澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「日本に報道の自由がないとの実感は全くない」との産経社説を憂うる。

下記は、一昨日(6月7日)の産経社説(『主張』)の書き出しの一文である。なんとなくおかしくはないか。私は、思わず吹き出してしまった。が、実は深刻に憂うべき一文なのだ。

 「本紙(註ー産経)もメディアの一員だが、日本に報道の自由がないとの実感は全くない。」

産経に、「報道の自由がないとの実感は全くない」はウソではなかろう。誰からの掣肘を受けることもなく、自由に紙面をつくって販売していられる。日本には満足すべき報道の自由がある。きっと、産経はそう思い込んでいるに違いない。

 しかし、その産経の『自由』は、産経が特定の立場性を有しているからなのだ。権力におもねり、権力に迎合し、権力を称揚し、権力が望む方向に世論を誘導しようとの立場。権力に抵抗する勢力を難じる立場。権力に癒着した権威に平伏してみせる立場。遅れた社会意識が形成する同調圧力を批判することなく、助長する立場…でもある

権力を称揚する立場の言論が権力から掣肘を受けるはずはない。権威に阿諛追従の言論が社会的制裁の対象になるはずはない。また、社会的多数派の同調圧力に迎合していれば自ずから我が身は安泰に違いない。あたりまえのことだ。

要するに、アベ政権を称揚し、天皇制に阿諛追従し、元号使用を肯定し、「日の丸・君が代」強制を当然視し、北朝鮮や韓国は怪しからん、夫婦同姓を貫こう、という立場での報道は、この社会ではなんの障害もなく安心して発信できるのだ。こんなことは、報道の自由の名に値しない。

権力に迎合する表現の垂れ流しなら、中国にも北朝鮮にも、シリアにもあるだろう。そんなものをジャーナリズムとは呼ばないし、報道の自由が保障されているとも言わない。

「報道の自由」、あるいは報道機関に主体を限定しない「言論の自由」「表現の自由」とは、権力が憎む内容の報道をする自由なのだ。政権の耳に痛い言論を述べる自由なのだ。社会の多数派が歓迎しない表現を敢えて行う自由のことなのだ。

資本主義体制を、保守政権を、アベ政権を、そして天皇制を批判する言論の自由こそが、憲法的保護が必要であり、保護を与えるに値する自由なのだ。産経流のアベ政権や天皇制に迎合する提灯報道の垂れ流しをもって「日本には報道の自由がある」などと言うことは、見当外れも甚だしい。

産経の社説は、こう続く。「見当外れの批判には堂々と反論すべきだ。言論と表現の自由に関する国連の特別報告者、デービッド・ケイ氏が、日本では現在もメディアの独立性に懸念が残るとする報告書をまとめ、24日に開会する国連人権理事会に提出する見通しだ。」

産経が懸念するのは、国連の特別報告者デービッド・ケイの国連人権理事会に提出予定の日本の言論と表現の自由に関する報告書」の内容である。

これについての、朝日の報道を引用しておこう。6月6日付の「表現の自由『日本は勧告をほぼ履行せず』国連特別報告者」という見出し。

「言論と表現の自由に関する国連の特別報告者デービッド・ケイ氏が、日本のメディアは政府当局者の圧力にさらされ、独立性に懸念が残るとの報告書をまとめた。「政府はどんな場合もジャーナリストへの非難をやめるべきだ」とした。
ケイ氏は2016年に日本を訪問し、翌年に報告書をまとめて勧告を行った。今回は続報として勧告の履行状況などを報告。政府に対する勧告11項目のうち、放送番組の「政治的公平」などを定めた放送法4条の撤廃、平和的な集会や抗議活動の保護など9項目が履行されていないとした。
今回、ケイ氏からの問い合わせに日本政府は答えなかったとしている。報告書は国連人権理事会に提出され、審議されるが、勧告に法的拘束力はない。」

どうして産経が目くじらを立てるのか理解に苦しむところだが、産経の社説の中に、次の一節がある。

「菅義偉官房長官は『不正確かつ根拠不明のものが多く含まれ、受け入れられない』と述べた。当然である。勧告に法的拘束力はなく、これまでも政府は逐一に反論してきた。」
なるほど、産経の主張とは、政府を代弁する立場なのだ。

また、産経社説はこうも言う。「人権理事会は加盟国の人権の状況を定期的に監視する国連の主要機関だが、恣意的に政治利用されることも多い。米国は昨年、『人権の名に値しない組織だ』などと批判し、離脱した。」
なるほど、産経の主張は、米国とも一致する立場なのだ。

トランプのアメリカが暴論を恣にして、世界の良識から孤立していることは周知の事実である。そのアメリカにアベ政権が追随し、そのアベ政権に産経が追随するの図である。

産経の強弁に拘わらず、日本のジャーナリズムは、政権批判、天皇制批判を語り得ない。明らかに言論の萎縮状況が蔓延している。この言論萎縮状況が、産経の立場からは、日本に報道の自由がないとの実感は全くない」と映るのだ。産経にこんなことを言わせておくジャーナリズムの現状。残念でならない。
(2019年6月9日)

安倍政権の、国民の知る権利侵害を許さない ― 元気の出た院内集会

ご存知「望月衣塑子劇場」が大きな人気を呼んでいる。舞台は官邸記者会見場である。主役は、いかにも正義の味方の、滑舌流暢なヒロイン。これに配する仇役が、いかにも悪玉の菅義偉官房長官とその手下の上村秀紀内閣官房総理大臣官邸報道室長の二人。もちろんこの二人の背後に、大黒幕のアベシンゾーが控えている。

ヒロインは、アベ・スガ一家の悪事を暴こうと果敢に菅に切り込む。これを、上村秀紀が必至になって妨害する。「質問は簡潔に~!」というのが、悪役どもの武器。妨害にめげずにヒロインが奮闘する姿を観衆が一体となって応援している。その拍手が、この舞台のロングランを支えている。

但し、このヒロインも、所詮は宮仕えの身。お抱えの社が配役交替を指示すれば舞台を下りざるを得ない。その会社は、黒幕の動きと観客の反応をともに見ている。ロングラン実現のためには、観客の応援の継続が必要なのだ。国民の多数がヒロインを応援しているぞ、と可視化して見せなければならない。そのための手段の一つとして、法律家6団体が、集会を開いた。望月衣塑子記者個人の問題を超えて、国民の知る権利や民主主義に関わる重大事であることを確認するためでもある。

それが、今夕(4月22日)、衆院第1議員会館での「安倍政権と取材の自由」シンポジウム。「~官邸による取材の自由と国民の知る権利の侵害を跳ね飛ばす院内集会」という副題が付いている。会館の大会議室を満席にした盛会であり、副題のとおりの「跳ね飛ばす」元気の出る集会となった。

集会の趣旨は、「安倍政権による取材の自由侵害を許すな」「特定の記者の質問を封じてはならない」というもの。このことは、民主主義の根幹に関わることとして、看過できない。

民主主義は、報道の自由に支えられて成立する。メディアの取材と報道の自由があってはじめて、国民は知る権利を獲得することができる。国民が国政に関する重要情報を知らずに、主権を適切に行使することはできない。

官邸の記者クラブにおける官房長官記者会見の様子がおかしい。当然に、権力中枢に対する取材では、記者と権力との間に厳しい緊張関係があってしかるべきである。記者とは、政権に不都合な事実を聞き出すことが本来の任務である。政権に迎合するような質問しかしない忖度記者は、似非記者でしかない。あるいは失格記者。権力に迎合する記者は、国民の目からは用なし記者なのだ。

政権側は、記者から不都合な取材あることを覚悟しなければならない。記者会見での不都合な質問にも、誠実に答えなければならない。記者への回答は国民への開示ということ。開示した事実に対する評価は、国民の判断に委ねなければならない。政権が記者会見で、「政権に不都合な質問は控えろ」「そんな記者には、質問させるな」などというのは、もってのほかなのだ。

ところが、安倍政権の姿勢はこのような民主主義の常識とはかけ離れたものとなっている。昨年(2018年)暮れ、菅官房長官会見の司会を担当する官邸側の上村秀紀(内閣官房総理大臣官邸報道室長)は、東京新聞望月衣塑子記者の質問にクレームを付けた。同記者の「辺野古基地工事における投入土砂として、許可条件違反の赤土が使用されているのではないか」という質問に事実上回答を拒否して、内閣記者会に「事実誤認がある」とした文書を示し、「問題意識の共有」を求めるなどとした。これは、安倍政権の傲慢さを示すものというだけてなく、国民の知る権利をないがしろにする重大問題ではないか。

政権が、記者の質問を「事実誤認がある」「問題意識の共有を求める」として、封殺しようとしているのである。こんなことが横行すれば、世は忖度記者ばかり、アユヘツライ記者ばかりになって、国民は知る権利を失い、真実から疎外される。民主主義は、地に落ちる。これは、「跳ね飛ば」さねばならない事態ではないか。

集会第1部の望月衣塑子講演が、「民主主義とは何か~安倍政権とメディア」と表題したもの。詳細な経過報告とともに、政権の理不尽にけっして負けない、という元気を感じさせる頼もしいものだった。

第2部がパネル・ディスカッション。「安倍政権によるメディア攻撃をどう考えるか、どう立ち向かうか」
梓澤和幸(弁護士)、永田浩三(元NHKディレクター)、望月記者の各パネラーの持ち味を引き出すよう、清水雅彦さん(日体大)が上手なコーディネーターを務めた。

そして、6人の現役記者やジャーナリストの連帯・激励の挨拶があった。これがいずれも興味深く、印象に残るものだった。下記に掲載のアピールを採択して、日民協代表の右崎正博さんが、閉会の挨拶をされた。

繰り返されたのが、「この事件を、望月記者対官房長官問題と矮小化してはならない。」「政権の傲慢が国民の知る権利侵害の危機を招いていと認識しなければならない」「元凶は政権の理不尽にある。しかし、それをはねのけるだけのメディアの力量がないことが歯がゆい」「跳ね返すメディアの力は、国民の後押しなくしては生まれない」ということだった。

