澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

『共謀罪法案』社説ー朝日・毎日・東京は「反対」、日経は「慎重」、読売は「賛成」、産経は掲載なし

昨日(3月21日)政府は「共謀罪法案」を閣議決定し、国会に上程した。政府と自公両党は、4月中に法案の審議に入り、通常国会の会期末(6月18日)までに成立を目指す、としている。そんなことをさせてはならない。

「共謀罪」という罪名の犯罪を新たに作ろうというのではない。既にある277罪について、実行行為に着手する以前の「共謀」の段階で処罰を可能としようというのだ。政府の説明では、「共謀」だけでなく、実行に向けた「準備行為」への着手が必要とされているのだから、「何が犯罪となるか不明確ではない」というが、なんの説得力もない。実行行為への着手の有無が処罰の可否の分水嶺であり、刑事処罰と強制捜査のための権力発動の分水嶺である。『共謀罪』の創設は、その分水嶺のはるか手前の段階で、普通は犯罪とは言えない行為を処罰対象とするもの。まさしく、現行刑法の基本原則を根こそぎ覆す暴挙と評する以外にない。

日本国憲法下、日本の国民は自由主義を信奉してきた。自由をかけがえのない価値とする社会を作ろうとしてきた。戦後の国政をになった保守政権も、政党名に自由を冠し、自由をスローガンとして、反対政党の政策を「自由の寡少」と攻撃してきたではないか。自由とは国家権力から守られるべきもの。自由主義とは、国家権力の発動による個人の行動への制約を極小化すべきとする原則である。アベ内閣は、本気でこれに挑戦しようというのだ。

国家権力が犯罪を処罰し、そのことを通じて社会の秩序の維持を図る役割を果たすべきは当然である。しかし、その必要を超えて、権力の恣意による国民の自由の制約があってはならない。国民の行為への処罰範囲の拡大は、厳密な立法事実を踏まえてのものでなくてはならない。

当初は676罪とした共謀処罰対象を277罪に絞ったという手柄顔の説明は、それこそ立法段階における政府の恣意性を自白するに等しい。277罪の共謀処罰についての必然性はなく、国民は、犯罪実行行為とは無縁の、無定型な日常行為を監視され、強制捜査され、処罰される不安の中で生活を余儀なくされる。これは、自由主義国家のありかたではない。

一方に、「政府を信頼せよ」「警察も検察も裁判所も、けっして法の濫用を許さないだろう」という論調がある。しかし、戦争法反対のデモに対する政府・与党の対応を見よ。沖縄での平和運動への弾圧を見よ。堀越事件・世田谷事件などで表面化した常軌を逸した尾行張り込みの監視の実態を見よ。数々の違法捜査に目をつぶってはならない。「政府も捜査機関も信頼してはならない」それが、健全な自由主義国家の国民の態度でなくてはならない。

のみならず、我々は戦前の治安維持法の猛威を、苦い教訓として知っている。構成要件曖昧な治安法規は、権力に好都合で、国民の人権には甚だしい害悪を及ぼすのだ。「天子様に弓引く非国民の極悪人の結社を処罰するだけ」だったはずの治安維持法が、処罰対象を拡散して、政府に不都合なあらゆる思想や行動を制圧したことを想起しなければならない。

本日の各紙社説(6全国紙)に目を通した。朝日・毎日・東京が批判の立場を鮮明にしている。日経も慎重な審議を求めており、読売だけが政権に提灯をもつ論説となっている。批判と提灯の数は3対1。東京が熱のある社説になっているし、朝日・毎日の論調にも説得力がある。それに比較して、読売の論説はおざなりで説得力に乏しい。せっかくの政権への提灯社説だが、大した明るさの提灯とはなっていない。産経は社説を掲載していないが、産経といえば読売と兄たり難く弟たり難い間柄。推して知るべしであろう。

地方紙は、軒並み原則的な社説を書いているようだ。論戦のスタート時の状況としては、悪くないのではないか。以下、全国紙5社説の概要を紹介する。

☆朝日社説のタイトルは、「『共謀罪』法案 疑問尽きない化粧直し」。

「化粧直しのポイントは、(1)取り締まる団体を「組織的犯罪集団」に限定する、(2)処罰できるのは重大犯罪を実行するための「準備行為」があった場合に限る、(3)対象犯罪を組織的犯罪集団のかかわりが想定される277に絞る―の三つだ。だが、いずれにもごまかしや疑問がある。」

「旧来の共謀罪についても、政府は『組織的な犯罪集団に限って成立する』と言ってきた。だとすれば(1)は新たな縛りといえない。安倍首相の「今度は限定している。共謀罪との大きな違いだ」との国会答弁は、国民を誤導するものに他ならない。(2)の「準備行為」も何をさすのか、はっきりしていない。共謀罪は組織犯罪防止の国際条約に加わるために必要とされた。そして条約の解釈上、重い刑が科せられる600超の犯罪に一律に導入しないと条件を満たせないというのが、政府の十数年来の主張だった。(3)はこれを一転、半減させるというものだ。融通無碍、ご都合主義とはこのことだ。」

「犯罪が実行されて初めて処罰するという、刑法の原則をゆるがす法案である。テロ対策の名の下、強引に審議を進めるようなことは許されない。」

朝日社説の『共謀罪』法案批判のキーワードは、「化粧直し」「融通無碍」「ご都合主義」である。これからも、このキーワードが多用されそうだ。

☆毎日社説の表題は、「『共謀罪』法案 説明の矛盾が多過ぎる」と厳しいもの。

「政府はかつて『共謀罪』新設の関連法案を3度提出したが、廃案になった。名称を変えた今回の法案も、組織犯罪が計画段階で幅広く処罰可能となる本質は変わらない。」
「こうした処罰の規定は人の内心に踏み込む。捜査側の対応次第で国民生活も脅かされる。」「日本の刑法は、犯罪行為に着手した時点で処罰の対象とするのが原則だ。…今回の法案は従来の原則からかけ離れている。」

「それにしても、これまでの政府の説明には矛盾が目立つ。最大のほころびは対象犯罪数だ。条約が法整備を求める4年以上の懲役・禁錮の刑を定める犯罪数は676あり、選別はできないと政府は説明してきた。だが、公明党の意見をいれ、今回の法案では対象犯罪を277に絞り込んだ。これでは過去の説明と整合しない。」

「法案の再提出に当たり、唐突にテロ対策の看板を掲げたことも理解できない。条約はマフィアによる犯罪収益の洗浄などへの処罰を目的としたものだ。」「安倍晋三首相が、東京五輪・パラリンピックのテロ対策を理由に『法整備ができなければ開催できないと言っても過言ではない』などと発言するに至っては、まさに首相が批判する印象操作ではないか。」

毎日社説のキモは、「『共謀罪』提案はテロ対策」というアベの説明を、「まさに首相が批判する印象操作ではないか。」と言い放っているところ。

☆東京社説は長い。タイトルは「『共謀罪』閣議決定 刑法の原則が覆る怖さ」と本質を衝くものとなっている。

「政府が閣議決定した組織犯罪処罰法改正案の本質は『共謀罪』だ。277もの罪を準備段階で処罰できる。刑事法の原則を覆す法案には反対する。」

「共謀罪の考え方は、日本の刑事法の体系と全く相いれない。日本では既遂を処罰する、これが原則である。心の中で考えただけではむろん犯罪たり得ない。犯罪を実行して初めて処罰される。未遂や予備、陰謀などで処罰するのは、重大事件の例外としてである。
だから、この法案は刑事法の原則を根本からゆがめる。しかも、277もの罪に共謀罪をかぶせるというのは、対象犯罪を丸暗記していない限り、何が罰せられ、何が罰せられないか、国民には理解不能になるだろう。」

「安倍晋三首相は国会答弁で『東京五輪のために必要な法案だ』という趣旨の発言をした。これは明らかな詭弁というべきである。そもそも日本はテロに対して無防備ではない。テロ防止に関する13もの国際条約を日本は締結している。ハイジャック防止条約、人質行為防止条約、爆弾テロ防止条約、テロ資金供与防止条約、核テロリズム防止条約…。同時に国内法も整備している。例えば爆発物に関しては脅迫、教唆、扇動、共謀の段階で既に処罰できる。サリンなど化学物質などでも同じである。
むしろ、政府は当初、『テロ等準備罪』の看板を掲げながら、条文の中にテロの定義も文字もなかった。批判を受けて、あわてて法案の中に『テロリズム集団』という文字を入れ込んだ。本質がテロ対策でない証左といえよう。『五輪が開けない』とは国民に対する明白な誤導である。本質は共謀罪の創設なのだ。」

「危惧するのは、この法案の行く末である。政府は普通の市民団体でも性質を変えた場合には適用するとしている。米軍基地建設の反対運動、反原発運動、政府批判のデモなどが摘発対象にならないか懸念する。」

「英米法系の国ではかつて、共謀罪が労働組合や市民運動の弾圧に使われたという。市民団体の何かの計画が共謀罪に問われたら…。全員のスマートフォンやパソコンが押収され一網打尽となってしまう。もはや悪夢というべきである。実は捜査当局が犯行前の共謀や準備行為を摘発するには国民を監視するしかない。通信傍受や密告が横行しよう。行き着く先は自由が奪われた『監視社会』なのではなかろうか。」

東京社説のキーワードは、「監視社会化」である。

☆日経社説は、「十分な審議が必要な『共謀罪』」というもの。
「この法案の必要性や意義について、そもそも国民の間に理解が深まっているとは言いがたい。国会審議の場では成立を急ぐことなく、十分な時間をかけて議論を尽くす必要がある。」

