澤藤統一郎の憲法日記

改憲への危機感から毎日書き続けています

都教委よ、裁判官よ、憲法の叫びに耳を傾けよ

昨日(3月15日)、東京「君が代」裁判第4次訴訟の最終弁論。
2014年3月17日に提訴し、以来3年間15回の口頭弁論を経て、本日弁論終結した。判決言い渡しの指定日は9月15日である。

私は、この裁判の弁護団の一員として多くのことを考えさせられ、また学んだ。乱暴に教育を破壊しようとする権力の潮流が一方にあり、真摯に生徒の立場を思いやり真っ当な教育を取り戻そうとする多くの教員の抵抗がある。怒らねばならない場面にも遭遇し、また心温まる多くの経験もした。

国旗・国歌(日の丸・君が代)にまつわる憲法論を考え続けて、今確信していることがある。日本国憲法は、国家と国民(個人)との対峙の関係を規律することを最大の使命としている。国民は国旗国歌を通じて国家と対峙するのだから、公権力による国旗国歌への敬意表明強制の是非こそは、憲法が最も関心をもつべきテーマなのだ。

また、「日の丸・君が代」は、戦前の旧天皇制のシンボルであった。「日の丸・君が代」への敬意表明強制の是非は、旧体制を徹底して否定して成立した現行憲法の価値観を尊重するか否かの試金石だ。

私は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が許されるか否か、それは日本国憲法の理念を生かすか、殺すかの分水嶺だと確信する。憲法を殺してはならない、是非とも生かしていただきたい。そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決に期待したい。

結審の法廷で、お二人の原告が堂々たる意見陳述をした。まさしく、呻吟する憲法が叫んでいるの感があった。そのうちのお一人、渡辺厚子さんの陳述をご紹介する。もうひとかたの陳述も、ご了解を得たうえで、近々紹介することにしたい。

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私は昨年7月27日第11回口頭弁論の際、原告本人の陳述をさせていただきました。今回は、結審に当たり、原告を代表して、障がい児への人権侵害について陳述いたします。

学習指導要領の片隅に国旗国歌条項が入れられて以来、どこの学校でも、保護者や子どもたちのなかにある多様な価値観を、「指導」と云う名で、否定するようなことはしてはならないと、心を砕いてきました。

小平養護学校では、毎年卒業式に向けて、学校として保護者に手紙を出してきました。「日の丸・君が代」に対してどのような態度を選択するかは子ども自身や保護者の権利であると告げてきたのです。そうやって子どもたちの多様性、思想良心の自由の権利、思想良心形成の自由の権利を守ろうとしました。教員が個人的に「日の丸・君が代」をどう思うのかとは別次元の、学校や教員の職務責任であると考えてきたからです。

しかし通達はそれを一変させました。

教職員に起立するよう職務命令を出す。全教職員の起立という圧力で子どもたちを起立させる。通達は私達に、全員の子どもを起立させる道具、加害者になるよう命じました。

通達後、子どもたちは教員起立がもたらす同調圧力によって起立させられています。そればかりか学校は、不起立を表明する子どもに圧力を加えています。

町田特別支援学校では、母親と相談して不起立を決めた生徒に、本当に家庭で話したのか、と校長は家庭への思想調査をしようとしました。生徒は一緒に話し合って不起立を決めた母親が悪いのか、と泣いて訴えました。白鷺特別支援学校など様々な学校で、全員の子どもを起立させるために、お尻を持ち上げたり、手を引っぱったりして起立させています。教員起立に同調できない子どもには、文字通り力づくで起立をさせているのです。

昨年10月、卒業生の人工呼吸器が緊急音を発し職員が対応したところ、跳んで来た管理職はあろうことか起立を命じた、ということを証言いたしました。これに対し都教委は、“結果的には何ごともなかったのですね?”と言われました。私は愕然としました。生命軽視の事実があったことを知りながら「何事もなかったから問題ない」とでも言うのだろうか。たまたま無事だっただけで、「教員の起立を優先させるあまり子どもの生命を軽んじている事態が起きている」ということに、都教委は戦慄しないのだろうか。反省しないのだろうか。我が耳を疑いました。

城北特別支援学校では、身体の痛みに苦しむ子どもを抱きあげて座った教員を、不起立だと校長がとがめました。そして、介助をしないで起立をしろ、さもなくば子どもを式に参加させないという選択肢もある、と言い放っています。多摩特別支援学校の校長は「儀式では体に負担がかかるものだということを、車椅子にのせたままで教えていく必要がある」と発言し、床におろすことを許しませんでした。様々な学校で、子どもが泣き叫んでも斉唱中は連れ出すな、子ども同士が喧嘩をしても斉唱中は放置しろ、トイレ介助のために式場をでるな、子どもにおむつをつけろ、などと言われ、教員は怒り、悔しさ、悲しみに血の涙の出る思いでした。

