澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

小池都知事の教育観は、「『君が代』ファースト」だ。

国政も国際情勢も慌ただしいが、身近なところで都議選が近い。人も車も動き出した。候補者の声が聞こえる。ポスターもにぎやかになってきた。

「改憲と共謀罪にノー」という勢力に、都政でも大きく伸びてもらいたい。自民・公明・維新の保守ブロックと、公明との連携を明確にした「都民ファーストの会」(以下、「都ファ」)には、小さく縮んでもらいたい。

何が都議選のテーマか。話題になるのは、まずは築地市場の移転の是非。築地を建て直すことでいいじゃないか派と、新設豊洲への早期移転派の角逐。後者は実のところは、都政を財界に売り渡し、大規模再開発推進第一の立場なのだ。もちろん、食の安全も絡んでいる。今のところ、自公の豊洲移転促進と、共産の築地でいいじゃないかの対立の図式。都ファは、この最大関心事にまだ態度未定という。知事派でありながら、信じがたいこの無責任。

次いで、住民福祉だ。保育園と特養問題。そして、良くも悪くもオリンピック。開発が伴うことから資本が群がるが、都民の側から見れば浪費と疑惑にまみれた、時代錯誤の大イベント。今さら中止は難しかろうが、狂騒とコストを最小限に抑えなければならない。防災問題もある。中小企業支援も…。

教育問題も注視しなければならない。従来からの小池百合子という政治家の国家主義的姿勢を懸念せざるを得ない。この点では、舛添さんの方が、はるかにマシだった。

5月11日の朝日が次のように報道している。
「この春、東京都内にある七つの都立看護専門学校の入学式は、いつもと少し様子が違った。小池百合子・都知事が議会で『要望』したのを受けて、今回から式典に国歌斉唱を採り入れたからだ。小池氏の狙いとは。

『国歌斉唱。ご起立ください』。都立広尾看護専門学校(渋谷区)で4月10日にあった入学式。『君が代』の演奏が流れ、新入生と在校生が歌い出した。都によると、他の看護専門学校でも国歌斉唱があった。今回が初という。

知事の発言『忖度』
きっかけは、小池氏の(議会での)発言だった。3月の都議会で自民都議の質問に答える形で『グローバル人材の育成の観点からも、国旗や国歌を大切にする心を育むことこそ重要』などとし、看護専門学校や首都大学東京の入学・卒業式での国歌斉唱を『望んでいきたい』と述べた。

その月末。関係者によると、看護専門学校の校長が集まる会議で、入学式で君が代を歌うことを申し合わせたという。都の関係者は『知事が答弁したことなので。まあ、今はやりの「忖度(そんたく)」なのかもしれませんけど』と言う。」

あの石原慎太郎都知事の時代に、教育長名の悪名高き「10・23通達」が発出されて、都内の都立高校と特別支援学校、そして公立中学校・小学校は、例外なく苛烈に「日の丸・君が代」の強制が実行された。しかし、石原の時代にも、石原後継知事の時代にも、都立看護専門学校に「日の丸・君が代」は持ち込まれなかったのだ。看護師と「日の丸」、医療と「君が代」。どう考えても、似つかわしくない。それが、小池都政1期目で、全看護専門学校の入学式に「日の丸・君が代」である。

朝日の記事にある、「3月の都議会で自民都議の質問」というのが、以下のとおりである。質問者が、自民党の松田康将(板橋)、元は下村博文の秘書だったという人物。下記のとおりのお先棒担ぎ。

○松田  …都立の学校教育施設であっても、福祉保健局所管の都立の看護学校七校では、国旗掲揚はされているものの、国歌の斉唱はありません。また、独立行政法人ではありますが、公立大学首都大学東京の入学式、卒業式においても同様であると伺っております。
平成二十七年六月には、当時の下村博文文部科学大臣が、国立大学長を集めた会議で、各大学の自主判断としながらも、…事実上の実施要請をしたことによって、今年度の入学式では、新たに六校で国歌斉唱が行われました。
都立の看護学校、首都大学東京と、どちらも学習指導要領の法的拘束力が及ばない教育施設ではありますが、…入学式、卒業式において、国歌斉唱をされるのは自然であると考えますが、小池知事の見解を伺います。

○小池 教育に関してのご質問でございます。国旗・国歌、国民の自覚と誇りを呼び起こすものとして、いずれの国でも尊重されていると、このように認識しております。また、グローバル人材の育成の観点からも、国旗や国歌を大切にする心を育むということこそ重要かと考えます。
…今ご指摘がございました都立の看護専門学校、そして、首都大学東京でございますが、ご指摘のとおり学習指導要領の適用が及ばないことにはなります。しかしながら、いわゆる国旗・国歌法の趣旨を踏まえますと、例えば、都立の看護専門学校におきましては、国旗掲揚は行われているが、国歌の斉唱は行われていない、しかしながら、国歌の斉唱を進めることを望みたいと思います。それから、首都大学東京におきましても、国旗の掲揚は行われているけれども、国歌の斉唱については行われていないという報告を受けておりますが、これも国歌斉唱についても行うよう望んでいきたいと思っております。

○松田 保守政治家としての小池百合子都知事、さすがです。ありがとうございます。

なんとも自民党内右派と相性抜群の小池都政なのだ。こんな知事を持ち上げてはならない。

「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」事務局の近藤徹さんから、下記のコメントをいただいた。

「小池都知事は日本会議国会議員懇談会副会長の『実績』の持ち主。教育観は、「都民ファースト」どころか「『君が代』ファースト」だ。「日の丸・君が代」を強制する10・23通達(2003年)に基づく延べ480人もの教職員の大量処分に象徴される権力的教育行政を見直そうという「気配」もない。
今年度より厚労省の保育所の運営指針、文科省の幼稚園の教育要綱に「国旗・国歌に親しむ」と明記され、小中高校で「日の丸・君が代」が強制され、学習指導要領に「指導するものとする」とされ、それを専門学校・大学まで広げ、幼児から大学生まで「日の丸・君が代」で染め上げようというのだ。
安倍政権の『教育勅語』や「ヒットラーの『わが闘争』の教材化容認の閣議決定は、つい最近のこと。そして安倍首相の『2020年までに改憲を』の発言。その先にあるものは、「日の丸・君が代」強制を道具にして『お国(天皇)のためにいのちを投げ出せ』ということだ。悲惨な痛恨の歴史を繰り返してはならない。『子どもたちを戦場に送るな』の誓いを新たにしよう。」

まったく同感である。都議選では、「自・公・維+都ファ」が、全て都民福祉と民主主義教育の敵だ。
(2017年5月15日)

