澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

市民運動が公の施設を利用する権利について

暮れから正月にかけて、市民団体の機関紙や活動報告が夥しく郵送されてくる。草の根で地道に活動している多くの人々がいることに、この上ない心強さを覚える。
その中の,いかにも手作りの一通が提起している問題をご紹介したい。

「学校と地域をむすぶ板橋の会」という市民団体がある。略称は「むすぶ会」。公立校における「日の丸・君が代」強制を、地域の問題として受けとめようという貴重な運動体。その機関紙が、「手と手 声と声」という。不定期の刊行なのだろうが、そのN0.19が暮れに届いた。

その中に、板橋区男女平等推進センターでチラシ配架を拒否される」という看過しがたい記事がある。チラシ「配架」とは、来館者の誰もが取っていけるよう「棚にチラシを置いておく」ことだという。市民運動用語では、「置きビラ」である。

「政治的なチラシは、配架して便宜をはかることができない」と拒否されたという。これは、地域に訴えようという市民団体には、切実な問題である。おそらく全国のあちらこちらで,同様の問題が起こっているのではないだろうか。行政が市民運動を「政治的」と色づけて、「政治的な活動には一切の協力お断り」というありがちな構図。これは、考えさせられる。やや長文だが、全文転載させていただく。

板橋区男女平等推進センターには、私たち登録団体が依頼すれば窓口のラックにチラシを置けることになっています。来館者が自由にチラシを取ることができます。
会は、7月に日比谷で開催された「日の丸・君が代」問題等全国学習・交流集会に賛同し、この集会チラシに「むすぶ会は賛同団体です」と連絡先を明記したシールを貼り、7月8日にラックに置いてほしいと依頼しました。しかし、センターから「政治的なものはダメ。登録団体連絡会のルールにもある」と拒否の電話がありました。

私たちは忙しくて直ぐ話に行けないが、判断した責任者と話したいと返事をしました。9月5日に担当の係長と話をすることになりました。係長の見解は課長も当然承知している内容とのことです。

区の判断
板橋区男女平等推進センター「スクエア・I(あい)」のチラシ類の取り扱い基準(登録団体用)の「3 配架をお断りするもの(3)政治的なもの」にあたると判断した。

区として、地方公務員法36条(政治的行為の制限)の「2 職員は、特定の政党その他の政治団体又は特定の内閣若しくは地方公共団体の執行機関を支持し、又はこれに反対する目的をもって、あるいは公の選挙又は投票において特定の人又は事件を支持し、又はこれに反対する目的をもって、次に掲げる政治的行為をしてはならない。(略)四、文書又は図画を地方公共団体又は地方独立行政法人の庁舎(略)、施設等に掲示し、又は掲示させ、その他地方公共団体又は特定地方行政法人の庁舎、施設、資材又は資金を利用し、又は利用させること。」とあり、地方公務員として、行なってはならないことであるから断った。

私たちの反論
チラシ裏面に「安倍政権下で教育は危機から崩壊へ」と書かれていますが、「安倍政権という言葉をもって拒否するのはおかしい。」「特定の政権を言葉に出すと政治的となるのか。政治的で問題とされるのは選挙のことではないか。現政権の施策について考えようというのは全く問題ない。」「職員の政治的行為の制限の規定を住民にまで及ぼすのはおかしい。」「公務員は憲法に基づき全体の奉仕者だ。表現の自由を保障すべきだ。」「板橋区は政権が推進しているオリンピックパラリンピックを推し進めている。実際の仕事はどちらかの立場で行っている。」「政治的とは何か? 社会生活の何にでも関係する。」「仮に、オリンピックを成功させよう、とか憲法を考えようとかでも政治的だからダメというのか。」「区は、反対しているからダメと言っているに過ぎない」「9条俳句の裁判で公民館は負けた」「勝手な判断で団体の活動に介入するべきでない」
等と抗議しました。

2014年にも区は、区民祭り時に男女平等推進センター掲示の登録団体紹介用に提出した会のポスターに対して、「議員の目にとまる可能性があり、」政治的と捉えられる心配があるから」と文章中の「『日の丸・君が代』強制反対!を掲げた活動紹介として添付した講演写真の「『日の丸・君が代』強制に反対!板橋のつどい」との文字をボカシてほしいと言ってきました。その時は期間が追っており他の部分でも趣旨は伝わると判断し掲示を優先しました。ところがその後の話合いの場では、「男女平等に関係ないから」と言い方を変えてきました。それ以降は、このような問題は起きませんでした。

今回、区は、一貫して「政治的」を理由に 「区施設の管理責任を持つ必要がある」「会の活動を否定している訳ではない」と言い私たちの意見について「弁護士に確認してみます」と答えました。私たちは、今後、配架依頼した時の対応を見ていく、ということでこの日の話し合いを終えました。

その後、会が実行委員として参加している「わいわい祭り」のチラシ(戦争させない!なくそう原発!と記載)は、何の問題もなく配架されました。今回同封の「板橋つどいのチラシ」は、これから配架依頼しますが、区の対応によっては速やかな話し合いを要求し、配架を獲得したいと考えます。ご注目ください。

理不尽な行政側の言い分に、活動家が位負けすることなく頑張って抗議し反論している様子が彷彿とする。できれば、このような場合には行政側の文書が欲しい。問題のチラシの何が「政治的なもの」なのか理由を確認したいところ。

ややはっきりしないが、板橋区の言い分は、次のように整理できるだろう。
(1) 「男女平等推進センター・チラシ類の取り扱い基準(登録団体用)」に、「配架をお断りするもの」として「政治的なもの」と規定されているところ、当該のビラはその「政治的なもの」に当たるので配架をお断りする。

(2) 地方公務員法36条(政治的行為の制限)2項・四号を根拠に、地方公務員として、「政治的活動に庁舎を利用させてはならない」とされているから、配架お断り。

言うまでもなく、この問題のベースには、憲法がある。「むすぶ会」の会員には、思想・良心の自由(19条)があり、思想・良心に従って表現する自由(21条)が基本権として保障されている。板橋区には、区民の基本的人権を尊重し、その施設を区民に利用させるに際して、一切の差別的取り扱いをしてはならない。これが大原則である。

法律レベルで問題とすべきは、地方自治法第244条社会教育法第23条である。
(1)「男女平等推進センター・チラシ類の取り扱い基準」の内容は詳らかにしないが、係長が言うような内容であれば、明らかに両法に違反している。違憲・違法で無効である。早急に取り扱い規準を作りかえなければならない。

(2)問題は、区民の権利の有無なのだから、職員の地位を定める地方公務員法の規定を持ち出すのは筋違いである。しかも、担当職員の地公法36条解釈は、明らかに間違っている。

地方自治法第244条を確認しておこう。市民運動が行政施設を利用する際の大原則である。お上に、施設を使わせてもらっているのではない。私たち主権者・住民の権利としての公の施設の合理的使用方法を条文化したものである。

第1項 普通地方公共団体は、住民の福祉を増進する目的をもつてその利用に供するための施設(これを公の施設という。)を設けるものとする。
第2項 普通地方公共団体は、正当な理由がない限り、住民が公の施設を利用することを拒んではならない。
第3項 普通地方公共団体は、住民が公の施設を利用することについて、不当な差別的取扱いをしてはならない。

市民運動活動家は、地方自治法第244条2項を暗記しておくとよい。板橋区は、むすぶ会のセンター利用を拒否してはならない」のだ。

もう一つは、社会教育法第23条である。いわゆる「公民館」に関する法的根拠。
関連条文を引用しておこう。

社会教育法「第五章 公民館」
第20条(目的) 公民館は、市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もつて住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与することを目的とする。

第22条(公民館の事業) 公民館は、第20条の目的達成のために、おおむね、左の事業を行う。
五 各種の団体、機関等の連絡を図ること。
六 その施設を住民の集会その他の公共的利用に供すること。

