澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「戦後70周年」のこの年を送る

1945年が「忘れることのできないあの年」であり、「新しい時代の始まりの年」でもあった。2015年は、あの年から70年目。「戦後70年」の「節目」とされた今年には、70年目の記念日が目白押しとなった。

 70年目の3月10日。
 沖縄地上戦戦開始から70年。
 ドイツ降伏70周年。
 沖縄地上戦終了の日から70年。
 広島原爆投下70周年。
 長崎の悲劇から70年。
 ポツダム宣言受諾70年。
 70年目の敗戦記念の日‥‥。

それぞれの「節目」の日々には、思い起こすべきこと、語り合うべきこと、そして語り継ぐべきことが山積していた。もしかしたら、そのラストチャンスとして。

一年を振り返って、歴史は十分に思い起こされ、論議され、教訓として噛みしめられただろうか。戦争の悲惨な体験や、平和の貴重さ脆弱さは、若い世代に語り継がれただろうか。70年前に国民が共有した国の再生の初心は忘却の淵から救われただろうか。

とりわけ大事なこととして、70年前絶望的な戦況であることを十分に認識しながら、つまらぬ「國體の護持」にこだわり続けて、この上なく貴重な国民の生命を犠牲にして恥じないこの国の指導者たちの責任について、十分に語り合えただろうか。戦争の終結をもっと早く決断すべきであったのにこれを怠り、数百万の命を無駄死に追い込み、無数の悲劇をもたらした者たちの責任追求を忘れ去ってはいないだろうか。

國體の護持のために国民の命が犠牲にされた愚かな時代。国民個人よりも国家や天皇が貴重な価値とされた倒錯の時代ゆえの悲劇。今は、個人が国家や社会に優越する根源的価値であるという当たり前の常識が危うい。「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」はこの時代への再逆転を指向するものではないか。

なんとも心許ない。2015年は、憲法の危機の年として明け、9月19日参議院での戦争法「成立」の日がこの1年を象徴する日となった。アベ政権の罪科であり、これを許した国民の責任でもある。

思い起こせば、今年のキーワードは次のような、なくもがなのものが目につく。
「戦争法」「日米ガイドライン」「沖縄・辺野古」、そして「反知性主義」「反立憲主義」「安倍一強」「慰安婦問題」‥。

しかし、パンドラの箱が開いても希望は残る。戦争法反対デモの群衆こそ希望ではないか。それだけではない。「アベ政治を許さない」「シールズ(SEALDs)」「民主主義って何だ」「安保関連法に反対するママの会」「自民党、感じ悪いよね」と口にした多くの人々。そして、沖縄へのこぞっての世論の支援は、来年に通じる希望である。

不安と希望とが入り交じって、2015年が暮れていく。

(2015年12月31日)

内野光子著「天皇の短歌は何を語るのか」を読む

先日(12月27日)、本欄に「万国のブロガー団結せよ」の記事を掲載した。
これに対する具体的な反応はまだ見えないが、DHCスラップ訴訟弁護団に所属している徳岡宏一朗さんが、法廷に出席したうえご自分のブログ(Everyone says I love you!)で、連続してDHCスラップ訴訟を取り上げてくれた。その圧倒的な情報量に驚かされる。是非ごらんいただきたい。そして、ブログの最後に出て来る「ブログランキング賛成票」にもクリックを。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/01835f65b846168cb7400449f6787515
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/0278962f4551fe0531c2218cb9b922d4

また、内野光子さんが、「内野光子のブログ・短歌と地域の可能性を探る」で詳細な「DHCスラップ訴訟」法廷傍聴記を掲載してくださった。感謝に堪えない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/dhc1-4959.html
「ことしのクリスマス・イブは~DHCスラップ訴訟控訴審(東京高裁)第1回口頭弁論傍聴と報告集会へ」

ところが、内野さんのブログは単発では終わらず、次のように続いた。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-6623.html
「ことしのクリスマス・イブは(2) ~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった! 」

これでも終わらない。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/post-9e69.html
「ことしのクリスマス・イブは(3)~なんといっても、サプライズは、国会開会式出席表明の共産党だった!(その2)」

さらに続く。
  http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2015/12/2-2dd0.html
「ことしのクリスマス・イブは(4)~歌会始選者の今野寿美が赤旗「歌壇」選者に」

内野さんの「サプライズは、国会開会式出席表明の共産党!」の記事が、私の12月25日ブログ
  http://article9.jp/wordpress/?p=6112
「共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け」と関連あるのかどうかは分からない。しかし、一読すればお分かりのとおり、私よりも遙かに積極果敢に問題の本質に切り込んでいる。共産党の中央委員会に電話までして、疑問をぶつけているその真摯な姿勢には脱帽するしかない。

私の前記ブログは、私の知る限り下記のサイトで引用されているが、各サイトに内野さんのブログの引用がないのが惜しい。
 NPJオススメ【論評】http://www.news-pj.net/recommend-all/reco-ronpyo
 ちきゅう座 http://chikyuza.net/
 Blog「みずき」 http://mizukith.blog91.fc2.com/blog-entry-1706.html#more

内野さんには、「短歌と天皇制」(1988年)、「現代短歌と天皇制」(2001年)、そして「天皇の短歌は何を語るのか」(2013年)の単著3部作がある。このうち、「天皇の短歌は何を語るのか」を、初めてお目にかかった際にいただいた。「2013年12月30日 内野光子」というサインが記されている大切な一冊。ちょうど2年前の今日のことだ。私が「宇都宮健児君、立候補はおやめなさいーその10」を書いた日に当たる。あれから2年が経っている。

この書は、短歌を通じての天皇・天皇制論。天皇制の本質に深く切り込んでいる書として読むに値する。現代短歌にはほとんど関心のない私にも分かり易く読める。巻末に人名索引があるが10頁に及ぶもの。たいへんな労作でもある。

この書は、下記の4章からなっている。
Ⅰ 天皇の短歌は何を語るのかーその政治的メッセージ性
Ⅱ 勲章が欲しい歌人たちー歌人にとって「歌会始」とは
Ⅲ メディア・教科書の中の短歌
Ⅳ 「ポトナム」をさかのぼる
(「ポトナム」は、戦前からの短歌同人誌)

Ⅰ章の「天皇の短歌は何を語るのか」での、「護憲との矛盾のはざまで」という興味深い一節だけを紹介する。

 天皇・皇后は、…常に憲法を念頭においていることを強調する。皇后も、…「民主主義の時代に日本に君主制が存続しているということは、天皇の象徴性が国民統合のしるしとして国民に必要とされているからであり、この天皇及び皇室の象徴性というものが、私どもの公的な行動の伜を決めるとともに、少しでも自己を人間的に深め、よりよい人間として国民に奉仕したいという気持ちにさせています」と、かなり慎重な表現で、応分の役割と心情を述べている(1998年5月12日、英国など外国訪問前の記者会見)。行き届いた説明をしようとすればするほど、天皇制維持に内在する民主主義との矛盾が露呈するかのようである。護憲志向と天皇制維持の実態との間には大きな矛盾を抱えざるをえない。今や、護憲政党さえどんどん曖昧な姿勢をとり始めている。さらに、今の政府や議会は、この天皇・皇后のやや末梢的とも思える憲法擁護のためのさまざまな試みやパフォーマンスさえ無視し、憲法改正という逆行の姿勢を崩そうとはしない。やはり、この辺で、もう一度、天皇制自体を考え直す時期なのではないか。私見ながら、女帝をなどとは言わず、矛盾や「お世継ぎ」の呪縛から一家を解放し、次代からは、元貴族としてひそやかに、伝統文化の継承などに努めてもらえないだろうか。」
初出の掲載は2004年4月だという。今にして、ますますなるほどと、うなずかざるを得ない。