安倍政権の酷さ醜さが、ここにも露呈している。ここでも、国民の力を結集して闘わなければならない。「望月衣塑子劇場」のヒロインには、まだまだ活躍願わねばならない。

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4.22「安倍政権と取材の自由」集会アピール 

1 2018年12月28日、上村秀紀内閣官房総理大臣官邸報道室長は、内閣記者会宛てに、記者会見における菅義偉官房長官に対する東京新聞望月衣塑子記者の質問(沖縄県辺野古基地工事における赤土問題)について「事実誤認がある」とした文書(以下「内閣記者会宛て文書」という。)を示し、「問題意識の共有」を求めるとしました。
政府の一方的な認識を前提として、質問者から寄せられた事実認識を「事実誤認」と断定し説明や回答を免れることは、何が事実であるかを時の権力者が決め、そして政府の意に沿わない記者を排除することにつながるものであって、決して許されません。
こうした行為が見過ごされるのであれば、記者による取材は大きな制約を受け、国民の知る権利(憲法21条)はないがしろにされ、また、自由な言論によって政治的意思決定に参加する権利も奪われてしまいます。

2 もっとも、本件は唐突になされたものではありません。これまでも、2001年1月NHKのドキュメンタリー番組「戦争をどう裁くか 問われる戦時性暴力」の内容に対し安倍晋三内閣官房副長官(当時)らが介入した事件をはじめとして、2015年5月の自民党によるNHKとテレビ朝日経営幹部への聴取問題、同年6月の沖縄2紙への自民党議員らによる暴言、2016年2月の高市早苗総務大臣(当時)による電波停止発言、2018年9月自民党総裁選に関する「公平・公正報道」要求、2018年通常国会における安倍首相による朝日新聞への執拗な攻撃など、与党・政府によるメディアへの直接間接の介入攻撃事例は後を絶ちません。

3 本日の集会では、本件の直接の当事者である望月氏による講演が行われ、また望月氏とジャーナリストで元NHKプロデューサーの永田浩三氏、弁護士で報道の自由に詳しい梓澤和幸氏の3名によるパネルディスカッションが行われました。さらには、多くのメディア有志による応援スピーチも行なわれました。
それぞれの発言を通じて、与党・政府によるメディアへの介入・攻撃がいかに組織的でかつ巧妙であるかを知るとともに、これら一連の報道の自由の危機は、憲法違反の秘密保護法や安保法制の制定、自民党などのもくろむ明文改憲の動き、「戦争する国づくり」と連動していることも知ることができました。
そして、こうした権力の腐敗や濫用を監視し、暴走を食い止めることこそがジャーナリズムの本来の使命であること、権力からの介入・攻撃に対して、すべてのメディアが連帯してこれを「跳ね飛ばす」ことの重要性を学ぶことができました。
また、この問題を単に望月記者一人への攻撃として捉えるのではなく、メディア全体、ひいては市民への攻撃として理解し、メディアと市民とが共同して反対の声を挙げる運動が重要であるということも学ぶことができました。
与党・政府によるメディアへの介入・攻撃に対して、市民が共同して、「政権によるメディアへの介入攻撃は許さない」、「国民の知る権利と報道、取材の自由を守れ」の声を大きく広げていくことが、今、緊急に求められています。

4 安倍首相がもくろむ明文改憲が争点となる参議院選挙を3か月後に控え、与党・政府によるメディアへの介入とメディア側の一層の「自己規制」「萎縮」「忖度」がとりわけ懸念されます。
こうした事態に対抗すべく、私たちは、今後とも、権力を監視し権力の暴走をくいとめるメディアを応援し、メディアに携わる人々と連帯して憲法の保障する取材の自由を守り抜き、与党・政府からの介入・攻撃を「跳ね飛ばす」ことを誓います。
  そして、私たちは、政府に対して、内閣記者会宛て文書を撤回するよう求めるとともに、今後、取材の自由を最大限尊重し、メディアに対する不当な圧力を加えないことを強く求めます。

以上

2019年4月22日
「4.22安倍政権と取材の自由集会」参加者一同

主催団体  改憲問題対策法律家6団体連絡会
構成団体
 社会文化法律センター          代表理事 宮里 邦雄
 自 由 法 曹 団           団  長 舩尾  徹
 青年法律家協会弁護士学者合同部会 議  長 北村  栄
 日本国際法律家協会         会  長 大熊 政一
 日本反核法律家協会         会  長 佐々木猛也
 日本民主法律家協会         理  事  長 右崎 正博

(2019年4月22日)

嗚呼 天皇礼賛一色 ― 権力とメデイアと学者の”Ugly Harmony”

私は、毎日新聞の長年の愛読者である。そのクォリティと読み易さの工夫に敬意を払いつつ、50年以上も付き合ってきた。その私が、昨今の皇室記事は、気恥ずかしくて読むに堪えない。記者諸君に問いたい。君たちはこんなおべんちゃら記事を書くために、ジャーナリストを志したのか。食うための身過ぎ世過ぎと割り切ってのことなのか。読者を莫迦にして、「読者とはこの程度のものを欲しているから、提供しているだけだ」というのだろうか。天皇の交替に伴う、政権側の演出はまだ始まったばかり。これから先が思いやられる。

なかでも、4月1日以来の新元号フィーバーには驚かざるを得ない。政権の演出を、メデイアが積極的に後押ししてのこの事態。権力とメディアとの “Ugly Harmony”そのものではないか。これは恐い。メディアが、当然に権力を批判するものとは限らない。それは承知だ。産経や読売が政権に擦り寄ることを経営方針としていることには驚かない。令和まんじゅうや令和せんべいにも、令和新撰組などというトンチンカンにも驚かない。クォリティ紙をもって任じる毎日までが…、というのが驚きであり恐しいのだ。

その毎日が、昨日(4月16日)の夕刊ワイドに、ようやく新元号フィーバーを冷めた目で見つめる記事を書いた。「『令和』礼賛一色に疑問」「新元号 礼賛一辺倒だが…」「令和『負』の面にも目を」というもの。もっともその中身は、よくぞ書いたと言うべきか、なんだこの程度かと言うべきか…。

リードは、「世の中が新しい元号『令和』ブームに沸いている。各種の世論調査で7割前後の人が『好感が持てる』と回答。出典となった万葉集にも注目が集まり、関連本の増刷も相次ぐ。だが、そんな『礼賛一辺倒』に疑問を投げ掛ける人もいる。」という、やや腰の引けたもの。

東大史料編纂所の本郷和人(中世史)、青学大の小松靖彦(国文学)による、それぞれの令和論だが、本郷和人の言は極めて常識的な内容。批判の論陣と言うほどのものではない。小松靖彦の言には、「歌集は格下、戦争利用の過去も」と見出しを付けられている。新元号が万葉集を出典としたことを冷静に見て、「海行かば」や「醜の御楯」などの万葉発の言葉が、戦争に利用された過去を忘れてはならないとする。万葉集研究者として、確かな姿勢である。中西進などよりも、数段立派だ。

この夕刊ワイドの結びの言葉がまた、及び腰。「おめでたいムードにケチをつける気は毛頭ない。だが、こうした『負』の部分もしっかり見つめて、新しい時代に踏み出したい」というのだ。こんなカビの生えた古くさい元号で表示される時代を、「おめでたい」「新しい時代」というのか。真っ当な批判が、「おめでたいムードにケチをつける」ことなのか。

そして、本日(4月17日)朝刊に、またまた歯の浮くような皇室記事。「クローズアップ」蘭に、第3面をほぼ全面使っての「両陛下、きょうから最後の訪問」「平成流、地方に寄り添い」という例のごとくの提灯記事。これに、「河西秀哉氏・名古屋大学大学院准教授の話」が、くっつけられている。権力とメディアだけでなく、研究者を加えた”Ugly Harmony”の三重奏。

河西のコメントは、「取り残された地域を重視」「「2人で」戦後定着」というタイトルで、やや長文。冒頭が、「天皇、皇后両陛下の地方訪問を振り返ると、平成に入って社会の格差・分断が進む中、東京に代表される都市部の発展から取り残されている地域を重視しているように映る。被災地や島々に代表される過疎化した地方、基地を押しつけられている沖縄などへの訪問はその傾向が強い。両陛下の訪問によって、こうした地域の人々に『自分たちは忘れられていない』というメッセージが伝わっている。訪問がなければ、結果的にもっと不満が高まっていたかも知れない」というもの。

河西は、こう続けるべきだった。「天皇夫妻は、このようなかたちで格差や分断という社会の矛盾を覆い隠し、底辺の人々の不満をなんの解決もせぬまま宥和する役割を果たしてきた。失政に対する国民の追及や政権に対する抗議の行動を起こさぬように封じ込める安全弁として機能してきたのだ」と。

しかし、河西はそうは言わない。「天皇陛下の考える象徴天皇の本質とは、ただそこにいるということではなく、国民と触れあい、声を聞き、苦楽をともにすること。」と何の批判もなく言ってのける。これが学者の言か、研究者のあり方か。これこそ、曲学阿世の徒と言うほかはない。毎日にして、こんなものを使うのか。嗚呼。
(2019年4月17日)

「時はだれのものなのか」 ― 朝日「改元社説」を評価する

当ブログでは、元号・改元問題をたびたび取りあげてきた。既に20回を超えているだろう。いずれも、元号の存在自体を批判し、その使用強制をあってはならないとする内容のもの。元号を、天皇制による民衆の精神生活支配の小道具ととらえ、「元号は不要」「元号は有害」「改元というイベントに踊らされるな」「時代の区切りを天皇の在位と結びつけて考えてはならない」「こんな不便なものは廃絶せよ」「元号使用強制などとんでもない」と主張するものである。
最近の主なものは、下記のとおり。

この際、新元号の制定はやめよう。
http://article9.jp/wordpress/?p=8393
(2017年4月7日)

永年の読者の一人として「赤旗」に要望します。元号併記はおやめいただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=8367
(2017年4月2日)

真正保守・村上正邦が教える「元号存続の意味」。
http://article9.jp/wordpress/?p=9691
(2017年12月30日)

元号に関する朝日社説を駁する。
http://article9.jp/wordpress/?p=8992
(2017年8月8日)

領土・人民だけでなく、天皇が時まで支配する元号制
http://article9.jp/wordpress/?p=8028
(2017年1月25日)

元号 ― ああ、この不便・不合理にして有害なるもの
http://article9.jp/wordpress/?p=10295
(2018年5月1日)

私の元号に関する言説は、突飛なものでも奇矯なものでも、もちろん過激なものでもない。人権原理と民主制を根本原理とするオーソドックスな憲法体系の理解からは、憲法体系の天皇の存在を可及的に小さなものとして取り扱うことが当然であり、天皇制を支える元号否定は、ごく自然な帰結である。

