表現の自由を錆び付かせない努力を。
今振り返って、「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」に対する妨害問題は衝撃だった。結果として妨害行為に反撃する世論の健在が示されたとは言え、表現の自由を貫徹するにはある種の覚悟が必要な時代にあることを痛感させられた。右派・右翼に支えられた安倍一強の長期存続は、この明るくはない時代を象徴するできごとなのだ。
今はまだ、権力批判の声を出すことができる。今ならまだ、表現の自由の妨害を跳ねのける力量がある。表現の自由の旗はまだ色褪せていない。表現の自由は、画に描いた餅ではなく、現実の社会の中で確かに機能している。しかし、いつまでもこのままであろうか。表現の自由は、次第に侵蝕されつつあるのではないか。危機感をもたざるを得ない。
表現の自由を錆び付かせてはならない。そのためには、意識的に表現の自由を行使しなければならない。表現の自由の保障を「廃用性機能障害」に陥らせてはならないのだ。政権批判の言論も、天皇制廃止の見解も、資本主義の弊害についての叙述も、遠慮のない表現がなくてはならない。
身近なところでの表現の自由妨害には果敢に発言しなければならない。とりわけ、身近な自治体の表現の自由との関わり方を監視し的確に問題化しなければならない。
私は、自分も多少関わった、この夏の「平和を願う文京戦争展?村瀬守保写真展」の後援申請を却下した文京区教委のありかたの追及が不十分であったことに、忸怩たる思いでいる。
経過は、下記のブログをご覧いただきたい。
文京区教育委員会の見識を問う ― なぜ「日本兵が撮った日中戦争」写真展の後援申請を却下したのか
https://article9.jp/wordpress/?p=13106
「平和を願う文京戦争展」総括会議ご報告
https://article9.jp/wordpress/?p=13261
私が接しうる資料を見る限り、主たる問題は教育委員諸氏の事なかれ主義の姿勢にある。「平和を願う文京戦争展」の展示物の中には、南京事件被害の現場写真もある、トラックに乗せられた従軍慰安婦の生々しい写真もある。これが戦争の現実なのだ。その現実を伝える貴重な写真であればこそ、「平和のための戦争展」の展示たりうる。文京区民に戦争の悲惨を伝え、考えてもらうインパクトをもった、意義のある画像。
ところが、教育委員会としては、そんなものを展示して面倒に巻き込まれるのはまっぴらなのだ。右翼が押しかけてでもきたらたいへんだ。教育委員会が矢面に立つのはまっぴらだ。敬して遠ざくに越したことはない。この逃げ腰の態度、当たらず障らずのこの消極姿勢が結局表現の自由を痩せ細らせることになり、戦争の惨禍と平和の尊さを考える機会を失してしまうことになる。このことが、この時代をさらに暗くすることにもなる。このような教育委員会の態度を指弾することなく傍観してしまうことも同様というべきだろう。
いま、文京区教育委員会のメンバーは以下のとおりである。
文京区教育委員会教育長 加藤 裕一
同教育委員 清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
同 田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
同 坪井 節子(弁護士)
同 小川 賀代(日本女子大学理学部教授)
教育委員とは、お飾りの名誉職ではない。「教育基本法」の下、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」に基づき、「人格高潔で、教育行政ないし教育・学術及び文化に関し識見を有する」という資格要件を備えていることになっている。あるときには身を挺してでも、教育の自由や独立、民主主義を守らなければならない。政府や東京都の行政から毅然と独立した立場を堅持して職務を全うしなければならない。
公開された議事録によると、当初、事務方(文京区教育局・教育推進部長)からは、「後援名義等使用承認要綱の規定に照らし、後援名義の使用を承認したいと考えるものでございます」と承認を可とする提案であったが、出席委員から慎重論の発言がなされて続会となり、逆転の結論となった。
その議論の中には、「この南京虐殺とか慰安婦問題というのは、確かに政治的な対立が背景にある中で、事実があったかなかったかというのはわからなくなってしまっているという問題になっております」という無茶苦茶な発言がある。このような認識を前提に、「教育委員会は中立・公正の立場に立つべき」だから、「南京虐殺とか慰安婦問題があった」とする《一方の立場》の企画を後援することはできないとの結論に至っている。
これは、「人格高潔で、教育行政ないし教育・学術及び文化に関し識見を有する」者のとるべき態度ではない。
もともと、文京区は、非核平和都市宣言都市である。平和首長会議の加盟都市でもある。政府の立場如何にかかわらず、反核・平和・環境保護には積極姿勢を示してきた。どうして現教育委員会がこんなに後退した姿勢を見せたのか、理解に苦しむ。
いま国にはびこっている歴史修正主義の勢力に、文京区教育委員会が屈している、あるいは迎合しているのではないかと危惧せざるを得ない。
行政が、脅迫や暴力に屈するところから、民主主義も平和も崩れる。面倒なことを避けたいから問題に向き合おうとせずに、最も安易な選択をしようとするときの逃げ口上として「政治的中立」や「公正」が使われる。
ことは小さいようで,実は普遍性が高く重要な問題なのだ。どこにでも生じている小問題への看過が積み重なって、後戻りのできない大問題となる。これも、看過してはならない問題だと思う。
(2019年11月29日)