澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

石破茂の天皇教信仰告白

自民党総裁選とは、政権与党のトップ人事というだけでなく、事実上の次期首相予備選挙である。コップの中の争いとして無関心でいることはできない。そこで何が争われているのか、とりわけ憲法問題がどのように論じられているのかに、耳を傾けざるを得ない。

三選を目指すアベに対抗して、石破茂が立候補を表明し、両候補の一騎打ちとなるだろうとの報道である。願わくは、両候補に、自民党支持者だけにではなく、国民にとって傾聴に対する論戦を期待したいところだが、無いものねだりだろうか。

論戦の内容は、【政治姿勢】(ないしは政治手法)と【政策】の両面において行われることになる。この事態である。国民から「嘘つき」「人柄が信頼できない」「国政私物化」「行政を歪めた」「隠蔽・改ざん体質」「忖度政治横行」…デンデンと、ミゾユウの政治不信を肥大化させてきたアベ政治の政治姿勢が問われざるを得ない。

だから、石破第一声のキャッチフレーズが、「正直、公正、石破茂」である。「国民と正面から向き合い、公正で正直、そして丁寧な、信頼される政治が必要なのだと信じます」ともいう。もちろん、「嘘つき、隠蔽、アベ政治」を意識しての批判である。「アベ政治は、国民と正面から向き合おうとはせず、オトモダチ優遇の国政私物化に堕しており、不公正で欺瞞と隠蔽に満ち、ごまかしと取り繕いによって、いまや国民からの信頼を失っている」との含意にほかならない。まことにそのとおりではないか。

政策での対決よりは、アベ一強の驕慢、国政私物化の政治姿勢批判が前面に出ている。自民党という不可思議な柔軟体は、これまで国民の信頼を失いそうになると、その批判勢力がトップの座を襲って国民からの信頼を繋いできた。

自民党が再生して永らえるためには、おそらくは石破の当選が望ましいのだろう。それが自民党の自浄能力を示すことになろうが、大方の予想はそれは非現実的だという。つまりは、自民党に自浄能力などないことを証明する総裁選となるということなのだ。

ところで、石破茂とは何者か。憲法にしても、国防問題にしても、タカ派のイメージが強すぎるが、さらに遡って彼の政治家としての感性の基盤はどこにあるのだろうか。「石破茂オフィシャルサイト」にアクセスして驚いた。天皇陛下の ご生前ご譲位についてと題する石破の天皇観・皇室観がよく表れている文章。戦前の保守政治家と変わるところはない。この点は、アベと石破、右の位置を競い合って、兄たりがたく弟たりがたし。丙・丁つけがたい。かなり長い文章だが、彼の感性を表す冒頭だけを抜粋引用しておきたい。

平成29年1月31日 衆議院議員 石破 茂

亡父・石破二朗は生前、先帝陛下のこどを「石破二朗個人として誇り得るこれだけの方はいない」と語っていた。昭和11年10月17日、北海道において実施された大演習に山形県地方警視として消防団を引率して参加した際、霙降る中、長時間微動だにされず演習をご覧になっておられた先帝陛下のお姿に深い感銘を受けてからのことという。
 私自身亡父から「天皇陛下を敬え」と言われたことは一度もなかったが、幼少の頃から「旗日(国民の祝日)に朝一番に玄関に国旗を掲げるのは子供の仕事」と躾けられ、自然に天皇陛下ならびに皇室に崇敬の念を抱くようになっていたように思う。
 昭和61年7月に衆議院に議席を頂いてからその気持ちはさらに強くなった。昭和天皇崩御を告げる竹下総理の勤話を、地元での新年会出席のため夜行列車を降り立った倉吉駅のホームに流れる構内放送で聞き、東京へ取って返す列車の中で号外を読みながら涙が止まらなかった。

 平成21年6月、全国植樹祭にご臨席のため福井県を訪問された陛下は、前夜のレセプションにもお出ましになった。植樹に功労のあった福井県の林業関係者やボーイスカウトなど諸団体の人々が陛下にご挨拶すべく、御前に長い列を作ったのだが、陛下はそのー人一人に、丁寧にお言葉をおかけになっておられた。農林水産大臣として陪席していた私は侍従を通じて、どうかお椅子をお使いくださるよう申し上げたのだが、陛下は微笑されたまま、最後の一人まで、予定の刻限を超えてもお心を込めてご対応になられた。私は自分の浅はかさを心から恥じたことであった。

 「日本国の象徴」であるだけなら富士山や桜の花のように存在そのものに意義もあろう。しかし今上陛下は「日本国民統合の象徴」たりうるために、積極的・能動的に、地域、年齢、思想信条などあらゆる相違を問われることなく、すべての日本国民に等しく対応され、そしてすべての国に等しく対応されるという、普通の者には決して為しえない、想像を絶する責務を自らに課され、おことば(正式名は「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」)の中でそれを「幸せなことでした」とまで仰せになられた。ひたすら恐懼し、自らの思いが足りなかったことをただ悔いる他はない。

 この(生前退位)問題は、先人たちが生命に代えても護ろうどしてきた日本国の国体そのものに関わることであるいつの間にか国民は、天皇陛下のご存在を当たり前のものとして考えるようになってしまったのではあるまいか。平和がそうであるように、大切なもの、貴重なものは不断の努力なくして維持できるものではない。その大切さを忘れ、護る努力を怠った時、消えてなくなってしまうものであることと、残された時間は長くはないことに我々は深い怖れと強い危機感を持たねばならない。

これには驚ろかざるを得ない。人類が普遍的なものと確認したグローバルな到達点とあまりにもかけ離れた認識。「日本国の国体そのもの」が平和と同格の大切なもの貴重なものというのだ。およそ、理性や知性ある人間の言葉ではない。主権者としての自覚をもつ国民の声でもない。天皇制が、いかなる意図で作られ、いかなる役割を果たし、いまその残滓がどのような政治的機能を有しているかについての歴史的な考察を抜きにした、ひたすらの天皇礼賛。偏頗とか平衡感覚を欠いたなどというレベルではない。憲法のコアの理念に理解なく、大日本帝国憲法時代と変わらない天皇教の信仰にどっぷり浸かった精神構造を吐露している。オウム信徒並みの、教祖への信仰告白と評するほかはない。

欺瞞に満ちたアベ政治の対抗馬が、天皇教の信者なのだ。推して知るべし、自民党に未来はなかろう。
(2018年8月12日)

法曹界にはびこる『憲法教』? 稲田朋美炎上ツイートの怪説

月が変わった。戦争と平和をめぐるいくつもの出来事の記憶を喚起すべき8月である。日本国憲法制定の出発点は1945年8月にあった。憲法の平和主義・国民主権・人権尊重を当時に立ち返って確認し、その理念が今にどう生きているかを検証すべき8月。

その8月の入りが異様に暑い。ぶり返しの猛暑は体にこたえる。朝からの暑さを不快と思いつつ赤旗をひろげたら、その2面に不愉快な人物の不愉快な言動についての記事。

稲田朋美の憲法誹謗である。見出しは、「『憲法教という新興宗教』 稲田氏がツイッターで暴言」というもの。皆すなるツイッターもて、落ち目の稲田朋美も復権をはからんとするか。

問題のツイッターは7月29日の夕刻にアップされた下記のもの。
「日本会議中野支部で『安倍総理を勝手に応援する草の根の会』が開催され、私も応援弁士として参加しました。支部長は大先輩の内野経一郎弁護士。法曹界にありながら憲法教という新興宗教に毒されず安倍総理を応援してくださっていることに感謝!」

これが炎上して、30日の昼過ぎに削除されたという。赤旗には、「(すでに削除ずみ)」の投稿写真と「稲田朋美元防衛相のツイート」が掲載されている。ツイートの内容もみっともないが、批判されての翌日の削除は、みっともなさの極み。こんなのが、アベ政権の防衛大臣だったのだ。こんなのを当選させていたのでは、誇り高き越前福井の恥だろう。

赤旗は、「自民党の稲田朋美元防衛相(衆院議員)がツイッターに憲法を敵視した暴言を投稿(7月29日)したことに対し、世論の批判が高まっています。同氏は30日までに投稿を削除しました。」と経過を説明した上で、「国の最高法規である憲法を擁護する立場を『憲法教』『新興宗教』などと攻撃し、安倍首相応援と憲法擁護が対立することを自白した形です」「稲田氏の投稿は、国会議員の憲法擁護義務に明確に反します。投稿を削除したからといって責任は免れません」と手厳しい。

さて、このツイートの憲法に関わる内容が興味深い。「法曹界にありながら憲法教という新興宗教に毒されず安倍総理を応援してくださっていることに感謝!」というだけの短いものだ。稲田は、自分では気の利いた内輪受けの文章を書いたつもりだったのかも知れない。が、こんなときにこそ普段は隠している本性が表れる。憲法に対する無知・無理解、不真面目で揶揄的で真摯に憲法と向き合おうという姿勢を欠くという本性である。実はそのことは、憲法の理念尊重の姿勢に欠けるということ。端的に言えば、稲田は、人権も民主主義も平和もキライなのだ。

「法曹界にありながら憲法教…に毒されず」とは、恐れ入った表現。法曹界とは、実務法律家である裁判官・検事・弁護士の三者をいう。稲田は法曹三者からなる法曹界が「憲法教…に毒されて」いるというのだ。ここには、憲法と宗教の双方に対する侮蔑のニュアンスが込められている。「憲法教」とは、憲法を人類の理性が尊重すべきものとして確認した理念の体系であることの否定にほかならない。あたかも教典のごとく、教祖の祖述をひたすら信仰の対象とする非理性的な観念の体系として拝跪しているという揶揄である。