この書で、「勲章や選者としての地位が欲しい」歌人と、「節を曲げざる」歌人とがいることを生々しく知った。政治家・財界・官僚・学界・芸術・芸能・法曹の世界まで皆同じではないか。権威の体系である天皇制は、このような形で、文芸をも体制迎合的な存在に貶める。勲章も要らない、歌会始の選者の地位も要らない、と言い続けることは、実はそれだけで立派なことなのだ。

もうすぐ歌会始。例年冷ややかに眺めてきたが、今回はとりわけ批判のまなざしで見つめたいと思う。
(2015年12月30日)

「従軍慰安婦」問題 国家間での合意が真の解決ではない

謝罪は難しい。財産的被害に対する償いであれば、金銭の賠償で済ませることもできよう。しかし、被害者の人間としての尊厳を踏みにじった加害者が、その誠実な謝罪によって被害者の赦しを得ることは、この上ない至難の業である。至難の業ではあっても、道義を重んじる立場を世界に宣言した日本は、その国家の名誉にかけ全力をあげてこの崇高な行為を達成しなければならない。

そのような視点から昨日(12月28日)の「従軍慰安婦」問題に関する日韓外相合意を眺めて、あれが被害者・被害国民への真の謝罪となりうるとは思えない。到底これで問題解決ともならない。その理由をいくつか挙げてみよう。

まずなによりも、韓国政府がこの問題での被害当事者を代理する権限を持っているのか甚だ疑わしい。元「慰安婦」とされた当事者の意向を確認せずに、「最終的かつ不可逆的に解決する」ことなどできようはずはない。これまでも、国家間の戦争責任に関する解決合意が個人を拘束する効力を持つか否かが激しく争われてきた。今回のようなどさくさ紛れの国家間の政治決着で、被害者個人の精神的損害が慰謝されるはずもなく、人間の尊厳が修復されたとして納得できるはずもない。

謝罪には、対象の特定が必要である。何をどのように悔いて謝罪しているのか、その表明における明確さが道徳的悔悟の誠実さのバロメータとなる。今回の合意における謝罪は、そのような誠実さを表明するものにはなっていない。

「最終的かつ不可逆的に解決する」との合意内容は、日韓両国の信じがたい不誠実さの象徴というほかはない。

「これから私はあなたに謝ることにしよう。但し、これ一回限りと心得てもらいたい。二度と謝罪を要求しないという条件がついているから謝罪するんだ。私はこれ以上二度とは謝らないし、あなたの方も蒸し返すなどしてくれるな。」

そう言っているのだ。いったい、こんな謝罪のしかたがあるだろうか。こんな上から目線の謝罪を受け入れる被害者がいるだろうか。国家間の政治決着だからこそ、こんな不条理がまかりとおるのだ。

試されているのは、加害者側の誠実さである。真の宥恕を得るためには、ひたすらに被害者の心に響く誠実さを示し続け、その誠意を受容してもらうよう努力を重ねるしか方法はない。

これまで村山談話や河野談話を否定しようと画策してきた前歴を持つ安倍晋三が、「責任を痛感」「心からのおわびと反省」と口にしても、謝罪の誠意は伝わらないだろう。日本国民が、安倍のような歴史修正主義者を首相としている限りは、真の宥恕を得ることは無理ともいうべきだろう。

戦争と植民地支配とのさなかで生じた、加害・被害の歴史的事件。これは、拭っても拭っても消しようがない事実なのだ。われわれは、その事実を偽ることなく認識し、記憶し、忘却することのないよう語り継がねばならない。それこそが、不誠実な政府しか持ち得ない日本の国民として、われわれが歴史と向き合う誠実な態度だと思う。
(2015年12月29日)

来たる年にこそ、力を合わせてアベ・ビリケン(非立憲)内閣を懲らしめよう。

今年も残すところあと僅か。ちらほらと、フライングの新年の挨拶状が届く。暮れの慌ただしいさなかに場違いな感を否めないが、年越し前の週刊紙誌の新年号配達はやむを得ない。

本日、新宗教新聞の元日号が届いた。一面のトップに、穂積秀胤新宗連理事長による長文の年頭所感が掲載されている。その中見出しが、「絶対非戦の平和活動を推進」「信教の自由、立憲主義を堅持し」となっていることに注目せざるを得ない。「戦後70年の」2015年を振り返っての文章の中に、次の一節がある。

「昨年9月19日、日本の戦後防衛政策の大きな転換となる安全保障関連法が参議院本会議で成立しましたが、先立つ17日の参議院特別委員会では『議場騒然、聴取不能』と議事録に記載される採決でもありました。新宗連はこうした議会制民主主義を揺るがしかねない採決に対して同日、『安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明』を発表いたしました。声明では、法案採決が正規の憲法改正手続きを経ないまま『憲法を根底から揺るがすもの』と危機感を表し、立憲主義が時の政府の『解釈改憲』によって損なわれることがなきよう訴えました。
 今後も解釈改憲が拡大していけば、新宗連の原点である『信教の自由』(憲法20条)をはじめ『個人の尊重』(13条)、『思想・信条の自由』(19条)、『集会・結社・表現の自由』(21条)も歪められる恐れがあります。
 新宗連といたしましては、時代がどう変化しようとも断固として、基本的人権の根幹たる『信教の自由』を守りぬかねばなりません。その決意をあらたにするところでございます。」

政権の解釈改憲に心を痛め、その強引な国会運営に憤り、そして時の政府の解釈改憲手法に将来への危機感を持つ人々がここにもいる。そして、アベ政権の解釈改憲手法の拡大が憲法上の権利を侵害していくことを恐れるだけでなく、断固として憲法原則を守り抜く決意を表明していることに感慨を覚える。

保守か革新か、強引な線引きをすれば新宗連は明らかに保守の側に分類されるだろう。かつて新宗連は、組織内候補を国会に送ったが、その所属は自民党だった。その新宗連も、アベ政権とは一線を画さざるを得ない。立憲主義をないがしろにするアベ政権を、自分たちに牙をむきかねない危険な存在として批判せざるを得ないのだ。アベ政治の基盤は、けっして強固なものではない。

私は、今年9月、新宗連が「安全保障関連法案の参議院強行採決に対する声明」を発表したとき、次のように評した。

「真面目に社会と関わろうする姿勢を持ち、真面目にものごとを考えようとする集団は、必然的にこのような政権批判の声明を出すことになるのだ。かつては、必ずしも『真面目な集団=反自民』ではなかった。しかし今や、宗教団体でも平和団体でも、女性団体でも消費者団体でも、『真面目な集団=反安倍政権』の図式が確立していると考えざるをえない。新宗連がそのよい実例ではないか。願わくは、この姿勢をぜひ来年夏の参院選挙まで持続して、安倍政権の追い落としに力を貸していただきたい。」(9月28日・新宗教新聞1面に「安保法案 強行採決に反対、抗議」の記事)
  http://article9.jp/wordpress/?p=5681

