頑張れ原告・弁護団! 「安倍靖國参拝違憲訴訟・関西」1月28日大阪地裁判決を読む
明文改憲を呼号する安倍晋三の反憲法的性格は、戦争法だけのものではない。教育基本法・地教行法の改悪、特定秘密保護法の制定や武器輸出3原則の清算、NHKの人事統制等々多岐にわたる。靖國神社公式参拝も顕著な反憲法的姿勢の表れである。
2013年12月26日、安倍晋三は内閣総理大臣の公的資格をもって靖國神社参拝を強行した。国内外からの強い反対論、明白な憲法違反の指摘を押し切ってのことである。安倍は、公用車で靖國神社に向かい「内閣総理大臣安倍晋三」と肩書記帳したうえ正式に祓いを受けて昇殿参拝した。政教分離を規定した憲法第20条3項に違反することは自明といわねばならない。
最高裁大法廷判決(1997年4月2日)は、愛媛県知事の靖國神社への玉串料奉納を違憲と断じている。多数意見13人対反対意見2人の大差であった。この孤立した反対意見者のひとりが当時最高裁長官だった三好達、現日本会議議長である。
県知事の玉串料奉納ですら違憲なのだ。ましてや内閣総理大臣の靖國神社公式参拝が違憲であることに疑問の余地はない。なお、最高裁判決で首相の靖國参拝の合違憲に触れた判決はまだないが、仙台高裁(仙台高判1991年1月10日)が岩手靖國違憲訴訟で明確に違憲判断をして以来、高裁・地裁での違憲判断はいくつかある。もちろん、合憲判断は皆無である。
この安倍晋三の違憲行為に司法の場で制裁を加えようとの果敢な試みが、「安倍靖國参拝違憲訴訟」として東京と大阪の両地裁で行われ、大阪訴訟の審理が先行して、2015年10月23日結審、本年1月28日(木)午前10時に判決言い渡しとなった。注目の判決だったが、はからずもDHCスラップ訴訟控訴審判決日と重なり、内容紹介のブログ掲載が遅れた。
ご存じのとおり、判決主文では敗訴であった。が、判決を一読した印象において、さしたる敗北感がない。判決は憲法判断を回避したが、無理をしてでも憲法判断はしたくない、という姿勢が見え見えなのだ。
「原告団一同」の名による判決への抗議声明が出されている。その冒頭の一節をご紹介する。
「本日大阪地裁は、安倍靖国参拝違憲訴訟に対して極めて不当な判決を出した。判決は、小泉首相靖国参拝違憲訴訟の2006年最高裁判決にいう、「人が神社に参拝をしても他人の権利を侵害することはない。これは内閣総理大臣が靖国神社を参拝したとしても変わりがない」をなぞるだけのものであった。
しかし、ここにいう「人」は、違憲の戦争法をごり押しし、憲法そのものにも敵対しこれを破壊する意図を明確にしている内閣総理大臣の安倍晋三である。「神社」は、殺し合いを強いられた人を天皇に忠義を尽くした人として顕彰し未来の戦死を誘導する靖国神社である。このことを踏まえれば、これを「人が神社に参拝する行為」と一般化同列化することができないことはだれが見ても明らかなことである。
安倍靖国参拝はそれが単に政教分離規定に反する違憲行為として内心の自由等の権利を侵害するのみならず、いわば戦争準備行為なのであり、平和的生存権も侵害する行為である。」
ここに怒りはあっても、敗北感はない。原告らの抗議の声は「安倍靖國参拝は戦争準備行為であり、平和的生存権を侵害する」となっている。安倍晋三の9条改憲の野望と軌を一にするものとして、靖國神社参拝が位置づけられている。これまでの靖國違憲訴訟にはなかったトーンである。
言うまでもなく、靖國神社は、国家神道における軍事的施設であり、軍国主義における宗教的施設である。軍国主義からの訣別を宣した日本国憲法の政教分離とは、時の政権と靖國との癒着を禁じたものと読むべきなのだ。いま、安倍政権の戦争推進政策の中で、新たな危険な意味合いをもった政教の癒着として靖國神社公式参拝が強行されているのだ。
この訴訟と判決が注目されたのは、政教分離問題としてだけでなく、戦争法違憲国賠訴訟、あるいは自衛隊派兵差止訴訟提起の試みに関連してのものである。国民ひとりひとりが持つ平和的生存権を根拠として訴訟の提起が可能か否か。