第23条(公民館の運営方針)
第1項 公民館は、次の行為を行つてはならない。
一 もつぱら営利を目的として事業を行い、特定の営利事務に公民館の名称を利用させその他営利事業を援助すること。
二 特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること。
第2項 市町村の設置する公民館は、特定の宗教を支持し、又は特定の教派、宗派若しくは教団を支援してはならない。

これで十分だろう。問題は、社会教育法第23条1項2号である。公民館の運営において禁止されているのは、「特定の政党の利害に関する事業を行い、又は公私の選挙に関し、特定の候補者を支持すること。」に限定されている。市民運動における安倍政権批判が、「特定の政党の利害に関する事業」になろうはずはない。

手と手 声と声」の主張はまことにもっともなのだ。
「安倍政権という言葉をもって拒否するのはおかしい。」「特定の政権を言葉に出すと政治的となるのか」「政治的で問題とされるのは選挙のことではないか」「現政権の施策について考えようというのは全く問題ない」「職員の政治的行為の制限の規定を住民にまで及ぼすのはおかしい」「公務員は憲法に基づき全体の奉仕者だ」「表現の自由を保障すべきだ」「板橋区は政権が推進しているオリンピックパラリンピックを推し進めている。実際の仕事はどちらかの立場で行っているのか」「政治的とは何か? 社会生活の何にでも関係する。」「仮に、オリンピックを成功させよう、とか憲法を考えようとかでも政治的だからダメというのか。」「区は、反対しているからダメと言っているに過ぎない」「9条俳句の裁判で公民館は負けた」「勝手な判断で団体の活動に介入するべきでない」
すべて、自信をもっていただきたい。

ほとんど無関係だが、地方公務員法36条2項にも触れておきたい。その条文は以下のとおりである。
36条2項
職員は、
・特定の政党その他の政治的団体又は特定の内閣若しくは地方公共団体の執行機関を支持し、又はこれに反対する目的をもつて、
・あるいは公の選挙又は投票において特定の人又は事件を支持し、又はこれに反対する目的をもつて、
次に掲げる政治的行為をしてはならない。

四 文書又は図画を地方公共団体庁舎、施設等に掲示し又は掲示させ、その他地方公共団体の庁舎、施設、資材又は資金を利用し、又は利用させること。

一見して明らかなとおり、これは公務員の規律の問題である。本件に関係するとすれば、「職員が、特定の目的をもって、庁舎、施設を利用させること」という禁止規定に触れるか否かである。重要なのは、36条2項の目的である。下記のどちらかがなければならない。

1 特定の政党その他の政治団体・特定の内閣・地方公共団体の執行機関を支持又は反対するという目的
2 公の選挙・投票において特定の人または事件を支持または反対するという目的

注意すべきは、目的をもつ主体は職員である。「むすぶ会」のチラシが、そのような職員の目的を推認させることになるとは、到底考え難い。「安倍政権下で教育は危機から崩壊へ」と記載されていたとしても、その配架を許可した職員が、安倍内閣に反対する目的で配架したことになろうはずはない。

のみならず、同法36条には次の第5項の規定がある。

5 本条の規定は、職員の政治的中立性を保障することにより、地方公共団体の行政及び特定地方独立行政法人の業務の公正な運営を確保するとともに職員の利益を保護することを目的とするものであるという趣旨において解釈され、及び運用されなければならない。

担当職員は、安心してビラの配架を認めてよい。うっかり禁止すると大ごとになる。板橋区は憲法と法の趣旨立ち返って、言いがかりに等しい社会教育施設の濫用的運用を改めるべきである。

なお、この通信の最終ページには、次の集会案内が掲載されている。このビラの配架がどうなったか。興味津々である。

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「日の丸・君が代」強制反対!
2020板橋のつどい

【開催要項】
2020年2月1日 開場17:30 開会18:00 閉会20:30
場所:板橋グリーンホール601号室
東武東上線大山駅・都営地下鉄三田線板橋区役所前駅共に下車5分
講演:現代の教育政策とこれからの課題
講師:現代教育行政研究会代表 前川喜平さん
1955年奈良県生まれ。東京大学法学部卒業後、79年文部省(現・文部科学省)入省。文部大臣秘書官、初等中等教育局財務課長、官房長、初等中等教育局長、文部科学審議官を経て、2016年文部科学事務次官。17年同省の天下り問題の責任をとって退官。現在は、自主夜間中学のスタッフとして活動する傍ら、執筆活動などを行う。

報告:CEART(セアート、国連の合同専門委員会)報告を生かす取り組み
「日の丸・君が代」ILO/ユネスコ勧告実施市民会議 準備会
2014年、アイム89東京教育労働者組合は、東京都教育委員会が発した10・23通達が、国際労働機関(ILO)と国連教育科学文化機関(ユネスコ)の「教員の地位に関する勧告」(1966年発出)に違反していると申し立てました。その結果、19年春「日の丸・君が代」強制に対する、是正勧告が両機関で承認され、公表されました。国際機関からのこの問題に関しての是正勧告が出されたのは初めてのことだそうです。
しかし、文科省は日本語訳を行おうともせず、できるだけ知られずに忘れ去られることを願う姑息な対応をしています。それに対して、勧告の拡散・実現を求め、 「日の丸・君が代JILO/ユネスコ勧告実施市民会議を組織し、3月1日に発足集会を開催する準備が進められています。
つどい当日には、勧告内容、今後の取組みについてのアピールが市民会議準備会メンバーから行われます。

報告:八王子「天皇奉迎」に子どもたちは動員されなかった
元東京教組八王子支部役員 水谷 辰夫さん
4月23日に天皇が退位の報告に昭和天皇の墓を訪れた際、二小、横山二小、浅川小の子どもたちが「日の丸」の小旗を振らされ「天皇奉迎」に駆り出された。それに対して……。

(2020年1月13日)

「天皇は日本国の言論不自由の象徴であり、この地位は保守政権の思惑と蒙昧な一部日本国民との合意に基づく」

今の日本に、はたして「表現の自由」の保障は機能しているものだろうか。とうてい、脳天気に肯定はできない。表現の自由の障害物を象徴するものが、天皇・皇室にほかならない。天皇・皇室についての「表現の不自由」が世にはびこっていることは、「あいちトリエンナーレ」でも証明された。

いっぱしの大人が、天皇に「陛下」という敬称をつけて語るという愚にも付かないことは、私の子どもの頃にはなかった。少なくも、私の周りにはなかった。それが、今は様変わりである。こんな復古の現象はいったいいつから,どのようにして生じたのだろうか。

まさしく今、天皇は日本国の言論不自由の象徴であり、日本国民の言論自主統制の象徴でもあって、この地位は、天皇を政治の道具として重宝に使おうという保守政権の思惑と、無批判無自覚に天皇を崇拝する蒙昧な一部日本国民との合意に基づく。」

この時代状況で、冷静に天皇や天皇制を語る人には敬意を表せざるを得ない。その代表の一人が、原武史だろう。

12月7日朝日「(歴史のダイヤグラム)変わらない『奉迎』のかたち」は、さりげなく天皇制の過去と現在を語ってその不易の本質をよく表現している。以下、抜粋しての引用である。

 1922年11月、皇太子裕仁(後の昭和天皇)は東海道本線を走る御召列車に乗って東京を出発した。目的は香川県で行われる陸軍特別大演習の統裁と四国4県などの視察。これは摂政として初めての本格的な地方訪問でもあった。
 病気で引退させられた大正天皇に代わる若くて健康な皇太子を、四国の人々は初めて見ることになる。そうした人々に対して、皇太子はどう振る舞うべきか。同行した宮内大臣の牧野伸顕は、11月12日にこう記している。
 「四国辺の如き質朴の民俗には相当すべき御態度可然。此方面にては只々玉体を拝する丈けにて無上の光栄とす。一々御答礼の如きは勿論ない。奉迎者間に最も多く聞く言葉は能くおがめたと云ふ事なり。此一言にて人心の一班[斑]を推知すべし」(『牧野伸顕日記』)

