澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

東京都教育委員諸君、そして小池百合子知事、原告教員の怒りの声に耳を傾けよ。

「日の丸に向かって起立し、君が代を斉唱せよ」との強制には従えないという国民はけっして少なくない。強制でなければ起立してもよいが、強制となければ立てないという人もいる。自分は起立するが強制には賛成しがたいとするのが、ごく普通の考え方のようだ。

東京の公立校では、卒業式や入学式において式に参加する教職員には「起立・斉唱」を命じる職務命令が発せられる。それでも従うことができないとする教員が、あとを断たない。

この強制の発端となったのが、悪名高い「10・23通達」である。かつて、都立高は「都立の自由」を誇っていた。その象徴が、日の丸・君が代の強制とは無縁なことだった。自由とは、権力からの束縛を受けないこと。日の丸・君が代は、国家権力の象徴なのだから、日の丸・君が代強制の受容は、自由の放棄にほかならない。

2003年10月23日。右翼石原慎太郎が都知事2期目のこの時期に、トンデモ知事のお友だちが教育委員を乗っ取り、トンデモ教育委員会が日の丸・君が代の強制を始めた。以来、職務命令違反として懲戒処分を受けた教員は延べ480名に上る。そして、知事が交代しても、強制は続けられている。

起立できないとする教員の理由は千差万別であって一括りにはできない。それぞれの歴史観・国家観・戦争観などの思想・信条による場合もあれば、自分の信仰が日の丸・君が代への敬意表明を許さないという方もあり、教育者としての信念から教育に国家主義的統制を持ち込ませてはならないとする方もある。また、外国籍の生徒との触れあいからその生徒の民族的アイデンティティーを尊重しなければならないという立場からの不起立の例も少なくない。

懲戒処分を受けた者の多くが、処分取消の訴訟を提起して争う。今のところ、判決の趨勢は、「処分量定が戒告にとどまる限り、行政裁量の範囲内として違法とは言えない」「しかし、処分対象の教員に具体的な法的不利益が及ぶ減給・停職となれば量定過酷に過ぎて、裁量権の逸脱濫用に当たり違法となる」というもの。つまり、裁判所は減給以上は取り消すが、戒告は取り消さないのだ。

我々は、違憲判断をしない司法を強く批判している。憲法の砦としてのその職責を放棄した情けない裁判所、裁判官なのだから。しかし、その裁判所でさえ、減給・停職処分は違法として取り消していることを重視しなければならない。

東京都教育委員会は、裁判所から「違法だから取り消す」と判決されるような処分をしたことを恥じなければならない。責任を感じなければならない。なによりも違法な処分をして迷惑をかけた教員に真摯な謝罪をしなければならない。

さて、東京「君が代」4次訴訟原告団14名のうち6名が、減給・停職の処分を受けた者。その6名が求めた処分取消請求に対して、9月15日東京地裁判決は、予想されたとおり6名全員の処分取消を認容した。そして、そのうちの5名について、都教委は敗訴を認めて控訴を諦めた。残る1名についてだけ都教委は争いを続けるというが、これで5名の原告については処分取消が確定した。遡って処分はなかったものとなり、給与は再計算されてカットされた分は、年5%の遅延損害金を付して返還されることになる。

その5名が、本日(10月9日)早朝、東京都教育委員会に対して、「謝罪を求める申入書」を配達証明付きの郵便で発送した。その全文を下記に紹介する。怒りがほとばしる謝罪要求となっている。

役立たずの都教委諸君。まずは、この謝罪要求に真摯に耳を傾けたまえ。そして、あなた自身の責任だということを自覚したまえ。この教員たちは、自分の職責から逃げずに、自分の良心をつらぬいた尊敬すべき人々だ。その真剣な謝罪要求を、保身のために無視するのは、卑怯きわまる。恥を知る人間として、ものを考えたまえ。そのためには、最低限、原告らが都教委を訴えた訴訟の判決書きを読みたまえ。もし、判決内容がよく理解しかねるということなら、あなたが依頼した被告側の弁護士に解説を求めたまえ。仮に原告側弁護士の意見や解説を聞きたいということなら、いつでも応じることを約束する。

そのうえで、原告らに謝罪するかしないか、君たちの良心に従った回答をしたまえ。

もう一度委員5人全員の名を挙げておく。あなた方は飽くまで教育行政の主体なのだ。組織に隠れて逃げる無責任を決めこむことができない立場にある。にもかかわらずお飾りに過ぎないと言われることを甘受されるのか。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。教育に関する見識ゼロ。それでいて、報酬だけは受け取ろうという根性を恥ずかしいとは思わないか。そう言われ続けてよいと思っているのか。
 中井敬三
 遠藤勝裕
 山口 香
 宮崎 緑
 秋山千枝

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2017年10月8日
東京都教育委員会委員長 中井敬三 殿
東京「君が代」4次訴訟原告団

               A
               B
               C
               D
               E
  東京「君が代」第4次訴訟勝訴確定にともなう謝罪を求める申し入れ書

 私たちは、2014年3月17日に東京地方裁判所に提訴してから3年を闘い、9月15日佐々木判決により、減給・停職処分を取り消された原告である。
都教委は敗訴したが、原告らを控訴することができなかった。それにより、A-減給10分の1・1ケ月、B-減給10分の1・6月、C-減給10分の1・1ケ月、D-減給10分の1・6月、E-停職6ヶ月、の各処分取り消しが確定した。
2003年10月23日に発令されたいわゆる「10・23通達」により、卒・入学式で「日の丸・君が代」を強制され、不当な懲戒処分を受けた結果、私たち原告は多大な精神的・肉体的苦痛を味わった。
都教委は、減給・停職処分は「裁量権の逸脱・濫用で違法」であると判断が下ったことを真摯に反省し、原告らに心からの謝罪をせよ。
都教委は、懲戒処分の通知の時には、原告らの自宅まで来たのであるから、原告の自宅へきて謝罪せよ。その上で、返金せよ。

都教委は、君が代1次訴訟以降、不起立行為に対する減給及び停職処分は「違法である」と断罪され続け、最高裁から、処分行政の見直しを諭されてきた。
にもかかわらず、今回処分を取り消された中で1名だけ控訴した。司法をも無視する暴挙である。即刻控訴を取り下げよ。
9月15日判決で処分を取り消され、都教委が控訴を断念せざるを得なかった2名の現職原告に対して、再処分をするな。
以上申し入れる。10月13日までに下記へ回答を求める。
〈連絡先〉東京「君が代」裁判弁護団 事務局

(2017年10月9日)

東京都の教育委員諸君、5人の教員に真摯に謝罪しなさい。

教育行政の主体は、各自治体の教育委員会だ。東京都の場合は、下記の5人が構成する東京都教育委員会。実は、これがまったくのお飾りなのだ。当事者意識ゼロ。職責意識ゼロ。憲法感覚ゼロ。報酬を受けていることを恥ずかしいと思わないのだろうか。
 中井敬三
 遠藤勝裕
 山口 香
 宮崎 緑
 秋山千枝

