江川紹子さんに声援を送る
いわゆる「PC遠隔操作事件」の成り行きに驚かざるをえない。
これまで無罪を主張していた片山祐輔被告が、起訴された4事件すべてを自身の犯行と認めた。主任弁護人も今後の公判では無罪主張は撤回する方針という。東京地裁は本日保釈を取り消す決定を出し、同被告人は東京拘置所に再び勾留されることとなった。
真摯な弁護活動をしていた弁護人の気持ちが、痛いほどよく分かる。こんなに劇的な事例ではないにせよ、私にも何度か似たような経験がある。「これまで俺を欺していたのか」「裏切られたのか」という思いは払拭しえないだろう。しかし、その点にはプロとしての対応が求められている。
通常、弁護人が被告人の無罪主張に疑問を呈するごとき言動をしてはならない。被告人の立ち場で、被告人の主張に寄り添わねばならない。弁護人として、無罪判決を勝ち取るべく弁護活動をしなければならない。そうでなくては、被告人との信頼関係の形成はない。しかし、事態が本件のごとき展開を遂げたあとでは、自ずから話しは別と言わねばならない。
本来、有罪立証は訴追側の責務である。弁護側はその立証活動から被告人を防御する。検察官の立証を吟味し、立証の不足を指摘することが基本的な活動内容なのだ。事態が急展開した今も、検察官の立証を吟味し防御する弁護人としての基本活動に変わりはない。しかし、現実には、公訴事実を否認して積極的に無罪を主張することと、公訴事実自体は認めて情状を争うことは、訴訟戦術として一貫しない。戦術の曖昧さは被告人の不利を招く。だから、一見明白に客観的事情と矛盾し、虚偽としか見てもらえない無理筋の無罪主張の展開は慎まねばならない。その観点から、弁護人には被告人への説得の努力が求められる。本事例では、被告人が先に無罪撤回の方針変更をしたようだ。よほどの事情がない限り、弁護人もこれに追随するしかない。方針の転換は、不名誉なことでも、非難されるべきことでもない。
弁護人に、被告人の主張について真実か否かを見極めるべき義務を押し付けてはならない。過剰な真実義務の要請は、弁護活動を萎縮させ、被告人の無罪を争う権利を侵害する。公正な裁判を受ける権利を侵害することにもなる。弁護人が無罪主張を撤回した場合に、撤回以前の無罪主張を責められるようなことがあってはならないのだ。
似たようなことが犯罪を報道し論評するジャーリズムにも言える。
本日の毎日夕刊に、ジャーナリストのお二人が、コメントを寄せている。大谷昭宏さんは、「冤罪被害者傷つけた」として、「一連の片山被告の行為は、本当の冤罪被害者を傷つけるもので罪深い」という常識的で無難な内容。誰にも納得できる落ちついたコメント。
もう一人の江川紹子さんのコメントが、いわれなき論難の対象となりかねない内容。「捜査の問題 見逃せず」と標題されたコメント全文は次のとおり。
「片山被告が犯人だとすれば何でそんなことをしたのか不明だ。ただ、一連の事件で誤認逮捕などの問題が出てきたのは事実。捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」
「片山被告が犯人だとすれば何でそんなことをしたのか不明だ」というのは、被告人本人と弁護人が無罪主張を撤回した今もなお、有罪立証や動機の解明に納得はしていないことの表明。その姿勢は責められるべきものではない。「一連の事件で誤認逮捕などの問題が出てきたのは事実」は、まったくおっしゃるとおり。そして、「捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」は、正論である。
私は、この江川さんのコメントを全面的に支持する。意気悄然とすることなく、問題提起をし続ける姿勢を示している点において立派なものと思う。決して、「負け惜しみではないか」「これまでの不明を反省しないの?」などと揶揄してはならない。
これまで江川さんが片山被告有罪説に疑問を呈して発言を重ねてきたことは、天下周知の事実。しかし、ジャーナリストにも、訴追された被告人の主張について真実を見極めるべき義務が課せられるわけはない。基本的に、訴追側の立証の不備や証拠を点検して、疑問を提起することが基本任務と言えよう。この点において、弁護人の立ち場と同様なのは、ジャーナリズムも弁護士とならんで、在野の立ち場から権力作用を監視すべきことを基本任務にしているからだ。
いま、警察も検察も昂揚した心理状況にある。不謹慎でも「やった」という気持ちになっていることだろう。そのようなときに、敢えて「捜査側の問題がスルーされたらそれは違うと思う」と堂々と正論を述べる江川さんに声援を送りたい。
(2014年5月20日)