しかし、法曹界が憲法を尊重し厳格に憲法に従ってその職責を果たすべきことはあまりに当然なのだが、稲田にとっては揶揄すべきことなのだ。稲田は、憲法を知らないだけでなく、法の支配という大原則を理解していない。信仰は個人それぞれに信ずる内容が異なるが、憲法は普遍性を有し誰もが受容せざるを得ないもの、という基本認識に欠けている。

アベ政権は、こんな人物を内閣の一員としたことの政治責任を自覚しなければならない。文民統制の要の立場にあるのが防衛大臣。こんなのがその地位にあったのだ。自衛隊制服組の暴走を心配せざるをえないではないか。

稲田は、問題ツイートの3日前の7月26日夜、「深層ニュース」(BS日テレ)なる番組に出演してこう語っていたそうだ。
「ツイッターで私のイメージというか、本当に右で、歴史問題では修正主義者っていう向きも多いが、いろんな面を発信することができればいいなあと思いまして…。まだまだ未熟なので、手探りで…。まだ1個しかやってないんですけれども…炎上しないように頑張っていきたいと思います!」

「炎上しないように頑張って」発言直後のツイート炎上のお粗末。そもそも、大臣や代議士の柄ではないのが無理して背伸びするからこんなことになる。ツイッターも、やればやるほど、「本当に右で、歴史問題では修正主義者って」イメージを固めるばかり。悪いこと言わない。背伸びや無理はおよしなさい。ツイートも。
(2018年8月1日)

「私は捏造記者ではありません」 ー 植村(札幌)訴訟結審

植村隆元朝日新聞記者が、櫻井よしこらを訴えた名誉毀損損害賠償請求訴訟(札幌地裁)が先週の金曜日(7月6日)に結審した。判決言渡は11月9日の予定。原告・弁護団そして支援者は意気軒昂である。

櫻井よしこや西岡力らは、産経や週刊文春、WiLLなどを舞台に、植村隆を「捏造記者」として攻撃した。櫻井や西岡に煽動されたネット右翼が、植村本人だけでなく、その家族や勤務先の北星学園までを標的に攻撃して、大きな社会問題となった。問題とされた植村隆の朝日の記事は、1991年8月のもの。常軌を逸したバッシングというほかはない。

ことは表現の自由やジャーナリズムのありかたにとどまらない。従軍慰安婦をめぐる歴史修正主義の跋扈を許すのか、安倍政権を押し上げた右翼勢力の民族差別やリベラル派勢力への攻撃を默過するのか、という背景をもっている。

私も、同期の友人たちと語らって、植村・北星バッシングへの反撃の声をあげた。そのときの率直な気持は、この社会の動向に、薄気味悪さだけでなく恐ろしさを感じていた。伝えられている、あのマッカーシズムの雰囲気を嗅ぎ取らざるを得なかったのだ。この訴訟、この判決は、この社会の健全さを占うものとしての重みをもっている。

リベラルバネが多少は働いて、いま櫻井よしこや西岡力の影響力は明らかに落ちてきている。判決が、植村ではなく櫻井よしここそが「捏造ジャーナリスト」であることを明らかにするものとなるよう期待したい。

「植村裁判を支える市民の会」が立派なホームページを作っている。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトから、結審(2018年7月6日)の法廷と、2年前3か月前の第1回法廷(2016年4月22日)での、原告植村隆渾身の意見陳述を引用しておきたい。

植村の「私は捏造記者ではありません」との痛切な訴えは、歴史を捏造し修正しようとする者の鋭い指弾ともなっている。

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結審(2018年7月6日)法廷での意見陳述

今年3月、支援メンバーらの前で、直前に迫った本人尋問の準備をしていました。「なぜ、当該記事を書いたのか」、背景説明をしていました。こんな内容でした。

私は高知の田舎町で、母一人子一人の家で育ちました。豊かな暮らしではありませんでした。小さな町でも、在日朝鮮人や被差別部落の人びとへの理不尽な差別がありました。そんな中で、「自分は立場の弱い人々の側に立とう。決して差別する側に立たない」と決意しました。そして、その延長線上に、慰安婦問題の取材があったと説明していました。

その時です。突然、涙があふれ、止まらなくなり、嗚咽してしまいました。

新聞記者となり、差別のない社会、人権が守られる社会をつくりたいと思って、記事を書いてきました。それがなぜ、こんな理不尽なバッシングにあい、日本での大学教員の道を奪われたのでしょうか。なぜ、娘を殺すという脅迫状まで、送られて来なければならなかったのでしょうか。なぜ、私へのバッシングに北星学園大学の教職員や学生が巻き込まれ、爆破や殺害の予告まで受けなければならなかったのでしょうか。「捏造記者」と言われ、それによって引き起こされた様々な苦難を一気に思い出し、涙がとめどなく流れたのでした。強いストレス体験の後のフラッシュバックだったのかもしれません。

本人尋問が迫るにつれ、悔しさと共に緊張と恐怖感が増してきました。反対尋問では再び、あのバッシングの時のような「悪意」「憎悪」にさらされるだろうと思ったからです。

「そうだ、金学順(キム・ハクスン)さんと一緒に法廷に行こう」と考えました。そして、金学順さんの言葉を書いた紙を背広の内ポケットに入れることにしたのです。

この紙は、私に最初に金学順さんのことを語ってくれた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生の著書の表紙にあった写真付の著者紹介の部分を切り取ったものです。その裏の、白い部分に金学順さんが自分の裁判の際に提出した陳述書の中の言葉を黒いマジックで、「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」と書きいれました。

私の受けたバッシング被害など、金さんの苦しみから比べたら、取るに足らないものです。いろんな夢のあった数えで17歳の少女が意に反して戦場に連行され、数多くの日本軍兵士にレイプされ続けたのです。絶望的な状況、悪夢のような日々だったと思います。

そして、私は、こう自分に言い聞かせました。「お前は、『慰安婦にされ人生を奪われた』とその無念を訴えた人の記事を書いただけではないか。それの何が問題なのか。負けるな植村」

金さんの言葉を、胸ポケットに入れて、法廷に臨むと、心が落ち着き、肝が据わりました。

きょうも、金さんの言葉を胸に、意見陳述の席に立っています。

私は、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけなのです。

そして「日本の加害の歴史を、日本人として、忘れないようにしよう」と訴えただけなのです。韓国で慰安婦を意味し、日本の新聞報道でも普通に使われていた「挺身隊」という言葉を使って、記事を書いただけです。それなのに、私が記事を捏造したと櫻井よしこさんに繰り返し断定されました。

北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、ほぼ同じような内容の記事を書きました。記事を書いた当時、私との面識はなく、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったのです。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」でない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、2月に証人として、この法廷で、櫻井よしこさんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示されました。

そして、こうも述べられました。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」この言葉に、私は大いに勇気づけられました。

1990年代初期に、産経新聞は、金学順さんに取材し、金学順さんが慰安婦になった経緯について、少なくとも二度にわたって、日本軍の強制連行と書きました。読売新聞は、「『女性挺身隊』として強制連行され」と書きました。

いま産経新聞や読売新聞は、慰安婦の強制連行はなかったと主張する立場にありますが、1990年代の初めに金学順さんのことを書いたこの両新聞の記者たちは、金さんの被害体験をきちんと伝えようと、ジャーナリストとして当たり前のことをしたのだと思います。私は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、「だまされた」と書きました。「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。彼女が慰安婦にさせられた経緯が重要なのではなく、慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということです。

しかし、私だけがバッシングを受けました。娘は、「『国賊』植村隆の娘」として名指しされ、「地の果てまで追い詰めて殺す」とまで脅されました。

あのひどいバッシングに巻き込まれた時、娘は17歳でした。それから4年。『殺す』とまで脅迫を受けたのに、娘は、心折れなかった。そのおかげで、私も心折れず、闘い続けられました。私は娘に「ありがとう」と言いたい。娘を誇りに思っています。

被告・櫻井よしこさんは、明らかに朝日新聞記者だった私だけをターゲットに攻撃しています。私への憎悪を掻き立てるような文章を書き続け、それに煽られた無数の人びとがいます。櫻井さんは「慰安婦の強制連行はなかった」という強い「思い込み」があります。その「思い込み」ゆえなのでしょうか。事実を以て、私を批判するのではなく、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、この裁判を通じて明らかになりました。そして誤った事実に基づいた、櫻井さんの言説が広がり、ネット世界で私への憎悪が増幅されたことも判明しました。

「WiLL」の2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした「月刊宝石」やハンギョレ新聞の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。

しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、2年以上経っていましたが、「WiLL」と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。実は、訂正文には新たな間違いが付け加えられていました。金さんが強制連行の被害者でないというのです。日本軍による強制連行という結論をもつ記事に依拠しながらも、その結論の部分を再び無視していました。極めて問題の大きい訂正でしたが、櫻井さんの取材のいい加減さが、白日のもとに晒されたという点では大きな前進だったと思います。支援団体の調べでは、この種の間違いが、産経、「WiLL」を含めて、少なくとも6件確認されています。

提訴以来3年5か月が経ちました。弁護団、支援の方々、様々な方々の支援を受け、勇気をもらって、歩んでまいりました。絶望的な状況から反撃が始まりましたが、「希望の光」が見えてきたことを、実感しています。