 坂口安吾は、48年に発表された「天皇陛下にささぐる言葉」で、「地にぬかずき、人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業であります」「天皇が人間ならば、もっと、つつましさがなければならぬ」などと述べている。安吾の言う「未開蒙昧」は、牧野の言う「質朴の民俗」と見事なほど重なっている。

 それはどうやら、天皇制イデオロギーなどというものとは関係がないらしい。このことが、11月10日に天皇と皇后が自動車でパレードした「祝賀御列の儀」でも証明されたのではないか。

 牧野伸顕とは、大久保利通の次男であり吉田茂の岳父に当たる、藩閥政治家の一人である。薩摩出身の牧野が四国の人民を馬鹿にしているのだ。

四国辺の如き質朴の民俗」「只々玉体を拝する丈けにて無上の光栄とす」「一々御答礼の如きは勿論ない」「最も多く聞く言葉は能くおがめたと云ふ事なり」。
「(裕仁において)一々御答礼の如きは勿論(必要)ない」とも読める一文を、原は「引用文中の『勿論ない』は『勿体ない』だろう」と解している。どちらにしても、「臣民は玉体を拝むだけのもの。拝むに任せておけばよい。いちいちの答礼などは不必要」という、天皇制権力の中枢に位置する人物の思い上がりがよく表れている。摂政裕仁は、この宮内大臣牧野の言のままに行動したのだろう。

他方、原が引用する坂口安吾の言はさすがに鋭い。「人間以上の尊厳へ礼拝するということが、すでに不自然、狂信であり、悲しむべき未開蒙昧の仕業」というのだ。今、なかなかこのように,ズバリとものが言いにくい雰囲気がある。

安吾の言う、「不自然・狂信・悲しむべき未開蒙昧」は今に続いている。11月10日「祝賀御列の儀」パレードに参加した,あの11万余の「質朴の民俗」こそ、「テンノーヘイカ・バンザイ」を叫ぶ政権に煽られた、「狂信者」であり「悲しむべき未開蒙昧」の輩。この輩が、天皇を「日本国の言論不自由の象徴」に仕立て上げているのだ。「政権」と「未開蒙昧の輩」。どちらが主犯で、どちらが従犯であるかは定かでない。
(2019年12月11日)

「法と民主主義」2019年11月号・特集「『表現の不自由展・その後』中止問題」購読のお願い

「法と民主主義」2019年11月号【543号】が好評発売中である。
本号の特集は、「あいちトリエンナーレ 『表現の不自由展・その後』中止問題を考える」。この問題を考える上での基本論稿が並んでいる。

また、特集冒頭に前川喜平氏のロングインタビューがある。「あいトリ」問題を入り口に、教育行政のあり方を縦横に語って、これは読ませる。特集以外も充実している。

その概要は、下記URLをご参照いただきたい。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html

お申し込みは、下記URLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
「法と民主主義」(略称「法民」)は、日民協の活動の基幹となる月刊の法律雑誌です(発行は年10回)。毎月、編集委員会を開き、全て会員の手で作っています。憲法、原発、司法、天皇制など、情勢に即応したテーマで、法理論と法律家運動の実践を結合した内容を発信し、法律家だけでなく、広くジャーナリストや市民の方々からもご好評をいただいています。定期購読も、1冊からのご購入も、上記のURLから可能です(1冊1000円)。

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目  次

特集●あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止問題を考える
◆特集にあたって … 編集委員会・小沢隆一
◆インタビュー●文科省は教育、文化、学術を護る砦に
目に余る政治の介入 トリエンナーレ問題と「表現の自由」 … 前川喜平
◆あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」中止問題とは何だったか
─「その経過」と「これから」 … 飯島滋明
◆「表現の自由」を改めて考える ─ 表現の自由の保障の意味 … 市川正人
◆「芸術の自由」をめぐる憲法問題 ─ 支援の中の「自由」とは … 志田陽子
◆あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」は
どのようにして再開されたのか … 中谷雄二
◆資料「表現の不自由展・その後」の中止と補助金不交付問題についての声明

◆連続企画●憲法9条実現のために〈25〉
市民連合と立憲野党の政策合意13項目を生かし広げるための法律家懇談会 … 大山勇一
◆司法をめぐる動き(52)
「スラップ違法の方程式」─ DHCスラップ「反撃」訴訟一審判決 … 澤藤統一郎
・10月の動き … 司法制度委員会
◆利谷信義先生を偲んで … 戒能通厚/戒能民江
◆メディアウオッチ2019●《書かなくてはいけないことが多すぎる》
公選法、政治資金、憲法審、桜を見る会…「臭いものにフタ」の政権と闘いを … 丸山重威
◆あなたとランチを〈No.50〉
「きよし、たかし」弁護士ブログ … ランチメイト・細川潔先生×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈No.19〉
憲法改正を「必ずや皆さんとともに成し遂げる」と発言する安倍首相… 飯島滋明
◆BOOK REVIEW●改憲策動に抗する市民運動へ知恵と活力を与えてくれる書
─ 清水雅彦 著『9条改憲 48の論点』(高文研) … 神保大地
◆インフォメーション
◆時評 司法の希望を語りたい。 … 梓澤和幸
◆ひろば 中谷弁護士と目が合って~「表現の不自由展」中止問題の真っ直中に遭遇してしまいました~ … 北村 栄

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特集のリード(抜粋)から。

企画展「表現の不自由展・その後」は、「ごあいさつ」で次のように述べている。
「いま、日本社会で「あること」が進んでいます。自由に表現や言論を発信できなくなっているのです。… 本展では、この問題に特定の立場からの回答は用意しません。自由をめぐる議論の契機を作りたいのです。そして憂慮すべきなのは自由を脅かされ、奪われた表現の尊厳です。」

ここで語られている「表現の自由をめぐる議論の契機を作りたい」という切なる思いは、この展示が被った「受難」によって、なかば阻まれながら、他方ではそれをもって、皮肉にも叶えられることとなった。ただし、そこではしなくも「展示」されたのは、この国における「表現の不自由」の現在形である。

憲法に根ざした文部科学行政の重要性を説く前川喜平氏のロングインタビュー、市川正人、志田陽子両氏による憲法論からの考察、飯島慈明、中谷雄二両氏の現地からのリポートをお寄せいただいた。
資料として掲載した本協会の声明も含め、ぜひ熟読いただきたい。
(編集委員会・小沢隆一)

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また、表紙裏の「時評」。私と同期の梓澤和幸君が、いつもながらの高いボルテージで書いている。その書き出しが以下のとおり。

司法研修所を卒業するその日に、同期の仲間の一人が罷免された。23期の法律家はその刻印を背負って法律家としての日々を歩むことになった。
阪口徳雄君が、「裁判官を志望して任官を拒否された7名の拒否理由を明らかにしてほしい」と卒業式で発言したことを理由に罷免されたのは、1971年4月5日夕方のことである。これは石田和外長官が率いる最高裁裁判官会議の決定による処分であった。…

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私も、寄稿している。

「司法をめぐる動き」に、下記の記事。
「スラップ違法の方程式」─ DHCスラップ「反撃」訴訟一審判決
あれもこれも、お読みいただけたらありがたい。

(2019年12月1日)

表現の自由を錆び付かせない努力を。

今振り返って、「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展・その後」に対する妨害問題は衝撃だった。結果として妨害行為に反撃する世論の健在が示されたとは言え、表現の自由を貫徹するにはある種の覚悟が必要な時代にあることを痛感させられた。右派・右翼に支えられた安倍一強の長期存続は、この明るくはない時代を象徴するできごとなのだ。

今はまだ、権力批判の声を出すことができる。今ならまだ、表現の自由の妨害を跳ねのける力量がある。表現の自由の旗はまだ色褪せていない。表現の自由は、画に描いた餅ではなく、現実の社会の中で確かに機能している。しかし、いつまでもこのままであろうか。表現の自由は、次第に侵蝕されつつあるのではないか。危機感をもたざるを得ない。