都教委の「日の丸・君が代」不当処分 累計480人に

4月20日、都教委は都立校卒業式の国歌斉唱時に起立しなかったとして、2人の教員を懲戒処分(減給と戒告)とした旨を発表した。
(都教委HP・「卒業式における職務命令違反に係る懲戒処分について」参照)
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/pickup/p_gakko/p_hukumu/170420.pdf

「10・23通達」発出以来、これで累計の処分者数は480名となった。民主主義や人権にとって、また教育の自由や独立という制度の理念にとって恐るべき事態といわねばならない。その真の被害者は、真っ当な教育を受ける権利を剥奪された子どもたちであり、明日の主権者の成長を阻害された日本の民主主義それ自体である。

「日の丸・君が代」への敬意表明強制を学校現場に持ち込み、処分濫発の元凶として悪名高い「10・23通達」は、石原慎太郎都政第2期の産物。ことさらに、「(場合によっては)命がけで憲法を破る」と言ってのけたこの男に、2003年4月の都知事選で都民は308万票を与えた。その直後から準備が進行し、この年の秋にこの通達が教育長から発せられた。以来、東京都の教育現場は萎縮したまま今日に至っている。

石原慎太郎が都庁から去れば、こんな馬鹿なことはなくなるのではないか。慎太郎が任命した愚劣な教育委員たちが交替すれば、事態は正常に復するのではないか。そう思いつつ、13年余が過ぎた。石原慎太郎は、知事の座から去ったが、石原後継を標榜する知事が襲って、「日の丸・君が代」強制問題に何の変化ももたらさなかった。次に、保守ではあっても右翼ではなく、石原後継でもない知事が誕生した。期待を持たせたこの知事は、結局五輪準備だけに熱心で、教育現場の事態改善の努力をしなかった。

米長邦雄や鳥海厳、内舘牧子、横山洋吉などの当時の教育委員が総入れ替えしても、事態はまったく変わらないのだ。関与した人物の個性の問題ではなく、権力を形づくる勢力の根源的な意思として、ナショナリズムの涵養が急務となっていると考えざるをえない。

とこうしているうちに都知事はまた昨年交替して、再び大きく右にぶれた。教育分野で小池知事がいつ地金を出して何をやりはじめるか、心配でならない。

以下に、「被処分者の会」の抗議声明を転載する。
**************************************************************************
  卒業式における「日の丸・君が代」不当処分に抗議する声明
4月13日、東京都教育委員会(都教委)は第7回定例会を開催し、卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったことを理由に都立高校教員2名に対する懲戒処分(不起立4回目に対し減給10分の1・1月、同3回目に対し戒告)を決定し、本日4月20日、処分発令を強行した。この処分は、「懲戒権者の裁量権の範囲を超え、違法」として減給以上の処分を取り消した最高裁判決および確定した下級審判決の趣旨をないがしろにする暴挙である。
今回の処分によって、「10・23通達」(2003年)に基づく処分者数は、延べ480名となった。
この大量処分は、東京の異常な教育行政を象徴するものであり、命令と処分によって教育現場を意のままに操ろうとする不当な処分発令に満身の怒りを込めて抗議し、その撤回を求めるものである。
処分発令と同時に、都教委は、被処分者に対して、5月10日に始まり3か月に亘る服務事故再発防止研修の受講命令を発した。再発防止研修は、2012年から質量ともに強化され、「思想・良心の自由」と「教育の自由」に基づく信念から不当にも処分された教職員に対して、セクハラや体罰などと同様の「服務事故者」というレッテルを貼り、反省や転向を迫るもので、日本国憲法の精神を踏みにじるものである。
これは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性がある」とした東京地裁決定(2004年7月)にも反しており、私たちは、憲法違反の再発防止研修を直ちに中止するよう求めるものである。
東京「君が代」裁判一次訴訟および二次訴訟の最高裁判決には、「すべての関係者によってその(紛争解決の)ための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要がある」(2012年1月16日 一次訴訟 櫻井裁判官)、「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべき」(2013年9月6日 二次訴訟 鬼丸裁判官)など、かつてなく多くの補足意見が付された。最高裁判決は、明らかに強制と処分ではなく、話し合いによる解決を求めているのである。
にもかかわらず、都教委は再三にわたる被処分者の会、原告団の要請を拒んで紛争解決のための話し合いの席に就こうともせず、最高裁判決の趣旨を無視して「職務命令」を出すよう各校長を「指導」し、全ての都立学校の卒業式で例外なく各校長が「職務命令」を出し続けている。それどころか、二次訴訟の最高裁判決(2013年9月)及び第三次訴訟の地裁判決(2015年1月)によって減給処分を取り消された教職員(今回減給処分を発令された教員を含む現職の都立高校教員 計16名)に対し、改めて戒告処分を発令(再処分)するという暴挙を繰り返すなど、司法の裁きにも挑戦するがごとき都教委の姿勢は、都民に対して信用失墜行為を繰り返していると言わざるを得ない。
東京の学校現場は、10・23通達はもとより、2006年4月の職員会議での挙手採決禁止「通知」、主幹・主任教諭などの新たな職の設置と業績評価システムによって、教職員が口を塞がれ、もはや学校は機能麻痺を起こしていると言っても過言ではない。「もの言わぬ教師」が作り出されるとき、平和と民主主義は危機を迎える。
都立高校では、今年度から“高校版の道徳”と懸念される新科目「公共」を先取りして「人間と社会」が導入された。生徒たちの心を縛る教育が猛威を振るい、教師たちがその実行部隊にされている。
私たちは、東京の学校と教育の危機的状況を打ち破り、自由で民主的な教育を甦らせ、生徒が主人公の学校を取り戻すため、全国の仲間と連帯して「日の丸・君が代」強制に反対し、不当処分撤回を求めて闘い抜く決意である。この国を「戦争をする国」にさせず、「教え子を再び戦場に送らない」ために!
2017年4月20日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
共同代表  岩木 俊一  星野 直之
事務局長  近藤 徹
**************************************************************************
末尾の「『日の丸・君が代』強制に反対し、不当処分撤回を求めて闘い抜く決意である。この国を『戦争をする国』にさせず、『教え子を再び戦場に送らない』ために!」は、「10・23通達」発出直後の処分の頃には、やや大仰に聞こえたかもしれない。

しかし、アベ政権誕生以来、とりわけ第2次アベ政権が続く現在、多くの人の実感となってきているのではないだろうか。何しろ、アベ政権が改憲志向集団であることは誰もが知る事実なのだ。

