どれだけのスラップ訴訟があるのだろうか。なぜ日本でスラップ訴訟が増えているのだろうかー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第87 弾
私自身が被告にされたDHCスラップ訴訟に関連して、発言を求められる機会が多い。あるメディアの編集者から次のような質問を受けた。「なぜ日本でスラップ訴訟が増えているのか」というもの。少し、考え込まざるをえない。
日本でスラップ訴訟が増えていることを当然の前提とした質問で、私もそのような傾向にあるものと印象を受けている。しかし、スラップ訴訟の正確な件数の推移についての統計はない。もとより、スラップの定義が困難な以上、正確な統計を取りようがない。また、世に話題となった「いわゆるスラップ訴訟」は数えられるが、その暗数を推測する方法は考え難い。
私は、DHC・吉田から提訴を受けた際に、これは報道されるに値する大きな問題性を抱えた事件だと思って、主要な新聞各社の記者に取り上げてもらうよう訴えた(産経・読売には行ってない)。しかしどの記者も、おそらく記事にはならないということだった。「その程度の事件はありふれているから」というニュアンスなのだ。
これには少々驚いた。スラップの被告となった被害者は自分で声を上げなければ、スラップ被害を報道してはもらえない。世間は知ってくれないのだ。私は、自ら声を上げる決意を固めて猛然と自前のブログで反撃を始めた。おかげで、私の事件は多少は世に知られるようになった。
DHC・吉田は、同時期に私を含めて自分を批判した者10人に訴訟を提起している。請求額は最低2000万円から最高2億円まで。しかしこのことも、マスメデイアには取り上げられなかった。結局、DHC・吉田から訴えられた10人のうち、声を上げたのは私一人だけだった。DHCスラップ訴訟に限ってのことだが、声を上げた被害者の1人に対して、暗数となった9人の被害者が存在したことになる。
自分がスラップの当事者となってよく分かる。ともかく、早く被告の座から下りたいのだ。騒ぐことで傷口を広げたくない、問題を大きくして引き延ばしたくない。そういう心情になるのだ。明数1に暗数9を加えて、スラップ実数はその10倍。スラップ被害を受けた者の1割だけが声を上げる。そんなところなのかも知れない。
言論萎縮を求めたDHC・吉田の提訴に、私は徹底して闘う決意をした。これは自由な言論を封じようとする社会的圧力との闘いと意識した。闘うことで、スラップの「言論萎縮効果」ではなく、「反撃誘発効果」の成功例を作ろうと考えた。そうして、この不当提訴をブログで猛然と批判し始めた。DHCスラップ訴訟を許さないシリーズである。法廷で闘う以外には、ブログだけが私の武器だった。こんな風に声を上げるスラップ被害者はおそらく稀有の例なのだろう。だから、明数だけを取り出しても、全体数はなかなか推測しがたい。
それでも、スラップ訴訟が今大きく話題となっていることは疑いない。それだけのスラップ実害についての認識が社会的に浸透しつつあるということだ。そのような目立つスラップが増えているとして、その原因はどこにあるのだろうか。
そのひとつは、この社会の「言論対政治的権力」、あるいは「言論対経済的権力」の対立構造において、言論が劣勢になっているからではないかと思う。ジャーナリズム全体が萎縮状況にあると言ってもよい。権力や富者を批判する言論が不活発で、天皇制批判、政権批判、与党批判、財界批判、米国批判における言論の分厚さがなく、やや突出した言論が権力や経済的強者の側から叩かれる。言論界が一致して、これに対抗して表現の自由擁護のために闘うという雰囲気が弱い。こういう状況が、スラップを生む土壌となっているのではないか。
高額請求訴訟の提訴で発言者は黙るだろう。世間も提訴を糾弾することはないだろう。そう思い込ませる空気がある。言論全体がなめられているのだ。
一つ一つの事件で、このような空気を払拭して、言論の劣勢を挽回したい。DHCスラップ訴訟での勝訴はそのささやかな一コマである。
(2016年10月24日)