そして櫻井よしこさんをはじめとする被告の皆さん、被告の代理人の皆さん。長い審理でしたが、皆様方はいまだに、ご理解されていないことがあると思われます。大事なことなので、ここで、皆様方に、もう一度、大きな声で、訴えたいと思います。

「私は捏造記者ではありません」

裁判所におかれては、私の意見を十分に聞いてくださったことに、感謝しております。公正な判決が下されることを期待しております。

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第1回法廷(2016年4月22日)での原告意見陳述

■「殺人予告」の恐怖
裁判長、裁判官のみなさま、法廷にいらっしゃる、すべての皆様。知っていただきたいことがあります。17歳の娘を持つ親の元に、「娘を殺す、絶対に殺す」という脅迫状が届いたら、毎日、毎日、どんな思いで暮らさなければならないかということです。そのことを考えるたびに、千枚通しで胸を刺されるような痛みを感じ、くやし涙がこぼれてきます。

私は、2015年2月2日、北星学園大学の事務局から、「学長宛に脅迫状が送られてきた」という連絡を受けました。脅迫状はこういう書き出しでした。

「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するだけでなく、南朝鮮をはじめとする反日勢力の走狗と成り果てたことを意味するものである」

5枚に及ぶ脅迫状は、次の言葉で終わっています。

「『国賊』植村隆の娘である●●●を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」

私は、足が震えました。

大学に脅迫状が送られてきたのは2014年5月末以来、これで5回目でした。最初の脅迫状は、私を「捏造記者」と断定し、「なぶり殺しにしてやる」と脅していました。さらに「すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」と書いていました。

娘を殺害する、というのは、5回目の脅迫状が初めてでした。もう娘には隠せませんでした。「お前を殺す、という脅迫状が来ている。警察が警戒を強めている」と伝えました。娘は黙って聞いていました。

娘への攻撃は脅迫だけではありません。2014年8月には、インターネットに顔写真と名前が晒されました。そして、「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」と書かれました。こうした書き込みを削除するため、札幌の弁護士たちが、娘の話を聞いてくれました。私には愚痴をこぼさず、明るく振舞っていた娘が、弁護士の前でぽろぽろ涙をこぼすのを見て、私は胸が張り裂ける思いでした。

なぜ、娘がこんな目にあわなければならないのでしょうか。1991年8月11日に私が書いた慰安婦問題の記事への攻撃は、当時生まれてもいなかった高校生の娘まで、標的にしているのです。悔しくてなりません。脅迫事件の犯人は捕まっていません。いつになったら、私たちは、この恐怖から逃れられるのでしょうか。

■私への憎悪をあおる櫻井さん
櫻井よしこさんは、2014年3月3日の産経新聞朝刊第一面の自身のコラムに、「真実ゆがめる朝日報道」との見出しの記事を書いています。このコラムで、櫻井さんは私が91年8月に書いた元従軍慰安婦の記事について、こう記述しています。

「この女性、金学順氏は後に東京地裁に 訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」。その上で、櫻井さんは「植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じ」ていない、と批判しています。しかし、訴状には「40円」の話もありませんし、「再び継父に売られた」とも書かれていません。

櫻井さんは、訴状にないことを付け加え、慰安婦になった経緯を継父が売った人身売買であると決めつけて、読者への印象をあえて操作したのです。これはジャーナリストとして、許されない行為だと思います。

さらに、櫻井さんは、私の記事について、「慰安婦とは無関係の「女子挺身隊」と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断定しています。

櫻井さんは「慰安婦と『女子挺身隊』が無関係」と言い、それを「捏造」の根拠にしていますが、間違っています。当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」と呼んでいたのです。他の日本メディアも同様の表現をしていました。

例えば、櫻井さんがニュースキャスターだった日本テレビでも、「女子挺身隊」という言葉を使っていました。1982年3月1日の新聞各紙のテレビ欄に、日本テレビが「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」というドキュメンタリーを放映すると出ています。

私は、神戸松蔭女子学院大学に教授として一度は採用されました。その大学気付で、私宛に手紙が来ました。「産経ニュース」電子版に掲載された櫻井さんの、そのコラムがプリントされたうえ、手書きで、こう書き込んでいました。

「良心に従って説明して下さい。日本人を貶めた大罪をゆるせません」

手紙は匿名でしたので、誰が送ってきたかわかりません。しかし、内容から見て、櫻井さんのコラムにあおられたものだと思われます。

この神戸の大学には、私の就任取り消しなどを要求するメールが1週間ほどの間に250本も送られてきました。結局、私の教授就任は実現しませんでした。

櫻井さんは、雑誌「WiLL」2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」という論文でも、40円の話が訴状にあるとするなど、産経のコラムと似たような間違いを犯しています。

このように、櫻井さんは、調べれば、すぐに分かることをきちんと調べずに、私の記事を標的にして、「捏造」と決めつけ、私や朝日新聞に対する憎悪をあおっているのです。

その「WiLL」の論文では、私の教員適格性まで問題にしています。「改めて疑問に思う。こんな人物に、果たして学生を教える資格があるのか、と。植村氏は人に教えるより前に、まず自らの捏造について説明する責任があるだろう」

「捏造」とは、事実でないことを事実のようにこしらえること、デッチあげることです。記事が「捏造」と言われることは、新聞記者にとって「死刑判決」に等しいものです。

朝日新聞は、2014年8月の検証記事で、私の記事について「事実のねじ曲げない」と発表しました。しかし、私に対するバッシングや脅迫はなくなるどころか、一層激しさを増しました。北星学園大学に対しても、抗議メールや電話、脅迫状が押し寄せ、対応に追われた教職員は疲弊し、警備費は膨らみました。

北星学園大学がバッシングにあえぎ、苦しんでいた最中、櫻井さんは、私と朝日新聞だけでなく、北星学園大学への批判まで展開しました。

2014年10月23日号の「週刊新潮」の連載コラムで、「朝日は脅迫も自己防衛に使うのか」という見出しを立て、北星学園大学をこう批判しました。「23年間、捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける元記者を教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿なのか」

同じ2014年10月23日号の「週刊文春」には、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい “OB記者脅迫”を錦の御旗にする姑息」との見出しで、櫻井よしこさんと西岡力さんの対談記事が掲載されました。私はこの対談の中の、櫻井さんの言葉に、大きなショックを受けました。

「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」

櫻井さんの発言には極めて大きい影響力があります。この対談記事に反応したインターネットのブログがありました。

「週刊文春の新聞広告に、ようやく納得。もし、私がこの大学の学生の親や祖父母だとしたなら、捏造で大問題になった元記者の事で北星大に電話で問い合わせるとかしそう。実際、心配の電話や、辞めさせてといった電話が多数寄せられている筈で、たまたまその中に脅迫の手紙が入っていたからといって、こんな大騒ぎを起こす方がおかしい。櫻井よしこ氏の言うように、「錦の御旗」にして「捏造問題」を誤魔化すのは止めた方が良い」

私はこのブログを読んで、一層恐怖を感じました。ブログはいまでもネットに残っています。

櫻井さんは、朝日新聞の慰安婦報道を批判し、「朝日新聞を廃刊にすべきだ」とまで訴えています。言論の自由を尊ぶべきジャーナリストにもかかわらず、言葉による暴力をふるっているようです。「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起している」のは、むしろ、櫻井さん自身の姿勢ではないか、と思っています。

■「判決で、救済を」
「言論には言論で闘え」という批判があります。私は「朝日新聞」の検証記事が出た後、複数のメディアの取材を受け、きちんと説明してきました。また、複数の月刊誌に手記を掲載し、自分の記事が「捏造」ではないことを、根拠を上げて論証しています。にもかかわらず、私の記事が「捏造」であると断定し続ける人がいます。大学や家族への脅迫もやむことがありませんでした。こうした事態を変えるには、「司法の力」が必要です。

脅迫や嫌がらせを受けている現場はすべて札幌です。櫻井さんの「捏造」発言が事実ではない、と札幌で判断されなければ、こうした脅迫や嫌がらせも、根絶できないと思います。

私の記事を「捏造」と決めつけ、繰り返し世間に触れ回っている櫻井さんと、その言説を広く伝えた「週刊新潮」、「週刊ダイヤモンド」、「WiLL」の発行元の責任を、司法の場で問いたいと思います。私の記事が「捏造」でないことを証明したいと思います。

裁判長、裁判官のみなさま。どうか、正しい司法判断によって、「捏造」記者の汚名を晴らしてください。家族や大学を脅迫から守ってください。そのことは、憲法で保障された個人の表現の自由、学問の自由を守ることにもつながると確信しています。

(2018年7月13日)

絵本『花ばぁば』が語る「戦争のおぞましさ」と「出版の不自由」

私の手許に、「花ばぁば」という絵本がある。やさしい筆使いのやわらかい絵。たくさんの花が描かれている。子どもたちに読んでもらおうという、紛れもない上質の絵本。しかし、内容はこの上なく重い。日本軍慰安婦だった一人の女性の人生を描いた作品。

絵と文は、クォン・ユンドク。1960年生まれで大家という年齢ではないが、「韓国絵本界の先駆者」と紹介される人。翻訳は桑畑優香。早稲田を出たあと、延世大学、ソウル大学で学んだ人だという。絵本にふさわしい、優しさあふれる文章になっている。