表現の自由を錆び付かせてはならない。そのためには、意識的に表現の自由を行使しなければならない。表現の自由の保障を「廃用性機能障害」に陥らせてはならないのだ。政権批判の言論も、天皇制廃止の見解も、資本主義の弊害についての叙述も、遠慮のない表現がなくてはならない。

身近なところでの表現の自由妨害には果敢に発言しなければならない。とりわけ、身近な自治体の表現の自由との関わり方を監視し的確に問題化しなければならない。

私は、自分も多少関わった、この夏の「平和を願う文京戦争展-村瀬守保写真展」の後援申請を却下した文京区教委のありかたの追及が不十分であったことに、忸怩たる思いでいる。

経過は、下記のブログをご覧いただきたい。

文京区教育委員会の見識を問う ― なぜ「日本兵が撮った日中戦争」写真展の後援申請を却下したのか
http://article9.jp/wordpress/?p=13106

「平和を願う文京戦争展」総括会議ご報告
http://article9.jp/wordpress/?p=13261

私が接しうる資料を見る限り、主たる問題は教育委員諸氏の事なかれ主義の姿勢にある。「平和を願う文京戦争展」の展示物の中には、南京事件被害の現場写真もある、トラックに乗せられた従軍慰安婦の生々しい写真もある。これが戦争の現実なのだ。その現実を伝える貴重な写真であればこそ、「平和のための戦争展」の展示たりうる。文京区民に戦争の悲惨を伝え、考えてもらうインパクトをもった、意義のある画像。

ところが、教育委員会としては、そんなものを展示して面倒に巻き込まれるのはまっぴらなのだ。右翼が押しかけてでもきたらたいへんだ。教育委員会が矢面に立つのはまっぴらだ。敬して遠ざくに越したことはない。この逃げ腰の態度、当たらず障らずのこの消極姿勢が結局表現の自由を痩せ細らせることになり、戦争の惨禍と平和の尊さを考える機会を失してしまうことになる。このことが、この時代をさらに暗くすることにもなる。このような教育委員会の態度を指弾することなく傍観してしまうことも同様というべきだろう。

いま、文京区教育委員会のメンバーは以下のとおりである。
文京区教育委員会教育長    加藤 裕一
同教育委員          清水 俊明(順天堂大学医学部教授)
同              田嶋 幸三(日本サッカー協会会長)
同              坪井 節子(弁護士)
同              小川 賀代(日本女子大学理学部教授)

教育委員とは、お飾りの名誉職ではない。「教育基本法」の下、「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」に基づき、「人格高潔で、教育行政ないし教育・学術及び文化に関し識見を有する」という資格要件を備えていることになっている。あるときには身を挺してでも、教育の自由や独立、民主主義を守らなければならない。政府や東京都の行政から毅然と独立した立場を堅持して職務を全うしなければならない。

公開された議事録によると、当初、事務方(文京区教育局・教育推進部長)からは、「後援名義等使用承認要綱の規定に照らし、後援名義の使用を承認したいと考えるものでございます」と承認を可とする提案であったが、出席委員から慎重論の発言がなされて続会となり、逆転の結論となった。

その議論の中には、「この南京虐殺とか慰安婦問題というのは、確かに政治的な対立が背景にある中で、事実があったかなかったかというのはわからなくなってしまっているという問題になっております」という無茶苦茶な発言がある。このような認識を前提に、「教育委員会は中立・公正の立場に立つべき」だから、「南京虐殺とか慰安婦問題があった」とする《一方の立場》の企画を後援することはできないとの結論に至っている。

これは、「人格高潔で、教育行政ないし教育・学術及び文化に関し識見を有する」者のとるべき態度ではない。

もともと、文京区は、非核平和都市宣言都市である。平和首長会議の加盟都市でもある。政府の立場如何にかかわらず、反核・平和・環境保護には積極姿勢を示してきた。どうして現教育委員会がこんなに後退した姿勢を見せたのか、理解に苦しむ。

いま国にはびこっている歴史修正主義の勢力に、文京区教育委員会が屈している、あるいは迎合しているのではないかと危惧せざるを得ない。

行政が、脅迫や暴力に屈するところから、民主主義も平和も崩れる。面倒なことを避けたいから問題に向き合おうとせずに、最も安易な選択をしようとするときの逃げ口上として「政治的中立」や「公正」が使われる。

ことは小さいようで,実は普遍性が高く重要な問題なのだ。どこにでも生じている小問題への看過が積み重なって、後戻りのできない大問題となる。これも、看過してはならない問題だと思う。

(2019年11月29日)

「表現の不自由展・その後」の中止と補助金不交付問題についての声明

日民協は、「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」をめぐる一連の問題について、一度は権力を持つ者などからの圧力によって中止に追い込まれたこと、そしていったんは決まったはずの補助金交付が事後的に不交付とされたことについて、看過できないとして下記の声明を出した。ことは、憲法の定める表現の自由に関わる。やや長文であるが、ぜひお読みいただきたい。できれば、拡散もしていただくようにお願いしたい。
なお、「法と民主主義」11月号は、この「表現の不自由展・その後」の問題を特集として取りあげる。タイムリーというだけでなく、興味深く読んでいただける内容になるはず。楽しみにしていただきたい。

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2019年11月7日

日本民主法律家協会

8月1日から愛知芸術文化センターで開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の一部を成す企画展「表現の不自由展・その後」について、翌2日に会場を視察した河村たかし名古屋市長は、展示物のなかに〈平和の少女像〉などが含まれていたことを理由に、「日本国民の心を踏みにじるもの」などと発言して展示の中止を求め、それを受けて同日、菅義偉官房長官も、「あいちトリエンナーレ」が文化庁の助成事業であることに言及し、「審査の時点では具体的な展示内容の記載はなかったことから、補助金交付の決定にあたっては事実関係を確認、精査して適切に対応したい」と述べ、補助金交付の是非など対応を検討する考えを示しました。
これと前後して、インターネット上で企画展に対する批判や攻撃が数多くなされ、主催者側に対しては抗議の電話やメールが多数寄せられるとともにテロ予告や脅迫が相次ぎ、わずか3日間で企画展が中止されるに至りましたが、その後、企画展は、再開を望む多くの声を受けて、入場制限を課し、観覧方法を変更したうえで、10月8日、再開されました。
ところが、文化庁は、企画展の再開の方向性が決まった翌日の9月26日、円滑な運営に対する懸念があったにもかかわらずそれを申告していなかったという「手続上の不備」を理由として「あいちトリエンナーレ」への補助金、約7800万円の全額の不交付を決定しました。
私たちは、これら一連の出来事は憲法21条が保障する「表現の自由」を侵害する重大な問題を含むものであると考え、以下のとおり意見を表明いたします。

第一に、私たちは、河村名古屋市長や菅官房長官などの自治体や政府の主要ボストにある政治家による展示会中止に向けての圧力は、憲法21条の保障する「表現の自由」を侵害する重大な問題であると考えます。
憲法による「表現の自由」の保障の中心的意味は、政府に対する自由な批判を保障することにあります。政府や政治家が抽象的な理由で制限を加えることが看過されるならば、表現の自由の中心的な意味が失われ、民主主義が形骸化してしまうおそれがあります。
表現の自由が広く国民に認められ、国民が自由に表現を行うためには、その機会を提供することも重要です。政府や自治体が文化的な催しを後援することは、国民が表現する機会を豊かにし、多様な表現を確保するのに役立ちます。そのために公的な助成が行われる場合、表現の内容に介入しないことが前提になります。そのような態度を貫くことで、国民の表現の自由が実質的に確保されることになるからです。
また、「表現の自由」には「知る権利」の保障も含まれています。他者が表現したことを「受け取る」ことも「表現の自由」の一部です。多数者の表現だけが許され、少数者の表現が締め出されるならば、国民は多数意見にしか接することができなくなります。政府や自治体は多様な表現の機会を保障し、多様な少数意見にも接することができるようにすることが求められます。
このような観点からみると、河村名古屋市長や菅官房長官の企画展への介入は、憲法21条1項によって保障されている「表現の自由」を踏みにじる行為にほかならず、多くの観客が作品を目にすることを阻止しようとしたものとして、憲法21条2項によって禁止されている「検閲」に相当する効果を持つものです。
現在の日本に「表現の自由」があるのかを問い直そうという「表現の不自由展・その後」が攻撃を受けて中止されるという異常事態は、民主主義の根幹である「表現の自由」が奪われたことを意味します。表現者や表現行為に対する脅迫行為は決して許されてはなりません。政府や自治体には、表現の自由を妨害する行為を阻止し、「表現の自由」と「知る権利」を擁護することこそが求められます。一連の出来事の経過を振り返ってみると、名古屋市や政府の対応は、少数者が表現する機会を著しく狭め、多様な表現を「知る権利」を制限するものであったといわざるを得ません。