新宗連の年頭所感で、さらに注目すべきは、「平和推進事業の一端として、今年度は『立憲主義の堅持』をテーマとする学習会の開催を検討している」としていることである。立憲主義は、かくも社会に根付き、かくも実践的なテーマとなっているのだ。立憲主義が崩れるとき、政権の専横を止めようのない事態に陥る。人権も、議会制民主主義も、平和も崩壊の危険にさらされる。そのことが、真面目にものを考える人々の間に、浸透し始めているのだ。

今年は、アベ・ビリケン(非立憲)内閣が持ちこたえた。しかし、来年こそはこのビリケン内閣を窮地に追い込まなければならない。
(2015年12月28日)

「万国のブロガー団結せよ」再論-「DHCスラップ訴訟」を許さない・第65弾

当面の目標だった「1000日連続更新」を達成して、今日が連続1001回目の「憲法日記」。次は、「石の上にも3年」「ブログも3年続けば一人前」が目前。そして、「4年」と「5年」の節目を経た先に連続更新2000回の目標がある。その頃、どのような憲法状況になっているかよくは見えないが、憲法日記を書き続けてみよう。権力や権威に厳しい批判の姿勢を崩すことなく、誰におもねることもなく。

本日のブログは、2014年7月14日に掲載した「万国のブロガー団結せよ」(『DHCスラップ訴訟』を許さない・第2弾)の再論である。当時のものを読み直してみると、自分のものながらなかなか面白いと思う反面、行き届かない言い回しも目につく。もう一度、修正版を掲載して当時からの読者にも新たな読者にも、目をお通しいただきたいと思う。

まずは、ブロガー団結宣言(新バージョン)である。
「すべてのブロガーは、事実に関する情報の発信ならびに各自の思想・信条・意見・論評・パロディの表明に関して、権力や社会的圧力によって制約されることのない、憲法に由来する表現の自由を有する。
ブロガーは、権力・経済力・権威を有しない市井の個人の名誉やプラバシーには慎重な配慮を惜しまないが、権力や経済的強者あるいは社会的権威に対する批判においていささかも躊躇することはない。政治的・経済的な強者、社会的に高い地位にある者、文化的に権威あるとされている者は、ブロガーからの批判を甘受しなければならない。
無数のブロガーの表現の自由が完全に実現するそのときにこそ、民主主義革命は成就する。万国のブロガー万歳。万国のブロガー団結せよ」

日本国憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。日本国憲法に限らず、いかなる近代憲法も、その人権カタログの中心に「表現の自由」が位置を占めている。社会における「表現の自由」実現の如何こそが、その社会の人権と民主主義の到達度を示している。文明度のバロメータと言っても過言でない。

なにゆえ表現の自由がかくも重要で不可欠なのか。佐藤功「ポケット注釈全書・憲法(上)」が、次のとおりにみごとな要約をしている。

「思想は、自らの要求として、外部に表現され、伝達されることを欲する。人は思想の交流によって人格を形成することができる。かくして、思想表現の自由の価値は、第一に、それが人間人格の尊厳とその発展のために不可欠であることに求められる。また、民主政治はいろいろの思想の共存の上に成り立つ。かくして、思想表現の自由の価値は、第二にそれが民主主義の基盤のために不可欠であることに求められる」

まず、人はものを考えこれを他に伝えることを本性とする。だから、人間存在の根源的要求としての表現についてその自由が尊重されねばならない。また、表現の自由は民主主義の政治過程に原理的に不可欠。だから、表現の自由が重要というのだ。

なるほど、もっともなことではある。しかし、このような古典的なそもそも論においてはメディア論への関心が語られない。人がその思想を表明するための具体的な表現手段は、けっして万人のものではない。この表現手段所有の偏在が、各人の表現の自由の現実化を妨げていることに目は向けられていない。

「集会、結社」はともかく、「言論、出版その他一切の表現の自由」における、新聞や出版あるいは放送を典型とする言論の自由の具体的な担い手はマスメディアである。企業であり法人なのだ。基本的人権の主体は本来国民個人であるはずだが、こと表現の自由に限っては、事実上国民は表現の受け手としての地位にとどめられている。実質においてメディアの自由の反射的利益としての「知る権利」を持つとされるにすぎない。国民個人の能動性は消え、受動的な地位にしかないことになる。

現実に、これまでの歴史において、表現の自由とは実質において「メディアの自由」でしかなかった。それは企業としての新聞社・雑誌社・出版社・放送局を主体とする表現の自由であって、主権者国民はその受け手の地位に留め置かれてきた。権力に対峙してのメディアの表現の自由も重要ではあるが、本来の表現の自由は国民個人のものであったはず。その個人には、せいぜいがメディアを選択する自由の保障がある程度。いや、NHKの受信にいたっては、受信料を支払ってさえも、政権御用のアベチャンネルを押しつけられるありさまではないか。

いま、その事情が変わりつつある。IT技術の革新により、ブログというツールの入手が万人に可能となって、ようやく主権者一人ひとりが、個人として実質的に表現の自由の主体となろうとしているのだ。憲法21条を真に個人の人権と構想することが可能となってきた。現に、私のブログの維持費用は、article9.jpというドメインの管理費にすべて含まれている。独立したブログ立ち上げや管理の経費は一切必要ない。まことに貧者の武器というにふさわしい。個人の手で毎日数千通のビラを作ることは困難だ。これを発送すること、街頭でビラ撒きすることなどは不可能というべきだろう。ブログだから意見を言える。多数の人に情報を伝えることが可能となる。ブログこそは、経済力のない国民に表現の自由の主体性を獲得せしめる貴重なツールである。ブログあればこそ、個人が大組織と対等の言論戦が可能となる。弱者の泣き寝入りを防止し、事実と倫理と論理における正当性に、適切な社会的評価を獲得せしめる。ブログ万歳である。

要するに、主権者の誰もが、不特定多数の他者に情報や思想を伝達する手段を獲得しつつあるのだ。これは、表現の自由が人格の自己実現に資するという観点からも、民主的政治過程に不可欠という観点からも、個人を表現の自由の主体とする画期的な様相の転換である。このことによって、人権も民主主義も、形式的なものから実質的なものへの進化の可能性を秘めている。この「個人が権利主体となった表現の自由」を、今はいかにも小さなものであるが、大切にしたい。ブロガーこそは、今や先進的な「言論の自由」の実質的担い手である。このツールに支えられた表現の自由を手放してはならない。

ところが、この貴重な芽を不愉快として、摘もうという不届きな輩がいる。経済的な強者が、自己への批判のブログに目を光らせて、批判のブロガーを狙って、高額損害賠償請求の濫訴を提起している現実がある。もちろん、被告以外の者においての萎縮効果が計算されている。

私は、一人のブロガーとして、その言論の自由を行使した。経済的強者を「利潤追求の手段として、カネで政治を壟断しようとした。しかも、『8億円の裏金』で」と批判したのだ。すると、被批判者から高額の損害賠償訴訟を提起された。典型的なスラップ訴訟である。かくして、はからずも、私はブロガーを代表する立ち場において、経済的強者と対峙している。これがDHC・吉田嘉明から私に対する「DHCスラップ訴訟」の骨格である。

