戦争は見る人の位置によって立場によってまったくの別物なのだ。
毎日新聞夕刊の連載小説が、石田衣良「炎のなかへ?アンディ・タケシの東京大空襲」。1945年3月10日未明の東京大空襲が描かれている。
「3月9日」が長く続いて、腹を空かせながらも健気に生活する子供たちの描写のあとに、とうとう運命の3月10日となって、「その夜」と章が変わる。下記の抜粋は「その夜」の第11回(6月11日付)。天を覆うB29の腹が開いて、無数の鋼鉄製焼夷弾(M61)が降り注ぎ、家に人に突き刺さって炎を吹く。そして、人々は燃えさかる街の中を逃げ惑う。主人公家族の逃避行の描写が延々と続く。
このあたりは倉庫や問屋が多い街並みだが、どの木造家屋にも火が移っていた。タケシは自分の想像力のなさを痛感していた。今まで空襲をただの火事だと考えていたのだ。燃える家が一軒、あるいはせいぜい数軒なら街の一部が燃えるだけだった。火を消すか、火のないところに移動すれば、それでいい。安全な場所からのんびりと見物を決めこむこともできるだろう。
けれど燃えているのが、周囲をとり巻く数百軒数千軒ならどうだろう。それでは火のないところに逃げることもできなかった。だいたい火のない場所などなかった。街全体が燃えている。
「タケシ坊ちゃん、危ない」
よっさんに頭を押さえられた。タケシの鉄兜をかすめるように、火の付いたトタンが飛んでいった。空を飛ぶのは爆撃機だけではなかった。木材のかけらや段ボール、なかには火のついた戸板まで、空をびゅうびゅうと飛んでいる。どれもが落ちた先で、新たな火種となり街を燃やすのだ。飛んでいないのは人間だけだった。
空襲を計画した者がおり、焼夷弾を投下したB29から炎上した東京を見下ろしていた者もいた。この炎熱地獄の外にいて被災しなかった皇居のなかの人物もいた。そして、炎のなかを逃げ惑い、力尽きて命を落とした10万の人々がいた。作者は、戦争を高みから見るのではなく、逃げ惑う人の目線で、恐怖と残酷を見つめようとしている。
1991年に始まった「ピースナウ・市民平和訴訟」で、私は被爆者の原告本人尋問を担当した。45年8月6日、当時中学生で8時15分市内の路面電車に乗っていて被爆されたという。電車は満員で中央部に立っていた。やや小柄だったことが幸いして、周囲の人が熱線の直射を遮る形となって、生き延びたという。その方の次の言葉が、印象的で忘れられない。
「皆さんは、原爆というとキノコ雲を連想するでしよう。でも、私はあのキノコの形をした雲を見ていません。被爆の外にいる人にしかあの雲は見えない。あの雲の真下にある、熱と炎と瓦礫と死体の世界の人には、あの雲の形も影もまったく見えないんです。」
きっと、戦争とは、見る位置によって、見る人の立場によって、形も色も匂いも好悪も違うのだ。大元帥や将軍と、将校と下士官と兵士。立場によって、それぞれまったく別の戦争観があっただろう。逃げ惑うだけの空襲被害者や被爆者には、戦争とは差し迫った死以外のなにものでもない。
カーチス・ルメイは、上手に東京を焼いてやったと、ほくそ笑んでいた。天皇(裕仁)は、皇居の被害が厩舎だけで済んだことにホッとして、首都の10万人が一晩で焼け死んでも、戦争を終結しようとは言い出さなかった。戦争で巨富を築いた者、戦争で権勢を得た者、戦争で小さな権力を振るう快感に浸っていた者、それぞれの戦争があった。
戦後、炎のなかを逃げ惑い焼死した庶民10万人に、国はまったく何の補償もしなかった。軍人軍属には累計60兆円にも及ぶ恩給を支払っているに拘わらず、である。
この極端な不平等を違憲として生存者が訴えた「東京大空襲訴訟」は無情にも請求棄却となって確定した。原告団は解散せず、立法による救済を求めて運動を続けている。
元東京大空襲訴訟原告団団長・星野弘さん(87)、昨日(2018.06.17)ご逝去とのこと。合掌。
(2018年6月18日)