『花ばぁば』とは、元日本軍「慰安婦」だったシム・ダリヨンさんのこと。その辛い体験の証言をもとにストーリーが組み立てられている。晩年の彼女は、園芸セラピーを受け、押し花の作品作りを楽しみに過ごしていたという。

通常の絵本にはない、前書きとしての「著者からの言葉」がある。その冒頭の一文が、「戦争で被害を受け苦しんでいる、すべての女性たちにこの本を捧げます」というもの。重ねて後書きとして、Q&A形式の「読者のみなさんへ」がある。いずれもやや長い。著者のこの本の出版へのこだわりや思いの深さが痛いほど伝わってくる。

その中の一節にこうある。
「この本では、黄土色と『空っぽの服』を象徴として、私たちが『慰安婦問題』を見つめるときに注目すべきことに対する考え方を表現しています。旧日本軍の服の色である黄土色は帝国主義を、『空っぽの服』は人間の考え方と行動を規定し支配する制度や習慣、国家体制などをそれぞれ象徴しています」
「誰もがそのような服を着れば、自分でも気付かない行動をとる可能性があります。つまり、『私たちは、慰安婦問題の責任を一人ひとりの具体的な個人ではなく、彼らを指揮し煽動した国家と支配勢力に問うべきだ』という意味を込めているのです」

大いに異論があってしかるべき論争点だろうが、これがこの作品の中心テーマで、作家の視点には揺るぎがない。大日本帝国の責任、旧日本軍の責任、どの部隊の誰の責任と決めつけ特定してしまうと普遍性が薄れる。戦争一般に性暴力の原因があり、弱者に深刻な被害を強いるものという基本認識から、戦争そのものをなくそうという平和志向の思想。だから、最後は、こう締めくくられている。

「今も地球上のあちこちで絶えず戦争が起きています。花ばぁばが経験した痛みは、ベトナムでもボスニアでも繰り返されました。そして今、コンゴやイラクでも続いているのです。」

この本の刊行は、今年の4月29日の日付。「ころから」という小さな出版社から、「202名の(クラウドファンディングでの)支援で刊行されました」と記されている。が、この本が実は8年も前に日韓同時に出版されるはずだったことを知らなかった。このことは、日本社会の表現の自由の現状を雄弁に物語っているのだ。

以下は、東京新聞2018年6月20日の「『花ばぁば』が伝える戦争」というコラム。この間の事情を手際よくまとめている。

「東京・赤羽の小さな出版社「ころから」から出された絵本『花ばぁば』は、旧日本軍の慰安婦とされた韓国人のシム・ダリョンさんの証言に基づき、韓国の作家クォン・ユンドクさんが描いた物語だ。

日本が朝鮮半島を植民地としていたころのこと。突然連れ去られた少女は軍の施設に閉じ込められ、その部屋の前には兵隊たちが毎日列を作った…。水彩の絵の美しさが、軍隊の暴力性をより鮮烈に伝えるようだ。

2010年に韓国でオリジナル版が出版された後、日本での出版は、シムさんの証言が慰安所設置に関する公文書記録と一致しないという理由で見送られた。一度お蔵入りしたこの作品を日本で出そうと奔走したのは、絵本作家の田島征三さんら日本の有志だった。

実は私(記者)も05年、大邱(テグ)市にあったシムさんの自宅を訪ね、被害の体験を聞いたことがある。けれども連行された時期や場所など分からない点が多く、証言を記事にできなかった。彼女は『私は頭がおかしくなった。覚えていないんだ』と涙ぐみながら、日本からきた記者の私に語ろうとしたのに。あの日、私がするべきだったのは、『埋められない記憶』を問うことではなく、彼女が経験した痛みの重さにもっと心を寄せることだった。

シムさんは日本版の出版を待たず10年に83歳で他界したが、彼女が残した絵本は戦争の真実を静かに語り続ける。(佐藤直子)」

「マガジン9:http://maga9.jp/」には、「この人に聞きたい」シリーズで、クォン・ユンドクのインタビュー記事が掲載されている。今年の5月30日にアップされたもの。これは、衝撃的な内容。

クォン・ユンドクさんに聞いた:日本軍「慰安婦」にされた女性の物語 『花ばぁば』で伝えたかったこと

クォン 日本での版元からは最初、日本で出版するためにはここを変えてほしい、といって何度も修正依頼が来ました。受け入れられる点については修正しましたが、とても受け入れられない点もあって、それについては「できません」とお答えしたのです。

──たとえば、どんな点でしょうか。

クォン 『花ばぁば』では、慰安所の見取り図のような場面や、慰安所がつくられていた地域分布を示す場面なども出てくるのですが、こうした資料的な絵を入れず、もっと「一人の女性の人生」という観点からストーリーをつくれないか、と言われました。でも、私は単なるハルモニの個人史ではなく、その背景にある社会的な要素もあわせて描きたかった。そこは変えたくありませんでした。
また、もっとも受け入れがたかったのは、モデルを別のハルモニに変えてほしいと言われたことです。シム・ダリョンさんは慰安婦として連れて行かれた後、戦後にかけて記憶を失っている時期があるので、証言の確実性がないのではないか、というのです。シム・ダリョンさんのように無理矢理トラックに乗せられたケースではなく、「お金を稼げるよ」と騙されて連れて行かれたハルモニの証言をもとにしたほうが、普遍的な物語になるのではないかとも言われました。

でも、シム・ダリョンさんが記憶喪失になってしまったのは、慰安婦にされて性暴力を受けたことや、戦後に韓国で差別を受けたことの結果であって、そのこと自体が重要な「記憶」です。それを証言として信用できないということには、まったく納得が行きませんでした。私はシム・ダリョンさんだから描きたいと思ったのだし、出版社が「こういうおばあさんの話を描いてほしい」というのなら、それを描いてくれる作家を別に探せばいいじゃないか、という話ですよね。
最終的には、「他のハルモニの話に変えないのならうちの出版社からは出せません」という返事でした。

──それが本当の理由というよりは、慰安婦問題というセンシティブな問題を扱った絵本を出したくなかったのかもしれないという気がします。特に、ここ数年の日本では、「慰安婦」という言葉を出すだけで一部の層からひどいバッシングを受けるという傾向がありますし、「シム・ダリョンさんの証言に問題があるから出さない」ではなく、「日本社会に問題があるから出せない」だったのではないでしょうか。

クォン 本当にそうです。その「日本社会の問題」を、「ハルモニの問題」にすり替えて断りの理由にされたことが本当に悲しくて。そのときにはもう亡くなられていたシム・ダリョンさんに対しても、申し訳ない思いでいっぱいでした。被害者が自分の受けた被害の話をするというのは、本当に苦しくてつらいことなのに、それを否定されたわけですから……。私だけでなく、「平和絵本」シリーズにかかわっていた作家たちはみんな、大きなショックを受けていました。

──しかし、田島征三さん、浜田桂子さんら日本の絵本作家の奔走もあって、2018年に別の出版社からの刊行が決まります。資金集めのためのクラウドファンディングでは、当初の目標額だった95万円がわずか4日間で集まったそうですね。

クォン 2000年の女性戦犯法廷の話などを聞いて、日本には慰安婦の存在を否定したい勢力もいるけれど、それをきちんと検証して知らせようとしている人たちも大勢いるんだということを知りました。日本での出版前から、韓国語版を自分たちで翻訳して読書会を開いてくれているグループもありましたし、そうした人たちが支援してくれたのではないかと思っています。

さらに本日(6月24日)、友人の勧めで詳細に事情を語るドキュメントDVD「わたしの描きたいこと」を観た。日本語版は、本年5月25日発売。93分が短かった。

惹句では、「絵本『花ばぁば』(クォン・ユンドク絵/文)が出来上がるまでを描くドキュメンタリー映画。韓国を代表する絵本作家クォン・ユンドク(権倫徳)が、日本軍「慰安婦」の証言をテーマに絵本創作に取りかかる2007年から、予定されていた日本語版刊行が無期限延期となる2012年までを描く。クォン・ヒョ監督は、作家性と出版の軋轢を、ノーナレ(ナレーションなし)で見事に描きだす。」という。なるほど、まったくそのとおりだ。

日本で出版を予定し、最終的に断念したのは「童心社」である。松谷みよ子と関係の深かった児童書の大手。良心的な出版社である。その童心社が恐れたのは、日本社会のありかたを象徴する「右翼」の攻撃。できるものなら出版したいが、「今の情勢では、このままでの出版はできない」という。

幾つかの点での妥協を覚悟して修正作業に取りかかった作家に、日本から「今、日本社会の事態はより悪くなっている。修正しても出版は難しい」との最終の連絡がはいる。本来日韓同時出版の予定だった「花ばぁば」は、韓国ではシム・ダリョン生前に出版して好評を博したが、日本での出版はできないという結論でこのドキュメントは終わる。

なるほど、日本社会とはこんなものなのだ。日本とは、右翼の跳梁する恐るべき国、民主主義や人権の後進国と見られてやむを得ないのだ。世界の報道の自由度ランキングでは、16年72位、17年72位と続いて、今年(2018年)は68位だが、本当だろうか。アベ政権のもと、右翼の跳梁やヘイトスピーチが、おさまる気配は見えない。

「花ばぁば」は、その内容において戦争のおぞましさを語っているが、はからずもその出版を通じて日本の出版の自由の制約や右翼の跳梁の実態、民主主義や人権のありかたについても語るものとなった。
(2018年6月24日)

