独立を貫いた裁判長の原発運転差し止め決定
昨日(1月17日)、広島高裁(森一岳裁判長)は、四国電力伊方原発3号機(愛媛県伊方町)の運転差し止めを認める決定を出した。これは、快挙である。3人の裁判官に、敬意を表したい。
事件は、山口県内の住民3人が求めた仮処分申し立てである。本案訴訟の判決言い渡しあるまでの仮の差し止めが認められた。申し立てたのは、伊方原発から50キロ圏内にある瀬戸内海の島の住民。山口地裁岩国支部が昨年3月、その申し立てを却下する決定を出したため、これを不服として広島高裁に即時抗告して、逆転の決定に至った。原発運転を差し止める高裁レベルでの司法判断は2件目だという。
抗告審で問題になったのは、国内最大規模の活断層「中央構造線断層帯」に関連する活断層が原発の沖合約600メートルにある可能性、約130キロ離れた阿蘇山(熊本県)の巨大噴火で火砕流が到達するリスク、あるいは事故が起きた際の島からのは避難の困難性などであったという。
報じられている決定の概要では、「活断層が原発の敷地に極めて近い可能性を否定し得ず地震動評価や調査が不十分」「阿蘇カルデラ噴火による影響についての想定は過小」「原子炉設置変更許可申請を問題ないとした原子力規制委員会の判断は誤りで不合理」と、踏み込んだ判断となっている。その判断の影響は大きい。
私が注目したのは、裁判長の定年の時期である。森一岳裁判長は、この決定の8日後今月25日に65歳の誕生日を迎えて定年退官する。決定を退官後の後任裁判長に先送りすることなく毅然とした判断を貫いたのだ。
あるいは、もう定年間際である。恐いものはないのだから、自分の思うところを貫こうと考えたのかも知れない。「鳥の将に死なんとする、その鳴くや哀し。人の将に死なんとする、その言ふや善し」というが、「裁判官の将に定年になろうとする。その判決や善し」なのだ。
憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と定める。ところが、独立した裁判官も、独立を貫いた裁判も、実は稀少なのだ。
歯に衣きせずに敢えて言えば、司法の本質は権力機構の一部である。この社会の体制から、あるいは社会の多数派が牛耳る立法権から、そして権力主体としての行政権から、司法は強い掣肘を受けている。それが現実である。
もちろん、法の論理としてはそうであってはならず、すべての裁判官が独立していなければならない。しかし、現実は甘くない。司法が他の権力からの掣肘を受けるだけでなく、個々の裁判官が最高裁当局から監視され締め付けを受けている。
原発の推進は国策である。行政のみならず、司法当局も、原発推進に逆行する判決を歓迎していないことは、誰の目にも明白である。最高裁当局の思惑を忖度して、それに逆らわない判決を書ける人を「賢い裁判官」という。賢いとは、上手に生きる処世の術に長けているということである。
最高裁当局の思惑を忖度せず、敢えてそれに逆らって「その良心に従ひ独立してその職権を行ふ」愚直な裁判官はどうなるか。当然のことながら、出世コースから外される。給料に差が付く。任地で差別される。若い裁判官との接触の機会を求めても裁判長になれない。影響の大きな重要裁判は担当させられない…。
森一岳裁判長がどうであったかは具体的には知らない。しかし、処世術に長けた「賢い裁判官」ではなかったようだ。そして、もう定年間際。恐いものなく、純粋に法と良心のみに従った決定を書いた。そうすれば、政府や財界にも、最高裁事務総局にもおもねりのない、原発運転差し止め決定となるのだ。
裁判官の独立は、真に貴重である。
(2020年1月18日)