天皇を不可侵の神聖な存在とする一部の右翼や、いまだに國體の存在にこだわるアナクロ派、そしてこれらの連中を使嗾することで権力を維持している現政権には不愉快なのだろうが、それは、人権原理や民主主義への理解の浅薄なことを表白するに過ぎない。かつては、学術会議も元号廃止を提唱していた。

学術会議の「元号廃止 西暦採用について(申入)」決議の紹介
http://article9.jp/wordpress/?p=9609
(2017年12月16日)

ところが、いまメディアがはっきりものを言わない。菊タブーは健在で、天皇制批判はご法度のごとくである。だから、私のブログ程度の穏健な天皇制批判が、目立つようになってしまっている。

メディアの皇室報道は、舌を噛みそうな敬語を並べたてて、まったく見苦しくもあり聞き苦しくもある。「陛下」も「今上」も死語だと思っていたが、いつからか息を吹き返して至るところに跋扈している。そして、「平成最後の」という枕詞のオンパレード。社説も同じ。「国民生活の利便のために新元号の公表を早く」というのが精一杯で、天皇制と結びついた元号そのものの批判をしない。

下記は、地方紙には珍しく右翼的な論調で知られる北國新聞の本年1月1日号社説である。

 社説 「改元の年に 新しい時代に大きな夢を」
 新しい年が明け、平成最後の正月を迎えた。いつもの年の初めと違う特別な空気感があるのは、4カ月後に新天皇の即位と改元という、歴史の大きな節目が待ち受けているからだろう。
 一つの時代が終わる寂しさと惜別の思い。平成30年間のさまざまな出来事が脳裏を駆け巡る。そこに私たち自身の人生が重なり、懐かしい日々と新しい時代への期待が交錯する。

「平成30年間のさまざまな出来事が脳裏を駆け巡る。そこに私たち自身の人生が重な(る)」というのが、まさしく、天皇制と結びついた元号制の狙いそのものである。国民一人ひとりの人生の推移を、天皇の在位で区切ろうというのが、元号制の本質。これを肯定する右派言論に、リベラル派メディアが切り込んでいないことをもどかしく思っていた。

ようやくにして、昨日(3月21日)の朝日社説が、この点に触れたものとなった。 社説のタイトルは、「『改元』を考える 時はだれのものなのか」というもの。「時はだれのものなのか」とは、「天皇のものではない、自分自身のものだ」という含意。天皇の都合で、勝手に「時」を区切らせてはならない、ということなのだが、さすがに朝日。物言いの品が良い。そのようにはっきりとは言わない。

その全文は下記でご覧いただくとして、要約は下記のとおりである。      https://www.asahi.com/articles/DA3S13942702.html?

 もうすぐ新たな元号が発表される。
 朝日新聞を含む多くのメディアは「平成最後」や「平成30年間」といった表現をよく使っている。一つの時代が終わり、新しい時代が始まる、と感じる人も少なくないだろう。
 でも、ちょっと立ち止まって考えてみたい。「平成」といった元号による時の区切りに、どんな意味があるのだろうか。そもそも時とはいったい何なのか。誰かが時代を決める、あるいは、ある歳月に呼び名が付けられることを、どう受け止めればいいのだろうか。
 歴史を振り返れば、多くの権力は、時を「統治の道具」として利用してきた。
 日本の元号も、「皇帝が時を支配する」とした中国の思想に倣ったものである。
 元号には独特なところがある。「改元」という区切りがあるからだ。日本では明治以降、一代の天皇に一つの元号という「一世一元」の仕組みも出来た。天皇が即位することで、起点はその都度、変わる。
 1979年に現在の元号法が成立した際、元海軍兵士の作家、渡辺清は日記に書いた。
 「天皇の死によって時間が区切られる。時間の流れ、つまり日常生活のこまごましたところまで、われわれは天皇の支配下におかれたということになる」(『私の天皇観』)
 時の流れをどう名付け、区切るかは、個々人の自由の営みであり、あるいは世相が生み出す歴史の共有意識でもあろう。
 人生の節目から国や世界の歩みまで、どんな時の刻みを思い描くかは、その時その時の自らの思考や視野の範囲を調整する営みなのかもしれない。
 もちろん元号という日本独自の時の呼び方があってもいい。ただ同時に、多種多様な時の流れを心得る、しなやかで複眼的な思考を大切にしたい。
 時を過ごし、刻む自由はいつも、自分だけのものだから。

 もちろん(というべきだろう)、元号否定ではなく、元号に対する意識の相対化を論じるレベルのものだ。しかし、明らかに半歩の前進である。この論調を評価し歓迎する。
(2019年3月22日)

菅官房長官発言「あなたに答える必要はありません」の「あなた」とは、主権者国民のことだ。

昨日(2月26日)午後の記者会見で、菅官房長官は東京新聞望月衣塑子記者に対して、「あなたに答える必要はない。」と言い放った。何という傲慢な態度。「あなた」とは、耳に痛い質問をする国民すべてのことだ。望月記者は多くの国民を代弁して権力に切り込んでいる。その質疑によって、国民は国政の真実を知りうるのだ。首相や官房長官の耳に心地よい質問だけでは、国民が真に知りたいことは聞けないではないか。

この官邸の望月記者排除問題は看過し得ない。ここが権力対ジャーナリズム対立の最前線になっている。ここでの攻防が、国民の知る権利に影響を及ぼす。多くの声明文が指摘しているように、日本のメディアが結束して事に当たらないと、大本営発表ジャーナリズムに堕しかねない。

まず経過を簡略に振り返っておこう。
昨年(18年)12月26日官房長官記者会見がことの発端である。問題は、辺野古埋立の赤土問題だった。

望月記者:沖縄辺野古についてお聞きします。民間業者の仕様書には「沖縄産の黒石岩ズリ」とあるのに、埋め立ての現場では赤土が広がっております。琉球セメントは県の調査を拒否していまして、沖縄防衛局は「実態把握ができていない」としております。埋め立てが適法に進んでいるのか確認ができておりません。これ、政府としてどう対処するおつもりなのでしょうか。

菅官房長官:法的に基づいてしっかりやっております。

望月記者:「適法がどうかの確認をしていない」ということを聞いているのです。粘土分を含む赤土の可能性が指摘されているにもかかわらず、発注者の国が事実確認をしないのは行政の不作為に当たるのではないでしょうか。

菅官房長官:そんなことはありません。

望月記者:それであれば、政府として防衛局にしっかりと確認をさせ、仮に赤土の割合が高いのなら改めさせる必要があるのではないでしょうか。

菅官房長官:今答えた通りです。

誰がどう見ても、望月記者の質問に責められるべき点はない。国民の知る権利を代弁する立派な姿勢と言って良い。これに対する官房長官答弁のいい加減さ、お粗末さが際立つ問答ではないか。「今答えた通りです。」って、そりゃなかろう。何も答えていないではないか。

官房長官側のみっともなさに苛立った首相官邸は、望月記者の牽制を図ろうと姑息な手を使った。暮れの内に、内閣記者クラブに、望月記者を牽制するための「申し入れ」を行ったのだ。このことが、年が明けてから明らかになった。

こう報じられている。「東京新聞・望月記者を牽制  記者クラブに異様な『申し入れ書』」(選択)
首相官邸からの申し入れ書が話題になっている。昨年末、内閣記者会の加盟社に上村秀紀・総理大臣官邸報道室長の名前で届いた文書は、官房長官会見での特定の記者の言動をクラブとして規制しろといわんばかりの内容だった。
文書では「東京新聞の特定の記者」による質問内容が事実誤認であると指摘。そして会見がネット配信されているため、「正確でない質問に起因するやりとり」は「内外の幅広い層の視聴者に誤った事実認識を拡散」させ、「記者会見の意義が損なわれる」と訴える。
仮に事実誤認なのであれば、そう回答すればいいようなものだが、この「特定の記者」が望月衣塑子氏であることは明白。要は望月氏の質問を減らせとクラブに申し入れているようなものなのだ。
同文書は最後に、「本件申し入れは、記者の質問の権利に何らかの条件や制限を設けること等を意図していない」という言い訳で終わる。よもや、圧力に屈するメディアなどいないとは思うが……。

この件は、国会でも問題となった。

東京新聞自身がこう報じている。
「野党、衆院予算委で批判」
沖縄県名護市辺野古(へのこ)の米軍新基地建設に関する本紙記者の質問を巡り、首相官邸が「事実誤認」「度重なる問題行為」と内閣記者会に文書で伝えた問題で、国民民主党の奥野総一郎衆院議員が12日の衆院予算委員会で、「記者会という多くの新聞社が集う場に申し入れるのは、報道の萎縮を招くのではないか。取材の自由への干渉だ」と批判した。
本紙記者は昨年12月の菅義偉官房長官の記者会見で、「埋め立て現場では今、赤土が広がっており、沖縄防衛局が実態を把握できていない」と質問した。
奥野氏は質疑で、埋め立て用土砂の写真パネルを示しながら「これを見ると赤い。県は調査したいと言ってるが、防衛省は赤土の成分検査を認めていない。それを事実誤認だと言えるのか」と問いただした。
官房長官は「(質問には)今回もこれまでも事実と異なる発言があり、新聞社には抗議をしている。記者会見の主催は内閣記者会であり、何回となく続いたので記者会にも申し上げた」と回答した。
奥野氏は「事実に反することを記者会見で聞くなというのは民主主義国家にあってはならない」と安倍晋三首相の見解を求めた。
首相は「知る権利は大切なもので尊重しなければならない。内閣の要の人物が一日2回(記者会見を)やっているのは他の国に例がないだろう。こちらも最大限の努力をしていると理解してほしい」と答えた。

2月20日には東京新聞が「検証と見解」とする1ページの特集を掲載した。
その中で、この記者の質問をめぐり、2017年8月から今年1月までの間に、官邸から9回の申し入れを受けたとし、その内容と回答の一部を明らかにした。

以上の経過を経て、昨日(2月26日)の記者会見に至る。

時事通信によれば、菅義偉官房長官と東京新聞記者による記者会見でのやりとりは次の通りである。

【午前】
記者 上村(秀紀首相官邸報道)室長の質問妨害について聞く。1月の(自身の)質疑で1分半の間に7回妨害があった。極めて不平等だ。妨害が毎回、ネットで拡散されることが政府にとってマイナスだと思っていないのか。