ネトウヨ集団の弁護士懲戒請求運動に、きっちり責任をとらせよう

一昨日(5月11日)の毎日新聞朝刊「ネットウオッチ」欄に、「懲戒請求被害の弁護士 広がる対抗措置の動き (ネトウヨに対して)損害賠償求め提訴へ/請求側(ネトウヨ)は動揺」との記事。(括弧内は澤藤の挿入、以下同)

朝鮮学校への補助金交付は利敵行為--などとするネット上での扇動を背景に(ネトウヨから)大量の懲戒請求を送られた弁護士たちの間で、懲戒請求者(ネトウヨ)に対し、損害賠償請求や刑事告訴など法的措置をとる動きが広がっている。これを恐れ、弁護士に和解金10万円を支払って謝罪する請求者(ネトウヨ)も出ている。ネット空間の無責任な言説にあおられた軽率な行動が、実社会で法的制裁を受けようとしている。

この「《ネット空間》の無責任な言説にあおられた軽率な行動が、《実社会》で法的制裁を受けようとしている」という指摘が的確で印象的である。ネトウヨ諸君には現実感覚が乏しいようだ。バーチャルな《ネット空間》と、リアルな《実社会での法的制裁》の結び付きについての認識が希薄で、クリック一つが高くつくことへの警戒心がなく、あとで仰天することになる。

このことは、弁護士に対する不当懲戒請求に限らない。ネトウヨが寄り集まっての集団提訴や集団告発、あるいはヘイトデモ参加についても同様である。最終的には、違法な行為の責任は個人が、損害賠償という形で負わねばならない。それこそが、アベの大好きな「自己責任」なのだ。煽動に乗せられただけ、単に記事を転送しただけ、後ろにくっついて行っただけ、などは免責理由とならない。

なお、毎日が言う「無責任な言説にあおられた軽率な行動」とは、「余命三年時事日記」なるブログの煽動にうかうか乗せられたことを指す。このブログが、テンプレートをつくっての書き込みを誘っていた。当の「余命三年時事日記」を主宰する者の氏名住所は現時点では未特定。自分は闇に隠れて、人を裏から煽動しているわけだ。私もこのブログに目を通してみた。どうして、こんな低劣な煽動に乗せられる者が続出するのだろうか。詐欺まがい悪徳商法の被害者についても同じ思いだが、まことに不思議でならない。

もちろん、ネトウヨ諸君にも表現の自由はある。しかし、事実無根の主張によって人の名誉を毀損する自由は誰にもない。民族や国籍による差別言動も許されない。ネトウヨ諸君よ。もし、表現の自由を謳歌しようというなら、匿名に隠れることなく堂々と顕名で論争するがよかろう。

毎日新聞の同記事によれば、佐々木亮・北周士の両弁護士が、全懲戒請求者に損害賠償請求訴訟を起こす予定で、虚偽告訴や業務妨害での刑事告訴も検討するという。懲戒請求の全件数は約3000件だそうだから、3000人を被告とする訴訟となる。もっとも、管轄は損害賠償債務の履行地でよいから、全国のすべての被告に対する請求が一通の訴状で、東京地裁に提訴が可能だ。

毎日の記事は、こうも伝えている。

 ある(ネット上の)掲示板には懲戒請求者とみられる人物が「(ネット情報で)俺の連絡先が通知されないと信じて請求した。(扇動者に)裏切られた」「裁判とめるにはどうしたらよいのか」などと不安を書き込んでいる。

佐々木弁護士らは、訴訟前に和解する条件として、明確な謝罪や慰謝料10万円(両弁護士分合計)の支払いなどを求め、すでに応じた請求者もいる。懲戒請求では請求者の実名や住所が当該弁護士に伝えられる。佐々木弁護士は「匿名で請求できると勘違いしている人もいるようだ。素直に謝ってきた人もいた。軽い気持ちでやったという印象を受けた」と話す。

佐々木亮・北周士の両弁護士は、まずは事前の和解を推進する方針で、5月16日に記者会見の予定という。その後塵を拝することなく、榊原元弁護士が5月9日に、東京地裁に提訴した。
以下は、当日の彼のツィート。

朝鮮学校への補助金などを巡って弁護士に対して大量の懲戒請求がなされた件、不当な懲戒請求による損害賠償金の支払いを求め、本日、東京地方裁判所等に訴訟を提起した。現時点で被告は未だごく一部であるが、訴訟前に和解が成立した方を除き、最終的には請求者全員に裁判所までお越し頂きたいと思う。

その後のツィートで彼の基本認識が以下のように語られている。

弁護士に対する大量懲戒請求事件の件。確かに我々個々の弁護士は被害者だ。しかし、本当に攻撃されているのは弁護士会であり、弁護士自治である。さらにいうと、本件は在日コリアンを差別するという動機でなされたヘイトクライムである点を看過してはならない。究極的な被害者は在日コリアンなのである

たかがネットに煽られて弁護士に大量の懲戒請求をしたり、在日コリアンを入管に大量通報したり、検察庁に大量告発したりする日本人が、新聞に煽られたら朝鮮人虐殺をしないはずがない。
何度も言うが、大量懲戒請求事件はヘイトクライムである。ヘイトクライム防止につながる解決でなければならない。

神原弁護士のこの訴状は見ていない。弁護士ドットコムによれば大要以下のとおり。

訴状によると、被告(懲戒請求のネトウヨ)は2017年6月、神奈川県弁護士会に対して、神原弁護士ら複数の弁護士を対象として、弁護士法に基づく懲戒請求をおこなった。同弁護士会綱紀委員会は2018年4月、神原弁護士らを懲戒しないと判断した。

懲戒理由として、「違法である朝鮮学校補助金支給要求声明に賛同し、その活動を推進する行為は、日弁連のみならず当会(神奈川県弁護士会)でも積極的に行われている二重、三重の確信的犯罪行為である」などと書かれていたという。

原告(神原弁護士)は「少なくとも朝鮮学校補助金要求に関連して違法行為をした事実はまったくない」「存在しない事実について、あえて懲戒請求を申し立てていたことが明らかだ」としている。現時点で、被告数や請求額などは明らかにされていない。

そして同記事は次のようにまとめている。

最高裁の判例では、事実上または法律上の根拠を欠く場合において、請求者がそのことを知りながら、または普通の注意を払えば知りえたのに、あえて懲戒請求していれば不法行為にあたる、とされている。日弁連によると、2017年だけで組織的な懲戒請求は約13万件あり、その多くが問題のブログに起因するものとみられる。

当ブログも、このことについては、何度か論及してきた。ぜひ、ご参照いただきたい。
民族差別主義者らの「弁護士懲戒請求の濫用」に歯止めを
http://article9.jp/wordpress/?p=9724
(2018年1月5日) 

安易な弁護士懲戒請求は、損害賠償請求の対象となる。
http://article9.jp/wordpress/?p=9311
(2017年10月12日)

さて、懲戒濫用に対抗の武器となる最高裁判例(平成19年4月24日・三小)の当該部分を再確認しておこう。

「…懲戒請求を受けた弁護士は、根拠のない請求により名誉、信用等を不当に侵害されるおそれがあり、また、その弁明を余儀なくされる負担を負うことになる。そして、同項が、請求者に対し恣意的な請求を許容したり、広く免責を与えたりする趣旨の規定でないことは明らかであるから、同項に基づく請求をする者は、懲戒請求を受ける対象者の利益が不当に侵害されることがないように、対象者に懲戒事由があることを事実上及び法律上裏付ける相当な根拠について調査、検討をすべき義務を負うものというべきである。そうすると、同項に基づく懲戒請求が事実上又は法律上の根拠を欠く場合において、請求者が、そのことを知りながら又は通常人であれば普通の注意を払うことによりそのことを知り得たのに、あえて懲戒を請求するなど、懲戒請求が弁護士懲戒制度の趣旨目的に照らし相当性を欠くと認められるときには、違法な懲戒請求として不法行為を構成すると解するのが相当である。」

つまり、「通常人としての普通の注意を払うことなく」軽々に弁護士懲戒請求をすれば、不法行為として損害賠償請求されることを覚悟しなければならないのだ。

しかも、当然のことながら、懲戒請求は請求者の住所氏名を明記しなければ、受け付けられない。うかうか、扇動に乗せられると、ある日、裁判所から損害賠償請求の訴状が届くことになる。よく考えるべきなのだ。ネトウヨ諸君。
(2018年5月13日)

また出た『忖度』ー「我が意の忖度不十分で不満」というパターン。

昨今おおはやりの「忖度」。またまた出てきた。今度は新バージョンだ。しかも、憲法問題として、事態は重大である。

アベ友学園事件でも、腹心の友学園事件でも、「忖度」されたとする意向の当人は、「忖度あったとの疑惑は迷惑、忖度されるような意向は断じてなかった」という否定の文脈で語っている。ところが今度は、「どうして私の意向を忖度してくれないのか」「もっと忖度あってしかるべきではないか」という文脈の語り口なのだ。これが、「新バージョン」という所以。

本日(5月21日)の毎日新聞トップ記事。「陛下・公務否定に衝撃」という大見出し。サブの見出しを拾ってみると、「有識者会議での『祈るだけでよい』」「『一代限り』に不満」そして、「『象徴』実践と不可分」「陛下の祈り 全身全霊」などというもの。

なお、デジタル版の報道には、「宮内庁幹部『生き方否定』」という見出しもつけられている。
宮内庁幹部は、有識者会議での保守派メンバーによる『祈るだけでよい』という発言に、天皇は『生き方を否定』されたと衝撃を受けている、と語っている」という文脈。

