澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

森友事件は終わってない。首相夫妻の国政私物化を忘れてはならない。

本日は、森友関連事件について要請に最高検へ。下記の要請書を持参した。

森友事件とは、その本質は最高権力者の国政私物化にある。その国政私物化が刑事事件として表面化したものが、近畿財務局の国有地8億円値引き問題である。払い下げの相手は、首相の妻が名誉校長の地位にあった私立小学校経営者。問題の土地はその小学校の敷地で、学校が完成すれば、首相夫妻好みの極端な右翼教育が行われるはずであった。

幸いにことは露見して、この学校建設計画は頓挫し、首相夫妻への批判が巻きおこった。しかし、首相の下僕となった官僚機構は、記録を隠蔽し、改竄して、首相を国会の追及からかばった。

そこで、刑事司法の出番となった。多くの刑事告発が申し立てられた。被告発人を近畿財務局の担当職員とする背任罪や、この追及をかわした高級官僚の公文書毀棄・変造、あるいは証拠隠滅など。

通常であれば、起訴されて当然のところが、大阪地検特捜部はこれを全部不起訴処分とした。こうして、舞台は検察審査会に移り、今年(2019年)3月にその一部が「不起訴不当」の議決となった。

現在、大阪地検特捜部が、再捜査をしているが、首相の忖度で固められた政治や行政の雰囲気の中で、政治的な圧力を排して検察の使命を果たすことができるだろうか。

この事件の処分は特捜限りではできない。大阪地検でも判断はできまい。常識的に、最高検の判断に依らざるを得ないだろうとの印象をもっている。ぜひとも、最高検には、大阪地検特捜部に対する「政治的圧力に負けずに、検察の使命に徹して、厳正な捜査を遂げて、起訴に至るよう」指導を求めたい。無理に、起訴せよというのではない。大阪検察審査会も、起訴あってしかるべきと明言している通り、不当な政治的影響なければ当然に起訴となるべき事案なのだ。

最高検への要請の後、司法記者クラブで記者会見。「森友事件は終わっていない。忘れてはならない」と。

(2019年7月17日・連続更新2298日)

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「森友関連告発事件」についての指導の要請

2019年7月17日

検事総長 稲田伸夫殿

当該事件告発人  醍醐聡外 計19名

同告発人ら代理人弁護士  澤藤統一郎

同            杉浦ひとみ

同            佐藤 真理

同            澤藤 大河

 

(連絡先 〒113-0033 東京都文京区本郷5丁目22番12号

                  弁護士 澤 藤 大 河)

 

指導を求める告発事件(以下「本件告発事件」)の特定と経過

2017年10月16日 東京地検に告発(被疑者・池田靖 罪名・背任)

同 年10月27 日 大阪地検へ移送

2018年 5月31日 大阪地検検察官不起訴処分(平成29年検第17422号)

(なお、関連の告発被疑事実について被疑者38人全員を不起訴)

同 年 6月 4 日 大阪検察審査会に審査申立

同 年 6月 5日 大阪第一検察審査会審査申立受理(平成30年検第13号)

2019年3月15日 大阪第一検察審査会(以下、単に「検察審査会」)

が「不起訴不当」の議決

2019年3月29日 検察審査会上記議決要旨を通知

現在、大阪地検特捜部において再捜査中

要請の趣旨

  本件告発事件について、貴職より、最高検察庁のしかるべき機関を通じて、再捜査担当の大阪地検検察官に対して、一切の政治的思惑を排して、刑事訴訟法の原則と検察官のあるべき使命に従い、十全の捜査を遂げた上、起訴処分に至るべく指導を求める。

要請の理由

1 本件告発被疑事件(背任)の概要

被疑者池田靖は、財務省近畿財務局管財部統括国有財産管理官の任にあって、国に対して、国有財産法、財政法等の規定に基づき、同財務局管内の国有地を売却するに当たっては売却対象の土地の価格について十分な調査をして適正な価格で売却し国が損害を被ることがないようにすべき任務があるのに、その任務に背き、学校法人森友学園理事長らと共謀の上、同学園の利益を図り、かつ、国に損害を加える目的で、大阪府豊中市所在の国有地の売却価格1億3400万円が同土地の更地価格9億5600万円に比して著しく低廉な価格であることを知りながら、2016年6月20日、同土地を同学園に1億3400万円で売却し、もって国に財産上の損害を加えたものである。

2 検察審査会不起訴不当議決の留意点

(1)大阪地検検察官の不起訴処分を不当とした検察審査会の議決要旨は本件背任の嫌疑の核心をなす地下埋設物の撤去費用の見積もりに疑問を呈し、「本件と利害関係のない他の建設業者のみならず、教育あるいは保健機関の意見も参考にし客観性のある試算を行うなど廃棄物の撤去処理費用について、さらに捜査を尽くすべきではないかと考える」と指摘している。

また、8億円余の値引きの根拠とされた森友学園側からの損賠賠償の提訴の虞について、学園側の代理人弁護士でさえ、「国を相手にする訴訟は相当厳しいものになると認識していたことがうかがえる」、「そもそも、・・・・本件で問題とされる生活ゴミは〔地下埋設物撤去等工事〕契約の対象外とされていたことを考慮すれば、その責任の全てを国が負うと考えるのは納得できない」と厳しい疑問を投げかけている。

(2) 大阪地検検察官の不起訴処分を不当と議決した検察審査会議決要旨の理由中に、以下の異例の記載がある。

「背任罪に関しては、検察官において、政治家らによる働きかけの影響の有無につき検討をしていることから付言すると、確かに本件不起訴記録中の被疑者の供述などからは、森友学園側の働きかけによる政治家の秘書等から財務省に対する陳情、問い合わせ等があった事実を受け近財を含む国側がこれに応じて何らかの便宜を図ったことがうかがえる証拠は認めなかった。しかし、本件不起訴記録にある証拠のみでは、政治家らによる働きかけの影響の有無については判断しがたく、この点についても検察官は、さらに捜査を尽くすべきと考える。」

「以上のことを踏まえ、当検察審査会の判断としては、上記趣旨のとおり議決するものであるが、最後に付言するとすれば、背任罪について、本件のような社会的に注目を集めた被疑事件については、公開の法廷という場で事実関係を明らかにすべく公訴を提起する意義は大きいのではないかと考える。

従って、本件の被疑者中、その不起訴処分を不当とした者については、検察官において、更なる捜査を尽くし、その上での再考を要請する。」

(3) 即ち、検察審査会も、審査に顕出された資料の範囲では、「近畿財務局を含む国側が、政治家の秘書等から財務省に対する陳情等に応じて、何らかの便宜を図ったことがうかがうべき証拠は認めなかった。」とは言う。

しかし、明らかに同議決は、疑惑を否定し得ないものとしている。検察官が作成した「本件不起訴記録にある証拠のみでは、政治家らによる働きかけの影響の有無については判断しがた(い)」というのである。

このことを前提に、検察審査会は、背任の罪体についてではなく、背任の動機としての「政治家らによる働きかけの影響」の有無、具体的には「近畿財務局を含む国側が、政治家の秘書等から財務省に対する陳情等に応じて、何らかの便宜を図ったこと」についても、「検察官は、さらに捜査を尽くすべきと考える。」と明言しているのである。このことの意味は大きい。

(4) 検察審査会の本件議決が、わざわざ「本件のような社会的に注目を集めた被疑事件については、公開の法廷という場で事実関係を明らかにすべく公訴を提起する意義は大きいのではないかと考える。」というとおり、本件被疑事実には、国民誰もが大きく注目している。国民誰もが、徹底して事実関係を解明するために起訴あってしかるべきと考えてもいる。

その注目の理由は、特定の公務員ひとりの犯罪の成否にあるのではなく、厳正であるべき国有財産の管理が、内閣総理大臣の任にある政治家と、その妻が介在することによって、「只同然の価格で」払い下げられたのではないかという疑惑にある。公正で平等であるべき行政が、有力政治家によって私物化され、ゆがめられたのではないかという疑惑である。

(5) 検察審査会の本件議決は、敢えて明言を避けてはいるものの、上記の疑惑を払拭し得ないものとしている。婉曲には、「政治家らによる働きかけの影響」によって、本件背任行為がなされたことの疑惑の存在を肯定し、これを前提としての立論をしている。留意すべきは、その点についての捜査の不徹底が、本件の捜査と処分をした検察官のありかたの批判ともなっていることである。