その諸君に申しあげる。君たちがした間違った懲戒処分が行政訴訟で争われて、処分取消の判決が確定した。君たちが間違った処分で迷惑をかけた教員に対して、真摯に謝罪しなさい。それが最低の社会道徳なのだから。

9月15日に東京地裁民事11部(佐々木宗啓裁判長)で言い渡しがあった東京「君が代」裁判・第4次訴訟判決。その一部が確定し、一部が控訴審に移行した。

地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告らは、卒業式や入学式において、国歌斉唱時に起立しなかったことを理由に《停職》《減給》《戒告》の懲戒処分を科せられた教員。14名の原告らが取消を求めた19件の処分の内訳は、以下のとおりである。

《停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
計          14名 19件

既報のとおり、判決は減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。被告都教委は、このうちの1人・2件の減給《10分の1・1月》処分についてだけ判決を不服として控訴したが、その余の5人に対する5件の処分(停職・減給)取消については控訴しなかった。こうして各懲戒処分の取消が確定し、いま、判決確定後の処理が問題となっている。

処分取消の確定判決を得た5人の教員が都教委に求めているものは、なによりもまず真摯な謝罪である。各教育委員は、他人ごとではなく自分の責任問題として受けとめなければならない。間違って過酷な量定の処分をしたことで各教員に大きな精神的負担をかけ、名誉も毀損した、経済的負担も大きい。それだけではない、目に見えない事実上の不利益がいくつもある。このことについて、まずは一言の謝罪があってしかるべきだ。事務処理の協議は謝罪のあとに始まらねばならない。

原告ら教員の抗議を聞き入れずして都教委が強行した各処分が、司法の審査によって取り消され、確定したのだ。東京都も都教委も、このことを恥ずべき重大な汚点と受けとめて、道義的な責任を自覚しなければならない。その自覚のもと、当該の教員らに対して謝罪があってしかるべきではないか。

都教委の処分が、司法によって違法とされたのだ。周知のとおり、司法は行政に大甘である。たいていのことは行政の裁量の範囲内のこととして目をつぶる。その甘い裁判所も、本件については、とても大目に見過ごすことはできないとして、都教委の行為に違法があったと確認されたのだ。

行政が違法すれすれのことをして、司法からの違法の烙印を免れたことをもって安堵しているようでは情けない。戒告処分だって問題なしとはされていないことを肝に銘じるべきなのだ。減給以上の過酷な処分を判決手続によって取り消されたことを恥とし、きちんと反省しなくてはならない。

間違ったことをして人に迷惑をかけたらまずは心から謝らなければならない。これは、社会における最低の道徳ではないか。都教委とは、苟も教育に関わる行政機関である。各教育委員諸君、最低限の道徳の実行に頬被りしようというのか。それは余りに卑怯な態度ではないか。子どもたちに、言い訳できまい。判決確定の効果として、差額賃金分を渋々支払って済ませようというのは、権力の傲慢というほかはない。

一方、原告14名のうち13名が控訴した。高裁・最高裁で、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制ないし処分を違憲とする判決を求め、その決意をかためてのことである。

2003年秋に「10・23通達」が発出されたとき、私は、極右の知事のトンデモ通達だととらえた。いずれこんなトンデモ知事さえ交代すれば、こんなバカげた教育行政は元に戻る、そう思い込んでいた。

しかし、石原退任後も石原教育行政は続いた。石原後継を標榜しない舛添知事時代になっても、「10・23通達」体制に変化はなかった。そして、舛添失脚のあと、またまた石原並みの右翼都知事を迎えてしまった。

都民世論の力で、知事を変え、議会を変えて、教育の本質と憲法理念に理解ある教育委員会とその事務局としての教育行政機構を作ることが王道だが、その道はなかなかに遠い。しばらくは、都政と比べればよりマシな、司法に期待するしかない。

その司法が、行政の行為を違法としたのだ。あらためて、恥を知りたまえ。お飾りの教育委員諸君。
(2017年10月4日)

こんなの要らない。返上しよう、薄汚い東京オリンピック。

英紙「ガーディアン」が一昨日(9月14日)報じたところによると、ブラジルの捜査当局は、「東京五輪招致に買収疑惑あり」との結論を出したという。捜査は、リオ五輪と東京五輪の両者に行われていたというが、私の関心は自ずと東京の招致問題だけ。

捜査結果の報道が、ブラジル紙ではなく、なぜ「ガーディアン」なのか。このあと続報があるのかないのか。フランス当局の捜査の進展はどうなっているのか。そもそも、ブラジルでは国内法のどのような犯罪構成要件に該当するというのだろうか。よく分からないことが多い。が、五輪を支える組織や幹部の腐敗の実態や、東京五輪誘致陣の薄汚さの再確認という点で、関心を持たざるを得ない。

各紙の報道に目を通しても、なかなか事実経過をつかみにくい。すこし、整理が必要である。

問題は、東京五輪誘致に関わる贈収賄。贈賄側は、東京五輪招致委員会。理事長が竹田恆和、理事に橋本聖子や鈴木大地などが名を連ねる。当然に、首相や当時の都知事もからんでいる。

収賄側は、IOC委員でもあり国際世界陸連会長でもあったラミン・ディアク(セネガル)という人物。大物としてIOC内で特別な影響力があり、次期五輪会場の決定に大きな権限あると思われていた人物だという。その代理人として、交渉や金の授受の窓口になったのは、息子のパパマッサタ。

登場人物はこれだけではない。カムフラージュとしての中間項が登場する。その内の最重要なのが、ブラック・タイディングス社というペパーカンパニー。一時期だけ、シンガポールの公営アパートの一室に形だけがあったという。

時系列を確認しておきたい。安倍晋三がブェノスアイレスで、「アンダーコントロールで完全ブロック」という詐欺まがいのトークで、2020年東京五輪招致を掠めとったのが2013年9月7日。その前後の同年7月と10月とに、招致委員会から出た金がラミン・ディアク側に渡っているというのだ。結論から言えば、これは買収資金の「着手金」と「成功報酬」と解釈するしかない。

最初、疑惑はフランス検察当局の捜査状況として報じられた。2013年の7月と10月の2回にわたって、東京五輪招致委員会がブラック・タイディングス社の秘密口座に送金されてたことが確認されたということが大きなニュースになった。このブラック・タイディングス社はラミン・ディアクの息子パパ・マサタ・ディアクに深い関係があるペーパーカンパニーとも報じられた。

