本日(5月8日)から沖縄。学生時代の仲間9人で本島3泊4日の旅。8日(火)の昼前に那覇に集合して、11日(金)夕方まで。大型のレンタカーを借りて、4日間県内を廻ろうという企画。案内役は、元朝日の記者で退社後に張り切って沖縄に関わり続けている小村滋君。小凡というペンネームで発信を続けている。
宿泊先は、8日が那覇、9日が名護、そして10日が糸満。小村君の予約してくれた宿が、3100円(素泊まり)、5500円(朝食付き)、4000円(素泊まり)と、いずれもリーズナブルなのがありがたい。なにせみんな70代、年金生活者なのだ。
この仲間は、1963年に大学の教養課程に入学して、第2外国語として中国語を選択した「Eクラス」の同級生。当時中国語選択はごく少数派だった。ドイツ語、フランス語、そして理科ではロシア語などが主流だった時代、変わり者27人が中国語を学んだ。主任の教授が工藤篁というこれまた変わり者。およそ、出世主義や権力欲を小馬鹿にする雰囲気に満ちていた。だからなのか別の理由なのかはよく分からないが、Eクラス在籍者からは、学生運動や政治運動の活動家は輩出しても、立身出世や富貴に恵まれた将来とは無縁と信じられていた。
それでも、どこにも例外はあるものだ。27人の同級生のうち、官僚になったのが2人いる。1人は大蔵官僚になって、理財局長から国税庁長官(!)になった。もっともこの友はクラス会にトンと顔を出さない。もうひとりは警察官僚となって警察の位で警視監になっ手の退官と聞いている。多分よい官僚だったであろうが、いずれも異色。裁判官になったのが1人。順調に出世して仙台高裁長官から最高裁裁判官となった。リベラルな人物だったが、惜しいかな在任中に亡くなった。
以上の3人はEクラスの傍流。主流派は立身出世とは無縁の者ばかり。中には、何を生きる糧としてきたのかよく分からぬ魅力にあふれた人も少なくない。学者(哲学・歴史・教育)が3人。ジャーナリストが幾人か。ごく真っ当に民間企業で勤め上げた人もあるが、意外に教育に携わった人が少ない。弁護士になったのは私一人。
誰もが、何ものでもなかった頃に知り合った、氏素性の底が割れている仲間と一緒の旅。しかも沖縄だ。いかで、楽しまざらんや。
沖縄のどこに行くか何を見るかは、その日の風次第。小村君の気分次第。決まっているのは、少しの時間でも辺野古の座り込みに参加しようということ。大浦湾にボートを出して、辺野古を海から見ようということ。そして、瀬長亀次郎の「不屈館」には必ず行こうということくらい。
沖縄行のレポートは帰京後のこととして、5月8日?11日までは、出発以前に書きためた予定記事とならざるを得ない。本日がその第1回である。本日の訪問先は、沖縄戦の最激戦地である嘉数がメイン。それに、首里に王朝が移る以前の王都であった浦添に足を運ぶ。
(2018年5月8日)
小凡こと小村滋君から、メール添付の【アジぶら通信 第42号】をいただいた。今号はA4・5頁。文字通りのミニコミ紙だが、さすがに素人離れした体裁と内容。自分で撮った現場の写真もなかなかのものだ。
「アジぶら」という紙名は、学生の作る「アジビラ」みたいなものという謙遜でもあろうが、欧米ではなく「アジア」を見据えてものを考えようという主張。そしてアジアのあちこちを「ぶらぶら」見聞しながら型にはまらない記事を発信しようというコンセプトとお見受けしている。
今号のメインタイトルは、「辺野古」座り込みパワー 4・23?28(小凡・記)」である。ご自身の座り込み体験記。
連続6日500人集中行動「辺野古ゲート前連続6日間500人集中行動」の呼びかけに応じて4月24日、沖縄へ行った。那覇空港に着いて早速、沖縄2紙を買った。集中行動は23日が初日だったから、それを報じる24日紙面は、ともに一面に大きな写真入りだった。朝日新聞(大阪)も23日夕刊は1面に写真入りだった。
見よ!民衆の底力
民衆の底力を見せるのが狙いだ。
辺野古に着いたのは午後2時頃だった。これまで辺野古ゲートには何回か来ているが、座り込みは少人数で静かな抗議だった。今回は違った。リーダーのスピーカーは「午前中で670人。2人が逮捕された」と言った。私のように午後に来る者、午前中で帰る人、延べにしたら700 人は越えるだろう。
森友問題を最初に告発した木村・豊中市議が呼びかけ人として挨拶し大きな拍手を浴びた。東京から来た女性3人のバンドも大きな拍手を浴びた。福島にも通っているという。
午後3時過ぎ、「道路を占拠するのは道交法違反です」などと警察のスピーカー。引っこ抜き規制が始まるようだ。
座り込みの両側を機動隊が囲む。座り込みのお尻に着いた。まだ先だろうと思っていたら、私が引き抜かれた。片腕ずつ2人、足を独り。70?を腕で支えるのは結構しんどい。装甲車の列まで来たところで降ろされた。装甲車とフェンスの間に押し込められて息苦しい空間だった。気がつくとトラックの巨大な列が出来ていた。昨23日は座り込みが終わった4時過ぎてトラックがゲートへ入ったという。この日は午後4時半頃からトラックがゲートへ入り始めた。リーダーの指示に従って少し離れたテント下で集会だった。
その後、逮捕された2人を励ますために名護署に集まった。雨が降り出していた。シュプレヒコールを繰り返しながら留置場のある裏に周り、警察署をひと回りした。解散したとき、日は暮れて、雨は強まっていた。
集中行動、最初の 5 日間は目標を上回る600?700人が詰めかけたが、政権側も機動隊員の数を増やして対応。完全阻止とはいかなかった。しかし最終日の4月28 日「屈辱の日」は県民大会として約1500人が参加し、工事車両はなかったという。
共闘? 分裂? オール沖縄
今回の「集中行動」のきっかけは、2月の名護市長選の敗北だ。保守系の立場からオール沖縄の共同代表だった呉屋守将・金秀グループ会長が共同代表を辞任。呉屋氏らは辺野古の賛否を問う県民投票を推進し、オール沖縄とはブリッジ方式で共闘するとした。これに対して、残った革新系のオール沖縄は「辺野古座り込みこそ民衆運動の原点」と今回の集中行動となった。
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ところで、「後書き」の「県民投票と撤回」という次の記事がやや気になる。
▼「県民投票」と「撤回」 オール沖縄は既に別居している。翁長知事支持、辺野古新基地の阻止では一致しているのに、である。問題は「撤回」と「県民投票」の関係らしい。▼本格的埋立てを7月にも始める、と政権側は公言。大浦湾の自然を守るには6月にも「撤回」せよという。一方は、県民投票での民意証明が撤回の最強武器という。森友・加計問題で首相夫妻関与の実態がいくら出てきても、公文書改ざんしてまで「知らぬ存ぜぬ」の政権が相手だから。▼沖縄タイムスは3、4月と両派識者の論考やシンポを掲載した。「県民投票の前でも撤回できる」と言えば、片や「百害あって一利なし」論をトーンダウンしたようだ。両者はかなり近づいたように私には見える。今回の「集中行動」は民衆運動の原点を見せつけた。一方「『辺野古』県民投票の会」が9月投票めざして署名集めに動き始めた。1+1=3 になる共闘になって欲しい。