長官 妨害していることはあり得ない。記者の質問の権利を制限することを意図したものでは全くない。会見は政府の公式見解を(記者の)皆さんに質問いただく中で国民に伝えることが基本だ。だから経緯(の説明)ではなく、質問にしっかり移ってほしいということだ。

記者 妨害ではないというのは事実誤認ではないか。非常に違和感がある。政府が主張する事実と取材する側の事実認識が違うことはあって当然だ。今後も政府の言う事実こそが事実だという認識で、抗議文をわが社だけでなく他のメディアにも送るつもりか。

長官 事実と違う発言をした社のみだ。

【午後】
記者 午前中は「抗議は事実と違う発言をした社のみ」とのことだったが、(東京新聞に首相官邸が出した)抗議文には表現の自由(にかかわる内容)に及ぶものが多数あった。わが社以外にもこのような要請をしたことがあるのか。今後も抗議文を出し続けるつもりか。

長官 この場所は質問を受ける場であり、意見を申し入れる場所ではない。明確に断っておく。「会見の場で長官に意見を述べるのは当社の方針でない」。東京新聞からそのような回答がある。

記者 会見は政府のためでもメディアのためでもなく、国民の知る権利に応えるためにある。長官は一体何のための場だと思っているのか。

長官 あなたに答える必要はない。

あるジャーナリストが、ネットに、以下のとおりの「東京新聞記者、質問全文書き起こし」(午後の会見につて)を掲載している。

東京新聞記者 「官邸の東京新聞への抗議文の関係です。長官、午前(の記者会見で)『抗議は事実と違う発言をした社のみ』とのことでしたけども、この抗議文には、主観にもとづく客観性、中立性を欠く個人的見解など、質問や表現の自由におよぶものが多数ありました。我が社以外のメディアにもこのような要請をしたことがあるのか? また、今後もこのような抗議文を出し続けるおつもりなのか? お聞かせください」

菅官房長官 「まずですね、この場所は記者会見の質問を受ける場であり、意見を申し入れる場所ではありません。ここは明確に行っておきます。『会見の場で長官に意見を申し入れるのは当社の方針でない』。東京新聞から、そのような回答があります」

東京新聞記者 「今の関連ですけども、抗議文のなかには森友疑惑での省庁間の協議録に関し、『メモあるかどうか確認して頂きたい』と述べたことに、『会見は長官に要望できる場か』と抗議が寄せられましたが、会見は政府のためでも、メディアのためでもなく、やはり国民の知る権利に答えるためにあるものと思いますが、長官はですね、今のご発言をふまえても、この会見は一体何のための場だと思ってらっしゃるんでしょうか?」

菅官房長官 「あなたに答える必要はありません」

官房長官の答弁は、「その件についてはお答えできない」ではない。「あなたに答える必要はありません」だ。答える必要がないという理由は示されていない。安倍首相の「こんな人たち」発言が連想される。耳に痛いことを言う市民、聞かれたくないことを聞き出そうとするジャーナリストには、きちんと向かい合おうとはしないのだ。

いうまでもなく、行政には説明責任がある。ことは、辺野古の埋立問題。国民の関心事ではないか。埋め立ての現場では赤土疑惑を否定する官邸の側にこそ「事実誤認」がある、いやウソとゴカマシがある、という思いは国民の中に根強い。これを質すのがジャーナリズムの役割であり、官房長官は逃げてはならない。

立憲民主党の辻元清美国会対策委員長は27日、「記者に圧力をかける。誠実に答えない。官房長官として失格だ」と批判。国民民主党の玉木雄一郎代表は「説明責任を果たす人間は、どんなときでも丁寧に、その先に多くの多くの国民がいるとの思いで答えるのが大事だ」と指摘した(朝日)。と報じられている。まったくそのとおりではないか。
日本ジャーナリスト会議の抗議声明を付しておきたい。
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◎ウソとごまかしの政権に抗議し「報道の自由」の保障を求める

 日本ジャーナリスト会議は、官邸記者クラブ攻撃をはじめとする安倍政権の「報道の自由」「取材の自由」への干渉、攻撃と、あらゆる問題でみられる説明拒否・ウソとごまかしの姿勢に抗議し、国民の「知る権利」を代表して活動するメディアと記者に心からの激励を送ります。
 首相官邸は昨年12月28日、東京新聞の記者の質問について、「事実誤認」「度重なる問題行為」と断定し、「問題意識の共有」を求める申し入れをおこないました。
 この行為は、森友・加計学園問題、自衛隊の日報問題から、決裁文書の偽造・変造、労働統計の偽造まで、国政の重要問題でウソとごまかしに終始してきた官邸が、記者を狙い撃ちして報道規制を図ろうとしたもので、およそ民主主義社会では許されないことです。
 主権在民の民主主義社会では、政権担当者は、常に国民の意見を聞き、民意に沿った政治が進められていかなければなりません。そのためには、社会状況がどうなっているか、政権がどう判断しているかを含め、あらゆる情報が開示され、国民の判断に役立つ状態にあることが必要です。
 国民の「知る権利」とはまさにそのことであり、為政者には国民に対する 「知らせる義務」 があり、メディアは、その状況を逐一報道する責任を負っています。
 内閣記者会と首相官邸の間には、政治家・官僚とメディア・記者の間で積み上げられた古くからの約束や慣行がありました。しかし安倍内閣は、第2次政権以降、勝手にこれを破り、自分たちに都合がいい形に作り替えようとしています。
 首相がメディアを選別する新聞インタビューやテレビ出演、特定のテーマで一方的にPRするためのぶら下がり取材を続けることと並んで、菅官房長官の記者会見では特定の社の記者の質問中に、官邸報道室長が数秒おきに「簡潔にお願いします」と妨害し、質問の内容が「事実誤認」と誹謗・中傷するような申し入れをするなど個人攻撃と思われる行為をしています。
 これは単に当該の社や記者に対するものではなく、「報道の自由」「取材の自由」と国民の「知る権利」に対する攻撃です。
 既に国会では、森友、加計学園問題での首相や政府側答弁のウソとごまかしが大きな問題になっています。同様に、官邸の記者会見では、重要な指摘に対し、「そんなことありません」「いま答えた通りです」などとまともに答えず、国民に対して問題を解明し、説明しようという真摯な姿勢は全く見られない状況が続いています。
 記者の質問が当たっていないのなら、なおのこと、ひとつひとつ時間を掛けて説明し理解を求めるのが、本来のあり方であり、説明もしないで、「誤り」と決めつけ、取材行為を制限し、妨害する行為は、ジャーナリズムと国民の「知る権利」に対する卑劣な攻撃です。
 日本のジャーナリズムは、かつて、「真実」を報道させない報道規制と、言い換えやごまかしから、やがて全くの偽りに至った「大本営発表」によって、国民の判断を誤らせ、泥沼の戦争に率いられていった痛恨の歴史を持っています。
 私たち、日本ジャーナリスト会議は、安倍政権が憲法の諸原則や立憲主義の基本を捨て、かつての戦争への道をたどりかねない状況にあることを恐れ、「報道の自由」「取材の自由」と「知る権利」への攻撃に改めて抗議し、官邸の猛省を促すとともに、広く国民のみなさまが、現状を理解し、私たちとともに声を上げていただくよう訴えます。
2019年2月8日

                     日本ジャーナリスト会議(JCJ)

(2019年2月27日)

イエス・ワコール、ノー・DHC

「『実習生の人権侵害ないか』ワコール、委託先に異例調査」「人権軽視は経営リスク…実習生制度に批判、企業も危機感」という本日(10月15日)の朝日デジタル記事。これは立派なものだ。まずは、ワコールに敬意と賞讃の意を示したい。そして、いち早くこのことに着目して記事にした朝日にも敬意を表さねばならない。

私はワコールという企業についてほとんど何も知らない。ブランドイメージの認識もない。しかし、外国人技能実習生の人権に配慮することで、ブランドイメージを維持し向上しようという、この企業の姿勢を好もしいと思う。ヘイト丸出しのDHCとは、月とスッポン、提灯と釣り鐘、それこそ雲と泥との差。民主主義国日本の消費者は、コンプライアンス重視のワコールの経営を順調に育てなければならない。また一方、在日差別を広言してスラップを濫発するDHCの経営に懲罰を与えなければならない。そのような消費者の企業選択の行動を通じて、よりよい社会の構築がはかられるのだ。

朝日はこう報じている。

 女性下着大手のワコールホールディングス(HD、本社・京都市)が、自社製品の製造工程にかかわるサプライチェーン(製品供給網)に、外国人技能実習生の人権を侵害している会社がないかどうかの調査を始めた。賃金不払いなどの不正行為があれば改善を求める。応じない場合は取引そのものを見直す。

 グループ会社にとどまらず、製品の調達元までさかのぼって外国人を人権侵害から守ろうという取り組みは日本の企業では異例だ。技能実習制度への批判が国内外で高まるなか、人権を軽視すれば企業ブランドに傷が付きかねないリスクが企業を動かしたかたちで、同様の動きが他企業に広がる可能性もある。

 調査は、ワコールHD傘下のワコールとルシアンが今夏から始めた。主力の下着ブランド「ワコール」「ウイング」の国内の生産委託先60工場のうち、外国人労働者が働く約40工場が対象で、計538人の技能実習生が働く。40のうち32工場はグループと資本関係がない取引先だ。

 ワコールHDの社員らが全国の工場を訪ね、「この3年間に労働基準監督署などから是正勧告を受けていないか」「実習生の労働時間はタイムカードなど客観的な記録があるか」「賃金は最低賃金額以上を払っているか」など約25項目をチェックする。

 工場側には、実習生との雇用契約書、労働条件通知書など約30の書類を用意してもらう。実習生の受け入れ窓口となっている監理団体が、企業を監査した結果を記した報告書もチェックする。同社は「現場の責任者に実習生の人権に関して意識を高めてもらうのが狙い」と説明する。

 調査は年度内に終える予定。不正行為があれば見直しを求め、隠したり改善指導に従わなかったりすればサプライチェーンから外し、取引を打ち切る場合もある。

さて、ワコールはどうしてこのような「異例の」決断をして調査に乗り出したのか。
今春、ワコールHDのグループ会社の生産委託先で実習生に対する賃金未払いの疑いが浮上。『人権重視』を掲げていた同社は、経産省の要請に応じて、先陣を切って大規模調査に踏み切った」のだという。

