東京五輪誘致 この醜悪なるもの ー都議選の争点その3
イスラム諸国を侮蔑する猪瀬直樹暴言のお蔭で、東京五輪はなくなったものと安堵していた。功績は猪瀬だけにあるのではない。室伏広治問題もあり、橋下徹妄言の効果も大きい。全柔連のパワハラ、セクハラ問題まである。ところが、イスタンブールの治安とスペインの経済事情が悪化して、東京招致の芽が完全になくなったとは言えないらしい。あきらめきれない東京五輪誘致活動は、巨額の費用をかけながらまだ続けられている。そのため、2020年東京五輪招致の是非は、今回都議選の争点の一つとなっている。
6月14日毎日夕刊の「特集ワイド」は、「2020年五輪招致の舞台裏」という取材記事。担当記者の思惑を遙かに超えて、オリンピックの醜悪さをよく描いている。「2020年東京五輪招致に問題あり」の次元ではなく、オリンピックという途方もなく巨大化した怪物の醜さ汚さをアピールしている。こんな奇っ怪なもの、地上からなくした方が良いのではないか。
そう思わせる記事を未読の方は、ぜひ下記のURLをご覧いただきたい。読むに値する記事だ。アントニオ猪木・猪瀬直樹・橋下聖子らの写真を大きく掲載した記者の意図は忖度しかねるが、この記事の読後では、全ての人物が愚かしく、薄汚く見える。
http://mainichi.jp/sports/news/20130614dde012050016000c4.html
私は頑固な「2020年東京五輪招致反対」派の一人だ。が、これまでは「東京への五輪招致に反対」のレベルだった。開催場所が東京でさえなければ、オリンピック結構と思っていた。むしろ、オリンピック精神については賛意を表し、オリンピックの平和への貢献を積極評価する立ち場だった。発展途上国におけるオリンピック開催の経済効果も当然のこととして肯定していた。
なお、オリンピック精神とは、「オリンピック・ムーブメントの目的は、いかなる差別をも伴うことなく、友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神に基づいて行なわれるスポーツを通して青少年を教育することにより、平和でよりよい世界をつくることに貢献することにある」(1996年版オリンピック憲章「根本原則」6条)というものを指している。
もちろんこれまでも、ヒトラーや石原慎太郎などの極右政治家との結びつきを連想させる「国威発揚型オリンピック」には絶対反対の立場だったし、ナショナリズム過剰のオリンピックにも嫌悪を感じてはいた。また、「商業主義型オリンピック」の胡散臭さにも辟易してはいた。とはいうものの、それはオリンピック本来の理念からの「部分的な多少の逸脱」への批判でしかなく、オリンピックそのものを否定することはなかった。イスタンブールかマドリードで行われるのであれば、オリンピックの開催は、世界の平和を象徴するものとして歓迎すべきもの、そう考えていた。いや、あまり深く考えることなどなく、そう思い込んでいた。
しかし、そろそろ宗旨を変えなければならないのではないだろうか。オリンピックが平和の象徴であるとしても、あまりに腐った平和の象徴となってしまったのではないか。国威と過剰なナショナリズムを発揚するに格好の大舞台。資本にとっての一大ビジネスチャンス。そうであるが故の、これに群がる多くの人々の薄汚さ、胡散臭さ。そして、招致活動の不透明さ。汚い金の動き。これらの構造が、「部分的で多少の逸脱」の範囲を超えて、オリンピックそのものの腐敗が後戻りできなくなっているのではないだろうか。
毎日の記事から抜粋する。
「ある都職員が語る。『IOC委員には国際大会や会議の場で接触します。個別の招待は禁じられているため、あらゆる人脈を使って委員に影響力のある関係者を探し、食事などに誘います。…その接待には現地の大使公邸や高級和食レストランが使われ、日本から直送した神戸牛や高級マグロが人気です』」「他の都市も同じことをしているのだから、関係を深めるのは容易ではない。しかも『欧州の貴族サロン』と呼ばれるIOCは世界中の王族や財閥関係者、実業家、政治家が集い、人脈や信頼関係でものごとが決まる独特の世界だ」「そこで活躍するのが五輪コンサルタントだ。『サロンに顔が利く欧米のメダリストや国際競技団体の関係者が多く、招致を目指す都市と複数年契約をし、契約料は億円単位になることも。…東京招致委も外国人コンサルタントに頼らざるを得ないのが実態。IOC元幹部が代表を務めるコンサル会社など複数の法人、個人と契約しています』(招致委関係者)」「04年には英国BBC放送が、票の買収交渉に応じる委員とコンサルタントの癒着を『おとり取材』でスクープ。五輪の金権体質が浮き彫りになった」
金権金まみれがオリンピックの抜きがたい体質、「友情、連帯、フェアプレーの精神をもって相互に理解しあうオリンピック精神」とはほど遠い現実。それぞれの思惑で人々が群がり、金が集まり、虚名と虚言が渦巻く世界。これを勝手にしろと放置しておくわけにはいかない。税金が動いているのだから。