辺野古の新基地建設反対運動に注目して丹念に報道を追っている者以外には、「大浦湾の自然を守るには6月にも《撤回》が必要」という文意が分かりにくい。この機会に行政行為における《撤回》の意味を確認しておきたい。
問題になっている《撤回》とは、仲井眞弘多・前沖縄県知事が、国に与えた「海面の埋め立て申請に対する『承認』」の《撤回》である。前知事がした「承認」を、後任の翁長知事が《撤回》すべきということなのだ。
辺野古新基地建設のためには、大浦湾を埋め立てねばならない。しかし、公有水面の勝手な埋立てが軽々に認められてよいはずはない。公有水面埋立法は、公有水面の「免許」を知事の権限とし、「国土利用上適正且合理的ナルコト」「埋立ガ環境保全及災害防止ニ付十分配慮セラレタルモノナルコト」その他の諸要件を満たさない限り、「免許してはならない」と定める。
国が埋立工事をする場合については、特に「国ニ於テ埋立ヲ為サムトスルトキハ当該官庁都道府県知事ノ承認ヲ受クヘシ」(同法42条1項)と定める。つまり、国が海面の埋立をしようとする場合でも、県知事の「承認」が必要なのだ。
仲井眞弘多・前沖縄県知事は2013年12月27日付で、辺野古移設に向けて国の埋め立てに「承認」を与えた。翁長知事は、この「承認」に瑕疵があったとして、「承認を取り消し」た。すなわち、「もともとしてはならない違法な承認だったから取り消す」としたのだ。
紆余曲折を経て、国は「翁長知事の承認取消こそ違法」として、県に対して「承認取消を取り消せ」という是正を指示し、これに従わない県に対して行政訴訟(国の是正指示に従わない不作為の違法確認訴訟)を起こした。残念ながら翁長知事の「承認取消」は最高裁まで争って認められないと法的には決着が着けられた。
「承認取消」が通らなければ、これに代わる「承認撤回」で行こう、というのが運動体の中から提案されている。これが《撤回》の意味。
もともとすべきでなかった間違った承認について遡って効力をなくするのが「承認取消」であるのに比して、承認のときの違法はともかく現時点では承認すべきではなくなっているのだから承認の効力をなくするというのが「承認の撤回」。
昨年(17年)3月、翁長知事自身も集会では「撤回を必ずやる」と発言しているが、1年余を経てその実行はない。軽々にはできない。慎重を要すると考えているのだ。常識には、「承認時以後の事情変更」「承認時には知り得なかった違法事由」を特定して立証しなければならない。運動論としてはともかく、「承認取消」で敗訴している以上、法的には明確な根拠が必要なのだ。
迂闊な《撤回》は、国側から「承認撤回の取消を求める」訴訟提起に持ちこたえられない。これに関して、最近明らかになった知見として、埋立予定海域の活断層の存在と地盤の軟弱性の疑いが、撤回の根拠となり得るのではないかと、話題になっている。
自由法曹団沖縄支部の新垣勉弁護士は、ごく最近大要次の報告をしている。
撤回に向けた動き
県は、これまで行政法研究者の助言を得ながら、埋立承認撤回の法的根拠と理由を検討してきた。しかし、なかなか撤回に踏み切る適切な事由を探し出せずに苦しんできた。
ところが、上記活断層の存在及び軟弱地盤の存在は、状況に大きな変化を与えようとしている。これまで、知事を支援してきた撤回問題法的検討会(県内行政法研究者・団員弁護士で構成)は、2月に「県は、検討段階から撤回に向けた具体的準備に入ること」を提言する法的意見書を提出した。
同意見書は、
?活断層の存在が埋立地の安全性を大きく損なうこと(要件事後喪失事由)、
?埋立が辺野古の海の豊かな自然環境を破壊し、新基地建設が県民の生活・生命身体等の安全を損ない、沖縄の経済発展を大きく阻害すること(公益事由)
を主な理由に撤回の準備に入ることを提言している。
県も同様の認識を有しているようであり、今後の進展が期待されている。
今後に注目して見守りたいと思う。
(2018年5月7日)
4月29日。かつての天皇誕生日で、その前は天長節だった。戦争責任を免れた昭和天皇裕仁が誕生したこの日を選んで、「春の叙勲」受賞者が発表されている。その数4151人。かたじけなく、うやうやしく、天皇から格付けられたクンショウをもらってありがたがっているのだ。
この4151人に、芥川龍之介の言葉を贈ろう。
「軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなったものではない。勲章も―わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」
勲章をもらうのは軍人だけでない。なぜ良い齢をした大人が酒にも酔わずに、勲章をもらったことを人に知られて、それでも恥ずかしげなく往来を歩けるのであろうか。
たまたま、本日の東京新聞9面「読書」に、「沖縄 憲法なき戦後」(古関彰一・豊下楢彦共著)の書評が出ている。表題が、「米軍にささげた『捨て石』」というもの。沖縄を「捨て石」として米軍に捧げた人物、それがほかならぬ天皇裕仁である。
この書評が指摘するとおり、「沖縄に基地が集中したのは地政学上の理由ではなく、そこが『無憲法状態』にあったからだ」「沖縄の運命を決める政策決定の〈現場〉に、当の沖縄は不在だった。」「アメリカにフリーハンドを与えることを提案した昭和天皇の『沖縄メッセージ』の役割は大きい」(評者・田仲康博)。まことにそのとおりだ。今日は、この指摘を噛みしめるべき日だろう。
昭和天皇(裕仁)は、自由なき国家の主権者の地位にあったことだけで、責任を問われねばならない立場にある。のみならず、国の内外にこの上ない戦争の惨禍をもたらしたことについての最大の責任者でもある。さらに、敗戦後には何の権限もないはずの身で、沖縄を米国にささげたのだ。なんのために…。保身以外には考えられない。
そんな人物ゆかりの日に、クンショウもらってニコニコなどしておられまいに。
いま、天皇や天皇制を批判する言論に萎縮の空気を感じざるを得ない。アベやその取り巻きにおもねる言論が大手を振って、権力や権威の批判が十分であろうか。「国境なき記者団」が今月25日に発表した「報道の自由度ランキング・18年度版」では日本は67位とされている。昨年の72位よりも5ランク上げた理由は理解し難いが、43位の韓国や45位の米国の後塵を拝しているのは納得せざるを得ない。
言うべきことは言わねばならない。空気を読んで口を閉ざせば、空気はいっそう重くなるばかり。萎縮せず、遠慮せず、躊躇せず、黙らないことが大切だ。「私は黙らない」と宣言し続けねばならない。
昨日の新宿「アルタ」前での若者たちの『私は黙らない』行動。セクハラ批判に声を上げた彼らの行動を頼もしいと思う。持ち寄られたカラフルなプラカードには、「With You」「どんな仕事でもセクハラは加害」「私は黙らない」などの文字。
