「言論の正義」とは何か??「DHCスラップ訴訟」を許さない・第84弾
DHCスラップ訴訟の勝訴確定に関して、たくさんの方からお祝いメールをいただいた。そのなかには建設的な提言も真摯な問題提起もある。そんな一通である下記のメールでの問に、自分なりに答えてみたい。
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澤藤さん
第80弾のブログで、「『DHCスラップ訴訟を許さないシリーズ』は、まだ続くとあって、その意気軒高ぶりをうれしく思いました。
そこで、澤藤さんに一つ質問してみたいことがあります。
第80弾の最後に、今回の訴訟がもつ4つの意味があげられています。
1.言論の自由にたいする不当な攻撃である。
2.攻撃された言論は、「政治とカネ」にかんする政治的言論である。
3.また、消費者目線の規制緩和批判である。
4.言論萎縮をねらうスラップである。
この相互に関連する4点は、これまでの弁論と報告集会のなかで、たえず確認されてきたことです。
ところで今日、「言論の自由」「表現の自由」は、きわめて錯綜した状況にあるのではないでしょうか。DHC吉田は、澤藤さんのブログを名誉棄損だとして訴えたわけですし、在特会までが自分たちの「言論の自由」を主張しています。ツイッターでの誹謗中傷は日常茶飯事ですし、ヘイトスピーチをめぐる立法や論争もあります。辺野古埋立てにかんする福岡高裁那覇支部の判決もありました。
こうした状況のなかで、人々は、ともすると、強い者の言論が結局は正義としてまかり通ると思いがちです。そんななかで、澤藤さん、言論の正義とは何でしょう?
そして、憲法が保障する「表現の自由」という権利(法権利)は、この正義とどう関係しているのでしょう?
澤藤さんは、一方で、表現の自由の保障は無害な言論を対象とはしていない、と述べています。それが対象とするのは危険な言論、誰かに害を与えかねない言論です。他方で、言論が実際の力関係のなかに置かれていることも認めていらっしゃる。
公権力、経済力、影響力をもつ者は強者であり、それらをもたない民は弱者であって、力関係によって結びつけられている弱者から強者への批判の言論こそが、自由を保障されねばならない(なぜなら、それはいつも脅かされているからだ)。
したがって、言論の正義とは、踏みつけにされている者の正義、口を塞がれ、言わずにはおれない者の正義ということになるのでしょうか?
2012年都知事選での大河さんの随行員解任事件から、澤藤さんの運営委員解任事件を経て、DHCスラップに至るまで、僕たちは、同じ事件、同じテーマに出会い続けてきたような気がします。
僕がいまだにその答えを正確に見つけることができないでいる、言論の正義とは何か?澤藤さんは、どうお考えですか?
読者D・K
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拙いブログを、丁寧にお読みいただいていることに感謝いたします。
D・Kさんは、「言論の正義とは何か」という形で問を発しています。「人々は、ともすると、強い者の言論が結局は正義としてまかり通ると思いがちです。そんななかで、言論の正義とは何でしょう?」
D・Kさんのいう「言論の正義」には、言論内容には正義と非正義があって、その分類には客観的な基準があるはずだ、という前提がおかれているのだと思います。けっして、すべての言論が「表現の自由」の名の下に、内容の如何を問わず平等に尊重されるべきなどとはいえない。その主張に基本的に賛意を表します。
「誰のどのような言論も自由」と言ってしまうと、DHC吉田にも、在特会にもネトウヨ・ツイッターでの誹謗中傷も、「言論の自由」があって許容されるということになります。しかし、DHC・吉田の言論とは批判者を恫喝して黙らせようというスラップ、在特会の言論とは露骨な民族差別のヘイトスピーチ、そして匿名性に隠れてのネトウヨ・ツイッターでの薄汚い誹謗中傷。彼らのそんな言論に「言論の自由」を語る資格はなく、正義などカケラもないではないか、というご指摘と思います。
そして、辺野古埋立てにかんする福岡高裁那覇支部の判決も、その内容はけっして「正義」として尊重すべきものではない。アベ政権の壊憲論・壊憲論も同様だと思います。
これらの言論がなべて「言論の自由」として相対化されて同じ土俵に乗ってしまうと、あろうことか、結局は「強い者」「権威ある者」の言論が「正義」を乗っ取ってしまうことになってはいまいか。そのことに対するD・Kさんの苛立ちがあるのだと思います。
そのD・Kさんの思いが、「憲法が保障する『表現の自由』という権利(法権利)は、この正義とどう関係しているのでしょう?」という問になっています。多分、「表現の自由などというものは、この現実社会の中で美しい見掛けだけのもの。内実のない嘘っぱちではないのか」「あれもこれも自由と許容してしまうと、行き着くところは、声の大きな強者の言論が正義となってしまう現実があるではないか」という批判が込められているように思われます。
さらに問われているのは、「言論の自由という美名をもってしても正当化されない非正義の言論」というカテゴリーがあることを確認して、いったい言論の正義と非正義を分かつ基準はどこにあるのか、どう分類すべきかということ。
おそらく、そのご指摘は、「言論の自由の正義」を越えて、「正義とは何か」という根本的な問いかけなのだと思われます。
2012年と14年の都知事選において宇都宮陣営がしでかしたことの非正義ぶりについては、既に私のブログ(「宇都宮君立候補をおやめなさい」シリーズ)で徹底して論及しましたから繰り返しません。確認しておくべきは、ここにも小さな部分社会の中での小さな権力者たち(宇都宮健児・上原公子・熊谷伸一郎ら)に、あれこれの名目では糊塗し得ない非正義の言動があったということです。
正義と非正義を分けるものは何か。いくつかの試論が可能かと思います。私は、この社会におけるすべての個人がその尊厳を平等に尊重されるべきことを公理とし、この公理を出発点としてすべての立論を組み立てたいと思っています。個人の尊厳を尊重するとは、生命・身体の安全、精神活動の自由、経済生活における豊かさを増進することを意味します。その個人の尊厳の平等を実現する方向のベクトルをもつ言動は正義、不平等化の方向のベクトルをもつものは不正義、と言ってよいのでないでしょうか。
私のこの物差しは、まず差別を助長する一切の言動を不正義と弾劾するものです。優生思想、民族差別、男女差別、血筋や家柄による差別、障がい者差別、経済格差の助長…。ヘイトスピーチも、その反対に特定の血筋や家柄をありがたがる言動も正義ではありません。
また、当然に人権を侵害する言論も不正義となります。DHC・吉田のスラップは、言論の自由という個人の精神的活動の人権を侵害する言動として、また多くの人の消費生活上の利益を侵害する言動として、また多くの市民の権利擁護の合理的なシステムとしての民事訴訟制度を悪用する言動として、非正義であるというべきでしょう。
問題が大きすぎて回答は雑駁に過ぎますが、せっかくのご指摘また考えてみたいと思います。いったい何が社会的な正義か。法の正義はどうとらえるべきか。そもそも、正義という用語での問題の建て方が有効なのか。正義の言葉で本当は何を語っているのか…。
(2016年10月10日)