「今回政府は国民が理解しやすいテロを前面に出して必要性を訴えてきた。」「当初の法案の中に「テロ」の文言がなく、与野党から指摘を受け慌てて盛り込むことになった。」

「テロも組織犯罪の一形態とは言えるが、国会審議ではまず、資金洗浄や人身売買、薬物取引など条約がうたう「本来」の組織犯罪対策のあり方などについて十分に議論すべきではないか。現に日本は暴力団犯罪など組織犯罪の脅威にさらされている。」

ともかく、日経も法案に賛成はしていない。慎重審議も、今は政権のやり方批判となり得ている。

☆そして読売社説である。「テロ準備罪法案 政府は堂々と意義を主張せよ」という、自民党広報紙並みのタイトル。興味深いのは、政権の肩をもちながらも、法案の問題点や弱点を問わず語りに告白していること。そして、このあたりが世論説得のポイントと教えてくれているところである。その意味では、貴重な資料というべきだろう。敢えて、全文を転載しておきたい。

「テロ対策の要諦は、事前に犯行の芽を摘むことである。政府は、法案の早期成立に万全を期さねばならない。
テロ等準備罪の創設を柱とする組織犯罪処罰法改正案が国会に提出された。2020年東京五輪を控え、テロ対策は喫緊の課題だ。改正案が成立すれば、国際組織犯罪防止条約への加入が具体化する。締約国間で捜査共助や犯罪人の引き渡しが円滑にできるようになるなど、メリットは計り知れない。
法案化の過程で、対象となる「組織的犯罪集団」が「テロリズム集団その他の組織的犯罪集団」に修正された。テロの文言がなく、与党の批判を招いたためだ。
組織的犯罪集団は「共同の目的が一定の犯罪を実行することにあるもの」と定義される。修正により、テロ対策という立法の趣旨は、より明確になったと言える。
「その他」に想定されるのは、暴力団や振り込め詐欺集団だ。犯罪の抑止効果が期待できよう。テロ等準備罪の成立には、犯行計画に加え、資金調達などの準備行為の存在が不可欠だ。要件を満たさない限り、裁判所は捜索や逮捕に必要な令状を発付しない。適用範囲が恣意的に拡大される、といった民進党などの批判は当たるまい。「一般市民も対象になりかねない」という指摘も殊更、不安を煽るものだ。

対象犯罪について、政府は当初の676から、組織的犯罪集団の関与が現実的に想定される277に絞り込んだ。「対象の団体を限定した結果、犯罪の絞り込みも可能になった」との見解を示す。公明党が「対象犯罪が多すぎる」と主張したことにも配慮した。理解を広げるために、一定の絞り込みは、やむを得ない面もある。政府は過去に「条約上、対象犯罪を限定することは難しい」と説明している。これとの整合性をどう取るかが課題だ。

今国会の審議では、共謀罪法案との違いを際立たせようと腐心する政府の姿勢が目立つ。共謀罪法案を3度も提出したのは、必要性が高かったからだろう。差異を付けることを優先するあまり、今回の改正案が捜査現場にとって使い勝手の悪いものになっては、本末転倒である。国民の安全確保に資する法案であると、堂々と主張すべきだ。

金田法相の答弁は不安材料だ。要領を得ない受け答えが多く、「成案を得てから説明する」と繰り返してきた。緊張感を持って、審議に臨んでもらいたい。」

読売社説を対象にしてこそ、説得力のある反論を組み立てられる。そのような目で、これを読み込みたい。
(2017年3月22日)

「DHC」「DHCシアター」「東京MXテレビ」そして「長谷川幸洋」に、『デマ』と『ヘイト』の刻印をーDHCスラップ訴訟を許さない第100弾

本日(2月2日)の東京新聞1面に、「『ニュース女子』問題 深く反省」と、社としての謝罪記事が出ている。いささか遅きに失した感は否めないが、さすがに東京新聞。誠実に詫びるべきを詫びている。

記事には、「論説主幹・深田実が答えます。沖縄報道 本紙の姿勢は変わらず」とサブタイトルがついている。この記事掲出まで社内でいかなる論議がなされたかは知る由もないが、社としての本格的な取り組みとの姿勢を窺うことができる。これなら、読者の信頼を繋げるのではないか。

謝罪記事の全文を引用しておこう。
「本紙の長谷川幸洋論説副主幹が司会の東京MXテレビ『ニュース女子』1月2日放送分で、その内容が本紙のこれまでの報道姿勢および社説の主張と異なることはまず明言しておかなくてはなりません。
 加えて、事実に基づかない論評が含まれており到底同意できるものでもありません。
 残念なのは、そのことが偏見を助長して沖縄の人々の心情、立場をより深く傷つけ、また基地問題が歪めて伝えられ皆で真摯に議論する機会が失われかねないということでもあります。
 他メディアで起きたことではあっても責任と反省を深く感じています。とりわけ副主幹が出演していたことについては重く受け止め、対処します。
 多くの叱咤の手紙を受け取りました。 
 『1月3日の論説特集で主幹は「権力に厳しく人に優しく」と言っていたのにそれはどうした』という意見がありました。
 それはもちろん変わっていません。
 読者の方々には心配をおかけし、おわびします。
 本紙の沖縄問題に対する姿勢に変わりはありません。」

続けて、東京新聞自身が、「『ニュース女子』問題とは」と解説をつけている。
「東京MXテレビは1月2日放送の番組『ニュース女子』で冒頭約20分間、沖縄県東村高江の米軍ヘリコプター離着陸帯建設への反対運動を取り上げた。本紙の長谷川幸洋論説副主幹が司会を務めた。『現地報告』とするVTRを流し、反対派を「テロリストみたい」「雇われている」などと表現。反ヘイトスピーチ団体「のりこえねっと」と辛淑玉(シンスゴ)共同代表(58)を名指しし「反対派は日当をもらってる!?」「反対運動を扇動する黒幕の正体は?」などのテロップを流した。辛さんは取材を受けておらず、報告した軍事ジャーナリストは高江の建設現場に行っていなかった。
 MXは「議論の一環として放送した」とし、番組を制作したDHCシアターは「言論活動を一方的に『デマ』『ヘイト』と断定することは言論弾圧」としている。辛さんは名誉を侵害されたとして、1月27日、放送倫理・番組向上機構(BPO)放送人権委員会に申し立てた。
 のりこえねっとは沖縄の現場から発信してもらう『市民特派員』を募集、カンパで捻出した資金を元手に、本土から沖縄までの交通費として5万円を支給。昨年9月から12月までに16人を派遣した。」

関連記事が5面の「読者部便り」に掲載されている。「読者部長・榎本哲也」による「読者の批判重く受けとめ 『ニュース女子問題』」と題するもの。これも、貴重な記事として、全文を引用しておきたい。

 特定のニュースや問題について、同じ趣旨のお問い合わせや要望が多くの方から読者部に相次ぎ、関心が高いと判断した時は、紙面で紹介したり、関連記事を掲載するよう心掛けています。ですが、年明け以来、1カ月にわたり連日、ご意見が相次いでいることに、きょうまでお答えしていませんでした。まず、深くおわび申し上げます。
 東京MXテレビの1月2日放送の番組「ニュース女子」に、沖縄県の米軍施設建設に反対する人々を中傷する内容があり、その番組の司会を長谷川幸洋・本紙論説副主幹が務めていたことです。厳しいご批判や、本紙の見解表明を求める声は、読者部にいただいた電話やファクス、メールや手紙だけでも250件を超えました。重く受け止めており、きょうの1面に論説主幹の見解を掲載しました。
 新聞は、事実に基づいて、本当のことを伝えるのが使命です。編集局では現在、沖縄の在日米軍基地問題を取材するために、社会部や政治部の記者を沖縄に派遣し、東村高江や辺野古などで、住民の方々などの取材を重ねています。近く、紙面でご報告いたします。
 また、「沖縄ヘイト」問題の本質を問う識者インタビュー連載記事を、きょうから始めました。
 沖縄で今、何が起きているのか。本当のことをお伝えする努力を、これからも続けていきます。

この記事のとおり、3面に「『沖縄ヘイト』言説を問う」の第一回として、津田大介が、それなりのインパクトのある記事を書いている。
今回の「ニュース女子」の報道を「メディアが、間違いだらけで、偏見と憎悪に基づく番組を放送してしまった。…根底にあるのは沖縄への差別意識以外のなにものでもない」「ほかのメディアはこの問題に対して、もっと怒るべきだ。そうしないと、政府が放送に介入するきっかけを作ってしまう」と言っている。

幾つか、感想を述べておきたい。
先に今回の謝罪を評価すると述べたが、必ずしも満足しているわけではない。東京新聞が、読者に何を謝り何を反省しているのかが、必ずしも明確でないのだ。自社の幹部の肩書きを持つ者の不祥事として、監督不行き届きを謝罪しているのだろうか。あるいは、何らかの内規違反なのだろうか。さらには、ジャーナリストの風上におけぬ輩を社内のしかるべき地位に就けていたことなのだろうか。

この件の反省と謝罪は、真っ先に長谷川幸洋(論説副主幹)自身がすべきであろう。本日の紙面には、長谷川幸洋が自らの責任を認めている記事がない。おそらくは、長谷川は反省していないのだ。であれば、東京新聞として、その責任を明確にしなければなない。いったい、どのような経過で、沖縄ヘイト番組が作られ、その制作に長谷川がどう関わったのかが、明らかにされなければならない。今のところ、その作業がなされた形跡はない。

