澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

浮き足立つことなく、こんなときこそ憲法9条。

私は怒りに震えている。北朝鮮が4度目の核実験をしたという、その報せにである。原爆・水爆・放射能・被曝などという言葉は、私にとって生理的に受け容れがたいもの。

少し気持ちを落ち着けて、北朝鮮政府の声明文を読んでみた。
やや長文だが、以下のくだりに留意せざるを得ない。対決すべき思考の構造が見えている。

「わが共和国が行った水爆実験は、米国をはじめとする敵対勢力の日を追って増大する核脅威と恐喝から国の自主権と民族の生存権を徹底的に守り、朝鮮半島の平和と地域の安全を頼もしく保証するための自衛的措置である。

思想と制度が異なり、自分らの侵略野望に屈従しないとして千秋に許せない前代未聞の政治的孤立と経済的封鎖、軍事的圧迫を加えたあげく、核惨禍まで浴びせようと狂奔する残虐な白昼強盗の群れがまさに、米国である。

米帝侵略軍の原子力空母打撃集団と核戦略飛行隊を含むすべての核打撃手段が絶え間なく投入されている朝鮮半島とその周辺は、世界最大のホットスポット、核戦争の発火点になっている。

米国は、敵対勢力を糾合して各種の対朝鮮経済制裁と謀略的な「人権」騒動に執着してわれわれの強盛国家の建設と人民の生活向上を阻み、「体制崩壊」を実現しようとやっきになって狂奔している。

膨大な各種の核殺人兵器でわが共和国を虎視眈々と狙っている侵略の元凶である米国と立ち向かっているわが共和国が正義の水爆を保有したのは、主権国家の合法的な自衛的権利であり、誰もけなせない正々堂々たる措置となる。

真の平和と安全は、いかなる屈辱的な請託や妥協的な会談のテーブルで成し遂げられない。こんにちの厳しい現実は、自分の運命はもっぱら自力で守らなければならないという鉄の真理を再度明白に実証している。恐ろしく襲いかかるオオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はないであろう。

朝鮮民主主義人民共和国は米国の凶悪な核戦争の企図を粉砕し、朝鮮半島の平和と地域の安全を保障するために努力の限りを尽くしている真の平和愛護国家である。

わが共和国は、責任ある核保有国として侵略的な敵対勢力がわれわれの自主権を侵害しない限り、すでに闡明した通りに先に核兵器を使用しないであろうし、いかなる場合にも関連手段と技術を移転することはないであろう。

米国の極悪非道な対朝鮮敵視政策が根絶されない限り、われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない。」(朝鮮中央通信配信記事からの抜粋)

つまりは、水爆を保有することが「自国と国民の平和と安全を邪悪な敵から防衛するための正義の自衛的措置」だというのだ。その前提として、「自国こそが平和愛好国家であり、他は虎視眈々と自国を脅かす凶悪な敵」との断定がある。抑止論者にこれを嗤う資格はない。北朝鮮こそは、抑止有効の論理が自国の軍事力の際限の無い拡大要求に帰結する見本ではないか。

「我が国に対する中国や北朝鮮の脅威が根絶されない限り、日本の自衛力の質的・量的な拡大を中断することはあり得ない。日米軍事同盟の強化を継続し続ける以外の方策はない。」これが、安倍政権の危険なホンネではないか。

さらに、「日本の平和と安全を確保するための軍事的抑止力は、可及的に質的・量的に強力であることが望ましい。通常兵器を有するだけでなく、核兵器を持つことがより我が国の安全を高める。また、現実に敵の侵略が生じてからの自衛の措置では遅きに失することが明らかなのだから、先制的な自衛の措置が執れるだけの攻撃力を完備する必要がある」となり、究極的には「われわれの核開発の中断や核放棄はどんなことがあっても絶対にあり得ない」に至ることになるのだ。

改めて、憲法9条の理念を思い起こそう。浮き足だって、我が国にも軍事的対抗措置が必要だなどと言う愚論を制しなければならない。問われているのは、「オオカミの群れの前で猟銃を手放すことほど、愚かな行動はない」との行動原理と、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する」理念に立つかの選択である。愚かな抑止力拡大競争の連鎖を絶対に阻止しなければならない。

そのために、まずは北朝鮮に今回の核実験に踏み切ったことを、大きな間違いだったと悟らせなければならない。国際的威信を確立するどころか、結局は国際的孤立化を深め、経済的な窮乏化を招き、国の存立すら危うくする愚挙であることを思い知らねばならない。

この日の北朝鮮は、1941年12月8日の日本に似ている。あの太平洋戦争開戦の日、日本の指導者もメディアも国民も、これが希望の幕開けだと錯覚させた奇襲の成功に熱狂した。しかし、実はあの日こそ、破局への幕開けの日だったのだ。この教訓を思い起こそう。北朝鮮に、核実験の成功体験をさせてはならない。日本国内の抑止論者を勢いづけさせないためにも、である。
(2016年1月7日)

