澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

BPOではなく、吉田嘉明(DHC)こそが、「正気か」と問われなければならない。

吉田嘉明が経営するDHCとは、
D デマと
H ヘイトの
C カンパニー
である。のみならず、デマとヘイトにスラップまでが加わった、稀有の三位一体企業というほかはない。
人権感覚のある人、民主主義や平和を大切に思う人は、けっしてDHCの製品を買ってはならない。
これまで、このことを繰り返してきたが、本日は、「H ヘイト」を取りあげたい。

昨日(6月21日)、国連広報センターのホームページ(日本語版)に、下記のプレスリリース記事(抜粋)が掲載された。

「アントニオ・グテーレス国連事務総長、 ヘイトスピーチに関する国連の戦略と計画を発表(プレスリリース日本語訳)」
https://www.unic.or.jp/news_press/info/33636/

ニューヨーク、6月18日-事務総長はきょう、加盟国に対する非公式ブリーフィングで「ヘイトスピーチに関する国連戦略・行動計画」を発表しました。この戦略の目的は、ヘイトスピーチが知らず知らずのうちに及ぼす影響や、それぞれの活動の中で、ヘイトスピーチにさらに効果的に対処する方法について、国連のあらゆる主体による理解を深めることにあります。また、加盟国に対する支援の強化と、民間企業や市民社会、メディアとの連携の強化も求めています。

戦略は、ヘイトスピーチの根本的な原因と推進要素にいかに取り組むべきか、そして、その社会に対する影響をいかに弱めるべきかに関するアイデアを提供するものとなっています。

「ヘイトスピーチは寛容や包摂、多様性、そして私たちの人権規範と原則の本質に対する攻撃に他なりません。さらに幅広い意味で、ヘイトスピーチは社会的一体性を損ない、共有の価値を侵食し、暴の基盤を作り上げることにより、平和、安定、持続可能な開発、あらゆる人の人権実現という理想を後退させかねません」アントニオ・グテーレス事務総長は加盟国へのブリーフィングの中で、このように述べています。

これまで75年間、ルワンダからボスニア、さらにはカンボジアに至るまで、私たちはヘイトスピーチが残虐な犯罪の前兆となる様子を目の当たりにしてきました。最近では、中央アフリカ共和国やスリランカ、ニュージーランド、米国をはじめ、世界各地で大量殺人をもたらした暴力との強い関連性が見られます。各国政府もテクノロジー企業も、オンラインで組織的にまき散らされる憎悪の予防と対策に苦慮しているのが現状です。

グテーレス事務総長は「新たな経路によってヘイトスピーチがこれまで以上に幅広い人々に、瞬時に届いている中で、私たち国連や各国政府、テクノロジー企業、教育機関はすべて、対応を強化する必要があります」と語っています。

加盟国に対する国連の支援を強化するため、事務総長は、ヘイトスピーチに取り組み、これに対するレジリエンス(「対抗力」と訳すべきか)を築く上での教育の役割に関する会議を招集する予定です。また、ジェノサイド防止担当特別顧問を今回の戦略・行動計画の国連におけるフォーカルポイントに任命しました。特別顧問はこの資格で、より具体的な実施指針の策定を監督、促進することになっています。

この事務総長発言の認識に全面的に同意する。ヘイトスピーチは、「寛容や包摂、多様性、人権規範に対する本質的な敵対物である。しかも、暴力の基盤を作り上げることによって平和を破壊する」。ヘイトスピーチを看過してはならない。

6月18日、グテーレス事務総長が「ヘイトスピーチに対処する行動計画」を発表した際には、その演説の中の「自由民主主義体制下でも政治指導者がヘイトスピーチを広めている―」との発言が大きな話題となった。

この演説の内容は、かなり厳しい。たとえば、朝日はこう報じている。

「グテーレス氏はこの日、加盟国に向けた演説で、政治体制を問わず、『何人かの政治指導者が憎悪に満ちた考え方や言葉を広め、普遍化し、公の議論を荒らし、社会を弱体化させている』と指摘。ヘイトスピーチへの対処に国際社会が臨む重要性を説いた。」
 「発言は移民らに向けられたトランプ氏の差別的な発言に釘を刺す形となり、演説後の会見で、記者から『(だれの行為か)名指しした方が、インパクトを与えられるのでは』との質問が出た。
 グテーレス氏は『名前を公表すれば、それだけが広く伝わってしまう。私が望むのは、本質的な問題がしっかりと扱われることだ』と苦笑いしてかわした。」

 トランプほどのスケールは欠くにせよ、我が国にも、「憎悪に満ちた考え方や言葉を広め、普遍化し、公の議論を荒らし、社会を弱体化させている」ヘイトスピーチの常習者は、少なくない。その典型が、DHCの吉田嘉明といってよい。

彼のヘイトの矛先は、在日である。在日を差別する点において紛れもない「不当な差別的言動」であり、違法行為である。

下記が、2016年2月12日付で、DHCのホームページに堂々と掲載された記事の抜粋である。「会長メッセージ」と標題があり、「株式会社ディーエイチシー 代表取締役 吉田嘉明」との肩書記名が明記されていた。但し、現在はこの記事はホームページから削除されている。さすがに恥ずかしいことを悟っての記事の抹消であれば、結構なことだ。反省文が公表されていればなお結構だが、それはない。

「時々とんでもない悪(わる)がいたりしますので、この点は注意が必要です。純粋な日本人でない人も結構います」「本物、偽物、似非ものを語るとき在日の問題は避けて通れません。この場合の在日は広義の意味の在日です。いわゆる三、四代前までに先祖が日本にやってきた帰化人のことです。そういう意味では、いま日本に驚くほどの在日が住んでいます。」「問題なのは日本人として帰化しているのに日本の悪口ばっかり言っていたり、徒党を組んで在日集団を作ろうとしている輩」「政界(特に民主党)、マスコミ(特に朝日新聞、NHK、TBS)、法曹界(裁判官、弁護士、特に東大出身)、官僚(ほとんど東大出身)、芸能界、スポーツ界には特に多いようです」「問題は、政界、官僚、マスコミ、法曹界です。国民の生活に深刻な影響を与えます。」「私どもの会社も…法廷闘争になるときが多々ありますが、裁判官が在日、被告側も在日の時は、提訴したこちら側が100%の敗訴になります。裁判を始める前から結果がわかっているのです。似非日本人はいりません。母国に帰っていただきましょう。」

この文章には、論理も論証もない。「法曹界には、日本人として帰化しているのに日本の悪口ばっかり言っていたり、徒党を組んで在日集団を作ろうとしている輩が特に多い」「私どもの会社(DHC)が裁判に負けるのは、裁判官がそのような在日だから」という無茶苦茶な没論理。

DHCのホームページのヘイトスピーチは削除されたが、こちらは残っている。
産経のネット論壇である「iRONNA」に掲載された DHC会長独占手記】「『ニュース女子』騒動、BPOは正気か」という挑戦的なもの。

  今、問題になっている放送倫理・番組向上機構(BPO)についてですが、まずこの倫理という言葉を辞書で調べてみると「善悪・正邪の判断において普遍的な基準となるもの」(「大辞泉」)ということになっています。そもそも委員のほとんどが反日、左翼という極端に偏った組織に「善悪・正邪」の判断などできるのでしょうか。

 沖縄問題に関わっている在日コリアンを中心にした活動家に、彼らが肩入れするのは恐らく同胞愛に起因しているものと思われます。私どもは同じように、わが同胞、沖縄県民の惨状を見て、止むに止まれぬ気持ちから放映に踏み切ったのです。これこそが善意ある正義の行動ではないでしょうか。

 今、私が最も危倶しているのは、日本の主要分野にあまりにも増えすぎた「反日思想を持つ在日帰化人」のことです。日本人になりきって、日本のためにこれからも頑張ろうという人たちを差別しては絶対にいけません。反日だからダメなのです。日本という国にお世話になっていながら、日本の悪口は言う、日本を貶めることだけに生き甲斐を感じているような在日帰化人は逆に許せません。

  実業界で大企業の創業者の大半は在日帰化人です。私のように純粋な大和民族はその点では珍しい存在かもしれません。この類の実業家は、反日ではありませんが、やはり民族的な性格からか、その貪欲さは半端ではありません。昔からの人情味あふれた小売店が全国から消えていったのは、率直に言ってこの人たちのせいだと思っています。

 政界、法曹界は特に在日帰化人が多いことで知られています。日本の全弁護士が所属している日弁連という団体がありますが、みなさんぜひ一度調べてみてください。本稿ではあえて触れませんが、驚くべきことが分かります。