その金額は2億3000万円。東京五輪招致委員会の理事長であり、日本オリンピック委員会(JOC)会長でもある竹田恒和は当初この疑惑を否定したが、後に国会に参考人として招致された際には認めて「正式な業務契約に基づく対価として支払った」と釈明した。「招致計画づくり、プレゼン指導、国際渉外のアドバイスや実際のロビー活動、情報分析など多岐にわたる招致活動の業務委託、コンサル料などの数ある中の1つであり、正式な業務契約に基づく対価として支払った」というのだ。おそらく誰もこんなことを信じてはいない。コンサル料名義の賄賂を、名もない会社の秘密口座に送金したという疑惑が極めて濃厚なのだ。

ブラック・タイディングス社とは、シンガポール東部の老朽化し、取り壊しを待つ公営住宅の1室にあり、シンガポールメディアによると同社は2014年には業務を停止しているとのこと。つまりは完全なペーパーカンパニーで、プレゼン指導、国際渉外のアドバイスや実際のロビー活動、情報分析などのコンサル業務を行う能力の片鱗もなさそう。

竹田恒和は国会で、支払った2億3000万円の最終的な使途についてブラック・タイディングス社側に「確認していない」と証言している。さらには「同社とは現在連絡が取れていないと聞いている」とも答えている。無責任極まるというレベルではなく、贈賄と疑われてやむをえないとの発言なのだ。

今回のガーディアンの報道では、ブラジルの当局は、2013年9月8日(東京招致成功の翌日)に、ブラック・タイディングスがシンガポールのスタンダード・チャータード銀行の口座から8万5000ユーロ(約1113万円)をパリのある会社宛てに送金し、それがマッサタ・ディアクが宝石店で購入した高額商品の支払いに充てられたことを明らかにした。

つまり、東京五輪招致委員会→ブラック・タイディングス社→パパマッサタの金の流れが確認できたということだ。コンサル料とは、実はIOC委員への買収資金としての賄賂送金だったという以外には考えがたい。ブラジル当局は、その認識である。

共同は、「東京五輪、リオデジャネイロ五輪は招致で『買収』と結論 英紙が報道」と見出しを打った。ブラジルの当局は「買収」の意図があったと結論づけたというのだ。
「東京の五輪招致にIOCの票の買収があった容疑について新展開」「ブラジルの当局は、ラミン・ディアク氏を買収する意図があったとしている」という記事。

ガーディアン記事は、「ブラジル連邦検察局はフランス検察局の調査結果を踏まえて、支払いが『IOC内部に強い影響力を持つラミーヌ・ディアクの支援と票の買収の意図をもって』、2020年東京の招致成功のためになされたという結論を出した。」という。さて、これからどう捜査が発展するのだろうか。

ガーディアンは、「ブラジルからの今回の暴露によって、次回の五輪開催国(日本)に対する調査が再開され、どのようにして東京が五輪開催権を獲得したのかそのプロセスが解明されることになるだろう。」という。

東京五輪はうんざりだ。アベ政権や小池都政の政治利用、国威発揚、ナショナリズム鼓吹、住民無視の東京再開発の促進、東北復興妨害、税金の無駄遣い、負のレガシーの創出…、そしてこの薄汚い招致活動での恥さらし。もう、きっぱり返上しようではないか。
(2017年9月16日)

判決は 目出度さ・無念 相半ば ― 東京「君が代」裁判(4次訴訟)判決

本日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決が言い渡された。

東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。

地方公務員法上の懲戒処分は、重い方から、《解雇》《停職》《減給》《戒告》の4種がある。今回の原告ら14名が取消を求める処分の内訳は、以下のとおりである。

《停職6月》       1名  1件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《戒告処分》       9名 12件
 計          14名 19件

判決は、減給以上の全処分(6名についての7件)を取り消した。これは目出度いと言わねばならない。
しかし、判決は戒告処分(9名についての12件)については、取り消さなかった。これは無念というほかない。

原告の中で最も注目されていたのがQさん。Qさんが取消を求めた懲戒処分は、以下のとおり5件ある。
   1回目不起立 戒告
   2回目不起立 戒告
   3回目不起立 戒告
   4回目不起立 減給10分1・1月
   5回目不起立 減給10分1・1月
 
公権力による教員に対する、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制が違憲であれば、懲戒の種類・量定を問うことなく、すべての処分が違法として取り消されることになる。Qさんに対する5件の処分もそのすべてが取り消されることになるが、そうはならなかった。

また、必ずしも違憲論に踏み込まずとも、戒告処分を含む全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことは可能であった。これが6年前の1次訴訟控訴審の東京高裁『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させている。しかし、これも本日の判決が採用するにいたらなかった。

だから、戒告処分は維持された。Qさんの戒告3件も取り消されることなく維持された。以上が無念と言わざるを得ない側面。

しかし、Qさんの4回目不起立、5回目不起立に対する、減給10分1・1月の処分はいずれも、重きに失するとして処分裁量の逸脱濫用にあたると判断された。その結果違法として取り消された。これが、目出度い側面。

判決は「争点10」として、「本件職務命令違反を理由として減給または停職の処分を科することの裁量権の逸脱・濫用の有無」を判断している。

まず、一般論としては、次のように述べる。
「減給処分は,処分それ自体の効果として教職員の法的地位に一定の期間における本給の一部の不支給という直接の給与上の不利益が及び,停職処分も,処分それ自体によって教職員の法的地位に一定の期間における職務の停止及び給与の全額の不支給という直接の職務上及び給与上の不利益が及ぶうえ,本件通達を踏まえて卒業式等の式典のたびに懲戒処分が累積していくおそれがあることなどを勘案すると,起立斉唱命令違反に対する懲戒において減給又は停職の処分を選択することが許容されるのは,過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等(以下,併せて「過去の処分歴等」という。)に鑑み,学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの「相当性を基礎付ける具体的な事情」が認められる場合であることを要すると解すべきである。そして,……「相当性を基礎付ける具体的な事情」があるというためには,過去の処分歴に係る非違行為がその内容や頻度等において規律や秩序を害する程度の相応に大きいものであるなど,過去の処分歴等が減給又は停職処分による不利益の内容との権衡を勘案してもなお規律や秩序の保持等の必要性の高さを十分に基礎付けるものであることを要するというべきである(平成24年最高裁判決参照)。」

判決は、以上の一般論をQさんに適用すると次のようになると結論する。

「原告Qが起立斉唱命令を拒否したのは,自らの信条等に基づくものであること,各減給処分の懲戒事由となった本件職務命令違反のあった卒業式等において,原告Qの不起立により,特段の混乱等は生じていないと窺われることをも考慮すると,原告Qの前記職務命令違反について、減給処分(10分の1・1月)を選択することの「相当性を基礎づける具体的な事情」があるとまでは認めがたい。」

つまり、こういうことだ。
減給や停職処分を選択するには、この重い処分を選択するについての「相当性を基礎付ける具体的な事情」が必要であるところ、被懲戒者の行為が、
 (1)自らの信条等に基づくものであること、
 (2)卒業式や入学式等に特段の混乱等は生じていないこと、
という2要件を考慮すれば、「相当性を基礎付ける具体的な事情」は認めがたい、というのだ。

