メディアは、スラップ訴訟の害悪を世に広く知らしめる努力を ?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第77弾
昨日(3月7日)の朝日新聞社会面が、スラップ訴訟関連の記事を取り上げた。
見出しは、「言論封じ『スラップ訴訟』」「批判的な市民に恫喝・嫌がらせ」というもの。デジタル版では、「批判したら訴えられた…言論封じ『スラップ訴訟』相次ぐ」となっている。
http://digital.asahi.com/articles/ASJ3652LRJ36UTIL00H.html?rm=324
ようやくにしてではあるが、まずは目出度い大手メディアデビューである。
スラップの実態や弊害についての議論は、ネット上では旺盛に行われている。当ブログの「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズは本日が第77弾。おかげで、スラップに関する情報の提供を受けたり、相談に与ることも少なくない。しかし、大手メディアの沈黙が不気味であった。記者会見には来るメディアも、記事にはしない。萎縮効果はここまで…と疑わざるを得ない事態だった。が、この記事をきっかけに、他紙も安心してスラップの記事を書くことができるようになるのではないか。遠慮なく、DHC・吉田嘉明の名前を出して。そのような批判の記事なくしては、メディア自身の表現の自由も危うくなるではないか。
朝日の記事の冒頭に次のリードがある。
「会社などを批判した人が訴訟を起こされ、『スラップ訴訟だ』と主張する例が相次いでいる。元々は米国で生まれた考え方で、訴訟を利用して批判的な言論や住民運動を封じようとする手法を指す。法的規制の必要性を訴える専門家もいるが、線引きは難しい。」
具体的な事例として、最初に「伊那太陽光発電スラップ訴訟」を紹介し、この事件に大きくスペースを割いている。
次いで、DHCスラップ訴訟(対澤藤事件)が取り上げられている。その全文が次のとおり。
「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。
1月、化粧品大手ディーエイチシー(DHC)と吉田嘉明会長が、ブログで自らを批判した沢藤統一郎弁護士に賠償を求めた訴訟の判決が東京高裁であった。
吉田会長がみんなの党(解党)の渡辺喜美元代表に8億円を貸していた問題を、沢藤弁護士はブログで『自分のもうけのために、政治家を金で買った』と批判。吉田会長は、同様の批判をした評論家や他の弁護士も訴えた。このため沢藤弁護士はブログで『スラップ訴訟だ』とさらに批判。すると2千万円だった請求が6千万円に増やされた。
東京地裁に続いてDHC側の請求を棄却した高裁の柴田寛之裁判長は『公益性があり、論評の範囲だ』と述べた。判決後、沢藤弁護士は『訴えられると、言論は萎縮せざるを得ないと実感した。判決にほっとした』と話した。DHC側は上告受理を申し立てた。」
これをいかにも朝日らしい、というのだろうか。臆病なまでに公正らしさに配慮して、「憲法は『裁判を受ける権利』を定めており、『スラップ訴訟』かどうかの線引きは難しい。」と書いたあとでの、DHCスラップ訴訟の紹介なのだ。
それでも、この記事の掲載には大きな意義がある。「スラップ訴訟」という用語の解説もあるし、これまでの「訴えられた側が『スラップ訴訟』だと主張した例」として、幸福の科学事件、武富士事件、オリコン事件などの経過概要も紹介されている(もっとも、固有名詞はすべて伏せられている)。スラップ訴訟という言葉を人口に膾炙せしめ、スラップのダーティーなイメージを世に広めるために、大きな役割を果たすことになるだろう。
この朝日記事の最大の評価ポイントは、コメンテーターとして、内藤光博教授を採用したことである。その全文を引用しておこう。
「スラップ訴訟の研究を進める専修大学の内藤光博教授(憲法学)は『特定の発言を封じるだけでなく、将来の他の人の発言にも萎縮効果をもたらす。言論の自由に対する大きな問題で、法的規制も検討するべきだ』と指摘する。
米国では1980年代、公害への抗議や消費者運動をした市民に、大企業が高額賠償を求める訴訟が多発。『表現の自由への弾圧』と批判され、90年代以降に防止法が作られた。カリフォルニア州など半数以上の州で制定。裁判所が初期段階でスラップと認定すると訴訟が打ち切られ、提訴側が訴訟費用を負担する仕組みが多いという。
ただ、日本ではまだ認識が薄く、基準もあいまいだ。内藤教授は『まずは事例を研究した上で、きちんと定義し、議論を深める必要がある』と話す。」
さて、公正にして中立な朝日の記事は、スラップ訴訟の仕掛け人である吉田嘉明のコメントを掲載している。