即ち、「近畿財務局を含む国側」だけでなく、「公正であるべき検察」も、「政治家らによる働きかけの影響」をうけているのではないかとする疑惑が示唆されているといってよい。

検察審査会の本件議決は、確かに「本件不起訴記録にある証拠のみでは、政治家らによる働きかけの影響の有無については判断しがた(い)」とはいう。しかし、その点に関する検察の捜査の不徹底を批判して、「検察官は、さらに捜査を尽くすべきと考える」と明言しているのである。

いま、政権中枢は、行政私物化の疑念のみならず、司法の一翼を担う検察の私物化疑惑をも抱えるに至った。

本件議決の指摘はそう読まなければならない。

(6) なお、以上の検察審査会の判断は、罪体自体の捜査については、これを不十分と指摘するところはない。捜査報告書に記載された事実関係の把握によって、被疑者の背任罪の成立は当然に認められるとしているものである。

しかも、背任罪の被害額が8億円余と巨額であるだけでなく、「この上なく社会的な注目を集めた被疑事件」でもある。当然に、公開法廷において事実関係を明らかにすべく公訴提起あって然るべき事件であるにもかかわらず、不起訴とされた。森友関連諸事件での被告発者は計38名にのぼるところ、その全員が全被疑事実について不起訴となった。国民の目からは、政治的背景なくしてはあり得ない処分であり、検察自らが、政権へのおもねりによる処分との疑惑を招いたものと指摘せざるを得ない。

3 貴職に適正な指導を求める理由

検察の使命は、厳正公平・不偏不党を旨とし、迅速適正に、犯罪の真相を解明し、罰すべきものがあれば、これに対して公訴を提起し、公開の法廷で事案を明らかにするとともに、被告人の人権を保障しつつ、適正な刑罰が科されるように公判を維持することにある。そして、検察庁においては、国家意思の統一の保持のため、検事総長を頂点とする一体の組織として活動することが要請される(「検察官同一体の原則」)。この検察官一体の原則は、国家刑罰権の発動を促す個々の検察官の判断における公平を図ることのほか、厳正公平・不偏不党を貫くことが困難な権力との対峙の場面では、検事総長が検察庁を統一することが求められるのである。このことによって、あるべき社会秩序を維持し、公平で安全・安心な社会の実現への貢献が期待されるところである。そのことの徹底によって、国民は検察を信頼しうることになる。

ところで、検察の使命である厳正公平・不偏不党を侵害する最大のものは、政治権力であり行政権力である。検察の使命は、このような巨悪と対峙し、一歩も退かずに、「巨悪を眠らせない」姿勢を貫くところにあり、そのことによって、検察は国民の信頼を勝ちうることが可能となる。

検察は、はたしていま、そのような国民の期待に応え得ているだろうか。国民の付託に応えるよう努力しているとの信頼を勝ち得ているだろうか。

残念ながら、巨悪は枕を高くして眠っているのではないか。少なくとも、そのような疑惑を払拭し得ていない。

本件告発人らは、主権者国民を代表する立場において、貴職に要請を申しあげたい。

本件告発事件の再捜査は、大阪地検特捜部における担当検察官によって進展しているが、その捜査の徹底と、不起訴処分を覆しての起訴処分は、大阪地検限りでの判断ではなしがたいものと考えざるをえない。既述のとおり、本件の政治的背景には厳しいものがあり、処分以前に最高検の指導や指示を仰ぐことになると予想されるところである。

この点について、貴職より、最高検察庁のしかるべき機関を通じて、再捜査担当の大阪地検検察官に対して、一切の政治的忖度も思惑も排して、刑事訴訟法の原則と検察官のあるべき使命に従い、厳正な捜査を遂げた上、起訴処分に至るべく指導を尽くされたい。

とりわけ、検察審査会の本件議決が指摘するところに十分な配慮をして民意に応え、公平・不偏不党を旨とする検察の姿勢を貫き、国民の信頼を勝ち得る努力を通じての成果を上げるよう、衷心からの期待と要請を申しあげる。

以 上

「怖い絵」よりもずっと怖い、実人生の闇。

中野京子「怖い絵(角川文庫)を読んでいる。22の「怖い」絵画それぞれに、みごとな解説が付けられている。中で出色に「怖い」のが、作品10のゴヤ「我が子を喰らうサトゥルヌス(プラド美術館)。これは、解説不要で、視覚的にこの上なく怖い。

ローマ神話のサトゥルヌスは、ギリシア神話ではクローノス。父ウラノスを殺して、神々の上に君臨するが、父ウラノスの最期の言葉が、「おまえもまた自分の子どもに殺されるだろう」という呪いだった。サトゥルヌスは、この呪いを恐れて次々と自分の子供を喰らうのだが、結局はウラノスの予言のとおり、6番目の子ユピテル(=ゼウス)に殺されることになる。

この「親が子を食うという衝撃的なテーマは、絵画における恰好の題材となり、多くの画家たちに取りあげられることになった」という。同書では、同名のルーベンスの作品が紹介されている。これも怖い。

著者は、「我が子を喰らうという極限のこの姿は、地獄を見た者にしか描けないと思わせる」という。その上で、さながら地獄の現実を見たゴヤの体験を解説する。あらためてこの絵を見直すと、怖さは一入である。143cm×81cmという原画の怖さはいかほどであろうか。

この絵の解説の最後が、こう締めくくられている。
「作今、親の子殺しがマスコミをにぎわしている。ふと思ったのだが、彼らはこのサトゥルヌスの絵を知らないのだろうか。もし、一度でもこの絵を見たならば、自らの浅ましい姿をサトゥルヌスに重ねずにはいられないはずだし、ひとつの抑止力にはなるような気がするのだが…」

この解説の初出は、2007年7月のようである。たまたま、一昨日(6月1日)元農水省事務次官(76)の長男殺害事件が胸に突き刺さる。彼は、生きたまま地獄に身を投じたのだ。

「怖い絵」(角川文庫)には、もう一つの子殺しの作品が紹介されている。作品19のレービン「イワン雷帝とその息子(トレチャコフ美術館)である。1885年に描かれた200cm×254cmの大作。これは、解説がとても興味深い。

雷帝と恐れられたロマノフ王朝の皇帝イワン4世は、暴君として知られた人。妊娠中の皇太子妃を打擲して流産させてしまい、これに意見をこころみた皇太子を、逆上のあまり打ち殺してしまう。問題の絵は、その直後我に返って後悔の念で瀕死の息子を抱きかかえる皇帝の姿を劇的に描いたもの。

中野は、「これは、歴史画の装いを凝らした現体制批判の絵画なのだ」という。もはや統治能力を失った老人の愚行。その愚は、今なお繰り返されているのではないか。それが、ロシアの現実に果敢な抗議を続けたレービンの芸術における目的であったという。

なるほど、洋の東西を問わず、やんごとなき家柄も権力者も、愚行を重ねるものなのだ。愚行の狂気が醒めたあとでなければ、愚行の愚行たる所以は顕れてこない。

それはともかく、自らの手で息子を殺害せざるを得ない立場に追い込まれた元次官の切羽詰まった心情を思いやらざるを得ない。人知れぬ親子関係や家族の悩みは、やんごとなき家柄でも高級官僚でも、庶民と変わるところはない。

今、殺人罪で勾留されている元次官は、サトゥルヌスの絵を知らなかっただろうか。知っていて、自らの浅ましい姿をサトゥルヌスな重ねたのだろうか。あるいは、自らの浅ましい姿を自覚しつつも犯行に及んだのだろうか。

「狂気に捉われるのは怖ろしいことだが、狂気から覚めて自分のしたことを突きつけられるのは、さらに一層怖ろしいことではないだろうか。ツァーリの両の眼がそれを如実に物語っている」

「レービンが伝えようとしたのは若者の痛ましい死だったはずなのに、強烈なインパクトを持って迫ってくるのは、自らの取り返しのつかない愚行に愕然とする老人の方である。彼の絶望、彼が感じる恐怖の、圧倒的なまでの大きさの方である」

元次官も、自らの取り返しのつかない愚行に愕然としたのだろうか。あるいは、こうなる以外に策はなかったと諦念しているのだろうか。またあるいは、圧倒的な絶望のうちにあるのだろうか。軽々に、批評も批判もできかねる人生の闇の深淵。絵画も怖いが、実人生の怖さは、底が知れない。

