澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「日の丸・君が代」強制の信教の自由侵害

頑迷な都教委との、10・23通達関連訴訟は熾烈に継続している。とうてい先は見えない。国旗・国歌(「日の丸・君が代」)に対する敬意表明の強制は違憲・違法である、との主張をめぐる攻防である。
愚かな都教委が強制をやめるか、最高裁がすべての事案について違憲判断をすることになるまで、この訴訟は継続し続けることになる。

いま、第4次の処分取消訴訟が一審に係属中であり、その第7準備書面を作成の作業中である。今回の私の担当は、憲法20条1項・2項(信教の自由保障規定・政教分離ではない)を根拠とする、「日の丸・君が代」強制の違憲論。

周知のとおり、最高裁は、神戸高専剣道授業拒否訴訟において、信仰上の信念から剣道の授業は受け容れがたいとした学生の訴えを認容した。剣道の授業が客観的に宗教性を帯びると認めたのではない。それでも、剣道の授業強制が特定の信仰者の信教の自由を侵害することを認めたのだ。「日の丸・君が代」強制は、これによく似ている。似ているどころではない。もともと「日の丸・君が代」は神なる天皇と結びついた国家神道のシンボルであった。信仰者が受け容れがたいとする理由の明白さにおいて、剣道の授業とは比較にならない。

論争の応酬の一コマではあるが、その書面のドラフトの比較的まとまりがよい部分を読み易く整理した形で、ご紹介したい。何が、どのように、論争の対象となっているか。その一端をご理解いただけるものと思う。

☆被告(都教委)は、「日の丸・君が代は、国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という。この文章の論理自体がきわめて曖昧である。むしろ、ことさらに曖昧な文章とされたものというべきであろう。
あたかも、「日の丸・君が代」が「国旗・国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたもの」である以上は、「それ自体宗教的な意味合いを持つものではない」と述べているごとくであるが、明らかに失当である。
「日の丸」は神話的な起源をもつデザインであり、「君が代」は神なる天皇の御代の永続を称える祝祭歌として、明治期に事実上の国旗・国歌とされた。「日の丸・君が代」を事実上の国旗・国歌とする天皇制国家は、国家神道を主権原理の根拠とした宗教国家であった。したがって、「日の丸・君が代」は、国家の象徴であっただけでなく、国家神道の宗教的な象徴でもあった。このことは動かしがたい、歴史的事実である。
その後、敗戦を経て神権天皇制は法制度上崩壊し、主権原理を転換した日本国憲法の時代となった。しかし、天皇制は象徴天皇制として存続し、宮中祭祀は「伝統」を固守し続けている。国家神道を支えた各地の神社も宗教法人に衣替えして往時の姿をとどめている。国家神道を支えた社会基盤も社会意識も崩壊に至っていない。その社会基盤と社会意識に支えられて、「日の丸・君が代」も廃絶されることなく、日本の社会に生き残り、国旗国歌とされるに至った。
「日の丸・君が代」の宗教性の有無は、法によって決せられるべき事項ではない。国旗国歌法が成立しようと廃絶されようと、なんの消長も影響も受けるものではない。とりわけ、今議論の局面は、憲法20条1項および2項の基本的人権としての個人の内面における信教の自由をめぐってのものである。国会の多数決の議決によっても動かしがたいものなのである。このことについて、被告が無自覚であることが恐るべきことなのである。
被告都教委の「日の丸・君が代は、国旗国歌法によって日本の国旗・国歌と定められたものであって、それ自体宗教的な意味合いを持つものではない。」という、恐るべき無自覚、無神経が、原告教員らの積極・消極両面の信教の自由をないがしろにしていると嘆かざるを得ない。