「朝日新聞の取材に、吉田会長は『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し、泣き寝入りしている人がほとんどではないでしょうか。それをいいことに、うそ、悪口の言いたい放題が許されている現状をこそ問題にすべきです』とのコメントを寄せた。」
開いた口が塞がらない。この人はなんの反省もしていない。多くの敗訴判決から何も学んでいないのだ。これでは、今後も同じことを繰り返すことになる。
この人が『名誉毀損訴訟を起こすのは驚くほど金銭を要し』とは、聞かされる方が驚くほどのこと。吉田嘉明は、自ら「何度も長者番付に名を連ね、現在も多額の収入と資産がある」と表明している人物である。私は、「カネに飽かせてのスラップ訴訟常連提起者」と批判してきた。その当人が「敗訴必至の訴訟に驚くほど金銭を要した」というのだ。
通常の訴訟は経済合理性に支えられている。勝訴してもペイせず、費用倒れに終わることの明らかな提訴は、普通は行われない。敗訴のリスクが高ければなおさらのことである。真っ当な弁護士に相談すれば、「およしなさい」とたしなめられるところ。ところが、スラップ訴訟はまったく様相を異にする。経済合理性は度外視し、判決の帰趨についての見通しも問題としない。ただひたすらに自分に対する批判者に、可能な限り最大限のダメージを与えようという目的の提訴なのだ。だから、「金銭を要する」のはスラップ訴訟である以上、あまりに当然のことなのである。これを当の本人が「驚くほど」高額ということになのだから、いったいどれほど莫大な金額をかけたものやら、驚くほどのことというわけだ。
「週刊新潮・8億円裏金提供暴露手記」の批判者を被告として、DHC・吉田が原告となって提起したスラップ訴訟は、私に対するものを含めて同時期に10件ある。損害賠償請求額は最低2000万円、最高は2億円である。この請求金額が、貼用印紙額や弁護士費用の計算基準となる。敗訴覚悟の無茶苦茶な高額請求をしておいて、「驚くほど金銭を要し」たのは自業自得以外のなにものでもない。しかし、問題の本質は別のところにある。
DHCスラップ訴訟とは何か。吉田嘉明が8億円もの裏金を政治家渡辺喜美に提供して、規制緩和の方向に政治を動かそうとした。そのことに対する批判の意見が噴出したとき、その批判の政治的言論を高額損害賠償請求の訴訟を濫発して封殺しようとしたものなのだ。しかも、その提訴を通じて社会を威嚇し、政治的な言論に対する萎縮効果を狙ったところに、最大の問題がある。
吉田は、自らに対する政治的な批判の言論を「うそ、悪口の言いたい放題」という。自らが、事実を手記として週刊誌に発表しておいて、これを批判されると、批判に「うそ、悪口の言いたい放題」と悪罵を投げつける。果たして批判の言論が「うそ」であるか、「悪口」であるか、「言いたい放題」であるか、いくつもの判決が既に決着をつけている。
吉田は、自分への批判を封じ込めたいというのだが、それが許されるようでは、世も末だ。表現の自由は地に落ち、民主主義が崩壊する。
メディアは、これを他人事として傍観していてはならない。やがては自分に降りかかってくる問題ではないか。これまで、私が記者会見で何度も訴えてきたことを繰り返したい。
「私の判決が、DHC・吉田の完敗でよかった。もし、ほんの一部でもDHC・吉田が勝っていたら、政治的な言論の自由は瀕死の事態に陥いることになる。
DHCスラップ訴訟とは、優れて政治的な言論の自由をめぐるせめぎ合いの舞台なのだ。そのような目で、私の事件にも、その他のDHCスラップ訴訟にも、そしてその他のスラップ訴訟にも注目していただきたい。
ぜひ、記者諸君に、自分の問題としてとらえていただくようお願いしたい。自分が書いた記事について、記者個人に、あるいは社に、2000万あるいは6000万円という損害賠償の請求訴訟が起こされたとしたら…、その提訴が不当なものとの確信あったとしても、どのような重荷となるか。それでもなお、筆が鈍ることはないと言えるだろうか。
権力や富者を批判してこそのジャーナリズムではないか。ジャーナリストを志望した初心に立ち返って、金に飽かせての言論封殺訴訟の横行が、民主主義にとっていかに有害で危険であるか、想像力を働かせていただきたい。今、世に頻発しているスラップ訴訟の害悪を広く知らしめ、スラップ防止の世論形成に努めてもらいたい。
スラップ訴訟は、言論の萎縮をもたらす。今や政治的言論に対する、そして民主主義に対する恐るべき天敵なのだ。けっして、スラップに成功体験をさせてはならず、その跋扈を防止しなければならない。」
(2016年3月8日)