産経社説「国葬 野党の反対は理解できぬ」は…やっぱり理解できない。
(2022年7月26日)
本日の産経朝刊『主張』(社説)が、「安倍元首相の国葬 野党の反対は理解できぬ」というもの。もちろん、安倍晋三を持ち上げ、今後も安倍的政治の継続を願う立場の提灯社説。が、国葬反対論への反駁に説得力はなく、国葬推進派の根拠や理由はの薄弱さを露呈している点で注目に値する。
まずタイトルが不出来である。なぜ「野党の反対」だけを問題にしようというのか。国葬反対は野党だけではない。けっして反対勢力の中核に野党が位置しているわけでもない。言論界も研究者も宗教者も教育界も、法曹も市民運動も、こぞって反対しているではないか。ことさらに、野党の反対論だけを取りあげる合理性はない。
そして、野党の国葬反対論を「理解できぬ」というのも理解しがたい。反対論に対する反論ではなく、積極的に堂々と国葬賛成の理由を論述したらよかろう。せめて、「理解できぬ」ではなく「私はこう思う」というべきではないか。でないと、「理解できぬ」は「理解の能力がない」と読まれてしまいそう。以下、逐語的に反論しておきたい。
「本紙は14日付主張で、『国際社会が示してくれた追悼にふさわしい礼遇を示すことが大切だ』と指摘し、国葬の実現を求めていた。決定を歓迎する。」
結論からいえば、産経主張はこれが全て。要するに、後進国コンプレックスに凝り固まって、「外国ではこうするもののようだ」「外国に見習わなくてはならない」「外国に恥をさらしてはならない」と言うだけのもの。もっと自立し自信をもつべきだろう、産経さん。
しかも、国際社会は安倍晋三の何たるかその正体を知らない。知っていたところで、面と向かって「政治を私物化しウソとごまかしを糾弾された最低の首相」とは言えない。外交儀礼のおべんちゃら追悼を真に受けて、「国際社会が示した追悼にふさわしい礼遇」とはチャンチャラおかしい。以下、社説の各文に反論する。
「各種世論調査で、国葬に賛意を示す国民は多数を占めているが、慎重派も少なくない。野党も共産、立憲民主、社民などが国葬実施に反対している。」
「各種世論調査で、国葬に賛意を示す国民は多数を占めている」は、安倍晋三並みのごまかしと言ってよい。正確には、「これまでの世論調査の中には、安倍晋三の国葬に賛意を示す国民が過半を占めるものもあったが、国葬を行うにふさわしい圧倒的な国民の賛意は示されていない」「むしろ、圧倒的多数が国葬反対を示す調査結果さえ散見される」「しかも、国民が銃撃事件の衝撃から醒めて平静を取り戻し、銃撃犯容疑者の犯行の動機や背景が知れ渡るにつれて国葬に賛意を示す国民は減少しつつある」と言うべきであろう。
産経が挙げる、共産党志位和夫委員長の国葬反対理由は、
?国民の評価が分かれている元首相の業績を国家として賛美することになる
?元首相への弔意を強制する―の2点であるそうだ。
産経がこれを「理解できぬ」として、いかなる「反論」を行うのかと思えば、肩透かしである。
?に対しては、以下の論述が「反論」のようである。
「白昼の銃撃で倒れた安倍氏の葬儀を国葬として執り行うことは、国民の支持を得て長く政権を預かった元首相を国として追悼するばかりでなく、日本が「暴力に屈せず、民主主義を守り抜く」(岸田文雄首相)姿勢を内外に示す意義がある」「アベノミクスなど評価が分かれている元首相の業績を無条件で賛美するわけではない」
要するに、国葬の積極理由は《安倍晋三が長く政権を維持したこと》《暴力に屈せず、民主主義を守り抜く》ためだけであって岸田説明の域をまったく出ていない。その上で《その業績を賛美するわけではない》と言い訳をするのだ。これでは、噛み合った反論として成立していない。
共産党・志位は、「どんな理由を付けようとも、安倍晋三を国葬にすれば、国が公的に安倍の所業を国家として賛美する効果を生じることになるではないか。そのような、問題首相の死の政治利用は許されない」と言っているのだ。産経はこの問いかけ答えていない。
?「元首相への弔意を強制する」という反対理由に対する産経の「反論」は以下の記述のようである。
「弔意の強制についても政府はすでに9月27日を休日とせず、黙禱(もくとう)なども強制しない方針を明確にしている」
信じがたいことだが、産経は「葬儀当日を休日とせず、全国民に黙禱を強制することはしない」とすれば弔意の強制をすることにはならないと本気で考えているのだろうか。
主権者の一人であり人権主体でもある国民一人ひとりにとって、政権が国葬を強行することそれ自体、また国葬に国費を投じることそれ自体が、国民に対する弔意の強制である。国家から拘束されることのない精神の自由を害することなのだ。産経には、このことの理解を求めたい。
なお、この産経社説によれば、立憲民主党の泉健太代表は「天皇陛下や上皇陛下の国葬については国民の理解があるが、それ以外はないと思う」と述べ、安倍晋三の国葬はふさわしくないとしたそうだ。産経は「この批判は的外れである」としている。私も、同様にまったくの的外れだと思う。天皇であろうと皇族であろうと、人の死に対しての弔意の強制が許されてよかろうはずはないのだから。
「国葬は弔問外交の場ともなる」「エリザベス女王が国家元首を務める英国でも1965年、チャーチル元首相の国葬が行われ、各国の国王や元首、首相ら111カ国の代表が参列、日本からは岸信介元首相が列席した」
何とも情けない。外交の必要があれば、その都度に必要な人物と接触し交流したらよいだけのこと。弔問外交のための国葬など、本末転倒甚だしく理由にもならない。
「『地球儀を俯瞰する外交』を掲げ、「自由で開かれたインド太平洋」構想の実現に尽力した安倍氏を国葬で各国の首脳とともにしのぶのは、国益にかなっている。」
この辺りに、ホンネが出ている。思惑あって安倍晋三の功績を称えたいのだ。プーチンやトランプに手玉に取られ、中国や韓国・北朝鮮ともうまくいかず、なんの成果も挙げられなかった無為無策無能の安倍外交。さらには、政治の私物化だけには余念のなかった安倍政治。国葬でのごまかしを許してはならない。
「政府は、国葬の意義をさらに詳しく国民に説明するとともに、元首相の国葬後に、国葬に関する法令の整備を進めてもらいたい。」
これは、右派からみての政府の説明不足の歯がゆさを語る一文として貴重なもの。実は、説明不足ではなく、説明不能な事態が続いているというべきなのだ。
そして、社説は最後をこう締め括っている。
「国家に功績のあった人物を国葬で送るのは、諸外国では当たり前である。日本もそうあるべきだ。」
おやおや、日本の右翼は日本固有の歴史や伝統を重んじる立場ではなかったのか。何というご都合主義。諸外国では当たり前だから、日本も真似をせよとは情けなや。