私は、1面の謝罪記事の「他メディアで起きたことではあっても責任と反省を深く感じています。とりわけ副主幹が出演していたことについては重く受け止め、対処します。」の部分を、最初は迂闊にも「処分します」と読んで、あとで間違いに気が付いた。「対処」は、「処分」も含むのだろうが、処分以外の対処もあり得る。さて、東京新聞は、これからこの問題にどう対応するだろうか。

もう一つ、この問題の対応には、大手の広告スポンサーであるDHCが絡んでいる。「ニュース女子」は、東京MXテレビの制作番組ではない。DHCの子会社であるDHCシアター制作の持ち込み番組である。DHCは東京MXテレビの最大スポンサーであるとともに、ヘイトスピーチを恥じない吉田嘉明が主宰する企業でもある。スラップ訴訟を提訴して恥じない企業である。明らかにDHCの息のかかったこの番組にたいする批判は、DHC批判に直結する。東京新聞も広告スポンサーであるDHCを意識せずには批判を徹底できない事情がある。それでも、経済事情よりはジャーナリズムの使命を優先して、ブレないことを示してもらいたい。

そして、反省皆無のDHCシアターに、腹の底からの怒りの一言を記しておきたい。「言論活動を一方的に『デマ』『ヘイト』と断定することは言論弾圧」だと? その開き直りに、開いた口が塞がらない。

報道とは、真摯な取材によって確認された正確な事実を伝えることである。そして、正確な事実に基づく公正な論評をすることでもある。放送メディアは、そのことを放送法(4条)で義務付けられてもいる。ところが、DHCシアターのやったことは、取材もせずに不正確な事実を伝えた。これを『デマ』という。さらに、不正確な事実を前提に差別感情丸出しの偏見を述べたのだ。これを『ヘイト』という。DHCシアターの「ニュース女子」こそは、真正の『デマ』と真正の『ヘイト』というべきなのだ。ヘイトは「沖縄ヘイト」と「在日ヘイト」の両者を含んでいる。

「DHC」と「DHCシアター」と「東京MXテレビ」と、そして東京新聞論説副主幹「長谷川幸洋」の4者に、『デマ』『ヘイト』の刻印を押そう。真摯な謝罪があるまでは、その『デマ』『ヘイト』の刻印を強く深く押し続けよう。
(2017年2月2日)

トランプ・橋下、そしてアベ。蔓延するポピュリズムの構造。

トランプ・橋下、そしてアベ。蔓延するポピュリズムの構造。

昨日(11月26日)の毎日「メディア時評」欄に元朝日新聞記者・稲垣えみ子が「負けたのは誰なのか」と題して寄稿している。明晰で示唆に富む優れた時評となっている。結論から言えば、負けたのは「真っ当なメディア」なのだという。メディアが有権者から浮き上がって、その真っ当な言説が、トランプ・橋下、そしてアベらを支持する「庶民」に届かないことを指摘している。

筆者は、トランプの勝利をかつての大阪での橋下徹登場の際のデジャビュとして、民主主義の現状に警鐘を鳴らしている。アメリカだけの問題ではない。日本も同じだ。しかも、大阪・橋下だけの問題ではなく、アベ政権を支えている「ポピュリズムの構造」そのものが問題だという指摘である。

「メディア時評」であるから、「庶民から浮き上がったマスコミが、(権力監視の)役割が果たせない事態」についての指摘となっているが、問題はメディア論にとどまらない。アメリカとそれに続くヨーロッパの事態を、橋下・アベに引きつけて、他人事でなく、「これは我々の問題」「民主主義の危機」ととらえている。

筆者は、橋下人気が絶頂だったころに朝日新聞大阪社会部で教育担当デスクをしていて、そのときの「ポピュリズムの構造」の「恐ろしさ」を実感したという。これは、貴重な指摘だと思う。このことについての対策や処方にまで言及されているわけではないが、すくなくとも、橋下やアベを支持する「庶民」を愚民呼ばわりするだけでは何の解決にも至らないことが示唆されている。多くの人びとを説得する言論はどうあるべきか。考えなければならない。

あまり目立つ記事ではないので、紹介することだけでも意味があると思う。

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 トランプ大統領の誕生には驚いた。だが私は既に同じものを何年も前に見ている。
 既得権者への攻撃で支持を集める、ツイッターで刺激的な発言を繰り返し有権者に直接アピールする、過激な政策をマスコミがいくら批判しても支持は陰らない--トランプ現象は、かつて大阪で巻き起こった橋下徹氏のブームとうり二つであった。
 橋下人気が絶頂だった時、私は朝日新聞の大阪社会部で教育担当デスクをしていた。君が代強制、教育委員会制度の抜本改革……氏が次々と打ち出す施策は我々から見れば戦争への反省から生まれた教育の否定であった。問題点を指摘する記事を連日出した。だがこれが読者に全く響かない。それどころか「足を引っ張るな」という電話がガンガンかかってくる。
 恐ろしかった。何が恐ろしかったって、それは橋下氏ではなく、読者の「感覚」からいつの間にかかけ離れてしまった我々のボンクラぶりであった。マスコミとは権力を監視し、庶民の味方をする存在のはずである。ところがいつの間にか我々は「既得権者」として橋下氏の攻撃を受け、その氏に多くの人々が喝采を送っていた。  一体我々とは何なのか? 何のために存在しているのか?
 この事態は今も続いている。安倍政権の政策にマスコミが反対しても世間は動かない。閣僚が問題発言をしても支持率は陰らない。それどころか権力を監視するマスコミの方が権力だと見なされている。アメリカで起きていることも同じだ。マスコミがトランプ氏のうそや破廉恥行為を暴いても有権者に響かない。マスコミはエリートで「我々の味方ではない」と考える人々が多数派となったのだ。
 権力は暴走し腐敗する。それを監視する存在なくして民主主義は成立しない。庶民から浮き上がったマスコミにその役割が果たせないなら民主主義の危機である。これは我々の問題なのだ。
 そんな中、毎日新聞は10日朝刊の記事「拡散する大衆迎合」で、大衆迎合主義が欧州で広がっていると嘆いた。まるで人ごとだ。大衆迎合でない民主主義などない。自分たちは大衆とは一線を画した存在だとでも言いたいのならそれこそが深刻な危機である。
(2016年11月27日)

いびつな言論空間のなかで、「真っ当な言論」の自由を守るために

一昨日(11月16日)、むさしの憲法市民フォーラムが主催する、「シンポジウム 今、言論、表現の自由のために」に聴衆の一人として参加した。会場は、武蔵境のスイングホール。パネラーが、植村隆、醍醐聰、神原元の3名であるからには、どうしても行かねばならない。

参加者の熱気がパネラーの熱意を呼び、充実した集会となった。事前の集会のコンセプトが練られた集会ではなかった。ところが、却ってその未整理の混沌が、力強い問題提起となった。今日の言論状況を、浮き彫りにする結果となって、考えさせられる素材の提供を受けたと思う。

植村さんは、「言論弾圧・歴史修正主義と闘うジャーナリスト」として、「植村バッシング」の経過を報告した。植村バッシングのえげつなさについての被害者本人ならではの説明のあと、一連のバッシングの目的を、「改憲をたくらむ歴史修正主義者たちによる『リベラル朝日』を萎縮させ、慰安婦問題をタブー化させる攻撃」とまとめた。それゆえ、絶対に屈することができないとも。

醍醐さんは、「メディア(NHK)の自由・自立と使命をめぐる論点」として、NHKの政権翼賛メディアに堕している実態を告発した。本来権力に対する監視の役割をレーゾンデートルとするはずのメディアが、「準」国策報道機関の域を超えて、「純」国策報道機関となっている。政権浮揚に手を貸して国民(視聴者)を裏切っている実態を、民放報道と比較した幾つもの具体例を挙げた。

また、神原さんは、「なぜ、いまヘイトスピーチなのか」として、その禍々しい実態をレポートした。安倍政権の成立とともにヘイトスピーチ、ヘイトクライムが跋扈してきたことの報告が印象的だった。

集会のメインタイトルが、「今、言論、表現の自由のために」である。通常、公権力の規制に抗しての「言論、表現の自由」は、民衆にとって、あるいは国民大多数にとって価値ある望ましいものである。だから、「言論・表現の現状」の問題性は、「言論・表現の自由の寡少」として語られる。

しかし、東京地裁・札幌地裁に係属している2件の「植村訴訟」では、櫻井よしこや西岡力ら被告右翼側が、憲法21条の表現の自由を援用している。また、ヘイトスピーチ・ヘイトデモをもっぱらにしている在特会すらも、自らの行動の正当性を「表現の自由」で粉飾している。NHKの対政権擦り寄り姿勢も、「報道の自由」「編集権の裁量」の美名で糊塗されかねない。

植村バッシングの言論も、民族差別の表現も、政権と一体になったNHKの報道等々についての問題性は、「言論・表現の自由の寡少」が問題ではなく、「言論・表現の自由の濫用」状況にいかに歯止めをかけ得るかとして問われなければならない。

この点を醍醐さんは、「従来言論の自由は、『公権力』対『メディア・市民』という対抗関係でとらえられ、メディアの国家の干渉からの自由が、市民の利益にかなうものと受けとめられてきた。しかし、メディアと市民は必ずしも、利害を同一にするとは限らない。また、市民対市民の中傷誹謗の言論の問題も無視し得ない。それぞれに様相が複雑化している」とした上で、「言論の自由は、それ自体が目的ではなく、真理に近づく熟議を可能とする前提として価値がある」「言論の自由は権力者によってだけではなく、偏狭な排他主義、『世間』『組織』の同調圧力によっても、脅かされる」と発言した。これは、真理に近づく熟議を可能とする前提としての言論でなくてはその自由を擁護すべき価値はないとの含意であろうし、公権力に対する警戒だけでなく、偏狭な排他主義からなる身近な世間の同調圧力となっている言論をも警戒せよ、との警鐘でもある。