この吉田の文章が、ヘイトスピーチであることについて、法務省のホームページを開いて、確認されたい。http://www.moj.go.jp/JINKEN/jinken04_00108.html

ヘイトスピーチ、許さない。(”Stop Hate Speech”)
  令和元年6月3日(月)で「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律(平成28年法律第68号)」,いわゆる「ヘイトスピーチ解消法」の施行から3年を迎えました。
 我が国におけるヘイトスピーチ問題への理解は進んできてはいるものの,いまだ国民全体に理解が広まったとは言えません。
 法務省の人権擁護機関においては,ヘイトスピーチは許されないという意識をより一層普及させるため,引続き広報・啓発活動を行ってまいります。

ヘイトスピーチって何なの?
 特定の国の出身者であること又はその子孫であることのみを理由に, 日本社会から追い出そうとしたり危害を加えようとしたりするなどの 一方的な内容の言動が,一般に「ヘイトスピーチ」と呼ばれています。
  例えば,
(1)特定の民族や国籍の人々を,合理的な理由なく,一律に排除・排斥することをあおり立てるもの  
  (「○○人は出て行け」,「祖国へ帰れ」など
(2)特定の民族や国籍に属する人々に対して危害を加えるとするもの   
 (「○○人は殺せ」「○○人は海に投げ込め」など)
(3)特定の国や地域の出身である人を,著しく見下すような内容のもの  
 (特定の国の出身者を,差別的な意味合いで昆虫や動物に例えるものなど)

以上でお分かりのとおり、吉田嘉明の【DHC会長独占手記】は、典型的なヘイトスピーチなのだ。

もう一つ。国連の文書を挙げておこう。
2014年8月20日の自由権規約委員会「日本の第6回定期報告に関する総括所見」である。

そのなかに、「ヘイトスピーチ及び人種差別」と表題する章があり、次のようにしるされている。

「委員会は,韓国・朝鮮人,中国人,部落民といったマイノリティ集団のメンバーに対する憎悪や差別を煽り立てている人種差別的言動の広がり,そしてこうした行為に刑法及び民法上の十分な保護措置がとられていないことについて,懸念を表明する。委員会は,当局の許可を受けている過激派デモの数の多さや,外国人生徒を含むマイノリティに対し行われる嫌がらせや暴力,そして「Japanese only」などの張り紙が民間施設に公然と掲示されていることについても懸念を表明する。
締約国は,差別,敵意,暴力を煽り立てる人種的優位性や憎悪を唱道する全てのプロパガンダを禁止すべきである。また,こうしたプロパガンダを広めようとするデモを禁止すべきである。締約国はまた,人種差別に対する啓発活動に十分な資源を割り振り,裁判官,検察官,警察官が憎悪や人種差別的な動機に基づく犯罪を 発見するよう研修を行うようにすべく,更なる努力を払うべきである。
締約国はまた,人種差別的な攻撃を防止し容疑者らを徹底的に捜査・訴追し,有罪の場合には適切な処罰がなされるよう必要な全ての措置を取るべきである。」

これが、ヘイトスピーチについての国際的な合意点である。吉田嘉明は「BPOは正気か」と言ったが、国際常識からすれば、吉田嘉明自身こそが、「正気か」と問われなければならないのだ。
(2019年6月22日)

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以下は、6月23日の加筆である。

6月22日の毎日夕刊に、東京メトロポリタンテレビジョン(TOKYO MX)伊達寛社長の就任1年インタビュー記事が掲載されていることに今朝(23日)になって気が付いた。大きく「『ニュース女子』放送内容への責任 自戒に」という見出し。同社長は、18年6月に就任以来の「反省の一年」について真摯に語っている。なるほど、なんの反省もない吉田嘉明とは、月とスッポン、提灯と釣り鐘。こういう局面で、本物と偽物・似非物との差が表れる。以下は、その該当部分の引用。

 伊達社長がMXの専務時代の17年1月には、別の番組「ニュース女子」で大きな問題が起きた。同番組が沖縄の米軍基地問題を扱い、基地反対派をテロップなどで「テロリストみたい」などと表現。「事実関係が違う」と批判が上がり、同年12月に放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会から「重大な放送倫理違反があった」と意見書で指摘された。MXはその約3カ月後、同番組を終了した。

 「ニュース女子」はスポンサーが番組枠を買い取り、その子会社が制作した番組を流す「持ち込み番組だった。スポンサーだった化粧品会社「DHC」は当時、MXにとって最大の取引先でもあった。伊達社長は「我々に深く反省すべきところがあった。放送で最も大事なことは信頼感。テレビ局は放送内容に責任を持たなければならない。多くのメディアから取材を受けたが、民放として答えづらいところもあり、(取材に対する)十分な対応ができず、さらに信頼を失った」と振り返る。

 社長就任後、最大の仕事は信頼回復だった。「社員も反省の1年を過ごした」と言う。昨年後半からは、会社の方向性を示す「企業メッセージ」の策定にも取り組んだ。部署を超えた若手社員が議論し、生まれたのが「つなげるテレビ」というキャッチフレーズ。「あらゆる声に耳を傾け、視聴者や業務上のパートナーと未来をつくるという願いを込めた。東京のテレビ局として積極的に町に出て行き、東京が抱える課題や悩みの解決の一助となる仕事をしたい」と話す。

この反省の姿勢は、立派なものだ。この反省あればこそ、MXは真っ当な企業として、社会に受け入れられることになる。すこしは吉田嘉明にも、これを見習う姿勢が欲しいところだが、今のところ、その片鱗も見ることができない。

 

「日本に報道の自由がないとの実感は全くない」との産経社説を憂うる。

下記は、一昨日(6月7日)の産経社説(『主張』)の書き出しの一文である。なんとなくおかしくはないか。私は、思わず吹き出してしまった。が、実は深刻に憂うべき一文なのだ。

 「本紙(註ー産経)もメディアの一員だが、日本に報道の自由がないとの実感は全くない。」

産経に、「報道の自由がないとの実感は全くない」はウソではなかろう。誰からの掣肘を受けることもなく、自由に紙面をつくって販売していられる。日本には満足すべき報道の自由がある。きっと、産経はそう思い込んでいるに違いない。

 しかし、その産経の『自由』は、産経が特定の立場性を有しているからなのだ。権力におもねり、権力に迎合し、権力を称揚し、権力が望む方向に世論を誘導しようとの立場。権力に抵抗する勢力を難じる立場。権力に癒着した権威に平伏してみせる立場。遅れた社会意識が形成する同調圧力を批判することなく、助長する立場…でもある

権力を称揚する立場の言論が権力から掣肘を受けるはずはない。権威に阿諛追従の言論が社会的制裁の対象になるはずはない。また、社会的多数派の同調圧力に迎合していれば自ずから我が身は安泰に違いない。あたりまえのことだ。

要するに、アベ政権を称揚し、天皇制に阿諛追従し、元号使用を肯定し、「日の丸・君が代」強制を当然視し、北朝鮮や韓国は怪しからん、夫婦同姓を貫こう、という立場での報道は、この社会ではなんの障害もなく安心して発信できるのだ。こんなことは、報道の自由の名に値しない。

権力に迎合する表現の垂れ流しなら、中国にも北朝鮮にも、シリアにもあるだろう。そんなものをジャーナリズムとは呼ばないし、報道の自由が保障されているとも言わない。

「報道の自由」、あるいは報道機関に主体を限定しない「言論の自由」「表現の自由」とは、権力が憎む内容の報道をする自由なのだ。政権の耳に痛い言論を述べる自由なのだ。社会の多数派が歓迎しない表現を敢えて行う自由のことなのだ。

資本主義体制を、保守政権を、アベ政権を、そして天皇制を批判する言論の自由こそが、憲法的保護が必要であり、保護を与えるに値する自由なのだ。産経流のアベ政権や天皇制に迎合する提灯報道の垂れ流しをもって「日本には報道の自由がある」などと言うことは、見当外れも甚だしい。

産経の社説は、こう続く。「見当外れの批判には堂々と反論すべきだ。言論と表現の自由に関する国連の特別報告者、デービッド・ケイ氏が、日本では現在もメディアの独立性に懸念が残るとする報告書をまとめ、24日に開会する国連人権理事会に提出する見通しだ。」