司法が向き合っているのは、絵画でもバーチャルでもない。リアルな実人生の、深刻な闇の部分なのだ。
(2019年6月3日)

「靖国抗議見せしめ弾圧」刑事公判に世論の関心を

昨日(5月11日)は、森友事件の刑事告訴と検察審査会の議決を話題にした。首相とその妻の関与疑惑濃厚の「国有地タダ同然払い下げ不正」被疑事実が背任告発であり、その疑惑が明るみに出ぬよう蓋をせんとした証拠隠滅、公文書変造、公用文書毀棄・隠匿の諸告発である。告発された被疑者総数は38名に及ぶ。

首相にまつわる忖度派ご一統以外の圧倒的な国民が、徹底した疑惑解明を望み、起訴あってしかるべきだと考えている。犯罪の構成要件を充足する事実の存在は明らかといってよい。ところが、大阪地検特捜部は、その全部を不起訴とした。忖度による犯罪を、忖度によって不起訴とした、と評されて返す言葉もなかろう。

その反対に、首を傾げざるを得ない起訴と長期勾留が問題となってもいる。「えっ? こんな事件を起訴するの?」「こんな微罪で、こんなにも長期勾留するの?」という、これも検察の政権への忖度が疑われる処分。その典型が「倉敷民商弾圧事件」と「香港人の靖国神社建造物侵入被告事件」である。

「倉敷民商弾圧事件」については、以前に触れた。
「未決勾留428日の民商職員に、一審有罪破棄(差戻し)の控訴審判決」(2018年1月15日)
http://article9.jp/wordpress/?p=9762

本日は、後者を取りあげたい。支援組織の名称が、「12.12靖国抗議見せしめ弾圧を許さない会」という。これに倣って、「靖国抗議見せしめ弾圧」事件と呼ぶことにしよう。
事件は、昨年(2018年)12月12日の早朝に起きた。南京大虐殺の日として記憶される日(12月13日)の前日にあたるこの日の午前7時ころ、香港人の郭紹傑(55)と厳敏華(26)ら2人が、靖国神社の敷地に正当な理由なく立ち入ったとして警視庁に現行犯逮捕された。その後、12月16日に建造物侵入の罪名で起訴され、引き続く勾留が現在に至っている。この間4回の保釈申請がいずれも却下され、身柄の拘束は既に5か月を超えた。

公訴事実は、「被告人両名は、共謀の上、正当な理由がないのに、…(靖国神社の)「外苑」と称される敷地内に同神社神門前、参道入り口から侵入した」というもの。これだけが挙証対象であり、比較的微罪(最高刑懲役3年)でもある。およそ、実害はない。表現の自由侵害の側面は否定しがたい。まさしく「見せしめ弾圧」というにふさわしい。ゴーンのケースよりも、はるかに深刻な「人質司法」弊害の典型例というべきだろう。

第1回公判の罪状認否では、郭被告は「戦争責任を認めないことへの抗議行動で、表現の自由の範囲内だ」と主張。厳被告は「香港のラジオ局から頼まれて郭被告の抗議を撮影したが、取材の自由に当たる行為だ」と述べたと報道されている。

サンデー毎日(牧太郎)によれば、二人の行為は、「靖国神社の神門と第二鳥居の間の石畳で『南京大虐殺を忘れるな! 日本の虐殺の責任を追及する』と中国語で書かれた横断幕を広げ、東條英機元首相の位牌を模した紙を燃やし、もう一人はそれを撮影していた」のだという。また、「郭被告は香港の民間団体『保釣(ほちょう)行動委員会(中国に尖閣諸島の領有権がある!と主張する団体)』のメンバー。「南京事件(1937年)の賠償を、日本政府は被害者に行っていない!」と主張していた。香港のネットでは「この男は反中国活動家で、雨傘革命の先頭にいたのではないか?」などと話題になった。
また、被告人郭は、「昨年12月「長期勾留」に抗議して、約100時間絶食し、その結果、同27日体調不良で検査のため病院に運ばれたりした」という。

これまでの法廷傍聴者からは、次のような報告がなされている。
「2人に対して罵声を浴びせるためだけに、右翼が大量に動員をかけて10人ほど入りこんでいたと思います。その彼らは、法廷の終了が宣告されるや否や、被告に対して差別的な暴言を繰り返しました。その中には、私たちの集会などにも日常的に「カウンター」をかけてくるレイシストも含まれていました。」
また、法廷通訳(北京官話ではなく、広東語)の水準が不十分だとも聞く。

この事件の被告人二人の立場は極めて弱い。天皇代替わりで日本のナショナリズムが沸騰しているこの時期、政権と靖国を直接の敵にまわしているのだから。日本社会の圧倒的多数派世論と敵対的な関係にあるということだ。しかも、外交的に困難な事情として、中国は味方になってくれないということもある。

しかし、最も弱い立場の人権こそが擁護されなければならない。まずは、保釈が認められてしかるべきだ。ゴーンのように注目されないこの事件に、世論の関心を期待したい。

5月22日午前10時から、第3回公判が予定されている。この日には、検察側証人として警察官二人が証言する。なお、傍聴抽選は、同日9時半締め切りとのこと。
(2019年5月12日)

「法と民主主義」最新号 再審問題特集のご紹介

日本民主法律家協会のホームページが、リニューアルされた。一昨日(4月1日)からのお披露目となっている。見映えよく、読み易い。なかなかよくできている。中身の充実ぶりは、従来からのものだが、なおこれからが期待される。

そのURLは、下記のとおり。是非、ご覧いただきたい。
https://www.jdla.jp/

そのホームページに重要な位置を占めるのが、機関誌「法と民主主義」のコーナー。

2019年2/3月合併号【536号】
特集★再審開始に向けた闘い──冤罪をただすために

◆特集企画にあたって                  高見澤昭治
◆戦後冤罪の原点・帝銀事件──20次に及ぶ再審請求   渡邊良平/山際永三
◆三鷹再審請求事件──再審開始に向けた科学的な主張立証 野嶋真
◆一審無罪、一転死刑に・・・獄死─名張毒ぶとう酒事件40年に及ぶ闘い
                                                       鈴木 泉
◆狭山再審請求事件──すでに崩壊している秘密の暴露   中北龍太郎
◆袴田再審請求事件──原則を貫いた迅速な審理を     戸館圭之
◆マルヨ無線再審請求事件──火災はなぜ発生したのか    岩下祐子
◆大崎再審請求事件──アヤ子さん92歳、命あるうちに無罪を 鴨志田祐渼
◆日野町再審請求事件──虚偽の証拠と証言で無念の獄中死   玉木昌渼
◆松橋再審請求事件──もうすぐ無罪・再審請求から決定まで  斎藤 誠
◆福井女子中学生殺人再審請求事件──供述証拠だけに基づく判決 佐藤辰弥
◆鶴見再審請求事件──「これで死刑はないよな」まず有罪あり粗雑な認定
                             大河内秀昭
◆唯一残る死刑執行後の再審請求──重要証拠の改ざんもあきらかに 飯塚事件
                             徳田靖之
◆恵庭OL殺人再審請求事件 ──「推定有罪」を打ち砕く科学的新証拠を提示
                              中山博之
◆事件にされた「単純事故」──仙台北陵クリニック再審請求事件 阿部泰雄
◆豊川再審請求事件──「無辜の救済」という司法の任務に立ち返れ 菊地令比等
◆小石川再審請求事件──新たな証拠開示で再審開始を       三角 恒
◆湖東記念病院再審請求事件──この事件から汲み取るべき教訓・弁護士立合いの必要性
                              井戸謙一