ここでも「勇気を出して声をあげる」ことが大切なのだ。一人の声が、他の人の声を呼ぶ。多くの人が声を合わせれば、社会の不合理を変える。「萎縮して黙る」ことは、事態をより悪くすることにしかならない。
集会は「いつか生まれる私たちの娘や息子たちが生きる社会のため、ここから絶対に変えていきましょう」との言葉で締めくくられたそうだ。
安倍や麻生が権力を握るこの時代。ときに絶望を感じざるを得ないが、社会の不当に黙ることなく声を上げる人々がいる限り確かな希望は消えない。天皇や天皇制や叙勲についての不合理の指摘や批判の言論についても、黙してはならない。
(2018年4月29日)
全国の そして全世界の友人へ贈る
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
?鉄の暴風?やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 1952年4月28日
サンフランシスコ「平和」条約第3条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まえている 土こそ
辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
人類が 永遠に生存し
生きとし 生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
辺戸岬に屹立するこの「祖国復帰闘争碑」の由来を尋ねて、元朝日記者の小村君は大阪の図書館で『沖縄県祖国復帰闘争史資料編』(沖縄県祖国復帰闘争史編纂委員会編、1982年5月15日発行)に出会う。B5 版1430頁という大冊。編集責任者は復帰協6代目事務局長・仲宗根悟氏、「闘争碑」の文字を書いたその人(2015年7月25日没)である。
この『復帰闘争史 資料編』の1292 ?1326頁に、1950 年代、60 年代、70年代のリーダーを集めた3回の座談会が掲載されている。小村君は、その内容から「復帰闘争の歴史」を追い、足りないところは、新崎盛暉「私の沖縄現代史」(2017年1月刊)などで補っているという。以下に、これを紹介する。
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沖縄戦の?鉄の暴風?がやむと、沖縄の人々は収容所に入れられ、奄美大島以南は米軍統治下に置かれた。収容所から「祖国復帰」の声を上げた人がいる。1946 年夏、米軍から?石持て追われる如く?東京へ脱出した仲吉良光。東京で、マッカーサー司令部、政府、国会、米政府、国連などに精力的に陳情活動を展開した。
促進期成会が署名集め
仲光から「沖縄で復帰運動をしてほしい」との要請を受けた平良辰雄沖縄群島知事に頼まれた兼次佐一(当時社大党書記長)は、「日本復帰促進期成会」を51年4月29日に結成した。社大党と人民党で組織をつくり、地域青年会を中心に「復帰」を求める署名を集めた。沖縄群島の全有権者の72%に達した。
9月4日にサンフランシスコで講和会議が開かれる。日本側吉田全権と米側ダレス特使に、膨大な署名簿をどうやって渡すか。復帰運動に、米軍はパスポートを出さない。郵送に要する費用5万円がない。外国新聞を扱う業者に立て替えてもらって、8 月24、25日にようやく発送した。
9月8日、対日平和条約と日米安保条約は調印された。奄美大島以南は米軍制下のままだった。
52年4月28日、二つの条約は発効した。「屈辱の日」の始まりだが、まだ意識されていない。
53年1月10日、屋良朝苗(教職員会長)を会長に、安座間麿志(沖青連会長)を副会長に「沖縄諸島祖国復帰期成会」が結成された。教職員会、PTA連合会、婦人連合会、青年連合会、市町村長会の 5 団体に担がれる形だ。後に最初で最後の公選主席になり、復帰後の初代知事にもなる屋良は「米国側から教職員は政治活動をするな、といわれた。復帰運動は、政治活動ではなく県民運動だ。政党は加えず、民主団体だけでやると言った。社大党は了承したが、人民党は納得しなかった」。
結成、すぐに全国行脚
屋良は、期成会結成直後の1月17日、総決起大会を開いた。教育復興と戦災校舎復興と復帰問題の3点セットで日本全国に訴える方針を決議。群島政府文教部長時代から蓄積した資料を持ち、1 月20 日?6月23日の半年間、四国を皮切りに九州から北海道まで46 都道府県を行脚した。「本土政府側が国会に2度も呼んでくれて真剣に沖縄の実情を聞いてくれた。文部省も教育資料に取り上げ、全国の小中学校に協力を呼びかけてくれた。国鉄部長は1等パスを発行して、私と喜屋武(真栄)君を『沖縄問題の講師』として遇してくれた。経済的にも助かりました」と屋良。
その頃、沖縄では米民政府が「アメリカに恥をかかせた」と激怒していた。
弾圧が屋良を待ち受けていた。
53年12月25日、奄美群島が返還された。奄美では復帰運動の取り組みが早く、14歳以上の99%から署名を集めたのが原因とされる。与論島と沖縄島の間に、新たな国境27 度線が登場した。
だが沖縄の人たちは、奄美が復帰したのだから、沖縄も近いと考えた。
54年1 月、米アイゼンハウアー大統領が年頭教書で「アメリカは自由世界防衛のため、長期間琉球を保持する」と。これに呼応するようにオグデン民政府副長官が「復帰運動に従事していた人たちに、扇動は無駄であり、これ以上の精力の浪費は止めるよう勧告する」と脅した。
屋良の全国行脚から1年半。戦災校舎復興期成会の本土後援会から「金が集まったから受け取りに来てくれ」と要請があり、パスポートを申請したら峻拒された。抗議に対し「反米運動をするものに協力できない」という。
屋良は、プラムリー民政官と交渉した。民政官は「君はなぜ、我々の教育復興計画の邪魔をするのか。米民政府に協力するのか、今まで通りするのか」とケンカ腰で、即答を迫った。屋良はその場では答えず。翌日、教職員会長も復帰期成会長も辞めると告げた。「米民政府に協力できないが、教員の給与は上げて欲しい」と。
教職員会は再び屋良を支持した。さすがに米民政府も強硬姿勢を反省「校舎を作る、教員待遇の改善、教員の質向上」3項目の約束を発表した。
復帰期成会は自然消滅した。屋良は1956年、米軍基地から「土地を守る会」会長となり、島ぐるみ闘争のリーダーになる。本人は「知らないうちに会長にされた」という。ともあれ、形を変えた復帰闘争だった。
2013年、分断が露出
4月28 日は「屈辱の日」として、今も沖縄2紙は特集する。第二次安倍政権になり初の 2013 年4月28日、「主権回復」祝賀式典を政府主催で開いた。
沖縄では政府式典に抗議する「屈辱の日」県民大会が開かれた。ヤマトと沖縄の分断が露出した年だった。「屈辱の日」はいつから言われ出したのか。私が闘争碑に関心を持った由縁だ。
沖縄県祖国復帰協議会(復帰協)が発足したのは1960 年4月28日である。