ワコールHDのコメントが引用されている。「ブランドに対する信頼は想定以上にもろい。サプライチェーンに、技能実習生受け入れ企業を迎えるリスクを認識する必要がある」(IR・広報室)というもの。

「ブランドに対する顧客の信頼」が「人権重視」にかかっているという認識なのだ。ワコールホールディングスのホームページを開いてみた。CSRのコーナーがたいへん充実している。
(CSRとは、corporate social responsibilityの略語。企業の社会的責任と訳される)
https://www.wacoalholdings.jp/csr/index.html

経済・環境・社会、
すべてにおいて、持続可能な未来のために。
社会から存在を期待される企業で
あり続けるために。

企業においては、商品やサービスをお客さまに提供するだけでなく、
環境への配慮、社会への積極的な貢献、そして法令遵守や人権尊重といった、
「企業も社会を構成する一員」であることを自覚した活動が求められています。

人権の尊重 人を大切に
「ワコールの行動指針」では、人権に関して次の方針を明示しています。
人権を保護し、個人を尊重します
安全、清潔、快適な職場環境を維持します
安全な商品を企画、研究・開発し、生産、販売します

個人の尊重
ワコールはお互いの人権を守り、人としての品格を備え、切磋琢磨し、深い人間愛に満ちた集団であることを目指します。個人を尊重し、従業員の持つ多彩な能力と多様性を、最も価値のある資産のひとつとして、自律型人間集団を作ることを目指しています。

職場での差別の禁止
職場においては、すべての人が公正に処遇されなければなりません。国籍、人権、皮膚の色、宗教、性、性的傾向、年齢、家系、出身地、知的および身体的障がい、健康上の問題、社内での地位、その他、人権に係わるすべての不当な差別や嫌がらせを絶対に許さず、厳重に処分することを定めています。
 
地域の活動に参加
京都人権啓発企業連絡会に加盟し、積極的に人権啓発運動に参加しています。また、京都人権啓発企業連絡会による「人権に関するビデオ」を用いて、新入社員教育を行っています。

セクシャルハラスメント、パワーハラスメントへの取り組み
ワコールグループにおいては、「相互信頼」の精神のもと、従業員全員が、社内はもちろん、社会の人々に信頼される人間たることを、強く願い求めてきました。「個人の人格権に関わる基本方針と取り組みについて」通知をおこない、未然に防止し、排除する体制を整備しています。
個人としての尊厳を不当に傷つける社会的に許されない行為であるとともに、従業員の能力の有効な発揮を妨げ、会社にとっても職場秩序や業務の遂行を阻害し、社会的評価に影響を与える問題と認識しています。
禁止行為及び取り組み事項を定めるとともに、通報者である従業員のプライバシーを保護し、相談・苦情による不利益な取り扱いを受けることがないように十分配慮をしています。
各事業所には、相談・苦情窓口を設置しており、社内ホットラインの利用も含め、誰でも遠慮なく相談することができます。また、苦情や相談内容についての秘密やプライバシーは固く守られ、迅速で的確な対応がとられています。
人事部の相談・苦情窓口担当者が外部研修に参加し、対策立案に役立てています。
意識啓発と未然防止等を目的に、管理職層対象研修を実施しています。
年2回、「セクハラ・パワハラ防止体制について」の通知をイントラネット上で行い、周知を図っています。
 
安全な商品(消費者の権利)
お客さまの視点に立った安全性の高い商品は、ワコールにとって当然の責務であり、消費者の人権を尊重し、安全・安心を大切にし、また信頼される対応を心がけます。

これまで知らなかったが、ワコール立派なものではないか。これに比較する目で、DHCのホームページを眺めてみよう。
https://top.dhc.co.jp/company/jp/
みごとなまでに何にもない。IRも、企業倫理も、CSRもまったくないのだ。あるのは商品宣伝だけ。儲け以外には、なんの関心も示されていないのだ。

朝日よ。ワコール賞讃の記事を書くだけでは、不十分ではないか。きちんと、ヘイト企業DHCを取材して、その実態を報道してはどうだ。朝日が書けなければ、志あるジャーナリストよ、出でよ。
(2018年10月15日)

祝・「植村隆氏、金曜日の社長に就任」

「植村裁判を支える市民の会」のホームページが素晴らしく充実している。支援の質の高さを示して、さすがというほかはない。URLは以下のとおり。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトの昨日(9月26日)の記事に驚いた。「植村隆氏、金曜日の社長に就任」というもの。 金曜日とは、言わずと知れた「週刊金曜日」を発行する「株式会社金曜日」のこと。同誌は、これまでも植村訴訟支援の姿勢を堅持してきた。とは言うものの、植村さんがその出版社の代表取締役社長兼発行人に就任なのだ。私には、思いもよらなかったこと。明日(9月28日)、就任の記者会見をするという。

まずは、目出度い。祝意を述べねばならない。植村さんは、今わが国に跋扈している極右似非ジャーナリズムとの対峙の最前線に位置する人。政権ヨイショの御用文化人との厳しい対立関係にもある。その人が、孤立するどころか、有力メディアの代表者になった。植村裁判支援の輪も広がるだろうし、週刊金曜日の新たな読者層の開拓も可能になるだろう。それは目出度い。

とはいえ、目出度いばかりでもなかろう。雑誌メディアの経営は、今どこも順調ではない。もしかしたら、植村さんには経営環境改善の手腕を求められているのかも知れない。そうであれば大変なことだが、応援もしなければならない。

 

ところで、植村さんが原告となっている訴訟は2件ある。最初の提訴が東京地裁、次いで札幌地裁。いずれの訴訟も最終盤、間もなく判決期日を迎える。

東京訴訟の提起は2015年1月9日。朝日新聞の植村執筆記事を「捏造」とする西岡力(東京基督教大学教授)と、文芸春秋社を被告としての名誉棄損損害賠償請求訴訟。文芸春秋社が被告になっているのは、植村さんを捏造記者と決めつけてバッシングの端緒なったのが週刊文春の記事であったから。次回11月28日第14回口頭弁論で結審の予定。

札幌訴訟提起は15年2月10日。櫻井よしこと、週刊新潮、週刊ダイヤモンド、月刊WiLLの発行元3社を被告とする同様の損損害賠償請求。本年(2018年)7月6、第12回口頭弁論期日をもって結審。11月9日(金)午後3時30分判決言渡しの予定である。

「支える会」は、2016年4月12日付で「設立趣意書」を公表している。
「植村さんとともに、さらに前へ」というタイトル。「さらに前へ」という呼びかけは、下記の共同代表7氏によるもの。
上田文雄(前札幌市長、弁護士)
小野有五(北海道大学名誉教授)
神沼公三郎(北海道大学名誉教授)
香山リカ(精神科医)
北岡和義(ジャーナリスト)
崔善愛(ピアニスト)
結城洋一郎(小樽商科大学名誉教授)

この呼びかけ文の抜粋で、事態を理解することができる。

 発端は、週刊文春2014年2月6日号の記事「”慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」でした。転職先に決まっていた神戸松蔭女子学院大学に抗議が殺到、植村さんは教授就任を断念せざるを得なくなりました。14年5月からは、非常勤講師を務める北星学園大学にも「国賊をやめさせろ」「学生をいためつける」など脅迫・嫌がらせのメールや電話が押し寄せ、ネット上に植村さんの長女(当時17歳)の写真と実名がさらされ「自殺するまで追い込むしかない」などと書き込まれる事態になりました。

 「大学、植村さん家族を脅迫から守ろう。私たちも北星だ」と立ち上がったのは市民です。北星学園大学に応援メッセージを送るなど大学を励ます「負けるな北星!の会」(略称・マケルナ会)には国内外の1000人が加わりました。全国の400人近い弁護士が脅迫者を威力業務妨害罪で札幌地検に刑事告発するなど、支援の輪は大学人、宗教者、市民グループ、研究者、弁護士、ジャーナリストなど各界に広がっていきました。この応援を力に、北星学園大学は14年12月、植村さんの次年度雇用継続を決めました。

 植村さんは「私は捏造記者ではない」と手記や講演で反論を続けています。朝日新聞の第三者委員会、歴史家、当時取材していた記者らによって完全否定されても、「捏造」のレッテル貼りは執拗に続いています。

 この間の異常ともいえる植村さん攻撃は、基本的人権、学問の自由、報道・表現の自由、日本の民主主義に向けられています。女性が生と性を蹂躙された日本軍「慰安婦」を、なかったことにし、歴史を書き換え、ものを言わせぬ社会に再び導こうとする黒い意志を、見逃すわけにはいきません。この裁判が植村さんの名誉回復のみならず、私たちの社会の将来に大きな影響を及ぼすと考える所以です。

 札幌訴訟が先行して証拠調べを実施し、櫻井よしこ尋問で、そのウソが明らかとなった。東京訴訟でも西岡力のウソが暴かれている。ウソで、人を「捏造記者」と決めつけ、恐るべきネット右翼のバッシングの導火線となったのだ。

以下は、「支える会」ホームページの本日(9月27日)付「西岡氏の批判広がる」の転載である。この訴訟に関心をよせていた人たちの櫻井・西岡に対する批判。植村バッシングとは何であるか。この問題の多面性が浮かびあがってくる。

