再雇用拒否3次訴訟での原告の意見陳述
本日(3月17日)、14名の原告が東京「君が代」裁判第4次訴訟を東京地裁に提訴し、東京地裁民事11部に係属した。懲戒処分取消と国家賠償を求める訴えである。具体的には、2010?13年の戒告、減給、停職の処分19件について取り消しを求めている。また、国家賠償の請求額は各処分1件ごとに各55万円。
10・23通達発出以来10年を経ての新たな提訴である。1次訴訟・2次訴訟の確定判決では、減給以上の処分については裁量権逸脱濫用にあたるとして勝訴したが、違憲の主張は否定された。なんとか、この判決を覆そうとの意気込みに満ちた130ページの訴状を提出した。
また、本日東京地裁民事19部の、東京「再雇用拒否」第3次訴訟第1回口頭弁論が527号法廷で開かれた。原告3名の感動的な意見陳述が行われた。その内容をご紹介する。但し、個人の特定を避けての掲載なので、陳述そのままではない。
いずれも、「君が代」不起立を理由に、再雇用を拒否された事件。
Nさんはクリスチャンとして、Wさんは肢体不自由児教育の実践者として、そしてKさんは「君が代」が戦争に果たした歴史的役割から、それぞれの理由で「君が代」を歌うことができないとしている。
法廷での凛とした陳述の雰囲気を味わっていただきたい。
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Nさんの陳述
1 経歴 略
2 職務命令に従えなかった理由と経過
私は、旧教育基本法の前文「教育の力」という言葉に希望をもって教員になりました。
2003年、「10・23通達」発出後は、誇りと自信をもって教育を行っていた教員が、職務命令で脅かされる事態になったのです。公立の学校現場には、様々な生徒が存在します。
中国・韓国の在日外国人ばかりでなく、パキスタンなどからの外国籍の生徒もいて、さまざまな考えのある人もいるのです。いまだかつてなかった形の職務命令で、「君が代」で起立させようという都教委の意図に戦慄を覚えました。
私は、カトリック信者でもあります。神道の象徴と思われる「日の丸」の前で「君が代」とともに起立することはできません。その結果、2007年3月30日に戒告処分を受けました。
教員は、自分の教える教科を通して生き方を教えているのです。国語の教科の中で朝の会や昼休みの余暇活動の場で、これでもかと突きつけられる生徒たちの思いを受けて、自分の人生で得た知識や信念を教えているのです。
現在の特別支援学校の生徒たちの6割の生徒は、施設で生活しています。障害が重いからとか保護者の養育能力がないからという様々な理由から家庭を離れて寮で集団生活を送っています。虐待や性的暴力を受けた生徒もいます。共通しているのは、家族から見捨てられたという気持ちがあり、自分の存在を否定されたという思いがあるのです。自己肯定感が得られず、自分の存在そのものに自信がもてずに自暴自棄になり暴力をふるう生徒も多くいます。この生徒たちに正面から立ち向かえるのは、自分の生き様であり教育に対する信念しかありません。
3 1回目の不起立に至る経過
2007年3月の卒業式で初めての「君が代」不起立をしてから、校長・副校長の注視を受けてきました。「不起立」以後、私の業績評価は総合評価がCとなりました。定年退職2年前の2008年11月10日、校長室へ呼ばれると「3年を過ぎている。来年の人事構想にない」という通告でした。定年まであと2年を残していましたが、特別支援学校への異動を余儀なくされました。
雪の降る2010年3月、新しい特別支援学校の異動面接のときには、自分の思いをはっきりさせておいたほうがよい考え「カトリック信者である。そのため卒・入学式では『君が代』で起立できない」ことと「定年まで2年しかないので、高等部の2年生を希望する」ことを要望しました。高等部2年生の担任になった私は、学年の教員に「カトリックの信者であるので、『君が代』で起立できない」旨を話し、理解を求めました。その年の入学式も卒業式も2時間年休をとりました。ところが定年最後の学年は持ち上がりを希望していたにも関わらず、また2年生でした。
入学式は、2時間年休をとりましたが、卒業式の前には何度も「卒業式をどうするのか」という聞き取りがありました。2011年3月の卒業式は、昨年担任した生徒の卒業式です。そのとき既に非常勤教員採用を拒否されていました。私にとって、教員としての最後の卒業式となるので是非とも参加したいと考えて、卒業式に出席しました。しかし、前に述べた理由で「君が代」で起立しませんでした。
久しぶりに出席する卒業式の生徒の門出を祝う感動で、涙が止まりませんでした。
たった2年間しかいなかった特別支援学校ですが、同窓会等の催し物案内が届きます。卒業生の顔を見ることは元教員にとって楽しみです。夏には同窓会、今年1月12日には、「成人を祝う会」に出席し、お祝いを述べてきました。
4 不起立処分後の不利益