「日本から直送した神戸牛や高級マグロ」だけでなく、裏ではいろんな名目での金が動いているだろう。政治家の沽券や名望のために、資本の利益のために。そして、一部の人の名誉心のために。スポーツは本来清新で美しいものではなかったか。こんなに薄汚れたスポーツの祭典に意義があるのだろうか。
東京オリンピック固有の問題は、一に国威発揚型であること、二に資本に迎合した再開発型都市計画を必然化すること、そして三に福祉切り捨ての予算の使い方の間違いにある。
「前回と合わせて2回の招致活動費は225億円(予算ベース)。五輪招致は『自治体に認められた唯一のギャンブル』といわれる。」という。既に、馬鹿げた都民の金が浪費されている。仮に、誘致に成功すれば、さらに巨額の負担を覚悟しなければならない。東京がこんなくだらぬことに血道をかけ、巨額の浪費をする余裕はない。そして、自然破壊や住環境の劣化がもたらされる。子どもや老人への福祉や、保育や教育や、授産事業や職業紹介や、労働者の働く環境を整備し雇用を直接に創出する予算の使い方を優先させるべきではないか。
よく、考えよう。東京五輪本当に都民のためになるものか。都民の生活を優先する立ち場からは、都議選においては、オリンピック誘致に積極的な政党政派・候補者には投票すべきではない。
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『世間と歴史と選挙』
阿部謹也さん著の「日本人の歴史意識ー「世間」という視覚からー」(岩波新書)に手を打って共感した。
私たち日本人は「歴史」にかなりの関心を持っている。歴史的名所は観光スポットとなってたくさんの人が訪れるし、遺跡の発掘現場が公開されれば、どんな交通不便なところでも行列ができる。歴史の専門書や歴史小説の出版も多い。ブログの話題としても歴史は大人気だ。
「これらの人々の歴史に対する関心は一体何なのか。これらの人々にとって歴史とは自分の近くを流れている大きな時の流れであって、それを眺めることは一つのドラマを眺めることに等しい。そこで演ぜられる忠誠や裏切り、愛や憎しみのドラマが人々を引きつけているのであって、人々は歴史をドラマとして楽しんでいるのである。・・しかしこれらの歴史好きの人々の場合も歴史を自分自身が参加しているドラマだとは思っていないのである。」
多くの人々にとって、日々の現実の生活は苦しくままならない。到底観客として楽しむことのできるドラマなどであろうはずもない。だから、自分の現実の生活は運命として甘受することで折り合いを付ける。自分が属する狭い「世間」の様々なしがらみに絡めとられ、そこに安住し、関心はその外に拡がらない。親は子どもに「世間」との折り合いを教える。子どもは「出る釘は打たれる」「長いものには巻かれろ」「素直になりなさい」「組織の論理には従いなさい」といわれ続ける。個性だの個人の尊厳など生意気なことは言わないで、「世間」のしきたりにあわせるよう強制される。しかし、そうした厳しい社会的な制約をかけても、時にはドロップアウトせざるを得なくなる。
そのドロップアウトの時に、傍観できるドラマとしての「歴史」と、自分自身が参加している現実の「歴史」の分岐と重なりとが意識される。ここで、否応なく自分が参加する現実としての歴史に直面せざるを得なくなる。
そのように現実としての歴史に直面する人は、「「世間」の中でうまく適応できずにいる人である。「世間」とうまく適応している人は「世間」を知ることができず、その本質を理解することができない。しかし「世間」とうまく折り合うことができない人は「世間」の本質を知り、歴史と直接向き合うことができる。」
今の日本には「世間」とうまく適応できない人が星の数ほどいる。大人も子どもも「世間と個人」の間の矛盾を鋭く自覚して、苦しんでいる。その苦悩の中から、歴史を観客として楽しむのではなく、主体的に参加し変革したいと真剣に考えている人が生まれてくる。
「しかし「世間」との闘いは単純な闘いではない。「世間」の中で自分の道を切り開いてゆくための闘いだから、「世間」と正面からぶつかる必要はない。笑顔で「世間」の人々と付き合いながら、自分の道に関しては徹底的に闘う姿勢を静かな態度で示さなければならない。この闘いは単独の闘いであるが、仲間ができればその仲間と手を組んでいくこともできる。」
碩学の含蓄に富む言葉だと思う。
いま、その機会がちょうど私たちの前に提示されている。選挙だ。笑顔で歴史の変革に参加できるチャンス到来だ。投票までの間だけでも、新聞の隅々まで読もう。選挙公報や駅前でもらったビラで、候補者の主張を較べてみよう。年金者は老後の生活を、働く親は子どもの保育園を、働く者は賃金や労働者の権利を、その他おのおの自分の要求を洗い出してみたい。平和な未来の生活には「憲法」も「原発」も考慮しなければならない。
選挙の時は、「世間」に「自分」をあわせるのではなく、「自分」は「自分」に合わせて自分自身の「歴史」を作ってみようと思う。
(2013年6月15日)