澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

「国旗国歌に敬意を表することだけが正しい」と教えることの異様さー東京君が代裁判・代理人陳述

東京君が代裁判4次訴訟のこれまでの法廷では、毎回原告一人と代理人弁護士一人が各意見陳述をしてきた。単に書面を提出して各裁判官に目で読んでもらうだけでなく、真摯さに溢れた生身の声や息遣いを裁判官の胸に響かせたいという思いからである。法廷での意見陳述を許すか否かは、裁判所の裁量にかかっている。これまでのところ、裁判所は原告側の申し入れを容れ、真面目に聞く耳をもっているという姿勢を示している。

原告代理人の意見陳述は、長い準備書面のエッセンスを効果的に裁判所に伝えることにある。3月4日期日の原告第7準備書面のテーマは多岐にわたるが、その冒頭に、憲法の根底にある価値多元主義についての論述がおかれている。多元的な価値観尊重の態度涵養は教育の本質とも関わる。とりわけ、国家と個人の関係についてのとらえ方は、最も憲法が関心をもつテーマとして価値観の多様性尊重が最大限に重視されなければならない。

にもかかわらず、都教委による教育の場での国旗国歌への敬意表明の強制は、この価値多元主義に真っ向から反する、という主張である。

このことを白井剣弁護士が、下記のように、裁判官に穏やかに語りかけた。説得力に富んでいると思う。これが裁判官の胸に響かぬはずはない…と思うのだが。
(2016年3月6日)
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 国旗国歌は起立斉唱して敬意を表す対象であると生徒に教えることの意味について,7分間のお時間を頂戴いたします。

 今から半世紀前のことです。1968年8月20日夜,チェコスロバキアの首都プラハに7000台の戦車と62万人の軍隊が進入しました。チェコ事件です。プラハの春と呼ばれた民主化の動きが一夜で制圧されてしまいました。価値観の多元性が否定されました。ソ連共産党が正しいと決めたことだけが正しいとされる社会になりました。

 その2か月後の1968年10月。メキシコでオリンピックが開催されました。チェコスロバキア選手団のなかに女子体操選手ベラ・チャスラフスカがいました。64年の東京オリンピックのときには華麗な演技が評判になりました。メキシコオリンピックでは彼女は4つの金メダルと銀メダル1つをとりました。優勝するたびに「ベラ!。ペラ!」とその名を呼ぶ声が観客席から沸きあがりました。
 床運動ではソ連の選手と同点優勝になりました。ふたりが並んで表彰台に立ちました。チェコスロバキア社会主義共和国とソビエト社会主義共和国連邦の2枚の国旗がならんで掲揚台に上がりました。ふたりとも国旗に向かって真っすぐに立っていました。やがてソ連の国歌が演奏されました。演奏が始まると,チャスラフスカは首を右に曲げ,国旗から顔を背けました。ソ連国歌の演奏のあいだずっと,その姿勢をとり続けました。ソ連の国旗と国歌に敬意を表することができなかったのです。演奏が終わると彼女は国旗に向き直りました。そして満面の笑顔で観衆の拍手に応えました。その姿は,衛星中継で世界中にテレビ放送されました。多くの人々に感銘を与えました。

 もしもこのとき,被告と同じ主張をする人がいたら,どうだったでしょうか。
「自国のものであれ,他国のものであれ,国旗・国歌に敬意を表しないのは,周囲から批判を受ける行動である」
 そんなことを言う人は,逆にその人が世界中から非難を受け,笑い者になったでしょう。この裁判で被告が主張していることはそういうことです。

 被告の主張を少し読んでみます。
 「もし国(くに)の象徴である国旗・国歌を尊重しないような態度をとるならば,国際社会において…他国を尊重しない国民とみられかねないのであって,…世界の人々が信頼と尊敬を寄せてくれるかは極めて疑問であろう。国際社会においては,その歴史的な沿革がいかなるものであろうとも,自国のものであれ,他国のものであれ,国旗・国歌は尊重されるべきものであるとの共通認識が存在することは周知の事実である」(答弁書121頁)

 国旗はただのハタではありません。国歌はただのウタではありません。そのハタとウタの向うに,国家の存在をひとは見るのです。聴くのです。
 国旗国歌が象徴する国家は抽象概念ではありません。まさに歴史の事実を,正と負の両面の遺産として背負った,具体的存在です。国旗国歌の向うに何を見て何を聞くのか,そして国旗国歌にどう向き合うのかは,ひとそれぞれです。国家にどう向き合うのかという価値観の問題だからです。

 教育現場では価値多元性が大事にされなければなりません。およそ価値観をめぐる教育課題は,生徒が自ら考えて自ら選び取ることこそが肝要です。
 10・23通達より以前の都立学校では,国歌斉唱の際,起立斉唱するかどうかは個人が判断すべきことであり,静かに着席しても不利益を受けることはないというアナウンスが多くの学校でおこなわれていました。これもまた価値多元性を大事にする姿勢の現れでした。

 被告はこう主張しています。
 「都教委は,将来,児童・生徒が,国歌斉唱をする場に臨んだとき,一人だけ,起立もしない,歌うこともしない,そして,周囲から批判を受ける,そのような結果にならないよう指導すべきと考え,国旗・国歌の指導を行ってきたのである」
 立たないことが間違いであると決めつける,このやり方は「価値多元性の否定」です。10・23通達は「価値多元性の否定むを都立学校に持ち込んだのです。

 論理的に考える機会を与えるのではありません。立って歌うという機械的行動と教職員の懲戒処分とをセットにして,不起立不斉唱は「周囲から批判を受ける」と教え込む。国家について生徒に考えさせるのではなく,「国家象徴に敬意を表しなければならない」というショートカットを生徒の心のなかに成立させることになります。こんなものは教育ではありません。まったくの別物です。
 駒村圭吾慶應大学教授は意見書のなかでこう述べでいます。
 「本来,複雑な検討や広汎な考察が必要な『国家』の問題を,教育現場のいろいろな局面で丁寧に教えていくことを誠実に施行していくこととは別に,また,生徒がそのような課題をゆっくりとしかし誠実に考察していく前に,まずは敬意の対象であることを身体に教え込むのは,思考停止あるいはショートカットを生む」

 2003年10月23日以来,都立学校の多くの教職員たちが葛藤し脳み苦しんできました。長い教職員人生のなかで,懲戒処分で脅かされるの機会が毎年かならず訪れてくることの重みと辛さは,想像をはるかに超えるものがあります。処分が重いか軽いかにかかわらず,重く辛い試練です。
 それでもなお起立斉唱命令には従えないという思いに教職員たちは駆られます。
 それは,価値多元性こそが教育の本質的要請であると思うからです。起立斉唱しなければならないという特定の価値観を生徒たちに教え込んではならないという教職員としての職責意識があるからです。

 10・23通達が出されてから12年余りが経過しました。都立学校における価値多元性の否定をいつまでも続けていいものかどうか。どうか裁判所にはあらためて慎重にお考えいただきたいのです。

 そのことを申し上げて本日の代理人弁論といたします。

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