産経が懸念するのは、国連の特別報告者デービッド・ケイの国連人権理事会に提出予定の日本の言論と表現の自由に関する報告書」の内容である。

これについての、朝日の報道を引用しておこう。6月6日付の「表現の自由『日本は勧告をほぼ履行せず』国連特別報告者」という見出し。

「言論と表現の自由に関する国連の特別報告者デービッド・ケイ氏が、日本のメディアは政府当局者の圧力にさらされ、独立性に懸念が残るとの報告書をまとめた。「政府はどんな場合もジャーナリストへの非難をやめるべきだ」とした。
ケイ氏は2016年に日本を訪問し、翌年に報告書をまとめて勧告を行った。今回は続報として勧告の履行状況などを報告。政府に対する勧告11項目のうち、放送番組の「政治的公平」などを定めた放送法4条の撤廃、平和的な集会や抗議活動の保護など9項目が履行されていないとした。
今回、ケイ氏からの問い合わせに日本政府は答えなかったとしている。報告書は国連人権理事会に提出され、審議されるが、勧告に法的拘束力はない。」

どうして産経が目くじらを立てるのか理解に苦しむところだが、産経の社説の中に、次の一節がある。

「菅義偉官房長官は『不正確かつ根拠不明のものが多く含まれ、受け入れられない』と述べた。当然である。勧告に法的拘束力はなく、これまでも政府は逐一に反論してきた。」
なるほど、産経の主張とは、政府を代弁する立場なのだ。

また、産経社説はこうも言う。「人権理事会は加盟国の人権の状況を定期的に監視する国連の主要機関だが、恣意的に政治利用されることも多い。米国は昨年、『人権の名に値しない組織だ』などと批判し、離脱した。」
なるほど、産経の主張は、米国とも一致する立場なのだ。

トランプのアメリカが暴論を恣にして、世界の良識から孤立していることは周知の事実である。そのアメリカにアベ政権が追随し、そのアベ政権に産経が追随するの図である。

産経の強弁に拘わらず、日本のジャーナリズムは、政権批判、天皇制批判を語り得ない。明らかに言論の萎縮状況が蔓延している。この言論萎縮状況が、産経の立場からは、日本に報道の自由がないとの実感は全くない」と映るのだ。産経にこんなことを言わせておくジャーナリズムの現状。残念でならない。
(2019年6月9日)

言論の自由は、権力と権威を批判するためにこそある。

本日は、「ちきゅう座」第14回総会にお招きいただき、冒頭発言の機会を得ました。「ちきゅう座」には、私の拙いブログを、毎日掲載していただいていることに感謝申し上げ、そのブログに関連して、短い時間ですが、私流のブログ作法のようなものをお話しさせていただきます。

私がブログを書く基本姿勢は、「当たり障りのないことは書かない」「すべからく、当たり障りのあることだけを書く」ということに尽きます。「当たり障りのあること」とは、誰かを傷つけると言うこと。誰かを傷つけることを自覚しながら、敢えて書くということです。

「誰かを傷つける」言論は、当然にその「誰か」との間に、軋轢を生じます。それは、面倒を背負い込むことであり、けっして快いことではありません。場合によっては「裁判沙汰」にさえなります。それでも書かねばならないことがあります。

近代憲法を学ぶ人は、典型的な近代市民革命の成果としてのフランス人権宣言(「人および市民の諸権利の宣言」・1789年8月)に目を通します。その第4条に、有名な「自由の定義」が記載されています。
「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることである。」という有名な一文。私は、これにたいへん不満です。えっ? たった、それだけ? 自由ってそんな程度もの?

「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうること」という文言では、論理的に「誰も、他人を害する自由を持たない」「他人を害することは、自由の範囲を越えている」ことになります。私には、到底納得できない「中途半端な人権宣言」でしかありません。

他人を害しない、当たり障りのない言論には、「自由」や「権利」として保護を与える必要はありません。「当たり障りのある言論」であってはじめて、保護しなければならないことになる。戦前、國體と私有財産制を擁護し、富国強兵や滅私奉公を鼓吹する言論は誰憚ることなく垂れ流されました。当時は、これが「権力に従順で、他人を害しない、当たり障りのない言論」でした。その反対の、天皇の権威を傷つけ、生産手段の私有制を非難して資本家を排撃し、軍部・軍人を揶揄し、侵略戦争や植民地主義の国策を批判する言論は、多くの国民の耳に心地よいものではなく、当たり障りのある言論として徹底的に取り締まられました。

いま横行している、天皇を賛美し、アベノミクスを礼賛する言論。人をほめるだけの「当たり障りのない言論」は、ことさらに自由や権利として保護する必要はありません。他人を批判し、他人を傷つけ、他人との間に軋轢を生じる言論の有用性を認めることが、文明の到達した、表現の自由を筆頭とする自由や人権の具体的内容でなければなりません。

もっと端的に言えば、表現の自由とは、権力と権威を批判するためにあります。いうまでもなく、権力は批判されなけれ腐敗します。権力を担う者は、いかに不愉快でも、傷つけられても、批判の言論を甘受しなければなりません。批判さるべきは政治権力に限らず、社会的な強者、経済的な強者として君臨する者も同様。付け加えるなら、社会的多数者もです。

そして、今問題とすべきは権威です。あらゆる権威が、批判に晒されなければなりません。とりわけ、批判が大切なのは、権力と癒着する恐れある権威です。そのような権威が今われわれの眼前にあって、それに対する批判が極めて弱い。表現の自由の危うさを危惧せざるを得ません。

表現の自由とは、多様に根拠付けすることができるかと思いますが、究極のところ、権力と権威の批判の手段として有用であり必要なのです。すべての権力は血塗られた実力で獲得されますが、これを維持するためには権威の調達が必要となります。宗教的権威であったり、文化的権威であったり、神話であったり、いずれウソとゴマカシで練り上げられた権威。

戦前、天皇は権力と権威を兼ねていました。荒唐無稽な神話に基づく国家神道が、天皇を神とし教祖ともしたのです。その天皇の宗教的権威が、天皇の統治権の総覧者としての権力を支えていました。

日本国憲法は、天皇から権力を剥奪しましたが、象徴天皇というかたちで、天皇制自体は残存し、その権威の払拭は不徹底のまま現在に至っています。日本国憲法の政教分離は、天皇を再び神とすることを阻止するための歯止めですが、これさえ十分には働いていません。しかも、天皇の権威とは、必ずしも宗教的権威にとどまらない、文化的、社会心理学的なものがあると考えざるをえません。

一連の天皇代替わり儀式において、国民主権原理違反、政教分離原則違反が明らかになりつつありますが、これは象徴天皇制そのものが内在的にもつ矛盾であり、「権力と癒着する権威」という天皇制の本質の表れというほかはありません。

権力と権威に対する仮借ない批判の言論が今こそ必要な時期だと思います。「ちきゅう座」が、そのような立場で大きな役割を果たされるよう期待の言葉を述べて、「当たり障りのないご挨拶」といたします。
(2019年5月25日)

裁判官にも、私生活の場では表現の自由がある。

産経の記事を引用しなければならない。昨日(3月13日)の、「判事が『反天皇制』活動 集会参加、裁判所法抵触も」との見出しの報道。ある裁判官の行為が「積極的政治活動に当たる可能性がある」とする内容である。

 名古屋家裁の男性判事(55)が昨年、「反天皇制」をうたう団体の集会に複数回参加し、譲位や皇室行事に批判的な言動を繰り返していたことが12日、関係者への取材で分かった。少なくとも10年前から反戦団体でも活動。一部メンバーには裁判官の身分を明かしていたとみられ、裁判所法が禁じる「裁判官の積極的政治運動」に抵触する可能性がある。昨年10月にはツイッターに不適切な投稿をしたとして東京高裁判事が懲戒処分を受けたばかり。裁判官の表現の自由をめぐって議論を呼びそうだ。

 関係者によると、判事は昨年7月、東京都内で行われた「反天皇制運動連絡会」(反天連、東京)などの「なぜ元号はいらないのか?」と題した集会に参加。今年6月に愛知県尾張旭市で開催され、新天皇、皇后両陛下が臨席される予定の全国植樹祭について「代替わり後、地方での初めての大きな天皇イベントになる」とし、「批判的に考察していきたい」と語った。

 昨年9月には反戦団体「不戦へのネットワーク」(不戦ネット、名古屋市)の会合で「12月23日の天皇誕生日に討論集会を開催し、植樹祭を批判的に論じ、反対していきたい」と発言。さらに「リオ五輪の際、現地の活動家は道を封鎖したり、ビルの上から油をまいたりしたようだ。日本でそのようなことは現実的ではないが、東京五輪に対する反対運動を考えていきたい」とも語っていた。

