澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

無給の司法修習制度は、苦学生を閉め出すことになる

  わが抱く思想はすべて
  金なきに因するごとし
  秋の風吹く

よく知られたこの啄木の歌。詩的な情緒に欠けて無味乾燥ではあるが、この世の真理を衝いている。自分の身に当て嵌めて思い当たる。私の抱く思想も、すべて金なきに因して形づくられた。金あるものは金あるにふさわしい考えを、金なきものは金なきが故の思想を抱くのが、世の常ではないか。

私は、典型的な苦学生だった。その苦学生に、法曹は魅力的な進路だった。司法試験の受験資格は誰にも開かれている。法学部の学生ではなかった私も受験に差し支えはなかった。これに合格すれば、司法修習生として採用され、給与を得ながらの修習ができる。その身分は、準公務員である。修習専念義務を課せられるが、その見返りに定額の給与を保障されて、みっちり2年間、法曹としての見習いができるのだ。

費用のハードルを意識することなく、苦学生だった私は司法修習生となり、修習終了時に弁護士への途を選択して職業生活を開始することになった。こうして、金なきに因して形づくられた思想を抱いたまま私は弁護士となることができた。今は昔の話である。

金なきに因した思想を抱いた若者を法曹にさせたくないとすれば、法曹資格の取得までに多額の金がかかるような制度設計をすればよい。そうすれば、金のない苦学生などは、費用のハードルに足をすくわれてゴールできなくなる。法曹界への「悪い思想」侵入に対する防御策となり得る。

制度設計の意図はいざ知らず、現在の法曹養成の制度は、貧乏学生を閉め出すものとなっている。そもそも苦学生は、法曹を目指す意欲をもてないだろう。私も、今の制度では弁護士を目指さなかった。仮にその意欲あっても、実現できたとは思えない。

今、法曹を志す者は、大学卒業後に法科大学院での2年ないし3年の就学を必要とする。もちろんこの間の学費の支払いが必要である。司法試験に合格さえすれば給料がもらえたのが昔の話。今は、法科大学院の入学試験に合格すれば、学費を支払わねばならない。

法科大学院を卒業すれば、司法試験の受験資格を得ることができる。首尾よく司法試験に合格して司法修習生となっても給与はない。修習専念義務だけがあって、アルバイトは禁止だが、生活費の保障はない。希望者に生活費の貸与はあるが、当然借金となり返還の義務を負うことになる。

貧乏学生は、「学部時代の奨学金」「法科大学院での奨学金」、そして「司法修習時代の貸与金」返済の債務を背負って職業生活を始めることになる。その額1000万円を超える者もいるという。債務弁済のために、若手の弁護士が金の儲かる割のよい仕事を漁ることにもなり得よう。

司法修習が無給になったのは、2011年からである。私はこの制度変更は、法曹の性格と修習生の意識を変えたと思う。それまで、裁判実務に携わる法曹(裁判官・検察官・弁護士)とは、公的な理念に支えられ、公費で養成されるにふさわしい使命を持った職業と位置づけられていた。司法修習生には、自ずからその自覚が求められた。

ところが、2011年以来、司法修習生の給費制度が廃止されるや、弁護士はビジネスになった。人権擁護と社会正義を擁護する使命はかたちだけのものとなり、司法修習生の意識も、「弁護士となって高給を食み、弁護士になるまでのコストを回収しなけばならない」と変わった。

だから、日弁連も、心ある市民も、司法修習の給費制復活を願った。ことは、けっして法曹志望者に酷だからというにとどまらない。国民の権利擁護に直接携わる実務法律家の質や意識に関わる問題なのだ。法曹の出身階層を、一定以上の経済的地位にある者に限定して、経済的に困窮の立場にある階層を閉め出すことの問題性は明らかではないか。

この問題に、ようやく明るさが見えてきた。一昨日(12月19日)、来年の司法試験合格者から「給費制」を事実上復活することを法務省が発表した。現在の案では、月額に一律13万5000円を支給し、アパートなどを借りる必要がある修習生に対しては、住居費として月額3万5000円を上積みするという。制度導入にあたり必要となる裁判所法改正案を、来年(2017年)の通常国会に提出予定とのこと。

これを受けた、日弁連会長談話の抜粋を引用しておきたい。

2011年に司法修習生に対する給費制が廃止され、修習資金を貸与する制度に移行してから5年が経過した。この間、司法修習生は、修習のために数百万円の貸与金を負担するほか、法科大学院や大学の奨学金の債務も合わせると多額の債務を負担する者が少なからず存在する。近年の法曹志望者の減少は著しく、このような経済的負担の重さが法曹志望者の激減の一因となっていることが指摘されてきた。

司法制度は、三権の一翼として、法の支配を社会の隅々まで行き渡らせ、市民の権利を実現するための社会に不可欠な基盤であり、法曹は、その司法を担う重要な役割を負っている。このため国は、司法試験合格者に法曹にふさわしい実務能力を習得させるための司法修習を命じ、修習専念義務をも課している。ところが、法曹養成の過程における経済的負担の重さから法曹を断念する者が生じていることは深刻な問題であり、司法を担う法曹の人材を確保し、修習に専念できる環境を整備するための経済的支援が喫緊の課題とされてきたものである。

このような状況を踏まえ、法務省が新たな経済的支援策についての制度方針を発表した意義は重要である。日弁連はこれまで、法曹人材を確保するための様々な取組を行ってきており、その一環として、修習に専念しうるための経済的支援を求めてきたものであり、今回の司法修習生に対する経済的支援策についてはこれを前進と受け止め、今後も、法曹志望者の確保に向けた諸々の取組を続けるとともに、弁護士及び弁護士会が司法の一翼を担っていることを踏まえ、今後もその社会的使命を果たしていく所存である。

修習生の側が、社会からの拠出を原資とする給付であることを自覚して、職業生活を通じて社会に還元すべき責任を果たさなければならないことは当然である。が、法曹を志す者だけの問題ではなく、国民の裁判を受ける権利をよりよく実現する制度設計の問題として、また、裁判を受ける際には接することになる実務法律家の質をどう確保するかの問題としてお考えいただきたい。金なきに因する思想を持つ法律家を閉め出すような法曹養成制度は甚だしく歪んでいるのだから。
(2016年12月21日)

司法は権力から独立しているのか。ー辺野古訴訟最高裁判決の示すもの

「あたらしい憲法のはなし」を、ときおり読み返す。今日は、辺野古訴訟の最高裁判決を受けて、その「十一 司法」を読んでみた。

日本国憲法の施行が1947年5月。その年の8月に、新制中学校1年生用の社会科教科書として文部省が編纂したのが、この「あたらしい憲法のはなし」。当時、文字通り、できたての「あたらしい憲法」だったのだ。その後副読本に格下げされ、1952年以後は使われていない。

内容は細部を見れば不十分ではあるが、「民主的な平和憲法」の精神を国民に普及しようという、時代の空気や清新な意気込みが伝わってくる。全十五章。各章の標題は以下のとおり。
「憲法」「民主主義とは」「國際平和主義」「主権在民主義」「天皇陛下」「戰爭の放棄」「基本的人権」「國会」「政党」「内閣」「司法」「財政」「地方自治」「改正」「最高法規」