この記事、記者の署名がはいってはいるが、単なる報道ではない。内容からみて、社説に準ずる新聞社の意見と見てよかろう。その姿勢、看過し得ない。大いに問題ではないか。

記事は、一面と三面にまたがっている。三面の記事は「皇室考」という続き物の第1回という体裁。毎日新聞の、天皇の「ご意向」への忖度であふれた内容。その中に、天皇の「世間は、どうして私の意向を十分に忖度してくれないのか」との嘆きが、ことこまかく書き連ねられ、毎日が賛意を表している。さながら、不遇の天皇を支える「忠臣メディア・毎日新聞」という趣である。

一面・トップの記事を引用しておきたい。
『天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から「天皇は祈っているだけでよい」などの意見が出たことに、陛下が「ヒアリングで批判をされたことがショックだった」との強い不満を漏らされていたことが明らかになった。陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられた。

陛下は、有識者会議の議論が一代限りで退位を実現する方向で進んでいたことについて「一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない」と語り、制度化を実現するよう求めた。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とも話していて、政府方針に不満を示したという。

宮内庁関係者は「陛下はやるせない気持ちになっていた。陛下のやってこられた活動を知らないのか」と話す。

ヒアリングでは、安倍晋三首相の意向を反映して対象に選ばれた平川祐弘東京大名誉教授や渡部昇一上智大名誉教授(故人)ら保守系の専門家が、「天皇家は続くことと祈ることに意味がある。それ以上を天皇の役割と考えるのはいかがなものか」などと発言。被災地訪問などの公務を縮小して負担を軽減し、宮中祭祀だけを続ければ退位する必要はないとの主張を展開した。陛下と個人的にも親しい関係者は「陛下に対して失礼だ」と話す。

陛下の公務は、象徴天皇制を続けていくために不可欠な国民の理解と共感を得るため、皇后さまとともに試行錯誤しながら「全身全霊」(昨年8月のおことば)で作り上げたものだ。保守系の主張は陛下の公務を不可欠ではないと位置づけた。陛下の生き方を「全否定する内容」(宮内庁幹部)だったため、陛下は強い不満を感じたとみられる。(中略)

陛下が、昨年8月に退位の意向がにじむおことばを表明したのは、憲法に規定された象徴天皇の意味を深く考え抜いた結果だ。被災地訪問など日々の公務と祈りによって、国民の理解と共感を新たにし続けなければ、天皇であり続けることはできないという強い思いがある。』
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事実関係がこの記事のとおりであるとすれば、問題はすこぶる大きい。天皇は自分の意向が法の整備に反映されて当然と考えているようなのだ。忖度不十分との不満を言える立場と思い込んでいるだけでなく、実際に宮内庁幹部(ないし「関係者」)を通じて内閣に不満を伝えている。「自分の意志が曲げられるとは思っていなかった」とまで、メディアにリークもしている。これは天皇の越権、というよりは叛乱というべきではないか。

私は、平川祐弘も渡部昇一も、虫酸が走るほどに大嫌いだ。しかし、平川も渡部も主権者たる国民の一人として、天皇制や天皇のあり方についてはどのようにも意見を述べる権利がある。国民の誰もがその意見に賛否を示し批判し反論する自由をもつが、天皇にだけはその自由がない。天皇は、国民の総意に基づいて存在する。天皇のあり方は、天皇制の廃止を含めて、すべて国民の議論にゆだねられていることを自覚しなければならない。天皇の立場で、「不満だ」「失礼だ」と言ってはならない。

もっとも、毎日のスタンスについては、原則論からではない別の角度から忖度することが可能だ。
毎日は、現天皇を護憲リベラル派の一員と見て、改憲右翼勢力の先頭にあるアベ政権と対峙させる図式を描いている。平川や渡部は、アベ政権の手先との位置づけで、その意見が批判されているのだ。

所詮天皇とは、政治の道具。幕末の西南雄藩連合と幕府方との拮抗の中で、「玉」と言われた天皇の取り込み合戦が行われた。たまたまそれに勝って、「玉」を手にした方が、「官軍」となったに過ぎない。そう考えれば、いま、リベラルな天皇という「玉」を最大限活用して、アベ改憲勢力に対峙しようとする合理性は納得できなくもない。

毎日は、この政治的プラグマティズムの視点や実践を意識的に貫いているのかも知れない。しかし、天皇制とは、そもそも民主主義にはなじまない危険物である。取り扱いはすこぶる難しい。取り扱いを誤れば、制御しきれず暴走し暴発しかねない。私は、詭道を衒わず、原則論に徹すべきだと思う。
(2017年5月21日)

産経による日弁連批判は、劣化した政権の八つ当たりを代弁したものである。

産経が日弁連(日本弁護士連合会)批判のキャンペーンを始めた。「政治集団化する日弁連」というレッテルを貼ってのこと。その第1部が、4月4日から昨日(4月8日)まで。「政治闘争に走る『法曹』」というシリーズの連載。その第1回の見出しが「政治集団化する日弁連」「『安倍政権打倒』公然と」というもの。「安保法案は憲法違反です」という横断幕を掲げて行進する日弁連デモの写真が掲載されている。これが、「政治闘争に走る法曹」の図というわけだ。「安倍政権打倒」を公然と言うなどとんでもない、というトーン。

産経新聞にはほとんど目を通すことがない。得るところがないからだ。「政権=右翼」の図式が鮮明になっているいま、その両者の広報を担っているのが同紙。政権・与党の改憲路線や歴史修正主義、アメリカ追随を後押しすることが同紙の揺るがぬ基本姿勢である。ジャーナリズムの矜持を捨てて、「権力の公報紙」兼「右翼勢力の宣伝紙」としての立場を選択したのだ。政権支援とともに、さらに右寄りの政治的な立ち位置を旗幟鮮明にすることでの生き残り戦略にほかならない。

そんな産経である。現政権に膝を屈することのない勢力は、すべて攻撃の対象とせざるを得ない。それが、走狗というものの宿命なのだから。

世の中には、権力に擦り寄り、迎合してはならない組織や理念がいくつもある。本来、ジャーナリズムは権力から独立していなければならない。また、大学の自治も学問の自由も、そして教育への不当な支配排除の原則も、時の権力の介入を許さないためにある。もちろん、司法も同様なのだ。

司法の一角を担う弁護士の集団には、在野に徹し権力から独立していることが求められている。権力が憲法の理念をないがしろにすれば、これを批判すべきが権力から独立していることの実質的な意味である。安閑と権力の違憲行為を看過することは、その任務放棄にほかならない。産経の日弁連批判のキャンペーンは、「権力に抗うことをやめよ」という、政権の意図を代弁するもの。あるいは、今はやりの「忖度」なのかも知れない。

産経の論法は、「政治的課題への容喙は日弁連の目的を越える」「全員加盟の日弁連が、多数決で決議をしてはならない」という、これまで長年にわたって、弁護士会内での議論で保守派(あるいは権力迎合派というべきか)が繰り返してきたものの蒸し返しに過ぎない。その会内での一方の意見に、政府公報紙産経が公然と加担することとなったのだ。

産経が批判的に取り上げた日弁連「政治闘争」の具体的テーマは4点。「安保関連法」「慰安婦問題」「脱原発」「死刑廃止」である。消費者問題や公害問題、労働問題、教育問題、子供の権利、男女の平等、司法改革などが出てこないのは、いかがなものか。これらも、すべて政治や行政、あるいは財界や体制派との激しい対立テーマである。けっして、全員一致などにはなり得ないテーマだ。

ご留意いただきたい。日弁連はいかなる場合にも、これらの課題に「政治的に」コミットしていない。「党派的な」立場で関わることもありえない。人権の擁護と憲法原則遵守の視点から、その限りで関わっているに過ぎない。人権擁護と憲法遵守を「政治的」と言い、あるいはその影響が政治性を免れないとして、政治的課題へは一切口出しすべきでないと言うのは、日弁連に「人権擁護活動をやめよ」「憲法遵守など言うな」と沈黙を強いるに等しい。

会内合意形成に慎重な配慮をすべきは当然としても、日弁連の使命を果たすためには、討議を尽くしたうえで、採決するのはやむをえない。私の印象では、執行部の問題提案には、保守派からも革新派からも両様の異論が出て、相当の議論が行われる。国会が作る法や決議が国民の意思を反映している度合いよりは、ずっと会員の意見を反映している。

日弁連の使命とは何か。弁護士法の冒頭に明記されている。
第1条1項 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする。
第1条2項 弁護士は、前項の使命に基き、誠実にその職務を行い、社会秩序の維持及び法律制度の改善に努力しなければならない。

法律専門職として、「法律制度の改善への努力」が謳われている。当然に、「法律制度の改悪阻止への努力」も弁護士の使命である。「弁護士や弁護士会は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現」しなくてはならない。我々が所与の前提とする自由主義の基本は、国家権力の暴走から人権や正義を守らねばならないという点にこそある。日弁連が、政府を批判する立場をとることになんの問題もない。むしろ、弁護士会が権力や体制批判に臆病になることを恐れなければならない。権力の僕の態度で、人権をないがしろにする政権にへつらい、もの言わぬ日弁連であってはその使命を放棄したことになるのだ。