 判事は昨年2月と5月、不戦ネットの会報に「夏祭起太郎」のペンネームで寄稿し、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」と記していた。

判事は集会などで実名でスピーチしていたほか、団体の一部メンバーには「裁判所に勤務している」と話していたという。

 判事は平成5年に任官。名古屋家裁によると、現在は家事調停や審判事件を担当している。判事は産経新聞の複数回にわたる取材に対し、何も答えなかった。

いささか眩暈を禁じえない。いったい、いまは21世紀だろうか。日本国憲法が施行されている時代なのだろうか。時代が狂ってしまったのか。それとも、私の時代感覚の方がおかしいのか。

1945年までは、治安維持法があった。「國体ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入」することが犯罪とされた。「國体」とは天皇制のことである。当該の結社に加入していない者についても、その結社の目的遂行に寄与する行為が際限なく犯罪とされた。これと並んで、不敬罪もあった。天皇や皇室の神聖性を侵すことは許されなかった。国体や天皇への批判の言論を取締り監視するために特高警察が置かれた。いま、その特高警察の役割を、産経が買って出ている。

産経が引用するこの判事の言論は、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」というもの。日本国憲法を判断の基準として、至極真っ当な言論ではないか。

日本国憲法は個人主義・自由主義を基本とする近代憲法の体系を備えている。この憲法体系からはみ出たところに、天皇という体系とは馴染まない存在がある。

近代憲法としての日本国憲法体系の純化を徹底してゆけば、天皇制否定に行き着くことは理の当然である。ただ、現在のところは、憲法に「権限も権能もない天皇」の存在が明記されている。だから、天皇の存在自体を違憲とも違法とも言うことはできないが、「世襲の君主がいろいろな動きをする制度は、やっぱり理不尽、不合理、弱い立場のものを圧迫する」というのは、法を学んだ者のごく常識的な見解といってよい。健全な憲法感覚といっても、主権者意識と言ってもよい。

その上で、「天皇制要りません、迷惑です、いい加減にしてくださいという意思表示の一つ一つが天皇制を掘り崩し、葬り去ることにつながる」とは、憲法改正論議の方向として、まことに正しい。一つひとつの言論行為によって、主権者国民の天皇制廃絶の世論を形成し、その世論の内容での憲法改正をなし遂げようというのがこの判事の見解。傾聴に値する意見であり、非難するには当たらない。

問題は、同判事の表現行為が裁判官としての制約に服する結果として違法にならないか、という一点にある。もちろん、産経報道を前提としてのこと。当事者の言い分を確認せずに、事実関係についての速断は慎まなければならない。

すべての国民に基本的人権が保障されている。もちろん、公務員にも公務を離れれば私生活があり、私生活においては表現の自由が保障されなければならない。この点についての古典的判例は猿払事件大法廷判決だが、いま堀越事件判決がこの判例を修正し揺さぶっている。

一般職公務員ではなく、裁判官についてはどうだろうか。憲法には、「良心」という言葉が2個所に出て来る。「思想・良心の自由」(19条)と、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(76条3項)という、「裁判官の良心」である。

原理主義的クリスチャンである教員も、教室では聖書のとおりに天地創造説を史実として教えることは許されない。信仰とは別次元の「教員としての客観的良心」に基づいて、確認された自然科学的真理とされている進化論を教えなければならない。職業人としての、「主観としての信仰」と「教育者としての客観的良心」の分離は、原理主義的宗教者も教員としての適格性を損なわないという根拠でもある。

憲法76条の「裁判官の良心」も客観的な良心である。主観的な信念とは別に、憲法を頂点とする法体系に従った「客観的な良心」の保持が、裁判官としての任務を全うすることになる。

裁判所法第52条は、「裁判官は、在任中、左の行為をすることができない。」として、その一号の後文に「積極的に政治運動をすること」を挙げる。「一般的に政治運動をすること」が禁じられているのではなく、「積極的に政治運動をすること」が禁じられている。

最高裁判所事務総局総務局編『裁判所法逐条解説 中巻』(法曹会、1969年)には、裁判所法52条のこの点について、「国民の一員として当然果たすべき義務としての政治的行動(たとえば、各種の選挙において選挙権を行使したり、公務員の解職請求の署名をしたりする行為)は、もとより積極的に政治運動をすることにあたらないし、単に特定の政党に加入して政党員になつたり、一般国民としての立場において政府や政党の政策を批判することも、これに含まれないと解すべきである。」と解説されている。裁判官が政党に入党することも良し、政府や政党の政策を批判しても良し、というのだ。

むしろ、市民的な表現の自由を奪われ萎縮を余儀なくされた裁判官に、表現の自由の現実化を求める訴訟での適切な判断を望むことができるだろうか。一般の市民と同様に、市民としての権利や自由を行使できる裁判官にこそ、基本的人権擁護の判断が可能ではないか。

私には、産経の報じる裁判官が、裁判所法52条に違反した行為をしているとは考えがたい。この判事の考えや言論は、憲法のコアな部分に忠実ではないか。この人が、自分の思想と裁判官としての良心の葛藤に苦しむことはなさそうである。

裁判官とて、当然にその思想は多様である。その多様性は貴重でもある。法廷においては、憲法と法と「客観的な良心」に従えば良い。むしろ、最高裁がその人事権をもって全裁判官を統制する弊害をこそ避けなければならない。
(2019年3月14日)

「天皇在位30年」 祝意の押し付けは、まっぴらご免だ。

久しぶりに小石川植物園を散策した。梅の盛りである。紅梅・白梅みごとなものだ。ヒガンザクラも椿も彩りを添えている。吹く風もほの暖かく、沈丁花の香りを運んでくる。天気は晴朗、いつもはうるさいヒヨドリの鳴き声も今日はさわやかにきこえる。この上なく雅びで風雅な日本列島の早春。

ところが、行き帰りに目についたのが、交番の日の丸。不粋この上ない日の丸である。喚き散らす右翼街宣車によく似合う、あの日の丸。暴力団組長の床の間にふさわしい日の丸。専制的天皇制国家とあまりにも深く結びついた、国威発揚・富国強兵のシンボルマーク。侵略戦争と植民地支配の象徴てあるあの旗。

さすがに、交番以外では見かけなかったが、この早春の清雅な雰囲気をぶち壊す、興ざめも甚だしい、この旗。

本日は、暦の上での祝日ではない。各紙の朝刊一面に、政府広報の囲みが掲載されている。
「天皇陛下御在位三十年記念式典」というタイトル。これが交番に日の丸の理由。広報の内容は下記のとおりである。

●天皇陛下御在位三十年を記念し、国民こぞってお祝いするため、本日(2月24日)、天皇皇后両陛下のご臨席のもと、政府主催の記念式典を東京の国立劇場で行います。
●国旗を掲げて御在位三十年をお祝いしましょう。
●各種慶祝行事もおこなれます。

この政府広報には、大いに異議がある。
まず「国民こぞってお祝い」など、トンデモナイ迷惑な話だ。常識的に「国民こぞって」とは、「国民のすべてが」、「一人残らずみんなが」という意味だろう。私は祝わない。私は、祝うべきことだとは思わない。祝意の押し売り、押しつけは、金輪際御免を蒙る。

私の天皇在位への祝意強制拒否の表現は、どうでもよいことをことさらに波風立てているのではない。言論の自由を獲得するために必須の言論だとの自覚での発言なのだ。天皇や天皇制への祝意強制には異議を申し立てなければならない。「国旗を掲げて御在位三十年をお祝いしましょう」には、「絶対反対」と声を上げなければならない。これをどうでもよいこと看過していると、言論の自由は錆び付いてしまう。イザというとに抜けば良いという宝刀は、イザといういうときには錆び付いてしまうのだ。

民主主義の根幹をなす言論の自由を抑圧するものは、権力機構ばかりではない。むしろ主要なものは社会の圧力なのだ。とりわけ、社会の「良識」というものが恐ろしい。「『良識』ある者は天皇の批判などはせぬものだ」が通念となれば、言論の自由は大幅に切り縮められることになる。いったん縮小した権利の回復は容易ではない。

言論の自由とは「権力批判のための自由」であるのみならず、権威に対する批判の自由」でもある。分けても、権力との癒着や融合が懸念される権威」に対しては、程度の高い自由が認められなければならない。日本の現状において、その最たるものが、天皇であり天皇制である。天皇や天皇制への批判の言論の自由こそが最大限に尊重されなければならないし、天皇批判の許容度が表現の自由の程度のバロメータにほかならない。