アベ政権の姿勢とは、「戦後レジームからの脱却」であり、「96条改憲論」、「教育基本法改正」、「特定秘密保護法」、「戦争法」であり、そして今「共謀罪」なのである。次は、国家総動員法や戦陣訓が出てくるのではないか、さらには宣戦布告ではないかと危惧の念を禁じ得ない。

都政も国政も危うい。「戦争をする国」にさせず、「教え子を再び戦場に送らない」という覚悟の必要性は、教員たちにリアリティをもって迫っているといわねばならない。いつの間にか、そのような時代なのだ。
(2017年4月24日)

石原の無責任と、天皇の戦争責任免責論

以下は、井上清『天皇の戦争責任』(現代評論社)「はしがき」の抜粋である。著者の息遣いが伝わってくる。くり返し読むに値するものと思う。

「かつての大日本帝国が、大東亜侵略戦争に敗北し、連合国に降伏してから、三〇周年の日を迎えようとしているいま、私は、あの戦争のぎせい者たち、日本人であると外国人であるとを問はず、軍人もそうでないものも、すべてのぎせい者たちに、真心こめて、一冊の小さな本をささげたいと思う。
その本は、あの戦争における天皇裕仁の責任を、確実な資料によって明らかにしたものである。
天皇は、大日本帝国の唯一最高の統治権者であり、大日本帝国軍隊の唯一最高の統帥権者であった。そればかりでなく、天皇は日本国創造の神の万世一系の子孫であると称する神的権威であった。この最高の権力・神的権威である天皇陛下の命令・統帥なしには、日本国とその軍隊は対外戦争はできなかった。そして日本国民は、天皇に無条件絶対の忠誠をささげるよう、教育され、あるいは強制されて、あの戦争にしたがった。
こういう地位にある天皇裕仁に、戦争責任がないなどとは、ふつうの人間世界に通用するはずのない論理である。しかし、それが日本では通用している。「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」というのが、天皇裕仁自身の論理であり、また天皇に戦争責任なしとするすべての人の論理である。
この本は、そういう論理がなりたたないこと、天皇裕仁は、たんなる捺印器でもなければロボットでもなく、まさに自分が日本国の唯一最高の統治権者であることの責任をはっきり自覚し、主体的に判断し、決意して、あの戦争を発動し指揮したことを、克明に論証した。払が用いた資料は、すべて印刷出版されているので、読者は、もし必要ならば、資料批判もふくめて、私の見解の当否をたやすく検討できるであろう。
((略))
この小さな研究が、日本軍国主義の再起とたたかう人びとのお役に立つならば幸いである。
一九七五年七月一六日 井上清」

併せて、天皇裕仁の記者会見の発言も引用しておこう。

─天皇陛下はホワイトハウスで「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がありましたが、このことは戦争に対しての責任を感じておられるという意味に解してよろしゅうございますか。また、陛下はいわゆる戦争責任についてどのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

天皇「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」

─陛下は(中略)都合三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞いの言葉をかけておられましたが、原子爆弾投下の事実を陛下はどうお受け止めになりましたでしょうか。おうかがいしたいと思います。

天皇「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむおえないことと私は思っています」

この天皇(裕仁)の無責任ぶりが国民的な批判を受けることはなかった。天皇の戦争責任は、「一億総懺悔」の底に沈み込んでしまったのだ。日本の国民は、いまだにあの戦争の責任の構造を明らかにし得ていない。そのことの影響は大きい。

昨日(3月3日)の石原慎太郎弁明会見における石原の「責任」の語り口の軽さもここに原因していると言ってよい。石原の無責任ぶりは、天皇(裕仁)の亜流であり、その自己免責の理屈は、井上のいう「天皇裕仁自身の論理」の借り物である。
石原の理屈はこうだ。
「(私は)当時の最高責任者として、審議会なり専門家の特別委員会なり、あるいは議会は調査権を持っていろんな調査して、委員会でもきわどい採決で可決されたわけですけども。それを踏まえて、私は最高責任者として、とにかく豊洲移転に裁可願いたいということで、それを承諾して裁可しましたということで、私のハンコを預かっている課長さんが私のハンコを押してことが決まったわけです
これは、「天皇は立憲君主として、政府や大本営など、輔弼(天皇をたすける)機関が適法に決定して天皇の裁可を請うたことを、裁可しなければならなかった。したがって責任はすべて輔弼者にある」という、天皇免責論そのものではないか。

石原は「最高責任者として裁可したことに関しては責任があるが、私一人というよりも行政全体の責任だ」「総意として上がってきたものを認可した。議会も是とした。責任はみんなにある」とした。その文脈で、「つかさつかさで」という言葉を5度使い、あとは「知らない」「聞いていない」「分からない」と9度繰り返したそうだ。これは、まさしく「一億総懺悔」ではないか。

天皇は、戦争責任を「言葉のアヤ」という「文学方面」の問題と言った。戦没者遺族のすべてが戸惑ったろうが、死者のために心底怒った人は多くはなかった。石原の「最高責任者として裁可したことの責任」も、「言葉のアヤ」程度の自覚でしかない。都民や国民は、これを怒る資格があるか、考えてみる必要があるのではないだろうか。

驚くべきことに、石原がいう「最高責任者として裁可したことに関しての責任」には、民事的な損害賠償責任は含まれていないことだ。「専門家の意見も聞いた上で、議会でみんなで決めたことで私個人の裁可の責任を攻められるのは違うと思います。そんなことで損害賠償訴訟を起こされるなら、私は不当提訴しますよ」とまで述べている。(「私は不当提訴しますよ」は「違法な提訴として、逆に提訴者を訴えますよ」という意味であろう)

これが「国士」を気取って「憂国」を語り、「逃げているとか、隠れているとか言われることが一番嫌い」と言ってきた人物の責任感覚である。

いまさらにして思う。このような人物を知事にして持ち上げてきた都民の責任を。石原とは較べものにならない、超弩級の天皇の責任回避に目をつぶってきた国民の責任を。石原にだけ、「責任逃れ、恥さらしではないか」と言うことに、「何か、割り切れない」ものが残るのだ。
(2017年3月4日)

東京都民諸君。愚昧なる1000万人有権者諸君。

私が諸君の民主々議の教師、石原慎太郎だ。諸君は、よくぞ私を4回にもわたって都知事に選任した。この間なんと13年6か月。それには礼を言わねばならない。おかげで面白くやらせてもらった。しかし、敢えて言おう。そのことは諸君が愚昧であることの証明にほかならない。

最初の選挙での後出しジャンケン、あのときの私の第一声を憶えておいでか。「裕次郎の兄です」というあの出馬宣言。あれで当選した。
その後は、差別発言、豪華出張旅行、無駄遣い、身内の優遇、日の丸・君が代強制、新銀行東京…と、好き放題にやらせてもらった。なんてったって、都民が私を選び、都民が私のすることを黙認したのだ。責任は私にではなく、都民諸君にある。