これまで、靖國公式参拝を政教分離に反するとする訴訟は、主として国賠請求事件として争われてきた。その場合の請求の根拠とされたものは宗教的人格権の侵害である。先に引用した抗議声明の文中にある「2006年最高裁判決」とは、2006年6月23日第2小法廷判決。その理由中に、「人が神社に参拝する行為自体は,他人の信仰生活等に対して圧迫,干渉を加えるような性質のものではないから,他人が特定の神社に参拝することによって,自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし,不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」「このことは,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても異なるものではないから,本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない。」という一文がある。この論理を克服しなければならないのだ。
安倍靖国神社参拝違憲訴訟・関西の原告は765名。
被告は、安倍晋三・靖國神社・国の3名。
「請求の趣旨」は以下のとおり、3個の請求からなる。
1 (差止請求) 被告安倍晋三は内閣総理大臣として靖國神社に参拝してはならない。
2 (差止請求) 被告靖國神社は、被告安倍晋三の内閣総理大臣としての参拝を受け入れてはならない。
3 (賠償請求) 被告(安倍・靖國・国)らは、各自連帯して、原告それぞれに対し、金1万円及びごれに対する2013年12月26日から支払済みまで年5バーセントの割合による金員を支払え。
分離を求められている政(権力)と教(宗教)とは、公式参拝をめぐっては安倍晋三と靖國ということになる。その安倍には、「靖國神社に参拝してはならない」とし、靖國には「安倍晋三の参拝を受け入れてはならない」とする。この形で、両者の癒着の禁止を命じる判決を求めるのが、第1項と第2項の請求。
そして、安倍と、安倍が代表する国と、靖國との3者に対して、違憲違法な行為によって原告らにもたらされた精神的損害の賠償を求めるのが第3項の請求。
以上の3個の請求を認容するためには、いくつかのハードルを越えねばならない。
担当裁判所は、そのハードルを8個として、次のとおりに整理した。これが各「争点」である。
(1) 本件参拝は公務員が職務を行うについてされた行為といえるか。
(2) 本件参拝は政教分離原則に違反し違法か。
(3) 本件参拝により損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(4) 本件参拝受入れにより損害賠償の対象となり得るような原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか。
(5) 原告らの損害
(6) 被告安倍の個人責任の成否
(7) 本件参拝差止請求の必要性
(8) 本件参拝受入差止請求の適法性及び必要性
このハードルを全部越えることができれば、前記の3個の請求が全部認容されることになる。原告にとって、最大の関心事は、憲法問題としての「(2)本件参拝は政教分離原則に違反し違法か」という点である。他と切り離して、これだけでも真っ先に判断してもらいたいところ。ところが、この8個のハードルの並べ方、つまり判断の順番は裁判所の裁量に任されている。どのような順番でもよいのだ。
だから、憲法判断を真っ先にして違憲であることを確認し、しかるのちに「その他の損害賠償の要件が認められない」「安倍参拝は違憲ではあるが、差し止めの要件が調っているとは言えない」などとして、請求を棄却する判決はあり得る。もちろん、多くの実例もある。
しかし、本件ではそうはならなかった。重い、違憲判断は避けられた。整理された争点の(1)と(2)の判断に裁判所が触れるところはまったくなかった。もちろん、安倍参拝を合憲とは言わない。裁判所は憲法判断を回避した。敢えて言えば逃げたのだ。
裁判所の判断は、もっぱら、(3)と(4)「安倍の本件参拝、ならびに靖國の参拝受け入れにより、原告らの権利又は法律上保護されるべき利益の侵害があったといえるか」に集中することになる。
前述のとおり安倍晋三の靖國参拝が違憲であることは明々白々であるが、問題はそのことを裁判で争うことが出来るかどうか、である。裁判とは、原告の権利が侵害されたときにその回復を求めてするもの。自分の権利侵害ないのに抽象的な法令違反を糺すための制度とはなっていない。だから、安倍の参拝によって法的な意味で各原告らの権利、または法的保護に値する利益の侵害がなければならない。それあると言えなければ、訴訟として成立し得ないことになる。このハードルをクリアーするためのキーワードが、宗教的人格権であり、平和的生存権である。各原告がそれぞれに持っているこの権利(あるいは権利と言えないまでも、法的な保護に値する利益)が侵害されたとの認定がなければ、憲法判断に到達できない公算が高くなる。