私には、「天皇在位30年」が何ゆえ祝うべきことなのか、さっぱり分からない。忖度すれば、「国民に染みこんだ臣民根性が今に至るも健在で、天皇制打倒という運動もなく、この30年を天皇として安泰に過ごしてくることができたこと」を祝おうというものであろうか。

なお、2月20日配信の共同通信配信記事が、共産、天皇在位30年式典を欠席 政治的な利用を懸念」と報じている。その記事によれば、「共産党の穀田恵二国対委員長は20日の記者会見で、24日に開く政府主催の天皇陛下在位30年記念式典に党として出席しないことを明らかにした」という。

共産党が発表した2月20日が示唆的である。2月20日とは、共産党員作家である小林多喜二の命日である。1933年2月20日多喜二は、天皇制警察によって逮捕され、その日の内に築地署で無惨に虐殺されている。天皇(裕仁)は、「自分が命じたわけではない」と言うのだろう。その長男(明仁)は、自分には関わりがないというのだろうか。

天皇制とは、権力が利用できる権威である。だから、権力にとって調法であり、国民にとっては危険な存在なのだ。天皇個人の人格やら性格などは、些末などうでもよことに過ぎない。戦前の専制的天皇制は、権力が権威を徹底して利用し尽くした政治形態である。多喜二は、天皇の名による政治に抵抗して虐殺された。人権や民主主義を語るほどの者が、天皇に祝意を表明できるはずがないではないか

ましてや、共産党が天皇の在位30周年祝賀に参加できるはずがない。犬が人に噛みついてもニュースにはならない。人が犬に噛みつけばニュースだ。共産党が天皇の在位祝賀に不参加は、余りにも当然のことで、何のニュース価値もない。むしろ、その他の政党は、社民党まで含めて皆参加するのだろうか。日ごろ、人権や民主主義を語る人たちが。それこそ、ニュース価値があるのではないだろうか。

なお、穀田議員は、「天皇の政治的な利用を懸念」「天皇の治的利用の動きがあると感じざるを得ない」と語ったという。そのとおりではあろうが、これはやや誤解を招く表現ではないか。本来、天皇制とは徹頭徹尾、権力による政治的利用を想定された制度である。その点では、戦前も戦後も一貫している。
(2019年2月24日)

「困難なときに、沈黙しなかったこと。それが闘ったことの意義」

話題の韓国映画「共犯者たち」。今日(1月4日)ようやく観る機会を得ての感想を記しておきたい。
そのドキュメンタリーの迫力に圧倒された。隣国でのこの大きな出来事について、あまりに無知だったことを悔いている。韓国の社会に対する親近感を新たにするとともに、権力の横暴と闘う多くの人々に敬意を表したい。そして、もっと大きな劇場で、もっと多くの人々に観てもらえないかと思う。

映画の内容は、李明博・朴槿恵と続いた保守政権による、テレビ放送への露骨な権力的介入と、それに抗して闘う記者たちの実録である。「共犯者たち」とは、李明博・朴槿恵という「主犯」の意を体して、これに追随した各テレビ局(KBS、MBC)の首脳たちを指す。彼らは、政権の意を受けて社長や副社長などに天下りし、あるいはその地位に抜擢された。この「共犯者たち」は政権の意向のとおりに、報道の内容を曲げ、抵抗する硬骨の記者たちを解雇した。報道の自由を守れ、という放送局従業員労組のいくつもの大きなストライキがあり、そのストライキの責任者が相次いで解雇された。被解雇者は200人以上にもなったという。

解雇されたひとりである崔承浩(チェ・スンホ)が、自ら監督となり、自らの闘いを撮影したドキュメントがこの映画。全編に怒りのエネルギーが満ちている。

この映画を観る日本人は、日本の政権によるメディア介入の構造との余りの酷似に驚き、日本の放送界に重ねてこの映画を観ざるを得ない。もちろん、主犯は安倍晋三である。そして、共犯はNHKの首脳たち。とりわけ、官邸と意を通じていると指さされている人物。

韓国で起こった政権による言論介入の事態は、当然に日本でも起こりうる。そのとき、「私は、私たちは、あんな風に闘えるだろうか…」。そう、ジャーナリストのひとりがコメントを寄せている。ジャーナリストだけではない。平和や人権、民主主義のために、政権の横暴と対峙しなければならないと思うすべての人の課題だ。「あんな風に」闘わねばならないと思う。

惜しむらくは、日本の観衆には韓国のテレビ放送事情がよく呑みこめない。そのため、目まぐるしく展開する事態の理解に消化不良の感が残る。

幸い、2018年12月25日朝日のWEBRONZAに、朴晟済(パク・ソンジェ)氏が、この間の事情を分かり易く解説している。その一部を抜粋して紹介させていただく。
https://webronza.asahi.com/journalism/articles/2018121100003.html
なお、同氏はMBCの記者。2012年労組委員長時代に170日間ストライキで解雇され、17年末に復職して、現在はMBC報道局長の任にある。

 韓国の地上波放送局のうち、ニュースを報じるのは3社である。日本のNHKと似ている第1公営放送KBSと第2公営放送MBC、民放SBSである。このうちKBSとMBCは、政府と国会で推薦する人たちが理事会を構成するように法律で定められている。当然、半数以上の理事たちが青瓦台(大統領府)と与党の推薦を受けて任命される。このように構成された理事会が社長と経営陣を選出する。

金泳三、李明博、朴槿恵など権威主義的な保守政党の大統領在任中は、青瓦台が意図した人物がKBSとMBCの社長に任命されるのが当然の慣行だった。韓国ではこのように政府与党が決めて送り込まれる社長を「落下傘」と呼ぶ。保守政権時代のテレビニュースは、政権に親和的であると同時に、「朝中東」(「朝鮮日報」「中央日報」「東亜日報」の保守3紙)の論調と大きく変わらない保守的な色合いを帯びたものであった。

反対に、金大中、盧武鉉と現在の文在寅など1980年代の野党出身の〝相対的に〟進歩志向の大統領在任中には、放送局は権力の影響から比較的自由な社長を得ることができた。3人とも生涯を民主化と人権のために生きてきた政治家だったので、言論の自由に対する認識と理解も格別だった。この時期の放送局理事会は、青瓦台や政府与党の顔色をそれほど窺うことなく社長を選出してきた。そうして選出された社長は、記者やプロデューサーにも取材と報道の自由を十分に保障してもくれた。

2007年12月、李明博候補が大統領に当選し、韓国の放送界は激変を経験することになる。李明博大統領とハンナラ党は、KBSとMBCの報道の論調に対し、深刻な不満を持っていた。とくにMBCのニュースと時事番組には、「実権を握ったら黙っていない」というような発言を公然と言ってはばからなかった。08年春、BSE(牛海綿状脳症)に感染した危険がある米国産牛肉の輸入を許可した政府を批判するMBC時事番組「PD手帳」(PDはプロデューサーの意)が放映され、李明博政権を糾弾する大規模なろうそく集会がはじまった。大統領は政権初期に支持率が10%台に急落するという切迫した危機にさらされる。

 李明博政権が危機突破のために選んだカードは、過去の独裁政権が行ったように放送を掌握することだった。まず検察を動員して「PD手帳」製作陣を逮捕し、名誉毀損罪を適用して裁判所に引き渡した。そして、KBSとMBCの社長を解任してしまい、大統領と親密な関係にあったジャーナリストらを落下傘社長として送り込んだ。

こうして、李明博政権・朴槿恵政権の約9年にわたるメディアへの介入、これに迎合するKBSやMBC上層部と、これに抗う記者たちの闘争が始まる。

いま、この映画を作った崔承浩(チェ・スンホ)は、MBCの社長に迎えられている。しかし、映画は困難な闘いのさなかで終わっている。

最終盤、解雇された仲間の記者が癌だと知って、チェ・スンホが見舞いに行く場面がある。田舎の粗末な家に住む彼にチェが質問をする。「苦しい中で何年も闘ってきた意義をどう考えている?」。これに、彼が真剣な面もちで答える。「困難なときに、沈黙しなかったこと。それが闘ったことの意義」。思わず涙が出そうになった。

そうだ、人は、苦しくとも、口を開かねばならないときがある。困難と知りつつも、闘わねばならないことがある。それが譲れない自分の生き方であり、自らの矜持を守ることなのだ。怯懦をよしとせず、報道の自由のために闘った人々のすがすがしさに、拍手を送りたい。
(2019年1月4日)

「DHC 私は買いません」 ― 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第140弾

いつもカバンにくっつけているそれ。小さなポスターみたいなの。それなんなの?