2度目の不起立を理由として、2011年3月30日に減給10分の1、1月の減給処分を受けました。でも、私にとって一番大きな不利益は、非常勤教員の選考を受けて採用を拒否されたことです。
また退職した年の4月、担任した生徒たちが沖縄修学旅行に行くことになっていて、ボランティアとして引率に加わることになっていました。「しおり」も完成して、楽しみにしていました。ところが、不起立を理由に、ボランティアすら取り消しになってしまいました。
5 裁判所に期待すること
非常勤教員等の募集要項には、処分2年以内の者の欠格条項があります。私は、処分を受けてから約4年近く経っています。また処分歴があっても採用されている人も多いですが、「君が代不起立」処分の者は100%採用を拒否され、5年を超えないと採用されていません。これは憲法で保障された平等・公平の原則に違反すると思います。
また自分の不採用にいたる経過を開示請求しましたが、審査会を経たあとでも墨塗りのままです。「任命権者が不合格であることを証明しなければならない」という判例が多くある中、あまりにも不公平・不平等です。
貴裁判所には、都教委に対して墨塗りの部分を明らかにさせてほしいと切望いたします。
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Wさんの陳述
1 障がい児学校での日々
私は、…入都以来肢体不自由校に勤務してきました。そしてほとんど、超重度重複障がい児と言われる子ども達を担当しました。彼らとノンバーバル・コミュニケーション(言葉によらないコミュニケーション)を築いていく面白さ、「もう一つの世界」が見える面白さ、私は価値転換を迫られ、人間というもののコアをいつも考えさせられました。相手に自分のすべてをさらして初めて自分の限界や相手への尊敬を体感できる世界でした。そうして私は、子ども達から沢山教えられ、「主体性」と「関係性」が大変重要であると考え実践してきました。
2 10・2 3通達
そんな中、2003年10・23通達が都教委から出されました。この通達は私たちが大事にしてきた卒業式そのものを壊してしまいました。
通達前の2003年3月の卒業式はフロア形式、口の宇型対面方式で、私のクラスの生徒は、習いたての電動車椅子を、自ら操作してフロア中央に証書をもらいにいき、参列者全員の大きな拍手と歓声をうけました。校長も素晴らしい式だと感激していました。
ところが、通達後は、壇上使用だけで、フロアでの電動車椅子走行は許されなくなりました。ある生徒は、自分の意志とは関わりなく手や足が暴発的に動き、自分で舌や唇を噛み切ったり、関節に入った力を緩められず泣き叫ぶなどそれはそれは大変な生活をしていました。担任は、自信と生きる希望につなげようと、電動車椅子の練習を提案、親をいれて3人4脚で頑張ってきました。その熱意で生徒は電動車椅子の操作が奇蹟的に上達しました。そして巣立ちの日、みんなに、証書を受け取るときの自分の精一杯頑張っている姿を見てもらいたいと願ったのでした。同じ病気の弟がなくなっていたので生きている日の自分をみんなの中に残したい、と切実な思いだったと思います。
しかし、この誇らしい小さな希望は、フロアで証書を受け取ることは「都教委が許可しないからだめだ。」と昨年と同じ校長にはねつけられました。担任は悔し涙で不起立しました。
大事な卒業生を、最も輝かして送り出すことができない。絶対この通達は間違っている、この命令には従えない、担任の気持ちは痛いほど良くわかりました。私自身は、君が代起立時にトイレ介助で会場から出ないようにさせるため、受け持ち児におむっを付けろ、といわれ、屈辱と怒りに身がふるえ、絶対に従いたくないと思いました。
「通達」は人間の尊厳を卑しめ、教育を破壊しています。このことを私は身をもって告発します。
間違った通達と命令には従えません。
3 停職処分の過酷さ
自分の良心、教育信念を曲げられない私は、否応なく不起立を繰り返すこととなり、停職処分を受けるに至りました。子どもに真摯に向き合おうとすると、子どもから引き離されてしまう。大変な苦しみでした。
誰にとっても今日という日は大事です。が、夭折していく彼らにとって、今日のこの日の、家族、友達、先生だちと過ごす時間の大切さ、短い生命だが、精一杯生ききる日のこの貴重さは格別なものがあります。
4 採用拒否されて
しかし、都教委が私の静かな40秒の不起立に対して加えた制裁は、停職処分だけではありませんでした。2010年11月、翌年3月の定年退職を迎え、非常勤教員採用を申し込み、面接にいきました。
面接者は、私に2点質問しました。培ってきた実力のうち何を最も生かしたいか、ペテランとして若い教員をどう育てていくか。私は丁寧に答えています。しかし、1月、校長から申し渡されたのは、採用拒否でした。
ところが、情報開示資料によると、戒告処分はおろか停職処分を受けた人も採用されていました。他方、「日の丸・君が代」で処分された者だけが100%拒否されていたのです。