以下は9月26日午後3時現在の#西岡力についてのタイムラインからの抜粋である。このほかに、中島岳志、平野敬一郎氏らの本文なしリツイートも多数ある。

※抜粋にあたっては、ツイート本文の一部を削ったものもある。
https://twitter.com/search?q=%EF%BC%83%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&src=typd
■望月衣塑子
めちゃくちゃである。何の学術的裏付け、根拠もないまま植村氏を批判。結果、植村氏や家族や大学は誹謗中傷、脅迫に晒され続けた。その罪はあまりにも重い
■佐藤 章
この裁判記事によれば西岡力はほとんど捏造じゃないか。自分が捏造しておいて他者を捏造呼ばわりするのは学者として人として失格だろう。恐らくは櫻井よしこもそうだろう。植村隆は捏造などするような人間ではない。西岡と櫻井は、記者会見を開いて謝罪すべきだ。
■masa
慰安婦問題を少しかじったら誰もが知ってる名前だろう。そして、裁判で捏造を認めた、この人物は北朝鮮拉致被害者の「救う会」の会長でもある。では「家族会」は?一緒に多くの集会を開いているだろうから、YouTubeででも確認するとよいかもしれない。
■細かい情報?
西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。
■まりーべる321
#ヤフコメ が酷いですね。 #ネトウヨ さん達、いい加減にして欲しいです。
■World Peace Productions
#西岡力 本当に学者なのか?恥を知れ嘘つき野郎
■Hiroshi Takahashi
櫻井よしこさんも自分がウソ吐いたのを白状したし、西岡力さんも自分がウソ吐いたの白状したし、阿比留瑠比さんも自分の矛盾をアウェーの植村隆さんに突っ込まれて白旗上げたし、これだけウソ吐きのウソがばれてるのに、ウソを信じたい人たちは目を覚まさないんだよなー。
■佐藤 章
植村隆はぼくの昔の同僚だが、捏造などするような人間では決してない。人間である以上細かいミスはあるだろうが、優秀なジャーナリストであることは間違いない。捏造は、櫻井や西岡である。お仲間の杉田や小川のレベル、人間性を見てもよくわかる。
■渡辺輝人
酷いな。歴史修正主義って、日本語だと、修正なんて生易しいものじゃなくて、歴史の意図的改ざんなんだよね。
■ Hiroshi Takahashi
櫻井よし子に続いて右派の連中、ボロボロやんかw。
■想田和弘
シャレにならんな。→『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
■ソウル・フラワー・ユニオン?
西岡力。櫻井よしこといい阿比留瑠比といい、嘘をつきまくって結局白旗。汚辱にまみれたカルトの不誠実な人生。
■能川元一
西岡力も櫻井よしこも、実に軽々しく「捏造」という非難を他者に浴びせてきたから、自分たちのミスを「捏造」呼ばわりされても自業自得なんだよね。
■宋 文洲
嘘吐きはウヨの始まり
■m TAKANO?
植村隆裁判で、事実に基づいた緻密な追求によって櫻井よしこに続いて西岡力も白旗を揚げざるを得ない状況に追い込まれた。いわゆる右派論客こそ捏造だらけであることが、この裁判を通じて明らかにされた。
■北丸雄二
「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力、捏造だったって。
■森達也(映画監督・作家)
ここまでの展開はさすがに予想できなかった。思想信条は違っても尊敬できる人であってほしいのに、下劣すぎる本質がどんどん顕わになる。
■tany
<西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めた> って、間違いじゃなくて<嘘をついた>だよね。 櫻井よしこやネトウヨはどうするんだろう。
■hiroshi ono
なんか、最近YuTubeでも歴史改ざんやヘイトまき散らす(自称)保守系ネット番組が相次いで締め出されたり、新潮の雑誌が休刊に追い込まれたり、櫻井よし子や今回の西岡力が裁判で自ら捏造デマ流してたこと認めたり、潮目が変わって来た感じ。日本の自浄作用に期待します。
■西大立目
結局「捏造」してるのは朝日叩いてる連中なんですよね。 小川榮太郎とか櫻井よしことか西岡力とか そしてコイツラは未だに「保守論壇誌」だの「産経新聞」だので朝日叩きのお仕事継続中
■デマを生む人信じる人の思考回路研究?
「慰安婦問題」を否定する人々の拠り所とされてきた西岡力氏の言論。西岡氏は、元朝日新聞記者の植村隆氏の書いた慰安婦記事は捏造だ?と言い続けてきた。しかし実際は逆で、西岡氏の方が自らの言論に都合よく事実を捏造していたことを東京地裁で認めた。
■you u you
これホントだったら大変なことだと思うんだけど。植村さんを叩いている人達は西岡さんに事実確認したほうがよくない?
■Kawase Takaya
人を嘘つき呼ばわりしていた奴が本当に嘘つきだった。これで事の理非が分からなければ、病膏肓に入るとしか。
■スワローヲタフク
西岡力って、確か「救う会」の会長で、アベのブレーンだよな。まさに、アベ政権に「巣食う会」になりましたとさwww
■河原 淳
櫻井よしこに続いて西岡力もー。 安倍首相を取り巻く右派論客のウソが次々に暴かれている。平然とウソをつき、他人を容赦なく攻撃し排斥する。安倍首相にも通じる。
■akabishi2
司会は櫻井よし子。救う会会長は西岡力。植村裁判で実質的に「捏造」を認めた2人が、拉致被害者の運動に深く関わっているのは偶然でもなんでもないことは、普通に考えればわかることなのに、誰もそのことを口にできないし書けないもんなー
■清水 潔
おいおい。 西岡氏は、植村氏の記事に対し「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメント。 しかし尋問で問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。
■T-T
櫻井よしこも西岡力も裁判でデマを認めて、いま沖縄知事選でデマが飛び交っていると問題になっているけど与党候補からはデマで困っているという声は出ていないということ。
■藤井 太洋
慰安婦=プロの娼婦説の引き金を引いた西岡力が、発端となった記事の捏造を認めたのか。大きな一歩になるな。 そもそも慰安所にはプロも、騙された人も強制連行された人もいたのだろう。だからといって移動の自由がない戦地の慰安所に収容していいわけがないのだ。
■河信基
この男が横田夫妻を操り、拉致問題を10年間拗らせた張本人。廃刊になった新潮45の常識外に偏った常連寄稿者の一人でもある。
■宿坊の掲示板ほぼbot
「慰安婦」問題否定派の旗手である西岡力氏。彼の論考や発言は、櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ
■Veem.atomic
朝日新聞の慰安婦問題、結局は捏造ではなくて、捏造だと言ってた西岡力氏が、否定の根拠を捏造(記憶違い)だと裁判で認めた訳だ。 朝日を責めてた人達、これからどうするんだろ? 謝罪するのかな?
■ウツボマン
しかし、安倍応援団、ひどいね。百田尚樹に青山繁晴、櫻井よしこに西岡力。小川榮太郎に山口敬之、竹田恒泰。よくもこれだけのメンバーを集められるもんだ。
■川上 哲夫
元朝日新聞記者・植村隆さんの、元「慰安婦」記事を「捏造」と週刊誌に書いた西岡力の記事こそが【捏造】であったことを本人が認めた。仕方なく認めた
■toriiyoshiki?
「金曜日」の記事を読んで思うのは、西岡力氏の学者・研究者・言論人としてのモラル崩壊ぶりである。自説を補強するため、新聞記事のありもしない一節をでっち上げるなど、あってはならないこと、人並みの良心さえあればとても考えられないことである。
■toriiyoshiki
朝日新聞の従軍慰安婦についての記事を「捏造」だと非難してきた御本人が、自らの論拠が事実上の「捏造」だったことを認めるに至ったお粗末の顛末。これは裁判記録として残るから、もう言い抜けはできまい。
■ryozanpaku
『植村氏が起こした民事裁判で、西岡力氏は今年9月5日、植村氏を批判する根拠としていた元「慰安婦」の訴状と韓国紙の記事について、そのいずれも引用を誤っていたうえ、自らが記事を改竄していたことを認めた。植村氏の記事が「捏造だ」という主張はもはや根拠を失っている。』 西岡、謝れ!

■Joshua Martin あたま抱え中?
2014年当時、西岡力に私もすっかり騙されていた。
「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。」→嘘でした!
「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」→加筆捏造でした!
■根村恵介?
レイプジャーナリスト、捏造記者、ウヨクエンタメ作家、お追従評論家…安倍晋三のまわりはいかがわしい人物だらけ。
■omelette
【「私は40円で売られて,キーセンの修業を何年かして,その後,日本の軍隊のあるところに行きました」という元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると,「間違いです」と小声で認めた。】 元の物に無い文を勝手に作るのは、「間違い」ではなく、「捏造」
■能川元一
あの二人はなにか勘違いしたとか筆が滑ったとかであんなこと描いてるわけじゃない。あれは二人の世界観そのものなんだから。櫻井よしこや西岡力があれだけ法廷でド詰めされても「捏造記者」呼ばわりを謝罪もせず撤回もしてないのを見ればわかるじゃん。
■エリン
この 西岡力 って奴のデマに、脊髄反射で共感したのが 櫻井よしこ らであり、加害に加担した罪は大きい。西岡氏は大学教授を辞し、櫻井よしこは物書きとして筆を折るべきだ。
以下略

両訴訟の判決を楽しみに待ちたい。
(2018年9月27日)

最高裁と都教委の応援団・産経社説を批判する

7月19日最高裁「再雇用拒否」判決に、朝日が素早く反応した。翌20日の社説「君が代判決 強制の追認でいいのか」。次いで毎日が22日付で続いた。「君が代『再雇用拒否』判決 行政の裁量広げすぎでは」という的確な判決批判の内容。

そして本日(7月23日)、案の定判決肯定の社説が出た。案の定産経である。しかも案の定、ネトウヨ諸君と兄たりがたく弟たりがたい紋切りの論調。ご紹介の上、批判的な解説を試みたい。以下、赤字が産経社説。青字が私の解説文である。

タイトル 「不起立教員」敗訴 国旗国歌の尊重は当然だ
最高裁は、朝日・毎日に批判され、産経には「当然」と褒められる判決を言い渡したのだ。ことはナショナリズムないしは国家主義イデオロギーに関する問題。深刻に自らの立ち位置をよく考えねばならない。やがて、何を言っても「どうせ産経のお仲間だろう」と耳を貸してもらえなくなる。それは、民主主義の危機であり、国民の不幸の事態である。

 国歌斉唱で起立しなかった教職員に対し、定年後の再雇用を拒否した東京都の判断について、最高裁が合法と認めた。当然の判決である。
 「合法と認めた」は正確ではない。「著しく合理性を欠くものであったということはできない」「違法であるとは言えない」が正しい。判決内容を正確に把握していないのだから、「当然の判決」は意味をなさない。

 国旗、国歌に敬意を払わない者が教師としてふさわしいか、考えるまでもない。その地位を与え続けるべきでもない。
 これは暴論。「考えるまでもない」とは、「問答無用」ということ。原告側教師の言い分を聞く耳はもたないということでもある。これでは困るのだ。意見の違う相手の言い分にも、耳を傾けてもらわねばならない。とりわけ「ネトウヨならぬ大新聞」の立場であればこそ。産経が、「国旗、国歌に敬意を払わない者に教師としての地位を与え続けるべきではない。」ということには戦慄を覚える。これは、天皇にまつろわぬ者を非国民とした戦前の苦い記憶、あるいは共産主義者を非米活動として糺弾したマッカーシズムを想起させる。非寛容の社会、一元的な国家主義で染め上げられた窮屈な社会の到来を危惧せざるを得ない。

