「戦後70周年」のこの年を送る
1945年が「忘れることのできないあの年」であり、「新しい時代の始まりの年」でもあった。2015年は、あの年から70年目。「戦後70年」の「節目」とされた今年には、70年目の記念日が目白押しとなった。
70年目の3月10日。
沖縄地上戦戦開始から70年。
ドイツ降伏70周年。
沖縄地上戦終了の日から70年。
広島原爆投下70周年。
長崎の悲劇から70年。
ポツダム宣言受諾70年。
70年目の敗戦記念の日‥‥。
それぞれの「節目」の日々には、思い起こすべきこと、語り合うべきこと、そして語り継ぐべきことが山積していた。もしかしたら、そのラストチャンスとして。
一年を振り返って、歴史は十分に思い起こされ、論議され、教訓として噛みしめられただろうか。戦争の悲惨な体験や、平和の貴重さ脆弱さは、若い世代に語り継がれただろうか。70年前に国民が共有した国の再生の初心は忘却の淵から救われただろうか。
とりわけ大事なこととして、70年前絶望的な戦況であることを十分に認識しながら、つまらぬ「國體の護持」にこだわり続けて、この上なく貴重な国民の生命を犠牲にして恥じないこの国の指導者たちの責任について、十分に語り合えただろうか。戦争の終結をもっと早く決断すべきであったのにこれを怠り、数百万の命を無駄死に追い込み、無数の悲劇をもたらした者たちの責任追求を忘れ去ってはいないだろうか。
國體の護持のために国民の命が犠牲にされた愚かな時代。国民個人よりも国家や天皇が貴重な価値とされた倒錯の時代ゆえの悲劇。今は、個人が国家や社会に優越する根源的価値であるという当たり前の常識が危うい。「日本を取り戻す」「戦後レジームからの脱却」はこの時代への再逆転を指向するものではないか。
なんとも心許ない。2015年は、憲法の危機の年として明け、9月19日参議院での戦争法「成立」の日がこの1年を象徴する日となった。アベ政権の罪科であり、これを許した国民の責任でもある。
思い起こせば、今年のキーワードは次のような、なくもがなのものが目につく。
「戦争法」「日米ガイドライン」「沖縄・辺野古」、そして「反知性主義」「反立憲主義」「安倍一強」「慰安婦問題」‥。
しかし、パンドラの箱が開いても希望は残る。戦争法反対デモの群衆こそ希望ではないか。それだけではない。「アベ政治を許さない」「シールズ(SEALDs)」「民主主義って何だ」「安保関連法に反対するママの会」「自民党、感じ悪いよね」と口にした多くの人々。そして、沖縄へのこぞっての世論の支援は、来年に通じる希望である。
不安と希望とが入り交じって、2015年が暮れていく。
(2015年12月31日)