戦前、弁護士自治のなかった時代には、弁護士も権力の僕であることを強要された。かつて、治安維持法違反被告事件の弁護を受任した弁護士が、その弁護活動を理由に、治安維持法違反(目的遂行罪)で逮捕され起訴され有罪となった。そのとき、当然のごとく司法省は裁判所構成法や旧弁護士法などに基づき、有罪となった弁護士の資格を剥奪したが、当時の大日本弁護士協会が抗議の声を上げることはなかった。

国民の人権を擁護すべき弁護士が、自らの人権も擁護できなかった時代の苦い経験に鑑みて戦後の弁護士法ができた。法は、弁護士の使命を人権の擁護と社会的正義の実現と規定しただけでなく、その実効を保障するために、弁護士自治権を確立した。弁護士資格の得喪や懲戒に、権力の介入を許すことなく、弁護士会が公的機関として自ら行うことになったのだ。

いま、弁護士も弁護士会も権力の僕ではない。日本国憲法に基づき、堂々と政権にものが言える立場である。弁護士は政府協賛機関となってはならない。政府の手によって立憲主義がないがしろにされ、政府の手によって国民の人権が損なわれるとき、「政府攻撃は政治闘争だ」「だから、控えねばならない」などという、権力の走狗の言に耳を傾けてはならない。

産経の妄言はアベ政権の代言である。日弁連が政権の立憲主義への無理解を批判したら、産経から日弁連叩きが始まったのだ。実は、今ほど日弁連の発言が重みをもった時期はない。そのことは、政権が劣化したことの証しにほかならない。しかし、劣化した政権への日弁連の真っ当な批判が真摯に省みられることはなく、「広報紙産経」を使った八つ当たりが始まったというわけだ。

私は日弁連執行部にはないし、日弁連のすべての方針に賛成する立場でもない。しかし、安倍政権を代理しての産経の妄言には、声を大にして反対する。安倍政権への貴重な対抗勢力を貶めてはならない。

これから、日弁連の存在意義を掛けて、共謀罪法案の廃案を求める大運動が起こる。これも、政治闘争ではなく、憲法と人権擁護の運動である。産経ごときの記事で、いささかなりともこの運動が鈍るようなことがあってはならない。この点で、私は日弁連執行部に、心からのエールを送りたい。
(2017年4月9日)

風の神の心変わりー神風変じて逆風の冷たさ

おや、ご存じなかったのですか。この秋津島瑞穂の國は、八百万の神々がしろしめす神域なのですよ。山川草木のすべてに神々が宿りたまい、天が下の森羅万象はことごとく神様の思し召し。ほら、思い出してください。何代か前の首相が、ついつい秘密を漏らしたでしょう。「日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知していただく」とね。あれが、真実なのですよ。

もちろんこの国では、政治のすべてが神々の御手で動いています。民が国の主で、民の意思がこの国を動かしているなど思い上がってはいけません。ましてや、アベ一強がこの国を動かしているなんて傲慢この上ないことなのです。すべては、人の祈りと、その祈りを聞き届けた神の力によって、政治も行政も動いているのです。だから、「祈ります」という、あの首相夫人のメールの文章は意味のないことではなく、とても大切なことなのです。

人々の利害が複雑に絡みあっているように、何しろ神様の数も多い。神々の力関係も複雑で、難しい談合や駆け引きを経て神意が表れることになりますが、この過程は、一切人の目には見えません。だから、一見すると、神は気まぐれとも無責任とも見えるのですが、実は神々も苦労しているのです。その辺のことは「国民の皆さんにしっかりと承知して」いただかねばなりません。

神風を吹かせるのは、ご存じ風の神です。この神様、怠け者で普段は寝ているばかり。だから、滅多に神風が吹くことはありません。風の神を揺り動かし、目を覚まさせて、その気になって神風を吹かせるには他の神々の苦労が必要なのです。つまりは、風の神への積極的な働きかけがなければ無理なことなのです。

どうやって、風の神をその気にさせるかですって? それは、「ひ・み・つ」なのですが、人間の世界とそうは違いがありません。人も神も、何らかの利益なくして動くことはありません。どの神様も、その点はしっかりしていますから、その神様のほしいものを用意して提供しなければなりません。一般論として、神様の大好物はお賽銭です。「御神酒あがらぬ神はなし」というとおりでもあります。神様を脅かしたり強請ったりという手もありますし、揉み手や泣き落としの戦術も結構利きますよ。それから、なんと言っても有力な神様の口利きと、忖度です。今回森友に吹いた神風の原因には、口利きと忖度の両方があったと聞いていますね。どこからの情報かって? 実はよく分かりません。そりゃ神のみぞ知るってことですよね。

大事なことは、すべてが生身の人間の目には見えないことなのです。人知を超越した見えないところで風が吹き、見えない風が見えない力となって、その見えない力がものごとを成就させるのです。見えないことが、神風の神風たる所以。口利きがあったとか、忖度があったのでは、と見破られるようでは神風ではありません。見えないからこそ、風の神の仕業なのですが、実は風の神をその気にさせた原因は確かにあるのです。

それを、「口利きも、忖度もないことが明らかになった」などと言うのは笑止千万。愚かしいにもほどがある。身の程を知らない人間の分際での独断。

このたび、風の神になにがしかの働きかけをして、風の神に神風を吹かせたのは、よくは分からないのですが、神々の口に戸は立てられないということで、我々の世界でもうわさは飛びかっています。一番有力なのは、アマテラス以来の皇祖皇宗の神霊ではないかということ。もちろん確証はないのですが、なにしろ、教育勅語復活の小学校教育設立ですから、朕の皇祖皇宗が喜んで一肌脱いだのだろうという憶測。それに出世の神、保身の神、処世の神、へつらいの神なんぞが力を貸して、風の神に働きかけたのだろうと言うのが、もっぱらの風評。

では、なぜ急に風向きが変わって、神風が逆風となったか。こんなことが言われていますね。今や、八百万の神々の勢力関係に変化が生じているというのです。天つ神と国つ神との争いの骨格が古事記以来の伝統でしたが、今やこの構図が壊れそうになっている。アマテラスを筆頭とする天つ神の勢力はこのところ、衰退の一途なのです。ですから、一度は皇祖皇宗の霊の口車に乗せられた風の神は、途中で気が変わったのです。明らかに別の神の働きかけ。

どうも、「民の声は神の声」というのが今高天原のはやり言葉のようなのです。ですから、風の神も考えた。「アベの手下みたいなことをやっていて、私の将来は大丈夫なのか」と。こんな時代錯誤の教育のための右翼学校経営者と右翼政権のために、一肌脱いだことで後世批判の矢面に立つのはイヤだ。となったらしいのです。

で、捨てる神と拾う神がバトンタッチ。その結果風向きが真逆に変化したというのです。アベ政権への追い風が、完全にアゲンストの向かい風になった。森友で着いた火は、逆風に煽られて「加計学園問題」にも飛び火するでしょうし、さらには「順正学園問題」にも類焼しそうではありませんか。その同じ風が、稲田防衛大臣のボロを暴き出しつつあります。これこそが人知を越えた風向きの変化です。これを神のミワザと言わなくて、なんというべきでしょうか。
(2017年3月26日)

「朋友相信シ」の蜜月変じて、「朋友相食ム」の醜悪

ボクって愚かなんだ。あんなこと言わなきゃよかった。いつものことだが、もう少し落ちついて、言葉を選んでものを言うべきだったんだ。でも、ついついカーッとなって、「何をムキになっているんですか」なんて言われちゃうんだ。

あのときは、まさかこんなことになるとは思わなかった。籠池があすこまで肚をくくって逆襲するなんて思いもよらなかった。だって、ボクは総理大臣だよ。長期政権を目指して、アベ一強と言われてもいる。みんな、ボクには揉み手をして擦り寄って、忠義を売ろうとしているじゃないか。籠池もその一人だ。ボクは、擦り寄ってきた友だちをおろそかにせず、それぞれに処遇してやってきた。そのボクに、無名の民間人が食ってかかるなんて、考えられないことだろう。

だから、2月17日の衆議院予算委員会でのこと。森友学園疑惑がメディアに報じられて間もなくの頃だ。民進党の福島伸享議員から森友学園との関係について問われて言っちゃった。「私や妻がですね、認可あるいは国有地払い下げにですね、勿論事務所も含めて一切関わっていないということは明確にさせていただきたいと思います。もし関わっていたんであればですね、これはもう私は総理大臣を辞めるということでありますから、はっきりと申しあげたいとこのように思います」「いずれに致しましてもですね、繰り返して申し上げますが私も妻もですね、一切認可にもですね、あるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして…繰り返しになりますが私や妻が関係していたとなればこれはもう、まさに総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申しあげておきたい」

あんまり、はっきりと言っちゃったんだ。あとさき考えないで。
条件節の主語は「私」「妻」「(安倍晋三議員)事務所」の3者。述語は、(私立小学校設立)認可あるいは(その敷地の)国有地払い下げに、関係していたこと。そして、条件充足の効果は、ボクが「総理大臣も国会議員も辞める」ということ。

ああいう世間知らずの危険な人物と付き合ってしまったのが、かえすがえすも残念だ。あ~あ、また、うるさい野党の連中やメディアに叩かれる。「総理を辞めろ」、「議員も辞めろ」とうるさいだろうな。デモ隊も、「アベは、やめろ」「議員をやめろ」「嘘つきはやめろ」なんて、「ヤメロ・ヤメロ、コール」が鳴り響く。頭が痛くなってきた。