第二に、私たちは、文化庁による補助金不交付決定について、何よりもその理由が展示内容を理由としたものではないという言い分に疑問をもちます。
8月3日時点での菅官房長官の発言は、河村市長の発言に連動し、「具体的な展示内容」に言及した上で、「事実関係を精査して補助金交付の是非を検討する」としていました。一連の経過からみて、9月26日の文化庁の補助金不交付決定は、8月3日の菅官房長官の発言に呼応し、再開が決まった企画展の「表現内容」を理由として、いったん交付が事実上決まっていた補助金を不交付とすることにより企画展の再開を妨害する意図があったことが強く推測されるものであり、「検閲」と同視すべき違憲・違法な決定であった疑いがあります。
この点で、文化庁が「あいちトリエンナーレ」への補助金の不交付決定をするに際して、その意思決定に至る過程の記録を何も残していないことには重大な疑義があります。公文書管理法4条は、各行政機関に文書作成義務を課し、経緯も含めた意思決定に至る過程や行政機関の事務・事業の実績を合理的に跡付け、検証することができるよう、処理に係る事案が軽微なものである場合を除いて、文書を作成しなければならないとしています。
この規定をうけた文科省の文書管理規則では、文書作成義務に加えて、地方公共団体等を含む公私の団体に補助金等を交付する場合には、「交付の要件に関する文書」や「交付のための決裁文書その他交付に至る過程が記録された文書」については、交付に係る事業が終了する日から5年間保存しなければならないとしています。
「あいちトリエンナーレ」に対する補助金の交付は、専門家から成る審査委員会に諮って4月に補助金事業として採択する旨の通知がなされ、事実上決められていました。ところが、10月15日の参議院予算委員会における宮田亮平文化庁長官の答弁では、宮田長官自身は不交付の決裁をしておらず、文化庁側の答弁によれば、不交付については審査委員会に諮らず、審議官が9月26日に決裁したことも明らかにされています。
文科省も文化庁も、あくまで「手続上の不備」が不交付決定の理由であり、「表現の内容」に基づくものではないと主張していますが、不交付の決定に至る過程の記録が全く残されていないために、その適否を検証する手掛かりがないという不合理な事態に至っています。モリカケ疑惑の再現を思わせる文科省と文化庁の公文書管理法の趣旨を無視した対応に重大な疑問があることを指摘せざるを得ません。
すでに採択通知により補助金交付が実質的に決定され、それを前提として文化芸術事業が行われた後になって、補助金全額の不交付を決定するなどという事態が前例となれば、表現の自由に対する重大な萎縮効果をもたらすことは明白であり、絶対に許されてはなりません。補助金不交付決定は直ちに撤回されるべきです。まして、こうした異常な決定に至る意思決定過程が隠され、検証不能とされることは、看過できない暴挙というほかありません。

私たちは、「表現の不自由展・その後」の中止と補助金不交付問題が、憲法21条の保障する「表現の自由」の核心に関わるものであることを深刻に受け止め、上記のとおり意見を表明するとともに、すべての関係者に対して、一連の経過を振り返り、「あいちトリエンナーレ2019」が提起した問題を改めて検証し直すよう、求めます。
(2019年11月8日)

晩秋の不忍池をめぐりながら、考えた。

今の時代、はたして「表現の自由」というものが保障されているのだろうか。忌憚なく、誰もが必要な表現をしているのだろうか。

いつの時代にも、完全な「表現の自由」の保障は夢想に過ぎず、「表現の自由」とは常に不自由を強いる様々な勢力とのせめぎ合いの渦中にある。そのように理解はしているが、ほかならぬ今が、表現に覚悟が必要な時代となってしまっているのではないか。個人の言論についても、メディアの報道についても。そして、報道の自由を通じての国民の知る権利も危ういのではないか。

今さらいうまでもないが、表現の自由とは、毒にも薬にもならぬことを述べる自由ではない。「天皇と皇后の笑顔がステキでした」とか、「安倍首相のリーダーシップで日本経済は活況を取り戻した」「掲揚台の日の丸に感動しました」「日本チームのメダル獲得を祝します」「うちの社長は、日本一」などのおべんちゃらを述べることの「自由」を、「権利」として保障する必要はない。それは、安全地帯でのおしゃべりに過ぎず、法が関わることではない。

表現の自由が保障されるべきは、「天皇は、無数の無辜の民を死に至らしめたことの責任に無自覚ではないか」、「元徴用工問題についての、安倍政権の請求権協定解釈は根本的にまちがっている」「日の丸・君が代は、皇国日本の軍国主義・侵略主義の象徴としてとうてい受容できない」「うちの社の宣伝は大ウソだ。効かないサプリをさも効くように印象操作している」という、権威や権力あるいは社会的強者に対する批判の言論である。謂わば、毒を含む言論。批判される対象にとっての毒であればこそ、社会にとっての薬にもなり得る。

河村たかし名古屋市長は、「どう考えても日本人の心を踏みにじるもの」と「表現の不自由展・その後」の展示を非難した。しかし、まさしく「日本人の心を踏みにじる表現」こそが、権利としての自由を保障されなければならない。

天皇という権威、内閣という権力、与党という政治権力、企業という社会的権力、圧倒的多数派の同調圧力…。これら強者に対する批判が、貴重であり不可欠であるがゆえに、その自由が保障されなければならない。

とは言うものの、そのような言論には、ビビリがつきまとう。ビビリを断ち切っての、ある種の覚悟がなければ,真に必要な表現ができない。なにしろ、今の世の言論状況は、天皇・皇族に対する歯の浮くような,あるいは舌を噛みそうな過剰敬語が氾濫し、ナショナリズムの昂揚にも歴史修正主義の横溢にも無批判で、「日本素晴らしい」一色。明らかに、権威や権力批判をビビらせる状況が蔓延しているのだ。

しかし、今ビビってはならない。ビビって一歩を譲ることは、ビビらねばならない状況をさらに一歩分拡大することになる。生理学に、廃用性機能障害という概念がある。生体の使わない機能も臓器も衰退するのだ。同様に、表現の自由を行使しないことは、表現の自由に、廃用性の機能障害をもたらす。だから、ビビらずに表現を続けねばならない。

昨日(11月5日)の朝日が「主戦場、上映中止覆した叫び『ビビリは検閲加担と同じ』」という記事を出した。「ビビリは検閲加担と同じ」とは、厳しい言葉。

KAWASAKIしんゆり映画祭は4日夜、ドキュメンタリー「主戦場」が上映され、閉幕した。川崎市の懸念を受け、開幕時点では上映が見送られることになっていたが、映画関係者らから抗議の声が上がったため、一転して上映する運びとなった。上映に先立ちあいさつしたミキ・デザキ監督は「日本の表現の自由の大勝利だと思っている」と語った。