また、神原さんは、1930年代ドイツにおけるケルゼンやラートブルフの論説を引いて、民主主義や自由を否定する言論に対しては、寛容を以て遇するのではなく、果敢に闘わざるを得ない、と述べた。

渦中にいる人たちの焦慮が伝わってくる。ヴォルテールの名言と伝えられる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る」などと言っておられる事態ではないということだ。

好例がヘイトデモであり、植村バッシングである。ヘイトデモの暴力性は、ようやく社会の共通認識となってきたが、これが言論の域にとどまるものとしても、差別の表現に寛容であれなどと言ってはおられない。人間の尊厳を攻撃し貶める言論には果敢に闘わざるを得ない。

植村バッシングも基本は同じ。こちらはもっと手が込んでいて、悪質と言えよう。産経や文春、西岡、桜井らの言論は、それぞれの役割を補完しつつ一体をなしている。実は、産経や文春、西岡、桜井らは氷山の一角の頂点をなす存在で、その下部には水面下深く、巨大な匿名集団が存在している。産経や文春、西岡、桜井ら頂点の存在は、暗い水面下に沈潜する氷塊の司令塔であり、煽動部隊である。産経や文春、西岡、桜井らの煽動によって、百鬼夜行の如く、匿名に隠れたネトウヨたちが蠢動する。攻撃されたのは、植村ひとりではない。勤務先の北星大学をターゲットにして、抗議の電話やファクスが集中した。複数の脅迫状も送られてきた。家族をネットに晒して、卑劣な攻撃をされた。産経や文春、西岡、桜井らは、自分たちの「言論」が及ぼす、暴力や脅迫や、威力による業務への支障や、それによる当事者の恐怖の効果を計算しつつ発言できるのだ。少なくとも、自分の言論において名指しした人物に及ぼす具体的影響について予見可能だし、予見義務もある。

実は、このようないびつな言論空間の中で、非対称の言論・表現が交換されている。この現実を捨象して、抽象的に表現の自由一般を語って、敵対する表現にも寛容であれ、などと述べることは、粗暴な強者の側に屈服することにほかならない。

植村さんが、あの時点で敢然と提訴したことは、たたかう姿勢を見せたことだ。裁判を基軸に、朝日バッシングと歴史修正主義に対抗する運動が盛り上がりを見せて、確実に成果をあげている。

今日(11月18日)、たまたまご近所の集会所で植村さんを招いての「メディアバッシングと報道の自由を考える集い」があった。出席の多くはジャーナリストの皆さん。

植村さんの講演のあと、「植村さんの姿勢に励まされた」「植村さんを支えて最後まで闘いたい」とのジャーナリストの発言が続いた。

闘う相手は、産経や文春、西岡、桜井だけではない。政権も含む巨大なもの。もしかしたら時代の潮流そのものというべきものなのかも知れない。そして、闘いは、訴訟の場における法的問題にとどまらない。歴史修正主義や差別の言論への批判に、躊躇があってはならない。メディアバッシングを許し、反権力・反多数派の報道の自由を形骸化させてしまっては、取り返しのつかないことになる。それこそ、真理に近づく熟議が、不可逆的に不可能となりかねないのだから。
(2016年11月18日)

国会議員は批判を甘受しなければならない

辺野古・高江の、基地反対運動からは目を離せない。厳しいせめぎあいの中では、いろいろと驚くべきことが生じる。目取真俊の身柄拘束にも、本土機動隊員の「土人」「シナ人」発言にも、そして松井知事の差別容認姿勢にも驚いたが、これと並んで島袋文子さんへの出頭命令にも驚ろかざるを得ない。87歳・車椅子の身で、今や現地の運動のシンボルとなっているこの人に、警察からの呼出である。被疑罪名が暴行か傷害かは明らかにされていない。告訴状が出ているのか、被害届だけなのかも定かでない。ともかく、名護署が、文子さんを呼び出して取り調べを始めたのだ。

被疑事実は、今年5月9日辺野古でのことのようだ。被害を受けたと主張しているのは、「日本のこころ」の和田政宗参議院議員とその「同行者」ないしは「スタッフ」である。

和田議員は自身のツイッターで次のように繰り返してきた。
「沖縄辺野古で、不法占拠のテントを撤去し合法的な抗議活動をするよう訴えたが、我々の演説を活動家達は暴力を振るい妨害。私は小突かれ腕をひっかかれ、スタッフは頬を叩かれたり、プラカードの尖った部分で顔面を突かれ転倒。警察と相談し対処する」

「5月に沖縄辺野古キャンプシュワブ前で道路用地にテントを張り不法占拠する活動家達に、不法占拠をやめるよう呼びかけた。その際、私と我が党スタッフが活動家達に暴行を受けたが、先日、警察に相談し被害届を提出した。憲法で保障される政治活動や表現の自由を力で阻止するというもの。戦わねばならぬ」

このような和田議員の発信をフォローしたネットニュースのIWJが、文子さん取り調べに関して和田議員を批判する記事を書き、同議員がこれを「捏造記事」だと反批判している。この点に、私は関心を向けたいと思う。和田議員もジャーナリスト(NHK)出身である。報道の自由に理解はあろうと思う。

和田政宗議員がIWJの報道を批判しているのは、10月18日の以下のブログである。抜粋では不正確となりかねないので、全文を引用する。
「岩上安身氏率いるIWJ ジャーナリズムにあるまじき捏造記事
ジャーナリスト出身者として、岩上安身氏率いるIWJが明かに嘘をついた記事をネット上にアップしたので反論するとともに、ジャーナリズムとしてやってはならないこと(右であろうと左であろうと)をしているので糾弾します。
まず当該記事を書いた佐々木氏の取材申し込み(2回)に対して、私と我が事務所は「お会いして取材をお受けします」と明確に回答しています。
言った言わないになるといけないので、私は電話取材でなく原則面会で取材を受けています。
悪意のある記者の「取材拒否された」を防ぐため、私も我が事務所も明確に「取材は受けます」と答えていますが、佐々木記者は「取材に応じず」と言っています。明確な虚偽にあたります。
ジャーナリズムとしてやってはならないねつ造です。
そして、私は島袋氏を訴えていません。
沖縄・辺野古において我々の正当な政治活動を活動家達が妨害しました。
私は、私に暴行した2人の男について被害届を出しましたが、島袋氏には被害届を出しておりません。
島袋氏は我々に暴行を繰り返したので、やめて、やめなさいと言いましたが、非暴力の我々を繰り返し叩き続け、同行者がかなり強い平手打ちを受け、同行者が被害届を出したものです。
記事を書いた佐々木氏は動画に暴行の現場が写っていないと言いますが、すべての動画が公開されているわけではありません。
公開されていない証拠映像は警察に提出済みです。

佐々木氏が「どこの世界に、87歳のおばあちゃんに対して暴行の被害届を出す「国会議員」がいるだろうか。健康で強壮な大の男のやることか。男として恥ずかしくないのか。」というのは、明らかに事実に反する誹謗中傷であり、謝罪と訂正がなければしかるべき措置を取ります。
事実に基づいて批判をするなら批判は甘んじて受けますが、取材を受けると言っているのに「取材に応じず」いうねつ造、岩上氏本人も事実を確認しないまま事実に反するツイッターをリツイートしています。

ジャーナリズムにあるまじき行為については、ジャーナリズム出身者として断固たる措置を取ります。」

この記事に、批判の対象としたIWJの記事(以下IWJ記事)のURLが付されている。内容は以下のとおり。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/339597

「高江で座り込みを続ける87歳の「文子おばあ」こと島袋文子さんから「暴行を受けた」と被害届を出した「日本のこころ」和田政宗議員!42歳!!IWJは再三取材を試みるも応じず!

たとえ「自称」であっても、日本の「保守」はここまで墜ちてしまったのだろうか。2016年5月、ある国会議員が沖縄・辺野古のキャンプ・シュワブゲート前で、基地反対派の市民から「暴力行為を受けた」として被害届を出した。

被害を訴えたのは、まがりなりにも「保守政党」を自称する、「日本のこころを大切にする党」参議院議員の和田政宗氏。42歳の男盛りである。訴えられたのはなんと、車イスで歩くのもままならない87歳のおばあちゃん、島袋文子さん(通称「文子おばあ」)である。」

さあ、これが国会議員の名誉を毀損する「捏造記事」だろうか。
整理してみよう。
和田議員が、「捏造」というのは、次の2点である。
(1)「IWJは再三取材を試みるも応じず!」
この記事は、和田議員側からは、「IWJは、(和田議員に、裏をとるために)再三取材を申し込んだが拒否された」と読めるが、真実は「2回の取材申込みはあったが、取材を拒否していない。取材は受けると告げている」。だから、記事は捏造。
(2)「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」
 和田議員は、議員に暴行した2人の男性については被害届を出しているが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。だから、この記事は捏造。

IWJの批判記事が、国会議員である和田議員の名誉を毀損する違法なものと言えるかの高いハードルは幾つもあり、これを乗り越えることは難しい。このことは、ジャーナリストでもある和田議員自身がよく分かっていることと思う。