特集の趣旨を語っている「特集企画にあたって」の一部を引用しておきたい。

 誠に残念なことであるが、我が国の司法は死刑判決を含め、冤罪を生み続け、冤罪事件が跡を絶たない。
 その原因はどこにあるのか。本誌2016年11月号の特集「日本国憲法公布70年ー原点から今を問う」において、長年にわたり裁判官を務めた秋山賢三氏は「司法は冤罪と向き合うことができるか」の中で、裁判制度の「徹底した中央集権的組織、官僚的統制」、「起訴した以上は何が何でも有罪を獲得することに徹底的に固執する検察」、それと「劣悪な弁護環境」を挙げている。
 冤罪被害の深刻さは、それを経験したものでなければ分からないが、その影響は本人にとどまらず、家族全体が奈落の底に突き落とされたようなひどい目に遭い、一生を台無しにされてしまう。
 2010年から16年にかけて、足利、布川、東電OL、東住吉と、無期懲役刑で再審無罪が相次いだが、数多くの冤罪の存在を知ると、有罪率が99・何パーセントなどということ自体が、日本の司法の無能さを表していると言っても過言ではないであろう。
▼再審請求事件の実態
 冤罪を正すために再審請求を申し立てる事件が数多く存在するが、その実態はどうなっているのか。
本特集は、それを明らかにするために、日弁連人権擁護委員会が発行している「再審通信」などを参考に、現に闘われている主な再審請求事件を取り上げ、次のような依頼文を付して、弁護団にその報告をお願いした。
 「3000字という短い文章に纏めるのは、大変だと思いますが、次の順序で執筆いただければと思います。①事件の概要、②捜査状況、③確定審の経過と結果、④再審請求審の経過と結果(なお、上記の中で、確定審および再審請求審の問題点について端的に指摘するとともに、できましたら弁護団長、主任弁護人、弁護人数、支援活動の紹介もお願いします。また、表題や項目毎に的確な見出しを付けていただければ、幸いです)。」
 本文を読んでいただければお分かりのように、いずれの事件についても、それぞれの弁護団から、忙しい中、渾身の思いを込めて報告がなされている。

上記事件の中で、唯一「もうすぐ無罪」と表題を付していた「松橋再審請求事件」について、「再審無罪」の判決が言い渡された。本号発刊間もない3月29日、熊本地裁でのこと。
また、本号発刊直前の3月18日には、最高裁(第2小法廷)が、検察官の特別抗告を棄却して「湖東記念病院再審請求事件」の大阪高裁再審開始決定が確定した。その結果、無罪判決に至ることは、確実視される。

両事件をはじめ、各事件の報告が、見込み捜査や自白偏重、そして再審の困難等々の、刑事司法制度改革の課題を示している。とりわけ、死刑事案の冤罪は深刻である。死刑廃絶も、視野に入れなければならない。

特集以外の記事の主なものは以下のとおりである。
トピックス●沖縄とフクシマ
■「辺野古県民投票」の経緯と結果─弁護士、そして、一市民として関わって
中村昌樹
■あの日から9年目を迎えたフクシマ            伊東達也
連続企画●憲法9条実現のために〈20〉
映画「憲法を武器として・恵庭事件知らざる50年目の真実」について  内藤 功
特別寄稿●国家が人を殺すとき
──死刑 、世界の現実、そして日本が死刑を廃止すべき理由
ヘルムート・オルトナー(本田 稔・訳)
司法をめぐる動き
・日本の士官学校の実態に迫る裁判─防衛大・暴行いじめ事件判決   佐藤博文
・1月・2月の動き                     司法制度委員会

メディアウォッチ2019《政治のごまかし メディアのすり替え》

統計偽造、官邸会見、国会答弁のウソ                丸山重威
あなたとランチを〈№44〉        ランチメイト・石井逸子さん×佐藤むつみ
新企画・「改憲動向レポート」(№12)
「私がうそを言うわけない」と発言する安倍首相                       飯島滋明
BOOK REVIEW前田朗著『ヘイト・スピーチ法 研究原論』三一書房 楠本 孝

「なるほど、面白そうだ」「ためになりそうだ」「読んでみたい」とおっしゃる方は、下記のURLから申し込みをいただきたい。できれば定期読者になっていただきたいが、もちろん個別のご注文も歓迎する。

https://www.jdla.jp/houmin/form.html

(2019年4月3日)

「りんと咲く 日の本一の 夫婦花」 - 泰典

「変装」とは、「変な装い」という意味ではない。他人の目から自分だと覚られぬように、別人を装うことである。昨日(3月6日)保釈されたゴーンが、マスクと作業服姿に身をやつした変装の意味が分からない。この奇妙な変装がもたらしたものは、この人案外にプライドのない人という印象のみ。

誰の進言なのかはどうでもよいことで、ゴーンが断れなかったはずはない。「私は私」「変装などあり得ない」と、なぜ言わなかったのだろう。堂々と、不当な長期勾留を受けた自分の素顔を曝すことで、検察権力と闘う闘志を見せればよかったのに。こそこそと身を隠した印象を残念に思う。

ゴーンはこの格差社会で、不当な利益を得ている階層を代表する人物である。多くの人からの搾取と収奪で財をなしている経済人の典型。しかもその性は傲岸不遜。社会的には指弾されて当然だが、権力に対峙すればやはり弱者でしかない。はからずも、長期の勾留を許す制度と闘う立場に立ったからには、姑息な策を弄せず、堂々としてもらいたい。

同じ日、大阪地裁の刑事法廷で、籠池泰典・諄子夫妻が、第1回公判の補助金詐欺事件の被告人席に着いた。この人の右翼的な思想や言動には辟易するが、臆するところなく堂々と権力に対峙しているところは評価せざるを得ない。報道では、紺色のスーツと金色のネクタイ姿だったという。作業服にマスクのゴーンとは雲泥の差。

この日、籠池は冒頭に自ら意見を述べている。「豊中の国有地が森友学園の学校敷地として大幅に値引きした価格で売却されたのは、官邸からの意向と忖度があったからだ」「補助金不正事件で自らが逮捕・起訴されたことは、国民の目をそらせるための別件逮捕」「口封じのための長期勾留だった」という批判。「安倍首相は自らの保身に舵を切った」とも指摘したという。一々もっともではないか。

この人、この日の入廷前に、メディアにサービスの一句を披露している。
「世直しの 息吹たちぬる 弥生かな」
句になっているかはともかく、この裁判を世直しの一歩にしようという心意気はよく表れている。もちろん、安倍が支配する今の世は歪んでいるという含意がある。自分の裁判を通じて、安倍政権の歪みを、真っ直ぐに糺そうというわけだ。

そして、長い意見陳述の最後を、また一句で締めくくった。
「りんと咲く 日の本一の 夫婦花」
句作のできばえではなく、安倍晋三・昭恵の夫妻に対する当てつけの心情をこそ読むべきである。かつては、右翼的信条をともにする仲間として、神風を吹かせてくれたのが安倍晋三と昭恵の夫妻。それが、いったん形勢利あらずと見るや、保身のために手のひらを返して仲間のはずの籠池夫妻を切り捨てたのだ。そのために、籠池夫妻は300日を越える勾留の憂き目を見ることになった。おそらくは、ハラワタが煮えくりかえる思いであろう。その思いを抑えてのサービスの一句なのだ。

籠池夫妻は、安倍晋三らの冷酷な仕打ちに負けることなく、300日を乗り切ったというプライドを堅持している。それを「りんと咲く」「日の本一」と表現した。夫婦の絆は、安倍夫妻とは比較にならずに強いと言いたいのだ。なるほど、そのとおりと頷かざるを得ない。

この日の安倍晋三のコメントは、報道に見あたらない。朝日によると、「菅義偉官房長官は首相官邸で開かれた午後4時過ぎの記者会見で、籠池氏の初公判について問われ、『個別の事件についてコメントは控えたい。ただ、あらゆる行政プロセスが公平、そして適切に行われるのは当然のことであり、今後ともこうした点に対して国民のみなさんの信頼が揺るぐことがないように取り組んでまいりたい』と語った。」という。

えっ? ホントはこうだろう。
「あらゆる行政プロセスが公平、そして適切に行われねばならないのは当然のことでありますが、安倍晋三の周囲では、不公平、不適切が際だっていることは否定しようもありません。しかしこれまで、こうした点に対して国民のみなさんには、極めて寛容にお目こぼしいただいてまいりました。国有地売却の値引き額が8億円なんて、些細な問題ではないか。総理大臣のオトモダチにそのくらいことは騒ぐほどのことはない。こうお考えいただいた結果、今日の安倍政権の安泰があるのです。今後とも、少々のことには目をつぶっていただくようお願いすることで、国民の皆様の安倍政権に対する盲目的信頼が揺らぐことがないように取り組んでまいりたいと思います」

森友問題の核心は、籠池夫妻の補助金詐欺疑惑にあるのではない。彼らが、「自分たちの起訴や長期勾留は、国民の目を暗ますための国策」と言うのは、まことにもっともなことなのだ。問題の核心は、国有地値引きの経過と動機と背景とにある。安倍晋三夫妻の口利き、少なくとも政権への官僚の忖度が、只同然の国有地払い下げになったのだ。これをどこまで暴くことができるか。それこそが、日本が真っ当な国家であるかの試金石である。

