忘れることのできない1971年4月5日 ― あれから50年。
(2021年4月5日)
私にとって、4月5日は特別な日である。私は、1971年の春4月に司法修習を終えて弁護士となった。その司法修習の終了式が、ちょうど50年前の今日、4月5日であった。その日、私は怒りに震えた。あの日の怒りが、その後の私の職業生活の原点となった。その怒りの火は今なお消えない。そして、今後もこの怒りを忘れまいと思う。
法曹(弁護士・判事・検事)資格を取得するには、司法試験合格後に司法修習の課程を履修しなければならない。1969年春4月に私は23期の司法修習生となった。戦後、法曹三者の統一修習制度が発足して以来23年目の採用ということ。同期生は500人。修習期間は当時2年だった。国費の給付を受けて、修習専念義務を課せられた準公務員という立場。
その2年間、司法研修所と東京地裁・東京地検・二弁の法律事務所で、生の民刑事の事件を素材とした実務の修習に余念はなかったが、同時に課外の自主活動にも積極的に参加して多くのことを学んだ。
私が弁護士を志望した60年代後半は、司法が比較的健全な時代であった。反共の闘士・田中耕太郎最高裁長官(1950年3月?1960年10月)以後で、裁判官の独立を蹂躙した石田和外長官(1969年1月?1973年5月)以前の、比較的穏やかな司法の時代だった。国会には、護憲勢力の「3分の1の壁」が築かれ、60年安保闘争の国民的盛り上がりの余韻の中で、労働運動も学生運動も盛んだった。その社会の空気を反映して、裁判所が真っ当な判決、あるいはずいぶんとマシな判決を重ねていた時代。裁判所に正義があると国民からの信頼を得ていた、今は昔のことと語るしかない頃のこと。
当時憲法理念に忠実でなければならないとする若手の弁護士だけでなく、裁判官や司法修習生も、憲法と人権擁護を旗印とする青年法律家協会(青法協)に結集していた。時の自民党政権には、これが怪しからんことと映った。当時続いた官公労の争議権を事実上容認する方向の判決などは、このような「怪しからん」裁判官の画策と考えられた。いつの時代にも跋扈する反共雑誌の「全貌」が執拗に青年法律家協会攻撃を始め、自民党がこれに続いた。驚くべきことに、石田和外ら司法官僚上層部はこの動きに積極的に迎合した。こうして、裁判所内で「ブルーパージ」と呼ばれた青法協会員攻撃が行われた。
攻撃側の中心にいたのが、「ミスター最高裁長官」石田和外(5代目長官)である。彼は、青法協会員裁判官に、協会からの脱退を勧告し、あまつさえ内容証明郵便による脱退通知の発送までを強要した。
私は、当然のごとく青年法律家協会の活動に加わった。東京で修習した実務期には修習生部会議長を引き受けもした。時節柄、この時の活動は最高裁当局との対決色を濃くするものとなり、22期から2名の青法協会員任官拒否者(裁判官への任官を希望しながら、最高裁から採用を拒否される者)が出たことで、決定的になった。私たちは、これを最高裁の思想差別ととらえた。そして、この差別は自民党や右翼勢力の策動に司法部の独立性が脆弱であることの反映と理解した。
菅義偉内閣の学術会議会員任命拒否とよく似た構図である。修習後半の1年は、ひたすら同期の仲間から任官拒否者を出すな、教官は青法協脱退工作に加担するな、逆肩たたき(任官辞退誘導)をするな、という具体的なテーマを追及する運動に明け暮れた。
2年の修習を終えて、忘れることのできない71年4月を迎える。
最高裁は、23期7人の任官志望を拒否した。そのうち6名が青法協会員だった。当局の覚え目出度くないことを知悉しつつ、良心を枉げることはできないと覚悟した潔い人びとである。運動は目的を達成できなかった。その意味では手痛い敗北だった。
それに先んじて、最高裁は13期裁判官である宮本康昭氏の(採用10年目での)再任を拒否していた。青法協裁判官部会活動の中心人物と見なされてのことである。われわれは、最高裁の頑迷な、そして確固たる意思を思い知らされた。
23期の修習修了式4月5日の前日、松戸の研修所の寮で話し合いがあった。「この事態を看過できない。明日の式では、修習生を代表して誰か抗議の一言あってしかるべきではないか」。クラス連絡会の代表だった阪口徳雄君がその役を引き受けた。
終了式の式場は、当時紀尾井町にあった木造司法研修所庁舎の講堂。当日開式直後に挨拶に立った守田直研修所長に、阪口君は「所長、質問があります」と語りかけた。500人の出席者から、「聞こえない。マイクを取れ」「こちらを向いて話せ」と声が飛んだ。所長も、耳に手をやって聞こえないというしぐさをした。彼が少し前に出て一礼し、所長の黙認を確認してマスクを取り、あらためて任官拒否の不当について話し始めた。とたんに、かねてからの手筈ででもあったかのように、司会の研修所事務局長から、声がかかった。「終了式は、終了いたしまーす」。この間、わずか1分15秒である。
そして、そのあとの長い長い教官会議があり、夕刻、最高裁は阪口君を罷免処分とした。私は、その酷薄さに怒りで震えた。同時に、権力というものの非情さと理不尽さを、肌身で知った。このときの怒りと反権力に徹しようという決意は今に続いている。
最高裁のこの暴挙には、国民的な抗議の世論が巻き起こった。なんと、最高裁自身が思想差別の張本人となっている。しかも、そのことを不当と声を上げようとする者を問答無用で切り捨てたのだ。これが、司法部の実態であれば、わが国の人権も民主主義も危うい。弁護士となった私の最初の活動は、この抗議の市民運動に参加することだった。阪口君は、資格を剥奪されたまま最高裁の不当を訴えて、全国を行脚していた。同期の者が安閑としておられるはずはなかった。
この司法の独立を求める市民運動への関与は、阪口君が2年後に世論を背景として資格の回復を勝ち取り弁護士になるまで続いた。弁護士になった彼は、私と同じ法律事務所で机を並べて同僚としてしばらく仕事をした。
こうして、「司法の嵐」「司法の危機」あるいは「司法反動」といわれた時代に、私は実務法律家となった。「憲法改正を阻止し、憲法の理念を擁護する」だけではたりない。独自の運動課題として、憲法が想定する真っ当な裁判所をつくる必要がある。司法の民主化なくして人権も民主主義もありえない。人事権を握る司法官僚が、第一線裁判官の採用・再任・昇進・昇格・任地を左右する権限を恣にしている実態を改革しなければならない。
1971年4月5日の出来事こそが、私の弁護士人生の原点となった。反権力を貫こうというだけではない。政治からも、行政府や立法府からも独立した司法への改革が必要なのだ。50年前のあの日の震えるほどの怒りを忘れまい。あの日に身に沁みた権力の理不尽と非情を忘れまい。今もなお、《憲法の理想》は《司法の現実》によって曇り続けている。この相克を解決すべく努力を続けたい。