澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「女帝」が、今に刻む「国恥」の歴史

(2020年9月1日)
コロナに加えての熱暑の8月がようやく終わった。暦が替わると、照りつける8月から涼やかな9月に、鮮やかな様変わり。なるほど、明けぬ夜はなく、遷ろわぬ季節もない。横暴な政権も、いつまでもはもたないのだ。

戦禍と平和を考えるべき8月が去って、常であれば、今日からの9月は侵略の歴史を噛みしめるべき日。今年はこれに、アベ後継政権の構成が絡まる。また、日本国憲法の命運に重要な時季となった。

ところで、本日(9月1日)は私が名付けた「国恥の日」である。「国」は、国家だけではなく国民をも指している。「恥」の第1は、無抵抗の者を大量に虐殺したこと。これに過ぐる恥はない。「恥」の第2は、その虐殺が民族差別・排外主義と結びついていたこと。そして、いま強調されねばならない決定的な「恥」の第3は、いまだにその事実を認めず謝罪をしようともしないことである。

1923年9月1日午前11時58分、関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲った。地震はたちまち大火災となり、死者10万5千余といわれる甚大な被害を生じた。関東大震災である。その被害はいたましい限りだが、自然災害としての震災は恥とも罪とも無縁である。

「国民的恥辱」「日本人として恥を知るべき」というのは、震災後の混乱のなかで日本の軍警と民衆の手によって行われた、在日朝鮮人・中国人に対する無数の虐殺事件である。これは、まぎれもなく犯罪であり刑罰に値する行為。人倫に反すること甚だしい。その事実から目を背け、まともに調査と責任追求を怠り、反省も謝罪もしないままに97年を徒過したこの態度を「国恥」といわざるを得ない。そして、今なお、この事実に正面から向き合おうとしない日本社会の排外主義容認の姿勢を「国恥」というのだ。

もちろん、日本の歴史に真摯に向き合おうという日本人も少なくない。日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺した事実を直視し、自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと願う人々。

そのような思いの人々が、毎年9月1日に、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑前で、「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」を開催している。今年も行われたが、コロナ禍のなか、On-line式典として挙行された。私も、YouTubeで「参加」した。いつもなら、ここで友人に遭って挨拶を交わすことになるのだが、勝手が違った。

恒例の行事ではあるが、我が国の世論が政権とメディアによって、いびつな「反韓・嫌韓」の方向に煽動されているこの数年、日韓関係の根底をなす歴史を想起するために格別の意味づけをもった式典となっている。

「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」は、1973年に都議会全会派の賛同で設置されたものである。以来、追悼式典は毎年行われ、歴代知事が追悼文を送付してきた。あの右翼・石原慎太郎でさえも。しかし小池百合子現知事は、就任翌年の2017年追悼文送付を意識的に中止した。そのきっかけは、「朝鮮人虐殺はデマ」派の極右・古賀俊昭都議(故人・日野)による、都議会での追悼文送付やめろという質疑だった。悪質極まりない、工藤美代子のデマ・ヘイト本をネタにしてのものである。こうして、いまや小池百合子が、「国恥」を代表する人物となっている。

その小池百合子は今年(2020年)7月5日の都知事選に圧勝して再選された。なぜ、圧勝できたか。対抗勢力が余りに脆弱であり、全体として本気度が足りなかったから。野党共闘のスジができず、フライング立候補者に振り回されて、形作りの選挙しかできなかったという体たらくだったから…。ではあるが、実は、小池百合子の何たるかが選挙民に知られなかったことが最大の理由ではなかったか。選挙のあとに話題の「女帝 小池百合子」(石井妙子著・文藝春秋社)を読んで、選挙前に読んでおくべきだったと後悔した。

この書物の刊行は2020年5月29日。選挙までの期間はわずか1か月余に過ぎない。もう1年前、あるいは半年前にでも出版されていれば、選挙は違った様相になったのではないか。野党も真剣に選挙に取り組み、勝てる候補者の出馬も可能となったのではないだろうか。

出版後、選挙期間中にも話題にはなり、私も内容は一通り把握した気になっていたが、選挙後にようやく書物を手にし目を通してみて、その内容に衝撃を受けた。ひとつは、外面の虚像とは甚だしいギャップの小池百合子という実像の凄まじさに。そしてもう一つは、民主主義社会における政治家として最もふさわしからぬこの人物が、「嘘の物語」と「遊泳術」を駆使して有力政治家となり都知事にまでなることを許している日本社会の現実に、である。