私は、DHCスラップ訴訟被害の当事者として、全国のブロガーに呼び掛けたい。他人事と見過ごさないで、ブロガーの表現の自由を確立するために、あなたのブログでも、呼応して声を上げていただけないだろうか。「『DHCスラップ訴訟』は不当だ」「言論を萎縮させるスラップ訴訟は許さない」「ブロガーの権利侵害を許さない」と。あるいは、「カネの力で政治に介入しようとした経済的な強者は、当然に批判を甘受しなければならない」と。

さらに、全ての表現者に訴えたい。表現の自由の敵対者であるDHCと吉田嘉明に手痛い反撃が必要であることを。スラップ訴訟は、明日には、あなたの身にも起こりうるのだから。
(2015年12月27日)

当ブログ毎日更新連続1000回達成万歳

本日、当ブログは連載開始以来1000日目。毎日書き連ねて1000回達成の日を迎えた。メデタイ限りである。独りこの「偉業」を祝う。1000日の間、毎日毎日よくも飽きず投げ出さず、書き続けてきたものだと思う。

表現とは何よりも自己実現の欲求の表出である。1000回ブログを書き続けてつくづくとそう思う。もの言わぬは腹ふくるる業。腹の中にあるものを、遠慮なく外に吐き出す痛快な感覚はなにものにも換えがたい。

とはいうものの、文章を綴ることは、自分をさらけ出すことでもある。この間、40万字近くも書いたのではないだろうか。その間に、浅学非才も、思想や教養の浅薄も、乏しい詩的感性も、激しやすい感情的な性格も、自分のすべてをさらけ出したことになる。

古来日記文学の伝統はどこにもあるが、リアルタイムにこれを世に発表し続けるぜいたくは望むべくもなかった。正岡子規はそのような機会に恵まれた稀有の人と言うべきだろう。彼の「墨汁一滴」「病牀六尺」は新聞「日本」に連載されていた。ほぼ毎日記事を書き続け、翌日には新聞掲載となったようだ。長文もあれば、わずか一行の記事もある。今日の新聞コラムではなく、ブログによく似ている。随筆に俳句を織り交ぜた、読みごたえのある充実したブログ。

「墨汁一滴」は1901(明治34)年1月16日から書き始めて、同年7月2日まで164回にわたって連載された。年を改め、1902(同35年)5月5日から書き始めたのが「病牀六尺」である。当時、既に子規の命は旦夕に迫っていた。

連載が100回に達したのは、その年の8月20日。子規は100日生き得たことを素直に喜こんだ記事を書き、この日の末行をこう結んでいる。
「半年もすれば、梅の花が咲いてくる。果たして病人の眼中に梅の花が咲くであろうか」

結局、病人の目に梅が映ることはなかった。記事は9月17日の第127回で永遠に途切れた。「病牀六尺」最終回が新聞「日本」に掲載された翌18日、子規は辞世の3句を認めている。梅ではなく、糸瓜が読み込まれている。

  糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
  痰一斗糸瓜の水も間に合わず
  をととひの糸瓜の水もとらざりき

子規の死は、翌19日未明のこと。書き続け、句作を続けての、見事な生涯の閉じ方であった。当時文名高かった子規にして初めて、新聞連載という形での表現が可能だった。今、誰の手にも、私にも、ブログというツールが手にはいる好運をありがたいと思う。

私のブログも、ささやかな自己実現の手段である。そして同時に、政治的言論としていささかなりとも社会への影響があることを願っている。

ところで、第二次安倍政権発足に憲法の危機を感じて書き始めた「憲法日記」である。危機はますます深まっている。安倍内閣の崩壊を見届けるまでは連載を終息できない。もう少し読者に優しい短いブログとすることを自分に言い聞かせて、1000回を通過点としよう。

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      2000回めざしてブログ万歳だ!
「マインド・チェンジ」(発行KADOKAWA)という本のなかで、スーザン・グリーンフィールドという脳神経科学者は「突拍子もないと思われるかもしれないが、『考える』という行為をするだけでも、物質としての脳に実質的な変化を起こすことができるようだ」と述べ、面白い例を示している。

ピアノの弾けないの1群にピアノの練習をさせる。5日後にこの人たちの脳スキャンには大きな変化が現れた。驚くべきは、「単に自分がピアノを弾くところを想像するようもとめられた」別の1群の被験者の脳にも、実際に指を使って練習した被験者とほぼ同じ変化がみられたということなのだ。実体験なしの想像だけでの脳の変化なのだ。

よく耳にするプラセボ効果は、治療効果があると信じるだけで、効くはずのない物質で病気が治ってしまうという現象である。この効果を起こす脳内物質が存在するだけでは、プラセボ効果はおきない。その効果を最終的に起こすのは、「そのプラセボがほんとうに効く薬だと信じることが必要なのだ。やはり肝心なことは『意識的な思考』である」らしい。

「あらゆる種類の動物の脳には驚くべき可塑性があり、特に人間の脳で顕著である。人の脳は『使わないとだめになる』の原理にのっとり、反復されるタイプの行動に対して、絶えず物理的に適合を続けている。終わりのないこのニューロンの更新は、とくに発達途上の臨界期といわれる期間にはっきり見られるが、高齢になるまで生涯にわたって続く」

なんと希望に満ちたメッセージではないか。この著者は「アルツハイマー病研究の第一人者であり、イギリスで最も著名で影響力のある神経科学者の一人」と聞けばますますありがたい御託宣である。

ブログが1000回続いたというのはめでたいことであるが、毎日眠い目をこすって真夜中までワープロに向き合う不健康な生活が1000日続いたことでもある。また、1000回の間には、筆が滑って物議を醸したことが一再ならずある。果ては名誉毀損で6000万円の請求訴訟をおこされてもいる。

それでも、言いたいことを言わずにはおられない。腹ふくるるは健康に悪いにちがいない。しかも、「読んでますよ。その通りですよ。良く言ってくれました」などと便りがあればうれしくなる。見ず知らずの人々、忘れていた旧き友の予期せぬ声にも驚かされる。ブログを書かなければ敵もできないが、それにまさるたくさんの、尊敬に値する心の友もできない。眠気も損害賠償訴訟も中傷誹謗も、示唆に富んだ友の励ましが雲散霧消してくれる。歴史の審判は我にありだ。

それだけでなく、「意識的な思考」の継続こそが、生涯にわたって続くニューロンの更新と脳の活性化をもたらすというのだ。2000回めざして再出発しよう。老化やアルツハイマーなんかブログがあれば恐くない。ブログ万歳だ。
(2015年12月26日・連続第1000回)

共産党議員が、玉座の天皇の「(お)ことば」を聴く時代の幕開け

これが今年の「驚き納め」だろう。日本共産党が、年明けの通常国会には開会式に出席するというのだ。大日本帝国議会のあの時代、貴族院にしつらえられた玉座から、天皇が国民代表の議員を見下ろして「(お)ことば」を賜るというあの開会式に、である。そりゃなかろう。