本日の判決は、教員の不起立が「自らの信条等に基づくものであること」を、裁量権の逸脱・濫用判断の積極要件とした点において、一定の評価が可能というべきである。

だから、我々にとっては、残念・無念だけでない、中くらいの目出度さもある判決なのだ。

一方、都教委から見れば、今日の判決の衝撃は大きい。
都教委は、Qさんの4回目・5回目の不起立に敢えて挑発的な減給を選択して、いずれも敗れたのだ。大いに恥じ、大いに反省しなければならない。教育行政を司る機関の行為が、違法として取り消されたことの重大性を深刻にとらえなければならない。

戒告を違法としない最高裁判決も、もけっして戒告処分を結構だとしているわけではない。「当不当の問題はともかく」として、違法とまではいえないと言っているのだ。

都教委は、思想・良心の侵害をやめよ。教育の場に、国家主義のイデオロギーを持ち込むことをやめよ。
(2017年9月15日)

百合子女王の(屁)理屈

えっ? なんですって? もう一度言ってごらんなさい? 「都民ファーストの会」の代表交代のプロセスが不透明ですって? いったい誰がそんなこと言っているの? そんなこと、この私の前で言えること?

あなたもあなたよね。以前私に向かって「大山鳴動して鼠一匹」って言った愚かな記者がいたでしょう。「それは失礼というものでしょう」と一喝したら黙ったけど。私には、口の利き方に気をつけた方がいいわよ。

私、ここから表情と口調をよそ行きに変えます。ここから報道しなさいね。

都民ファーストの会代表だった野田数さんから9月10日付で代表辞任の申し出がありました。理由は、知事特別秘書の仕事に専念するためということ。それで、翌11日に党規約に則って私と2人の都議の3人で代表選考委員会を開いて荒木千陽都議を新代表に推薦しましたの。

今日(13日)の都民ファーストの都会議員総会で、推薦の通り新代表人事が承認されたと聞いておりますよ。党規約に基づいた手続ですけど、それが何か?

都議会の臨時会も終えて都民ファーストも新人ばかりだったのが落ち着き、都民に選ばれた議員が代表する状況がこれで整った感があります。荒木さんは、7月の都議選で初当選した総務会長の女性で度胸がある。まさしく都民ファーストの魂でいろいろやってくれると思いますよ。

もちろん、野田さんも、荒木さんも、私の秘書だった人。それに何か問題が?

「なぜいま、唐突に野田さんが辞任したか」ですって? 先ほど、知事特別秘書の仕事に専念するためと申しあげたでしょう。それ以上、何も出てきませんわよ。私が何か言うはずもないでしょう。

「新代表選考委員会ができたことも、荒木さんの代表推薦も知らなかった。晴天の霹靂だ」なんて、大袈裟にツベコベ言っている都議がいたんですって。それがなにか? 開かれた組織だからこそ、そんなツベコベも言えるんだし、メディアの耳にもはいるんじゃないかしら。

そりゃあ私も、これまでの都政をブラックボックスと批判して、「見える化」を進めるとは言ってきましたよ。「都民ファーストの会」の政策決定プロセスを可能な限り公開していくなんてことも確かに言ったおぼえはありますよ。でもね、状況はすっかり変わりましたでしょ。もう、私の都知事としての政治的基盤はしっかりと確立しましたからね。あの頃言ったことに一々縛られていたのでは政治を前に進めることはできませんよ。都民ファーストの会の代表が誰だって、プロセスがどうだって大した問題ではないでしょ。

都議選後に、私から野田さんに代表交代をした際は、私と野田さんの2人で「臨時役員会」を開いて人事を決めたんです。今度は、私と都議2人の「代表選考委員会」で決めました。規約に則った手続ですよ。えっ? 規約を見せてくれですって? 議事録はあるのかって? それは失礼じゃございません。そんな必要はないでしょう。

都会議員総会が代表を選出したのか、それとも選考委員会が選出して都議総会が承認したのかって? そもそも選考委員会委員の選出手続は規約上どうなっているかですって。 そんな細かいことはどうでもよいことでしょ。

ええ、規約はインターネットには掲載していませんよ。「どうして?」って、そんな必要ないからですよ。もちろんホームページで党員の募集はしています。並みの党なら、綱領と規約に賛同して入党の申込みをするんでしょうが、うちの党は信頼関係に基づいて党を運営するんだから、規約の公表なんて不要なんです。

もちろん、綱領はホームページにアップしていますよ。「宇宙から夜の地球を見た時、世界は大きな闇と、偏在する灯りの塊に見える…。」という書き出しの、あの有名な奴。無内容でひどいという批判もあるけど、その批判はやっかみね。

なんですって? 行政の透明性の徹底とか、情報公開を売りにしている都民ファーストが、自分のことになると、まったく不透明で、結局のところ二枚舌ですって?

あなたねえ、どこの記者? 「それは失礼というものじゃない」。そもそも都政と政党の運営の問題をごっちゃにしているんじゃないの。都政はパブリックよ。透明性も情報公開も必要でしょ。政党はダイバーシティよ。お分かり? 多様なあり方があってよいじゃないの。規約が曖昧だとか、ネットに掲載ないとか、規約を見せずに党員募集しているとか、そんな些末な批判があればご自由にどうぞ。都民が、次の選挙で決着をつけてくれるわ。圧倒的な民意が私と都民ファーストの会にあるのよ。そこをよーくご自覚遊ばせ。

この頃、うるさいのよ。「都民ファースト」ではなく、「自分ファースト」だろうとか、「百合子ファースト」だとか。ひどいのは、「都民ファシストの会」とまで。でもね、私は都民のため、都民目線を忘れたことはございませんことよ。舛添要一さんが、朴槿恵元大統領と約束した、韓国人学校敷地提供の件を一存で反故にしたり、9月1日の朝鮮人虐殺慰霊行事への追悼文送付をやめたり。私のことを歴史修正主義者だとか、生粋のレイシストなんていう人がいるけど、大まちがいね。

私は、嫌韓、反韓の姿勢が都民に受けると思ってやっているだけ。だって、選挙権のある人に選ばれたのですもの。私を選んだ選挙権のある人の祖父の代の人々が、関東一円で自警団を作って、武器を持って朝鮮人狩りをして、大規模で残虐な集団殺人行為を行ったことなんて事実と認めたくないでしょう。だから、虐殺が事実であればこそ、都民有権者の気分がよいようにしているだけ。韓国人学校も同じこと。

私こそが、選挙民の立場をよく考えているんだから、私こそ民主主義者なの。お分かり?
(2017年9月14日)

東京「君が代」裁判(4次訴訟)の9月15日判決にご注目を

明後日(9月15日)13時10分、東京地裁527号法廷において、東京「君が代」裁判(4次訴訟)の判決言い渡しがある。その後14時30分からは、日比谷公園内の「日比谷図書文化会館」地下1階大ホールで「判決報告集会」が開かれる。ぜひ、多くの方々にご参加いただきたいと思う。