近畿財務局長をはじめとする担当者に対する背任罪告発が、事件の核心を暴き、政権を真正面から撃つものになる。告発案件は大阪検察審査会に係属している。その行方が、国民の最大関心事だ。検察審査会審査委員諸氏の勇気と見識に期待したい。
(2019年3月7日)

憲法と落語(その5) ― 「てれすこ」は、権力分立のない社会の噺

てれすこは、子どもの頃からラジオでよく聞いた。さして面白い噺ではない。何度聞いても、オチがよく分からなかった。不粋にオチを説明されても…、やっぱりよくは分からない。分かったようでも面白くはない。

「圓生百席」のCDで聞くと、マクラが実に巧みで面白い。ずいぶんと推敲された無駄のない語り口。聴衆のいないスタジオ録音であれだけ語れるのは、さすがに名人の芸。しかし、やっぱり噺自体はさして面白くはない。噺のなかでオチの説明がなされている。さらに、インタビューの芸談で説明が付加されているが…、オチはつまらない。

この噺、奉行所がやたらと大きな顔をする。漁師が漁場で珍しい魚を捕ったが、名前がわからない。そこでお役人に聞きに行く。というのが、噺の始まり。奉行所って、いったい何だ。漁師が、珍魚の名を聞きに行くところか。

もとより、魚の名前なんぞ役人が知るはずもない。だから、「知らぬ、存ぜぬ」「ここは、魚類鑑別所ではない」で済むところを、「調べをするからしばし待て」ということになる。で、その魚の絵を何枚も書いて、「この魚の名を存じる者は申し出よ。百両の賞金をつかわす」と広告する。この辺はバカバカしいが、落語らしくもある。

これが評判になり、近在から人が押し寄せる。なかに、多度屋茂兵衛という男。魚の名を知ると申し出て、もっともらしく現物を見てから、「これは『てれすこ』と申す魚にございます」。

「ん? 『てれすこ』?」。まさかとも、違うだろうとも言えない。役人だって知らないのだから。「サンタクロース」だって「WC」だって、なんでも良いのだ。役人は怪しいと思ったが、咎める訳にも行かず、「てれすこで100両はなかろう。30両にまけろ」とも言えず、100両持たせて帰した。

この話を奉行に伝えると、少し考えて、「この魚を干してみよ」との仰せ。干すと大きさも小さくなって趣も変わった。『この度も珍魚が捕れた。この魚の名が判る者は、役宅に届け出よ。褒美として金100両つかわすもの也』と、前と同じようにお触れを出した。再び人だかりがして大騒ぎ。
また、多度屋茂兵衛が現れ、その名を知るという。聞けば『すてれんきょう』だと言った。「先日は『てれすこ』と申したその魚を干したものが、どうして名が変わる。上を偽る不届き者め。吟味中入牢申し付ける」となった。その頃だから「吟味中入牢」。今なら、「予審中未決」(と圓生は言っている)。

吟味の末「多度屋茂兵衛。その方、『てれすこ』と申せし魚をまた『すてれんきょう』と申し、上をいつわり、金子をかたり取ったる罪軽からず。重き咎にも行うべきところなれど、お慈悲をもって打首申しつくる」と判決が下った。

その上で、「最期に何か望みがあれば、一つは叶えてつかわす。酒がほしければ酒を。タバコを吸いたければタバコでも」というので、茂兵衛うなだれて 「妻子に一目、お会わせ願いとう存じます」。

乳飲み子を抱いて出てきたかみさんのやせ衰えた姿に茂兵衛が驚いてようすを聞くと、「亭主の身の証が立つようにと、火物断ちをしていましたが、赤ん坊のお乳が出ないのはかわいそうなので、そば粉を水で溶いたものをいただいていました。そのため痩せ衰えて」と言う。「それほどわしの身を案じてくれてありがたい。もう死んでいく身、思い残すことはないが、ただ一つ言い残しておきたい。この子供が大きくなったのち、決して『イカ』の干したのを『スルメ』と言わせてくれるな」と遺言をした。

当時、奉行のお裁きに控訴ということは絶対にできなかった。が、男の機転の一言に、お奉行が膝を叩いた。「多度屋茂兵衛、言い訳相立った。『イカ』の干したのが『スルメ』。『てれすこ』を干して『すてれんきょう』でくるしゅうない。無罪を申し渡す」。

茂兵衛は喜んだ。首のなくなるのを、スルメ一枚で助かった。助かるはずです、おかみさんが火物(干物)断ちをしましたから。

今の世の国の仕組みは、三権分立てなことを申しますな。権力てぇものは恐ろしいものでできるだけ、権力は強くない方がよい。てれすこのお奉行なんて、権力そのもので、茂兵衛をペテンに掛けておいて、「入牢申しつくる」「その罪軽からず。お慈悲をもって打首申しつくる」なんて、ひどい話しじゃないですか。権力とは、人の自由を奪うことも、人を殺すこともできる。じゃあ、権力なんてない方がいいかというと、まったくなくても困るんですな。警察も消防も、上下水道もゴミの回収も、裁判所も刑務所もみんなの役に立っている。

そこで、必要な権力を適切に行使するような仕組みを考えなければならんというわけですな。そのためには、権力を集中せずに分散する。分散した権力が、相互に監視し合い、牽制し合うようにしなけりゃあいけない。

お奉行さまてぇのは、分立していない丸ごとの権力ですな。強すぎて危険きわまりない。奉行の権力をまずは法で縛らなきゃならない。奉行といえども、法の認めないことはできないようにしなければならない。「無礼者、入牢申しつくる」「打首申しつくるものなり」なんて、勝手に言い出されたのでは迷惑この上ない。法の縛りをかけて、不当、不合理な振る舞いを止めさせなければならない。

お白州での裁きの仕方についても、お奉行は権力強過ぎですな。文明の知恵は、訴追の権力と裁判する権力とを分離してきたわけですよ。そもそもが、お調べでは多度屋茂兵衛に十分弁明の機会を与えなくてはならない。できれば、弁護人も欲しいところ。

圓生は言っていますな。昔のお白州にムシロなんてない。砂利の上に座らせた。被告人だけてなく、証人までもだそうです。人権思想のない時代。くわばらくわばら。

権力てえものは、自分ファーストなんですな。ありがたがってはいけません。信用しちゃあいけませんね。権力は腐敗するんです。いつの世も同じことですよ。ましてや、一強への集中はいけません。アベシンゾーを見ていりゃあ、よくお分かりでしょう。
(2018年10月4日)

憲法と落語(その4) ― 「名人長二」では、無茶苦茶な刑事司法が語られている。

三遊亭圓朝とは、言わずと知れた落語界の大名跡。大名人として「大圓朝」とさえ言われる。大看板、大真打ち、大師匠。どこまでも「大」の付く別格の噺家。その技倆は伝説にのみ残されているが、幕末から明治の人とて録音はない。だから、圓朝の話芸そのものについては、誰しもが語りかねる。

写真は残されており、鏑木清方、河鍋暁斎などの人物画もある。それらを見る限り、面白い噺をして人を笑わせようというタイプにはみえない。人情話や怪談を専らにし、また多くの長編を創作して自演した。その速記録が、日本文学史上の言文一致体の形成に大きな役割を果たしたとされている。

速記録を見れば、なるほど大したものと思わざるを得ない。しかし、大圓朝の作だからなんでも結構かと言えば、そんなことはない。中には変な噺もある。

「名人長二」は、大圓朝創作の「変な噺」である。登場人物も多彩で、仔細を極めた筋書きだが、無茶苦茶なストーリーというしかない。

長い噺である。名人譚の見せ場である「仏壇こわし」の抜き読みなどは寄席や独演会にかかることもあるそうだが、私は聞いたことがない。志ん生のCDでは、各30分余で5話にまとめられている。何度か聞き直したが、やっぱり無茶苦茶だ。

時代は文政期。長二は、若いながらも名人の名を確立した指物師である。その名人気質や気っぷの良さの語りは聞いていて気持ちがよい。この名人譚だけでまとめておけば無難でよかったのにとも思うのだが、圓朝はこれをお白州ものとした。長二が、親殺しに及んで裁きを受けるのである。この点は、モーパッサンの短編「親殺し」を翻案したものとされている。この判決と、無理な判決理由をひねり出す過程が無茶苦茶なのだ。