ジャーナリストで映画監督の綿井健陽氏が「(恐怖による)『ビビリズム』が中止の理由にどんどん使われている。それは検閲に加担することと同じだ」と指摘。また、映画監督のジャン・ユーカーマン氏は自粛が繰り返されることによる危険性を指摘、「自己検閲や忖度というかたちで制作側が空気を読むようになってしまう」と訴えた。

ビビリが高じると忖度となる。忖度に慣れて、長いものに巻かれていれば気は楽だ。逆に、意地を通せばまことに窮屈だ。表現の自由を行使するとは、敢えて意地を通して窮屈を求めることでもある。とかくに住みにくい人の世を、これ以上に窮屈で過ごしにくくせぬように、いま、ビビリと忖度を克服して表現しなければならない。そのように実践している人びとも少なくないのだ。

そう考えたら、足下の落ち葉がかさこそと鳴って返事をした。「そうだよ。そうだよ。そのとおりだよ」と。
(2019年11月6日)

11月5日(火)午後 「シンポジウム~日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える~」

11月5日、NHK問題のシンポジウムのお知らせ。
「圧力はなかったのか? 報道の自律はどこに~日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える~」
13時~ 参議院議員会館B109(地下1階)
パネリスト
田島泰彦(元上智大学教授)/皆川学(元NHKプロデューサー)
小林緑(元NHK経営委員)/杉浦ひとみ・澤藤統一郎(弁護士)

チラシのダウンロードはこちら→http://bit.ly/31tpSYI
https://kgcomshky.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/sympo12.png
なお、下記「10月11日(金)夕刻、NHKに激励と抗議を」もご覧下さい。
http://article9.jp/wordpress/?p=13490

かんぽ生命保険の不正販売は底なしの様相。だが、この問題を機に、はるかに大きな問題がもちあがっている。この、かんぽ不正販売を暴いたNHK番組「クローズアップ現代+」の制作に対する外部からの干渉である。しかも、干渉したのは単なる外部ではない。NHKと監督官庁(総務省)を共通にする日本郵政による番組への露骨な干渉。日本郵政の先頭に立って干渉を加えたのは、総務省の元次官である。NHKからみれば、総務省からの圧力に見える構図なのだ。

さらなる問題は、NHKの経営委員会がこの干渉に一枚加わったこと。驚くべきことに、経営委員会が日本郵政の意を受けて、NHK会長に厳重注意をした。そして、NHK会長はこれを撥ね除けることをせず、唯々諾々と受け容れた。番組制作現場を守る、外部の干渉から報道の自由を守るという姿勢を露ほども見せていない。会長としての見識に欠け、頼りないことこの上ない。

この日本郵政・経営委員会の干渉は、明らかに番組制作現場に対する「かんぽ生命保険の不正販売追及報道などはやめておけ」というメッセージ。現場は萎縮せざるを得ない。予定されていた、「かんぽ不正販売」報道の続編放映は無期延期となった。関連するホームページも削除となった。然るべき立場からのNHKへの圧力や干渉は、有効に利くことが立証された。これは、恐るべき事態ではないか。

今のところ、役者は3人である。まずは元総務事務次官の鈴木康雄・日本郵便上級副社長、これが元兇。次いで、その意を受けてNHK会長を厳重注意とした石原進・NHK経営委員会委員長。そして、情けなくもこれを受け容れた上田良一・NHK会長。昨年11月に郵政側に上田会長名の事実上の謝罪文が届けられている。さらに、この3人の背後には、4人目の役者として高市早苗総務大臣が控えている。総務大臣は、経営委員会の判断を積極的に後押ししてはいないが、消極的には是認している。

全体像はこんな具合に見える。
《総務省・高市早苗⇒日本郵便・鈴木康雄⇒経営委員会・石原進⇒会長・上田良一》
この4階建ての圧力が、NHK現場の番組制作スタッフにかかってきているのだ。この圧力と露骨な干渉が、制作現場を萎縮させ、報道を歪めている。これを座視してはおられない。

権力の干渉はどんな場面でも望ましくはないが、とりわけ介入してはならない分野がいくつかある。権力が介入の衝動をもち、介入の結果が取り返しのつかない重大な結果をもたらす分野

まずは教育である。そして学問、信仰、文化・芸術。さらに、司法も報道も報道の自由は、なによりも権力の干渉・介入からの自由を意味する。その自由が保障されていなければ、国民は真実を知ることができない。再び、NHKが大本営発表の伝声管となる時代を繰り返してはならない。

この当然の理を明確ににするものとして、放送法第3条は(放送番組編集の自由)と題して、「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。」と定める。

念のためだが、NHK経営委員会は飽くまでNHKの経営面の基本方針を定め、役員の職務の執行を監督する機関であって、放送法第29条(経営委員会の権限等)「経営委員会は、次に掲げる職務を行う。」と限定列挙されているが、放送番組編集に関与する権限はない。

むしろ、放送法第32条(経営委員の権限)は、「第1項 委員は、この法律又はこの法律に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない。」「第2項 委員は、個別の放送番組の編集について、第3条(放送番組編集の自由)の規定に抵触する行為をしてはならない。」と、個別番組への干渉を禁止されている。

さらに、内規である「NHK経営委員会規程」は、第3条(権限)において、「第5項 委員は、放送法または放送法に基づく命令に別段の定めがある場合を除き、個別の放送番組の編集その他の協会の業務を執行することができない。」「第6項 委員は、個別の放送番組の編集について、放送法第3条の規定に抵触する行為をしてはならない。」と念入りに、経営委員が、個別の放送番組の編集に介入することを固く禁じている。

今回の、経営委員会の行為は、少なくともこの法の理念に違背する行為と言わねばならない。世論による、《総務省・高市早苗、日本郵便・鈴木康雄、経営委員会・石原進、NHK会長・上田良一》への厳しい批判と、現場スタッフに対する激励が必要ではないか。

そのような観点からのシンポジウムである。ぜひ、ご出席を。
(2019年11月1日)

DHC・吉田嘉明、DHCスラップ「反撃」訴訟判決に控訴 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第163弾

 お知らせしたとおり、10月4日にDHC反撃訴訟の判決が言い渡され、私(澤藤)が勝訴した。本日(10月18日)が控訴期限。私の側は控訴しなかったが、DHC・吉田嘉明の側が控訴した。これから、控訴審が始まる。DHC・吉田嘉明が控訴人となり、私(澤藤)が被控訴人となる。

 普通、控訴審の期間は長くかからない。私が被告になった、「DHCスラップ訴訟」も、口頭弁論期日は1回開かれただけで、即日結審となった。皆様に、もう少しのご支援をお願いしたい。

もう一度、事案と判決の内容を整理しておきたい。

私が、当ブログに吉田嘉明を批判する記事を掲載した。DHC・吉田嘉明が、その記事によって名誉を毀損されたとして、私を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した。この訴訟が、「DHCスラップ訴訟」(あるいは「前件訴訟」)である。
そのDHCスラップ訴訟では、一審・控訴審そして最高裁への上訴のフルコースで、私が勝訴して確定した。

しかし、私はそれだけでは納得できなかった。私は、DHC・吉田嘉明の私に対する訴訟は、社会的な強者が、自分(吉田嘉明)に対する批判を封殺する目的で提訴した典型的なスラップ訴訟として違法であることを理由に、損害賠償請求訴訟を提起した。これが「DHCスラップ『反撃』訴訟」である。

その一審で私が勝訴し、敗訴のDHC・吉田嘉明が、一審判決に不服として東京高裁に控訴した、というのが現段階である。

私が一貫して主張しているものが、表現の自由である。仮に、DHC・吉田嘉明のこんな訴訟がまかり通ることになれば、民主主義社会を支える表現の自由が枯死してしまう。私こそが表現の自由の旗を持ち、DHC・吉田嘉明がこれに敵対する者なのだ。