ああ、これ。よく見てね。「DHC 私は買いません」っていう、ミニポスター。みんなに、「DHCの商品は買わないようにしましょう」って、宣伝して歩いているんだ。

DHCって、いっぱいコマーシャルをやってる、あの化粧品やサプリメントの会社でしょう。あの会社の商品を「買ってください」ではなくて、「買っちゃいけないっ」て宣伝しているの?

そう。DHCの商品はけっして買っちゃいけない。DHCを儲けさせちゃいけない。それが、世のため人のため。みんなのためになる。

へえ、そうなの。DHCって、何の頭文字?

ほら、ここに書いてある。
 D デマと
 H ヘイトの
 C カンパニー

そうなんだ。とっても面白い。だけど、ホントは違うんでしょう。

ホントは、「大学翻訳センター」の頭文字らしい。でも、デマとヘイトのカンパニーの方が、「名は体を表す」で本当っぽいよね。

DHCの商品、どうして買っちゃいけないの? デマとヘイトの会社だから?

うん、まずはデマとヘイトだ。
DHCは、沖縄への偏見をあおったテレビ番組「ニュース女子」の制作会社「DHCテレビ」の親会社なんだ。「DHCテレビ」の株式の100%をもっているし、代表者も同じ吉田嘉明という男。事実上、DHCテレビはDHCの一部門といってよい。
そのDHCテレビが、「沖縄で基地建設に反対している人たちの中には、数々の犯罪や不法行為を行っている人たちがある」と、取材もしないでウソをばらまき、お正月の娯楽番組であざ笑ったんだ。ゆるせないだろう!

「ニュース女子」のムチャクチャなデマ放送は有名になったから知っている。現地の取材もしないでウソの報道。あれが、DHCの仕業なら、「デマのD」は納得。「ヘイトのH」は?

DHCテレビは、「ニュース女子」以外でも、「虎ノ門ニュース」「放言Barリークス」などのネット番組で、沖縄や在日の人だちへの差別発言を繰り返しているんだ。DHC会長の吉田嘉明は、会社のホームページや産経のネットサイトで、在日の人たちを「日本の悪口ばっかり言っている似非(エセ)日本人」「母国に帰っていただきましょう」なんてヘイト発言を発信している。沖縄差別、在日差別で凝り固まっているんだね。

いまどき、そんな恥知らずなことを大っぴらに言う人がいるんだ。お灸を据えなくっちゃね。そんな会社だと知らずにDHCの商品を買うと、デマとヘイトを応援することになっちゃう。

そう。何も知らない消費者がDHCの宣伝に惑わされてその商品を買うと、そのカネが、沖縄や在日をバッシングするデマとヘイトの資金になる。

DHCの問題って、デマとヘイトだけ? ほかにはないの?

DHCと吉田嘉明はスラップ訴訟の常習犯だ。自分に都合の悪いことを言った人を相手に、やたらと裁判を起こすんだ。2000万円支払えとか、1億円支払えとか。私もやられた。6000万円支払えって裁判。

6000万円の請求はメチャクチャ。さぞかし、びっくりしたでしょうね。

最初の請求は2000万円だった。なんの前触れもなく、ある日突然に訴状が届いた。「私のブログの記事がDHCと吉田嘉明の名誉を毀損しているから、謝罪の上2000万円を支払え」という、まったくバカバカしい提訴。無性に腹が立ってしょうがなかった。

バカバカしいのに、腹を立てたの?

こんなわけの分からない汚い輩が、カネの力だけでエラそうにしていられるこの社会に腹を立てた。こんな汚い訴訟を引き受ける弁護士がいることにも腹を立てた。

バカバカしくても、腹が立っても、裁判には付き合わなければならないから、たいへんだったでしょうね。

私は弁護士だから、「ことは言論の自由に関わる」「こんな不当に屈してはいけない」「不当な提訴とは徹底して闘う」と決意した。で、「DHCスラップ訴訟を許さない」、というDHCと吉田嘉明を糺弾するシリーズを猛然と書き始めた。そしたらすぐに、2000万円の請求が6000万円に跳ね上がった。

へー。DHCと吉田嘉明会長は、「黙れ」「批判は許さない」という目的で提訴したことを認めたも同じじゃない?

私がDHC・吉田嘉明の批判を続けたら請求金額はどんどん増額されるかとも思ったが、さすがに吉田嘉明もあきらめた。そのあとの請求の拡張はなかった。DHC・吉田嘉明を批判する私のブログは、本日が140回目となる。

で、裁判は勝ったの?

私の代理人の弁護団は優秀でDHC・吉田嘉明を理論的に圧倒した。まったく勝負にならなかった。もともとDHCに勝ち目のある裁判ではなかったけど、嫌がらせが目的だから、DHC・吉田嘉明は、高裁・最高裁まで争って完敗した。DHCは判決では負けてばっかり。だけどそれでもかまわないんだ。「DHCを批判してみろ。すぐに裁判をかけるぞ。裁判やられたら面倒だろう。だから、DHCを批判するようなことを言うな」というわけだ。

じゃあ、裁判にまけても、DHCはへっちゃらなんだ。

だから、今、私が原告になって「反撃訴訟」をやっている。DHC・吉田嘉明がこんなムチャクチャな裁判を提起したこと自体が違法だという主張。来年(2019年)のうちには一審の判決が出る。

どんなブログが、6000万円の損害賠償請求の対象になったの? 読んでみたい。

これを見ると書いてある。「いけません 口封じ目的の濫訴ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第1弾」
http://article9.jp/wordpress/?p=3036

DHC関係の私のブログは、下記のURLで全部読める。
http://article9.jp/wordpress/?cat=12

DHCや吉田嘉明の問題は、デマ・ヘイト・スラップということね。

まだある。吉田嘉明は渡辺喜美という政治家に8億円の裏金を渡している。その目的は、規制緩和のための政治を求めてのもの。これは、消費者問題に携わってきた私には、どうしても許せない。

分かった。デマ・ヘイト・スラップ・裏金・規制緩和、悪い会社だから徹底して抗議をしましょうってわけね。

そう。見解の相違とか、ものの見方が違う、などと言うレベルの問題ではない。DHC・吉田嘉明のやっていることは、民主主義の基本ルールを大きく逸脱している。だから、抗議というよりは、こんなとんでもない会社にお灸を据えようということ。心ある多くの人々がDHCの商品を買わないとなれば、DHCも反省しなけりゃならなくなる。DHCは商売で儲けた金を、公然とデマとヘイト、スラップ、政治家への裏金の資金にしている。その資金を断つことが民主主義のために有効だと思う。

フーン。選挙ではなく、どこの会社の商品を買うかの選択でも、世の中をよい方向にもっていくことができるんた。

沖縄の問題や、在日差別、スラップ、政治資金規正の話題が出てきたら、「ところでDHCの商品を買うのはやめましょう」「それにつけても、DHC私は買わない」と言ってね。

了解。私だって、民主主義が好き。表現の自由が好き。デマもヘイトも大嫌いだものね。もう、絶対にDHCの商品は買わない。
(2018年11月24日)

むき出しとなった権力の正体

1933年2月20日、天皇制警察は小林多喜二を虐殺した。文字通りの残虐ななぶり殺しだった。

陰惨極まりない拷問死の死体の解剖はどの病院からも拒否され、遺族に返された遺体を医師・安田徳太郎が検死している。権力批判のペンを握っていた多喜二の右人差し指は、手の甲の方向にへし折られていた。明らかにこの虐殺は、天皇制国家による作家多喜二の言論活動に対する報復であり、見せしめであった。

母親(セキ)は多喜二の身体に抱きすがった。「ああ、痛ましい…よくも人の大事な息子を、こんなになぶり殺しにできたもんだ」。そして傷痕を撫でさすりながら「どこがせつなかった?どこがせつなかった?」と泣いた。やがて涙は慟哭となった。「それ、もう一度立たねか、みんなのためもう一度立たねか!」。

この母の慟哭を忘れてはならない。これが権力の本性だ。遠いどこかの世界のできごとではない。わが国に現実に起きた無数の類似の事件を象徴する最も知られた権力の犯罪。

ジャマル・アフマド・カショギは、メディアで「反体制派のサウジ人著名ジャーナリスト」と紹介される人。本年(2018年)10月2日、イスタンブールにあるサウジアラビア領事館の総領事室で殺害された模様である。これも、多喜二同様の陰惨な虐殺であったことが、次第に明らかになりつつある。