あらすじをごくかいつまんで要約してみよう。
長二は、たまたま湯河原に傷養生の湯治に出かけて、自分の出生の秘密を知ることになる。自分はこの地で生み落とされて捨て子にされた。背中の傷は藪に捨てられたとき竹が刺さったためと聞かされれる。養父母は、これを拾って大事に育てたが、何も言わぬまま他界した。

その後、長二は亡き父母の菩提寺で、豪商亀甲屋幸兵衛とお柳の夫妻にめぐり遭う。長二は、贔屓にしてくれる幸兵衛とお柳を実父母ではないかと思うようになり、背中の傷を見せて問い質すが、夫婦は否定し続ける。そして、押上堤の場。長二は親子の名乗りをと迫り、これを拒否する幸兵衛が刃物をとりだし、もみ合いのなかで、長二は亀甲屋夫婦を殺害する。

長二は師匠の縁を切った上、奉行所に駆け込んで親殺しを自首する親殺しは大罪。南町奉行井和泉守の詮議が始まるが、長二は仔細を話すと親の恥が出るので話せない、このまま処刑して欲しいと言うばかり。さて、尊属殺をどう裁くか。

奉行の詮議の結果、29年前の「事件」が発覚する。実は、幸兵衛は長二の実父ではなく、長二の実父半右衛門殺しの犯人だったと判明。幸兵衛は、亀甲屋半右衛門の妻お柳と謀って半右衛門を殺し、亀甲屋を我が物としてお柳と夫婦におさまっていた。そして、そのとき生まれたばかりの長二を邪魔として捨てていた。

幸兵衛の殺害に関しては長二は親殺しではないばかりか、はからずも実父の仇を討ったことになる。ところが、問題として残ったのは、実母お柳殺しの罪状についてである。長二はまぎれもなく実母を殺したのだ。しかし、奉行と幕閣は、長二を何とか無罪にしたい。そこで、儒者・林大学頭の鑑定を依頼する。何とか無罪にする方策はないか、知恵をお借りしたいという趣旨である。

これに、大学はどう答えたか。青空文庫から引用する。
大學頭様は窃(ひそか)に喜んで、長二の罪科御裁断の儀に付き篤(とく)と勘考いたせし処、唐土(もろこし)においても其の類例は見当り申さざるも、道理において長二へは御褒美の御沙汰(ごさた)あって然るびょう存じ奉つると言上いたされましたから、家齊公には意外に思召され、其の理を御質問遊ばされますと、大學頭様は五経の内の礼記(らいき)と申す書物をお取寄せになりまして、第三巻目の檀弓(だんぐう)と申す篇の一節(ひとくだり)を御覧に入れて、御講釈を申上げられました。こゝの所は徳川将軍家のお儒者林大學頭様の仮声(こわいろ)を使わんければならない所でございますが、四書(ししょ)の素読もいたした事のない無学文盲の私には、所詮お解りになるようには申上げられませんが、あるかたから御教示を受けましたから、長二の一件に入用(いりよう)の所だけを摘(つま)んで平たく申しますと、唐の聖人孔子様のお孫に、あざなを子思と申す方がございまして、そのお子を白、あざなは子上と申しました、子上を産んだ子思の奥様が離縁になって後死んだ時、子上のためには実母でありますが、忌服(きふく)を受けさせませんから、子思の門人が聖人の教えに背くと思って、「何故に忌服をお受けさせなさらないのでございます」と尋ねましたら、子思先生の申されるのに、「拙者の妻であれば白のためには母であるによって、無論忌服を受けねばならぬが、彼は既に離縁いたした女で、拙者の妻でないから、白のためにも母でない、それ故に忌服を受けさせんのである」と答えられました、礼記の記事は悪人だの人殺ひとごろしだのという事ではありませんが、道理は宜く合っております、ちょうど是この半右衞門が子思の所で、子上が長二に当ります、お柳は離縁にはなりませんが、女の道に背き、幸兵衞と姦通いたしたのみならず、奸夫と謀って夫半右衞門を殺した大悪人でありますから、姦通の廉(かど)ばかりでも妻たるの道を失った者で、半右衞門がこれを知ったなら、妻とは致して置かんに相違ありません、然れば既に半右衞門の妻では無く、離縁したも同じ事で、離縁した婦(おんな)は仮令(たとえ)無瑕(むきず)でも、長二のために母で無し、まして大悪無道、夫を殺して奸夫を引入れ、財産を押領(おうりょう)いたしたのみならず、実子をも亡(うしな)わんといたした無慈悲の女、天道いかでこれを罰せずに置きましょう、長二の孝心厚きに感じ、天が導いて実父の仇を打たしたものに違いないという理解に、家齊公も感服いたされまして、其の旨を御老中へ御沙汰に相成り、御老中から直たゞちに町奉行へ伝達されましたから、筒井和泉守様は雀躍(こおどり)するまでに喜ばれ、…関係の者一同をお呼出しになって白洲を立てられました。

「離縁した以上は私の妻ではないから、子のためにも母でない」「だから、離縁相当のことをしでかしたお柳を殺しても、長二は母殺しにはならない」というのがこの噺のキー・センテンス。これが儒教であり、家制度なのだ。明治の聴衆は、この噺を違和感なく受け入れたのだろうか。さらに、半右衛門はお柳を離縁したわけではない。志ん生は「あの世で離縁したに違いない」と辻褄を合わせている。

こうして、判決言い渡し。長二は無罪。どころか、「非業に相果てたる実父半右衞門の敵を討ったのであるぞ、孝心の段、上にも奇特に思召し、青差拾貫文御褒美下し置かるゝ有難く心得ませい、且つ半右衞門の跡目相続」も、という無茶苦茶。念のためだが、この「上」というのは、天皇のこではなく将軍家斉のこと。圓朝は名君と持ち上げている。当時、天皇も将軍もおんなじようなものだったのだろう。

尊属殺が否定されたところで、通常の殺人罪は成立するはずだと思ったら、これも敵討ちとして無罪。実母を殺しても、実母が家長殺しなら、むしろ仇を討ったとしてのご褒美頂戴だという。長二本人には、敵討ちの意図などさらさらなかったのに、である。

この判決の無茶苦茶さは、おそらく巧みな話芸が糊塗したのだろう。聴衆は、不幸な過去を持ちながらも、気っ風のよい善人長二に感情移入させられている。その長二が無罪なのだから、終わり良ければすべて良しとなる。

しかし、お白州とは、裁きとは、刑事司法とは、「お上」の思惑次第でどうにでもなるのでは困るのだ。世の中には、善人集団と悪人集団とがあるわけではない。司法の役割は悪人集団に属する者を摘発して裁くことではない。犯罪を犯した者を、罪状に応じて処罰することに尽きるのだ。善人長二を救って大団円という、「大圓朝」の変な噺に欺されてはならない。
(2018年9月19 日・連続更新1998日)

憲法と落語(その2) ― 「帯久」にも公正な裁判を受ける権利がある

「帯久」という演目は寄席では聞けない。なにしろ長い噺だ。くすぐりや笑いは殆どない。サゲも面白くない。これを聞かせるのが、話者の力量。

もとは上方噺。米朝が得意としていたという。これを享保年間の江戸の噺に移し替え、名奉行大岡越前の裁きとしたのは圓生(六代目)だという。いま、志の輔や円窓が独演会で演るそうだが、私は圓生百席のCDでしか聞いたことがない。

このCDの語り口が実にみごとで、ついつい聴きほれてしまう。聞き手の心理は、圓生の意図のとおりに操られて、それがまた心地よい。結末の大団円に違和感なく、後味の良さまで感じさせるのが名人芸。だが、ストーリーを反芻してみると、これは実にイヤな噺なのだ。ルールなきお白州の裁き。奉行の思い込みによる強引な訴訟指揮と判決。法にも証拠にも基づかない、およそ公正さを欠いた偏頗な結論なのだ。

この噺、別名を「指政談」という。「政談」とは訴訟を題材にした話のことだが、まさしく本格派政談。刑事事件と民事事件とがごっちゃになったお白州もの。圓生の噺のなかには、「民権のなかった時代のことでございます。原告・被告が砂利の上に控えております」などという描写が出てくる。

なぜ「指」か。自白強要の手段として指への細工が施される。奉行は紙片で帯屋久七の人差し指と中指を結んで糊付けて封印し、「この封印を破れば死罪」と脅して、自白を強要する。その奉行の「知恵」から名付けられた「指政談」。ここが一番イヤなところ。