4・28 が特別な日になるのは、この年から。61年から復帰協の文書に「屈辱の日」という言葉が登場し、63年4月28日に北緯27度線で沖縄とヤマトの初の海上交歓が行われた(新崎)。復帰協は、60年安保のため急ぎ結成したようだ。安保闘争の中で屈辱感を再確認したのではないか。52年以降を、もう一度見直そう。
52年、2条約が始まり
講和条約と日米安保条約。サンフランシスコ2条約が発効した 1952年4月28日、奄美大島以南の琉球弧と小笠原は、米軍の排他的支配下に置かれた。
?鉄の暴風?と形容された沖縄戦に巻き込まれた沖縄住民は、日米の戦死者20 万人のうち15万人に上っていた。
戦前は皇民化教育の下で必死に日本人になろうと努力したのに捨て石にされたのだ。だから52年の時点で「屈辱の日」としても不思議ではなかった。53年12月、奄美大島から与論島までは日本に返還された。この時、「奄美が返還されたのだから、米国の意向次第で沖縄も返還されると考えた」という。
しかし52年の2条約発効を機に、米軍は強硬に基地拡大を始めた。54年1月、アイゼンハワー米大統領が年頭教書で「アメリカは自由世界防衛のため琉球を長期間保持する」と述べた。
当時の沖縄諸島祖国復帰期成会長の屋良朝苗は米軍当局から激しく弾圧され、教育改革と引き換えに会長を辞めた。復帰運動団体は消えた。
闘う主体、沖縄民衆登場
54年4月、琉球立法院は、一括払い反対など「土地を守る4原則」に基づく「軍用地処理に関する請願」を米側に出した。55年米下院軍事委員会はプライス調査団を沖縄に派遣。56年6月にプライス勧告を出した。だが、その中身に住民は激しく反発、「島ぐるみ闘争」が燃え上がる。これからしばしば沖縄が全国紙の1面トップに登場した。
「闘う主体としての沖縄民衆が歴史上に登場してきたのだ」(新崎)。
56年、ジェット機への切り替えで基地拡張問題が沖縄でも本土でも起きた。
砂川事件や内灘闘争などヤマトの反米基地闘争が激化。安保改定で沖縄に押しつけることに。国際的にはソ連のスターリン批判、ハンガリー動乱、スエズ戦争など。12月末に那覇市長にカメジローこと瀬長亀次郎が那覇市長に当選、米軍と闘争を展開する。これは別の機会に書きたい。
57年岸首相が安保改定へ
57年6月、岸信介首相が訪米し、アイゼンハワー大統領と会談。?安保条約改定?日本の首相として初めて沖縄・小笠原の返還要求?在日地上軍の大幅削減、など共同声明に。58 年9月、藤山・ダレス会談で安保改定に合意した。10月から交渉が始まった。
まず沖縄を安保の範囲に入れるかが問題になった。政府は当初、返還を要求した以上入れざるを得ないとした。
社会党や自民党の一部は「米国の戦争に巻き込まれる」、自民党は「沖縄への核持ち込みが事前協議の対象になる」といずれも反対。結局、60年安保では、沖縄は条約の対象にならなかった。
元々、米軍が独占的に管理していたから、日米政府とも必要なかったのだ。
沖縄解放、支援の声なく
当時の沖縄は、米比、米韓、米台などの相互防衛条約の適用地域だった。
沖縄を共同防衛地域から解放しよう、という動きはヤマトにはなかった。一方、沖縄では「日米安保の対象になれば復帰が早まるのではないか」という論議も広まり、世論も揺れた。さらに改定後に実現した在日地上軍の大幅削減で撤退した部隊はそっくり沖縄に移動した。活動家たちに「安保は重い」とのツブヤキが広がった(新崎)。
このツブヤキが「屈辱の日」を確信させた、と私は思う。
「安保よりも復帰」へ転換
57年「祖国復帰促進県民大会」の主催は沖縄青年連合会だった。59年1月、同タイトルの県民大会は、「安保改定よりもまず復帰」をスローガンに沖縄県原水協(原水爆禁止沖縄県協議会、58年8月結成)が主催した。この大会を機に復帰協が結成されることになる。この頃、官公労や沖教組などが次々誕生し、活動の担い手になった。全軍労も61年復帰協に参加した。
60年スタートしたばかりの復帰協は6月19日、アイゼンハワーを迎える。銃剣をギラギラさせる米兵たちの中を、琉大生3千人に教職員会など加えて1万人近い請願デモだった。大統領は裏口から逃げるように空港へ向かい、東京訪問を止めて韓国に行った。
まだ会長不在で、副会長兼会長代行だった赤嶺武次は「アイク来沖闘争は復帰協に自信と勇気をくれた」と振り返った。
天皇メッセージの衝撃
「屈辱の日」に絡んで、必ず語られるのが「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝える」いわゆる「昭和天皇メッセージ」だ。
1947年9月19日、天皇の御用掛寺崎英成がマッカーサー総司令部のシーボルトに会い、次のように伝えた。
「アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。(略)天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の――25年から50年ないしそれ以上の――貸与(リース)という擬制(フィクション)の上になされるべきである。天皇によれば、この占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろうし、それによって他の諸国、特にソヴェト・ロシアと中国が同様の権利を要求するのを差し止めることになるだろう」。
寺崎の天皇メッセージを聞いたシーボルトは9月20日、これを文書にしてマッカーサーに伝えた。その後ワシントンの米国務省に送った。
このメッセージが出された47年9月は、新憲法が施行され、日本の独立を片面講和か全面講和か、論議の最中だった。膨らむソ連の脅威に、米国は片面講和、さらに沖縄をソ連包囲基地にしようと望む勢力が力を得ていた。
47年5月6日、昭和天皇はマッカーサーを3度目訪問し、対日講和成立後「米国が撤退した場合、誰が日本を守るのか」と訊いたという。
天皇メッセージは、進藤栄一(筑波大名誉教授)が、雑誌『世界』1979年4月号に論文「分割された領土」とし て発表した。米国立公文書館で、解禁された外交機密文 書の中 から1枚の文書を見つけて書いた。従って闘争碑が出来た76年には、天皇メッセージはまだ日本に 知られていない。しかし復帰協闘争史の文献一覧の末尾に掲載されており、座談会の時には知っていたはずだ。
今年3月、平成天皇は11回目の沖縄訪問をする、と報じられている。
「屈辱の日」を癒やせるだろうか。
(3月8日、小凡・記)
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この記事は、彼が発行する「アジぶら通信」(メールマガジン)の38?40号に掲載された記事。このメールマガジン受信ご希望の方は、小村滋君の下記メールアドレスにご連絡を。
laokom777@gmail.com