最初のハードルは、IWJ記事が、普通の読者の普通の読み方で、客観的に議員の社会的評価をおとしめて、名誉を毀損するものと言えるか、という点。

「IWJは再三取材を試みるも応じず!」が、メディアからの取材申し出を無視する民主主義社会の議員にあるまじき事実の指摘として和田議員の社会的評価をおとしめるものと言えるだろうか。IWJ記事は議員の涜職や政治資金規正法違反や人権侵害やスキャンダルをあげつらうものではない。「IWJは再三取材を試みるも応じず!」程度の事実の摘示で、国会議員の社会的評価が揺らぐとは到底考えられない。それが常識的な健全な判断と言うべきではないか。

もうひとつは、「参議院議員の和田政宗氏が「暴力行為を受けた」として島袋文子さんを被疑者とする被害届を出した。」という点である。
これも、暴力を受けたとするものが被害届を提出した、という事実摘示。言われた者の社会的な評価をおとしめる事実摘示とは考えられない。

IWJ側は、記事が不正確だという和田議員の指摘には真摯に対応すべきが当然である。しかし、それは飽くまでジャーナリストとしての倫理の問題で、IWJ記事が違法ということとは次元の異なる問題である。

仮に、和田議員がこの第1のハードルを越したとしても、IWJ記事が公共の事項に関わるもので、公益目的で書かれていることには疑問の余地がない。

すると、第2のハードルは、摘示の事実が主要な点において真実ではないと言えるかである。事実摘示の真実性は、必ずしも完璧なものである必要はない。主要な点において真実であればよい。
(1)については、「取材を試みるも応じず!」の主要な点における真実性はかなり高いものと思われる。「少なくとも2度の要請があって取材に応じなかった」ことは和田議員の認めるところである。この点の(少なくとも主要な点の)真実性が認定される可能性は限りなく高い。

(2)については、和田議員は、「議員に暴行した2人の男性については被害届を出したが、島袋氏には被害届を出していない。島袋氏に被害届を出したのは同議員ではなく、同行者である。」という。これが本当だったとして、確かにIWJ記事(2)は正確性を欠いている。しかし、和田議員と同行者の「被害者グループ」が被害届を出しているのだ。主要な点において真実と言える可能性は残されている。

そして最後に、真実と信じるについて相当な理由があったのではないかという、相当性のハードルである。以上の諸事情から、これは問題ない。軍配はIWJ側に上がることになるだろう。

要は、表現の自由と、批判対象の名誉権との調整との問題である。批判対象者の属性によってこの調整の原理は大きく異なることになる。この程度の記事が、一々国会議員の名誉毀損と言われたのでは、ジャーナリズムの萎縮は免れない。公権力の側にいる者は批判の言論を甘受しなければなない、と言うことなのだ。それは、意見や論評についてだけのことではない。事実摘示の問題に関しても同様なのだ。

米連邦最高裁の判例に定着した「現実的悪意の法理」と言うものがある。これは、公的立場にある者に対する批判は、誤った言論といえども保護に値する有益性をもつという理解から、表現者に「現実的悪意」があったことの立証に成功しない限りは名誉毀損が成立しないとする法理である。連邦最高裁の用語を引用すれば、「現実的悪意」とは、真実でない表現について表現者が「虚偽であることを知っていた」か「虚偽であるか否かを不遜にも無視した」ことを指す。

公的人物に限ってのことだが、これは批判の言論の自由を尊重するもの。多少は間違っていてもよいのだということなのだ。単に論評の領域だけではなく、事実摘示の分野についても同様なのだ。我が国の訴訟実務では、「相当性の理論」の限度ではあるが、国会議員は事実摘示を誤った報道についても、批判の言論を甘受しなければならない。この程度の批判の記事に「捏造」「しかるべき措置を取る」というのでは、国会議員としての大度に欠けるというほかはない。
(2016年10月25日)

2020年「パンとサーカス」に喜々とする市民になるなかれ。

ようやく、リオ・オリンピックの狂騒が終わった。ところがメディアは、「さあ、次はいよいよ東京オリンピック」「この感動を東京につなげよう」という。この狂騒が、そっくり東京に来るのかと思うとやりきれない。2020年8月には、本気で東京疎開を考えなければならない。

もっとも、私はオリンピック全否定論者ではない。どんなテーマであれ、国際交流が相互理解と平和のために望ましいのは当然であるから。情報と資本と商品の流通だけでなく、人と人とが国境を越えて直接に行き来して、言葉を交わし、気持を通わせることは平和の礎である。

観光も、留学も、文化や学術の交流も、ますます盛んになればよい。それぞれが外国と外国の人や生き方を見ることが友好の第一歩だ。国際結婚ももっと増えて人種や民族の混交が進めば、差別意識もなくなってくるだろう。友情の絆や親族関係が国境を越えて張り巡らされれば、やがては国境そのものが不合理な存在となり、国際紛争も戦争の火種もなくなってゆくに違いない。

国籍や人種や民族、宗教の異なる人びとの大規模な交流の場として、オリンピックの意義がある。「堅固な平和の礎を築くことを目的とした交流の祭典」としての意義である。リオでの難民チームの結成は快挙というべきだ。自国の旗を背負うことを拒否するアスリートを束ねたチームの結成はできないものだろうか。国ごとのチーム編成を払拭できれば、さらに素晴らしい。

ところが、為政者もメデイアも、オリンピックをナショナリズム高揚の絶好の機会と捉え、あるいは国威発揚の場として利用しようとしている。これが、鬱陶しくてうんざりなのだ。メダルの数や色など、選手には関心事だろうが、はたが騒ぐほどのことではない。

オリンピックを取り巻く現実は、理想にほど遠い。日刊ゲンダイは「五輪メリットは『国威発揚』 NHKが憲章と真逆の仰天解説」と報じている。
「ビックリ仰天した視聴者も多かっただろう。21日のNHKの番組『おはよう日本』。オリンピックを扱ったコーナーで、『五輪開催5つのメリット』としてナント! 『国威発揚』を挙げていたからだ。
 『リオ五輪 成果と課題』と題し、刈谷富士雄解説委員が登場。…驚いたのは次の場面だ。
『何のためにオリンピックを開くのか。その国、都市にとって何のメリットがあるのか』と投げ掛けると、五輪のメリットとして真っ先に『国威発揚』を示したのだ。」

戦時には、「日本勝った」「強いぞ我が軍」という記事こそが、新聞の部数を伸ばした。だから、各紙が挙って従軍記者を戦地に送った。無名のむのたけじだけでない。文名赫々たる岡本綺堂や石川達三も戦地に行って記事を書いた。あれと同じ構造。メディアはオリンピックで、ナショナリステックな感動を大売り出しして、シェアの拡大をねらう。そんな画策に乗せられてはならない。

リオ大会の閉会式には、アベと小池の醜悪コンビが顔を揃えた。それだけで、もううんざりだ。

ところで、閉会式では信じがたい演出がなされた。画像に、ドラえもんが用意した不思議な「土管」が映し出される。この土管が、東京から垂直に下りて地球の裏側リオにまでつながる。マリオがこの土管を伝わって、東京からリオに移動するという設定。これは悪い冗談だ。見る人誰にも原発事故でのメルトダウンからチャイナシンドロームを想い起こさせる。しかも、閉会式会場に設置された土管から出たマリオの帽子と服を脱ぐとアベが現れるという仕掛け。2013年9月に、ブェノスアイレスでのIOC総会で、「福島第1原発の放射線は完全にブロック」「アンダーコントロール」と言ったそのアベが、チャイナシンドロームで開いた穴から出て来るというのだ。ブラックジョークのつもりか、あるいは悪意の当てこすりなのだろうか。アベは、どうしてこんな演出に喜々としていられるのだろう。

オリンピックのうさんくささは、ナショナリズムだけが原因ではない。「パンとサーカス」という言葉を思いださせるからだ。

かつてのローマ帝国における愚民化政策の代名詞が、「パンとサーカス」だ。権力者は市民を愚民に貶めておく手立てとして「パンとサーカス」を提供した。食料の配給は公衆の面前で物乞い行為に対する施しとして行われたという。そして、娯楽を求める市民の要求に応えて提供された見世物が「サーカス」。中でも剣闘士同士の闘いや、剣闘士と猛獣との闘いが人気を呼んだ。民衆はこのよう娯楽を十分に与える権力者を支持し従順となった。現代のオリンピックも恰好の見世物。ヒトラーは1936年ベルリンオリンピックを最大限利用した。アベも小池も、このことを十分に意識しているに違いないのだ。

戦後占領軍は日本の統治に意識的に3S政策を組み込んだといわれる。スポーツ、スクリーン、セックス(またはスピード)。これも、民衆の社会的な自覚や、政治への関心から目を逸らせるための愚民策。オリンピックはこれと重なる。

繰り返すが、私はオリンピックを全面否定はしない。しかし、アベや小池の愚民化政策に乗せられて、政権批判を忘れて「パンとサーカス」に喜々とする市民になるのは、まっぴらご免だ。
(2016年8月23日)

むのたけじ逝くー「おれなんか70より80と、ますます頭良くなってきた」

昨日(8月21日)、むのたけじが亡くなった。享年101。
戦争に加担した自分の責任を厳しく問い、再びの戦争の惨禍を招くことのないよう社会に発信を続けた、憲法の理念を体現するごとき人生。その良心の灯がひとつ消えた。この人の姿に励まされ希望を感じてきた多くの人々に惜しまれつつ。

東京外国語学校スペイン語科を卒業し、報知新聞記者を経て1940年朝日新聞社に入社、中国、東南アジア特派員となった。若い従軍記者として、つぶさに戦争の実相を見つめたのだ。そして、1945年8月15日敗戦の日に、「負け戦を勝ち戦のように報じて国民を裏切ったけじめをつける」として朝日を退社したという。戦後は、故郷の秋田県横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊、一貫して反戦の立場から言論活動を続けた。