忘れてはならない。これが権力の本性だ。昔話ではない。まさしくたった今、現実に起きた、権力批判の言論活動への報復としての国家犯罪。

「有効な国民の制御がないところでは、権力は暴走する」というのは不正確な言い回しではないか。「権力は暴走する」のではない。「権力は本性をむき出しにする」のだ。多喜二もカショギも、その権力批判の言論活動のゆえに、権力の憎悪の対象となり虐殺された。

忘れてはならない。権力の正体の恐ろしさを。常に権力を監視し批判し続ける必要性を。そして、多喜二やカショギを虐殺した権力を支持する勢力は、今なお、わが国にも厳然として存在し続けていることも。
(2018年10月18日)

DHCテレビ番組のYouTube配信一部停止 ― 「差別的動画」通報運動の盛り上がり

インターネット動画配信事業者である「DHCテレビ」、フルネームは「株式会社DHCテレビジョン」。あの吉田嘉明が代表取締役会長の任にあり、株主は株式会社ディーエイチシーだけという一人会社。この業者が配信する番組「ニュース女子」が、デマとヘイトの放送で一躍悪名を馳せたのはご存じのとおり。しかも、BPOに批判されてなお、まったく反省する姿勢を見せないことでDHCテレビの悪名は不動のものとなった。

「ニュース女子」だけではない。やはりDHCテレビが配信する「真相深入り!虎ノ門ニュース」も同様の問題を抱えている。こちらは、この番組にお似合いのアベ晋三が出演(9月6日)し、「密かに見ている。非常に濃い」などとおべんちゃらを述べたことで一躍有名になった。アベとは何者かを、如実に示したのだ。

その「虎ノ門ニュース」について、配信媒体であるYouTubeが自社のポリシーに反するものとして、番組ライブ配信の一部停止に踏み切った。

9月19日、DHCテレビのホームページは、「YouTubeチャンネルについてのお知らせ」を掲載した。その全文を引用する。

平素よりDHCテレビジョンをご覧いただき、誠にありがとうございます。
2018年9月19日、YouTubeはDHCテレビが10月5日に放送を予定していた「真相深入り! 虎ノ門ニュース」金曜日について、「ガイドラインに違反している」として、ライブ配信予定のページ削除を行いました。
これに伴い、YouTubeから科せられたペナルティとして、9月19日配信分の当社番組「DHCキレイを磨く! エクストリームビューティ」のライブ配信が停止されました。
また10月5日を除く、虎ノ門ニュース及び当社制作番組のライブ配信については、問題なく配信できるかどうかは今のところ不明です。
なお、まだ配信されていない番組を削除した経緯や理由について、YouTubeは「スパムと欺瞞的行為に関するポリシーに違反したため」と通告するのみで、具体的な内容についての言及はありません。
 現在、当社ではYouTubeに対して異議申し立てを行っており、従来どおり番組をライブ配信できるよう鋭意努力しておりますが、YouTubeにてDHCテレビをチャンネル登録して御覧頂いている皆様には、最新番組が表示されない可能性があります。
その場合はDHCテレビの公式ホームページにアクセスすると、最新番組をご覧頂きやすくなりますので、是非DHCテレビ公式ホームページをご活用いただきたく存じます。
2018年9月19日 DHCテレビジョン

YouTubeは、「ライブ配信予定のページ(10月5日放送予定の「虎ノ門ニュース」)削除を行いました。」「YouTubeから科せられたペナルティとして、9月19日配信分の当社番組「DHCキレイを磨く! エクストリームビューティ」のライブ配信が停止されました。」というのだ。DHCテレビは、YouTubeからの通告をそのまま転載していない。だから、「ライブ配信予定のページ削除」の意味が必ずしも明確ではなく、隔靴掻痒の感を否めない。それでも、DHCテレビが慌てふためいている様はよく分かる。

いったい何が起こっているのだろうか。
産経新聞(8月6日)が、「ユーチューブの保守系チャンネルが相次ぎ閉鎖 『削除の基準、不透明』と批判」という記事を掲載している。産経だから、「保守系チャンネル」の側に立っての記事なのだが、およそ問題のあらましが推測できる。

差別発言の撲滅か、言論の自由の侵害か-。動画配信サイト「ユーチューブ」で5月以降、中国や韓国に批判的な保守系動画投稿者の利用停止が相次いでいる。背景には「差別的な動画」への通報運動の盛り上がりがあるが、一方で投稿者らは「差別的発言ではない」「削除基準が不透明」として反発を強めている。
「私は中国や韓国の政府や民族に対して政治的な批判をすることはあるが、出身民族の差別は絶対にしていない。これは言論テロ」。登録者数約15万5千人を数えた動画配信「竹田恒泰(つねやす)チャンネル」を5月に停止された、明治天皇の玄孫で作家の竹田恒泰氏は、そう憤る。
ユーチューブは投稿ルールで、人種や民族的出自に基づく暴力や差別の扇動を禁じている。運営側がルール違反と判断した場合、投稿者に警告が届き、3カ月以内に3回続くとアカウント(開設権)が停止される。竹田氏は5月23日夜に最初の警告を受け、24日早朝までに2回目と3回目が続き停止となった。現在は予備アカウントで配信を再開している。
 竹田氏によると、ユーチューブでの通報運動は匿名掲示板「5ちゃんねる」で5月半ばに始まり、対象リストや通報の方法などが拡散。7月上旬までに200以上の保守系チャンネルが停止され、22万本以上の動画が削除されたという。

なるほど、「保守派の差別的な動画」が、ユーチューブの「投稿ルール」に抵触したことで、警告が発せられ、配信停止になったのだ。産経の表現では、「中国や韓国に批判的な保守系動画」が、ユーチューブ側から見たら看過できない「デマとヘイト」。表現の自由を看板にするYouTubeも、さすがにこの事態を放置できなくなったということなのだ。

YouTube 社のホームページに次のコメントがある。
ライブで配信するすべてのコンテンツは、YouTube のコミュニティ ガイドラインと利用規約に準拠している必要があります。コミュニティ ガイドラインに違反するコンテンツをライブ配信していると思われる場合、YouTubeはそのライブ配信に年齢制限を設けたり、削除したりする場合があります。また、YouTubeは独自の裁量により、クリエイターのライブ配信機能を制限する権利を有します。

ライブ配信が制限されると、アカウントに対しても違反警告を受けることがあります。その場合、3か月間はライブ配信ができなくなります。アカウントのライブ配信を制限されている方が、別のチャンネルを使用してYouTubeでライブ配信を行う行為は禁止されています。これは、アカウントへの制限が有効である限り適用されます。この制限に対する違反は利用規約の迂回とみなされ、アカウントが停止される場合があります。

悪意のある表現に関するポリシー
YouTube では表現の自由を支持し、あまり一般的でない意見でも自由に表現できるように努めていますが、悪意のある表現は許可されません。
悪意のある表現とは、次のような特性に基づいて個人や集団に対する暴力を助長したり差別を扇動したりするようなコンテンツを指します。
人種または民族的出自
宗教
身体障がい
性別
年齢
従軍経験
性的指向性 / 性同一性

悪意のある表現と見なされるかどうかは紙一重で決まります。たとえば、一般的に民族国家を批判することは許容されますが、出身民族だけの理由で差別を扇動することが主な目的のコンテンツは YouTube のポリシーに違反すると見なされます。また、宗教など上記のような特性に基づいて暴力を助長するコンテンツも同様です。

悪意のあるコンテンツを報告する

コンテンツがYouTubeの悪意のある表現に関するポリシーを遵守していないと思われる場合は、YouTubeに報告して確認を求めることができます:

不適切なコンテンツの報告
YouTube では、不適切と思われるコンテンツを YouTube コミュニティのメンバーに報告していただいています。コンテンツの報告は匿名で行われるため、誰が動画を報告したかは他のユーザーに開示されません。

問題を報告しても、自動的にコンテンツが削除されるわけではありません。報告されたコンテンツは、次のガイドラインに沿って審査されます。
コミュニティ ガイドラインに違反しているコンテンツは YouTube から削除されます。

デマとヘイトの報告は下記のURLから。
https://support.google.com/youtube/answer/2801939?hl=ja

DHCテレビ番組のデマとヘイトについて、大いに報告を実行しよう。DHCの吉田嘉明とは、民族差別を公言して恥じない人物なのだから。自浄能力はない。外部からの強制による矯正が必要なのだ。既に実践している人たちの地道な努力で、成果は上がっている。これに続く努力を積み重ねよう。