なお、この5月には、彼を先達にしてかつての同級生9名で、3泊4日の沖縄探訪の旅をする。辺戸岬に必ず行ってみよう。「戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫び」を聞くために。
(2018年3月14日)
石牟礼道子が亡くなって、各紙に追悼記事が満載である。昨日(2月11日)には毎日が、本日(2月12日)は朝日が社説で取り上げた。
毎日の社説は、「石牟礼道子さん死去 問いつづけた真の豊かさ」というもの。
「石牟礼さんの代表作『苦海浄土』は鋭く繊細な文学的感性で水俣病の実相をとらえ、公害がもたらす『人間と共同体の破壊』を告発した。1969年刊行の同書は高度経済成長に浮かれる社会に衝撃を与え、公害行政を進める契機ともなった。」
この解説はそのとおりではあろうが、言葉の足りなさがもどかしい。この社説が「苦海浄土」から引用する下記の一節がすべてを語って余りある。これを引用した社説子に敬意を表したい。
「『苦海浄土』の中で老いた漁師が語る。
『魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい』
天の恵みの魚を要るだけとって日々暮らすような幸福。今は幻想とも思える、そんな充足感をどこかに失ってしまった現代を、石牟礼さんの作品は見つめ続ける。」
この漁師の述懐の中に見えるものは、公害行政への批判とか資本主義経済構造の矛盾の指摘などというものではない。それをそれをはるかに超えた、文明そのものへの批判や人の生き方についての省察である。
朝日は「石牟礼さん 『近代』を問い続けて」というタイトル。
「虐げられた人の声を聞き、記録することが、己の役割と考えた。控えめに、でも患者のかたわらで克明な観察を続けた。
運動を支えるなかで、国を信じて頼りたい気持ちと、その国に裏切られた絶望感とが同居する患者らの心情も、逃さずに文字にした。『東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ』(苦海浄土 第2部)
権力は真相を覆い隠し、民を翻弄(ほんろう)し、都合が悪くなると切り捨てる。そんな構図を、静かな言葉で明らかにした。
…………
「水俣」後、公害対策は進み、企業も環境保全をうたう。だが、効率に走る近代の枠組みは根本において変わっていない。福島の原発事故はその現実を映し出した。石牟礼さんは当時、事故の重大性にふれ、『実験にさらされている、いま日本人は』と語った。明治150年。近代国家の出発が為政者から勇ましく語られる時だからこそ、作家が生涯かけて突きつめた問題の深さと広がりを、改めて考えてみたい。」
こちらは、文明論というよりは国家論となっている。
「東京にゆけば、国の存(あ)るち思うとったが、東京にゃ、国はなかったなあ」は、沖縄の思いでもあろう。「本土に復帰すりゃあ、祖国の存(あ)るち思うとったが、そんなものはなかったなあ」と。
昨日(2月11日)の毎日社会面に、石牟礼道子語録があり、そのなかに、「水俣だって補償金は勝ち取りましたけれども、(魂の対話)という本質はつぶされていますから」という一節が見える。73年の荒畑寒村との対談中の言葉だというから、「水俣だって」とは、「足尾鉱毒事件ばかりではなく…」という意味だろう。しかし、同じことはあらゆる公害闘争でも、原発被害でも、戦後補償問題でも、冤罪事件でも、言えることだろう。被害者が求めているものは、「(魂の対話)」を通じての、人間としての尊厳の回復である。カネの補償で済む問題ではないのだ。
慰安婦問題をめぐる日韓合意も、石牟礼のいう「(魂の対話)という本質はつぶされている」事態の典型だろう。加害者側が、「最終的かつ不可逆的な合意」などとうそぶいている限り、被害者の人間としての尊厳の回復はあり得ない。いま、この問題解決のゴールは遠のくばかりだ。
(2018年2月12日)
天皇の生前退位表明以来、皇室報道が過剰だ。天皇の代替わりをめぐる議論がかまびすしい。最近思うことは、「反天皇制」という視座を据えると、新たにいろんなことが見えてくるということ。
「反天皇制」における「天皇制」とは二重の意味が込められている。ひとつは旧体制における神権天皇制である。神聖にして侵すべからずとされた万世一系の皇統の末裔にして現人神なる天皇という、荒唐無稽な神話に支えられた天皇制。「反天皇制」とは、そのばかばかしさを、ばかばかしいと素直に言うことだ。神秘性も権威も、権威を土台とする統治権の総覧者としての天皇の地位も認めないということ。
もう一つの「天皇制」の意味合いは、象徴として現代に生き残った「天皇制」。この意味の「反天皇制」とは象徴天皇の権威の否定、あるいは「象徴天皇制」の存在感を極小化しようという精神の自立性を指す。反権威主義であり、アンチ・ナショナリズムであり、多数派支配への懐疑でもある。
「反天皇制市民1700」誌の最新号に、知花昌一さんが、「沖縄にとっての『奉安殿』」という記事を寄せている。天皇制という負の遺産の象徴としての「ご真影と教育勅語」についての貴重な断想。戦前を回顧するだけでなく、アベ政権がもたらした9条改憲の危うさにまで触れている。
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沖縄戦24万人の犠牲の上に残された教訓はたった二つです。
一つは、軍隊は住民を守らなかった。守らない。
二つは、教育の恐ろしさ、大切さです。
評論家の大宅荘一氏が1959年に沖縄戦の調査に来て、多くの悲惨な犠牲の原因は天皇及び天皇制に「あまりにも動物的なまでの忠誠を尽くしたこと、家畜化され盲従した結果だ」と動物的忠誠心という造語を創った。その動物的忠誠心を植え付けた装置が教育勅語と天皇・皇后の写真=「御真影」と忠魂碑である。
沖縄では、琉球処分の8年後1887年には他県に先駆けて「御真影」が下賜されている。「他県に先駆けた」ことは、明治政府としては沖縄が天皇に関心がない「化外の民」「まつろわぬ民」であることで、皇民化を急いだのだろう。
教育勅語と「御真影」の多くは校長室に奉安庫を創り納められているようであるが、火事などで焼失すると校長の責任が厳しく問われ、懲戒免職にされた例などがある。奉安殿は下賜された教育勅語と「御真影」を納める建物で、関係者がが大金を集め、当時としては高価で豪華な鉄筋コンクリート造りのものが多かったようである。
戦時中、「御真影」は米軍に蹂躙されないように名護市オオシッタイに集められ山奥の洞窟に秘匿され、戦後焼却されたといわれている。
今、沖縄には四つの奉安殿が残っている。その一つが1935?6年に沖縄市美里尋常小学校跡に建立された写真のものである。数発の弾丸の跡が残っている。
日本本土では戦後GHQが1945年に発令した「神道指令」によって全国の奉安殿や忠魂碑はほぼ解体された。沖縄でも1946年に群島政府知事により解体通達が出され、民政府(軍政府)の指示によって破壊されたが、指示など行きとどかなかった宮古、八重山、本部町に残ったのだろう。沖縄市美里に残っているのは米軍のキャンプ・へーグ基地にあり、物入れに使われていて奉安殿の存在がわからなかったのだろうと言われている。現在では沖縄市の文化財に指定され、修復がなされ、「負の遺産」として平和学習などに活用されている。
