澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

湯島天神散歩雑感

はやくも1月が行き2月となった。この2月もやがて逃げ、3月も去ることになる。桜の盛りの頃には、どんな時代の空気となっているのだろうか。

冬晴れの土曜日の朝、近場の湯島天神まで梅の様子を伺いに出かけた。梅祭りはまだ先だが、早咲きの紅梅白梅がちらほらと、青い空に映えている。

男坂・女坂には梅の花はまだない。階段の上の「講談高座発祥の地」という石碑をまじまじと眺めた。書は橘流寄席文字橘左近のもので、一龍斎貞水が建立したものとある。

伊東燕晋という講釈師が、ここ湯島天神の境内に住まいし釈席を設けていたが、「東照神君家康公の偉業を語るので」聴衆よりも高い座が必要と、1807(文化4)年に北町奉行から高さ三尺の高座の上から話をする許可を得た。これが「高座」のはじめだという。

まことにつまらない話。権威主義者が大衆を見下ろそうという発想は、高御座の天皇夫婦と同じ。大衆芸能が、こんな愚かな権威主義の歴史を持っているのだ。

もっとも、この神社で祀られている「天神」そのものは、王権への反逆神である。菅原道真の怨霊は、その怒りで天皇を殺している。民衆はこの神を崇拝した。これは、興味深い。

藤原時平らの陰謀によって、謀反の疑いありとされた道真は、大臣の位を追われ、大宰府へ流され、失意のうちにこの地で没する。彼の死後、道真の怨霊が、陰謀の加担者を次々に襲い殺していくが、興味深いのは最高責任者である天皇(醍醐)を免責しないことである。

道真の死後、疫病がはやり、日照りが続き、醍醐天皇の皇子が相次いで病死し、藤原菅根、藤原時平、右大臣源光など陰謀の首謀者が死ぬが、怨霊の憤りは鎮まらない。清涼殿が落雷を受け多くの死傷者を出すという大事件が起こる。国宝・「北野天満宮縁起」にはこう書かれている。

延長八年六月廿六日に、清涼殿の坤のはしらの上に霹靂の火事あり。(略)これ則、天満天神の十六万八千の眷属の中、第三使者火雷火気毒王のしわざなり。其の日、毒気はじめて延喜聖主の御身のうちに入り…。

延長8(930)年6月26日、清涼殿に雷が落ちて火事となった。何人かの近習が火焔に取り巻かれ悶えながら息絶えた。これは、道真の怨霊である「天満天神」の多くの手下の一人である「火雷火気毒王」の仕業である。この日、毒王の毒気がはじめて醍醐天皇の体内に入り、… まもなく、醍醐天皇はこの毒気がもとで9月29日に亡くなっている。

道真の祟りを恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行い、993(正暦4)年には贈正一位左大臣、さらには太政大臣を追贈している。

道真だけではない。讒訴で自死を余儀なくされた早良親王(死後「崇道天皇」を追号)も、自らを「新皇」と称した平将門も、そして配流地讃岐で憤死したとされる崇徳上皇も、怒りのパワー満載の怨霊となった。怨霊の怨みの矛先は、遠慮なく天皇にも向けられたのだ。だからこそ、天皇はこれらの怨霊を手厚く祀らなければならなかった。

 靖国に祀られている護国の神々も、実は怒りに満ちた怨霊なのだ。臣民を戦場に駆りだし、命を投げ出すよう命じておきながら、ぬくぬくと自らは生き延びた天皇に対する憤りは未来永劫鎮まりようもない。天皇の側としては、怒れる戦没者の魂を神と祀る以外にはないのだ。道真の怨霊の恐怖に対してしたように。
(2020年2月1日・連続更新2497日)

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