澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「満州事変」勃発の日に、噛みしめる平和。

(2021年9月18日)
 私が生まれたころ、日本は長い長い戦争をしていた。いま「15年戦争」と呼ばれるその戦争の始まりが、ちょうど90年前の今日。
 
 1931年9月18日午後10時20分、関東軍南満州鉄道警備隊は、奉天(現審陽)近郊の柳条湖で自ら鉄道線路を爆破し、それを中国軍によるものとして、至近の張学良軍の拠点である北大営を襲撃した。皇軍得意の謀略であり、不意打ちでもある。この事件が、1945年8月15日敗戦までの足かけ15年に及んだ日中戦争のきっかけとなった。

 関東軍自作自演の「柳条湖事件」は、満州での兵力行使の口実をつくるため、石原莞爾、板垣征四郎ら関東軍幹部が仕組んだもので、関東軍に加えて林銑十郎率いる朝鮮軍の越境進撃もあり、たちまち全満州に軍事行動が拡大した。日本政府は当初不拡大方針を決めたが、のちに関東軍による既成事実を追認した。こうして、事件は、満州事変となり、翌32年3月には傀儡国家「満州国」の建国が強行される。

 一方、中華民国政府はこの事件を9月19日国際連盟に報告し、21日には正式に提訴して理事会に事実関係の調査を求めた。連盟理事会は、「国際連盟日支紛争調査委員会」(通称リットン調査団)を設置し、同調査団は32年10月最終報告書を連盟に提出し、世界に公表する。翌33年3月28日、国際連盟総会は同報告書を基本に、日本軍に占領地から南満州鉄道付近までの撤退を勧告した。勧告決議が42対1(日本)で可決されると、日本は国際連盟を脱退し、以後国際的孤立化を深めることになる。こうして、国際世論に耳を貸すことなく、日本は本格的な「満州国」の植民地支配を開始した。

 いったん収束した満州事変は、宣戦布告ないままの日中全面戦争に拡大し、さらに戦線の膠着を打破するためとして太平洋戦争に突入して、軍国日本が敗戦によって壊滅する。その長い長い戦争のきっかけとなった日が、今日「9・18」である。

 もう、何年前になるだろうか、柳条湖事件の現場を訪れたことがある。事件を記念する歴史博物館の建物の構造が、日めくりカレンダーをかたどったものになっており、「九・一八」の日付の巨大な日めくりに、「勿忘国恥」(国恥を忘れるな)と刻まれていた。侵略された側が「国恥」という。侵略した側は、この日をさらに深刻な「恥ずべき日」として記憶しなければならない。

 「9・18」を、中国語で発音すると、「チュー・イーパー」となる。何とも悲しげな響き。その博物館で、「チュー・イーパー」という歌を聴いた。もの悲しい曲調に聞こえた。中国の国歌は、抗日戦争のさなかに作られた「義勇軍進行曲」。作詞田漢、作曲聶耳として名高く、「起来!起来!起来!」(チライ・チライ・チライ=立ち上がれ)と繰り返される勇猛な曲。「チュー・イーパー」の曲は、およそ正反対のメロディだった。

 柳条湖事件は、石原・板垣ら関東軍幹部の自作自演の周到な謀略であった。国民の目の届かぬところで戦争のシナリオを作り、実行したのだ。が、留意すべきは満州侵略を熱狂的に支持する「民意」があればこその「成功」であった。世論は、幣原喜重郎外相の軟弱外交非難の一色となった。「満蒙は日本の生命線」「暴支膺懲」のスローガンは、当時既に人心をとらえていた。「中国になめられるな」「満州の権益を日本の手に」「これで景気が上向く」という圧倒的な世論。真実の報道と冷静な評論が禁圧されるなかで、軍部が国民を煽り、煽られた国民が政府の弱腰を非難する。そのような、巨大な負のスパイラルが、1945年の敗戦まで続くことになる。

 学ばねばならないことは、軍という組織の危険な本質であり、国家機関が国民の目の届かぬところで暴走する危険であり、煽動される民意が必ずしも肯定されるべきではないということであり、国際世論に耳を傾けることのない孤立の危険…等々である。

 90年前の教訓は今にどれだけ生かされているだろうか。民主主義は、常に危うい。自由も、平和もである。

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