「十一 司法」は短い。全文をご紹介する。
 「司法」とは、爭いごとをさばいたり、罪があるかないかをきめることです。「裁判」というのも同じはたらきをさすのです。だれでも、じぶんの生命、自由、財産などを守るために、公平な裁判をしてもらうことができます。この司法という國の仕事は、國民にとってはたいへん大事なことで、何よりもまず、公平にさばいたり、きめたりすることがたいせつであります。そこで國には、「裁判所」というものがあって、この司法という仕事をうけもっているのです。
 裁判所は、その仕事をやってゆくについて、ただ憲法と國会のつくった法律とにしたがって、公平に裁判をしてゆくものであることを、憲法できめております。ほかからは、いっさい口出しをすることはできないのです。また、裁判をする役目をもっている人、すなわち「裁判官」は、みだりに役目を取りあげられないことになっているのです。これを「司法権の独立」といいます。また、裁判を公平にさせるために、裁判は、だれでも見たりきいたりすることができるのです。これは、國会と同じように、裁判所の仕事が國民の目の前で行われるということです。これも憲法ではっきりときめてあります。
こんどの憲法で、ひじょうにかわったことを、一つ申しておきます。それは、裁判所は、國会でつくった法律が、憲法に合っているかどうかをしらべることができるようになったことです。もし法律が、憲法にきめてあることにちがっていると考えたときは、その法律にしたがわないことができるのです。だから裁判所は、たいへんおもい役目をすることになりました。
 みなさん、私たち國民は、國会を、じぶんの代わりをするものと思って、しんらいするとともに、裁判所を、じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかたと思って、そんけいしなければなりません。

新憲法の特徴として違憲立法審査権が解説されているほか、「公平」という裁判の理念を実現するために、「司法権の独立」(その内実としての「裁判官の独立」)の重要性が強調されている。さて、「司法権の独立」は70年後の今日、現実のものとなっているだろうか。

司法の独立とは、最高裁を頂点とする裁判官たちが、国家や公権力からの有形無形の圧力から自由であることを意味する。今の司法が、国や政権におもねることなく、法と良心のみに従った裁判ができているか。答は「ノー」というしかない。

日本の裁判官諸氏の廉潔性は信頼に足りる。裁判官の私的利益獲得の思惑で判決の内容が左右されることはない。しかし、その廉潔な裁判官が、権力からの圧力に屈せぬ気概をもち、現行の支配の秩序が求めるものから自由であるかといえば、到底肯定し得ない。

最高裁だけでなく下級審の判決も、丁寧で精緻ではある。しかし、支配の秩序の根幹に関わる事案においては、どうしても「反権力」とはなり得ない。九条・安保・基地・沖縄・天皇・日の丸・君が代・家制度などに関わるテーマとなれば、憲法の理念を貫くという姿勢が腰砕けとなってしまう。

本日(12月20日)の最高裁辺野古訴訟判決はその典型と言ってよい。さすがに、原審・福岡高裁那覇支部判決のような「安保公益論」の思い込みの説示はなかったものの、4人の裁判官の全員一致の結論で反対意見も補足意見もなかったという。

先に引用した、「あたらしい憲法のはなし」は、国民に、
  國会には信頼を
  裁判所には尊敬を
求めている。これは、間違いだろう。民主主義本来の理念からは、
  國会には国民の猜疑を
  裁判所には国民の監視を
こそ、求めねばならない。

しかし、当時の文部省は、裁判所を「じぶんたちの権利や自由を守ってくれるみかた」と描いたのだ。いざという時の「国の味方」としての裁判所は想定外だったのだ。国の肩をもって、戦争のための恒久的な海兵隊の揚陸艦接岸基地建設を認め、環境破壊も治安の悪化も騒音も我慢せよという、住民いじめの判決を書く裁判所が現れようとは思いもよらなかったのだ。

まことに、権力から独立した「そんけいにあたいする最高裁」が切実に求められている事態ではないか。
(2016年12月20日)

「言語道断」「政府はもう相手にできない」-オスプレイ飛行全面再開

オスプレイ飛んだ
名護まで飛んだ
名護まで飛んで
浅瀬に墜ちた

オスプレイ墜ちた
やっぱり墜ちた
撃たれもせぬに
こわれて無惨

オスプレイ墜ちた
墜ちてもけろり
風、風、吹くな
日本中飛ばそ

日本を震撼させたオスプレイの墜落が12月13日の夜9時半。現地の不安と恐怖が癒える間もなく、本日(19日)在沖米軍はオスプレイの飛行を全面的に再開した。防衛大臣や官房長官は「防衛省・自衛隊の知見、専門的見地などから、合理性があるということだ」と言い、地元沖縄知事は「事前の説明がないまま一方的に飛行再開を強行した日米両政府の姿勢は、信頼関係を大きく損ねるもので、到底容認できない」(沖縄タイムス)と述べている。米軍と日本政府が、緊密なタッグを組んでの沖縄県民いじめの図ではないか。

この上なく頼りないだけでなく邪悪なイナダよ。おまえはどこの国の防衛大臣なのだ。米軍の言い分鵜呑みがおまえの仕事なのか。アベ政権よ、日本の主権はどこに行ったのか。県民感情は踏みにじっても、米軍へのおもねりが大事だということか。

翁長知事の最初の言葉が「言語道断だ」であった。この事態にまことにふさわしいが、痛切な響きをもつ。次いで、「そういう(オスプレイ飛行是認の)政府はもう相手にできない。法治国家ではない」と言っている。知事の会見では、「日本政府は県民に寄り添うと繰り返しながら、米側の考えを優先して再開を容認した」「県民不在で、日米安保に貢献する県民を一顧だにしていない。強い憤りを感じる」「あらゆる機会を通じてオスプレイの配備撤回と飛行停止を求める」と厳しい。

名護の稲嶺市長も、記者団に「言語道断」と言っている。
「まだ十分な検証ができていない中、政府が、飛行再開について『わかりました』というのが理解できない。沖縄県民の生命と財産を軽んじている。言語道断だ」

イナダは15日午後に、上京した翁長知事と防衛省で会っている。知事が「不安が現実のものとなり大きな衝撃を受けている。配備に強く反対してきたオスプレイが、このような事故を起こしたことに怒りを禁じ得ず、直ちに飛行中止と配備撤回を強く要請し、強く抗議する」と述べ、イナダは、「在日アメリカ軍の司令官と電話会談し、沖縄県や国民が安全性に重大な関心を寄せているオスプレイの事故は非常に遺憾だと伝え、政府や国民に透明性を持った情報開示をしてほしいと申し入れている」「住民の住んでいる近くで起きたことなので、防衛省としてもしっかり情報収集や公表を行い、安全確認や理解を頂くことが前提だと思っている」応じている。

その舌の根も乾かぬ内の、オスプレイ飛行再開是認の発言であり、自らが県民をしっかり説得しようとまで言っている。開いた口が塞がらない。よくもまあ、恥知らずなことを言えるものと、呆れるほかはない。

翁長知事の反論が厳しい。「安全を確認するのならば、しっかりと中身を含めて具体的に説明するべきで、『アメリカから丁寧な説明があり、日本政府が検証した結果理解した』という報告ではとても納得がいかない。これだけ安全保障を沖縄が背負っているのに、県民に説明しない形で物事にふたをするのはありえない」

この沖縄の怒りのなか、明日(20日)に辺野古訴訟最高裁判決が言い渡される。
(2016年12月19日)

法が弁護士という制度を創設した趣旨を考える

とある受任事件の中間報告である。客観的には重大事件ではない。しかし、どんな紛争も当事者にとっては深刻である。しかもこの事件がもつ問題の普遍性が高い。この事件の解決如何が影響するところは、広く大きいと思う。