こんなことにもなろうかと、籠池の参考人招致にはゴーサインを出さなかったんだ。もしかしてホントのことを洗いざらい口走ってしまいかねない危険を感じていたんだ。でも、ここまで開き直ることは思っても見なかった。もっと上手に繕って、ボクの窮地を救ってくれてもいいじゃないか。もとは肝胆相照らす同志だった仲じゃないか。それをあんな風に足蹴にされたんじゃ、こちらも惻隠の情を示しようがない。もう終わりだ。

昨日(3月23日)の証人尋問。案の定、証人になんか呼ぶんじゃなかった。だれが見たって、疑惑はいっそう深まった。偽証罪で脅かせばビビって口をつぐむだろうと思ったんだ。見事に思惑外れだ。あれで、内閣支持率は10ポイント下がったんじゃないか。

それにしても、与党担当者の無能力に呆れる。まあ、自分のことは棚に上げてのことだけどね。自民党の国対委員長は、「首相に対する侮辱だから」証人に呼び出す、としっかり言っちゃった。あれはひどい。マイナス5ポイントくらいになったんじゃないの。そして、「首相に対する侮辱だから懲らしめてやる」という姿勢が見え見えの尋問担当者。自民党も公明党も、そして維新もだ。

アベ政権と与党が悪役を買って出て、意地の悪い悪代官と木っ端役人を演じて、結局は籠池をいじめることもできなかった。

あの籠池の「100万円寄付」の証言は痛い。供述に生々しい信憑性がある。とても作り話とは思えない。あの証言を聞かされれば、だれだって妻が籠池に100万円を寄付したと信じるだろうさ。なんと言っても、描写が具体的で詳細だ。客観的な状況に照らして破綻がない。しかも、宣誓をし、偽証罪の制裁を科せられての証言だ。12名の尋問者の質問にほころびが出なかった。

いまさらながら、自民党の国対委員長は、開き直って「百歩譲って、首相夫人が100万円寄付していたとして、それがいったい何だというんですか」と言い始めた。だれだって分かる。「アベの妻は100万円出すくらいの熱い籠池教育支持者だった。ならば、忖度の条件も作ったろうし、口利きだってしただろう」。そのように国民が考えるだろうと言うことだ。

証人に呼び出して、かえってコチラが窮地に立った。野党が嵩にかかって「フェアに、同じ土俵で、首相の妻にも証人として証言をさせよ」と言っている。当たり前だが、そんなことをさせたらおしまいだ。だって、そんなことをさせたら、偽証罪で脅されて、本当のこと言っちゃうもん。

でもよく考えてみると、この話、もともとは妻とボクとが塚本幼稚園の教育に共感し共鳴したことが発端なんだ。なにしろ、幼稚園児に教育勅語を暗唱させ、五箇条のご誓文や軍歌を覚えさせる素晴らしい理想の教育。籠池夫婦もボクら夫婦も、ともに戦後民主主義を否定して、戦前の臣民の道を履践しようという右翼と右翼。言わば、妻も私も籠池の臣民教育に感動し、籠池夫婦はアベ極右政治姿勢に共鳴して、同志的な連帯感をもったということだ。籠池が、設立予定の学校に、安倍晋三記念小学校などと命名しようとしたのはその同志的連帯の証し。私も、右翼の支持者に手柄顔ができると思ったんだ。今は、勅語教育が攻撃の的になり、私が手のひら返したことで、右翼の諸君も私を裏切り者と言い始めている。

ボクは、こんなとき、教育勅語を読み直す。
爾臣民
父母ニ孝ニ
兄弟ニ友ニ
夫婦相和シ
朋友相信シ
恭儉己レヲ持シ
博愛衆ニ及ホシ
學ヲ修メ 業ヲ習ヒ
以テ智能ヲ啓發シ
徳器ヲ成就シ
進テ公益ヲ廣メ……

妻との間の「夫婦相和シ」も実は怪しい。「朋友相信シ」は完全に壊れてしまった。正直の徳目は、教育勅語にはない。「徳器ヲ成就シ」がこれに当たるだろうか。ともかく今はなんとしてでも、籠池を嘘つきの悪者に仕立てて、右翼政権の窮地を脱しなければならない。

妻を証人喚問させるなんて、そんな真実バレバレを許してはならない。そんなことをするくらいなら、総理大臣も議員もやめた方がマシだ。さりとて、証人喚問を拒否すれば、ますます疑惑がふくらんで支持率はますます下がることになる。疑惑が深まっても、拒否せざるを得ない。いい考えも出てこないから、ここしばらくユーウツなんだ。頭がイタイ…。
(2017年3月24日)

「アベ友疑惑学園疑惑」の構造ーだれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらぬ。

アベ友学園疑惑とは、アベの口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられたとの嫌疑である。

だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらない、のだ。

アベ友学園疑惑は、次々と小出しの事実が露わにされて目が離せない。明後日(3月23日)に衆参両院で籠池の証人質疑があって新段階を迎える。手負いの籠池が失うものは既にないとして真相をぶちまけるのか、あるいはブラフの切り札を温存しようと寸止めするのか。それは読めない。

情報が拡散し全体像が曖昧になりつつある「アベ友学園疑惑」だが、疑惑の追及は焦点を定めなければならない。いま、分かりつつあることから、何をもって疑惑の核心とし、何を標的に「疑惑解明」をなさんとしているのか、その視座と視点を明確にしなければならない。

☆アベ友学園疑惑の核心とは、現職首相の口利きによって、国有財産がただ同然で払い下げられ、国民が損害をこうむったことにある。もちろん、今は「疑惑」のレベルであるが、このことを「疑惑」ではなく、証明された事実として暴き出すこと、それが事件に関心をもつ者の共通の課題として確認しなければならない。このような課題を明確にすることなしに、迷宮の奥にある真実にたどり着くことはできない。

☆アベ友学園疑惑の構造は、右翼である現職首相の極右教育への礼賛ないし共鳴が底流にある。右翼首相と極右学校経営者との二つの合い寄る魂を、財務官僚と地方教育行政が支えた。校地取得の面では理財局と近畿財務局、そして私立小学校設立認可の面では大阪府知事と大阪府教育庁である。この4者の連携・協働の構造を骨格として確認しなければならない。

☆以上のアベ友学園疑惑の構造において、最重要の関係はをなすものは、右翼首相と極右学校経営者との二つの魂の遭遇であり親密な接近である。新設予定小学校の校名が「安倍晋三記念小学校」とされ、現職首相の名が寄付の勧誘に用いられた。
これほどの、現職首相とアベ友学園経営者の親密な関係の接点で、首相の妻が重要な役割を演じている。これが、「アッキード」という所以。学園の教育を褒めそやし、複数回の講演をし、新設予定小学校の名誉校長を引き受け、経営者の妻とのメール交換もしている。さらに、新たな100万円寄付疑惑である。寄付を受けたとする者が、「安倍晋三からです」との金の出所の口上まで詳細に語っている。これに寄付をしたと名指しされている者が、自らは口を閉ざして反論していないというのが現状。「民間人」は宣誓の上証言させ、首相の妻という「準公人」を糺そうとしない、この不公正。ここにも遠慮や忖度が見て取れる。

この100万円寄付疑惑は、事実が明らかとなれば、アベ側の右翼教育への共鳴・礼賛の証左として重要な意味をもつ。間接的には、口利き疑惑、少なくも忖度疑惑の有力間接事実となる。「100万カネを出すほどに思い入れが深かったのだから、理財局に口利きくらいはしたことを否定し得ない」との新たな疑惑推認の根拠になるということ。

☆「疑惑の3日」とは、2015年9月3日から5日までの3日。戦争法反対のデモの高揚期でのこと。9月3日午後に、首相は迫田英典理財局長と会っている。財務省の岡本薫明官房長も同席が確認されている。理財局長は国有地の管理や処分を管轄する最高責任のポスト。本件国有地の払い下げはこれ以後異例の進捗を見ているではないか。

その翌日9月4日午前午前中に、近畿財務局9階の会議室で近畿財務局幹部が「瑞穂の國記念小學院」の建設会社の関係者と、双方2人づつの計4人で会合を開いている。そして、4日午後には「テレビ出演」のために、首相が大阪入りしている。

そして、翌日の9月5日にアベの妻がアベ友学園で講演し、新設予定小学校の名誉校長に就任。就任の挨拶は、「こちらの教育方針は大変主人もすばらしいという風に思っていて、(籠池)先生からは、安倍晋三記念小学校という名前にしたいと…」まで述べている。100万円寄付疑惑は、その日のことだ。

☆国有地払い下げが異例ずくめだったことは疑いがない。まずは、異例の国有地についての借地契約がなされ、それに基づいて異例の認可適当との答申があり、さらに異例の超低価格での国有地払い下げがあって、しかも分割払いという至れり尽くせりである。その上、すべての交渉資料が破棄済みだというのだ。今のところ、アベの口利きがあったであろうと考えるのが、最も合理的な推認。その口利きの機会として考えられるのが、9月3日のアベ・迫田面談である。アベの選挙区出身で事件後異例の出世を遂げているというこの迫田英典(現国税庁長官)が「疑惑のキーマン」にほかならない。

だから、言いたい。だれが名付けた「アッキード」。だれが言ったか「疑惑の3日」。だれの言葉か「疑惑のキーマン」。だれもが疑う「口利き疑惑」。「忖度」程度じゃ収まらぬ。

(2017年3月21日)

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