無数の星々が皆天界をうごめく中にあって、極北の頂点にたった一個の動かぬ星がある。その北辰のごときものこそが共産党ではなかったか。航海する諸々の船が、自分の位置を測るときの動かぬ測定の起点。それこそが共産党が占める位置ではなかったか。何が正しいか間違っているか、頑固な物差しとして変わらぬ存在が共産党ではなかったか。近代日本の民主主義も大衆運動も、天皇制と対峙して生まれ、天皇制と拮抗しながら成長した。その天皇制と向き合った民衆の側の最前線に常に位置していたのが共産党ではなかったか。融通がきかず頑固で、政党助成金も受けとらない筋を通す姿勢。それ故の、共産党への民衆の信頼であり敬意ではなかったか。北極星が動いて物差しが伸び縮みするようでは、世も末なのだ。

天皇制とは、世襲の政治権力構造を意味するものではない。むしろ、神話的・文化的な権威による社会心理的な統治構造というべきであろう。その意味では、象徴天皇制こそが、純粋な天皇制と言っても差し支えない。

支配者にとって、自らの主義主張を持った自立した国民は、支配しにくいことこの上ない面倒で疎ましい存在なのだ。統治しやすい支配者お望みの国民のまたの名を「臣民」という。大日本帝国憲法時代の臣民は統治しやすかった。日本国憲法の時代となって、法制上「臣民」はなくなったが、天皇制は残った。天皇と天皇制が残ったことによって、法制上はない「臣民根性」も「臣民もどき」も、旧体制の残滓として生き残っているのだ。

保守的支配体制の側が、統治をしやすい「臣民根性」「臣民もどき」を再生産し拡大をはかるために、天皇を最大限に利用してきたのは周知の事実ではないか。その天皇の利用に最も果敢に闘い、民主主義の徹底のために天皇の存在感を最小限に抑えるべきことを主張してきたのが、共産党であったはず。こんなに簡単に、ものわかりがよくなってしまっては、多くの良心ある叛骨の人々が戸惑うばかりではないか。これは、小さくない問題だ。

反権力とは、反権威につながる精神構造である。権威主義者の大方は、いかなる政権にも迎合する、統治しやすい「臣民もどき」なのだ。だから、天皇を「おいたわしや」とする心性を持った権威主義的国民こそが、権力の望むところ。統治しやすいお誂え向きの国民なのだ。できるだけ、天皇に親近感や敬意を持つ人々が増えることが保守支配層の望みであり、迎合層の働きどころでもある。

天皇あるいは天皇制は、多くの機能をもっている。その一つが、社会での人畜無害度測定機能、あるいは人畜無害性発信機能である。天皇に敬語を使い、天皇制を社会に有用だと表明することは、自分を「日本社会における安全パイ」とアピールすることになる。その反対に、天皇へのいっさいの敬語を拒否し、天皇制を社会の害悪と告発する人格を、社会は危険人物と見なすのだ。

開会式出席によって、まさか共産党が自らを「日本社会における安全パイ」とアピールする意図とは思わない。しかし、「予は危険人物なり」という颯爽たる風格を失おうとしていることは否めない。小異を殺して、大道についてばかりいると、ホントの自分や本来の自分の歩むべき道を見失ってしまうのではないか。心配せざるを得ない。

昨日(12月24日)の記者会見の中で、次の質疑応答があったという。

記者 よそから見たら、共産党が普通の党になっていくという一環みたいなことでしょうか。
志位委員長 普通の党というあなたの質問がどういう意味か分かりませんが、私たちが一貫して言っている開会式の民主的改革の提起というのは、将来の政治制度をどうするかという角度から提起しているのではないのです。現在の日本国憲法の原則と精神と諸条項を厳格に貫くという立場から一貫して対応しております。それは一貫しております。

この記者の質問は、論理的ではないにせよ、「これまでは普通ではなかった共産党」が、「普通」になってしまうことへの、良くも悪くも感慨が込められている。

これに対する志位委員長の回答は納得しにくい。少なからぬ憲法学者が、現行憲法の解釈として、開会式の「(お)ことば」などは、憲法が明文で限定する天皇の国事行為には含まれない。したがって、憲法はこれを容認していないと理解してきた。そのような憲法学者と共産党は、これまでは相性がよかった。しかしこれからは、リベラル憲法学との折りあいが悪くなることを覚悟しなければならない。憲法学者ばかりではない。多くのオールド・リベラリストとの関係においてもである。

共産党のあまりに唐突な方針変更に戸惑うばかり。その動機を忖度すれば、国民連合政府構想との関連があるだろうとは誰もが思うところ。各党の選挙協力で当選した議員が皆共産党流に開会式ボイコットすることは困難ではないかという配慮があるのではないか。そんなことがネックとなって、選挙協力に障害あると考え、これは「小異」と切り捨てたのではなかろうか。共産党が独自性を貫くことは、選挙協力の障害を残すこと。さりとて、妥協を重ねれば共産党ではなくなってしまう。コアの支持者を失うことにもなりかねない。共産党の宿命的なジレンマ。私は、安易な妥協を排して、共産党には共産党であり続けてもらいたいと思う。
(2015年12月25日・連続第999回)

DHCスラップ訴訟控訴審結審、判決は1月28日ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第64弾

本日、東京高等裁判所第2民事部(柴田寛之裁判長)でDHCスラップ訴訟の控訴審第1回口頭弁論期日が開かれ、控訴理由書と控訴答弁書の陳述ののち、弁論を終結した。次回判決言渡しとなった。判決言渡期日は、2016年1月28日(木)午後3時00分。822号法廷。

1回結審での、年末年始休暇をはさんでの1か月先の期日指定。常識的には控訴棄却の定番コースではあるのだが…。「典型的なスラップ訴訟」「DHC・吉田嘉明は、勝訴の見込みないことを知りながらの提訴」ではあるが、判決は水物。言い渡しあるまでは、心穏やかではない。

被控訴人の控訴答弁書の陳述は、私が要旨を朗読する方法でした。やや長文だが、下記に全文を掲載する。

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 弁護士の澤藤です。思いがけなくも訴えられて被告となり、いまは被控訴人本人の立場にあります。被控訴人本人として、控訴答弁書を要約して陳述いたします。

 最初に訴訟の進行について要請申し上げます。本件では当事者双方に、今後の主張・挙証の必要は考えられません。本日弁論終結の上、すみやかな控訴棄却の判決をお願いいたします。

 一審以来、本件における主要な争点は、名誉毀損とされた各表現が「事実の摘示」なのか、それとも「意見ないし論評の表明」なのか、という一点に集中しています。
 当該表現が、「事実の摘示」か「意見・論評」か。この論点設定は、名誉毀損訴訟において最高裁が示した枠組みに従ってのものです。当事者双方が、それぞれの立場で、この枠組みにしたがった主張を展開しています。

 しかし実は、問題の本質、あるいは実質的な判断基準は、別のところにあるように思われるのです。訴訟とは具体的な事例に則して、憲法あるいは法の理念をどう理解して適用すべきかという、優れて理念的な営みであり、憲法理念を社会にどう具現するのかという実践的な営みでもあるはずだと思うのです。その観点からは、判例の形式的な引用とは別の実質的な判断過程が必要と考えざるをえません。