今年(2016年)5月3日、東京有明防災公園での「憲法集会」に車椅子で参加している。そのときの元気なスピーチが、名演説として記憶に新しい。これが公の場での最後の姿となったという。朝日による当日の演説要旨は以下の通り。これがむのたけじの遺言となった。

「私はジャーナリストとして、戦争を国内でも海外でも経験した。相手を殺さなければ、こちらが死んでしまう。本能に導かれるように道徳観が崩れる。だから戦争があると、女性に乱暴したり物を盗んだり、証拠を消すために火を付けたりする。これが戦場で戦う兵士の姿だ。こういう戦争によって社会の正義が実現できるか。人間の幸福は実現できるか。戦争は決して許されない。それを私たち古い世代は許してしまった。新聞の仕事に携わって真実を国民に伝えて、道を正すべき人間が何百人いても何もできなかった。戦争を始めてしまったら止めようがない。

 ぶざまな戦争をやって残ったのが憲法九条。九条こそが人類に希望をもたらすと受け止めた。そして七十年間、国民の誰も戦死させず、他国民の誰も戦死させなかった。これが古い世代にできた精いっぱいのことだ。道は間違っていない。

 国連に加盟しているどこの国の憲法にも憲法九条と同じ条文はない。日本だけが故事のようにあの文章を掲げている。必ず実現する。この会場の光景をご覧なさい。若いエネルギーが燃え上がっている。至る所に女性たちが立ち上がっている。新しい歴史が大地から動き始めた。戦争を殺さなければ、現代の人類は死ぬ資格がない。この覚悟を持ってとことん頑張りましょう。」

しかし、憲法9条はけっして安泰ではない。その後の参院選で、両院とも改憲勢力が3分の2の議席を占める危険事態となった。101歳の叛骨のジャーナリストは、壊憲に突き進むアベ政治に、さぞかし心残りだったろう。

朝日の秋田版に掲載された、「むのたけじの伝言板」というシリーズのインタビュー記事がある。92歳から94歳の当時のもののようだ。その一部を抜粋して紹介したい。

─むのさんは「高齢者」「老後」という言葉は使いませんね。
 高齢なんてのは、官僚の年寄りだましのお世辞だよ。老人は老人、年寄りは年寄り。それだけでいい。老後とは何だ。老いはあるけど、老いた後とは何なんだ。よけい者だというのでしょ。高齢も老後も、老人を侮った言葉。「敬老」じゃなく「侮老」だ。

─敬老会に誘われませんか。
 10年位前に3回行ったけど、本当に小馬鹿にしているよ。安っぽい折り詰めに2合瓶1本つけて、幼稚園の子供のダンス見せて、選挙に出る連中が挨拶して、それでおしまいだもの。年々予算削られるから、ごっつおうもない。なんも面白くね。

─でも喜んでいる人もいるでしょ。
 いるでしょね。それはそれでいい。喜んでいない人もいるということを理解してもらわないと。しかも相当の人数いるんじゃないの。もっと心を込めた、年寄りが長く生きていて良かったと思う行事、何かあるんじゃない。

─年金はもらってますか?
 初めから拒否しているから、ないんです。61年に制度ができたとき、「集めた銭を軍備強化に使う恐れがあるから入らない」と。
 そういう立場だけど、「若者3人が高齢者1人を支えている」というような言い方はおかしいよ。本当の社会福祉、社会保障から見れば、我々を支えているのは、個人じゃなく国家なのだから、みんなでみんなを守るの。社会保障とはそういうもの。
今は、年取ったら介護保険だ、施設だ、と老いることが人間のゴミ捨て場みたいじゃないの。それは間違いだ。おれなんか70歳より80歳と、ますます頭良くなってきた。変なことに惑わされない。頼るのは、自分の常識だよ。

─戦後すぐに平和運動は起きたのですか。
 すぐは、食うのに懸命だった。憲法9条なんて当たり前だから放っておいた。それがよくなかった。この戦争は何だったのか。だれが何のために計画したのか。自衛権まで否定していいのか。そういう勉強をやらなければならなかったのだが、開放感が先に立った。
そして60年安保闘争。国会を70万人が取り囲んだ。政党や労働組合が「平和な世の中を」と叫び、古い政権を倒して新しい政権を作ろうとした。が、これが三文の値打もなかった。

─平和運動の始まりとおもっていましたが。
 平和だ、戦争反対だというけど、スローガンだけになった。本気になって命をかけてなかった。平和運動で何が残ったかというと、「良心にしたがって平和運動に参加した」という自己満足だけ。実の詰まった平和運動ではない。

─むのさんは「地域社会が喜びと希望を持って、どんどん働く力が出てくるような平和運動」を提唱しています。どういうものですか。
 戦争は、国の経済、金もうけとつながっている。みんなが、ほどほどのところで満足していけば、戦争はいらない、やらないに変わっていく。平和運動はこれまで、自分の体の外だけでの運動だったの。デモ行進とか抗議文とか。威勢よくみえるけど、戦争を計画している人には痛くもかゆくもない。スローガンではなくて、生活そのものを変えないと。
戦争反対ならば、自分自身も暮らしぶりを変える。夫婦喧嘩しながら平和を学びたくもないでしょ。隣近所と朝の挨拶もしないで平和国家もないものだ。夫婦の関係、親子の関係をどうするか。そういうことから始めればいい。
 非常にまだるっこいように見えるけど、戦争をたくらむ人たちに決して動かされないような、そういう生活態度につながれば、予算を一つも使わずにできるじゃないの、平和な世界というものが。

これも朝日に掲載された、むのの意見。高市総務相の停波発言への批判だが、むのが戦時の経験から、今を見つめて危機感を持って警告を発していることがよく分かる。

「太平洋戦争が1941年12月に始まりましたね。それからまもなく、私は従軍のために日本を発ち、翌年3月1日にジャワに上陸した。途中で立ち寄った台湾で、日本軍が作った「ジャワ軍政要綱」という一冊の本を見ました。日本がジャワをどのように統治するかというタイムスケジュールが細かく書かれていた。私がいたそれから半年間、ほぼその通りに事態は進んだ。

 その要綱の奥付に「昭和15年5月印刷」の文字があった。ジャワ上陸より2年近く、太平洋戦争開戦より約1年半も前だったんです。つまり、国民が知らないうちに戦争は準備されていたということです。

 もしもこの事実を開戦前に知って報道したら、国民は大騒ぎをして戦争はしなかったかも知れない。そうなれば何百万人も死なせる悲劇を止めることができた。その代わりに新聞社は潰され、報道関係者は全員、国家に対する反逆者として銃殺されたでしょう。

 国民を守った報道が国家からは大罪人とされる矛盾です。そこをどう捉えればいいのか。それが根本の問題でしょう。高市早苗総務相の「公平な放送」がされない場合は、電波を止めるという発言を聞いてそう思ったのです。公平とは何か。要綱を書くことは偏った報道になるのか。それをだれが決めるのか。

 報道は、国家のためにあるわけではなく、生きている人間のためにあるんです。つまり、国民の知る権利に応え、真実はこうだぞと伝えるわけだ。公平か否かを判断するのは、それを読んだり見たりした国民です。ひどい報道があったら抗議をすればよい。総務大臣が決めることじゃないんだ。そんなのは言論弾圧なんだ。

 報道機関は、自分たちの後ろに国民がいることをもう一度認識することです。戦時中はそのことを忘れておったな。いい新聞を作り、いい放送をすれば国民は応援してくれる。それを忘れて萎縮していた。

 戦争中、憲兵隊などが直接報道機関に来て、目に見えるような圧迫を加えたわけではないんです。報道機関自らが検閲部門を作り、ちょっとした軍部の動きをみて自己規制したんだ。今のニュースキャスター交代騒動を見ていて、私はそんなことを思い出した。報道機関側がここで屈しては国民への裏切りになります。

 「国境なき記者団」による報道の自由度ランキングが、安倍政権になってから世界61位まで下がった。誠に恥ずかしいことで、憂うべきことです。報道機関の踏ん張りどころです。」

心からご冥福をお祈りする。そして、私もその良心の灯を受け継ぐ一人でありたいと思う。
(2016年8月22日)

次期NHK会長選考に関する要望署名運動へのご協力のお願い

下記の、各地17の視聴者団体が、今日(8月11日)から連名で、NHK経営委員会長宛先にした、署名運動を始めた。

この署名運動への賛同と拡散への協力要請の通知を受けた。
私も署名をして、多くの方への賛同と拡散への協力を要請します。

☆呼びかけ団体は以下のとおり。
 アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
 NHKとメディアを語ろう・福島
 NHK問題大阪連絡会
 NHK問題京都連絡会
 NHK問題とメディアを考える茨城の会
 NHK問題を考える岡山の会
 NHK問題を考える会・兵庫
 NHK問題を考える会・さいたま
 NHK問題を考える堺の会
 NHK問題を考える滋賀連絡会
 NHK問題を考える奈良の会
 NHKを憂える運動センター・京都
 NHKを考える東海の会
 NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
 政府から独立したNHKをめざす広島の会
 「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター(VAWW RAC)
 時を見つめる会
 放送を語る会
 籾井さん!NHK会長やめはったら受信料払います京都の会

☆要望書のタイトルは、
「次期NHK会長選考にあたり、籾井現会長の再任に絶対反対し、推薦・公募制の採用を求める」
というもの。

☆署名による経営委員会長宛の要望事項
1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと
2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること
3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること

☆署名用紙の全文(呼びかけ団体、署名運動の趣旨、要望事項、署名欄、署名用紙の郵送先などを記載)は下記URLを参照してください。
  http://bit.ly/2aVfpfH

☆ネット署名も受け付けています。
  https://goo.gl/forms/G43HP83SSgPIcFyO2
 署名に添えられたメッセージを、個人情報を省いて、ネット上で公開しています。
  https://goo.gl/GWGnYc

☆署名の第一次集約とその提出予定
  第一次集約日 9月10日(土)
  第一次分提出予定日 9月12日(月)
  (9月13日(火)が経営委員会長定例会長となります)

☆ 要望事項に添えられた要請文は下記のとおり。
 来年1月に籾井現会長の任期が満了するのに伴い、貴委員は目下、次期NHK会長の選考を進めておられます。
 私たちは、放送法の精神に即して、NHKのジャーナリズム機能と文化的役割について高い見識を持ち、政治権力からの自主・自立を貫ける人物がNHK会長に選任されることを強く望んでいます。
 籾井現会長は、就任以来、「国際放送については政府が右ということを左とは言えない」、「慰安婦問題は政府の方針を見極めないとNHKのスタンスは決まらない」、「原発報道はむやみに不安をあおらないよう、公式発表をベースに」など、NHKをまるで政府の広報機関とみなすかのような暴言を繰り返し、視聴者の厳しい批判を浴びてきました。このような考えを持つ人物は、政府から自立し、不偏不党の精神を貫くべき公共放送のトップにはまったくふさわしくありません。
 次期会長選考にあたっては、視聴者の意思を反映させる、透明な手続きの下で、ジャーナリズム精神を備え、政治権力に毅然と対峙できる人物が選任されるよう、貴委員会に対し、以下のことを強く要望いたします。

皆さま、ご協力のほど、よろしくお願いします。
  ********************************************************************
ジャーナリズムの本領は、国民の知る権利に応えることにあります。
国民の知る権利の対象は、時の政権が国民に知らせたいことではなく、国民に知らせたくないことにほかなりません。 国民の知りたいこと、知るに値することは、時の政権に不都合なこと。これを国民に知らせることが、NHKの使命ではありませんか。

権力から独立してこそのジャーナリズムです。
政府が右と言おうと左と言おうと、これに左右されるようなことでは、ジャーナリズム失格というほかはありません。

ジャーナリズムの公正とは、権力からの独立と同義にほかなりません。
NHKの公正の度合いは、官邸からの距離ではかられます。官邸の思惑を忖度などけっしてしてはなりません。

NHKの信頼を完全に失った籾井勝人会長は失格というほかありません。
NHKの使命を全うするにふさわしい、識見を持った会長の選考を求めます

(2016年8月11日)

公開討論「テレビ報道と放送法―何が争点なのか」を聴いて

本日(6月16日)、日本記者クラブを会場とした、公開討論「テレビ報道と放送法―何が争点なのか」を会場の片隅で聴いた。この公開討論は、「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものの主張をめぐって、同会と「放送メディアの自由と自律を考える研究者有志」との討論という形のもの。

「視聴者の会」は、一見明らかにアベ政治の応援団。もっと端的に言えば、政権の手先の役割を担っている。これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という「監視の目」を大写しにした例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。変わり映えのしない狭い右派人脈の名が連ねられている。

このような団体との公開討論に意味があるのか疑問なしとしないところだが、「研究者有志」側の醍醐聰さんの事前の呼びかけは、「高市総務大臣の『電波停止発言』や報道の自由、自律、放送メディアの影響力(権力性)などをめぐってさまざま議論が交わされている。これらの点について異なる意見を持つ言論人が公開で討論をする企画が以下のとおり実現することになった。」というもの。

仲間内の議論だけで済ませるのではなく、「異なる意見を持つ者との議論こそが重要」「そのような議論を通じてこそ自分の見解が検証され」「議論が深まる」と言われてみればそのとおりだが、「あまりにも異なる意見をもつ者との議論」が成り立つのだろうか、実りある議論となるのだろうか。

パネラーは、3人対3人。
<放送メディアの自由と自律を考える研究者有志>側は、
 砂川 浩慶(立教大学教授/メディア総合研究所所長)
 岩崎 貞明(放送レポート編集長)
 醍醐 聰(東京大学名誉教授)
<放送法遵守を求める視聴者の会>
 ケント・ギルバート(米カルフォルニア州 弁護士、タレント)
 上念 司(経済評論家)
 小川 榮太郎(文芸評論家、視聴者の会事務局長)

視聴者の会側が求める「放送法遵守」とは、同法4条1項の以下の各号のこと。
第4条1項 放送事業者は、国内放送…の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

会に言わせると、既存テレビ局の放送は、この二号と四号に反して、特定のバイアスをもった政治的なプロパガンダとなっているという。常識的にとても首肯できる主張ではないが、その根拠として持ち出されているのが、特定秘密保護法や安保法制の法案審議段階での各番組の「両論(賛成・反対)放送時間比較」。
 秒単位で測ってみたら、圧倒的に反対論の時間が多かった。これを総合すると、
 特定秘密保護法案の審議に関する報道では、[賛成 26%][反対74%]
 安保法制の審議に関する報道では、[賛成 11%][反対89%]
 ほら、こんなに偏っているでしょう、というわけである。今日の討論会でも、「1対9はおかしいでしょう」と、執拗に繰り返された。

この検証をしたのは、「一般社団法人日本平和学研究所」という組織。社団法人で、「平和学」を専門とする研究機関なら権威があろうかと思わせるが、ネットを検索するとこの組織は、
 登記年月日:平成27年10月15日
 役員:代表理事 小川榮太郎
    理事   長谷川三千子
というもの。なお、いうまでもなく一般社団法人の設立は届出だけで可能である。

視聴者の会の事務局長を務める小川榮太郎とは何者か。そのことについて、「リテラ」というネットニュース記者の会場発言が印象的だった。私は初めて知ったことだが、「リテラ」の記事を引用する。
 http://lite-ra.com/2015/12/post-1827.html

「同団体(視聴者の会)と安倍首相との関係。鍵を握っているのは「視聴者の会」の事務局長を務める小川榮太郎氏だ。『視聴者の会』を立ち上げ、実質的に仕切っている人物で、同会がテレビの報道内容の調査を委託した『一般社団法人日本平和学研究所』の代表も小川氏が務めている。
 その小川氏は、自民党総裁選直前の2012年9月、『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)という“安倍礼賛本”を出版、デビューしており、この本がベストセラーになったことが、安倍首相復権の第一歩につながったとされている。
 ところが、この「視聴者の会」の首謀者の著書を、安倍首相の資金管理団体である晋和会が“爆買い”していたことがわかったのだ。
 この事実を報じたのは、「しんぶん赤旗」日曜版(12月13日号)。同紙によると2012年10月に丸善書店丸の内本店で900冊、11月に紀伊国屋書店でも900冊購入していたという。
〈「晋和会」の12年分の政治資金収支報告書には、書籍代として支出先に大手書店の名前がずらり。収支報告書に添付された領収書を見ると、小川氏の『約束の日』を少なくとも2380冊、計374万8500円購入していることが分かりました。〉(同紙より)
 本サイト(「リテラ」)でも晋和会の収支報告書を検証したところ、赤旗が報じたよりももっと大量に小川氏の『約束の日』を購入している可能性があることがわかった。同書が発売された2012年9月から12月にかけての収支報告書にはこんな巨額の書籍購入記録がずらりと並んでいた。(中略)
 その総額は実に700万円以上! しかも、興味深いのは安倍首相が版元の幻冬舎だけでなく、紀伊国屋書店はじめ複数書店で大量購入していることだ。
 支持者に配るためというなら、版元から直接購入すればいいだけの話。それをわざわざ都内の各書店を回って、買い漁っているのは、ようするに、買い占めによって同書をベストセラーにするという作戦だったのだろう。(以下略)」

この事実を念頭に、視聴者の会の主張を聞くとその評価はがらりと変わることになる。つまりは、表向きの主張(知る権利の擁護)とホンネ(アベ応援目的)との乖離が見えてくる。ホンネはマスメディアの安倍批判を牽制しようということとみれば、表向きの主張はご都合主義のきれいごとに過ぎないのだ。

しかし、醍醐さんは、視聴者の会の表向きの主張に真っ向から丁寧に付き合う。主張の背景にあるもので相手を攻撃しない。こんな相手でも、その人格を認めて意見交換を行うことに価値ありという立場なのだ。多分天性のものもあろうし、学生を教えてきた職業的な真摯さが板についていることもあるのだろう。まずは、相手の言い分にじっくり耳を傾けようという姿勢。真似ができない。

政権の応援団として、政権批判の言論を牽制しようという彼らも、民主主義や自由主義、表現の自由を否定しない。むしろ、自分たちこそ、その理念の体現者だという。だから、危ういながらも、議論の出発点としての共通の土台はある。醍醐さんが設定したのは「知る権利」だった。

メデイアの表現の自由とは、国民の知る権利に奉仕するためにある。国民は、メディアが伝える事実やその事実に付随する見解・評価を咀嚼して自らが判断し、主権者としての自らの意見を形成する。

特定秘密保護法や戦争法の法案など、国や国民の命運に関わる重要法案の審議において、メデイアが国民に伝達すべきは、圧倒的に優勢な権力側が提供する情報ではない。これに賛成する意見の垂れ流しでも形式的な賛否の平等でもない。メディア本来の役割は、政府提案の内容や根拠や背景を徹底して吟味しその問題点や、政府案の欠陥をえぐり出して国民に提示することである。そうして初めて、国民は自己の判断に資する情報や評価に接しえたことになる。断じて賛否の時間的なバランスが大切なのではない。どだい、「視聴者の会」がいう賛否の色分けも曖昧なもので、納得できるものではない。