何をやっても、やらなくても、石原軍団みたいなサポーターと愚昧な都民が、私を持ち上げ、押し上げ続けてくれた。文句を言わない、甘い有権者ばかりで、ホントによいところだよ。東京は。

私なんぞを知事にして、好きなことをやらせてくれた都民諸君。人が好いにもほどがあろうというもの。このごろようやく、その身の無知と蒙昧に臍を噛んでいるのかも知れない。しかし、そりゃ遅すぎるし、滑稽というものだ。

都民の生活はいざ知らず、都知事って商売は楽でいいぞ。確実に週休4日はとれる。給料も退職金もがっぽりだ。物見遊山も税金でできる。仕事は、「ヨキニハカラエ」と言っておればよい。成果は自分のものにし、責任は部下に押しつける。あとから「あれはあんたの責任」といわれたときには、「もともと専門的で難しいことが分かるわけはない」と言って逃げればよい。まあ、都知事は3日やったらやめられない。

「いったい、あんたは在任中に何をやったのか」と? 私は、精一杯日本国憲法に悪罵を投げつけてきた。それについては、かなりの成果をあげたと思うね。なにしろ、憲法こそが諸悪の根源だ。国家をないがしろにして、個人の人権を根源的な価値とするなんて莫迦なことをいうもんだ。国を守る軍隊はいらないとかね。だから、「命がけで憲法を破る」と言ってきたわけだ。障害者に人権があるのかと発言をしたし、ババアをおとしめ、三国人を危険とも言ったし、ジェンダフリーも禁句にした。そして、あとは尖閣問題に首を突っ込んだ。日の丸・君が代の強制は、私が実現した最たる成果だ。

私はつくづくと、都の官僚組織はよくできていると思う。上意下達というのは、ありゃあ嘘だ。上意は下達されないね。そんなことをすれば、「上」の責任問題が残るじゃないか。上意は飽くまで、「下」が忖度するんだな。だから、責任はいつも「下」にあって、「上」は安泰だ。私にとって、こんなに都合のよい居場所は他にない。

もしかしたら、これが、日本文化の精髄なのかも知れない。天皇制というのは、まさしくこんなもんだ。天皇無答責だろう。戦争始めたのは自分じゃないって突っぱねたじゃあないか。戦争責任なんて、言葉のアヤだって。私は、天皇ほど国民を不幸にはしていないが、天皇の責任回避ぶりには、見習わねばならない。

ところが、このところ知事無答責の雲行きが少々怪しい。今年の9月の末に私は84歳の誕生日を迎えはしたが、いかにも憂鬱なんだ。豊洲の地にさまざまな不祥事が発覚しそのとばっちりが前々々任者の私にまで及んできて、ただの推測を元にした私自身の名誉にかかわりかねぬような中傷記事が氾濫している。心痛で健康まで損なわれた始末。私だって、頭も心も痛くなるのだ。

私は、若々しさ、乱暴さ、独断などを売り物に世渡りをしてきた。が、どうもこれがうまくいきそうにない。無理をして、舛添のような目に遇いたくはない。そこで、突然だが、「おいたわしや作戦」に切り替えようと思う。どうせ、甘い都民が相手だ。

「おいたわしや作戦」にしたがって、豊洲問題での事情聴取は文書にしてくれと言ったところ、小池知事から質問状が届いた。その最後の質問はこんなものだ。
「(1)一連の問題について、石原氏は当時の知事としての道義的責任があるとお考えか。(2)もし責任があるとお考えの場合、どのように対処しようと考えておられるのか。」

この質問は小意地が悪い。責任を否定すれば、傲慢と舛添のように叩かれる虞がある。さりとて責任を認めると次には法的追及が待っている。「厚化粧」なんて悪口を言わなきゃよかった。

回答は慎重を要する。低姿勢を決めこみつつ、法的責任は認められないと突っぱねなければならない。戦後の天皇と同じだ。基本は、「知らない」「記憶にない」「十分に報告を受けていない」と、逃げの一手だ。弁護士とよく相談して、次のような回答を拵えた。期せずして、天皇の戦争責任回避のものの言い方と似たようなものになったが、これはいたしかたない。

そもそも、都知事が最終決裁を行うべき事案は膨大かつ多岐にわたるところ、本件のように専門的な知識・判断が必要とされる問題については、私自身に専門的知見はないことから、都知事在任中、私は、知事としての特段の見解や判断を求められたり大きな問題が生じている旨の報告を受けたりしない限り、基本的に担当職員が専門家等と協議した結果である判断結果を信頼・尊重して職務を行っておりました。本書のご回答において、度々、私自身は関与していないとか、担当者に任せていたとか、担当職員が専門家の意見を聞いたり専門業者と協議したりしながら実質的に決定していくもの等お答えしている趣旨は、このような意味合いです。加えて、13年半という在任期間中に私が都知事として決裁をした案件数は膨大であることもあり、ご質問の各事項については、本書のご回答以上の記億はございません。

これで一件落着とは思わないが、なんとかこれで凌げるのではないか。ここで、せめて私のできることは、反面教師になって、愚昧な都民にもう少し賢くおなりなさい、ということだ。権力者への批判を忘れ、人の好いばかりの無知な有権者は、結局のところ、私のような知事を生み、私のような知事を育てる。だから、民主々義に不可欠なものは、権力に対する甘い好意の支持ではなく、辛辣な批判の姿勢なのだ。まあ、私が言うのもおかしなものだが…。
(2016年10月26日)

「競技連盟ファースト」も「アスリートファースト」もあり得ない。あるのは、「納税者ファースト」だけだ。

国際ボート連盟の会長が、ロランというフランス人だという。国際ボート連盟なる組織がいかなるものか、その会長がいかなる人物かはまったく知らなかったし、本来なんの関心もない。それが、突然に東京までやって来て出過ぎた発言で物議を醸している。

この人、フルネームがジャンクリストフ・ロランだそうだ。えっ? 本当か。ロマン・ロランのジャンクリストフといえば、我々の世代には「青春のバイブル」だった。この名前の印象は良過ぎ、それに比してこの人物の言動の印象が悪過ぎ。相対的に、小池側を応援したくなるのが少しシャクなほど。

