澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻

「ヨッシー日記」と標題した渡辺喜美のブログがある。そこに、3月31日付で「DHC会長からの借入金について」とする、興味の尽きない記事が掲載されている。興味を惹く第1点は、事件についての法的な弁明の構成。これは渡辺の人間性や政治姿勢をよく表している。そして、もう一点は、DHC吉田嘉明のやり口に触れているところ。こちらは、金を持つ者への政治家の諂いと、金で政治が歪められている実態の氷山の一角を見せてくれる。いずれにせよ、貴重な読み物である。

渡辺の法的弁明は、一読して相当に腹の立つ内容。おそらくは、弁護士の代筆が下敷きにある。「本件は法の取り締まりの対象とはならない」という挑戦的な姿勢。政治倫理や、政治資金の透明性の確保などへの配慮は微塵もない。要するに刑事制裁の対象となる違法はないよ、という開き直りである。法的に固く防御しているつもりで、政治的には却って墓穴を掘っている。

ここでの渡辺の「論法」は、「吉田嘉明から渡辺喜美が、みんなの党各候補者の選挙運動資金調達目的で金を借りたとしても、その借入を報告すべき制度上の義務はなく、法律違反の問題は生じない」ということに尽きる。謂わば、法の隙間の処罰不能な安全地帯にいるのだという宣言である。

もちろん、「政治倫理の確立のための国会議員の資産等の公開等に関する法律」には違反している。この法律は、「(第1条)国会議員の資産の状況等を国民の不断の監視と批判の下におくため、国会議員の資産等を公開する措置を講ずること等により、政治倫理の確立を期し、もって民主政治の健全な発達に資することを目的とする。」として、政治家の資産と所得の公開を求めている。しかし、これには処罰規定がない。倫理の問題としては責められても、強制捜査も起訴も心配しなくて済む。

では、公職選挙法上の選挙運動資金収支として報告義務の違反にはならないか。渡辺は、「選挙資金として(渡辺から吉田に対する)融資の申し込みをしたというメールが存在すると報道がありました。たとえそれがホンモノであったとしても法律違反は生じません。」と開き直る。自分の選挙ではないからだ。報告義務を負うのは各候補者であり、各陣営の会計選任者だからということ。

では、政党の党首が選挙運動費用として党員候補者に使わせる目的で金を借りたら、その借入の事実を政治資金収支報告書に記載すべきではないか。これも、「党首が個人の活動に使った分は、政治資金規正法上、政治家個人には報告の義務はありません。そのような制度がないということです。個人財産は借金も含めて使用・収益・処分は自由にできるからです」とここでも開き直っている。

もっとも、渡辺がDHCの吉田から借りた金を、党の政治資金や候補者の選挙運動資金として貸し付ければ、その段階で、借り入れた側に、借入金として報告義務が生じる。この点はどうしても逃げ切れない。8億の金がどう流れたのか、調査の結果を待って辻褄が合うのかどうか検討を要する。

今の段階では、「一般的に、党首が選挙での躍進を願って活動資金を調達するのは当然のことです。一般論ですが、借り受けた資金は党への貸付金として選挙運動を含む党活動に使えます。その分は党の政治資金収支報告書に記載し、報告します。」という、開き直りでもあるが貴重な言質でもあるこの言葉を胸に納めておこう。

いずれにしても、みんなの党は総力をあげて渡辺の8億円の使途を追求しなければならない。でなければ、自浄能力のない政党として国民の批判に堪え得ず、全員沈没の憂き目をみることになるだろう。

興味を惹くもう1点は、政治家と大口スポンサーとの関係の醜さの露呈である。金をもらうときのスポンサーへの矜持のなさは、さながら大旦那と幇間との関係である。渡辺は、「幇間にもプライドがある」と、大旦那然としたDHC吉田嘉明のやり口の強引さ、あくどさを語って尽きない。その結論は、「吉田会長は再三にわたり『言うことを聞かないのであれば、渡辺代表の追い落としをする』、と言っておられたので今回実行に移したものと思われます。」というもの。

それにしても、渡辺や江田にとって、大口スポンサーは吉田一人だったのだろうか。たまたま吉田とは蜜月の関係が破綻して、闇に隠れていた旦那が世に名乗りをあげた。しかし、闇に隠れたままのスポンサーが数多くいるのではないか。そのような輩が、政治を動かしているのではないだろうか。

たまたま、今日の朝日に、「サプリメント大国アメリカの現状」「3兆円市場 効能に審査なし」の調査記事が掲載されている。「DHC・渡辺」事件に符節を合わせたグッドタイミング。なるほど、DHC吉田が8億出しても惜しくないのは、サプリメント販売についての「規制緩和という政治」を買いとりたいからなのだと合点が行く。

同報道によれば、我が国で、健康食品がどのように体によいかを表す「機能性表示」が解禁されようとしている。「骨の健康を維持する」「体脂肪の減少を助ける」といった表示で、消費者庁でいま新制度を検討中だという。その先進国が20年前からダイエタリーサプリメント(栄養補助食品)の表示を自由化している米国だという。