とどのつまり、都教委が「日の丸・君が代」で処分を受けた者だけを、思想的な理由で排除している、これが非常勤教員不合格の正体ではないでしょうか。いったい、裁量権をもつ者は、その権力をそのように恣意的、差別的に行使して良いものでしょうか。
私は子ども達との関わりを熱望していました。生徒達への音楽療法を通じた関わりも、差別され苦しむ生徒達への権利学習も、板橋駅へのエレペーター設置要求も、多民族多文化の共生社会の一員として朝鮮学校やアイヌの人だちとの文化交流も、定着には道半ばであり、私はさらに努力したいと考えていました。
それらを断ち切った都教委に対して、謝罪と損害賠償を求めます。
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Kさんの陳述
私は、…退職までに6校の高校に勤務し、定年退職しました。
これまで多くの生徒と接してきましたが、そこで私が学んだことは生徒は一人一人個性を持っており、それを尊重することが大切であるということです。
何か問題行動を起こすにしても、そこに至るまでには様々な原因があります。それを見ないで、問題行動を起こしたら機械的に処分をするということだけでは生徒を本当に立ち直らせることは出来ません。
これは生徒指導だけでなく、学習指導やクラスで生徒に対するときにも必要な考えであると思います。一人一人の個性を大切にする教育が生徒の力を伸ばすことにつながると考えています。
生徒指導が大変な学校や学習意欲が充分とは言えない生徒が多い学校も経験しました。このような学校では生徒との信頼関係を作るよう努めましたが、中学時代から教員に対する不信感を持つ生徒もいて、話が出来るようになるまでは長い時間がかかることもありました。担任をしても大変なことが多くありましたが、3年間接している内に生徒が成長し自立していき、卒業式を迎えることが出来たときは教員をやっていてよかったと思いました。
都立高校で私が教員生活を始めた頃は学校運営に関すること、生徒指導に関することなどは職員会議で話し合い決定していました。意見がいろいろあり、議論に時間がかかることもありましたが、充分に議論を尽くした決定を校長も教職員も尊重していました。このような中で信頼関係も出来、私も教員として成長することが出来ました。
しかし1990年代頃から、職員会議の決定を管理職が尊重しないことが度々起こるようになりました。特に入学式、卒業式のあり方について職員会議の決定が守られないことが多くなりました。
そして2003年10月23日に東京都教育委員会より通達が出されてからは学校の決定権は完全になくなりました。卒業式の椅子の配置まで事細かに教育委員会が言ってきました。それまでは卒業式の「君が代」斉唱時に起立斉唱をしない教職員がいても処分されることはありませんでした。「君が代」については様々な思いをいだく人がいて、斉唱を強制することは思想、信条の自由にも関係することと考えてのことであったと思います。しかしこの通達以降は、学校行事で「君が代」斉唱時に起立斉唱しない教職員は一律に懲戒処分を受けるようになりました。
私も「君が代」を歌うことは出来ませんでした。「君が代」が第二次世界大戦では戦意高揚のために使われたこと、侵略の象徴としてあったことなどを考えると歌うことは出来ません。また歌を歌うことを一律に強制することもおかしいと思いました。
この通達後の最初の卒業式で私は「君が代」斉唱時に不起立であったとして戒告処分を受けました。その後の入学式や卒業式では「君が代」斉唱のことを考えると体調不調になり休暇を取ったり、式場外での仕事を担当したりで斉唱時に式場にいないときは処分されることはありませんでした。
その後、卒業式での不起立などを理由に、2005年4月に淵江高校に異動になり、異動後すぐに1学年担任になりました。1学年担任のため入学式式場にいない訳にはいきません。「君が代」斉唱時どうするか迷いました。しかし異動してすぐのことで、職場で相談できる人もいませんでした。処分のことを考えると異動後すぐの不起立は出来ませんでした。私にとって最大の屈辱でした。今でも思い出すと苦痛です。
その3年後に担任学年の卒業式を迎えました。再び処分されることを考えると迷いはありましたが、3年前のことを考えると、自分の信条に反して「君が代」斉唱時に起立することはどうしても出来ないと思いました。この卒業式で不起立であったため再度の処分を受けました。
2011年3月の定年退職を前に退職後の再雇用制度である「非常勤教員」を希望しましたが、採用を拒否されました。このため退職後も教員生活を続けるという生きがいを奪われ、生活保障も奪われました。不合格の理由は上記の処分以外に考えられません。元の処分自体不当なことですが、更に追い打ちをかけられた気がします。
このまま黙っていては、この不当なことを認めることになり、自分の信条が否定されると思いこの度の提訴に至りました。
貴裁判所におかれては是非とも公正な判断をして下さるようお願い致します。
(2014年3月17日)