この噺は、「享保五年の春、日本橋本町四丁目に和泉屋与兵衛という呉服店があり、二丁目には、帯屋久七さんという呉服屋さんがございました。」から始まる。「帯久」とは、帯屋久七という呉服屋。これがスコブル付きのいやな奴、悪玉という設定。対する和泉屋与兵衛が、これ以上はないという善人。

この二人の商売の盛衰と人間関係の葛藤が語られた後に、犯罪が起こる。「火付け」である。現住建造物放火(但し、未遂)の重罪。犯行に及んだのは、悪玉の帯久ではなく善人の与兵衛である。悪玉帯久は火を付けられた被害者の側。「善人」の犯罪をどう裁くか。何ゆえに刑罰が必要か、刑罰の本質とはなにかを考えさせる素材でもある。

火付けの動機に長い話しがある。当初は、和泉屋が繁盛を極め、帯屋は「売れず屋」と異名をとるほどの窮状。帯久は、与兵衛に金を借りに来る。最初は20両。これを返済した後30両、次いで50両、70両と金額は増えるが、与兵衛はいやな顔をせずに無利子で金を貸し、酒肴のもてなしまでする。そして11月、貸金の額は100両となった。

その年の大晦日。帯久は和泉屋に返済金100両を持参する。しかし、忙しい年の瀬、100両の金は与兵衛に見せはするが、与兵衛は受けとる前に座を外し、結局帯久はこれを懐にして帰宅する。この100両、与兵衛は自分の落ち度として、帯久への追求を断念する。

年が明けて享保六年、この二人の運が逆転する。帯久は、浮いた100両を使って売り出しの景品として、繁盛のきっかけをつかむ。一方、与兵衛は娘を失い、妻を亡くし、大火で店を失い、大病を患う。そして10年。与兵衛は零落した身で、帯屋の戸を叩いて、いささかなりともの借金を申し込む。自分を世話している元番頭の商売の元手を都合していただきたいという要請。ここが悪役帯久の見せどころ。にべもなく断るだけでなく、キセルで与兵衛の額を割って表に放り出す。

絶望した与兵衛は、死ぬつもりで帯屋の庭の松の枝ぶりを探しているうちに、普請場の鉋屑が目にとまる。ええい腹いせにと、これに火を付けたが大騒動の始まり。さいわい、火は消し止められるが、与兵衛は取り押さえられる。昔を知る町方は、内々に済ませようとするが、帯久が町奉行に訴え出て、ようやくにお白州の場面となる。事件を語らずして訴訟は語れないのだ。

訴え出たのが帯久だがこれは、被疑者与兵衛に対する火付けの告発のようなもの。火付けの動機についての調べの中で、百両のカネの返済の有無が問題となる。この民事事件に関しては、帯久は被告の立場。

大岡越前は、いたく権高い。エラそうなのだ。再三、帯久に「そちは、100両返したつもりで、実は返し忘れたのであろう」と誘導するが、帯久は断固として否認する。そこで、奉行は「思い出すためのマジナイ」として、右手の指2本を括って封印するのだ。

これでは、箸も持てない。眠れない。帯久は三日目に音を上げて「思い出しました。10年前、確かに100両借りて返し忘れていたに相違ありません」。で、100両返済することになった。だけでなく10年分の利息150両も支払えと命じられる。合計250両のうち、即金での支払いが200両、残額50両については、毎年1両、50年の年賦での支払いと和解成立し、その旨の証文が交わされる。

これで民事事件は終了。その上で、刑事事件の判決言い渡し。「和泉屋与兵衛。その方の火付けの罪軽からず。火あぶりの刑を申しつくる」「但し、刑の執行は奉行が仲立ちした50両の年賦支払いが完了した後とする」で、お開き。なお、このとき与兵衛は61歳という設定。50年先は111歳となる。

民事事件で、裁判官が被告に自白を強要するなどは言語道断。しかも、そのやり方がムチャクチャ。裁判の公正などはない。刑事事件としては、適正手続の観念がない。法治を曲げて、人治の極み。

本来、事実認定は、小さな間接事実を積み上げることで行われる。本件では、問題の大晦日のあとの帯屋の財務状況好転の原因に関心がもたれなければならない。暮れまであれ程苦しかった帯屋の台所が、新春には一転して豊かになった。そのカネの出所の追求が重要。裁きは、事実に謙虚でなくてはならない。

すべての人がもつ人権だが、もともと弱いもの。権力によっても経済力によっても社会的な多数派によっても、容易に傷つけられる。傷ついた人権を救済するのが、裁判の役割である。憲法32条は「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」と定める。ここには、人権の砦としての裁判所が想定されているのだ。「帯久は悪人だから人権はない」などと言ってはならない。火付けの与兵衛ともども公正な裁判を受ける権利が保障されなければならない。

大岡越前は、本来が行政官僚。江戸の治安行政のトップという立場にある。これでは、権力によって傷つけられた人権を救済することはできない。また、裁判の過程で、裁判官が人権侵害をしてはならない。刑罰を定める法も、訴訟手続の法も厳格に守られなければならない。

個別事例の具体的妥当性で、結果オーライとしてはならない。「帯久」がよくできた噺だけに、強くそう思わせられる。
(2018年8月30日)

憲法と落語(その1) ― 「鹿政談」と違憲立法審査権

文化爛熟の江戸期中期以後、庶民娯楽の舞台として寄席が栄えた。江戸八百八町(実数は千を越えていたとも)のどの町内にも一軒は寄席があったという。色物も隆盛だったが、メインは落とし噺。いまは、落語という語彙で定着している。

噺の庶民生活の隅々に題材がとられたが、その中の1ジャンルとして「お白州もの」がある。そのできのよいものが、現代にまでいくつも語り継がれている。庶民生活にお白州が密接に関わっていたからでもあり、「お白州はかくあれかし」という庶民の願望が強くもあったからでもあろう。

演目だけでそれと分かるのが「政談」が冠されたもの。有名なものが、「鹿政談」「小間物屋政談」「唐茄子屋政談」「遠山政談」「佐々木政談」など。あるいは、「大工調べ」「天狗裁き」「五貫裁き」など。演目だけではそれと分からないが、ストーリーに裁判が出てくる著名なものが、「三方一両損」「帯久」「一眼国」「名人長二」「てれすこ」などなど。

いずれもよくできた面白い噺で、「奉行や代官の裁きはこうあって欲しい」という願望がよく表れている。今日の言葉で言えば、「血の通った裁判」を望む庶民の思いがつくり出したストーリー。

落語に出てくるお白州と日本国憲法下の裁判所とは、似ているようで異質なものとも言えるし、異質なようで実は本質は変わらないようでもある。

今後のブログで、順次取り上げてみたいが、まずは「鹿政談」。

奈良の名物は、「大仏に、鹿の巻き筆、奈良ざらし、春日灯篭、町の早起き」と申します。春日大社のお使いとされる神鹿は、奈良では手厚く保護されて、たとえ過失でも鹿を死なせた者は死罪というのが当時の掟。ですから、自分の家の前で鹿が死んではいないかと、毎朝早起きせざるを得ないというわけで。

興福寺東門前町の豆腐屋、正直者の六兵衛(話者によっては与平)が、早朝商売物のキラズ(おから)をひっくり返した犬に薪を投げると打ち所悪く死んでしまいますな。暗闇でよく見えなかったが、犬と思ったのがまさしく春日の鹿。これは一大事。六兵衛はたちまち捕縛され、目代(代官)の塚原出雲と、興福寺の番僧・了全の二人の調べのうえ、奉行・根岸肥前守の裁きを受けることになります。この根岸肥前守がよくできた名奉行。
 奉行はなんとか正直者の六兵衛を助けてやろうと、「その方は、二、三日前から病気であったであろう」とか、「その方は他国の生まれで、この土地の法には暗かろう」などと誘導しますな。故意を欠くとか、責任能力がなかったとか、あるいは違法性の意識を望むべくもないとして、ことを収めようという苦心の心積もり。
 ところが、正直者の六兵衛は嘘がつけない。そこで奉行は最後の手段。鹿の死骸を引き出させて検分し、「うーん、鹿に似たるが角がない。これは犬に相違あるまい。一同どうじゃ」「なるほど、確かにこれは犬でございます」「今、ワンと鳴きました」「犬を殺した者にとがはないぞ」。これは、そもそも構成要件に該当する事実がないとしての無罪放免。
 これで丸くおさまるかと思いきや、空気を読めない奴はどこにでもいるもので、出雲と了全ばかりは、「あいや、しばらく。角がなくても鹿は鹿」と譲りません。そこで奉行は奥の手を出します。
「出雲と了全、その方らが結託して幕府から下される三千石の鹿の餌料を着服し、あまつさえそれを高利で貸し付けてボロ儲けしているという訴えがある」「そのために空腹となった鹿が盗みをしたのであれば鹿も盗賊同然。打ち殺しても苦しくない」「たってとあらば、その方らから調べねばならない」「さあ、どうじゃ。これは犬か、それとも鹿か」「さあさあ、犬か鹿か」
 結局犬ということで一件は落着。お白州の後、涙を流す六兵衛に奉行が声をかけます。
 「これ。正直者のそちなれば、この度は斬らず(キラズ)にやるぞ」
 「はい、マメで帰ります」