しかし、当然のことながら、「表現の自由」が常に他の憲法価値に優越するわけではない。
Aの表現がBの社会的評価を貶めるとき、「Aの表現の自由」と「Bの人格権」とが衝突して調整を要することになる。Bが自らの人格権を違法に侵害されたとして損害賠償請求の訴えを提起すれば、Aに違法性阻却要件具備の挙証責任が課されて審理されるのが現在の訴訟実務。
その訴訟でBが結果として敗訴しても、直ちに不当な訴えを提起したことにはならない。結果として負けた訴訟が、すべてスラップということではない。社会の正義の感覚とは相容れない司法の壁に跳ね返されて、勝つべくして勝てない訴訟はたくさんある。これを違法・不当な訴訟とは言わない。

では、どのような場合に、Bの提訴が不当・違法な訴訟となるのか。どのような状況で、どのような要件を具備した場合に、スラップと呼ぶべき違法な訴訟として、提訴自体を不法行為に問うことができるのか。まだ、必ずしも明確な基準が設定されているとは言いがたい。

つまり、「結果としては勝てなかったが、争う価値ありという提訴」と、「そのような提訴自体が違法となる提訴」をどこで分けるべきかは微妙な問題が残されている。しかし、DHC・吉田嘉明の私に対する提訴の違法性は、そのような微妙な境界事例ではない。歴としたスラップ、明々白々な違法提訴なのだ。そのことを反映して、DHCスラップ『反撃』訴訟一審判決は、逡巡のあとのない、迷いのない判断を示している。

裁判所の判断の枠組みは、民事訴訟裁判制度の趣旨目的に照らして、著しく相当性を欠く場合にあたるか否かというものである。

判決の論理の出発点は、次の最高裁判例である。

「訴えの提起は,提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的,法律的根拠を欠くものである上,同人が,そのことを知りながら,又は通常人であれば容易にそのことを知り得たといえるのにあえて訴えを提起したなど,裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り,相手方に対する違法行為になるものというべきである(最高裁判所・1988(昭和63)年1月26日第三小法廷判決)。

その上で、大要次のように判断する。

「DHC・吉田嘉明が澤藤に対して訴えを提起し、損害賠償請求の根拠としたブログは合計5本あるが、そのいずれについても、客観的に請求の根拠を欠くだけでなく、DHC・吉田嘉明はそのことを知っていたか、あるいは通常人であれば容易にそのことを知り得たといえる。にもかかわらず、DHC・吉田嘉明は、敢えて訴えを提起したもので、これは裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に当たり、提訴自体が澤藤に対する違法行為になる」

噛み砕いて言えば、こんなものである。
「澤藤ブログが、DHC・吉田嘉明の耳には痛く面白くないとしても、裁判をしてもどうせ勝てっこない。しかも、勝てっこないことは分かっていたはず。仮にそのことが分かっていなかったとしても、普通の人なら容易にが分かったはずなのだから、そんな提訴はしてはいけない。してはいけない提訴をしたことは澤藤に対する違法行為として、損害賠償の責任を負わねばならない」ということでもある。

問題となっている提訴が、以下の「Aを前提に、B1かB2」であれば、違法となるということである。
A「客観的に勝てない」
B1「提訴者が、勝てないことを知っている」
B2「常識的に勝てないことが分かるはず」

つまり、これがスラップ勝利の方程式。
A+(B1orB2)=スラップ

吉田の澤藤に対する提訴が、A「客観的に勝てない」ものであることは、既に答が出ている。吉田嘉明の訴えは全面的に請求棄却で確定しているからだ。残るは、B1「提訴者が勝てないことを知っている」、あるいはB2「常識的に勝てないことが分かるはず」と言えるか。判決は、迷いを見せずに、これを肯定する。この判定過程が、この判決の神髄。当該判示部分の冒頭を抜き書きする。

原告澤藤ブログ(5本)は,本件(吉田嘉明の週刊新潮)手記ないし本件朝日新聞記事に記載されている事実を前提に、他の情報を付加することなく、原告が考える政治と金銭との健全な関係の観点から、本件(8億円)貸付について、被告吉田の内心の推察を試みつつ批判を加えようとするものと読み取ることができる。そうすると、原告ブログは、本件手記ないし本件朝日新聞記事に記載されている事実を元にした社会的な評価や推論であることが理解可能である記述部分や,人の内心に係る一般的な行為の動機の問題である記述部分からなり、被告吉田の本件(8億円)貸付の動機についての事実の摘示を含むものと解することはできないのであり、このことは、一般の読者において同様の理解が容易というべきである

控訴しても、この結論が変わるはずはない。付帯控訴によって、賠償金の増額はあり得る。その控訴審の進行は、当ブロクで詳細に報告したい。引き続きのご支援をお願いいたします。
(2019年10月18日)

中国よ、大国の風格はどこに。

風格という言葉がある。その意味するところの説明は難しいが、なんとなく分からないではない。山岳や巨樹・古木の中には、確かに風格を感じさせるものがある。遺跡や建造物についても同様である。自ずと畏敬の念を呼び起こす雰囲気。今は既に絶滅してお目にかかることはないが、昔は風格のある人物が存在していたともいう。

人間集団にも風格はありうる。ある種の企業の独特の社風に風格を感じ取ることある。デマやヘイトやスラップをもっぱらとする企業には、望むべくもないことだが。

そして、大国には、中小規模の国にはない風格があってしかるべきである。大国の自信と余裕から、大らかで寛大な風格が自ずから滲み出ることになる。

今、大国アメリカの国連の分担金滞納が話題となっている。そのため国連は、深刻な財政危機にあり、「11月の人件費をまかなえない恐れがある」と事務総長が訴える事態となっている。けちくさいトランプの小細工。堂々たる大国のやることではない。世界から、尊敬も信用も得られない、風格なきトランプのアメリカ。

もう一つの大国、中国も同様である。いま、中国は総がかりで、NBA(全米プロバスケットボール協会)と対峙している。そのまなじり決したやり方には、大国の風格のカケラもない。これでは、世界から尊敬も信用も得られまい。風格なき習近平の中国。

問題の発端は、10月4日の一通のツイートである。NBAに所属するヒューストン・ロケッツのゼネラルマネジャーであるダリル・モーリーが「香港と共に立ち上がろう」と書かれた画像をツイッターに投稿した。中国に対する批判の言論ではない。香港と共に立ち上がろう」である。これが中国の逆鱗に触れた。大きな中国がこの一通のツイートに噛みついたのだ。何という、鷹揚さにも寛大さにも欠けた対応。余裕も自信もないことをさらけ出しているではないか。

もちろん、このツイートはNBAの公式コメントではない。ヒューストン・ロケッツのツイートですらない。あくまで、ダリル・モーリー個人の見解であることは明らかだ。NBAが責任をもつ筋合いはない。常識的には。

中国メディアの反発に対して、NBAはどう言うべきであっただろうか。
「民主主義社会の普遍的理念として表現の自由がある。NBAは表現の自由を尊重し発言者を擁護する」と言うべきであったろう。おそらくは、そう言いたかったに違いない。それでこそ、「自由の国」の「自由の精神」を貫徹することになる。しかし、そうは言えなかった。アメリカは、「自由の国」であるだけでなく、「カネが支配する国」,すなわち「資本の原理が貫徹する国」でもある。表現の自由という理念よりも、儲けのチャンスを逃してはならないとする現実的な要請を優先せざるを得ない。

結局、NBAは自らは関与していないという言い訳の声明を発表しただけでなく、英語と中国語で謝罪した。

NBAにとって、中国は数十億ドルの市場だという(「ニューズ・ウィーク」)。この巨大市場を失いたくはないというNBAの現実感覚が、表現の自由擁護を追いやったのだ。

恐るべきは、巨大市場を擁する中国である。バスケットボールに限らない。スポーツ一般にも限らない。すべての経済分野で、巨大市場を武器とする中国の傍若無人が、まかり通っていることが報じられている。