 訴えていたのは都立高校の元教職員22人だ。東京都教委は卒業式や入学式の国歌斉唱時、国旗に向かい、起立して斉唱するよう、校長を通じ教職員に職務命令を出している。
 事実経過はそのとおり。「職務命令」とは、公権力による公務員に対する強制のこと。職務命令の効果として、何をどこまで強制できるか、公務員側から見ていかなる義務があるかはけっして自明ではない。教科とされているもの授業を行うべき義務があることは当然のことだ。それは、教育が自然科学や人文・社会科学において確認された真実の体系を次世代に継授する営みである以上、教員の本質的責務である。しかし、価値感や信仰についての教育、あるいはイデオロギーについての教育が強制されてはならないし、教員にはそのような強制に応ずべき義務もない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を正しいとする価値感は、信仰と同じでこれを受容できる者もあり、受容し得ない者もある。公立校の生徒は、多様な価値観を尊ぶべき教育を受ける。そのような教育を実践する教員に、「国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を正しいと思え」「思えなければ、教職から去れ」と言ってはならない。それは、既に価値感や思想を統制する社会なのだから。

 元教職員らは在職中、これに従わずに減給や戒告処分を受け、定年後の再雇用選考に申し込んだが、不合格などとされた。1審は都教委の対応が「裁量権の範囲の逸脱・乱用にあたる」などとして賠償を命じ、2審も支持した。背景には、国旗を引きずり下ろすといった妨害行為をしたわけではなく、1~2回の処分などで再雇用を拒否するのは酷だという考えがある。
 1・2審判決の考え方は、形式的には「再雇用を拒否するのは酷」だというものだが、実質的には、価値感や思想の統制に対する強い警戒感がある。日本国憲法の19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、21条(表現の自由)、13条(個人の尊厳)などが、裁判官に「日の丸・君が代」強制を肯定しがたいとしているのだ。

 しかし、最高裁は不起立について「式典の秩序や雰囲気を一定程度損なうもので、生徒への影響も否定できない」と指摘し、1、2審の判断を覆した。門出などを祝う重要な節目の行事で、一部教職員が座ったままの光景がどう映るか。生徒らを顧みず、教職員個人の政治的主張や感情を押しつけるもので、教育に値しない行為だ。
 そもそも、卒業式に国旗・国歌(日の丸・君が代)斉唱がどうして必要なのか。かつての文部省の調査では、外国での類似例としては中国・北朝鮮・韓国の3か国しか挙げられなかった。
 歴史的に、日の丸・君が代がはたした役割に否定的な意見を抹殺してはならない。国旗国歌の強制がもつ国家主義イデオロギーは克服されなければならない。

 起立・斉唱の職務命令を「強制」などと言い、相変わらず反対する声がある。しかし、国旗と国歌を尊重するのは国際常識であり、強制とは言わない。
 これは、明らかに論理としておかしい。職務命令は「強制」以外のなにものでもない。国旗国歌を尊重するか否かと、国旗国歌に敬意表明の行為(起立・斉唱)を強制することとは、まったく次元を異にする問題。たとえ、国旗国歌を尊重すべきだとの意見をもっていても、強制はすべきでないとするのが、保守の良識というものだろう。

 自らの思想・良心・信仰のゆえに、国旗・国歌(日の丸・君が代)への強制に服することができないという教員が存在するのが健全な社会。誰も彼もが、国旗・国歌(日の丸・君が代)大好きの社会を国家主義の蔓延した統制社会という。そんな社会、そんな産経好みの国家はおそらくは中・朝の2か国くらいではないか。
 なお、付言しておきたい。国旗と国歌の強制は国際常識に反すること、国家体制が変われば国旗国歌も変わるのが常識であることも。かつての三国同盟の盟友だったナチス・ドイツと、ファシスト・イタリア。敗戦によって体制を変え、それに伴って国旗も国歌も変えた。これが常識。現代日本が、いまだに当時の軍国日本の国旗国歌をそのまま使用しているのは、国際常識からはドイツがハーケンクロイツを掲げているようにも見えるのだ。

 最高裁は別の訴訟でも、都教委の職務命令は「思想、良心を直ちに制約するものではない」などとして合憲の判断を示している。
 さすがの最高裁も、都教委の職務命令をまったく問題がないと言っているのではない。「思想、良心を直ちに制約するものではない」とは、「直ちに」とまでは言えないということなので、間接的な思想・良心に対する制約になることは認めているのだ。最高裁判決の当該部分をそのまま引用する。
「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行動(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなる限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。」
このまだるっこしい判決の解説は、当ブログの下記を参照されたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=10649

 国旗掲揚や国歌斉唱に反対する一部教職員らに対し、校長らは大変な苦労を重ねてきた。
 産経は、どうして一部校長の立場にしか立てないのだろうか。多くの教職員から見れば、「執拗に国旗掲揚や国歌斉唱の強制を企図する、文部省や独立性を放擲した各都府県の教委、そしてこれに迎合する一部校長らによって大変な苦労を重ねざるを得なかった」のである。

 平成11年には広島県で校長が自殺する痛ましい事件が起き、これを契機に「国旗国歌法」が制定された。
 校長の自殺が痛ましい事件であることはそのとおりだ。たかが、国旗・国歌(日の丸・君が代)で人の命が奪われるようなことがあってはならない。問題の根源は、大日本帝国憲法時代の旧天皇制とあまりに深く結びついた旗と歌を、いまだに国旗・国歌(日の丸・君が代)としていること、これを教育の場で強制していることにある。国旗国歌法をつくり、職務命令で強制するのは、面従腹背の教員を増やすだけで、ますます問題を深刻化ることになる。

 職務命令を出すのは、指導に反対して式を混乱させる教職員がいまだにいるからだ。
 都立校に国旗国歌強制のなかった時代。式の混乱はなく、それぞれに工夫を凝らした感動的な式典が行われていた。10・23通達と職務命令によって、生徒を主人公とする卒業式は失われた。それが実態なのである。

それほど国歌が嫌いなら公教育を担う教職につかないのも選択肢だ。
そら出た。これが、挙国一致、尽忠報国派のホンネだ。公立学校の教員には、多様な人材がいてしかるべきなのだ。日の丸・君が代の歴史は、国家主義・戦争・軍国主義・思想統制とともにあったのだから、敬意表明はできないという教員がいてこそ、真っ当な教育の場ではないか。

 都の中井敬三教育長は「今後も職務命令違反には厳正に対処する」とした。それを貫いてもらいたい。
 私は、最高裁が間違った判断をしていると思う。私だけでなく、真っ当に法律を学んだ者の多くが同じ意見だと思っている。しかし、その最高裁も都教委の国旗国歌強制を結構なことだといってるのではない。行政の裁量の範囲の問題としてギリギリのところでセーフとしているに過ぎない。都教委は国旗・国歌(日の丸・君が代)の強制をあらためるべきである。

東京五輪を控え、先生に国旗や国歌の大切さを教えなければならないのでは、情けない。
 国旗・国歌(日の丸・君が代)問題と向かい合っている教員は、真摯にものを考えている。処遇上のさまざまな不利益を覚悟して、自分の思想や教員としての良心を貫こうとしている人たちがいることに、感動もし、教育に希望をもつこともできる。
 その反対に、何もものを考えず、権力や多数派の圧力に迎合する輩を、心底「情けない」と思わずにはおられない。
(2018年7月23日)

アベ晋三の高笑い

今日はルンルンだ。国民はチョロいぜ。勿体ないがだましよい。

各紙の世論調査で内閣支持率が軒並みアップだ。不支持率を逆転したぞ。どんなもんだい。

今日(9月11日)発表のNHKの世論調査ではこんな具合だ。

安倍内閣を「支持する」と答えた人は、先月より5ポイント上がって44%だったのに対し、「支持しない」と答えた人は、7ポイント下がって36%で、3か月ぶりに、「支持する」が「支持しない」を上回りました。

さすがNHK。立派な国営放送だ。誰が言ったか、「アベ様のNHK」。悪い気はしない。

朝日新聞も、9日10日の全国調査結果を今日発表している。こちらはやや渋いが。

「安倍内閣の支持率は38%(前回8月調査は35%)で、不支持率38%(同45%)と並んだ。回復傾向にはあるものの、無党派層の支持率は17%と依然低い。」

朝日だもの。反アベだろう。それでも、前回調査の不支持率と支持率の差10ポイントが、今回はゼロだ。やっぱりルンルンだぜ。

なぜこうなったかって? 幾つか考えられる。

まずは、北朝鮮のおかげだ。これまでも、私の支持率の落ちたところで、私を助けてくれている。「困ったときの友こそ真の友」と言うだろう。金正恩こそが私の真の友だと思うよ。これ、ホンネだ。

ICBMの発射も、核実験も、ホントによいタイミングでやってもらった。しかも核は160キロトン相当の水爆だと言うじゃないか。国民の目は、森友・加計問題から、北朝鮮に完全に移った。共謀罪も、南スーダンPKOでの日報隠しも、閣僚不祥事も、アベチルドレン問題も、すべては忘却の彼方だ。

しかも、この北朝鮮によるわが国への支援の恩恵は、内閣支持率アップにとどまらない。迎撃ミサイルだの、イージスショアだの、自衛の措置が必要ではないかとの理由付けで、防衛予算の増強がとてもやりやすくなった。アメリカの軍需産業も大喜びだ。

だから、北朝鮮危機の深刻さは、できるだけ大袈裟に国民に伝えなければならない。Jアラートも国民の危機意識涵養に大成功だった。国民が不安になればなるほど一体感が造成される。時の内閣支持率がアップするのが、世の習いではないか。

私も、不愉快そうに深刻な顔つきで記者会見をしなければならないのだが、ついつい腹の中では笑みがこぼれる。

北朝鮮危機→国民の不安→対抗措置の必要 こうなるのが思う壺。目には目。歯には歯だ。核兵器には核兵器だろう。北朝鮮が持つなら、この機会にわが国の核武装も、というのが民の声じゃないか? えっ? ちっとも論理性がないって? そんなことはどうでもよい。日本の核武装ができないまでも、使用済み核燃料から抽出したプルトニウムの保管に精出すくらいは国民合意ができそうじゃないか。うまくいけば、憲法改正だってできるかも。これも北朝鮮・金正恩のおかげだ。