都教委は、子どもに「決して苦痛を与えていない」と主張します。しかし実際は教員を起立させようとして、子どもの生命や安全や人権を様々に侵害しているのです。

現在の職務命令書には、緊急事態には校長に指示を仰ぎ対処すること、と記されています。校長がとなりの席ならば指示を仰ぐのも可能です。ですが遠くはなれた体育館の端からは、緊急事態の子どもを放置して、指示を仰ぎに走っては行けません。君が代斉唱中に、緊急事態です!と大声で叫ぶこともできません。結局は「指示を仰げず」ネグレクトするか、処分覚悟で命令に違反するか、教員個人が即断を迫られているのです。子どもたちの危機は回避されていません。

起立職務命令は、本来は第1義であるべき急を要する子どもへの関わりを、「管理職に許可をもらって初めて可能になる」第2義的なことにしてしまいました。

起立斉唱命令の本質は、ここにこそ現れていると私は思います。「日の丸・君が代」強制は命をないがしろにする。国家や国家シンボルへの敬愛強制は、個人を支配し、果ては命まで支配する、ということです。

職務命令による教員起立によって、子どもの思想良心の自由は侵害され、のみならず、生命や安全までもが実際に脅かされているという現実をどうか直視して下さい。

10・23通達と同時に出された実施指針は、フロアー会場の使用を禁じ、全員の子どもに壇上に上がるよう命じました。

04年3月光明特別支援学校では、卒業生の保護者全員がこれに反対し、式をボイコットするとして紛糾しました。04年当時、強弱はあるものの、すべての障がい児学校で、壇上しか認めないことに反対の声が上がっています。教職員も保護者も、どのような会場形式にするのかは、学校で決めさせてほしい、と都教委に訴えました。各学校では卒業生の特徴により、壇上にしたりフロアーにしたり、その年々の会場形式を決めてきたからです。殆どの子どもが車椅子を使用する肢体不自由学校ではフロアー会場をずっと選んできました。

しかし都教委は、学校が会場形式を決めることを許さず、壇上を使用しろ、壇上で証書を受け取れ、の一点張りでした。

この13年間、障がい児学校のなかで、ステージの下で渡すことを許されたのはたった1例のみです。これは、祐成八王子東特別支援学校元校長が自分で証言しているように、あまりに大きい寝台タイプの車椅子のためステージ上で向きをかえられなかったからです。子どもへの「配慮」ではなく「不可能」だったからです。

たどたどしくとも自分で電動車椅子を操作して証書をもらいたいと涙ながらに訴える子ども・保護者・教員の懇願を、都教委は一切聞き入れませんでした。これが最後の姿になるかもしれない夭折の危険の中でいきている子どもたちの、痛切な願いを無碍に却下しました。

本来自分の力で動きたいというのは許可を受けることではなく、権利なのではないでしょうか。都教委には保障すべき義務があるのではないでしょうか。

ところが都教委は“バリアーフリーの考えとは、「通常の学校」で行われている壇上儀式と同様の経験ができること”なのだと言うのです。“フロアー式は最初から壇上が無理と決めつけて一律に特別扱いしていること”だと言うのです。

障害のない子どもが「通常」であって、障害のある子どもはその「通常」をめざして奮闘すべき存在だ、とでもいうのでしょうか?子どもの様々な有り様、ニーズに応じたあり方を保障することが「特別扱い」だというのでしょうか?子どもたちは1人1人の個性に応じた支援を受ける権利があります。都教委の特異なバリアーフリー論には根本的に、障がい児が、ありのままの姿でありのままに存在することを認めようとしない差別がある、と感じます。津久井やまゆり園障がい者殺傷事件は、 “ありのままの姿”の尊厳を否定した行き着く先のことであったのではないでしょうか。

私は、子どもへの加害行為を黙認してはならない、加担してはならない。教員として、子どもと教育に誠実でありたい。誠実であろうとしてきたこれまでの自分自身を否定してはならない、とギリギリの思いで命令に従いませんでした。

14名の原告たちは皆、一人ひとり、教員としての自分はどうあるべきか真剣に悩んだ末に不起立に至りました。これは教育と言う職務に忠実であろうとした結果です。決して個人的なわがままではありません。裁判官のみなさまにはこの私達の思いをぜひとも分かっていただきたい。

私達の不起立は、教育の変質、子どもの人権無視、に対する止むに止まれぬ良心的不服従なのだ、ということを強く申し上げます。

私達原告全員の処分を取り消してください。そして私達の処分の取り消しが、子どもたちの権利回復にどうか良い影響を与えるものになりますよう、心から願っています。
(2017年3月16日)

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