 憲法的視点から見れば、本件は憲法21条が保障している表現の自由と、13条によって憲法上の権利とされている人格権とが衝突する場面での調整のあり方を問うものにほかなりません。本件具体的事例においてこの調整はいかになされるべきか。被控訴人は言論の自由保障という憲法価値の優越を主張し、控訴人らはこのような人の名誉を侵害する言論は憲法の保障の埒外にある、と言っていることになります。

 憲法が言論の自由を特に重要な基本権とし、その保障を高く掲げたのは、誰の権利も侵害しない、「当たり障りのない言論」を自由だと認めたのではありません。敢えて言えば、当たり障りのある言論、つまりは誰かの評価を貶め、誰かの権利を侵害する言論であってこそ、これを自由であり権利であると保障することに意味があるのです。
 もっとも、弱者を貶めて強者に迎合する言論を権利と保障する意味はありません。言論の自由とは、本来的に権力者や社会的強者を批判する自由として意味のあるものと言わざるを得ません。私のブログにおける表現は、控訴人吉田嘉明らを批判するもので、吉田嘉明らの社会的評価の低下をきたすものであることは当然として、それでも憲法上の権利の保障が認めらなければなりません。

 原判決は実質的に以上の理を認めました。
 原判決は、私の名誉毀損15個の表現を、いずれも「一般の読者の普通の注意と読み方を基準とすれば」というキーワードを介して、「意見ないし論評を述べたものであり,事実を摘示したものとはいえない」と判断しました。その上で、「本件各記述は,いずれも公共の利害に関する事実に係り,その目的が専ら公益を図ることにあって,その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており,前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできないから違法性を欠く」と結論しています。「長崎教員批判ビラ配布事件」平成元年12月21日最高裁判決が引用されていますので、明示はされていませんが、「公正な論評の法理」を採用したものと理解されます。

 原判決の以上の説示に異論のあろうはずはありません。しかし、おそらくは、実質的な判断の決め手となったものは、憲法21条の重視のほかには、以下の3点だろうと思われるのです。第1点が言論のテーマ、第2点が批判された人物の属性、そして第3点が言論の根拠です。
 
 その第1点は、私のブログでの各記述が政治とカネにまつわる、典型的な政治的言論であることです。
 私は、控訴人吉田嘉明が、政治資金規正法の理念に反して自分の意を体して活動してくれると期待した政治家に、不透明な巨額の政治資金を「裏金」として提供していたことを批判したのです。このような政治的批判の言論の保障は特に重要で、けっして封殺されてはなりません。

 第2点は、本件ブログの各記述の批判対象者となった控訴人吉田嘉明の「公人性」がきわめて高いことです。その経済的地位、国民の健康に関わる健康食品や化粧品販売企業のオーナーとしての地位、労働厚生行政や消費者行政に服すべき地位にあるというだけではありません。政治家に巨額の政治資金を提供することで政治と関わったその瞬間において、残っていた私人性をかなぐり捨てて、高度の公人としての地位を獲得したというべきです。このときから強い批判を甘受すべき地位に立ったのです。しかも、吉田は自ら週刊誌の誌上で巨額の政治資金を特定政治家に提供していたことを暴露しているのです。金額は8億円という巨額、政治資金規正法が求めている透明性のない「裏金」です。控訴人吉田嘉明が批判を甘受すべき程度は、この上なく高いといわざるを得ません。

 そして第3点が、本件ブログの各記述は、いずれも控訴人吉田自身が公表した手記の記載を根拠として推認し意見を述べているものであって、意見ないし論評が前提として依拠している事実の真実性については、ほとんど問題となる余地がなかったことです。加えて、本件ブログの各記述は、いずれも前提事実からの推認の過程が、きわめて明白であり、かつ常識的なものであることです。
 控訴人吉田はその手記において、行政規制を不当な桎梏と感じていることを表明しています。企業とは、何よりも利潤追求のための組織です。企業経営者が、行政の対企業規制に明確な不満を述べて、規制緩和を標榜する政治家に政治資金を提供したら、これはもう、規制緩和を推進することによる利潤の拡大を動機とするものと相場が決まっています。
 このような常識的な推論に、立証を求められる筋合いはありません。まさしく、推論を意見として述べることが政治的言論の自由保障の真髄と言うべきで、控訴人吉田は、対抗言論をもって弁明や反批判をすべきであったのに、判断を誤ってスラップ訴訟の提起をしたのです。

 以上の3点を実質的な決め手として請求棄却の判決に至った原判決には、いささかの誤りもありません。

 控訴人らは、原判決を不満とし控訴理由書においても、「動機の推認も事実の摘示」だと繰り返しています。私のブログでの意見表明について、いまだに「動機の真実性の証明を求める」とか、「その証明ない限りは違法」という控訴人らの主張の蒸し返しは、児戯に等しいと言わざるを得ません。私がした程度の推論は、常識に属するものです。このような見解の表明が許されないとすれば、言論の空間は逼塞し表現の自由は枯渇してしまうでしょう。訴訟とはある最高裁判決の文章を具体的事例に有利に引用しあうゲームではありません。最高裁が示した字句を機械的に引用して、形式論理の整合性の優劣を争う愚かな競争ではないはず、だと申しあげておきたいと思います。

 ところで、私は「澤藤統一郎の憲法日記」と題するインターネット・ブログを毎日連載しています。現在の形で立ち上げた、第1回が2013年4月1日。以来、一日も欠かさずに書き続けています。昨日のブログが連続997回目。明後日に1000回に到達します。このブログにおいて、私なりに憲法理念を書き連ねてきました。権力を担う者、社会的な力をもつ強者には、遠慮のない批判の言論を続けていますが、弱者を批判したことはありません。一貫して社会的弱者の権利を擁護する立場から、強者の側を批判する姿勢を堅持しています。私は弁護士として、社会から自由を与えられ、誰におもねることもない自由を享受しています。この自由を、弱者の人権を擁護し権力や強者を批判するために行使することが、弁護士としての使命だと考えてきました。私のブログはその立場で貫かれていることを自負しています。

 その連載ブログの365回目となる2014年3月31日に、「DHC・渡辺 8億円事件」を取り上げました。続けて4月2日と、4月8日にもこの件を取り上げました。私がこの事件に反応した理由の一つとして、私が消費者問題に関心を持つ弁護士として、消費者行政の規制緩和に反対する運動に携わってきたことがあります。私は東京弁護士会の消費者委員会委員長も、日弁連の消費者委員長も経験しています。消費者に安全を提供すべき企業経営者が、行政規制を煩わしいと広言しながら、政治家に「裏金」を渡すなどと言うことが許されてはならないと強く思いました。それだけでなく、これを発言することは私の責務だとも思ったのです。

 ところが、このブログの記述がDHCや吉田嘉明の名誉を侵害し、2000万円に相当する精神的損害を被ったとして損害賠償請求訴訟の対象とされました。私にとっては到底信じがたい訴訟です。私自身が典型的なスラップ訴訟の被告とされたことを自覚し、言論の自由のために、恫喝に屈してはならない、スラップに成功体験をさせてはならない、と決意しました。

 これも弁護士の使命として、口をつぐんではならないと覚悟して、ブログで「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズを書き始めました。途端に、請求が拡張され、6000万円に跳ね上がりました。この経過自体が、本件提訴のスラップ性を雄弁に物語っていると考えています。