もっとも、朝日の調査では、「北朝鮮の弾道ミサイルや核実験に対して、日本政府が、対話と圧力のどちらにより重点を置く方がよいかを尋ねると、『圧力の強化』40%、『対話の努力』45%と割れた。」という。これでは、まだまだ内閣の努力が十分ではない。「対話」じゃなくて、圧倒的な「圧力」世論を作らなければならない。そのためには、もう一押しの「反北朝鮮キャンペーン」だ。

そう、北朝鮮危機を本当に解決できななくてもいいのさ。危機は深刻であるほど、そして長引くほどありがたい。その間、支持率低下の心配はない。

北朝鮮の協力の次は、「寝たふり作戦の成功」だね。頭を下げ、お詫びをし、反省のふりをしたことが成功の原因だ。本当に国民は忘れっぽくってありがたい。

それだけでない、弱体野党の御陰もある。野党第一党の党首が、野党共闘に消極的なことも、消局的な内閣支持率アップの原因だ。

これまでは寝たふりをしていたけど、この事態なら、ジリ貧になる前に早期解散に打って出る手も大ありだ。これで負けを最小限に押さえられれば、それこそ正恩に足を向けては寝られない。

昨日(9月10日)の東京新聞社説が「桐生悠々と防空演習」を取り上げている。例の「関東防空大演習を嗤う」の論評を書いたジャーナリスト。

社説はこう言うのだ。
「悠々の評論の核心は、非現実的な想定は無意味なばかりか、有害ですらある、という点にあるのではないでしょうか。その観点から、国内の各所で行われつつある、北朝鮮の弾道ミサイル発射に備えた住民の避難訓練を見るとどうなるのか。」
「国民の命と暮らしを守るのは政府の役目です。軍事的な脅威をあおるよりも、ミサイル発射や核実験をやめさせるよう外交努力を尽くすのが先決のはずです。そもそもミサイルが現実の脅威なら、なぜ原発を直ちに停止し、原発ゼロに政策転換しないのでしょう。」

何を言っているのか。東京新聞は何も分かっちゃいない。何のための避難訓練かといえば、国民に北朝鮮への恐怖を煽るためのものであることは明らかじゃないか。軍事的な脅威をあおってこその防衛予算拡大であり、9条改憲の実現じゃないか。

そういうところをメディアも学ばねばならない。信頼関係は、相互に敬愛の精神をもつところから出発する。「メディアの使命は権力監視だ」なんてカビの生えたことを言っていたら、信頼関係なんて無理だね。読売のように従順なら、公安の捜査情報をくれてもやろうが、ね。

なんてね。今日は気分がよい。さてこれがいつまで続くやら。

(2017年9月11日)

読売の自業自得ー何を言っても政権擁護としか聞こえない。

商業活動を行う者にとって、信用とはかけがえのない大切なものだ。商業の世界で、一度失った信用の回復は極めて困難である。目先の利益に飛びついて、信用を失うことは愚の骨頂なのだが、ついつい判断を誤ってあとで後悔するのが、愚かな人の性というもの。

江戸期の商道徳は信仰と結びついていたという。近江商人が真宗を信仰して、商業による自己の利益を顧客への奉仕による「御利益」と観念したことが広く知られている。彼らにとっては、日常の商業活動が菩薩行であって、顧客からの信用の保持は、経済的な打算よりは、むしろ信仰上の規範であったようだ。だから、老舗は近視眼的に判断を誤ることが少なかったと説かれる。

ジャーナリズムは権力に毅然としていなければならない。権力から独立しているとの社会的信用が、ジャーナリストにとってはかけがえのない財産である。「政府の公報担当」「権力の走狗」とレッテルを貼られて一度失った社会的信用の回復は極めて困難である。目先の利益に飛びついて、大切なジャーナリストとしての社会的信用を失うことは愚の骨頂なのだが、ついつい判断を誤ってあとで後悔するのが、浅はかな御用新聞の性というもの。

ジャーナリストとは、本来が本能的な権力批判者である。ジャーナリストの倫理とは、在野、反権力に徹した精神である。権力者と一緒に寿司を食えるセンスの持ち主はジャーナリストを志望してはならない。日常の取材論評の活動の根底に健全な権力批判の精神のあることが、社会的信用の根源である。そのジャーナリスト・スピリットは、記者の内奥に沈淪する倫理であって、打算とは無縁なもの。だから、尊敬されるジャーナリストは、すべからくやせ我慢をしてでも権力批判に徹している。

今や、アベから「読売新聞をよく読んで」と言われ、政府の窮地を救うべく、忠犬役を買って出た読売である。「政府広報紙と堕した」「アベ政権の走狗となった」と言われて、社会的信用を失墜した。その読売が、腹心の友学園問題についての社説を書いている。一昨日(5月27日)のことだ。

タイトルは、「加計学園問題 『特区指定』の説明を丁寧に」というもの。このタイトルで、読売が記事を書けば、アベ政権の走狗となるべくシッポを振って、自社の紙面を大きく割いたスキャンダル記事をどう釈明しているかの興味しか湧かない。今後しばらくは、読売の記事は、読売とアベ政権との距離についてどう書いているかだけの関心しか持てない。信用回復は困難と言うよりは、もう無理ではないだろうか。

と思いつつ、我慢して社説を読んでみよう。読めば、どうしても、突っ込みをいれたくもなる。

「前次官が在職中の政策決定を公然と批判する。異例の事態である。政府には、疑念を払拭する努力が求められよう。」
前次官の私的スキャンダルを暴く記事を掲載して、前次官の内部告発(公益通報)を妨害し、政府の疑念払拭懈怠の姿勢を援護した読売ではないか。まずは、自らの襟をただして、その姿勢の反省から出発せよ。

「学校法人『加計学園』が愛媛県今治市に大学の獣医学部を新設する計画を巡って、前川喜平・前文部科学次官が記者会見し、早期の学部開設は『総理の意向』と記した文書について『確実に存在していた』と明言した。内閣府との協議を踏まえ、文科省の担当課が作成したという。」
当該の文書の受領者の証言なのだから、疑問の余地のないこと。さすがに、読売もこの点に疑義をはさむことができないようだ。

「疑問なのは、前川氏が国家戦略特区による獣医学部新設を『極めて薄弱な根拠の下で規制緩和が行われた』と批判したことだ。」
それだけではない。「職員は気の毒だ」「赤信号を青信号にさせられた」とも語っている。読売は、政権にとっての不都合を、すべからく「疑問」というわけだ。

「獣医師の需給見通しなどが十分に示されないまま内閣府に押し切られたとして、『行政のあり方がゆがめられた』とまで語った。これが事実なら、なぜ現役時代に声を上げなかったのか。」
読売さんよ、自分のこととしてお考えいただきたい。現役の読売記者が、公然と「当社は政府広報機関と堕した」「読売はアベ政権の走狗となった」「ジャーナリズムの倫理を失った」「クォリティペーパーとしての社会的信用を失墜した」と声を上げることができると考えられるか。

「規制改革を主導する内閣府と、業界保護の立場から規制の例外を認めたくない関係省庁が対立することは、ままある。」
これが政権の構図。読売も、この件をそんな対立図式として見ているのが「権力の走狗」たる所以。もっと別の見方は、種々あり得る。また、仮に読売社説図式でものを見たとしても、「業界保護の立場から規制の例外を認めたくない関係省庁」とは、この場合文科省ではなく、農水相であり厚労省であって、文科省ではない。

「問題は行政手続きの適正性であり、菅官房長官は『国家戦略特区法に基づく手続きを経た』と強調している。」
信じがたい愚論。「問題が行政手続きの適正性である」なら、その具体的な検証をすべきが大新聞の責務であろう。権力側の言い分だけを引用してこと足れりとしているその姿勢は、まさしく「政府広報紙」と呼ぶにふさわしい。

「与党は、野党による前川氏の証人喚問要求を拒んでいる。政府は文書の存在を否定し、文科省の再調査も必要ないとしているが、その主張はやや強引ではないか。野党は、安倍首相が長年の友人の加計学園理事長に利益誘導したのではないか、と追及する。官僚が忖度した可能性も指摘する。首相は、「学園からの依頼は一切ない」と述べ、加計学園の特別扱いはなかったと言明している。内閣府も、『総理の意向』との発言や、首相の指示を否定する。政府は、特区を指定した経緯や意義について、より丁寧かつ踏み込んだ説明をすべきだろう。」
何と生温い。政権におもねって遠慮がちな、みっともない読売。一省の事務次官が、「極めて薄弱な根拠の下で規制緩和が行われた」「行政のあり方がゆがめられた」と断定しているのだ。首相の腹心の友の私的な利益のために、行政がゆがめられたとの指摘が本質的な問題。これを「より丁寧かつ踏み込んだ説明をすべきだろう」は、問題を説明の仕方、丁寧な説明の不十分にすり替えようという邪悪な魂胆。こんな社説でよかろうはずがない。

「今治市は2007年以来、特区指定申請を15回も却下された。民主党政権下の10年に「対応不可」から「実現に向けて検討」に格上げされ、16年に認められた。獣医学部は1966年を最後に新設が認められていない。獣医師の過剰を防ぐためだが、専門分野や地域で偏りがあり、開設を求める声も根強い。まず特区に限定した規制緩和は理解できよう。」
いや、理解できない。それは大新聞の言うべきことではない。新聞社の責任をもって「獣医師の専門分野や地域で偏りがある」のか否かを調査した後でなくては軽々に政権の肩をもった意見を述べるべきではない。

「規制緩和は安倍政権の重要政策であり、仮に首相が緩和の加速を指示しても問題はあるまい。」
とんでもない。問題大ありである。規制緩和一般を善とする無原則な姿勢こそ、権力にある者の利権や、政治の私物化の根源ではないか。

「野党は、首相の交友関係に焦点を当て、学校法人「森友学園」問題と関連づけている。しかし、獣医学部誘致は今治市が中心になって長年取り組んできた懸案だ。同列に論じるのは無理があろう。」
読売の正体見たり、である。今治市への獣医学部誘致は、安倍晋三という政治家の腹心の友の利益と一体であった。長年取り組んできてできなかった懸案が、国家戦略特区構想として突然に実現したからおかしいと言っているのだ。他の有力候補に優越して、どうして腹心の友学園だけに絞られたかも疑惑だらけ。

 世は闇だ 赤は青なり 黒も白
 読売の紙面凍てつく 寒さかな
 やせがえる負けるな アベにもメデイアにも
(2017年5月29日)

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