東京「君が代」裁判は、悪名高き「10・23通達」関連訴訟のメインをなす懲戒処分取消訴訟で、今回の判決は原告14名の教職員が、延べ19件の処分取消を求める行政訴訟。係属部は民事第11部(佐々木宗啓裁判長)で、提訴は2014年3月17日のこと。

原告ら14名が取消を求める処分は、最も軽いものが《戒告》、最も重いものが《停職6月》となっている。
内訳は、
《戒告処分》        9名 12件
《減給10分の1・1月》 3名  4件
《減給10分の1・6月》 2名  2件
《停職6月》        1名  1件
 計           14名 19件
以上の数字が合わないように見えるのは、複数件の処分を争う原告もあり、《戒告処分》と《減給10分の1・1月》の処分を重複して受けている原告も一人いるから。

私たちは、14原告に対する19件の、戒告処分を含む全処分が取り消されなければならないと確信している。それが、日本国憲法の命じるところだからである。

戦前の天皇制国家や、現代なお続く軍国主義や国家主義の国家、あるいは個人崇拝の独裁国家の真似をして、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制など滑稽の極みではないか。

そもそも、首相であろうと文科大臣であろうと、あるいは都知事であろうと都教委であろうと、国民の僕であるはずの公的機関が、教育公務員を含む国民に向かって、「国家に対して敬意を表明せよ」と強制することなどできるわけがないのだ。そんなことの強行は、価値倒錯であり背理だ。

また、憲法19条(思想・良心の自由)、20条(信教の自由)、23条(教員の専門職としての自由)、26条(教育を受ける権利の保障)が保障する原告たちの基本権の侵害は明らかに違憲である。さらに、教育基本法16条(旧法10条)が定める教育に対する公権力の不当な支配としても許されない。

これまで最高裁は頑なに違憲判断を回避してきた。私たちは、もう一歩のところまで肉薄はしてきたが、2006年9月の予防訴訟一審の『難波判決』を除いて、違憲判決を勝ち取ることができていない。

しかし、最高裁判決は変更されなければならない。今回の訴訟においても、多角的に違憲論を展開してきた。裁判所の真摯な姿勢での審理はあった。これに続く真っ当な判断に期待したい。

仮にの話だが、担当裁判所が最高裁判決の「論理」にとらわれて、違憲判決は出せないとした場合でも、全原告の全処分を処分権の逸脱濫用として取り消すことができる。これが6年前の東京高裁1次訴訟控訴審の『大橋判決』だ。しかも、これまでの最高裁判決は、「戒告はノミナルな処分に過ぎず、被戒告者に実質的な不利益をもたらすものではない」ことを前提としていた。しかし、実は戒告といえども、過大な経済的不利益、実質的な種々の不利益をともなうようになってきた。とりわけ、最近になって都教委は意識的に不利益を増大させているのだから。

さらに仮定の話として、担当裁判所が戒告処分の限りでは違憲ではなく、裁量権の逸脱濫用もないと判断したとしても、最高裁判決の論理に従えば、減給以上の過酷な懲戒処分は、すべて裁量権の逸脱濫用として違法となる。《減給》《停職》の処分すべてが取り消されなければならない。

都教委は,「国家へ敬意を表する態度」を取らなかったこと、すなわち国旗に向かって起立し国歌を斉唱しなかったことを理由として、原告ら教職員に、戒告・減給等の懲戒処分を科してきた。このような懲戒処分は毎年、卒業式・入学式のたびに繰り返され、しかも累積すれば処分は加重されることになる。こうして職務命令違反として懲戒処分された教職員は、延べ480名余にのぼる。

これまでの最高裁判決は、国歌斉唱時に起立斉唱を命じることが思想信条の自由に対する間接的な制約であることを認め、起立斉唱命令が直ちに違憲とまではいえなくとも、各原告の有する思想・良心と一定の緊張関係を持つことは否定できず相応の配慮が必要であることまでは認めている。のみならず、教職員の不起立行為は積極的に卒業式等の進行を妨害したとはいえないこと、減給など実害をともなう懲戒処分は教職員に多大な不利益をもたらすものであることから、不起立行為等を理由として原告らに減給以上の懲戒処分を科すことは、社会観念上著しく妥当を欠き重きに失することから懲戒権の範囲を逸脱・濫用したものであるとして、懲戒処分の取り消しを命じている。

その限度で、最高裁判決は積極的な意義をもつものである。石原慎太郎都政下における都教委の強権的「日の丸・君が代」強制政策に大きな頓挫をもたらした。しかし、けっして憲法の命じるところにしたがって、「日の丸・君が代」強制は違憲で無効とは言っていない。その違憲判決を勝ち取るまで、東京「君が代」裁判は続くことになる。

今回判決を迎える事件が4次訴訟である。これまでに、1次訴訟(原告数173)、2次訴訟(原告数67)、そして3次訴訟(原告数50)があった。さらに続く5次訴訟の対象処分も行われ、提訴の準備もなされている。

これは、紛れもなく、公権力に抗って思想良心の自由を擁護する歴史的な闘いであり、教育に対する権力による不当な支配を排除する抵抗運動でもある。

私は思う。司法も問われているのだ。その本来の使命を全うしているか否かを。9月15日判決にご注目いただきたい。東京地裁が、果たして憲法に定められた人権の砦としてのその本来の使命を全うしているか、あるいは権力の走狗となってはいないかを。
(2017年9月13日)

再び研修センター正門前で―「人類の自由獲得」に努力する者から、これを妨害する者たちへ

本日(9月6日)服務事故再発防止研修を命じられているBさんを代理して、弁護士の澤藤から東京都教育委員会とセンター職員の皆様に、2点を訴えます。

第1点は、思想・良心の自由とはいったい何かということです。そのことを通じて、思想・良心の自由の大切さをご理解いただきたい。

すべての国民は人として尊重されなければなりません。しかし、それだけでは足りません。十分ではないのです。すべての国民は、単に人として遇されればよいということにはなりません。それぞれが個性をもった他ならぬ自分として尊重されなければならないのです。他の人とは違ったかけがえのない自分という存在として尊重され、受け容れてもらわねばなりません。

すべての人が、自分が他の人とは区別された自分である証し、つまりはそれぞれの人の個性とは、具体的にはそれぞれの人が他の人とは違って持っている、その人のものの考え方や感じ方、価値感のあり方を意味します。

日本国憲法は、このことを、「すべて国民は個人として尊重される」と原理的に確認し、国民個人の多様な思想および良心について、「これを侵してはならない」と定めているのです。

「これを侵してはならない」。そのように、主権者が公権力に命令をしているのです。ですから、東京都教育委員会は、生徒の多様な思想・良心の自由も、教員の思想・良心の自由も、けっして「これを侵してはならない」のです。