 私は、原審の法廷陳述でも担当裁判官にお願いしました。まずは、私の5本のブログを細切れにせずに、丸ごと全体をお読みいただきたい。その上で、日本国憲法が最高法規とされている現在の日本社会において、この私の言論が違法な言論として許されざるものであるのかをお考えいただきたい。言わば、まずは常識的な憲法感覚において、私のブログが違法なものかどうかを判断願いたいのです。

 そして、お考えいただきたい。もし仮に、私の言論にいささかでも違法の要素ありと判断されることになれば、原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発される事態を招くことになるでしょう。社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行するそのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされることにならざるをえません。この社会の言論は萎縮せざるを得ません。およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。

 最後に、本件の判断を射程距離に収めると考えられる、憲法21条についての最高裁大法廷判決(昭和61年6月11日・民集40巻4号872頁(北方ジャーナル事件))の一節を引用いたします。

「主権が国民に属する民主制国家は、その構成員である国民がおよそ一切の主義主張等を表明するとともにこれらの情報を相互に受領することができ、その中から自由な意思をもって自己が正当と信ずるものを採用することにより多数意見が形成され、かかる過程を通じて国政が決定されることをその存立の基礎としているのであるから、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであり、憲法21条1項の規定は、その核心においてかかる趣旨を含むものと解される」

 この最高裁大法廷判例が説示する「公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利」との憲法理念に則った判決を期待いたします。

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なお、控訴審から新たに弁護団に加わっていただいた弁護士の中に、徳岡宏一朗さんがいる。本日の法廷と報告集会に参加していただいた。

その徳岡さんのブログにDHCスラップ訴訟が紹介されている。ありがたいこと。下記のURLをご参照いただきたい。私のブログとは段違い。見栄えがよく、読み易い。
  http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/0278962f4551fe0531c2218cb9b922d4

(2015年12月24日・連続第998回)

「政治的言論の自由を守れ」明日(12月24日)DHCスラップ訴訟控訴審口頭弁論ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第63弾

《DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール》
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日1審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC・吉田は全面敗訴となった。
しかし、DHC・吉田は一審判決を不服として控訴し、控訴事件が東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)に係属している。

その第1回口頭弁論期日が、
 クリスマスイブの明日12月24日(木)午後2時から。
 東京高裁庁舎8階の822号法廷で開かれる。

ぜひ傍聴にお越しください。どなたでも、なんの手続も不要で、傍聴できます。
被控訴人本人の私が意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行います。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
 午後3時から
 東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちましょう。
弁護団報告は、表現の自由と名誉毀損の問題に関して、最新の訴訟実務の内容を報告するものとなることでしょう。また、消費者問題・医事問題としての健康食品・サプリメントに対する行政規制問題やカフェイン・サプリメント過剰摂取問題などの報告もあります。
表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加ください。歓迎いたします。

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《DHCスラップ訴訟経過の概略》
  参照 http://article9.jp/wordpress/?cat=12 
 2014年3月31日 違法とされたブログ(1)
    「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
 2014年4月2日 違法とされたブログ(2)
    「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
 2014年4月8日 違法とされたブログ(3)
    政治資金の動きはガラス張りでなければならない
 同年4月16日 原告ら提訴(当時 石栗正子裁判長)
  5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
  6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
  7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
  7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
        第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
    14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
    15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
    16日 第4弾「弁護士が被告になって」
    以下本日(12月23日)の第63弾まで
  8月20日 705号法廷 第2回(実質第1回)弁論期日。
  8月29日 原告 請求の拡張(6000万円の請求に増額) 書面提出
   新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
     7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
       「いけません 口封じ目的の濫訴」
     8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
       「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
   2015年7月 1日 第8回(実質第7回)弁論 結審
  2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
      9月15日 DHC・吉田控訴状提出
      11月2日 控訴理由書提出
     12月17日 控訴答弁書提出
     12月24日 控訴審第1回口頭弁論(822号法廷) 
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《関連他事件について》
DHCと吉田嘉明が連名で原告となって提起した同種スラップ(いずれも、吉田嘉明の渡辺喜美に対する8億円提供を批判したもの)は合計10件あります。2000万円の請求から、2億円の請求まで。

最も早く進行したDHC対折本和司弁護士事件は、本年1月15日に地裁判決(請求棄却)、6月25日の控訴棄却判決(控訴棄却)、その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。
2番目の判決となったS氏(経済評論家)を被告とする事件は本年3月24日に地裁判決(請求棄却)、8月5日に控訴審判決(控訴棄却)、その後上告受理申立がなされ最高裁に係属中。
私の事件が、3番目の地裁判決になりました。

DHCスラップ訴訟澤藤事件控訴審で明らかになったことでは、他の1件で判決が出ています。1億円請求に対して100万円を認容した判決ですが、名誉毀損に当たるとされた業界紙の記事は、「DHC・渡辺」事件と無関係のものです。詳細報告は下記をご覧ください。
  http://article9.jp/wordpress/?p=6084
  判決が認定した「DHCに対する行政指導の数々」
        ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第59弾

また、一人で2件のスラップの被告とされていた評論家については、1億円の請求に対して30万円での和解が成立したとのと。これも詳細は下記をご覧ください。
  http://article9.jp/wordpress/?p=6086
  別件DHCスラップ訴訟の和解調書から見えてくるもの
        ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第60弾
なお、DHC・吉田は、関連して仮処分事件も2件申し立てていますが、いずれも却下。両者とも抗告して、東京高等裁判所での抗告審もいずれも棄却の決定。

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《仮にもし、一審判決が私の敗訴だったら…》
私の言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治批判の言論は成り立たなくなります。原告吉田を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌っての濫訴が横行する事態を招くことになるでしょう。そのとき、市民の言論は萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は、後退を余儀なくされるでしょう。そのことは、権力と経済力が社会を恣に支配することを意味します。言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。スラップに成功体験をさせてはならないのです。

何度でも繰り返さなければならない。
「スラップに成功体験をさせてはならない」と。

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《一審判決の構造》
※原審原告ら(DHCと吉田嘉明)は、5本の澤藤ブログのうちから16個所の記述を特定して、「事実を摘示して人の名誉を毀損した」と主張した。
※原判決は、名誉毀損の言論と特定された16個の記述のうち、1個は原告らの社会的評価を低下させるものではないからそもそも問題とならずとし、残る15個の記述はいずれも原告らの社会的評価を低下させるものとして名誉毀損に当たるとした。
※その上で、いずれの言論にも違法性はないことを明確に認めて全部の請求を棄却した。
 原判決は最高裁判決の枠組みに従って、名誉毀損15個の表現をいずれも「一般の読者の普通の注意と読み方を基準とすれば」というキーワードを介して、「意見ないし論評を述べたものであり,事実を摘示したものとはいえない」と判断した。実はこれで結論が決まった。
※その上で、「本件各記述は,いずれも意見ないし論評の表明であり,公共の利害に開する事実に係り,その目的が専ら公益を図ることにあって,その前提事実の重要な部分について真実であることの証明がされており,前提事実と意見ないし論評との間に論理的関連性も認められ,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものということはできない」。だから違法性を欠くものとした不法行為の成立を否定した。
※1989(平成元)年12月21日「長崎教師批判ビラ配布事件」最高裁判決が引用されているので、「公正な論評の法理」を採用したものと理解される。