私の依頼者(複数)は、語学学校の講師である。もっとも、びっちりと授業時間が詰まっているわけではなく、受講者が講師を指名してマンツーマンでの指導が行われるという形をとっている。だから、指名がなければ講師としての仕事はなくなる。使用者は、宣伝広告によって受講者を募集し、授業時間のコマ割りをきめ、定められた受講料のうちから、定められた講師の賃金を支払う。労働時間、就労場所、賃金額が定められている。これまでは、疑いもなく、労働契約関係との前提で、有給休暇も取得されていた。

ところが、経営主体となっている株式会社の経営者が交替すると、各講師との契約関係を、「労働契約」ではなく「業務委託契約」であると主張し始めた。そして、全講師に対して、新たな「業務委託契約書」に署名をするよう強要を始めた。この新契約書では有給休暇がなくなる。

経営側が、「労働契約上の労働者」に対する要保護性を嫌い、保護に伴う負担を嫌って、業務請負を偽装する手法は今どきのトレンドといってよい。しかし、弱い立場の勤労者の生計を守る必要を基本とする市民法であり、労働者保護法制ではないか。本件のような、「請負偽装」を認めてしまっては労働者の権利の保護は画餅に帰すことになる。

とはいうものの、本件の場合講師の立場は極めて弱い。仕事の割り当ては経営者が作成する各コマのリストにしたがって行われる。受講者の指名にしたがったとするリストの作成権限は経営者の手に握られている。このリストに講師の名を登載してもらえなければ、授業の受持はなく、就労の機会を奪われて賃金の受給はできない。これは、解雇予告手当もないままの事実上の解雇である。やむなく、多くの講師が不本意な契約文書に署名を余儀なくされている。

それでも、中には少数ながらも経営者のやり口に憤り、「断乎署名を拒否する」という者もいる。「不当なことに屈してはならない」というのだ。たまたま、そのような心意気の人との接触があって、まずは交渉を受任することとなった。

本題は、ここからだ。こうして、私は講師を代理して、経営者に内容証明郵便による受任通知と、交渉の申し入れを行った。ところが、なんの返答もない。当事者の講師には、なおも署名の強要が続けられる。再度の内容証明郵便を発送したが、またもなしのつぶて。電話をしても、責任者はけっして出ようとしない。労基署への申告をして、その旨の通知もした。私の依頼者に口頭で「会社側の誰が弁護士との交渉担当になるのか特定してくれ」と言ってもらったところ、「誰と交渉すべきかについては返答を拒否する」との回答だったという。

普通は、こんなとき経営側に弁護士がついてくれないかなと思う。少なくとも話が通じる。無用の軋轢は回避できる。そんな折に、経営者が本件に関して弁護士を選任して労働基準監督官との交渉を委任し、講師との交渉に関してもその指示を仰いでいる様子が見えてきた。ところが、奇妙なことにこの弁護士は、通常のどの弁護士もするような振る舞いをしない。私に何の連絡もせず、むしろ当事者間での交渉を急がせているように見受けられる。これは、弁護士にあるまじき行動として、問題は大きいのではないか。

「弁護士職務基本規定」というものがある。かつては「弁護士倫理」と言っていた、弁護士がよるべき職務上の行動規範である。その第52条は「相手方に法令上の資格を有する代理人が選任されたときは、正当な理由なく、その代理人の承諾を得ないで直接相手方と交渉してはならない」と相手方本人との直接交渉の禁止を明確にしている。その理由は、代理人を通じての円滑な交渉の進展を阻害するというだけでなく、法律に通暁した代理人を選任して自らの権利を擁護しようとした相手方当事者の権利を不当に侵害することになるからである。

本件の場合、労働者は私という弁護士を選任した。経営側の弁護士は、私という労働者代理人の弁護士を無視してはならないのだ。ことは、弁護士という法律専門職の制度を創設した趣旨に関わる。法が弁護士という人権擁護の使命をもった法律専門家としての資格を創設して、弱い立場の人権を擁護しようとしたのだ。その制度の意味を失わせてはならない。

本件の場合、私が労働者側に付いたことを通知して以来、私の依頼者本人と交渉したのは弁護士ではなく経営者ではある。しかし、経営側の弁護士が直接交渉を指示し、あるいは許容したのであれば、生じる事態に差はない。本件の紛争が労働契約関係をめぐるものであり、彼我の交渉力量の歴然たる格差の存在に鑑みれば、当該弁護士の行為は、実質的に弁護士職務基本規定第52条に違反し、弁護士法第56条1項に定める「弁護士としての品位を失うべき非行」に該当するものといわざるを得ない。

さらに、経営者は、労働基準監督官の経営者に対する事情聴取の席に立ち会ったあとの当該弁護士の発言として、「行政は労働者性を完全に否定している」「争っても勝ち目はない」として、「業務委託契約書」への署名強要の手段としている。

弁護士の発言は伝聞の限りであって、どのような内容であったかを断定はし得ない。しかし、経過を知る弁護士が、事態の推移を黙認していること自体が問題ではないか。弁護士職務基本規定第5条は「弁護士は、真実を尊重し、信義に従い、誠実かつ公正に職務を行うものとする」として、弁護士に信義誠実の原則に従って業務を行うべき義務を課している。これに違背する非行も、懲戒事由に当たるものと考えられる。

弁護士とは人権擁護の任務を負うものである。労働者、あるいは消費者、患者、住民など、定型的に弱い立場の人権を擁護すべきが本来的任務というべきである。経営者・事業者・医療機関・公害企業など、その相手方にも弁護士が選任されることが想定されてはいる。しかし、強者の側の弁護士も人権擁護の任務を負っている。その任務の一側面として、十全なものとしてなされるべき弱者側の弁護士の活動を不当に阻害してはならないというべきである。そのことは、弁護士という職能創設の制度の趣旨が求めるところである。
(2016年12月18日)

2017年「友愛政治塾」を開催しますー〈友愛を心に活憲を!〉をモットーに

友愛政治塾は、〈友愛を心に活憲を!〉をモットーに、季刊『フラタニティ』の執筆者を講師に招き、それぞれの専門領域での最新の知識を学ぶ場として開設されます。講師団と塾生によるシンクタンク=知的拠点としても活動し、時には講師団全員の賛同を得たうえで政策的提言を発することもあります。
私も、講師を担当いたします。ぜひご参加ください。

塾長:西川伸一 (明治大学教授)
開講場所 東京都内
第3日曜日午後
☆時間配分 午後1時20分から 講義:90分  質疑討論:70分
☆講師は確定。テーマと開講日は変更の可能性あり。
☆12月は番外、望年会も、自由参加。
☆受講料 通し1万円
単回は無し(途中からは別途割引)
登録受講者が欠席の場合にはその友人が1人出席可能。
受講手続き:事前申込必要→入金
主催:友愛政治塾  Fraternity School of Politics
事務局:村岡到
連絡先住所:〒113-0033  東京都文京区本郷2-6-11-301
ロゴスの会   TEL:03-5840-8525
Mail : logos.sya@gmail.com
郵便口座:00180-3-767282 友愛政治塾