強調すべきは、この侵してはならないという思想・良心とは、公権力が不都合ととする内容であって初めて意味を持つということです。公権力にとって好都合で、現政権を持ち上げ、東京都の方針や東京都教育委員会の政策に迎合する内容の思想・良心については、「侵してはならない」などと命じる必要はなく、なんの意味もありません。

国民の思想・良心は多様です。多様な思想・良心・価値観・倫理観が、公権力に不都合なものも含めて、むしろ公権力に不都合なものであればこそ、尊重されなければなりません。とりわけ、信仰、国家観、歴史観、教師としての教育観などについては、行政は意識してその多様性を尊重して運用されなければなりません。いやしくも、国家や自治体や、もちろん教育委員会が、特定の思想・良心を公的に認定してこれを強制したり、不都合な思想・良心を弾圧することは許されないのです。

東京都教育委員会は、国家主義の立場から、国民は国旗国歌ないし日の丸・君が代に対しては敬意を表すべきであるという考えをもっています。しかし、それは飽くまで多様な考えの一つでしかありません。しかも、日本国憲法の理念よりは大日本帝国憲法に親和性のある相当に偏った立場。こんな考え方を都内のすべての生徒やすべての教職員に押しつけることは本来できないこと、してはならないことなのです。

本日の服務事故再発防止研修において、このような考えに基づいて、Bさんに説得しようとすれば、たちまち新たな違憲違法の問題が生じます。このことが私の訴えの第2点となります。

私たちの国の歴史は、思想・良心あるいは信仰の自由という価値を重視してきませんでした。私たちの国の権力者は、他の国の権力者にも増して、思想や信仰の弾圧を続けてきました。
中でも、江戸時代初期に広範に行われた「踏み絵」と、戦前の治安維持法体制下での天皇制イデオロギー強制が、恐るべきものだったといわねばなりません。いずれも、権力が憎む思想を徹底して弾圧しました。
今東京都教育委員会が行っている日の丸・君が代強制は、幕府の踏み絵や、天皇制警察の思想弾圧と質において変わるものではありません。

そこで、センター職員の皆さん。皆さんに、ご自分の立場をよく見つめていただきたいのです。あなた方の今日の立場は、思想・良心に直接鞭打つものとして、踏み絵を実行した幕府の役人と同じ役回りなのです。特高警察と同じともいわねばなりません。そのことを、十分に自覚していただきたい。

憲法97条には、こう書かれています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」と。この「自由獲得の努力」は、今もなお、続けられています。本日研修の対象となっているBさんは、まさしく身を挺して、自由獲得の努力をしているのです。

都教委は明らかに幕府や天皇制権力と同様に、「人類の自由獲得の努力」を妨害する側にいます。そして、センター職員の皆さん。あなた方も客観的には同じ立場なのです。あなた方は、今、この柵の向こう側にいることを恥じなければならない。せめて、その自覚に立って、自由獲得の努力を続けているBさんに敬意をもって接していただくよう、心からお願いいたします。
(2017年9月6日)

女王さま、右耳だけが象の耳

9月1日である。この日を、私は個人的に「国恥の日」と呼ぶことにしている。

通例、外国から受けた恥辱を国民的に記憶して忘れてはならないとするのが「国恥の日」。かつて中華民国は、日本からの二十一箇条要求を承認した5月9日、あるいは柳条湖事件の9月18日を国恥紀念日として国民の団結心に訴えた。また、韓国民は、韓国併合条約発効の8月29日を庚戌国恥日として記憶している。

日本にとっての9月1日は、日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺したことを思い起こすべき日である。自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと誓うべき日。

94年前の関東大震災は、関東一帯に居住する住民に悲惨な犠牲を及ぼした自然災害であった。その犠牲者を追悼するとともに、再びの惨禍をなくす(あるいは軽減する)努力をなすべきは当然のことである。

ところが、別の問題が発生した。震災の直後に、自然災害ではない恐るべき非人道的な人災が生じたのだ。それが、日本人民衆による在日朝鮮人・中国人に対する虐殺である。自然災害による住民の犠牲と、民衆による他民族殺戮の二つは、質を異にするまったく別異の事件である。ことさらにこの両者を混同して論じる欺瞞は許されない。

虐殺には、軍と警察が深く関わっていたことが広く知られている。国の責任を論じるには、軍と警察の行為が重要になる。しかし、私には、自警団という名の民衆が武装して、朝鮮人狩をして、集団で撲殺し刺殺し、縛って川に投げ込むなどの蛮行におよんだことが衝撃である。私たちの父祖が、なぜこんなことを起こしたのか。正確に知り、記憶しなければならない。そのための、「国恥の日」である。

1923年の関東大震災から94年目となる今日(9月1日)、朝鮮人虐殺の犠牲者を追悼する式典が、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑の前で営まれた。これまで慣行として都知事から寄せられていた朝鮮人犠牲者に対する追悼文は、今年はなかった。

都知事小池百合子への批判の高まりを反映して、今年の追悼式参加者数は、昨年に倍する500人に上った。

追悼式実行委員長の宮川泰彦さんは、かつて同じ法律事務所で机をならべた私にとっては同僚弁護士。その怒りがよく伝わってくる。

式辞の中で彼は、小池百合子を厳しく批判した。
「都知事が追悼文をとりやめたことは到底容認できない。流言飛語による虐殺で命を奪われた犠牲者、遺族や関係者に寄り添う姿勢が全く見えない」「虐殺の歴史にあえて目を背けている」「都知事にはいま一度立ち止まって、参列者の声、多くの人の声に耳を傾けることを求める」「恐怖と混乱、そして差別意識によって過ちが引き起こされた。忘却は再び悪夢を生む。悲惨な出来事を忘れてはならない」

小池百合子の弁明はこうだ。
「大法要で犠牲となった全ての方々への追悼を行っていきたいという意味から、追悼文を出すことは控えさせてもらった」

これは、集団による他民族虐殺の犠牲を、ことさらに自然災害の犠牲と同列視して、意識的に自然災害死のなかに埋没させる悪質なレトリックと指摘しなければならない。小池百合子は、語り継がなければならない悲惨な行為と犠牲と責任とについて、語り継ぐことをやめたのだ。

小池百合子自身が排外主義的傾向あることは、周知の事実だった。前任の舛添要一は、当時の韓国大統領・朴槿恵との間に「韓国人学校用地としての都有地貸与」の合意を交わしていた。小池百合子は、就任直後にこの合意を白紙に戻して物議を醸している。

各紙の報じるところでは、「犠牲となった全ての方々に対する都慰霊堂大法要での都知事追悼文」(安藤立美副知事代読)に、朝鮮人犠牲者への言及はまったくなかったという。まさしく、小池百合子は、虐殺の歴史を直視することなく、これを自然災害犠牲者の中に埋没させたのだ。その罪は深い。歴史修正主義、排外主義の潮流に身を置くものと、近隣諸国や世界からも厳しい批判を受けざるを得ない。