下げの出来栄えはともかく、多くの江戸落語と同様に、これも元は上方噺のよくできた筋立て。善玉奉行が、悪玉の目代に小気味よく畳み込むのが聞かせどころ。正直者が無罪になるハッピーエンドなのだからむろん後味も良い。しかしこの話、やっぱりおかしい。これでよいわけはない。

たまたま「名奉行」の才覚とトンチと腕力が、無理を通しての無罪判決。法の趣旨を生かそうという、真面目な他の奉行であれば、判決は自ずと異なったものになる。奉行に才覚なければ、六兵衛は死罪となったところ。目代に、たまたまの不正がなければ、正論を言う目代側の言い分が通ったところ。そもそも、鹿を犬と真実でない認定の裁判もあるまじきこと。

この鹿政談のストーリーで、なにより納得しがたいのは「鹿を殺した者は死罪」という掟。現代であれば、飼い主のいる鹿を殺傷することは器物損壊罪にあたるが、「奈良公園の鹿」は無主物だから器物損壊での処罰はできない。また、野生の鹿は動物愛護法上の愛護動物に該当しないから、これを殺しても刑法上の犯罪にはあたにない。昔の話とはいえ、「六兵衛死罪」などとんでもない。とんでもないけど、掟は掟。とんでもない掟で人を死刑にできたということ。

奉行は、「過失であろうとも春日大社の鹿を死なせた者は死刑」というこのとんでもない掟を、人倫に反するものとして無効と宣言する裁きをすることができたか。あるいは無視して無罪とすることができたか。それができなかったから、知恵をしぼって、法の枠内で、その適用をまげて庶民感覚に適合する裁きに到達したということになる。奉行とても、法をつくったお上の官僚に過ぎない。法を無視することなどできるはずもない。

さて、お白州でなく、現在の裁判所ならどうなるだろうか。日本国憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と規定して、裁判所に違憲立法審査権を与えている。最高裁だけでなく下級裁判所にも違憲立法審査権があるが、その終審判断は最高裁でなされるとの趣旨と理解されている。

言うまでもなく、法の体系の頂点に位置するものが憲法。その憲法の下に、憲法の定めに従って法律が作られ、さらに法律の許す範囲で条例や政令や行政規則が作られて、整然とした法体系の秩序が形づくられることになっている。法の序列は厳格で、下位の法形式が上位のものに反することは、許されない。単に法秩序の混乱を避けるためということではなく、あくまで、憲法が根源的価値としている人権や民主主義、平和を擁護するためと考えるべきだろう。

法律は、選挙という民主的な手続で選出された国民の代表によって、国権の最高機関とされる国会で作られる(憲法41条)。法律は、主権者の意思を反映するものとして尊重されなければならないことは当然だが、その法律も憲法の定めに違反するとされた場合には、違憲、無効とならざるをえない。裁判所には、その判断の権限がある。

仮に、国会が「奈良公園風致地区内に棲息する日本鹿の保護に関する法律」(略称「奈良鹿保護法」)を制定し、「奈良公園風致地区内に棲息する日本鹿を殺したる者は死刑に処する。過失によって死に至らしめたる者も同罪とする」(「奈良鹿殺害罪」)という条文ができたとすれば、この法律によって被告人六兵衛が起訴され、検察官から死刑を求刑されることになる。

この場合、お白州にはいなかった弁護人が活躍する。この悪法を憲法の人権尊重原則(憲法第13)、あるいは適正手続条項(憲法第31条)に違反するものとして違憲無効と主張して無罪の判決を求める弁論を行う。

その結果、裁判所は違憲立法審査権を行使して、奈良鹿保護法の奈良鹿殺害罪の規定を違憲無効として無罪判決を言い渡すことができる。こうして、裁判所は「憲法の砦」であり、同時に「人権の砦」としての使命を果たすことになる。国会が民主主義原理を代表する機関なら、裁判所は人権原理にもとづく機関なのだ。

 無罪の六兵衛は、記者団に囲まれる。
 「六兵衛さん、無罪放免おめでとう」
 「はい、日本国憲法に感謝です」
(2018年8月22日)

速報が出る度もしや「アベ逮捕」

昨日(7月4日)の毎日新聞仲畑万能川柳欄に、刺激的な一句。
速報が出る度もしや「安倍辞任」 (秦野・たっちゃん)

明けての今日(7月5日)なら、こうでなくてはならない。
速報が出るたびもしや「アベ逮捕」 (よみびと知らず)

昨日現職の文科省局長が、受託収賄の容疑で逮捕されたというのだ。この容疑、どこかで聞いたことがあるような…。日本中で、「もしやアベ逮捕」の期待が高まったとして少しもおかしくない。近畿財務局や佐川理財局長の訴追には鳴りを潜めていた特捜が、今回ばかりはえらく張り切っている。裏があるやらないのやら。難波の仇を江戸で討つのおつもりか。

局長逮捕の被疑事実は「請託をうけて、『(A)東京医科大を文部科学省の私立大学支援事業の対象に選定するという便宜を図る』見返りに、『(B)被疑者の子どもを医科大学に不正入学させてもらった』」ということのようだ。『(A)公務員の職務権限行使』の見返りに、『(B)賄賂の収受』が行われたという、(A)と(B)と、「(C)両者の関連性(見返りに)」の存在が、単純収賄罪成立の骨格である。「請託をうけて」という加重要件が加われば、受託収賄罪として法定刑が重くなる。

誰もが連想する。「もしやアベ逮捕」はあり得ないのか。首相とて公務員である。ロッキード事件では田中角栄が受託収賄で起訴され、1・2審とも有罪判決となった。もっとも、上告中に田中は死亡し、公訴棄却で終わっているが、首相の収賄罪も成立するのだ。検察にやる気さえあれば。

アベの犯罪成立のためには、「『(A)腹心の友が経営する学校法人加計学園の獣医学部設立の要望実現に最大限の便宜を図る』見返りに、『(B)加計学園側から被疑者(アベ)本人に対して賄賂(「人の欲望を満たすに足りる何らかの有形無形の利益」)が提供されてこれを収受した』」ということが必要になる。

誰の目にも(A)は明らかと言ってよかろう。では、(B)の賄賂の収受はどうか。これはことの性質上、表だって人目に付くことではない。必ず裏で行われることだが、その端緒が見えないわけではない。たとえば、アベとの付き合いについて、加計孝太郎はしばしばこんな話を周囲に漏らしているという。
「安倍総理とゴルフに行くのは楽しいけどお金がかかるんだよな。年間いくら使って面倒見てると思う?」(週刊新潮17年7月20日号)

「年間いくら使って面倒見てると思う」かって? そりゃ知りたい。教えていただきたい。是非とも、国会の証人尋問でしゃべっていただきたい。あるいは、特捜の捜査に資料を提供していただきたい。ゴルフ接待、会食接待を調べるところから、賄賂収受が見えてくるだろう。

「魚は頭から腐る」。このごろ、よく聞く。ロシアの諺だというが、なるほど霞が関の腐り方を言い得て妙である。首相が腐り、大臣が腐り、次官が腐り、局長が腐ってきたのだ。上からの腐りが局長まで及んだのに、局長だけが逮捕されて、大臣や首相が安閑としておられるのがおかしいし面白くない。

速報が出る度に、もしや「アベ逮捕」と期待してもよいはずではないか。アベ責任追求の世論がさらに沸騰し、検察にやる気があれば、の話だが。
(2018年7月5日)

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