☆また、被告は、「日の丸・君が代は、原告らが主張するように『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』ではない。それまで日の丸・君が代が我が国の国旗・国歌であることが慣習として成立していたという事実的経過があって、議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化されたものである。」ともいう。
問題は、個人の精神的自由の根幹をなす、自己の内面をいかに形成するかの自由を論じる局面にある。日の丸・君が代が『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』であるか否かは、個人それぞれの判断にかかる問題であって、法がその判断に介入出来ることではない。
被告の主張の誤謬は、「議会制民主主義のもと、国民の多数の意思により法律により明文化された」という一文に象徴される。被告は、あたかも「議会制民主主義」や「国民多数の意思」が、人権を制約する大義名分としてオールマイテイであると考えている如くである。
しかし、議会制民主主義がなしうることには明確な限界があって、いかなる絶対多数によっても基本的人権を侵害することは許されない。被告主張の如くに、国会の議決によって、「日の丸・君が代」の意味づけが変えられて、信仰者の信教の自由や、無神論者の信仰を持たない自由が傷つけられてはならないのである。
しかも、国旗国歌法の内容はわずかに2か条、国旗と国歌のデザインと歌詞メロディを定めるだけのものである。それ以上の意味づけ規定はなく、国民の権利義務ともまったく無関係なものである。国旗国歌法の趣旨・目的は、国旗国歌を定義づけるだけのものであって、それを超えて、法の成立が「『日の丸・君が代』から『国家神道と結びついた神的・宗教的存在としての天皇崇拝のシンボル』を排除した」などという効果を生じるものではない。被告の主張は、何重にも牽強付会を重ね、何重にも誤っている。

☆さらに被告は、「国旗・国歌が国民統合の象徴の役割を持つことから、国旗・国歌を取り巻く政治状況や文化的環境などから、過去において、日の丸・君が代が皇国思想や軍国主義に利用されたことがあったとしても、また、日の丸・君が代が過去の一時期において、皇国思想や軍国主義の精神的支柱として利用されたことなどを理由として、日の丸・君が代に対して嫌悪の感情を抱く者がいたとしても、日本国憲法においては、平和主義、国民主義の理念が掲げられ、天皇は日本国及び日本国民統合の象徴であることが明確に定められているのであるから、日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という。
これは、意味不明の無意味な主張である。いま、「日の丸・君が代」の宗教的象徴性について論じている局面で、被告の主張は論争テーマと関連性を持たない。
とりわけ、「日の丸・君が代が国旗・国歌として定められたということは、日の丸・君が代に対して、憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴としての役割が期待されているということである。」という一文は法律論ではない。政治的な宣言文書としては意味を持つかも知れないが、「役割が期待されている」との文言は、何らの法律要件とも法律効果とも結びつくものではない。
被告の論法では、「天皇は憲法において日本国及び日本国民統合の象徴であると定められているのであるから、天皇という存在は当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということになる。また「『日の丸・君が代』も国旗国歌法において国旗国歌とされた以上は、当然に憲法が掲げる平和主義、国民主義の理念の象徴である」ということにもなる。
憲法が天皇を制度上どう定めようと、また憲法上の天皇についての規定の有権解釈がどのようなものであろうとも、個人が天皇についてどのような見解を有するかは自由でなくてはならない。とりわけ、天皇制の形成過程や歴史的に果たした役割から、天皇の宗教的象徴性についての見解やそれをめぐる思想は完全に自由でなければならない。これは自明の理である。また、当然のことながら、その天皇に関する思想表明の自由には格別の保障がなされなければならない。
同様に、国旗国歌法が「日の丸・君が代」を国旗国歌と定めたとしても、国民個人が「日の丸・君が代」をどう位置づけ、どう理解し、どう評価すべきかという点に関して、いささかも影響されるところがあってはならない。国旗国歌法の制定如何に関わらず、信仰者である原告らについても、また信仰者でない原告についても、その「日の丸・君が代」をめぐる宗教性の有無についての考え方の自由は、最大限に尊重されなければならない。
要するに、基本権侵害を論じる主観的違憲論の局面において、国旗国歌法の出る幕は一切ない。被告が国旗国歌法を持ち出したこと自体が、見当外れの謬論なのである。

