澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

道徳教育の教科化に反対するー教育をマインドコントロールの手段にしてはならない

民主主義とは、民意に基づいて権力が形づくられ、民意によって権力が運営されるという原則である。思想であるだけでなく、制度として定着しているはずのもの。常に、あらゆる局面で、民意が権力をコントロールすべきが当然であって、権力が民意を制御し誘導することを、主客転倒として想定していない。この原則に従って、民主主義を標榜する社会における教育は、権力からのコントロールを厳格に排しなければならない。

ところが、現実の権力は、常に民意をコントロールしようとする。権力に好都合の民意を誘導して形成しようとするだけでなく、そのような誘導を批判せず受容する国民精神までを涵養しようとする。そのような権力の願望は、教育の制度作りと運用に表れる。「道徳教育」はその最たるものである。

公教育において、特定の価値観・道徳観を国民に押し付けてはならない。この自明の原則が、政権には面白くない。何とかこれをやってのけたい。現体制・現政権勢力・時の為政者の支配の維持のためにである。

道徳とは、その内容において普遍的なものはあり得ない。これを、特定の価値観から一元化して、儒教的徳目を並べたうえに天皇への忠誠を最高道徳としたのが教育勅語であり、戦前の教育制度の根幹であった。その反省もあって、公権力が特定のイデオロギーをもってはならないことは、多くの国民の常識として定着している。

にもかかわらず、現行の「学習指導要領第1章総則」には、次のように書かれている。
「道徳教育は、教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき、人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし、豊かな心をもち、伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛し、個性豊かな文化の創造を図るとともに、公共の精神を尊び、民主的な社会及び国家の発展に努め、他国を尊重し、国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする。」

結局、道徳教育とは、「未来を拓く主体性のある日本人を育成するため、その基盤としての道徳性を養うことを目標とする」というのだ。これ自体旺盛なイデオロギー性に満ちている。

「教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神」とは何であろうか。第一次安倍政権が「改正」した教育基本法第2条は、教育の目的を定めるが、その第5項は次のとおりである。
「五  伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」

自民党改憲草案流の読みようは「万世一系の天皇を戴く伝統と、『和をもって尊しとなし、お上に逆らうことなきを旨とせよ』という文化を尊重し、なによりも愛国心を教え込むことが教育の目的」ということになろう。

現行制度も大いに批判されなければならないが、現政権はこれでは飽き足らない。「可能な限り国民の抵抗感を少なくして、焦らず着実に、やりたいことをやってしまおう」。そのような姿勢での道徳の教科化が進行し、昨日大きな一歩を踏み出した。警戒を要する事態である。

小中学校での道徳の教科化を議論している中央教育審議会の道徳教育専門部会は昨日(9月19日)、「道徳に係る教育課程の改善等について」の答申案を決定した。報道では、「『特別の教科 道徳』(仮称)と位置付けて格上げし、検定教科書を導入することを盛り込んだ答申案を決めた。評価は他教科のような数値ではなく記述式にする。10月にも答申を受け、同省は今年度中に道徳に関する学習指導要領の改定案を示し、早ければ2018年度からの実施を目指す」「道徳の教科化を巡っては、第1次安倍内閣時代にも検討されたが、中教審で慎重意見が多く、見送られた。今回は政府の教育再生実行会議が昨年2月に教科化を提言。中教審の専門部会では目立った反対意見は出なかった」(毎日)とされている。

なお、「教科化が価値観の押しつけにつながることを懸念する声に対しては『特定の価値観を押しつけたり主体性を持たずに行動するよう指導したりすることは目指す方向と対極にある』と強く否定した」とも報道されている。これでは、問題のないような答申の印象だが、とうていそのようには考えがたい。

答申の内容は、まだ文科省のホームページに掲載されていないが、「8月25日道徳教育専門部会(第9回)配付資料」に、「審議のまとめ(案)」が掲載されている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/049/siryo/1351218.htm
このとおりの答申案決定となった模様だ。

この答申(案)には、道徳の教科化がこれまで批判を受け続けてきたことへの言及がない。指摘された批判を謙虚に受けとめようという姿勢が皆無なのだ。この基本姿勢において、答申自体が極めて「不道徳」である。

また答申の中に、次の記述があることが気になる。
「道徳教育の使命」の項においては、「道徳教育においては、人が互いに尊重し協働して社会を形作っていく上で共通に求められるルールやマナー、規範意識などを身に付ける‥ことが求められる」
「道徳の内容項目について」の項では、「社会参画など社会を構成する一員としての主体的な生き方に関わることや規範意識、法などのルールに関する思考力や判断力などについても充実が必要と考えられる」とも言う。
「協働して社会を形作っていく上で求められるルールやマナー、規範意識」の強調が不気味である。

法には二面ある。権力の強制実行手段としての側面と、主権者意思が権力の恣意的発動を制約する側面とである。権力的契機と民主的契機の両面と言ってよい。規範・ルールも同様である。この二面性を意識的に糊塗したまま、「法やルールに関する規範意識」の涵養をいうことは、デマゴギーというしかない。

道徳教育は、権力による国民に対するマインドコントロールとなりかねない。大いに警戒をしなければならないと思う。
(2014年9月20日)

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Published in 土曜日, 9月 20th, 2014, at 11:34, and filed under 教育.

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