サプリの業界としては、サプリの効能表示の自由化で売上げを伸ばしたい。もっともっと儲けたい。規制緩和の本場アメリカでは、企業の判断次第で効能を唱って宣伝ができるようになった。当局(FDA)の審査は不要、届出だけでよい。その結果が3兆円の市場の形成。吉田は、日本でもこれを実現したくてしょうがないのだ。それこそが、「官僚と闘う」の本音であり実態なのだ。渡辺のような、金に汚い政治家なら、使い勝手良く使いっ走りをしてくれそう。そこで、闇に隠れた背後で、みんなの党を引き回していたというわけだ。

大衆消費社会においては、民衆の欲望すらが資本の誘導によって喚起され形成される。スポンサーの側は、広告で消費者を踊らせ、無用な、あるいは安全性の点検不十分なサプリメントを買わせて儲けたい。薄汚い政治家が、スポンサーから金をもらってその見返りに、スポンサーの儲けの舞台を整える。それが規制緩和の正体ではないか。「抵抗勢力」を排して、財界と政治家が、旦那と幇間の二人三脚で持ちつ持たれつの醜い連携。

これが、おそらくは氷山の一角なのだ。

   ********************************************************************
               椨の木(タブノキ)
私がひそかにトトロの木と名付けている大きな木がある。高さも幅も20メートルぐらいのパラソル型で、巨大なブロッコリーがドンとおいてあるようにみえる。宮崎駿の映画「となりのトトロ」ができてから、全国で多くの巨樹が「トトロの木」と名付けられている。たいていは杉やケヤキ。私のは、椨(タブ)の木。

タブは珍しい木というわけではないが、見てはいてもこれと意識していない人が多いと思う。クスノキ科である。遠くからみれば色の濃いどっしりとしたクスノキと思うかもしれない。中国、台湾、沖縄 、九州、四国、本州の暖地に生える照葉樹である。寒い東北地方では比較的暖かい海岸近くにヤブツバキなどと一緒に生えている。日本古来の森林の原植生を構成する樹である。シイやカシやクスノキやツバキそれにタブノキなどの暗い森が昔の日本の照葉樹林帯を覆っていたのだろう。各地でクス、しほだま(潮玉)、イヌグス、ヤマグス、タマグス(玉樟)、モチノキ、タモなどいろいろな呼び名でよばれている。

タブノキは役に立つ木である。古く、大木を断ち割って丸木舟を作った。建材、家具材としても貴重なものであった。皮や葉は乾燥させて、粉に曳いて、仏壇に供える線香の原料とした。八丈島特産の黄八丈の樺色の糸はタブの皮を染料として泥染めされた。
タブノキ教教祖といわれる宮脇昭・横浜国立大学名誉教授は東日本大震災後に、海岸線にタブノキの「森の長城」を築こうとしている。タブノキは海水にも強いし、根が深く張るので松と較べればずっと防潮の役に立つ。

水だけでなく防火の役にも立つ。1976年山形県酒田市は1000軒を焼失する大火にみまわれた。その時、西側にあった2本のタブの大木によって、江戸時代からの豪農、豪商であった本間家は類焼を免れた。被災後、酒田市は「タブノキ一本、消防車一台」といって、タブ、モチ、シイなどの常緑樹の植樹を推奨した。

タブはことほど素晴らしい木なのに、丸木舟や線香や黄八丈とともに現代日本人の記憶から失われようとしている。

私のタブノキはたった1本で立っている。あと1カ月もすると、花祭りの時期を迎える。枝々の先に燭台のような花穂を立ち上げる。薄緑色の小さな地味な花穂がオレンジ色の薄紙の苞で大切に包まれている。遠くからみると、木全体がオレンジ色の花で覆われたようにみえる。花穂と同時にでてくる新葉も橙色をして、ピカピカ輝いているので、あの花盛りの木は何の木だろうと思われる。このころのクスノキも黄緑色の花と新葉で覆われるので、美しく目立つ。これら照葉樹は5月には花を咲かせ輝きながら、同時に古い葉を落とす。秋の落葉樹の美しい落ち葉のような風情はなくて、人はただ重たく嵩張る落ち葉掃きにうんざりして、切り倒そうかなどと物騒な考えがわいてくる。

モミジやサクラのような落葉樹はかろやかさ、明るさ、儚さで現代人の好みにあう。それにひきかえ、常緑照葉樹は暗く重厚なので敬遠されるようだ。神社仏閣の神樹はたいてい常緑樹で、見る人を圧迫し、萎縮させ、畏れ多く近づきがたい気分にさせる。地球や生命の永続と自己の卑小さを思い起こさせ、厳粛で敬虔な気持ちにもさせる。私のタブノキはまだその域にはほど遠く、大きなブロッコリーのようで可愛らしい。いつか幹がコブコブになって、雷にうたれた主幹が折れて、脇から出た何本もの萌芽が若葉をつけて、木全体が小山のようになって、しめ縄なんか張られるのを想像する。でも私がその姿を見ることはない。
(2014年4月2日)

Info & Utils

Published in 水曜日, 4月 2nd, 2014, at 23:58, and filed under DHCスラップ訴訟.

Do it youself: Digg it!Save on del.icio.usMake a trackback.

Previous text: 「集団的自衛権限定行使容認論」は容認し得ない.

Next text: 憲法改正手続の整備は無用である.

Comments are closed.

澤藤統一郎の憲法日記 © 2014. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.