何時の時代も権力者・為政者は民衆を畜生にしたいもので、そのためには教育と暴力装置=軍隊を意のままに操るものである。安倍政権もすでに教育基本法を改悪し、自衛隊=軍事を強化し、集団的自衛権行使できる体制をととのえている。それに加え9条改悪を明言している。
最後に、知花さんは、こう訴えている。
「危ない時代が来ています。それに抗するのは、民衆自ら考え、学習することです。そして闘うことです。」
(2018年2月8日)
稲嶺候補敗北という名護市の選挙結果は衝撃だった。「名護ショック」症状からの早期回復が今の課題だ。この結果を選択した名護市民とは、決して異世界の住民ではない。日本国民の一部の住民であり、明らかに私たち自身なのだ。その選択は、どのようにしてなされたのか、納得できる分析がほしい。
巷間言われていることはいくつかある。稲嶺陣営は基地反対を焦点に据え、渡具知陣営は争点をそらして経済活性化を訴えた、その作戦が功を奏したというのだ。なるほど、政権が露骨に一方陣営にはムチを他方にはアメの露骨な誘導を行ったというわけだ。
また、基地反対運動の先が見えず、住民が疲れ果ててこれまでとは別の選択を強いられた結果ともいう。公明党がその存在感を示さんがために全力をあげた結果だとも、さらには、この選挙では初めての18歳・19歳の選挙権行使が影響を与えた…のだとも。
政権が地元に、基地の負担を強いたうえに、こう言っているのだ。
「おとなしく基地の建設を認めろ。そうすれば悪いようにはしない。その見返りは真剣に考えてやろう。」「しかし、言うことを聞かないのなら、徹底して経済的に締め上げるから覚悟しろ。」
こう言われて、「我々にも五分の魂がある」という派と、「魂では喰えない。背に腹は代えられない」という派が真っ二つになった。前2回の選挙は「五分の魂」派が勝ち、今回は「背に腹」派が勝ったということのように見える。
若者の動向、とりわけ初めての18歳選挙導入の効果が、「背に腹」派に有利に働いた模様なのだ。
地元OTV(沖縄テレビ)の出口調査では、年代別の投票先は次のようだったという。若者世代の保守化は著しいというほかない。
10代 稲嶺37% 渡具知63%
20代 稲嶺38% 渡具知62%
30代 稲嶺39% 渡具知61%
40代 稲嶺41% 渡具知59%
50代 稲嶺38% 渡具知62%
60代 稲嶺65% 渡具知35%
70代 稲嶺68% 渡具知32%
80代 稲嶺67% 渡具知33%
90代 稲嶺86% 渡具知14%
RBC(琉球放送)の出口調査では、
10代 稲嶺33.3% 渡具知66.6%
20代 稲嶺44.0% 渡具知56.0%
私にとって衝撃だったのは小泉進次郎の名護高校生に対する語りかけ、いや、その語りかけに対する高校生の反応だ。進次郎演説の無内容のひどさにも驚いたが、この無内容演説に対する高校生のあまりに無邪気な肯定的反応は衝撃というほかない。なるほど、アベ政権の18歳選挙権導入実現には、それだけの読みと狙いがあったのだ。
私には信じがたい。若者が政権与党の幹部にあのような、アイドルに接するような態度をとれるものだろうか。ユーチューブで見聞く限りだが、小泉には若者に地元の展望を語る何ものもない。蕎麦がうまかった。渡具知は名護高の出身だ。娘も同じ高校に通っている。地元で生まれ育った人で地元の振興を。名護湾は美しい。名護とは「なごやか」が語源ではないか。18歳の皆さんの投票で逆転できる…程度のことしか言わない。驚いたが、具体的な地域振興策さえ口にしないのだ。落語家が枕を振って、これからどんな噺が始まるかと思いきや、枕に終始してオシマイ、というあのはぐらかし。
ところが、高校生はおとなしくにこやかにこのつまらぬマクラを聞いている。「和みの名護湾に、基地を作ってよいのか」「オスプレイで、学校の騒音はどうなるのか」「ヘリが校庭に落ちてきたらどうする」などと、ヤジは飛ばない。君らの大半は、基地建設にゴーサインを出したことになる。君たちは、名護の将来を真剣に考えたのか。
名護高校生諸君に聞いてもらいたい。
私は、弁護士になって以来、詐欺ないしは悪徳商法に欺された人々の被害救済訴訟を自分の使命として多数手がけてきた。欺された人々は例外なく、悪徳商法のセールスマンを、「自分に幸運をもたらす親切なよい人」と思い込むのだ。笑顔で、礼儀正しくて、口当たりの良い言葉を話して、こうすれば利益が確実と思い込ませるのが、悪徳商法のセールスマンなのだ。
だから、甘い言葉には、欺されぬよう気をつけなければならない。欺されぬためには、まずは徹底して疑問をぶつけることだ。それから、一セールスマンの意見を鵜呑みにせず、ライバル関係にある他の意見にも耳を傾けて、対比をしなければならない。さらに、自分一人で判断せず、周囲の人々と意見交換も大切だ。
ベネフィットだけを誇張してリスクを隠すセールストークが悪徳商法の基本だ。効能だけを語って、決して副作用を語らないサプリメントの売り方も分かり易い。選挙も同じだ。私の耳には、小泉進次郎の名護高校生諸君に対する選挙応援演説は、ソフトでスマイルいっぱいの悪徳商法トークに聞こえる。
キミたちはなめられているのだ。こんな程度で、ごまかすことのできる相手だと。キミたちを一人前の自立した有権者だと考えていたら、こんな程度の話ができるはずはない。何よりも、建設を許せば耐用年数200年という恒久基地の将来像について一言あってしかるべきではないか。もっと具体的に、今の市政に足りないもの、どうしたらそれを補うことができるのか、どうして稲嶺にはできず渡具知ならできるのか、真剣な訴えがあって当然だろう。
小泉進次郎には、まず問い質すべきだった。「どうして、選挙演説で基地のことをお話ししないの」「辺野古基地の建設は我慢しなければならないの」「基地ができたら、今普天間の学校や保育園で起こっていることが今度は名護で起こることにならないの」「オスプレイはどのくらいうるさいの」「どうして、渡具知さんが勝った場合だけ経済振興になるのですか。稲嶺さんでは応援しないと言うことですか」「あなたは私たちに、具体的に何をお約束されるのですか」「そのお約束は、稲嶺さんが市長ではできないのでしょうか」「稲嶺さんの政策のどこに間違いがあるということでしょうか」「結局あなたは、名護のためにはではなく、基地建設推進のために渡具知さんを応援しているのでではありませんか」
これに小泉がこう答えれば、はじめて議論の出発点になる。ここから論争が始まる。
「基地に反対して、平和や環境や自治を守ろうというのは単なる理想だ。それでは君たちの地元の豊かな暮らしはできないのが現実だ。海は壊されて基地ができ、治安は悪化し、騒音は酷くオスプレイの墜落の心配もあるかもしれない。それでも、アベ政権は君たちに経済の振興策を提供することができる。基地反対派には支援はしない。君たちは決断すべきなのだ。基地に反対を貫くことで理想や理念を守ろうというのか、それとも基地反対では喰えない現実を覚って賛成にまわるのか。」