2017年の講師団 (講義順)
西川伸一  明治大学教授
進藤榮一  筑波大学名誉教授
下斗米伸夫 法政大学教授
松竹伸幸  かもがわ出版編集長
丹羽宇一郎 元駐中国大使
伊波洋一  参議院議員
澤藤統一郎 弁護士
浅野純次  石橋湛山記念財団理事
岡田 充  共同通信客員論説委員
孫崎 享  東アジア共同体研究所所長
村岡 到  『フラタニティ』編集長
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2017年日程
① 1月22日(日)
西川伸一 明治大学教授 自民党の特徴と安倍政権
安倍晋三首相は繰り返し「憲法改正は自民党の党是」だと主張しているが、本当なのか。自民党史やこれまでの自民党大会の決議ではどのように書かれているのか。自民党の特質と安倍政権の特徴を明らかにする。

② 2月19日(日)
進藤榮一 筑波大学名誉教授 アジア力が開く新世紀
中国は今やGDPでアメリカに次ぐ第二位で第三位の日本の二倍となっている。アジア諸国の経済成長も目覚ましい。〈アジア力〉の台頭は、400年に渡る近代を超える世紀を切り開きつつある。この現実を直視する。

③ 3月19日(日)
下斗米伸夫 法政大学教授 ロシア革命と宗教(古儀式派の存在)
ロシア革命100年を迎えた。「宗教はアヘンだ」という教条に災いされて知られることがなかったが、実はロシア革命には「古儀式派」という宗教の流れが連綿として強く作用していた。政治と歴史にどう影響したのか。

④ 4月16日(日)
松竹伸幸 かもがわ出版編集長 日本会議をいかに批判すべきか
近年の日本政治の危険な右傾化の陰で強い影響を発揮している右翼勢力=日本会議への批判はどうあるべきか。単に彼らの「欠点」を暴くだけではない、柔軟で包摂的な批判こそが強く求められている。

⑤ 5月21日(日)
丹羽宇一郎 元駐中国大使 日本と中国の友好外交の道
「中国の脅威」がしきりに煽られているが、14億人の中国の歴史と現状を知らなくてはならない。そして、動かすことのできない隣国とどのように付き合うことが求められているのか。友好外交の道を探る。

⑥ 6月18日(日)
伊波洋一 参議院議員 沖縄の歴史的位置と課題
第二次世界大戦での日本の敗北のなかで、米軍基地の理不尽な押し付けは、どうして生じたのか。琉球王国いらいの沖縄の歴史を捉え返し、沖縄がどのように苦しんできたのか、その理解に踏まえてあるべき姿を展望する。

⑦ 7月16日(日)
澤藤統一郎 弁護士 言論の自由の時代状況
そもそも言論の自由とはどのような権利なのか。今、日本の言論の自由はどのような状態ににあるのか。DHCから6000万円請求のスラップ訴訟被告とされた体験を通じて、「表現の自由」の本質を再確認しつつ、言論封殺の圧力に抗する方法について論じる。

⑧ 9月17日(日)
浅野純次 石橋湛山記念財団理事 マスコミの影響力と責任
マスコミは「第四の権力」といわれ、現代の政治を動かす大きな要因となっている。日本の現在のマスコミはどうなっているのか。市民の立場に立った情報源として有効に機能しているのか。その責任を問う。

⑨ 10月15日(日)
岡田 充 共同通信客員論説委員 日本・中国・台湾はどうなる
日中関係はどうなっているのか。実は台湾も視野に入れて総体的な関係を掴まなくてはならない。台湾の政治はどうなっているのか。マスコミの視野からは抜け落ちる諸関係を歴史的に明らかにする。

⑩ 11月19日(日)
孫崎 享 東アジア共同体研究所所長 日米関係の深層
「アメリカが日本を守っている」──多くの日本人がそう思っているが、本当なのか。真実は一つ。アメリカには日本を防衛する義務はない。敗戦後に作られた〈対米従属〉の分厚い壁からどうしたら脱却できるのか。

番外 12月17日(日)(自由参加)
村岡 到 『フラタニティ』編集長 日本左翼運動の軌跡と意味

左翼は依然として小さな勢力に留まっている。政治を動かす大きな力になれないのは何故なのか。新左翼として生きてきた自らの体験に踏まえて戦後左翼の歩みをふりかえり、その根本的欠陥・弱点を抉り出す。
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よびかけ
日本も世界も不安定さを増しつつ大きく変化しています。日本では、昨年(2015年)9月に安保法制が違憲であることが明確であるにもかかわらず強行採決され、今年(16年)7月の参院選の結果、民意を歪曲する選挙制度も作用して壊憲を進める自民党など与党勢力が総議席の3分の2を超えました。経済では、非正規労働者がほぼ2000万人で被雇用者の約40%に増え、子どもの6人に1人が貧困家庭となる深刻な〈格差社会〉となっています。また、福島原発事故の深刻な実害や今後の災害の可能性を顧慮することなく、原発の再稼働が進んでいます。〈脱原発〉も最重要な課題です。
世界では中国がGDPでアメリカに次ぐ第2位で、第3位の日本のほぼ2倍へと大きく成長し、アジア各国の成長も著しく、アジアの世紀が到来すると言われています。アメリカの衰退は不可避です。戦後の日本を一貫する〈対米従属〉から脱却し、友好と平和の創造をめざす〈東アジア共同体〉を展望しなくてはなりません。
森羅万象と言われるように複雑さを増し、その事象が瞬時に目の前に伝達される情報革命の進展のなかで、日本政治の劣化は著しく、基礎的な認識の獲得がいっそう求められています。
友愛政治塾は、〈友愛を心に活憲を!〉をモットーに、季刊『フラタニティ』の執筆者を講師に招き、それぞれの専門領域での最新の知識を学ぶ場として開設されます。講師団と塾生によるシンクタンク=知的拠点としても活動し、時には講師団全員の賛同を得たうえで政策的提言を発することもあります。
ぜひご参加ください。

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本日は、フラタニティの編集会議。その席上、ハーグ陸戦条約(正確には、「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」及び條約附屬書である「陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則」。1899年採択、1907年改定。日本は1911年に批准)が話題になった。伊波洋一さんが、参議院議員として有する国政調査権を行使して、米軍の沖縄に対する違法行為を洗い出す構想を持っているのだそうだ。

なるほど、ハーグ陸戦条約は戦時国際法として、戦争そのものを止められないとしても、無用の殺傷や戦争被害を最小限にすることを交戦当事国の義務としている。これに照らして、米軍が戦時中に行ったこと、占領中に行ったことの違法の有無を点検することは、今につながる意義のあることであろう。

同条約から、関係あると思われる条文を抜き出してみた。(なお、訳文はネットに掲載されている神川彦松,横田喜三郎共編『国際条約集』を適宜補い句読点を加えた。)
「陸戰ノ法規慣例ニ關スル條約」
第三條 前記規則(各締約国が国内法化した本条約に適合する訓令)ノ條項ニ違反シタル交戰當事者ハ、損害アルトキハ之カ賠償ノ責ヲ負フヘキモノトス。交戰當事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行爲ニ付責任ヲ負フ。

