。立花は、供託金没収点の6分の1の得票もできなかった。
この選挙における立花を、典型的な「売名目的の泡沫候補」と呼んで差し支えなかろう。立花のごとき泡沫候補にも立候補の権利は保障されている。100万円で公営選挙を利用した宣伝売名行為ができれば安いものである。それでも得票はわずか678。先の長くないことを示唆している。
ところで、こんな裁判例があることを初めて知った。
一昨年(2017年)7月19共同配信の記事。
NHK提訴は「業務妨害」 受信料訴訟原告に賠償命令
受信料の徴収を巡り勝訴の見込みがない裁判を女性に起こさせたとして、NHKが政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志代表らに弁護士費用相当額の損害賠償を求めた訴訟の判決で、東京地裁は19日、請求通り54万円の支払いを命じた。
山田真紀裁判長は判決理由で「NHKの業務を妨害するため訴訟に関与しており、裁判制度を不当に利用する目的があった」と指摘した。
立花氏は元NHK職員。判決によると、2015年8月、NHKが受信料徴収業務を委託した業者の従業員が千葉県内の女性宅を訪問。女性は立花氏に電話で相談し、2日後に慰謝料10万円の支払いをNHKに求め松戸簡裁に提訴した。訴訟は千葉地裁松戸支部に移送され、女性が敗訴した。
千葉県内の女性がNHKからの受信料請求を受けて立花に電話で相談したところ、立花のアドバイスは提訴だった。女性は、立花の指示のとおりに、NHKを被告として10万円の慰謝料支払いを求める損害賠償請求訴訟を提起して敗訴した。ところが、ことはこれで終わらなかった。NHKは、この女性と立花を逆に訴えたのだ。今度の舞台は東京地方裁判所。前訴10万円の請求の棄却を求める応訴の費用として、NHKが委任した弁護士に支払った弁護士費用54万円を支払えという請求。なんと、地裁は、その満額を認めたという記事である。
この裁判は上級審で逆転せずに、確定した。実は、もう一つ同様の裁判があり、NHKは立花に108万円の強制執行が可能だという。NHKは近々執行に踏み切るとも言っている。
繰り返すが、10万円の慰謝料請求という前訴の提起を違法として、提訴者に54万円の応訴費用の損害の賠償を認めたのだ。DHCスラップ「反撃」訴訟の認容額は110万円であるが、応訴費用(弁護士費用)として認められたのは、そのうちの10万円に過ぎない。これが、常識的な水準。N国訴訟の理由には「(立花は)NHKの業務を妨害するため訴訟に関与しており、裁判制度を不当に利用する目的があった」と指摘しているという。
軽々にするスラップの提訴は、ブーメラン効果を伴う。うっかり提訴・いい加減提訴は、損害賠償責任の原因となる。そのやばさを、立花が身をもって教えてくれている。最近では、出資法違反疑惑の金集めまでも。また、教訓を積み重ねてくれることになるにちがいない。それにしても、こんな事態では、N国の明日はなかろう。
(2019年12月13日)
人類は、地球環境の中に生まれた。この環境から抜け出すことはできない。環境に適応して人類は生存を維持し、生産し文明を育んできた。生産とは、環境に働きかけて環境を加工し、環境からの恵みを享受することにほかならない。
太古の過去から現在に至るまで、人類は地球環境に依存しその恩恵を受けながら、環境を不可逆的に改変しつつ文明を築き上げてきた。しかし、地球環境は有限である。幾何級数的な生産力の増大は、人類に地球環境の有限性を意識させざるを得ない。いまや、成り行きに任せていたのでは、近い将来に地球環境は人類を生存させる限界を超える。このことが世界の良識ある人びとの共通認識となっている。
20世紀中葉、人類は戦争によって絶滅する危険を自覚した。にもかかわらず、人類は今日に至るも戦争の危険を除去し得ていない。愚かな核軍拡競争の悪循環を断ちきれないでいる。その事態で、もう一つの人類絶滅の危機、環境破壊問題に遭遇しているのだ。
人類の生産活動と生活様式が,地球環境を破壊しつつある。このまま手を拱いているわけにはいかない。もしかしたら、もう手遅れかも知れないのだ。今、喫緊になすべきことは、生産を縮小しても大気中の二酸化炭素を減らさねばならないこと。マドリードで開かれているCOP25(国連気候変動枠組み条約第25回締約国会議)が、その人類の課題に取り組んでいる。
国家の作用には2面性がある。資本の意を体して経済活動自由の秩序を守ることと、主権者国民の意を受けて資本の生産活動を規制することである。これまでは、前者の側面が強く出てきたが、今や、人類の生存維持のためには、公権力による経済活動の規制が必須だという国際合意の形成が迫られている。
しかし、資本の意を体した化石的抵抗勢力は、すんなりと環境保護のための規制を受け入れがたいとしている。その象徴的人物が、まずは世界の反知性を代表する米のトランプ。開発派のブラジル・ボルソナーロ。そして、石炭火力の継続に固執するアベシンゾーである。
アベの配下でしかないセクシー・進次郎は、今最大の問題となっている石炭火力の削減に言及できず、世界のブーイングを浴びることとなって、この会議中2度目の化石賞という不名誉に輝いた。しかし、これは彼の政治家としての理念の欠如や無能・無責任だけの問題ではない。主としてはアベ政権の姿勢の問題なのだ。政権の意思を決している国内資本の責任であり、こんな政権をのさばらせている、われわれ日本国民の責任でもある。
環境擁護派は、よい旗手を得た。16才の高校生グレタ・トゥンベリである。この若い活動家に、化石派のブラジル・ボルソナーロ大統領が、「ピラリャ」という言葉を投げつけて話題となっている。
私には、このポルトガル語の語感は理解し難いが、「ピラリャ」とは若輩者の未熟を侮辱するニュアンスで語られる品のよくない悪罵だという。「お嬢さん」「娘さん」「若者」ではなく、「ガキ」。これが日本語の適切な訳語だという。
環境保護派の旗手に、化石派から投げつけられた、「ガキ」呼ばわり。環境保護運動全体に投げつけられた悪罵である。しかし、いったいどちらがガキかは明らかではないか。理性的な論理で対抗する意欲も能力もなく、感情にまかせて論争の相手を「ガキ」呼ばわりする方が,真の「ガキ」なのだ。
一方、グレタは「最大の脅威は、政治家やCEOたちが行動をとっているように見せかけていることです。実際は(お金の)計算しかしていないのに」と言った。まさしく、進次郎の姿勢に、ぐうの音もいわさぬ批判となっている。
ブラジル・ボルソナーロ大統領だけではない。アベシンゾーも「ガキ」ぶりではひけをとらない。彼の悪罵は「キョーサントー」であったり、「ニッキョーソ」であったりするわけの分からぬもの。「ガキ」のケンカそのものではないか。
トランプ・ボルソナーロ・アベシンゾー。いずれがティラノか三葉虫。その化石度において、兄たりがたく弟たりがたし。こういう化石化した指導者に任せておくと、本当に人類の生存が危うい。アベを辞めさせることは、人類への貢献なのだ。
(2019年12月12日)