なお、質問される前からこう言っておけば、詐欺商法の汚名を甘受せずともよい。これは詐欺商法とは別種の脅迫商法ないしは恫喝商法なのだから。
名護高校の諸君に、いや全県・全国の若者に、心からのお願いをしたい。これからの人生には何回もの選挙があるだろう。悪徳商法に欺されてはならないという気構えで、とくと考えて投票されよ。少なくとも、選挙運動のセールストークを鵜呑みにするようなことがあってはならない。甘い言葉には毒があるのだ。疑問点は徹底して問い質すこと。そして、相手陣営の見解もよく聞いて比較してみること。最低限これだけのことはしなければならない。これからの選挙の結果には、若者の命がかかってくることにもなりかねないのだから。
(2018年2月5日)
学生時代の同級生で記者になった友人が多い。小村滋君は朝日の記者になった。定年になってから、沖縄浸りだ。月一回のペースで、極ミニコミ紙「アジぶら通信」を送信してくれている。これが、メールマガジンというものなのだろう。カラー写真満載の、A4・6ページ。本日がその38号の配信。トップページに、辺戸岬に屹立する「祖国復帰闘争碑」の写真、碑高5メートルもの偉容だそうだ。これに、碑文が掲載されている。その碑文には、「全国の そして全世界の友人へ贈る」との標題。
吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなし遂げた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
?鉄の暴風?やみ平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 1952年4月28日
サンフランシスコ「平和」条約第3条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬された
しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
27度線を断つ小舟は船出し
舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まえている 土こそ
辺戸区民の真心によって成る冲天の大焚火の大地なのだ
1972年5月15日 おきなわの祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
ましてや勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確め合い決意を新たにし合うためにこそあり
人類が 永遠に生存し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある
(以上は「全国の、そして全世界の友人へ贈る」の全文)
私は1966年末から、67年初頭にかけて復帰前の沖縄を見ている。貧乏学生の私に旅などできる余裕はなかった。私が在籍していた大学と朝日と沖縄の地元紙とが共同でした大規模な社会調査のアルバイト要員としての訪沖だった。仕事が終わったあと、一人で沖縄を回った。そのとき、辺戸岬にも行ってみた。
山原の地はどこも寂しかった。かやうちパンダ、万座毛、今帰仁城趾、辺戸岬…、どこも印象に深い。27度線を見はるかす辺戸岬は、大晦日には本土との海上交流の場として有名だったが、当時何のモニュメントもなかった。
本土復帰後、辺戸岬まで足を運んだことはない。復帰後4年目に建立されたというこの威容を誇る「闘争碑」を見たことはない。碑文も知らなかった。
この碑文はありきたりのものではない。
「おきなわの祖国復帰は実現した しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された」との明記は、本土の我々をも、打たずにはおかない。まことにそのとおりだ。いまだにそのとおりなのだ。
本土は沖縄戦で現地を捨て石にした。さらに、戦後は天皇(裕仁)によって、沖縄は米軍に売り渡され、独立後20年も占領を続けられた。そして、苦難の末の本土復帰は、核付き基地付きの返還となった。
県民の多くが願った本土復帰とは、日本国憲法の平和と国民主権が本土と同じく保障される状態の実現であったはず。その願いは今だはるか遠くにある。
「この碑は 復帰の喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない」という文章に胸が痛い。が、「闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確め合い決意を新たにし合うために」という精神を学びたいものと思う。
「日米国家権力の恣意に対する県民の平和への願いを実現すべき闘争」は、いまだに続いている。小村君は、今朝(2月4日)「今日は名護市長選です」「朗報を待とう」とだけ通信をくれた。開票結果は…まだ分からない。
(2018年2月4日)
私が切られた尻尾だ。尻尾だって身体の一部じゃないか。よく言うだろう、「小指の痛みも全身の痛み」って。小指だけじゃない、尻尾だっておんなじだ。尻尾だって生きている。尻尾にだって意気地もあれば、いかほどかの魂もある。切られて、へっちゃらではないんだよ。でも、切られた尻尾と切られぬ小指。どうしてこんなにちがうんだろう。やっぱり、無念だ。しばらくは、切られた姿でのたうちまわっている以外にない。
切られた尻尾にも、名前はちゃんとある。俄然時の人になった、話題の松本文明。それが私の名だ。
3日前の1月25日のことだ。日本共産党の志位和夫が衆院本会議で代表質問をした。キョーサントーだぜ。アベシンゾーは、ヤジで「ニッキョーソはどうした。ニッキョーソ」って騒いでいたが、キョーサントーの方が敵としてはるかに手強いだろう。だから私は、アベシンゾーを手本に、隙あらばなんか言ってやろうと待ち構えていた。志位は、演説で沖縄の問題に触れた。沖縄は私が副大臣として関わるテーマだから、聞き耳を立てた。
演説のなかで志位は、沖縄で起きた米軍普天間飛行場所属ヘリの事故を巡る問題に触れた。保育園や小学校の保護者の不安の声を紹介して、普天間基地の存在と辺野古新基地建設を攻撃し、沖縄からの海兵隊撤退を求めた。
そこで、私は議場からヤジを飛ばした。「それで何人死んだんだ」と。一人も死んではいないだろう。機体が不時着したり、ヘリのドアが落ちたくらい、たいしたことではないじゃないか。たとえ事故が、保育園や小学校で起きたとしても、だ。キョーサントーは何を大袈裟なことを言っているんだ。私は一人の死者も出ていないという真実を語っただけのこと。このヤジのどこが問題なんだ。国会は言論の府だったはずじゃないか。この国の国会には言論の自由はないのか。