94年を経てなお、歴史を直視することも、真摯な反省もできない。これをこそ、国恥というべきだあろう。

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むかし むかしのこと
どのくらい昔かというと、
まだ、みんしゅしゅぎという考え方のないほどの大昔

ある国に、すこしかわった女王さまがおりました
女王さまは こくみんが自分をどう見ているか
こくみんのなかでの 自分の人気を
たいそう気にするかたでした

ですから つねづね
「わたしは こくみん みんなの意見を よく聞きます」
「わたしくらい こくみんみんなの声に耳をかたむける 王さまはない」
といっていました

「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
すこし変わった聞きかたをするのです

じぶんをほめるたみの声を聞くときには右の耳で聞くのです
じぶんと同じ意見を聞くときも右の耳なのです

じぶんをほめない きびしいたみの声を聞くときには
左の耳で聞きました
じぶんとちがう意見を聞くときも左の耳なのです

たみの声は女王さまにとって心地よいものばかりではありません
するとどうでしょう
だんだんと心地よいことを聞くための女王さまの右の耳だけが大きくなっていったのです
はんたいに 女王さまにとっては心地よくないことを聞く左の耳はだんだんと小さくなっていきました

そして、とうとう女王さまの右の耳は象の耳になりました
うちわよりももっとおおきな よく聞こえる象の耳
左の耳はあるかないかのカエルの耳になりました
小さいだけではなく ほとんど聞こえなくなったのです

こうして女王さまは
「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
実のところは、
「じぶんとおなじいけんか、じぶんをほめるいけん」
だけしか聞こえなくなってしまったということです
どんとはれ
(2017年9月1日)

東京都教育委員会に対し、服務事故再発防止研修の強行に抗議する。

午前9時。水道橋の東京都教職員研修センター正門前で「被処分者の会」主催の抗議と激励の集会が始まる。9時10分、私がマイクを取って、センターの総務課長に申し入れを行った。私が敷地の外、総務課長が内側で対峙する位置関係。総務課長への語りかけだが、私の呼びかけ先は課長の背後にいる教育長であり都知事である。

《都立高校教員のAさんを代理する立場で、弁護士の澤藤から、東京都教育委員会と都知事に対して、そして、本日研修を担当されるセンター職員の皆さんにも、抗議と要請とを申し上げる。

都教委は、Aさんに対する「服務事故再発防止研修」の受講を命令し、本日(8月29日)これから、その研修が実施されようとしている。研修受講命令発令の理由は、今年3月の卒業式において、Aさんが「君が代」斉唱時に起立しないことで戒告処分を受けたこととされている。

都教委は、「君が代」不起立が研修を実施することによって再発防止が可能な「服務事故」であると考えていることになる。しかし、この考え方にはいくつもの大きな間違いがある。

なによりも、「君が代」斉唱の強制が間違いといわねばなならない。威儀を正して国歌を唱えという命令は、日本という国家に敬意を払えという命令にほかならない。しかし、国家と個人の関係をどうとらえるかは、優れて個人の価値観に関わる問題として、国家が特定の立場を強制してはならない。私たちは、国家主義・軍国主義の時代の苦い歴史的教訓を踏まえて、現行憲法を制定し、個人の尊厳は国家を凌駕するものだという大原則を確認している。そして、個人の尊厳に関わる基本権として、「思想・良心の自由」を精神的自由権条項群の冒頭に憲法第19条として書き込んだのではなかったか。これを忘れてはならない。ましてや、教育の場で、特定の価値観を押しつけることなどあってはならない。

教員一人ひとりには、その人なりの国家観や歴史観があり、また教育観がある。さらに、歴史的に日の丸や君が代が果たした役割についても、さまざまな見解がある。それをすべて切り捨てて、日の丸・君が代を強制することは、思想を統制することにほかならない。これに従えないとする教員に対する懲戒処分は、思想弾圧であり、良心に鞭打つものと言わざるを得ない。

特に申しあげたいのは、懲戒処分にともなう再発防止研修の本質についてである。都教委がプログラムした説示や説得によって、日の丸・君が代強制を受容しない態度や考え方をあらためよ、ということではないか。これは、自らの思想・信念や良心に基づいて日の丸・君が代強制には服しがたいとする教員に対する、直接的な思想的転向の強制であり、良心に鞭打って、その屈服を促す行為というほかはない。

Aさんは、自らの信念と良心の声に忠実であったことから、今日これから、この場で、反省を迫られようとしている。しかし、Aさんの行為に反省すべきところはない。むしろ、反省すべきは都教委ではないか。国民の思想・良心を蹂躙していること、教育の場に国家主義を持ち込んでいることを、憲法や教育基本法に照らして反省しなければならない。

以上の理由をもって、憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじる都教委の「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議する。

飽くまでも、この違憲違法の研修の中止を求めるが、仮に実施するにしても、絶対にAさんの良心に鞭打つような行為があってはならない。Aさんは、教員としての本分を尽くすことを真摯に考え、煩わしさや不利益を覚悟して、自分の良心を貫くことを決意して、今ここにいる。

本日の研修を担当するセンター職員諸君、Aさんには敬意をもって接していただきたい。あなた方にも、教育に携わる者としての矜持があろうことを期待したい。Aさんには、ぜひとも尊敬の念を失わず、礼を失しない態度をもって接していただくようお願い申しあげる。》
(2017年8月29日)

百合子さん、百合子さん、右のお耳がよろしいのね。そうよ、そっちの人だもの。

「小池都知事の英断に感謝します!」という、声明が現れた。もちろん右翼のもの。8月25日のことのようだ。
「私達は、この度の小池都知事の関東大震災朝鮮人慰霊式への追悼文送付を断るという大英断に、心より称賛の言葉を送りたいと存じます。
40年の長きに渡った、都の慣例を打ち破るという事がどれほど難しい選択だったか想像に難くありません。この横網町の碑の問題に取り組んできたそよ風としては感謝の言葉しか御座いません。
又、この問題を都議会で取り上げて下さった、自由民主党古賀俊昭議員の勇気ある質問がなければここまで来られなかったことは間違いありません。古賀議員の元には抗議が来ているそうですが、それでも毅然としていらっしゃる御姿はまさに日本を護る守護神のように思えてなりません。又、何より、これまでご支援下さった皆様、関心を持ち続けて下さった皆様に、御礼を申し上げます。
しかし、戦後自虐史観との闘いは緒に就いたばかりです。
今後とも、どうか宜しくお願い致します。
 そよ風代表  鈴木 由喜子  他一同 

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関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典への追悼文送付の問題は、「戦後自虐史観との闘い」だという位置づけ。だから、追悼文送付の取りやめは大英断として小池百合子に感謝する、というのだ。右翼からの小池へのオマージュである。なるほど、あの極右・石原慎太郎もできなかったことを小池百合子がやってのけたのだから、感謝感激であり、心からの称賛ということになるわけだ。

