集団的自衛権行使容認問題のポイント
5月15日に安保法制懇の報告が出て、安倍首相や法制懇メンバーが集団的自衛権の行使を容認すべきだと喧伝している。彼らの解説には、喉がざらつくような違和感を禁じ得ない。その感覚的な違和感が、問題の本質につながっているのだと思う。
首相の会見も、法制懇メンバーの言説も、憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認する論理は次のようなもの。
「憲法よりも国民の生命や安全の方が大切ではありませんか」「硬直な憲法解釈にこだわっていては、国民の生命や安全を守ることに不都合が生じます」「だから、政府が責任をもって憲法解釈を変更して、国民の生命や安全をしっかりと守ろうというのです」「皆さんから選任された政府が、そう言っているのですから安心して、この安倍政権にお任せ下さい」
ここで言われている、「憲法よりも国民の安全が大切」というものの言い方、「政府を信頼して任せておけばよい」という姿勢に、おおきな違和感がある。
「憲法よりも国民の安全が大切」というものの言い方は、憲法の理解、分けても平和主義への理解に欠けるものと言うほかはない。憲法こそが、国民の生命と安全を守るために制定されたのだから。
先の大戦でこの上ない辛酸をなめた日本国民は、再びの戦争を繰り返さない決意を込めて、自らに戦争を禁じた日本国憲法を制定した。だから、日本国憲法は、「平和」を基本に据えた。憲法前文に「再び政府の行為によって、戦争の惨禍が繰り返されることのないようにすることを決意して…この憲法を確定する」と宣言し、憲法9条をおいて、その2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と決めた。日本国民が憲法を制定したというのはフィクションだという見解もありえよう。しかし、敗戦後今日まで日本国民は平和憲法を守り続けてきた。日々新たにこの憲法を選択し続けて定着させたと言ってよい。この事実は重い。決してフィクションではない。
その憲法は、国民の生命や安全を無視しあるいは軽視して制定されたものではない。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と定め、そのとおり実行することこそが、最も有効に国民の生命や安全を守る方法であると確信して選択している。そして、そのような主権者の選択を、政権を担当するものに対して命令しているのだ。それが、憲法を制定するという意味ではないか。
戦争の惨禍から学ぶべきを「軍事力が不足だったこと」と反省して、国の安全を保つためには近隣諸国を圧倒する軍事力をもつべきだ、という意見もあろう。しかし、それこそ戦前の過ちの轍を踏むことであるとして、憲法はそのような考え方を愚かなこととして斥けたのだ。軍事力の増強は、近隣諸国に無用の不信感を増大させ、デメリットがはるかに大きい。場合によっては、相互の不信と相互の軍拡の無限のループに陥る危険さえある。
少なくとも専守防衛に徹すべきことが、これまでの我が国のコンセンサスであった。個別的自衛権を認めるにせよ、憲法上集団的自衛権の行使は容認し得ないということが、政府・与党を含む国民的な合意であったと言ってよい。にもかかわらず、今安倍政権は、憲法解釈を変更して集団的自衛権行使を容認しなければならない場合を必死で探し出そうとしている。非現実的な事例の想定は、何が何でも集団的自衛権行使容認に一歩でも踏み出そうとの誘導策でしかない。
さらに、「政府を信頼して任せておけばよい」という要求は、民主主義や立憲主義をないがしろにするものとして、認められようはずもない。
健全な民主主義は、国民の権力に対する猜疑によって保たれる。いかなる権力も信頼してはならない。まして、安倍政権のごとき危険な権力であればなおさらのことである。国民が権力に対して手渡す、権力行使の手順マニュアルが憲法であって、このマニュアルから逸脱せずに権力を行使しなさい、と命令されているのだ。命令された側が勝手にその指示書の内容を書き換えてはならない。憲法は権力を縛るためにある。縛られる立ち場にある者が、勝手に縛りを外すことは許されない。とりわけ安倍政権のような危険な権力はしっかり縛っておかねばならない。
安倍政権を危険というのは、対中、対韓関係において領土ナショナリズムを鼓吹し、歴史修正主義の立場を露わにし、敢えて靖国参拝をし、河野談話を検証し直すとし…。要するに、同じ立ち場にあったドイツと対照すれば、侵略戦争や植民地支配に真摯な反省や謝罪をしていないのが顕著である。その姿勢は歴代保守内閣に比して突出している。これを縛らずして、何のための立憲主義であろうか。憲法が安倍政権を縛らねばならないのであって、安倍政権が憲法を籠絡し解釈を変更して縛りを解くなどとはもってのほか、と言わねばならない。
(2014年5月18日)