2020年東京五輪の競技施設建設予算がべらぼうな額となり、遅きに失したとは言え、小池都知事が見直しに着手した。そのなかに、ボート競技会場となる「海の森水上競技場」の建設中止がある。昨日(10月3日)ロランは、これにクレームをつけたのだ。彼が言わんとしたは「東京から遠い宮城県なんかに移されてはがっかりだ。東京に連盟とアスリートの気に入るような最高の施設を作れよ。カネのことはオレは知らん。あんたの方でなんとかしろ」ということだ。ロマン・ロランも驚くだろう。ジャンクリストフなら絶対に言わないセリフ。知性なき乱暴者ロランだからこそ、こんなことを口にできるのだ。

学生時代にボートをやったという人は少なくない。あのロランと同類に見られるかと、さぞ肩身が狭いことだろう。それだけではない。アスリート全体に肩身の狭い思いをしてもらわねばならない。アスリートが何様だ。そう言葉を発するのに、ちょうどよいきっかけではないか。これから、遠慮なくものを言おうではないか。

報じられているところでは、ロランの言葉は、次のとおりである。
「我々は14年から日本全国の候補を調査、検討し、その中で色んな要素を考慮した。知事が懸念しているコストや、アスリートファースト、レガシーも。(海の森は)IOC、都、組織委員会という全てのステークスホルダーと分析して出した結論」。

「色んな要素」とは、コスト、アスリートファースト、レガシーの3点。
「すべてのステークスホルダー」とは、IOC、都、組織委員会の3組織。
おそらくは、これがアスリート団体のトップ層の粗雑で思い上がった頭の中なのだ。こんな連中をのさばらせてはならない。

彼らの頭からは納税者がすっぽりと抜けている。ステークスホルダーとして納税者を意識していないし、施設のコストやレガシーを決めるのは納税者だという当たり前のことを理解していない。あたかも、IOCや競技連盟や組織委員会がなんでも決めることができると思い込んでいる如くではないか。まるで駄々っ子だ。

都民も国民も、ロランが語る思い上がった「アスリートファースト」に怒らねばならない。フトコロに手を突っ込んで「アスリートの気に入るようにもっとカネを出せ」と言われているのだから。

アスリートがなんぼのものか。アスリートとはいったい何様なのだ。納税者を差し置いて、IOCファーストや競技連盟ファーストや組織委員会ファーストはありえない。そして、「アスリートファースト」を美しい響きの言葉にしてはならない。うさんくささを嗅ぎ取らねばならない。理の当然としての「納税者ファースト」の姿勢を貫かねばならない。

プロ野球と比較してみよう。ここではお客様ファーストとならざるを得ない。球場に足を運ぶか、テレビ観戦をする観客に支えられて球界が存立している。しかし、実はプロ野球でなら、機構ファーストでも、選手ファーストでもいっこうに差し支えない。公費が投入されていないからだ。それでも、お客様ファーストでなくては興業として成り立たない。

五輪は、今や薄汚い商業主義の象徴と化している。にもかかわらず、多額の公費が投入されている不条理がある。それはさておき、公費が投入されている以上は、納税者ファースト以外にはあり得ない。それが、民主々義国家の常道である。

無頼のロランに対峙した小池は、経費削減の観点を強調し、「宮城県の知事も(開催に前向きな)意思を示している。もともと復興オリンピックを標榜していた」と述べ、東日本大震災の被災県で開催を検討する意義に理解を求めた、という。その姿勢を後退させてはならない。

ところで、「オリンピック・アジェンダ2020-20+20の提言」というものを2014 年11月のIOC総会が採択している。ここに見られるのは、オリンピックが持続できるかという危機感である。オリンピックの招致合戦や設備の建設に無駄なカネがかかりすぎることや、時に垣間見える汚い裏舞台への批判に耐えられなくなることへの対応策が必要になっているのだ。ローマの五輪招致辞退が、このことを象徴している。

IOCの傲りが納税者ファーストをおろそかにしてきた。そのことのツケが、オリンピック持続可能性のための具体的提言となっている。ロランの言は、明らかにこれに反している。ロラン一人の思惑か、ウワサされるような結託者がいるのかは分からない。少なくとも、ロランの言はIOCのタテマエに照らしてさえ、なんの説得力もない。せっかくのロランの言。これを「オリンピックは納税者ファーストで」の世論に切り替えるきっかけにしようではないか。
(2016年10月4日)

無責任の伝統に反省をー最高責任者とは責任を引き受けるために存在する

9月28日、小池百合子新都知事が就任後初めての都議会本会議で所信を表明した。その演説は、都民の関心に応えて移転予定の豊洲市場の盛り土問題から始まった。盛り土されているはずの主要各棟の地下に、巨大空間が拡がっていることが明らかになっていることの責任問題である。

豊洲市場の移転に関する一連の流れにおいては、都政は都民の信頼を失ったと言わざるを得ません。「聞いていなかった」「知らなかった」と歴代の当事者たちがテレビカメラに答える姿に、多くの都民は嘆息をもらしたことでありましょう。

そう知事は、話を切り出している。「聞いていなかった」「知らなかった」と都民を嘆息させている「歴代の当事者」の筆頭は、「伏魔殿の主」石原慎太郎である。

この失った信頼を回復するためには、想像を超える時間と努力が必要であります。責任の所在を明らかにする。誰が、いつ、どこで、何を決めたのか。何を隠したのか。原因を探求する義務が、私たちにはあります。

そのとおりだ。きちんと責任を明確にせよ。多くの都民が、「歴代の当事者たち」に対する新知事の厳格な責任追及姿勢に期待している。新しい知事は手が汚れていない。その手がきれいなうちなら、伏魔殿の闇に光を当てて大掃除をしてくれるだろう、という期待である。きっと、雑魚だけではなく伏魔殿のヌシをあぶり出し、網にかけてくれるだろう、という期待である。

なお、都民の関心のひとつは、食の安全安心を実現すべきことであり、もう一つは現実に生じ始めている都の財政上の負担増に対する填補である。都の財政に穴を開けた者には、しっかりと穴埋めを求めなければならない。具体的には、このバカバカしい事態を招いた責任者の特定と、その責任者に対する都からの損害賠償の請求である。頭を下げたら済むという問題ではない。

ところが、9月30日の小池都知事の調査結果の発表は、いまいち迫力に欠ける。どこまでやる気があるの? と首を傾げざるを得ない。

「いつ、誰が、盛り土をしないことを決めたのか」――東京都が行った「自己検証」は結局、最後まで犯人を特定できなかった(日刊ゲンダイの表現)。知事は、「地下空間を設けることと、盛り土をしないことについて、段階的に固まっていったと考えられる。いつ、誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で進んでいった」と言うのだ。

また、知事は、都議会・都民への説明責任が果たされてこなかった原因として「ガバナンスの欠如」「意思決定プロセスの不備」「連携不足」などを上げた、とも報じられている。