時間で測定した形式的平等に固執し、「賛否の時間比が、1対9」と繰り返す視聴者の会側の3人は、私には政権擁護派の愚論としか聞こえない。メデイアの現状を知る国民に影響力あるとは思えないのだ。しかし、もしかしたら、彼らは俗耳に入りやすいことを計算した巧妙な議論を展開しているのかもしれない。とすれば、愚論と切って捨てることでは問題の解決にならない。その場合には、丁寧に学生と交流し学生を諭す醍醐さん流の正攻法が唯一の有効策なのかも知れない。
(2016年6月16日)

安心して叩ける「水に落ちた舛添」をどこまで打つべきか

政治資金収支報告書虚偽記載問題についての舛添要一都知事による釈明記者会見は、火に油を注ぐ結果となった。まずは、世論の反応の健全さを肯定評価したい。

都庁ホームページの「知事の部屋」で、動画として繰りかえし見ることができるし、発言の全文が文字に起こされてもいる。知事には相当に辛い内容だが、早期にアップしたことにはそれなりの敬意を表さねばなるまい。
  http://www.metro.tokyo.jp/GOVERNOR/KAIKEN/TEXT/2016/160513.htm

舛添バッシング一色ともいうべき、この世論の反応は、政治資金公開制度が正常に作動した結果といってよい。これが、政治資金の動きを公開することによって、政治や政治家を「国民の不断の監視と批判の下に晒す」ことの効果だ。彼は、既にレイムダックであり、水に落ちた犬となっている。もはや彼のいうことに、何の説得力もない。リーダーとしての仕事はできない。

政治資金規正法には、世論の監視に期待するだけではなく、「政治資金の授受の規正その他の措置を講ずる」こいう側面もある。規正によって、「政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与する」ということ。

こちらは、知事が主宰する政治団体の政治資金収支報告書虚偽記載を犯罪として処罰することを想定している。私は、水に落ちた犬を寄ってたかってむち打つ仲間に加わろうという趣味はないが、いくつか、やや不正確なコメントが見られるので、次のことだけを記しておきたい。

※「政治資金規正法の虚偽記載罪は、政治団体の会計責任者(あるいは会計責任者の職務を補佐する者)の身分犯で、政治団体の代表者(舛添)の犯罪ではない」
第一次的にはそのとおりである。しかし、舛添の私的なホテルの宿泊費支出を「会議費用」として収支報告書に記載したことに、舛添が絡んでいないはずはない。結局は、共同正犯(刑法60条)が成立し、同法65条1項(身分犯の共犯規定)により、舛添についても虚偽記載罪(政治資金規正法25条1項)が成立する。

※「報告書への虚偽記載罪は故意犯なので、『間違いだった』で済まされてしまう。」
これも間違い。政治資金規正法27条2項は、「重大な過失により、…第25条第1項の罪(虚偽記載)を犯した者も、これを処罰するものとする。」となっている。

※「報告書を事後に訂正すれば、虚偽記載罪は結局不可罰となる」
とんでもない大間違いである。虚偽を記載した報告書の提出によって、犯罪は完成する。その後の訂正は、犯罪の成否に何の関わりも持たない。「訂正すれば問題がないだろう」とは、いかな軽率者も口にしてはならない。むしろ、事後の訂正は、犯罪の自認にほかならない。

※「有罪になつても必ずしも公民権停止とはならない。執行猶予がつけば、あるいは罰金刑の場合は公民権停止を免れる」
これも不正確な言なので、条文を掲記しておく。
政治資金規正法第28条1項 (第25条・虚偽記載)の罪を犯し罰金の刑に処せられた者は、その裁判が確定した日から五年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を有しない。
 また、(刑の執行猶予の言渡しを受けた者については、その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間)選挙権及び被選挙権を有しない。

同条2項は、禁錮刑実刑に処せられた者については、「その裁判が確定した日から刑の執行を終わるまでの間+5年間」が、執行猶予の場合は、「その裁判が確定した日から刑の執行を受けることがなくなるまでの間」が公民権停止期間としている。

もっとも、以上の「5年」は原則で、裁判所は判決で、これを短縮することもゼロとすることも、情状によっては可能である。

選挙で選出された地位にある現職者は、公民権停止の効果としてその職を失う。

※なお、舛添に「会計責任者の選任・監督に過失(重過失である必要はない)があれば」、最高50万円の罰金に処せられる(25条2項)。これにも、原則5年の公民権停止がつくことになる。

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ところで、舛添バッシングに関して、傾聴すべきブログの記事を目にした。
以下は、宮島みつやという論者による筆の冴えである。タイトルは、「舛添より酷かった石原慎太郎都知事時代の贅沢三昧、登庁も週3日!それでも石原が批判されなかった理由」というもの。
  http://lite-ra.com/2016/05/post-2228.html

…この問題では、舛添都知事をフクロ叩きにしているマスコミがなぜか一切ふれない事実がある。それは、東京都知事の豪遊、税金での贅沢三昧が、石原慎太郎・都知事の時代から始まっていたということだ。いや、それどころか、1999年から2012年まで続いた石原都政での知事の“公私混同”は舛添都知事を遥かに上回っていた。たとえば、04年、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が「『知事交際費』の闇」と題した追及キャンペーンを展開したことがある。「サン毎」が情報開示請求を通じて明らかにしたのは、高級料亭などを使って一回に数十万単位が費やされていた「接遇」の実態だった。これは、他の知事と比べても突出したもので、しかも相手の顔ぶれを見ると、徳洲会理事長の徳田虎雄氏や文芸評論家の福田和也氏など、ほとんどが石原氏の友人やブレーン。ようするに石原氏は“お友達”とのメシ代に税金を湯水のごとくぶっ込んでいたのだ。

 さらに、海外視察も豪華すぎるものだった。石原氏は01年6月、ガラパゴス諸島を視察しているが、公文書によれば、その往復の航空運賃は143万8000円、もちろんファーストクラスを利用していたとみられる。しかも、この視察で石原氏は4泊5日の高級宿泊船クルーズを行なっており、本人の船賃だけで支出が約52万円。この金額は2人部屋のマスタースイートを1人で使った場合に相当するという。なお、随行した秘書などを含む“石原サマ御一行”の総費用は約1590万円だった。

 訪問国や為替レートを考えると、これは、今問題になっている舛添都知事と同じ、あるいは、それ以上の豪遊を税金を使って行っていたといっていいだろう。ところが、当時、この「サンデー毎日」のキャンペーン記事を後追いするメディアは皆無。世論の反応も怒りにはならず、追及は尻すぼみに終わった。

 ご存知のとおり、石原氏は芥川賞選考委員まで務めた大作家であり、国会議員引退後、都知事になるまでは、保守論客として活躍していたため、マスコミ各社との関係が非常に深い。読売、産経、日本テレビ、フジテレビは幹部が石原べったり、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」も作家タブーで批判はご法度。テレビ朝日も石原プロモーションとの関係が深いため手が出せない。

 批判できるのは、せいぜい、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、TBSくらいなのだが、こうしたメディアも橋下徹前大阪市長をめぐって起きた構図と同じで、少しでも批判しようものなら、会見で吊るし上げられ、取材から排除されるため、どんどん沈黙するようになっていった。

 その結果、石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。

 にもかかわらず、舛添都知事だけが、マスコミから徹底批判されているのは、今の都知事にタブーになる要素がまったくないからだ。それどころか、安倍政権の顔色を伺っているマスコミからしてみれば、舛添都知事は叩きやすい相手なのだという。

「安倍首相が舛添都知事のことを相当嫌っているからね。舛添氏は第一次安倍政権で自民党が参院選で惨敗した際、『辞職が当然』『王様は裸だと言ってやれ』と発言するなど、安倍降ろしの急先鋒的存在だった。安倍首相はそんな舛添氏の口を塞ごうと内閣改造で厚労相にまで起用したが、内心ではかなり舛添に腹を立てていた。都知事になってからも、五輪問題で安倍の側近の下村(博文・前文科相)を批判したり、憲法問題で『復古的な自民党改憲草案のままなら自分は受け入れられない』などと発言をする舛添都知事のことを、安倍首相はむしろ目障りだと感じていたはず。だから、今回の件についても、舛添が勝手にこけるなら、むしろいいチャンスだから自分の息のかかった都知事をたてればいい、くらいのことを考えているかもしれない。いずれにしても、官邸の反舛添の空気が安倍応援団のマスコミに伝わっているんだと思うよ」(政治評論家)

 実際、普段は露骨な安倍擁護を繰り返している安倍政権広報部長というべき田崎“スシロー”史郎・時事通信社解説委員なども、舛添に対してはうってかわって、「外遊なんてほとんど遊びだ」と激しい批判を加えている。

 一方で、石原元都知事にその贅沢三昧のルーツがあることについては、今もマスコミはタブーに縛られ、ふれることさえできないでいる。

 舛添都知事の不正を暴くのは意味のあることだが、「マスコミもやる時はやるじゃないか」などと騙されてはいけない。強大な権力やコワモテ政治家には萎縮して何も言えず、お墨付きをもらった“ザコ”は血祭りにする。情けないことに、これが日本のメディアの現状なのである。(宮島みつや)

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なるほど、舛添バッシングの構造は、こんなものかも知れない。少なくとも、こんな側面がある。私は、舛添擁護論に与しないし、告発も躊躇しないが、以上の指摘は心しておきたいと思う。
(2016年5月14日)

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