澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

市民社会の道徳教育概論試案

文科省のすなる道徳教育。不要だとは思うが、やるならこんなものであるべきではないか。その骨格の素案をものしてみた。志のある方に、書き足し書き改めて、立派な完成版を作っていただきたい。

1 一番大切なのは自分自身であることを確認しょう。

 この世に生を受けた者の誰にも、自分というかけがえのない貴重な存在があります。痛いのも、つらいのも、嬉しいのも、悲しいのも、それを感じるのは自分自身です。考えるのも、しゃべるのも、人を愛するのも、愛されるのも自分以外のなにものでもありません。誰にとっても、一番大切なものは、この自分自身です。自分の命、自分の身体、自分の精神、自分の自由。このかけがえのない自分を大切にしましょう。自分が大切であるという、自然に持っているはずのこの気持ちを素直に肯定すること。ここがすべての出発点です。
自分を大切に思うことが、よりよく生きようという意欲の出発点であり、自分が生きる舞台としての、自然環境や社会環境をよりよくしようという積極性の根源となります。

2 社会と向き合う基本的姿勢

 大切な自分ですが、自分という存在は例外なく弱いものです。孤立しては生きてゆくことさえできません。人は、社会という群をつくって、その群の中で生きていくしかありません。社会は自分のまわりに幾重にも存在し、無数の対人関係を作り出しています。生きるとは結局社会と向き合うことにほかなりません。
自分という個人と社会との向きあい方には、2面があります。ひとつは、既にできあがっている現実の社会の中で、この社会に自分を適合させて生きていくことであります。受働的な向きあい方と言ってよいとおもいます。もう一つは、個人が社会にはたらきかけて、自分の理想とする社会に近づけようとする、能働的な向きあい方です。
人は現実の社会に適応する能力なしに生きていくことはできません。その意味では、受働的な向きあい方を否定することはできません。しかし、すべての人が受働的な生き方ばかりをしていたのでは、社会の理想は失われ進歩がなくなってしまいます。自分にとって、またすべての人にとってよりよい社会を作っていく能働的努力は欠かすことができません。また人は、理想を求める積極的な生き方をすることで生き甲斐のある生を営むことができる存在でもあるのです。

3 自分と他の個人との関係

 社会は無数の個人からなります。自分という存在は、社会の中で無数の自分以外の個人と直接・間接に接触することになります。他者としての個人も、それぞれに自分を大切に思っているかけがえのない存在です。それぞれの個性を持った互いに尊重すべき人格をもっています。その個人の人格は、すべて尊重しなければなりません。お互いに、自分が大切だという思いを尊重すること、それが社会の基本ルールです。
社会は歴史的に変化してきました。かつては、人間を性や血統や門地や人種で、貴賤を分けて差別することを当然とした時代もありました。王や皇帝を特別な人と見たり、他の民族を劣等と見ることを常識とした社会もありました。しかし、今やそのような差別には何の合理性もないことが世界の共通の認識になっています。人は人であることにおいて、人格として平等です。これが社会の公理となっていることを繰りかえし確認しなければなりません。
男性も女性も人格として平等、言うまでもないことです。大人も子どもも老人も、身障者も健常者も、富める者も貧しい者も同じように尊重されなければなりません。人種や国籍や民族や宗教や、出身の地域や職業によって、人が人格的に差別されてはなりません。特定の血統を貴種として王侯貴族としたり、万世一系の神話によって皇位を承継するなどは、古代社会の信仰と因習の残滓に過ぎません。文明社会では、およそあり得ない恥ずべきことなのです。形だけにせよ天皇制を認めている日本国憲法は、文明に反する旧社会の遺物を抱えていることになります。すべての人は平等である、この常識こそが市民社会の共通認識でなければなりません。

4 この世の不正義には、はばかることなく怒ろう。

 すべての人を平等な人格として認め合うこと。すべての人の人格が同じように尊重されること。それが社会における正義の基本です。不正義とは、人を理由なく差別することであり、人に対する人格の尊厳を否定することです。
人類の文明は、あらゆる差別を不正義とする段階に到達しましたが、現実にある差別を克服し得てはいません。女性差別、身障者差別、人種・国籍・民族・宗教による差別は厳然として存在します。また、公権力や社会的強者による弱い立場にある人への人格否定の行為も絶えません。
血統による差別である天皇制の不正義は、最も分かり易い不当な差別です。高貴な血を認めるから、他方に下賤が観念されるになるのです。本来、こんなものがあってよいはずはありません。人は皆平等なのですから。
現実のこの社会には、天皇制ほどには分かり易くない不正義・不公正がいくつもあります。その最大のものは、経済的格差と貧困です。
現在の経済システムは必然的に大きな格差を生む構造をもっています。人の財産や収入における極端な格差が現実のものとなっています。その結果、社会の一方に貧困にあえぐ人がいて、もう一方に贅沢を楽しむ人がいます。このような富の偏在を許容する社会は、公正とはいえません。また、この社会では利潤追求のための手段としての不公正や、権力の横暴がまかり通ってもいます。このような不公正に、怒る感性の涵養が社会の進歩の原動力として必要です。

5 強者に対する抵抗を美徳として身につけよう。同時に、面従腹背の小技をも身につけよう。

 社会と能動的に向き合うとは、現実にある社会の不公正に怒り、これを正していく努力をすることです。しかし、その不公正は現在の社会の強者が作り出したものですから、能動的な生き方とは本質的に現実の社会の強者と対峙することを意味します。
不公正の源であるこの社会の強者とは、政治的強者としての公権力であり、経済的強者としての資本家であり、社会的強者としての多数派にほかなりません。
不正義・不公正に怒ることは、強者への抵抗を決意することにつながります。厳しいことですが、強者にまつろわず、へつらわずに抵抗の姿勢を保つこと。自分の尊厳と、公正な社会のための抵抗が、市民道徳として身につけなければならない課題ではないでしようか。
さりとて、社会のあらゆる場面で怒り抵抗の姿勢を維持していくことは容易ではありません。また、危険も大きいことです。時には、したたかに妥協する術も心得ておかなければなりません。これぞ面従腹背の術です。妥協してはならぬ場とテーマを見極めることこそ、学ばねばならないことです。

 こうして、自己の尊厳を第一義としつつ、住みやすいよりよい社会の実現に向けた基本姿勢をもつこと。その精神を育成することこそが、現代社会のあるべき市民の道徳だと思うのです。
(2019年1月7日)

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