そして、もう一言。産経が、「差別発言の撲滅か、言論の自由の侵害か-」と問題設定をしているのは、笑止千万というべきである。そもそも言論の自由とは、「デマやヘイトの自由」を意味しない。しかも、「表現の自由」とは、権力や強者を批判する自由にこそ真骨頂がある。アベ一強がヨイショの翼賛番組に、言論の自由を語る資格はない。
(2018年9月24日・連続更新2003日)

岡口基一判事に対する懲戒申立はスラップだ。

岡口基一判事に対する「分限裁判」の行方に目が離せない。9月11日、最高裁で開かれた審問のあとの記者会見で、同判事は、「適正手続きが踏まれておらず、ありえないことが起きている」「今回の表現ごときで処分されたら、他の表現もできなくなる」「私からしたら防御しようがない漠然とした申立書と薄弱な証拠で戒告されるようなことがあれば、法治国家と言えない」などと述べたと報じられている。まことにもっともなこと。岡口基一判事を支持する立場を表明しておきたい。

問題とされたのがツイッターの投稿内容なのだから、当然に憲法上の表現の自由制約の可否に関わる重大問題である。さらに、裁判官に対する懲戒処分を行おうというのだから、厳格な手続上の正当性が問題とならざるを得ない。その2点を争点として、懲戒の可否が争われることになるだろう。

岡口は、ツイッターで裁判批判をし、勝訴した女性原告の心情を傷つけたとして、懲戒を申立てられた。懲戒申立書によると、問題とされたツイッターの内容は、下記のごとくである。

公園に放置されていた犬を保護し育てていたら、3か月くらい経って、もとの飼い主が名乗り出てきて「返してください」
え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・・
裁判の結果は・・・・

裁判は元の飼い主である原告から、裁判提起当時の飼い主である被告に対する、犬の引渡請求訴訟とのこと。争点は、原告の元飼い主が、「犬を捨ててその所有権を放棄した」と言えるかどうか、だったようだ。判決は、「原告はいったんはこの犬飼えないとして、公園に置き去りにし、被告が保護したときは雨中泥まみれで口輪をされていた状態」と認定はしたが、所有権放棄までは認めず、被告に対して元の飼い主への引渡を命じた。これを、岡口は「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・・」と表現した。

犬を飼った経験のある者なら、いったんは犬を捨てた原告の態度を「生命に対する冒涜」と非難するのは当然のこと。車の置き去りの所有権放棄問題と同一視してはならないと思うはず。岡口のこんな表現が懲戒事由になろうはずはない。法律論としても、口輪とリードを付けたまま雨中に放置された犬について死亡の予見可能性あれば所有権放棄の意思と効果を認定してよいと思われる。

しかし、大方の法律家は、もう少し別の視点からこの問題を見ている。法的な論争よりは、司法行政における裁判官統制の是非に関心がある。これは、司法行政による裁判官統制なのだ。その統制の成否こそがこの件の真の問題点である。

私はこの件を、東京高裁長官による岡口基一裁判官に対するスラップだとみる。あながち、的はずれではなかろう。

司法当局は、おとなしい、大勢順応型裁判官がお好みなのだ。出世のために上だけを見ている裁判官を「ヒラメ裁判官」という。司法当局は長年月をかけて「ヒラメ」の養殖に腐心しそれなりの成果を上げてきた。その裁判官統制の成果は、最高裁の思惑の枠をはずれる裁判が極端に少なくなっていることに表れている。裁判官が、自発的に人事権を握る司法当局の意向を忖度した判決を書いてくれるなら、四海波穏やかにすべては丸くおさまり、司法と行政や政権与党との軋轢もなくなろうというもの。

ところが、どこの世界にもやっかいな異端児が現れる。出世に関心なく、まったく上を見ようとしない、忖度とは無縁の裁判官。見方次第で、偏屈でもあり硬骨漢でもある。こういう輩の存在は、司法当局の裁判官統制が有効に機能していないことの証左に映る。当局にとっては、裁判官集団の神聖な秩序を破壊する不届き者であり、これにはお灸を据えなければならない。当該裁判官にたいするお灸は、その余の裁判官にも予防的によく効くのだ。これを「見せしめ効果」という。

ちょうどDHC・吉田嘉明が、自分を批判した発言者に直接の警告を与えようとしただけでなく、社会の他の者へも予防的に間接的な警告を発する思惑を持っていたごとくに、である。DHC・吉田嘉明が私を含む10人にスラップをかけたのは、社会に対する「見せしめ」としての効果を意図してのこと。これと酷似している。あるいは、行政や大企業が、経産省テント前ひろばや祝島の活動家を狙い撃ちで提訴した件と、基本構造が同じである。

DHC・吉田嘉明は、10件の提訴で、「自分を批判すると、このとおり高額損害賠償請求訴訟の被告にされて面倒なことになるぞ。提訴されたくなければ、余計な発言は避けておとなしくしておけ」と恫喝したのだ。この効果のねらいがスラップの本質。

民事訴訟の提訴ではないが、東京高裁長官は、岡口基一を最高裁に懲戒申立をすることで、全裁判官に「当局のおぼえに反すると、このとおり懲戒申立をされて面倒なことになるぞ。その事態を避けたければ、余計な発言は控えておとなしくしておけ」と恫喝したのだ。この見せしめ効果のねらいこそがスラップの本質なのだ。

私は、裁判官が萎縮せずに、市民的自由を行使することの重要性を強調したい。裁判官は、市民としての生活の中で市民感覚を涵養することになる。法廷と官舎を往復するだけで、市民生活から超越した生活では自らの市民感覚は育たず、市民の感覚も感性も感情も理解できなくなる。PTAも、市民運動も、NGOやNPOの活動も、ボランティア活動も、できることなら労働組合活動にだって参加するなどの社会経験が必要なのだ。デモや集会に参加するのもよかろう。それらとまったく無縁なひからびた生活は、市民感覚のない裁判官を作る。その裁判は、ひからびた公用文書の一片に過ぎないといわざるを得ない。

かつて、寺西和史裁判官に対する分限裁判が大きな問題となった。岡口事件とはひと味違う、社会性ある発言が問題とされた。裁判官を政治的に統制する意図が明確な事件だった。

判事補であった寺西は、1997年「信頼できない盗聴令状審査」と題する批判を朝日新聞の読者欄に投稿した。裁判所の令状審査が杜撰である実態を報告するとともに、裁判官の令状審査の適正を前提とした盗聴法(組織犯罪対策法)案に疑問を呈する内容。彼は、この投書で所属地裁所長から厳重注意処分(懲戒処分ではない軽微なもの)を受けている。一方、この時、田尾健二郎判事(法案の作成に関与していた)が寺西に反論し批判する投書をしているが、こちらは何ら注意も受けていない。裁判官の発言が問題なのではなく、発言の内容が当局の意に沿うものか否かだけが問題なのだ。

そして翌98年、寺西は盗聴法反対派主催の集会にパネリストとして出席を依頼されいったんは承諾する。ところが、これを知った当時の勤務先である仙台地裁所長から、裁判官に禁じられた「積極的に政治運動をすること」に該当するとして出席辞退を要請される。そこで寺西は、パネリストとしてではなく一般参加者として出席して、「集会でパネリストとして話すつもりだったが、所長に『処分する』と言われた。法案に反対することは禁止されていないと思う」と発言するに留まった。
 この、当該集会への出席によって、寺西は地裁所長から懲戒を申し立てられ、仙台高等裁判所の分限裁判で戒告処分を受ける。寺西は即時抗告し最高裁判所の判断を仰ぐが、最高裁でも戒告処分が妥当と判断された。

ただし、賛成10と反対5の票差。それぞれに渾身の反対意見を書いたのは、園部逸夫、尾崎行信、河合伸一、遠藤光男、元原利文の5最高裁裁判官。園部は裁判官出身で、その余の4名は弁護士出身である。岡口分限裁判の評決だけでなく、その票差も見守りたい。

寺西にしても岡口にしても、最高裁当局には、うるさくて目障りな裁判官なのだ。しかし、裁判官の独立とは、うるさくて目障りな裁判官だからといって排除してはならないということである。当局の統制に服さない裁判官こそ、実は裁判官の独立を体現した貴重な存在というべきなのだ。岡口基一判事が、その職にあり続けることを期待する。

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いまこそウソとごまかしの「安倍政治」に終止符を! 賛同署名のお願い。
http://article9.jp/wordpress/?p=11058

安倍政治に即刻の終止符を求める人々の熱い言葉の数々。
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9月10日に開始して、賛同者は本日(15日)6500筆に近づいています。

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(2018年9月15日・連続更新1994日)

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