「陸戰ノ法規慣例ニ關スル規則」(條約附屬書)
第二款 戰闘
第一章 害敵手段、攻圍及砲撃
第二二條 交戰者ハ、害敵手段ノ選擇ニ付無制限ノ權利ヲ有スルモノニ非ス。
第二三條 特ニ禁止スルモノ左ノ如シ。
イ 毒又ハ毒ヲ施シタル兵器ヲ使用スルコト
ロ 敵國又ハ敵軍ニ屬スル者ヲ背信ノ行爲ヲ以テ殺傷スルコト
ハ 兵器ヲ捨テ又ハ自衛ノ手段盡キテ降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト
ニ 助命セサルコトヲ宣言スルコト
ホ 不必要ノ苦痛ヲ與フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト
ト 戰争ノ必要上萬已ヲ得サル場合ヲ除クノ外敵ノ財産ヲ破壊シ又ハ押収スルコト
第二五條 防守セサル都市、村落、住宅又ハ建物ハ、如何ナル手段ニ依ルモ之ヲ攻撃又ハ砲撃スルコトヲ得ス。
第二七條 攻撃及砲撃ヲ爲スニ當リテハ、宗教、技藝、學術及慈善ノ用ニ供セラルル建物、歴史上ノ記念建造物、病院竝病者及傷者ノ収容所ハ同時ニ軍事上ノ目的ニ使用セラレサル限之ヲシテ成ルヘク損害ヲ免レシムル爲必要ナル一切ノ手段ヲ執ルヘキモノトス。
第二八條 都市其ノ他ノ地域ハ、突撃ヲ以テ攻取シタル場合ト雖、之ヲ略奪ニ委スルコトヲ得ス。

第三款 敵國ノ領土ニ於ケル軍ノ權力
第四三條 國ノ權力カ事實上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶對的ノ支障ナキ限占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ囘復確保スル爲施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ盡スヘシ。
第四六條 家ノ名譽及權利、個人ノ生命、私有財産竝宗教ノ信仰及其ノ遵行ハ之ヲ尊重スヘシ。
私有財産ハ之ヲ没収スルコトヲ得ス。
第四七條 掠奪ハ之ヲ嚴禁ス。
第五五條 占領國ハ敵國ニ屬シ且占領地ニ在ル公共建物・不動産・森林及農場ニ付テハ其ノ管理者及用益權者タルニ過キサルモノナリト考慮シ、右財産ノ基本ヲ保護シ且用益權ノ法則ニ依リテ之ヲ管理スヘシ。

日本の皇軍が占領地で行った無法ぶりを免責することができないことは当然としても、そのことが米軍の行為を正当化することにはならない。「銃剣とブルドーザー」で、島民の土地を強奪する行為が違法であることは明らかではないか。伊波さんには、頑張っていただき成果をあげていただきたい。
(2016年12月17日)

軍事研究助成に応募拒否を求める署名運動へのご協力を

最近の毎日新聞「みんなの広場」(投書欄)は充実していると思う。これだけ質の高い豊富な意見が寄せられれば、読み応えがある。担当者もやりがいがあるだろう。

その内の一つ。本日(12月16日)朝刊の「関西大の軍事研究禁止に賛同」と題する大阪府河内長野市在住の高井正弘さん(80)の投書。

 関西大学が軍事研究を禁止する方針を打ち出したことを伝える記事を読んだ。その姿勢に賛同の拍手を送りたい。
 防衛装備庁が防衛装備品に応用できる研究を公募して資金提供する「安全保障技術研究推進制度」について、学内の研究者が申請することを禁止する方針を決めたとのことだ。研究者を軍事研究に引き込もうとする政府の思惑に対し、関大は「基本的人権や人類の平和・福祉に反する研究活動に従事しない」と定める研究倫理の原則に沿って判断したという。
 現在、大学や研究機関は過剰な業績主義にさらされ、研究者は研究費獲得などに駆り立てられている。その果てに論文不正や研究費をめぐる不正まで生じている。安倍政権は特定秘密保護法、安全保障関連法の制定を強行したうえ、国是としてきた武器輸出三原則や原子力の研究・利用3原則をほごにした。危機的な国情に対して、一私学が学問研究の理念を堂々と表明したことを称賛したい。
http://mainichi.jp/articles/20161216/ddm/005/070/012000c

多少の補足をしたい。問題とされているのは、「安全保障技術研究推進制度(競争的資金制度)」である。防衛装備庁が始めた応募型軍事技術研究助成制度。軍事技術の研究に1件3000万円(程度)の研究費を付けて募集する。その成果は、防衛省が「我が国の防衛」「災害派遣」「国際平和協力活動」に活用するものだが、研究費不足の大学や研究機関において、3000万円の研究費助成は大いに魅力的である。思わず手が出ようというもの。関西大学はこの誘惑を自ら断ち切ったのだ。

具体的なイメージは、防衛装備庁の下記募集要項でつかめるのではないか。
「平成28年度は、以下の20件の研究テーマについての技術的解決方法(研究課題)を公募します。各研究テーマの細部について確認した上で応募をお願いします。なお、研究テーマは毎年更新します。
 1. 革新的な反射制御技術を用いた光学センサの高感度化に関する基礎技術
 2. レーザシステム用光源の高性能化
 3. 光波等を用いた化学物質及び生物由来粒子の遠隔検知
 4. 機能性多孔質物質を活用した新しい吸着材料
 5. 再生エネルギー小型発電に関する基礎技術
 6. 赤外線の放射率を低減する素材
(以下略)

この制度は、2015年度に3億円の予算規模で始まった。翌2016年には6億円に増額され、来年度(2017年度)にはなんと110億円の概算要求となっている。3年目の予算が初年度の30倍を超えるという恐るべき大判振る舞い。科学技術やその研究を軍事に取り込もうという露骨さなのだ。

これには、科学者・研究機関の良心をかけて阻止しようという反対運動が巻きおこっている。その効果もあって、2015年には109件だった応募総数が、予算倍増の16年には44件に減少している。予算規模を一気に拡大した2017年が大きな制度定着か否か、攻防のヤマ場を迎えることになるだろう。

幅広く研究者が参集して、「軍学共同反対連絡会」が結成されている。
http://no-military-research.jp/

その喫緊の課題が、全国の科学者や大学・研究機関への、「安全保障技術研究推進制度への応募拒否」の呼びかけである。「軍学共同反対連絡会」のサイトでは、次のように解説されている。

 防衛装備庁は、軍事技術に関する研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を2015年度に創設しました。この制度の狙いは、防衛装備(兵器・武器)の開発・高度化のために、大学・研究機関が持つ先端科学技術を発掘し、活用することです。2015年度に3億円の予算規模で始まった本制度は、2016年には6億円に増額され、来年度(2017年度)においては当初の30倍超の110億円を概算要求しています。大学予算や科学予算が減額され続けている中で、軍学共同を推進するための予算のみが大幅に増額されようとしていることは極めて異常と言わざるを得ません。そして本制度によって大学・研究機関や科学者が軍事研究に取り込まれてしまうことが強く懸念されます。

この制度が大学・研究機関に浸透すれば、科学は人類全体が平和的かつ持続的に発展するための学術・文化ではなくなり、特定の国家や軍に奉仕するものへと変質させられてしまうでしょう。それは、大学・研究機関が本来行ってきた民生目的での研究・開発を歪めてしまうことになります。また、大学院生やポスドクなどの若手研究者が軍事研究に参加することが当然予想され、次世代を担う人間を育てる高等教育の在り方を変質させ、これまでせっかく築き上げてきた大学・研究機関の健全性への市民の信頼に傷をつけてしまうことは明らかです。さらに、戦時中に科学者が軍に全面協力したことへの痛烈な反省から導かれた「軍事研究を行わない」という戦後の日本の学術の原点をも否定することに繋がります。

以上の趣旨を踏まえて、下記のとおりの新しい署名運動が呼びかけられている。研究者だけでなく、毎日新聞への投書に見られるとおり、市民の意思表示も重要だと思う。呼びかけに応えて署名を成功させたいと思う。これも、平和憲法擁護運動の重要な側面である。