仮にそのとおりなら、これはすべからく都政の最高責任者である都知事の責任である。当時の知事石原慎太郎が、法的責任をとらねばならない。都に対する損害賠償の責めを負わねばならないのだ。

もちろん、人は、不可能であったことについては責任を問われない。考えにくいが、当時都知事として要求される十分な能力と注意力を発揮しても、この結果を回避できなかったという特別の事情があれば、石原の責任は阻却される。そのような事情がもしかしてあるとすれば、石原は公開の場で弁明し立証しなければなない。その弁明に成功しない限り、これから市場の移転が遅延することによって都が負担せざるを得ない公金の支出分を、個人として負担しなければならない。仮に豊洲移転が白紙撤回ともなれば、ムダになった公金支出分のすべてを賠償しなければなない。

再度日「刊ゲンダイ」から引用する。
「都庁役人は、このまま〈真相〉を闇に葬るつもりだ。どんなに「内部調査」を続けても真相は永遠に分からない。当時、知事だった石原慎太郎氏も逃げ切るつもりだ。もはや、真相を解明するには、都議会に関係者を「参考人」として招致し、さらに「百条委員会」を設置するしかないのではないか。」「すでに都議会共産党は、慎太郎氏など12人の参考人招致を要求しているが、都庁役人と都議会自民党は、絶対に参考人招致を阻止するつもりだ。」「都庁役人と都議会自民党が参考人招致を嫌がっているのは、盛り土だけでなく、豊洲市場の“談合”や“巨額利権”に飛び火する恐れがあるからです。ケガ人が続出しかねない。しかも、慎太郎氏は参考人として呼ばれたら、何を言い出すか分からない。何が何でも阻止するつもりです」(都政関係者)

この「都政関係者」が誰かは知らないが、いかにもありそうで頷ける話。私は、現知事を支持する立場にはないが、ここで徹底追及の姿勢を貫いていただきたい。手綱を緩めたら都民の批判が現知事に向かう世論の沸騰が予想される。

過ぐる大戦の戦争責任を考えねばならない。「誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で戦争は進んでいった」のだ。そして、310万の自国の民と、2000万人という近隣被侵略諸国の民の犠牲を出した。自らの責任の自覚について問われた戦争の最高責任者は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と言ってのけた。一億総無責任体制だった。

無責任な戦争責任体制は、戦後の原発開発に受け継がれた。無責任体制の中で、トイレのないマンションが54基も建設されたのだ。いまもって、「ピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で原発建設は進んでいった」のだ。責任の所在明確でないままに。

豊洲の問題は、戦争準備や原発建設の伝統であるこの国の無責任体質をあらためて浮かびあがらせた。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」という言葉は、今再び慎太郎の口から「私は建築のイロハを知らないので、(地下の工法を)思いつくはずがない。素人だから他人任せにしてきた」と発せられているではないか。

知事とは、最高責任者である。一軍の将なのだ。兵の責任を語るのは見苦しい。将として敗戦の責任をとらねばならない。今の時代だ。腹を切る必要はない。無責任体制の実態を明らかにして、あとは金で済む問題。それも、今有している財産の範囲でのこと。そのときこの知事が大嫌いだった日本国憲法が身を守ってくれる。けっして、生存権を否定するような財産の剥奪はしないのだ。
(2016年10月3日)

慎太郎儀謹んで一筆したため申し上げます。ー「取材も責任追及もまっぴらごめんだ。部下の責任を私になすりつけるようなことをするんじゃないぞ」

 この度は、私の東京都知事在任中の件で、皆様に多大な混乱やご懸念を生じさせるなどしておりまして、まことに申し訳なく思っております。

 普段は、上から目線の傍若無人でえっらそうにむやみに威張る人と評判をとるこの私が、このくらい下手に出ているのでございます。そのくらいに窮地にあるものとご推察いただき、武士の情けをおかけくださるよう切にお願い申しあげます。

 このところ、豊洲への市場移転に関して、多くの報道機関の皆様から取材の依頼を受けておるのみならず、無遠慮に私の責任を追及するやの言論が跋扈しておりますので、私としては面倒極まりなく、また責任追及に防衛の手段を講じなければならないものと痛感しておるところで、心境の一端を以下のとおり明らかにさせていただくという形で、取材拒否と私の責任追及への予防措置を明確にしておきたいと存じます。

 今般の件は十数年というかなりの時間が経過している上、当時私は都政とは無関係な尖閣問題や、うまく責任を逃れた新銀行東京などの私にとっての重大案件を抱えていたことや、週に1、2度しか登庁しないという大きな制約の事情もあり、加えて間もなく84歳になる年齢の影響もあって、長編の書物を執筆したり、集会で「厚化粧」発言などはできても、私にとっては大して重大とも思えない市場移転問題については記憶が薄れたり、勘違いをしたりすることも大いに考えられます。今後、報道機関の皆様の個別のお問い合わせにその都度お答えすることは、面倒この上ないばかりか、うっかり不利益な真実を語ったりしかねないおそれもあることから、一切控えさせていただくこととしました。

 取材は控えさせていただきますが、ただ、私から一言弁解を申し上げます。この弁解に関する反論の取材はもちろんお断りです。今般の件については、当時、卸売市場、建築、交通、土壌汚染、予算等のさまざまな観点で、私の意を体した専門家や関係者だけの意見を聞きながら、側近中の側近であった副知事以下、子飼いの幹部職員や、私の威令には逆らうことのできない実務に長けた関係部署の多くの職員たちを半ば恫喝し半ばは宥めながら事業の計画を進めていたもので、この事業はとても私個人の素人判断のみでは、真っ当な形式を整えることができなかった専門的かつ複雑な問題でありました。

 それだけに、経過の詳細を思い出してご説明することなれば、うっかり隠れていた真実が明るみに出かねない難しさがつきまといますが、幹部職員や担当職員からも事情を聞いていただければ、自ずから私が因果を含めていたような証言となるはずで、私の責任はないよう周到に用意されていたとおり明らかになるものと思っております。

 もちろん、私に昔ほどの権力も権威もなく、虚仮威しが通じない気配もありますので、私自身に責任が及ぶもけねんされますので、そのような事態となれば遠慮なく発言する権利は留保いたします。その上で、もとより私自身も今後、私自身に法的な責任が及ばない限りにおいて、事実関係の検証を行う場合に形だけは全面的に協力するつもりでおります。