米中ともに、大国の風格を欠くことにおいて兄たり難く弟たり難し。とりわけ、ナショナリズムをふりかざす中国の格好の悪さが際立っている。

国際的な批判が必要である。私も、ダリル・モーリーに倣って声を上げよう。
「香港と共に立ち上がろう」と。
(2019年10月17日)

NHKへの抗議と激励の「アピール行動」10月18日(金)中止

(急ぎのお知らせ) 明日10月18日、17時から予定していた「NHK前アピール行動」は雨天の予報を受け、中止となりました。 目下、呼びかけ人の間で、近々に、同じ趣旨で代わりの企画を行う相談をしています。明日中には決定してお知らせします。 たびたびの予定変更ですが運動はしっかり続けますので,よろしくお願いします。

N国・立花さん、いったん口にしたスラップの提訴。ぜひおやりなさい。

私は、根は親切なタチだ。多少は、お節介でもある。だから、このブログでも、何人かの人には親切心から、「おやめなさい」と言ってきた。

しかし、私が万人に親切であるわけはない。相手によっては、不親切心からの思惑あって「おやめなさい」と言うこともあれば、うまく行かないことを見越して「ぜひおやりなさい」とけしかけることだってある。

ところで、N国の立花孝志さん。あなたは、10月4日の記者会見で、小西洋之参院議員に対する民事訴訟の提訴を宣言された。小西さんの立花批判発言を名誉毀損として損害賠償請求の提訴をすると明言された。記者会見とは国民の代表への語りかけの場。あなたは、国民への約束をされた。政治家に二言はあるまじきこと。このスラップまだ提訴になっていないようだが、どうなさったか。ぜひ、おやりなさい。早くおやりなさい。躊躇していてはなりません。グズグズしているのは、あなたらしくない。

あれから10日も経っている。一度口にしたことは速やかに実行しましょう。そうでないと、政治家失格。いや、社会人失格。「埼玉補選出馬準備で忙しい」なんて言い訳は止めましょう。あなたらしくもない。名誉毀損損害賠償請求の訴状を書くのは簡単なこと。だれにだって書ける。立花さん、あなただって自分で書ける。自分で書くのが面倒なら、どんな弁護士にでも依頼さえすればよい。訴状だけならたやすく書ける。あなたは、埼玉補選に専念しておいてよいのだ。

私は、2014年4月8日、当ブログに「政治資金の動きはガラス張りでなければならない」という、DHC・吉田嘉明批判の記事を書いた。そうしたら、DHC・吉田嘉明は4月16日に私を名誉毀損で提訴した。吉田嘉明かDHCの誰かが、そのブログを最初に読んだのは、どう考えても4月9日以降のこと。とすれば、提訴を決意し弁護士に相談して依頼し、弁護士が受任して訴状を書いて提出するまで、一週間という期間でしかなかった。

しかも、この一週間は、DHCの顧問弁護士(今村憲)が、多くの吉田嘉明批判言論から、「確実に勝訴の見込みがあると判断」される事案をセレクトする作業期間を含んでいる。その一週間に、私のDHC・吉田嘉明批判のブログも「確実に勝訴の見込みがあると判断」されて、提訴対象とされたのだ。

あなたの場合の時系列を確認しておこう。
まずは、あなたのユーチューブ発言があった。

「人間の天敵はいないから、結局人間が人間を殺さざるを得ないのが戦争だと思ってる」「ある意味ものすごい大ざっぱに言うと、そういうあほみたいに子どもを産む民族はとりあえず虐殺しよう、みたいな。やる気はないけど、それを目指したら、結局そういうことになるのかな」「うちで飼っている猫とあまり変わらない人いっぱいいますよ。そういう人はご飯をあげたら繁殖するんですよ、言い方悪いけど、いっぱい子供産むんですよ、やることないから。避妊に対する知識もないし」「人種差別やめようとは思ったことない」「差別やいじめは神様が作った摂理だから、本能に対して逆らうことになるでしょ。だって誰かを差別したり、誰かをいじめることによって自分が安心できるっていう、人間持っている本来の摂理なので、それが本当に正しいのかって言うのはすごく疑問がある」

以上のあなたの発言批判を小西さんが、ツイッターに書き込んだ。これが9月27日のこと。

空前絶後の暴言。
憲法、国連憲章の全否定に等しい。
参議院規則第207条では、「議員は、議院の品位を重んじなければならない。」と明記されている。
この規則への違反は、憲法58条により懲罰処分、すなわち、除名(議席はく奪)も可能だ。
参議院の与野党の責任が問われている。

なるほど、参議院規則には、下記の各条文がある。小西さんのツイッターによるあなたへの批判の意見は、荒唐無稽なものではない。

第207条 議員は、議院の品位を重んじなければならない。
第245条 議院を騒がし又は議院の体面を汚し、その情状が特に重い者に対しては、登院を停止し、又は除名することができる。

この批判を不服とするあなたは、「小西さんに対話を求めたが応じなかった」として、10月3日に「小西氏の国会事務所を動画撮影しながら突撃した」と報じられている。

そして、翌4日の記者会見での提訴発言となった。この日程なら、小西さんを被告とする訴状を準備して、会見場で配布することもできたはず。まさか、やる気もないのに、口だけ発言ではなかったのでしょうね。そして、念のため。今さら、提訴は止めたなんて言わないでしょうね。

あなたは、同じ会見で「(小西さんが)謝罪すれば別だが、徹底的にやる」と豪語した旨報じられています。まさか、小西さんがあなたに謝罪することがあるなど、本心でお考えではないですよね。あなたは、「(議員会館での)撮影禁止は知っていたが、わざと問題のある行為をすることで先方に逃げられないようにしている」と述べたそうですがね。実は、逃げられなくなったのはあなたの方なんですよ。もう、退路はない。徹底的にやらざるを得ないのですよ。

あなたの発言は、憲法の理念に照らして、また国連憲章に照らして、社会の良識に照らして、到底看過し得ない。あなたは国会議員の任に堪えない。

10月2日の毎日社説が、的確にあなたを批判している。
「今度は『虐殺』という暴言 これ以上許してはならぬ」
https://mainichi.jp/articles/20191002/ddm/005/070/122000c

「国会は直ちに厳しく対処すべきである。そうでないと日本はこうした暴言を容認していると国際社会から見なされかねない。」

これが良識というもの。

「議院の品位を重んじなければならないとする参議院規則に違反し、除名も可能だ」という、この小西議員の発言は、真っ当な表現の自由の行使として、違法となる疑念は露ほどもない。

立花さん。この発言を不服として批判するのは、それが小西議員への人格攻撃や事実に基づかない誹謗中傷に至らぬ限りは、あなたの表現の自由に属することだ。しかし、提訴という手段で、小西議員に応訴の負担をかけるのは、スラップとして違法となる。結局あなたは、損害賠償の責めを負わねばならない。

小西議員の発言に違法の要素はなく、あなたの提訴がまったく勝ち目のないことは、明々白々というべきだ。にもかかわらず敢えてするあなたの提訴は、嫌がらせ以外の何ものでもない典型的なスラップ訴訟。民事訴訟制度の趣旨目的を大きく逸脱した提訴となる。

だから、立花さん。「もう参議院議員は辞めたのだから、小西さんへの提訴も取り止めた」などと、言い訳をしてはいけない。あなたは、いままた、参議院議員を目指しているではないか。

だから、N国の久保田学・立川市議が、フリーライターちだい氏を名誉毀損で訴えた、あのスラップ訴訟と同様に、立花さん、あなたはスラップ訴訟を提訴して完敗するしかない。そして、その反訴でも潔く負けていただきたい。そうして、スラップの汚さ、スラップの害悪、さらにはスラップ提起が自らに跳ね返ってくるリスクを世に知らしめることが、せめてものあなたの政治家としての社会への貢献になるのではないか。

だから、重ねて申しあげる。立花さん、小西議員に対するスラップを、ぜひおやりなさい。早急におやりなさい。躊躇することはありませんよ。善は急げ、不善も急げ、というではありませんか。
(2019年10月14日)

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