著者石井妙子は、こう述べている。

「私は、小池氏の実像を追いかけることに徹しました。ノンフィクション作家として、極めてオーソドックスな手法を取っています。本書で利用した資料のほとんどは公刊されているもので、誰でも見る事ができます。それらを精読すれば、小池氏の発言の矛盾や『おかしさ』には気づけるはずなんです。でも、今まで誰も、彼女を取材対象として正面から扱ってこなかった。まともな批判にさらされることなく今に至ってしまったのです。」「小池さんは『女性であること』『女性のイメージ』を巧みに利用した。『女性』も本書のテーマの一つです。“有能な女性政治家小池百合子”というキャラクターを、小池氏は今も演じ続けています。メディアにはそれを持て囃してきた罪がある。彼女の共犯者です。『小池百合子』を生み出した、日本社会の歪みにも目を向けて欲しいです」

なるほど、そのとおりの内容となっている。また、「読者メーター」というサイトに、こんな読書感想が寄せられている。

…彼女の内面を抉る。 地位や権力自体が目的で、それらを得て実現したいことがあるわけではない、全ての言動はそれらの維持・拡大のためで、人を助けるとか世の中を良くするというマインドは皆無‥と完全にこき下ろし。著者の個人的感情が強過ぎとの書評を事前に幾つか目にしていたが、十分な取材や証言に基づいた客観的な結論との印象。カイロ大主席卒業についても(実質的には)事実ではなさそうだ。

エジプト人が言ったという、「辿々しい日本語のエジプト人が東大を4年でしかも首席で卒業したと聞いたら信じますか?」これが一番しっくりきた。

読み終わった今、表紙の小池さんを直視できない。不安や恐怖を感じる。人間性は遺伝子や幼少期からの環境に左右されると聞く。彼女の生い立ちを知ると同情心も覚えるけれど、長年にわたり形成された小池百合子という人格は、もう誰にも変えられないのだろうと思う。犬猫150匹近くを殺処分したあとで、“ペット殺処分ゼロ”の公約達成を笑顔で報告する彼女に心はあるのかな。 

自らが生きていくために、地位と名声を求め虚飾にまみれた小池百合子の人生を丹念にあぶり出すオーソドックスかつ丹念な取材のもとにかかれた名ノンフィクション。生い立ち、時代、様々な要素があるなかで、こんなにかわいそうな生き方(蔑んだ意味で)しかできない人もいるのかと、絶句する。都民には是非読んでほしい。

小池百合子という人間は、働く女性の象徴だと何となく思っていたし、同じ女として応援するのが普通になっていた。 今回、女性をテーマに本を書くことが多い石井さんが、こんなにも批判的に割と心配になる強い書き方で、小池百合子の物語を書いたのはすごく意味があると思うし、あって欲しいと思った。 こんなにも売れていて政治系の本かなあと思って読んだ一冊が、読んだ今では、読まなかったかもしれない自分がいたかもしれないと思うと怖い。今後、この本を読んだ都民はどう判断してどう投票したら良いのか。

環境相時代のアスベスト被害者との懇談や都知事として築地女将さん会とやり取りしたエピソードが印象的。知事に窮状を訴え、気持ちが伝わり信頼関係を築いたと思った人々の失望が語られる。知事の資質だけでなく、政党や権力者、マスコミの問題が描かれている。私(有権者)もしっかりせねばと思う

著者の記述を信用するかは一つの判断だが、(法的措置のリスクを考えると)現為政者に対してここまで踏み込んだ内容を記述していること自体、かなりのエビデンスを保有していると考えられること、また、多くの核心的な部分で取材源が明かされトレーサビリティが確保されていることを考えると、私は信用出来ると考える。 イカロスの翼の例えは秀逸だ。今日も氏をテレビで見た。翼が燃え尽きるまで、昇っていくのだろうか。

「小池都知事を見る目が180度変わるというのが、共通の読後感ではないか。私も同感だ。そして改めて、こんな人物に都政を任せてはならない、こんな人物を選任してしまう民主主義の質を変えなければならない、と強く思う。

この書のなかでは、小池百合子から欺され裏切られた多くの人の怨みが語られている。この小池に対する怨みのグループの結集が力になってくるのではないか。そうして、傲慢な「女帝」を掣肘し、「関東大震災時の朝鮮人虐殺」の事実を認識して追悼の意を表するくらいのことはさせねばならない。そのことが、「国恥」を雪ぐ第一歩になるだろう。

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