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なお、3度目の核実験(2013年2月12日)の当時には、私の「憲法日記」はまだ日民協のホームページに間借りしていたが、当日と翌日にブログの記事にした。今読み返して、今の私の気持ちと変わらない。これを再録しておきたい。

朝鮮の核実験に抗議する 2013年02月12日(火)

北朝鮮が3度目の地下核実験を行った。昨日には、米・中両国への事前通告があったとのことだから間違いなかろう。満身の怒りをもって抗議する。

私の抗議は、「北朝鮮の核実験だから」ではない。米・露・英・仏・中の5大国にも、印・パ両国にも、そして核を外交カードに使おうとするイラン・イスラエルにも、改めて抗議する。人類は核と共存し得ない。核をもてあそぶ者は、人類の存亡をもてあそぶ者だ。

かつて、「いかなる国の・論争」があった。私には、そのような論争の存在自体が信じがたく、「いかなる国の核実験にも反対」は自明だと思っていた。その私を、理論派の友人が説得にかかった。

「いかなる国の核実験にも反対という論法は、問題を核兵器と人類との対立という誤った構造に陥らせる」「戦争も核兵器も、人がつくり出す。社会の構造が生み出すものだという社会科学的な視点が必要だ」「戦争や核兵器廃絶のためには、それを生み出す体制の矛盾をこそ見据えなければならない」「世界の情勢を体制間の対抗関係として見れば、問題の本質が核そのものではなく、核の背後にある体制の問題であることが見えてくるはず」「いかなる国の核実験にも反対というのは、そのような問題の根本を見誤らせる間違ったスローガンだ」

理論派ならざる私は上手に反論できなかったが、この「理論」には胡散臭さを感じて、結局説得はされなかった。いまにして私の方が正しかったと思う。どこの国の核であろうとも、米国に対する「自衛的核抑止力」であろうとも、核保有国が増え、核技術が拡散することは絶対に容認し得ない。

アメリカとの間にオスプレイ問題があり、中国とは尖閣問題、韓国とは竹島、ロシアとは北方4島、そして北朝鮮とは拉致問題に核実験。日本は、周囲の各国と軋んだ関係を余儀なくされている。このようなときこそ、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という憲法9条を思い起こさねばならない。冷静で賢い対応が求められている。武力による威嚇のエスカレートを許してはならない。

いかなる口実をつけようとも、北朝鮮の核実験も、それへの対抗措置としての我が国の軍備の増強も、「ならぬことはならぬもの」なのだ。

北朝鮮の核実験に、再度抗議する。2013年02月13日(水)

私は、1945年8月6日午前8時15分をもって、人類史を2分する。人類が自死の能力を明確に自覚する以前と以後とにである。そう考えさせる事件後の爆心地近くで、私は小学校に入校した。広島市立幟町(のぼりちょう)小学校というその学校の担任の女性教師の顔面にはケロイドの痕が生々しかった。広島の街は、まだ片づけられない瓦礫が残っており、原爆ドームも子どもの遊び場となっていた。そこで、地元の人のピカに対する怨念を心に刻んで育った。

1954年3月焼津に第五福竜丸が寄港したころ、私は清水の小学校の5年生だった。「放射能の雨」に戸惑ったことをよく記憶している。そして、今は公益財団法人第五福竜丸平和協会の監事を務めている。核兵器に対しても、被曝についても、徹底したアレルギー体質となっている。

もっとも、広島の原爆投下が核爆発の第1号ではない。悪名高いマンハッタン計画の「成果」として、人類最初の核実験(プルトニウム型)が1945年7月16日にアメリカ・ニューメキシコ州アラモゴードで秘密裡に行なわれている。「核の時代」の幕開けはこのトリニティ実験をもって始まる。

以来、昨日の北朝鮮地下核実験は2054回目の核爆発だという。
これまで、アメリカは1030回、旧ソ連が715回、フランス210回、イギリス45回、中国45回、インド4回、パキスタン2回、そして北朝鮮3回の核実験が大気圏で、地下で行われてきた(外務省データによる。イスラエルの実験は未確認として含まれていない)。

その間、原爆は水爆となり、爆発力を示すキロトン(TNT火薬換算)はメガトンの単位となった。なによりも運搬手段の発達がその脅威を増強している。

制憲国会で、幣原喜重郎は憲法9条の論議に関して次のように答弁している。
「一度び戦争が起これば人道は無視され、個人の尊厳と基本的人権は蹂躙され、文明は抹殺されてしまう。ここに於て本章(日本国憲法第2章「戦争の放棄」)の有する重大な積極的意義を知るのである」「原子爆弾の出現によって、文明と戦争は両立しえなくなった。文明が戦争を抹殺しなければ、やがて戦争が文明を抹殺する」

改めて、北朝鮮に抗議し要請する。いかなる理由に基づくものであろうとも、核兵器を廃棄していただきたい。文明と核兵器とは両立しえない。文明が核兵器を抹殺しなければ、やがて核兵器が文明の全体を抹殺するのだから。

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