したがって、関心はもっぱら被侵害利益の有無に集中する。原告らの主張は、概要以下のようなものだった。
(1) 宗教的人格権の侵害
原告らは、被告安倍の本件参拝及び被告靖國神社の参拝受入れによって、内心の自由形成の権利、信教の自由確保の権利、身近な死者を回顧し祭祀することについての自己決定権を侵害された。
>(2) 平和的生存権侵害
本件参拝等によって、原告らの平和のうちに生きる権利が侵害された。現代社会においては、平和なしにはいかなる個人の権利も実現することができない。平和的生存権に対ずる侵害によって生ずる損害は、人格的生存の根幹に関わるものである。
靖國神社の歴史的経緯等に加え,被告安倍が憲法9条の改正を政治家としての目標に掲げていることからすれば,本件参拝は靖國神社という戦前の軍国主義・全体主義を承認するばかりか、称揚鼓舞する行為である。さらに,被告安倍が,これまでの内閣法制局の見解を無視し集団的自衛権の行使について憲法に反しないと主張している事実、訪米時に「私を右翼の軍国主義青と呼びたければそう呼んでいただきたい」と発言した事実等に鑑みれば,本件参拝は、靖國神社の有していた戦前の軍国主義の精神的支柱としての役割を現在において積極的に活用しようという意図のもと行われた、「戦争の準備行為」にほかならない。
しかし、判決は、安倍の靖國神社参拝によって、原告らに法的保護に値する利益の侵害があったとは認められないとした。
まず、宗教的人格権について。
「原告らは、人が神社に参拝する行為と、内閣総理大臣が靖國神社に参拝する行為は異なるとして、被告安倍が内閣総理大臣として憲法9条の改正等を目標としていることや靖國神社の歴史的経緯等に照らせば、本件参拝及び本件参拝受入れは,大々的に喧伝されることによって,国又はその機関が靖國神社を特別視し, あるいは他の宗教団体に比べて優越的地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ,原告らを含む個人の内心の自由形成、信教の自由確保,回顧・祭祀に関する自己決定に対し,重大な圧迫,干渉を加え,原告らの内心の自由形成の権利,信教の自由確保の権利,及び遺族原告らの回顧・祭祀に関する自己決定権を侵害するものであると主張する。
確かに,靖國神社は,その歴史的経緯からして一般の神社とは異なる地位にあることは認められ、また、行政権を有する内閣の首長である内閣総理大臣の被告安倍が本件参拝をすることが社会的関心を喚起したり,国際的にも報道されるなど影響力が強いことは認めることができる。しかしながら、被告安倍が参拝するという行為は、それが参拝にとどまる限度において,原告らの特定の個人の信仰生活等に対して、信仰することを妨げたり,事実上信仰することを不可能とするような圧迫,干渉を加えるような性質のものでないと解される。
そうであれば,内閣総理大臣の地位にある者が靖國神社を参拝した場合においても,原告らが、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても,これを被侵害利益として,直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」
また、平和的生存権については、次のように言及されている。
「平和に生存する権利の具体的な内容は曖昧不明確であり,認定事実を前提としても、憲法第3章に規定する基本的人権として保障される権利自由とは別に平和的生存権として保障すべき権利,自由が現時点で具体的権利性を帯びるものとなっているかは疑問であり,裁判所に対して損害賠償や差止めを求めることができるとまで解することはできない。
したがって、原告らの主張する平和的生存権を根拠として, 裁判所に対し,損害賠償や差止めを求めることはできないというべきであり,本件参拝及び本件参拝受入れによって, 原告らの平和的生存権が侵害されたとの主張は理由がない。」
超えられなかったハードルは相当に高い。そのことは率直に認めざるを得ないだろう。しかし、原告や弁護団にとっては、想定の範囲のものといってよい。むしろ、裁判所の判断はけっして説得力を持ったものとなってはいない。既にある結論ののための理屈づけにしても、けっして成功していない。今回は実を結ばなかったにせよ、ハードルを超えるための工夫も積み重ねられている。
原告団は控訴の意向である。そして、東京地裁の判決も今秋には出ることになろう。敗訴判決にめげていない、原告団と弁護団の努力に声援を送りたい。
(2016年2月2日)