☆また、被告は「原告らにおいても、個人として信教の自由が保障されているが、公務員として全体の奉仕者としての地位にあり、しかも、その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」という。
「そもそも教育公務員には信教の自由を保障する必要がない」という被告の粗雑な論法は、教育公務員をして精神的自由を持たない奴隷の地位に貶めるものと言わざるをえない。この論法は、社会生活を送るものに、そもそも信教の自由はないというに等しい。
「信教の自由が保障されている」というためには、最低限自らの信仰に反する行為の強制を受けないことが保障されていなければならない。外部的な行為と切り離されて純粋に内心に限定された信教の自由は、権利として論じる意味を持たない。
また、被告が「個人として信教の自由が保障されている」という意味は不明確であるが、「個人として」の意味が「社会生活とは切り離された純粋に私的な生活領域においては」という意味であれば、これも権利の保障に値しない。
きわめて常識的に、「国民のすべてに信教の自由が保障されている」とは、いかなる信仰を持つ者も、また持たざる者も、宗教に関わる理由で通常の社会生活に支障をきたすことのない社会環境が整えられていることを意味する。
キリスト教の信仰者である複数の原告に限らず、「日の丸・君が代」の宗教性に鋭敏な信仰者は数多く存在する。これらの信仰者が、「日の丸・君が代」の強制を甘受せざるを得ないことを理由にその宗教上の精神生活に支障をきたすようなことがあってはならない。換言すれば、通常の社会生活と信仰者としての精神生活との矛盾に陥らせてはならないということが、「信教の自由を保障する」という意味でなくてはならない。
信仰者である原告らは、自己の信仰者としての精神生活を堅持しながら、教育公務員としての社会生活を支障なく送るべく被告に配慮を要求する憲法上の権利を有し、被告にはこれに対応する憲法上の義務があるというべきなのである。

☆被告がいう「その職務の内容が公教育を行うという公共性を有していることから、原告らが個人的な宗教上の理由から、教育を行うこと(すなわち、この場合は、国旗・国歌の指導を行うこと)を拒否することは、そもそも許されないのである。」との主張は、著しく偏頗な一面的な議論に過ぎない。原告らの憲法上の権利性を全面的に否定し、教育公務員という属性を理由に、原告らに信仰者としての精神生活の保障を排除する結論となっているからである。
また。被告の立論は、一方的に結論を述べているが、理由や根拠に触れるところがないが、憲法上の権利の制約を容認すべきとする主張は、制約の根拠についての主張・挙証の責任を負うべきが当然なのである。

☆なお、原告らとしても、教育公務員としての職務の遂行が当該教育公務員の宗教上の信念と衝突する場面において、いかなる場合にも宗教的信念の保障が優越すると主張するものではない。
信教の自由という精神的自由権の中核的権利についての制約が許容されるか否かは、合違憲判断の常道として、制約の目的、制約の手段、目的と手段との関連性の3面における、厳格な違憲審査基準の適用をもって判断されなければならない。
目的審査は、当該教育公務員に課せられる具体的な職務上の義務が真にやむを得ない利益を達成するためのものであるか否か。手段審査は、その利益を達成するための必要不可欠な手段であるか否か。そして、(目的と手段の)関連性審査は、その義務によって課せられる信教の自由に対する制約が必要最小限度のものであるか否か。この3面における検証のすべてに合格して始めて憲法上の人権の制約が許容されることになる。
厳格審査基準からしても、教員の本来的な職務である生徒に真理を教授する場面において、自己の宗教的信念を貫くことは許容されない。「天地は神が創造したもうた」「進化論は聖書に反する誤った考えである」「日本の建国は神武の即位に始まる」などを、真理ないしは真実として教授することは許容されない。子どもの教育を受ける権利を全うする目的から上記3面の審査による制約は容易に肯定されうることになろう。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明を強制することは、何らの真にやむを得ない利益を達成するための目的を肯定することにはならない。国旗・国歌ないしは「日の丸・君が代」の強制は、生徒たちに国家意識あるいは愛国心を醸成することを目的とするものであろうが、このことは真理の伝達とは異なり、教育公務員の本来的な職務ではない。むしろ、国家をどのように位置づけ理解するかは、優れて価値観に関わる問題として、教育にも強制にも馴染まない。少なくとも、そのような教育公務員の信念は尊重されなければならない。とうてい、「真にやむを得ない利益を達成するためのもの」とは言えない。
また、仮に卒業式等の儀式における秩序維持が肯定されるべき目的ないし利益だとしても、全教員に対する起立・斉唱の強制が、この目的を達成するための必要不可欠な手段であるとも、必要最小限度のものとも到底言えない。積極的に式の進行を妨害することなく、国歌斉唱時に静かに坐っているだけの教員に懲戒処分を科してまで起立や斉唱を強制する必要はあり得ない。
以上のとおり、原告らが、憲法20条1項および2項にもとづいて有する基本権が、「日の丸・君が代」への敬意表明強制によって制約されることは許容し得ない。被告の主張は誤りである。
(2016年2月20日)

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