  私たちは、本制度によって、大学・研究機関や科学者が軍事研究に取り込まれてしまうことを強く懸念しています。来年度に、各大学・研究機関がこの制度に応募することのないように各大学・研究機関宛てに提出する緊急署名を実施中です。
  第一次の署名集約は2017年2月末を予定しています。皆様のご賛同をお願いいたします。また、周囲の方々にも広げていただければ幸いです。
署名のフォームは以下のURLから。
http://no-military-research.jp/shomei/
(2016年12月16日)

ワタシが強面のニコルソンだ。オスプレイは、今後も飛ばす。

オスプレイは、墜落したのではない。コントロールされた状態で着水したのだ。確かに機体は大破し乗員二人は脱出時に負傷した。常識的には、これは「crush」(墜落)だろう。しかし、そんなことが今問題なのではない。重要なことは機体が着水直前まで完全にコントロールされた状態にあったことだ。だから、誰がなんと言おうともこれは、「landing on the water」(着水)なのだ。

墜落か着水かを分けるものが、「under control」だ。これあればこそ、パイロットは負傷しながらも住宅や住民の被害を避け得たのだ。沖縄の住民は、重大事故から間一髪のところで、オスプレイ・パイロットの的確な判断と英雄的な行為によって救われたのだ。これは表彰に値する。だから、沖縄県は挙ってオスプレイのパイロットに感謝すべきではないか。少なくとも、負傷の米兵に見舞いの言葉があってしかるべきだ。それを、副知事お出ましの抗議とは筋違いも甚だしい。ワタシは怒りを抑えきれない。机を叩くぐらいのことはする。

貴国の総理大臣も私と同じではないか。彼は、2013年9月7日ブエノスアイレスで開催されたIOC総会の席上、福島第1原発の汚染水排出問題を「The situation is under control」と表現している。その言葉で、東京オリンピック誘致に成功したのだ。当時常識的には、事故後の原発の汚染水が外洋にダダ漏れになっていたことは世界中の人が知っていた。それでも、「under control」だ。「under control」とは、かくも使い勝手のよい便利な言葉なのだ。

もし、私の「under control」がウソだというのなら、貴国の総理大臣も大嘘つきだ。そんな大嘘つきが首相を務める国の自治体が、ワタシに抗議する資格などあるわけはない。

そもそも、米軍が日本を片務的に防衛してやっているのだ。沖縄県も日本の一部ではないか。常々、駐留米軍に対する敬意と感謝の気持ちが足りないことを不満に思ってきた。どうして、そのような不遜な態度がとれるのか。

オスプレイの騒音がうるさいとか、事故の確率が高くて不安だとか、軍人の態度が横暴だとか、遵法精神に乏しいとか、そのくらいのことは、些細なこととして我慢してもらわなければならない。沖縄が、他国から攻めてこられたら、うるさいの、危ないの、不愉快だなどというレベルの問題ではないではないか。守ってもらっていることへの感謝の気持がもっとあってもよいはずなのだ。

オスプレイが沖縄に配備されてから既に4年を経過した。その間事故がなかったことはたいへんなことだ。どうしてこのことを立派なことと言わずに、たった一度の事故らしい事故で、被害もないのに大騒ぎをするのだろうか。

安慶田副知事は、ワタシへの抗議のあとの記者会見を行い、こう記事にさせている。
「安慶田氏によると、抗議の際、在沖米軍トップで第3海兵遠征軍司令官のニコルソン四軍調整官の表情はみるみる怒気に染まっていった。ニコルソン氏は『パイロットは住宅、住民に被害を与えなかった。感謝されるべきで表彰ものだ』と述べた。安慶田氏が『オスプレイも訓練もいらないから、どうぞ撤去してください』と伝えると、『政治問題化するのか』などと話し、テーブルをたたく場面もあったという。」「会談後、安慶田氏は記者団に『植民地意識丸出しだ。私たちからすると、抗議するのは当然だ』と感想を述べた。」

ワタシは、「植民地意識丸出しだ」という副知事の記者会見発言に驚いた。副知事は、沖縄を米軍の植民地ではないと思っているようだ。もちろん、19世紀から20世紀前半の「植民地」とは違うかも知れない。しかし、米軍は大きな犠牲を払って沖縄地上戦を制したのだ。また、戦後の占領期に、日本の天皇(裕仁)はマッカーサーに、独立後も沖縄の占領を継続するよう申し出た事実もあるではないか。今の沖縄は、戦争によって、敗戦国日本から戦勝国米国に差し出された「植民地同然」の島ではないか。いまさら、「植民地意識丸出しだ」などという抗議が成立する余地はない。

確かに、沖縄がオスプレイ配備に反対だということは知っている。知事が反対派の筆頭だ。県議会は3度も反対を決議し、41市町村の全議会も同調している。2012年9月には配備反対の県民大会が開かれ、10万1千人(主催者発表)が集まった事実もある。13年1月には全市町村の首長らが参加して東京・銀座を、オール沖縄勢力がデモ行進する事態に発展した。今も、確かに反対する県民世論は強く大きい。

しかし、本来この問題の所管は日本の政府だろう。国が米軍のオスプレイ配備計画に異を唱えたことは一度もない。防衛大臣も「不時着水」と繰り返しているではないか。アベ政権は、もの分かりがよい。だから、沖縄県が何を言っても、ワタシたちは本来無視してよいはずなのだ。それを忙しい時間を割いて、面会してやっていることをよく理解していただきたい。

どんな自動車も飛行機も、所詮は人が作った機械だ。絶対安全ということはありえない。オスプレイも、「いつか落ちる」ものなのだ。それが今回であったというだけのことではないか。今回の事故でワタシ自身が問題ないと確信するまで飛行はしないが、もちろんほとぼりの冷めたころには必ず飛行を再開する。ワシントンもオスプレイは引き続き飛行すると判断している。アベ政権も容認、いや歓迎するに違いない。

それでいったい何が問題なのか、聞かせてもらいたいものだ。ワタシには理解できない。
(2016年12月15日)

『政界三悪党』(自・公・維)の揃い踏み

親分<自民・駄右衛門>

問われて名乗るもおこがましいが
その名もゆかしき「自由」と「民主」
企業と強者の「自由」を唱い
選挙がすべてで、勝てば官軍の「民主」主義。
水清ければ魚棲まず
汚濁のこの世を立ち回り
利権を漁って肥え太り
危ねえ橋も乗り越えて
人の定めは五十年
もはや六十の坂を越えて
六十余州に隠れのねえ
悪名とどろく
賊徒の総元締め 自民駄右衛門。

出自をたどれば玉石の
戦後の保守の寄せ集め
次第に戦犯はば利かせ
官僚これに追随し
改憲目指して六十年
いまだ悲願はならないが
せめてバクチは解禁し
賊徒の大義を顕わさん。

 
一の子分<公明・下駄小僧雪之助>
知らざあ言って聞かせやしょう
話せば長いことながら
我が身は法蓮華経の申し子で
王仏冥合実現の努めを担って人となり
政教分離に敵対の
憲法違反と叩かれて
忍ぶ姿も傷ましく
あまたの言論出版妨害の
悪名背負った幾星霜。
ついには、世論の糾弾を
自民駄右衛門に助けられ
以後はこの親分には逆らえぬ
哀れなこの身となりはてぬ。