 ところで、一部の報道においては、私が土壌汚染による危険を無視ないし軽視して予算と完成時期だけにこだわり強引に今回問題になっている構造にさせたといった指摘がなされているようですが、これは一面正確なご指摘ですが、実は表面だけを見てのこと。是非この程度でおさめていただき、私が、何が何でも極度に毒性強い土壌の豊洲に、何ゆえ食の安全を無視してまでも強引に市場を移転する決断をしたか、この大きな謎に切り込むような取材や報道があってはならないものと警告しておきたいと存じます。

私が、法的責任を追及される筋合いは断じてありません。そもそも、知事というものは、週に1度か2度か登庁して、部下が調えた書類にメクラ判を押す気楽な商売ではありませんか。年俸2000万円ぽっちはメクラ判代でしょう。それを、私一人がやったわけでもなく、多数の専門家や担当部署職員が関与し、また議会も審議する案件で、一々責任を追及されては割が合わないじゃないですか。

 ともあれ、私の都知事在任中の件に端を発してこのような事態になっていることについては責任を痛感いたしておりますが、この責任は、あくまでも言葉だけのもの倫理上道義上のもので、私に法的責任があるなどということは絶対にありえません。そんなものは、いつものとおり部下が責任をとればよい。私は、一切知らぬ存ぜぬなのであります。以上のとおり、謹んで宣告申し上げます。
(2016年9月22日)

驕れる慎太郎は久しからずー無間の底に落ちたまふべし

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる慎太郎も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ、ひとへに風の前の豊洲の塵に同じ。

近く歴代都知事をとぶらへば、先代舛添要一、先々代猪瀬直樹、これらは皆、心ある人びとの諫めをも思ひ入れず、都政の乱れんことを悟らず、民間の愁ふるところを知らずして、あるいは都下の病院経営者から5000万円もの現金の提供を受け、あるいは私事に公費の混同目に余りしかば、久しからずして、都民に見捨てられて亡じにし者どもなり。しかれども、奢れる慎太郎にくらぶればその罪さしたることなしというべきならん。

舛添、猪瀬の両名に先だつて、13年もの長きにわたって都庁を伏魔殿とし、その魔物巣窟の主として君臨せし石原慎太郎と申しし人の、おごれる心たけきことのありさま、伝え承るこそ、心も言葉も及ばれね。

この慎太郎、人を人とも思わぬ傍若無人の振る舞いで知られてければ、部下にも記者にも、敬して遠ざけられておりしは、軽い御輿のありさまとぞ覚えけり。またこの人、常に手柄は我が物として記者会見では得意満面となりつれど、不祥事の責任はすべて部下になすりつける卑劣漢として音に聞こえけり。

しかれども、この慎太郎の強面、強引、恫喝の数々を、いかんせん愚昧なる都民が許せしかば、ますます増長して、都政と都民の重ね重ねの不幸のみなもととなりにけり。

しかるに、今ようやく天網恢々疎にして漏らさず、応報因果は我が身にめぐるのたとへのとおり、ここに慎太郎の命運も尽きんとするこそ、あはれなれ。

慎太郎こそ、当時の知事として、豊洲新市場移転問題のすべての責めを負うべきが、その土壌汚染対策瑕疵の責めを問われるや、まずは「僕はだまされたんですね。結局、してない仕事をしたことにして予算を出したわけですから。その金、どこ行ったんですかね?」と、平然当時の部下に責任を押しつけにけり。卑怯未練の本領発揮というべきなるらん。

しかるに、かつての都知事時代の定例記者会見の記録で、新事実が浮上せり。
豊洲の土壌汚染対策について、慎太郎は得意げにかく語ってあり。「担当の局長にも言ったんですがね。もっと違う発想でものを考えたらどうだと。どこかに土を全部持っていって(略)、3メートル、2メートル、1メートルとか、そういうコンクリートの箱を埋め込むことで、その上に市場としてのインフラを支える。その方がずっと安くて早く終わるんじゃないか」「(盛り土案より)もっと費用のかからない、しかし効果の高い技術を模索したい」「担当の局長に言ったんですがね。もっと違う発想でものを考えたらどうだと」。

こうして慎太郎。「私はだまされた」の被害者面をしてみせたものの、なんじょう被害者などであるべきか。一転、盛り土案潰しの『真犯人』に擬せらるに至れり。

さすれば慎太郎は一計案じて前言翻して、「シタ(=部下)から箱をつくると上げてきたので、それを会見で報告しただけ」「私は建築のイロハを知らないので、そんな工法思いつくはずがない。素人だから他人任せにしてきた」と居丈高に開き直り、最後は「東京都は伏魔殿だ」と捨てぜりふ。この伏魔殿の主の言に、聞く人一同笑いさざめけるは、既に慎太郎がかつての勢いなきしるしなり。

かつて勢い盛んなるときなれば、誰もが慎太郎の暴言には目をつぶれり。しかれど、今は昔の彼ならず、シタ(=部下)も黙ってはおられない。黙っていれば悪役ともならんずらん。

比留間英人なる人は、当時の都中央卸売市場長なりけるとぞ。メディアに向かって申し開きをこころみにけり。「『こんな案があるから検討してみてくれ』と知事から指示を受けました」と。慎太郎こそはウソをのたまひけれ。「下から上への地下室案」ではなく、「上から下への提案」とのことなりき。

ウソ付きは閻魔の劫火に焼けてあれ。慎太郎の夢に見給ひけるこそおそろしけれ。田園調布の某所に、猛火おびたたしく燃えたる車を、門のうちへやり入れたりて、牛の面のようなる者、馬の面のようなる者の言うよう。「閻魔より、慎太郎殿の御迎へに参りて候」と申す。「さて、なんの迎えぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提、都民の善男善女をたぶらかし、都政を混乱させ給へる罪によって、無間の底に落ち給ふべきよし、閻魔の庁に御さだめ候ふなり」とぞ申しける。夢さめてのち、これを人に語り給へば、聞く者、身の毛もよだちけり。
(2016年9月16日)

都知事選の敗北から何を教訓として酌み取るべきか。

都知事選が終わった。開票結果は事前に各メディアが報じた情勢のとおりとなって、当確がはやばやと出た。野党統一候補は敗れて、新都知事には品のよくない右翼が就任する。最悪だ。石原慎太郎の時代に逆戻りではないか。チクチクと胸が痛む。

それにしても、4野党の候補統一ができたとき、これは勝てる選挙になると小躍りした。与党側が分裂という情報が伝わって、これこそ千載一遇のチャンスと思った。しかし、取りこぼしたのだ。千載一遇のチャンスを逃したのだ。敗因はどこにあるのか、徹底した検討が必要だろう。