「そよ風」とは、真正右翼の模様。こんな調子だ。
「マスコミの偏向報道、教育の場での自虐史観授業等に日本の危機を感じています。もう男性達だけには任せておけない!
日本を護る為に私たち女性は立ち上がります。先人達が命をかけて築きあげてきたこの素晴らしい国、日本を失わないために、今、私達が頑張らないといけないのではないでしょうか。
語るだけでは何も変わらない、私達は行動します。
そよ風は日本を愛する女性の会です。」

こういう歴史修正主義派の右翼連中が、小池百合子の本性を褒めそやしているのだ。

もっとも、小池自身はそう広言しているわけではない。いかにもポピュリストらしく、「これまでも都知事として関東大震災で犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表し、全ての方々への慰霊を行なってきました」「今回は全ての方々への法要を行いたいという意味から、特別な形での追悼文提出を控えた」というのだ。いかにも控えめ。

しかし、本当にこれが小池の本心なら、右翼が「大英断」などと持ち上げようはずもない。ここは、想田和弘(米国在住)が、下記のごとく言うとおりではないか。

「政治性を排除することが、極めて政治的であることの好例。『震災の犠牲者すべてを追悼する』という一見中立的・公平にみえる言説が、朝鮮人に対する暴力を隠蔽する。実は全く中立でも公平でもない。最近、こういうことがあちこちで起きている。」

そのそよ風が、朝鮮人犠牲者慰霊式の場所と時間に合わせて、カウンターの行事を行うという。下記のとおり。

9月1日午前11時より私達の悲願であった都立横網町公園・真実の関東大震災石原町犠牲者慰霊祭ですが、都立公園での開催申請が受け付けられましたのでご報告申し上げます。
真実の慰霊祭を執り行いますので皆様ぜひご参集下さいませ。
 日時 平成27年9月1日午前11時より
 場所 都立横網町公園関東大震災石原町慰霊碑前

同じ公園内の目と鼻の先の距離で、対抗集会を開こうというのだ。「虐殺犠牲者の縁故の者が慰霊・追悼の儀式を行う」ということはわかりやすい。しかし、右翼の連中は「虐殺はでっち上げだとして『真実の慰霊祭』を執り行う」という。これは極めて分かりにくい。なんでもアンチの右翼が、ことを起こそうとしている可能性を否定し得ない。無用な衝突なく、充実した行事が平穏に運ぶように、朝鮮人犠牲者追悼式典に圧倒的な多数者が参列することを期待する。両国駅下車の横網町公園、午前11時である。

ところで、TBSラジオ「荻上チキSession22」に、加藤直樹が出演した「小池都知事・関東大震災朝鮮人犠牲者への追悼文送付取りやめを語る」。
https://www.tbsradio.jp/177037
下記では読むことができる。
http://miyearnzzlabo.com/archives/44795

たいへん分かり易く、貴重な意見を語っている。以下だけを引用する。
「(加藤直樹)焦点になっているのは追悼碑だと思うんですけど、もともとこの追悼碑は1973年に民間で作られたものなんですけど、ただ非常に広範な人々の協力でできたんですね。(当時の)美濃部都知事を筆頭に、当時の自民党の各区の区議団や共産党、社会党は当然としても公明党、民社党も含めて地域レベルでは協力する。そして寺院とか学者、学術団体、病院、労働組合。そういった幅広い人たち。数えてみたら個人で約600人。団体で240団体が協力者に名を連ねる形で当時作られたんですね。

(荻上チキ)ええ、ええ。

(加藤直樹)それは東京で起きたそういう事件を……要するに、民族差別によって殺してしまうという事件を二度と起こしてはいけないという思いがあったからだと思うんです。だからこそ、歴代の都知事はメッセージを送ってきたと思うんですね。それを取りやめるということは、歴史的な教訓を忘れるということですから。要するに、東京はいつ大地震が起きるかもわからない都市ですし、また非常に多民族的な都市なんですよね。そういう都市で「民族差別による暴力は許さないんだ」っていうメッセージが非常に後退してしまうんじゃないか?っていう気はしますよね。」

小池百合子には、耳に痛い言葉ではないか。とりわけ、右耳に。

また、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」のホームページが以下のとおり。
https://www.shinsai-toukai.com/
「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」(以下、「問う会」)は、虐殺された犠牲者を悼み、真相を究明してきた地域の市民と研究者により、2010年9月に発足しました。日本政府が流言の流布と虐殺に主体的に関与したことを認めて遺族に謝罪し、真相究明の調査を行なうこと、そして資料の恒久的な公開と保存を求めています。

「問う会」役員(共同代表)
石田貞(埼玉県朝鮮人強制連行真相調査団顧問)
石橋正夫(日朝協会会長)
姜徳相(滋賀県立大学名誉教授、在日韓人歴史資料館館長)
山田昭次(立教大学名誉教授)
吉川清(千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会代表)

このサイトに、次の一文がある。
1923年9月1日、関東地方をマグニチュード7.9の大地震が襲いました(関東大震災)。この時、朝鮮人や社会主義者が暴動を起こす等の流言が流され、多くの朝鮮人や中国人、そして日本人が殺されました。なかでも朝鮮人については各地で広範囲に、多くの犠牲者が出ました。
 流言を流したのは、国家と民衆でした。また、国家と民衆双方が朝鮮人を虐殺しています。とりわけ国家は、地方行政機関や無電を使うなど、組織的・広範囲に流言を流布し、軍隊による多数の朝鮮人の虐殺事件を引き起こしました。
 しかし、当時の日本政府は自らの責任を回避するために事件を隠蔽し、遺族に対する謝罪も真相を明らかにすることもしませんでした。今なお、朝鮮人犠牲者数も多くの犠牲者の名前も不明のままです。

 本来犠牲者の調査は、当時の日本政府が責任を持ってなすべきことでした。ところが、政府は調査を行なうどころか遺体の損壊を始めとした隠蔽工作を行ない、事件直後の朝鮮人による調査や追悼の妨害まで行ないました。
朝鮮人虐殺の問題については、日本弁護士連合会が調査を行ないました。同会は震災から80 年目の2003 年に『関東大震災人権救済申立事件調査報告書』を作成し、小泉首相に対して国家責任を認めて遺族に謝罪し、真相調査を行なうよう勧告しました。しかし、政府はこれを無視たまま現在に至っています。
以上のような状況を変えようと、これまで各地で追悼・調査に携わってきた市民が連帯して地域を越えた大きな枠組みによる会を作ろうという気運が高まりました。こうして2010年、「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」(以下、「問う会」)が生まれました。

歴史の闇に光を。ぜひとも邪悪な妨害をはねのけて。切にそう思う。
(2017年8月28日)

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