《控訴審での論点》
※控訴人ら(DHC・吉田)は、特に新たな主張はなく、「8億円交付についての動機は『事実の摘示』である」「これを『意見ないし論評の表明』とした原判決は最高裁判例に違反するもので間違っている」と蒸し返している。
※被控訴人(澤藤側)は、原判決の誤りはないとして、一回結審を申し出ている。
(2015年12月23日・連続第997回)

カフェイン過剰摂取死亡事件が示すサプリメント規制強化の必要性ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第62弾

「『エナジードリンク』と呼ばれるカフェインを含む清涼飲料水を大量に飲んだ九州の男性が中毒死した問題で、福岡大(福岡市)は(12月)21日、解剖の結果、カフェインの血中濃度が致死量に達していたことが分かったと発表した。胃の中からカフェインの錠剤も見つかり、解剖した同大の久保真一教授(法医学)は記者会見で『短期間の大量摂取は危険だ』と注意を呼びかけた。」(毎日)

「久保教授によると、男性は深夜勤務のある仕事に従事し、夜勤明けに自宅で吐き、その後亡くなった。死因・身元調査法に基づき解剖したところ、血液1ミリリットル中のカフェイン含有量は致死量に達する182マイクログラムで、胃からは粉々になったカフェインを含む錠剤も検出された。男性が服用したとみられる。
 男性に既往症はなかったが、亡くなる1年ほど前から眠気覚ましに、カフェインを含む『エナジードリンク』と呼ばれる飲料を飲むようになったと家族は教授に説明。3、4度吐いたことがあり、亡くなる1週間ほど前からは眠気で仕事に支障が出ていたとも話した。
 久保教授は、こうした状況から、摂取した時期や量は分からないものの、男性がカフェインを含む飲料や錠剤を比較的短時間にたくさんとったことにより、急性カフェイン中毒で死亡したと結論づけた。10月に神戸市であった学会で発表したという
。」(朝日)

コンビニに置いてある清涼飲料と気軽に入手可能な錠剤サプリメントでのカフェン過剰摂取。それが現実の死亡事故となった。サプリメント先進国アメリカでこそ相当数の報告があるものの、我が国では初めての報告という。しかし、解剖なければ死因は分からなかったはず。死因分からぬままの同種症例は他にもあったのではないか。また、死亡にまでは至らないカフェイン過剰摂取健康障害事例がなかったはずはない。この事件が示唆する、健康食品・サプリメントによる健康被害のひろがりは、深刻な事態といわねばならない。

カフェインもビタミンもミネラルも、自然食品に含まれている。普通の食生活において自然食品を摂取している限り健康に害はない。ところが、企業の宣伝に煽られて、過剰摂取におちいると健康被害が生じることになる。過剰な広告による過剰な商品摂取が危険なことはつとに警告されてきたところ。だが、健康食品もサプリメントも、取締法規と行政規制は「自己判断・自己責任」の問題として放置したままである。

過剰摂取が特に危険とされている微量栄養素として、ビタミンA・ビタミンD・鉄・セレン・ゲルマニウム・クロム・カルシウムなどが警告の対象となっている。また、病人特に腎不全患者は高用量のビタミンC摂取を回避すべきとされてもいる。(内閣府食品安全委員会・報告書)

実は、これらの健康食品・サプリメント類の過剰摂取健康被害は表面化しにくい。通常因果関係の立証はきわめて困難である。しかし、解剖例から明確にされた、カフェイン過剰摂取死症例の存在は、他のビタミン・ミネラル類についても過剰摂取による隠れた健康被害が広範にあることを示唆するものと考えなければならない。

カフェイン死亡事件は、健康食品やサプリメントを行政規制の鎖から野放しにしておくことの危険を象徴するものと言えよう。とりわけ、錠剤サプリメントによる大量摂取が消費者の健康被害に危険を及ぼすことは明らかではないか。

DHC吉田嘉明は、「週刊新潮」2014年4月3日号に手記を寄せてこう言っている。
「私の経営する会社は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてきます」「私から見れば、厚労省に限らず、官僚たちが手を出せば出すほど、日本の産業はおかしくなっているように思います。つまり、霞ヶ関、官僚機構の打破こそが今の日本に求められている改革…」

要するに、「自社を縛っている行政規制が煩わしい。その規制チェックをなくすることが、今の日本に求められている。」という、企業のホンネをあからさまに述べているものと解するほかはない。サプリメント販売の行政規制強化などはとんでもない、ということになろう。

ところが、である。DHCのネット広告の中に次の一文を見つけた。
「今や日本人の6割以上が日常的にサプリメントを使用する時代となりました。しかし、日本の健康食品業界はサプリメントの先進国アメリカに比べると規制が緩く、それを逆手に取った価格や配合成分、効果に疑問を持たざるをえないサプリメントが存在します。残念なことに日本ではそのような“不健康なサプリ”があふれかえっており、“健康なサプリ”が少ないのが現状です。生活の質を向上させるためにサプリメントを購入する際には、企業の宣伝や広告を鵜呑みにするのではなく、自分自身で“健康なサプリメント”と“不健康なサプリメント”をしっかりと見極めましょう。」

この広告では、日本の健康食品業界に対する行政規制が緩いことを嘆いて見せているのである。一方では「規制を特別煩わしい」と言い、一方では「規制が緩い」と言うこのご都合主義は、いったいどういうことなのだろう。

消費者に読ませる広告において規制が緩いことを嘆く姿勢を見せることが、自社製品の安全性アピールに結びつくとの思惑からのことであろうが、企業の広告がホンネと乖離していることの見本と言うべきであろう。どの企業も、ホンネは規制の緩和ないし撤廃を望んでいる。しかし、消費者には規制を嫌っていると思われたくはないのだ。

そして、「価格や配合成分、効果に疑問を持たざるをえない不健康なサプリメント」は、業界のすべての企業の製品に共通している。厚労省も消費者庁も、そして内閣府食品安全委員会もその実態を明らかにしつつ、強く警告を発しているのだ。

企業としては、健康食品と医薬品の境界線上にある商品に関して、一面医薬品としての取り扱いによる規制は煩わしいと思いながらも、他面医薬品としての消費者の信頼は欲しいところ。これが、アンビバレントの本質。行政は1971年の「食薬区分」(「46通達」と言われる)で、一応その切り分けをしているが、なお明確ではない。

公表されたカフェイン死亡事故を無駄にしてはならない。「食薬区分」線上にある製品の行政規制を、今こそ「健康食品・サプリメントへの規制が緩い」と嘆いて、厳格化しなければならない。企業に「規制を特別煩わしい」などと言わせていてはならない。国民の健康のため、いや命をまもるために、である。

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   DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となりました。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)に係属しています。

その第1回口頭弁論期日は、
 クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
 法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。
ぜひ傍聴にお越しください。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行います。

また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
 午後3時から
 東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちましょう。
 弁護団報告は、表現の自由と名誉毀損の問題に関して、最新の訴訟実務の内容を報告するものとなることでしょう。
 表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加ください。歓迎いたします。
(2015年12月22日・連続第996回)

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