駄右衛門親分の子分に加えていただいて、
「どこまでもついて行きます」と
おかしら忠義の下駄の雪。
かつては「平和」の「福祉」のと
理想を語ったこともある。
今じゃ、親分の言いなりで
「右と言われれば、まさか左とは言えない」ていたらく
与党の蜜を吸い続け
ズッポリはまった悪の道
いまさらに足抜けできぬがこの世界の掟。

バクチ解禁法案は
賛成すれば、義賊の化粧がはげ落ちて
反対すれば、かしらの怒りを忍びかね
アチラを立てればこちらが立たぬ
ここが思案のしどころで、
両方の顔を立てての自主投票。
小細工あたらず、もしや両者の機嫌を損ねたか。
あっち見こっち見、優柔不断、二股膏薬の
下駄小僧雪之助。

 
二の子分<維新・ポピュ太郎>
さてどん尻に控えしは
政界三悪党の新参で
庶民泣かせの法案を
自民に加担で押し通す
その名も「維新・ポピュ太郎」

以前を言やあ大阪で
八百八橋を股にかけ
薄汚い人の心根に付け込んで
闇のホンネを引き出した
弱い者イジメの政治が大ウケで
地方政治を乗っ取った
あのおもしろみを忘られず
今度は国をねらっての
重ね重ねの大ばくち。

自民は風除け必要で
公明抱き込む戦略で
自公政権の悪だくみ。
オレから見りゃあ、生温い。
自民を右から引っ張って
自民の悲願の改憲を
オレの力で助けると
ここは恩のウリどころ。

大阪万博夢洲での賭博開帳のそのときは
大金儲けるバラ色の夢をばらまいて
がっぽりゼニを巻きあげる
あとは野となれ山となれ
恥を知らない
ワイが維新・ポピュ太郎だ~。

 

〈議会の三悪党〉
我等三人団結し、切磋琢磨でがんばれば
庶民の願いを蹂躙し、
なんでも実現できそうだ。

年金カットにTPP
賭博の解禁だけでなく
労働法制締めつけて
元気に原発再稼働
産軍学の共同も
海外派兵や武器輸出
沖縄新基地押し進め
悲願の憲法改悪も
けっして夢ではなくなった。
韓国見てればたいへんだ。
民衆決起は恐ろしい。
幸い日本の民衆は
欺され方がお上手だ。

さあ、今日も悪政に精出すぞ。
ぼくらは「悪・党」三人組。
(2016年12月14日)

キリスト者の懸念ー「象徴」を「偶像」にしてはならない

インターネットとは便利なもの。メールとはありがたいものだ。友人たちが貴重な情報や意見を寄せてくれる。

2016年12月11日付の「ヤスクニ通信」(第743号)をメールで受信した。日本キリスト教会靖国神社問題特別委員会が発行するもの。複数の牧師が立派な記事を書いている。

私は、無神論者である。しかし、かつて天皇制による弾圧を受けた宗教者、そして今、国家権力や社会的圧力からの精神的自由侵害の恐れに敏感な宗教者には、敬意と連帯の気持を抱いている。アベ改憲阻止の課題をともにする人たちである。そのような共感できる記事をご紹介したい。下記は、鎌田雅丈(宝塚売布教会牧師)という方の、いかにも牧師さんらしい寄稿の抜粋である。

〈祈りのために〉彼はまた像、彫像を造り、神殿に置いた。(歴代誌下33章7節)

 上記の御言葉にありますように、マナセ王は神殿に彫像を置きました。物は増えますが、しかしそれはある意味で、神殿を破壊することでもあります。…いつのまにか、礼拝の対象が増えているのです。真の礼拝が崩されているのです。神殿は、唯一なる神を礼拝する場所であります。そこに偶像が加えられることは、神聖な場所を破壊することにもなります。

この牧師の信仰において「唯一なる神」以外の偶像を崇拝することは、神への冒涜であり信仰の堕落なのだ。「像・彫像を造り、神殿に置いた」は、「唯一なる神」とともに崇めるとしても、それは許されざる罪となる。もちろん、聖書を引用して語られていることは、「天皇や天皇にまつわる一切のもの」を偶像として崇拝することである。「天皇教の像・彫像を作」り、これを「神殿に置く」一切の行為が、信仰に反する。一神教とは、そのように厳格なものなのだ。

 マナセの時代に生じた出来事は、私たちの時代にも起こりうることかもしれません。実際のところ、それほど遠くない昔に、唯一なる真の神を礼拝すべき場所で、別なものを礼拝するように強要されたことがありました。礼拝の対象が増えてしまったのです。そのことを考えると、私たちは今、礼拝の再建の時代を生きていることになるのかもしれません。そうであれば、私たちはしっかりと再建していかなければなりません。気が付いたらいつの間にか、礼拝の対象が増えていたというようなことにならないようにしていかなければなりません。

これは、天皇制の圧力に妥協して信仰を曲げた苦い教訓の再確認であり、同様のことを繰り返さないとする決意でもある。天皇制権力が信仰に介入した忌まわしい歴史的事実を、宗教学者が次のように解説している。

 神社対宗教の緊張関係は、国家神道の高揚期を迎えて、様相を一変した。満州事変勃発の翌一九三二年(昭和七)四月靖国神社では、「上海事変」等の戦役者を合祀する臨時大祭が挙行され、東京の各学校の学生生徒が、軍事教官に引率されて参拝した。そのさい、カトリック系の上智大学では、一部の学生が信仰上の理由で参拝を拒否した。文部省と軍当局は事態を重視し、とくに軍当局は、管轄下の靖国神社への参拝拒否であるため態度を硬化させ、同大学から配属将校を引き揚げることになった。軍との衝突は、大学の存立にかかわる重大問題であったから、大学側は、天主公教会(カトリック)東京教区長の名で、文部省にたいし、神社は宗教か否かについて、確固たる解釈を出してほしいむね申請した。カトリックとしては、神社がもし宗教であれば、教義上、礼拝することは許されない、というのが、申請の理由であった。文部省は内務省神社局と協議し、九月、天主公教会東京大司教あての文部次官回答「学生生徒児童ノ神社参拝ノ件」を発し、「学生生徒児童ヲ神社ニ参拝セシムルハ教育上ノ理由ニ基クモノニシテ、此ノ場合ニ、学生生徒児童ノ団体カ要求セラルル敬礼ハ、愛国ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」との正式見解を示した。神社参拝は、宗教行為ではなく教育上の行為であり、忠誠心の表現であるから、いかなる宗教上の理由によっても、参拝を拒否できないというのである。この次官回答によって、学校教育においてはもとより、全国民への神社参拝の強制が正当化されることになった。カトリックでは、神社は宗教ではないという理由で、信者の神社参拝を全面的に認め、国家神道と完全に妥協した。しかしプロテスタントでは、翌年、岐阜県大垣の美濃ミッションの信者が、家族の小学生の伊勢神宮参拝を拒否して、二回にわたって同市の市民大会で糾弾されるという事件がおこったのをはじめ、教職者、信者による神宮、神社の参拝拒否事件が続発した。(村上重良・「国家神道」から)

以上の牧師さんの記事は、諒解可能なよく分かる叙述である。しかし、次の部分の意味をどうとるべきか、正確には私にはよく分からない。

 偶像崇拝の危機は、私たちにとって完全に過ぎ去ってしまったわけではありません。それは今もまだ起こり得ることです。象徴であるものが、あたかも実体であるかのように議論が進められているようです。結局どうなるのか。それ以前に、その議論の前提にあるものが、私たちの生命を脅かしています。偶像にされるものも、それを拝まされるものも、命の尊厳を脅かされています。
 真の礼拝を再建していくことは、命あるものたちの命を回復していくことでもあります。
<祈り>わたしたちがいつも、ただあなただけを礼拝する者であることができるように、守ってください。