一議席を争う与党と野党の一騎打ちは、憲法改正の国民投票に擬せられてよい。改正発議をするか否か、するとしていつのタイミングを狙うか、その選択の権利を今壊憲与党の側が握っている。勝算ありと考えれば、発議の実行はあり得るのだ。

そのような目で、都知事選における都民の選択を見つめると、極めて危うい。憲法問題について世論が明日はどう転ぶか、私には読めない。不安を感じざるをえない。

有権者は必ずしも理性的ではない。情報に操作され、たぶらかされるのだ。強いメッセージに踊らされ、つくられたイメージに流される。選挙結果はけっして冷静な選択ではない。民主主義とはそのよう危うさをもったものだ。戦前の歴史を思う。明治以来日本にも連綿と非戦論・平和主義はあった。しかし、開戦や事変のたびに、あっという間に崩れて主戦論・ナショナリズムが天下を席巻した。

国民が挙げて主戦論の熱気の中にあるとき、これに負けずに非戦論を貫いた人びとに心からの敬意を表する。北朝鮮がどういう行動をとろうとも、中国とのトラブルがどのように喧伝されようとも、そのようなときであればこその覚悟で9条を守り抜かなければならない、あらためての決意が必要なのだ。

4野党の統一ができたのは大きな成果だ。この共闘関係を継続して、信頼関係を深めていくことが、今後の最大の課題だ。この点に揺らぎがあってはならない。これ以外に野党勢力を伸ばす方策もなく、改憲阻止の展望も開けてこない。

しかし、期待されたほどの共闘効果は出なかった。各野党それぞれの支持勢力全体を統一候補者の支援のために総結集できたかははなはだ心もとない。そのような努力と工夫は十分になされたのだろうか。連合東京という組織には、脱原発のスローガンはタブーなのだろうか。これから先、ずっとそうなのだろうか。この点には、どう対応すべきなのだろうか。

今回4野党統一候補の支援をしなかっただけでなく、結果的には足をひっぱる側に回った宇都宮グループ。これに対する正確な事実を踏まえての徹底批判も必要であろう。

憲法改正発議があった場合の、発議側の世論操作への対抗策と、改正阻止側の統一した共同行動をどう組むかという視点からの総括が必要だと思う。負けた選挙、せめて教訓を酌み取りたい。
(2016年7月31日)

明日は、ミニ国民投票だ。平和と憲法を守り原発廃炉の一票を鳥越俊太郎候補に。

明日(7月31日)が都知事選の投票日。鳥越候補の「最後の訴え」は、新宿南口だった。甲州街道をはさむ広場を埋めつくす大群衆の熱気の中で、護憲や野党共闘を支持する運動の広がりと確かさを実感する。とはいえ、午後8時を過ぎて、拡声器を使った選挙運動が終わって、群衆が散ると普段と変わらぬ東京の土曜日の夜。あの大群衆を呑み込んで喉にも触らぬ東京の大きさ。あの群衆も実は一握りの人びとでしかないことを思い知らされる。さて、明日はどのような結果が出ることだろうか。

「最後の訴え」の応援弁士は、福島みずほ、小池晃、山口二郎、澤地久枝、そして岡田克也。いずれも力のこもった聞かせる演説。そして、鳥越俊太郎が渾身の語りかけ。三つのゼロ「待機児童ゼロ、待機高齢者ゼロ、そして原発ゼロ」の政策を高らかに宣言した。そして、一度終わった演説を、鳴り止まぬ鳥越コールの中で、「あと1分ある」として、短い話を最後にこう締めくくったのが、印象に残った。
「野党が共闘して参院選を闘い抜き、都知事選にまでつなげた。これを大切にしようじゃありませんか」
まったく、そのとおりだと思う。

明日の都知事選。1000万有権者による、たったひとつのポストをめぐる争い。これは、形を変えた首都の擬似国民投票ではないだろうか。

都民の声に耳を傾けて都政をおこなう、予算執行の透明性を高める、保育と介護を充実する、オリンピック予算を適正化する、くらいのことはどの候補も政策として掲げる。こんなことには、政策の独自性は出て来ない。鋭く対決するのは、「平和・憲法・原発」の3課題。実は、護憲の野党共闘と、自公改憲勢力の対決の様相なのだ。

核兵器も原発もない「非核都市東京」を目指すという鳥越と、「核武装の選択肢は十分にあり得る」という小池百合子のコントラスト。これは、決定的な対決課題なのだ。

昨日(7月29日)夕、フジテレビの「みんなのニュース」での討論会で、鳥越が小池氏を批判したという。
「小池さんは、かなり前の雑誌で、『軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分にあり得る』という風に言っておられますが、私は知事になったら早速すぐにやりたいのは『非核都市宣言』をやりたい。核武装論者である小池さんに『非核都市宣言』というのは果たしてできるのか」

小池は、「私が『核武装論者』と言い切られましたけれども、これこそ捏造」と反論。「でも実際に本に書いてある」(鳥越氏)と言われると、「いや、言ってませーん!日本語を読めるのであれば、よく読んでいただきたいと思います」と発言したという。

このテーマは、以前にも取り上げたが、憲法や安全保障に関わる基本政策の際だった差異を物語る象徴的な問題。しかも、小池が「いや、言ってませーん!日本語を読めるのであれば、よく読んでいただきたい」というのだから、みんなで読んでみよう。テキストは、小池の公式ウェブサイトに掲載されている、保守論壇誌『Voice』(PHP研究所)2003年3月号所収の田久保忠衛、西岡力との極右トリオ鼎談記事。タイトルは「日本有事 三つのシナリオ」。そして、当該個所の小見出しが、「東京に米国の核ミサイルを」という物騒なもの。日本語を読める人なら下記のURLで、鳥越の指摘と小池の否定の真偽を、直ちに確認することができる。

https://www.yuriko.or.jp/bn/column-bn/column2003/column030320.shtml

小池の発言は以下のとおりだが、ここだけでなく全体を読んでいただくと小池の政治姿勢や体質がよく分かる。右翼どっぷりであり、どっぷり右翼なのだ。

小池 軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうるのですが、それを明言した国会議員は、西村真吾氏だけです。わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで、安部晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった。このあたりで、現実的議論ができるような国会にしないといけません。今の国会は時間とのせめぎ合いがほとんどで、労働組合の春闘と同じです(笑)。それももうないのに。

小池百合子の平和や憲法ないがしろにする姿勢に恐ろしさを感じざるを得ない。明日は、ミニ国民投票だ。平和・憲法を大切に思い、原発は不要とする立場の都民は、ぜひともこぞって、鳥越俊太郎候補への投票を。間違っても、小池百合子にだけは投票してはならない。
(2016年7月30日)

澤藤統一郎の憲法日記 © 2016. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.