「象徴であるものが、あたかも実体であるかのように議論が進められているようです。」とは、現天皇(明仁)の象徴天皇のあり方についての見解をめぐる議論のことを指しているのだろう。「象徴に過ぎない天皇の行為」あるいは、「天皇の象徴としての公的行為」が、憲法が想定する本来の姿を逸脱して肥大化していることの批判かと読めるが、断定せずに読む人にまかせる書き方となっている。論者の関心は、「象徴」であるはずのものが、いつの間にか、戦前の如くに「偶像」となりはすまいかという危惧にある。

「偶像にされるもの(天皇)も、それを拝まされるもの(国民)も、命の尊厳を脅かされています。」とは、信仰者の立場からの切実な心情の吐露であろう。ここで論じられているのは、天皇の「象徴から偶像へ」の転化である。かつて天皇は、統治権の総覧者であるばかりでなく、「神聖にして侵すべからず」とされた「偶像」であった。日本国憲法は、その天皇の地位を剥奪し、礼拝の対象としての「偶像」性を剥奪した。しかし、新たな天皇の属性である「象徴」とは曖昧な概念である。しかも、現天皇(明仁)は、積極的精力的に象徴としての行為の範囲を拡大してきた。宗教者の立場からは、このことに大きな危惧を感じざるを得ないのであろう。

天皇の権威をできるだけ小さなものとすべきことについては、私は宗教者とまったく同じ立場にある。このような宗教者と視点を同じくし連帯する立場で、天皇制や政教分離や、そしてヤスクニ問題に接したいと思う。
(2016年12月13日)

最高裁がどう断じても、民意は辺野古新基地を作らせない。

本日(12月12日)沖縄タイムスと琉球新報が、ともに号外を発行した。ほぼ同じ大見出し。「辺野古 県敗訴へ」「最高裁 弁論開かず」「20日上告審判決」「高裁判決確定」というもの。

記事の内容は「名護市辺野古の新基地建設を巡り、石井啓一国土交通相が翁長雄志知事を訴えた『辺野古違法確認訴訟』で最高裁は12日までに、上告審判決を今月20日午後3時に言い渡すことを決めた。辺野古沿岸部の埋め立て承認取り消しを違法とし、知事が敗訴した福岡高裁那覇支部の判決の見直しに必要な弁論を開かないため、県側敗訴が確定する見通し。知事は今後、埋め立て承認取り消しを撤回する手続きに入る。」というもの。

もちろん、12月20日の判決で問題は解決しない。ことの性質上、国が敗訴すれば、問題は解決する。しかし、県が敗訴しても紛争が終息するはずもない。沖縄の民意が新基地建設反対である以上は、その切実な要求を掲げた闘いは続く。知事には、幾つも手段が残されている。大浦湾埋立工事は再開できるのか。恒久的な新基地建設は完成に至るのか。予断を許さない。さて、これから局面は具体的にどうなるか。

沖縄タイムスは、こう言っている。
「国は早期に埋め立て工事を再開する考え。ただ、国が工事を進めるために必要な設計概要や岩礁破砕の許可申請に対し、県は不許可とすることを検討。埋め立て承認の撤回も視野に入れている。新基地建設を巡る国と県の争いは新たな段階に突入する。」

琉球新報はこうだ。
「翁長知事は『確定判決には従う』と述べており、最高裁判決後にも埋め立て承認取り消しを“取り消す”見通しとなった。国が新基地建設工事を再開する法的根拠が復活する。一方、翁長知事は敗訴した場合でも『あらゆる手法』で辺野古新基地建設を阻止する姿勢は変わらないとしており、移設問題の行方は不透明な情勢が続く。」

最高裁の12月20日判決言い渡しが沖縄県敗訴となる公算は限りなく高い。予想されていたことながら、この局面だけを見れば残念なこと。敗訴確定して、沖縄県は「その内容に不服だから、確定判決といえども従わない」とは言えない。言うべきでないとも言えるだろう。では、確定判決によって何が確定して、争えなくなるのか。

訴訟は、国土交通相(国)が原告となって、沖縄県知事を訴えた「不作為の違法確認訴訟」である。「地方自治法251条の7第1項の規定に基づく不作為の違法確認請求事件」と事件名が付されている。弁護士にだってなじみのない事件名。その一審・福岡高裁那覇支部判決の主文は以下のとおりである。

「原告(国)が被告(県)に対して平成28年3月16日付け『公有水面埋立法に基づく埋立承認の取消処分の取消しについて(指示)』(国水政第102号)によってした地方自治法245条の7第1項に基づく是正の指示に基づいて,被告が公有水面埋立法42条1項に基づく埋立承認(平成25年12月27日付沖縄県指令土第1321号,沖縄県指令農第1721号)を取り消した処分(平成27年10月13日付沖縄県達土第233号,沖縄県道農第3189号)を取り消さないことが違法であることを確認する。」

経過についての予備知識なしに理解しうる文章ではない。なんとか分かるように、日本語を組み直してみよう。

まず「仲井眞承認」(辺野古基地建設のために国が大浦湾埋立をすることの許可)があった。これを前知事の間違った承認として翁長現知事が取り消した(「翁長取消」と呼ぶ)。原告(国)は被告(県)に対して、「『翁長取消』を取り消せ」と是正指示(地方自治法に基づくもの)をした。ところが、被告(県)はこれに従わない。そこで、「国の指示に従って、県は「翁長取消し」を取り消すべきなのにこれを取り消さない。この県の不作為は違法」と裁判所に宣告を求めたのがこの訴訟である。

今年(2016年)9月16日、福岡高裁那覇支部は、「翁長知事による前知事の承認取り消しは違法」として、同取り消しの違法の確認を求めていた国の主張を全面的に認める判決を出した。上告棄却によって、この高裁判決が確定することになる。

判決が確定すれば、遺憾ながら「『翁長取消し』を取り消さない県の不作為が違法であること」が確認され、その蒸し返しはできないことになる。「不作為の違法確認」と「作為の強制」とは異なるから、「取消の作為を命じる強制力はない」という議論もあるのだろうが、知事の採るべき選択ではなかろう。

しかし、「翁長取消し」が違法とされた結果として「仲井眞承認」が復活したとしても、工事の続行ができるかどうかは別問題である。

国が海面の埋立工事を進めるためには県の承認(許可と同義)が必要だが、一回の包括的承認で済むことにはならない。「仲井眞承認」の有効を前提としても、今後の工事続行は種々の知事の許可が必要なのだ。まずは、設計概要や岩礁破砕の許可が必要なところ、そのような国の申請に対し県は不許可を重ねることになるだろう。このことは以前から報じられていたことだ。知事側が徹底抗戦すれば、工事の続行は困難といわなければならない。さらには、仲井眞承認に瑕疵のあることを前提とした『取消』ではなく、「県の公益が国の公益を上回った場合には、『撤回』もできる」という考え方もある。

これだけの地元の反対がある中での基地の建設や維持がそもそも無理というべきなのだ。沖縄県民の反基地世論が燃え、本土の支援がこれに呼応する限り、辺野古新基地建設は至難の業というべきであろう。最高裁判決に意気阻喪する必要はない。そして、こんなことで沖縄を孤立させてはならない。
(2016年12月12日)

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