なんてったって、国土の防衛こそが最重要事だろう。安全保障は何にも勝る重大政策だ。中国に攻められてみろ。北朝鮮からのミサイルが飛んできたことを思え。ヘリの不時着やドアが校庭に落ちたくらいで騒いでいることが、なんと平和惚けの議論なのかよく分かるだろう。
私は、自分のヤジが取り立てて問題のあることではないと思っていたのだが、本会議終了後赤旗の記者から取材を受けた。やましいところはないから、ヤジを飛ばしたのが自分であることは認めた。もっとも、「死者が出なければ良いという考えか」という質問には、私もバカではないから「そんなことは全然ない」と返答しておいた。
ところが、この記事が翌26日の赤旗に出た。産経でも読売でもない。キョーサントーの機関紙だ。赤旗がなんと言おうと官邸も党も動じることはなかろうと思っていた。なんたって、官邸も党も、ホンネのところでは、私の発言とまったく同じ考えなんだから。上の方では言いにくいことをよく言ってくれたと褒められても良さそうなところ。だから、記者たちには、おわびも発言撤回も辞任もないと、強気に出て否定しておいた。官邸も党も私を守ってくれるはず、そう思っていた。
ところが、当てが外れた。私の読みが浅かった。官邸も党も、私に、即刻沖縄担当の内閣府副大臣を辞任しろというのだ。そりゃなかろうとは思ったが、どうにもしょうがない。ふてくされながらも辞表を提出し、メデイアからは「事実上の更迭」と書かれた。
タイミングが悪いと説得された。名護市長選挙の告示日が目前だ。2月4日に投開票を迎えるこの選挙戦への影響を懸念せざるを得ないというのだ。で、1月26日のうちに、アベシンゾーより事実上副大臣の更迭だ。要するに、トカゲの尻尾として切られたのだ。しょうがないけど、やっぱり釈然としない。
記者会見では神妙なところを見せた。「ただいま、総理にお会いをいたしまして、『大変誤解を招く発言でご迷惑をかけています』『ついては、辞表を持って参りましたので、よろしくお取りはからいをお願いします』ということです。辞表を提出をして参りました」
(首相からは)「いや、『特に今、この国が大変な時期なので、緊張感を持って対応してもらわないと、困ります』という注意を受けました」
「いずれにしても誤解を招いて、重要な予算審議、国会審議が始まる中で、沖縄県民並びに国民の皆さんに迷惑をかけたと思って直ちに今辞表を出してきたということであります」
「いろんなメディアの方から、大きく問い合わせ、もろもろありまして。なるほど、これほど大きな誤解を受けているんだったら、もうその、なんというんでしょう。私がいろいろ今しゃべっていることはすべて釈明にしか聞こえない。弁解にしか聞こえない。これじゃやっぱりだめだ、と。ここはおわびをする方がいい、こういう思いを持ちました」
自分でも何を言ってるんだかよくは分からない。「誤解」ってなんだ、誰にお詫びしているんだって、聞かれてまともに答えられるわけがない。面白くないのは、尻尾を切った頭の方が涼しい顔をして、イケシャシャアとしていることだ。同じ考えのはずなのに、すべてを尻尾のせいにして切り捨てたんだ。アベシンゾーというトカゲは、一体何本の尻尾を持っているんだろう。切る尻尾と残す尻尾。どう区別しているのか、どうにも腑に落ちない。
アベが口にした、「緊張感を持って対応」って、ホンネを漏らさぬよう緊張しろっていうことなんだ。うっかりホンネを言ってしまうと、せっかく欺して手にしていた票が逃げる、腹ふくるるを我慢して本当に思っていることをしゃべっちゃダメ、ということなんだな。
しかしだ、私よりずっと罪の重かろう閣僚連が、切られぬ尻尾として数多くいるのに、どうして私だけが切られるのか。腑に落ちない。安倍昭恵は切られぬ尻尾として残され、籠池夫妻が何ゆえ切られた尻尾になったんだ。加計孝太郎も相当に腐敗した危ない尻尾だ。それでも、どうして切られていないのだ。
だいたい、私は運が悪いのだ。2003年の第43回総選挙では、私の選挙運動員が大学生に現金12万円を渡したとして逮捕された。たったの12万円で逮捕だ。いつかの都知事選でのどこかの陣営でもあったことだが、あっちは見逃されているではないか。
いよいよ本日、名護市長戦が始まった。何が争われているのか。本当は、こうだ。自・公・維の側は、保育園や学校の安全などより、国防が第一なのだ。米日の軍事基地の効率的な運用のためには、騒音問題も、安全や治安問題も小さな問題だろう。「一人の死者も出してはいないんだから、取るに足りないのだ」がホンネだ。だけど、それを言っちゃあ勝てないから、衣の下の鎧を隠しながらの選挙戦。
その点、オール沖縄派は、辺野古新基地反対のホンネを語っての選挙だから、やりやすかろう。私は、結局、オール沖縄派に塩を送ったことになるだろう。だから、私は、官邸と党に、お詫びをしたんだ。決して沖縄県民にお詫びをしたわけではない。むしろ、切られた尻尾として、何が正しい選択かを県民にお伝えしたのだから、御礼を言われてもいいんじゃないかな。
(2018年1月28日)
さてもめでたや 新玉の春は心も若がえて 四方の山辺の花盛り…(「四季口説」(しちくどぅち))。昨日(1月21日)投開票の南城市長選で「オール沖縄派」候補が、現職の4戦を阻止して初当選した。今年を占う初春の吉事である。
沖縄の今年は、「選挙イヤー」だという。
1月21日投開票の南城市長選を皮切りに、ことしの沖縄は県知事選と17市町村での首長選、加えて30市町村で議員選挙、3つの補欠選挙と計51の選挙がある。その数もさることながら、中央政界の関心が高く、沖縄の将来を占う選挙が控えているのも特徴だ。「辺野古新基地建設の是非」を争う県知事選(11月想定)と、その前哨戦に位置づけられる名護市長選(2月4日投開票)だ(「沖縄タイムス」)。
その初戦での「オール沖縄派」の勝利だから、まずはめでたい。琉球新報の長い見出しは以下のとおり。
「南城市長選 瑞慶覧氏が初当選 古謝氏に65票差、市政交代 オール沖縄に追い風」
沖縄タイムスはこうだ。
「南城市長選:知事が支援する新人当選 瑞慶覧長敏氏、65票差で現職破る」
いずれも接戦・僅差を見出しにしているが、12年間継続した保守市政の岩盤を破って、現職四選を阻止したことの意味は大きい。
▽南城市長選開票結果
?当11429 瑞慶覧長敏 無新
=社民・共産・社大・自由・民進推薦
? 11364 古謝 景春 無現
=自民・公明・維新推薦
なお、当日有権者数は3万4328人。投票総数は2万2973。有効投票数は2万2793、無効票は180。
何よりも、この選挙は「オール沖縄」の今後の消長を占う選挙だった。
琉球新報は、「2月の名護市長選、秋の県知事選の前哨戦とも位置付けられた選挙で、瑞慶覧氏を支援した『オール沖縄』勢力が弾みをつけた格好だ。」とし、
毎日は、「米軍機の相次ぐトラブルによる県民の不満の高まりが古謝氏への逆風になった面もある。安倍政権は今年、現職が翁長氏系の名護、那覇両市長選に勝利して県内全11市を政権寄りの首長で固め、翁長氏が掲げる『オール沖縄』を崩そうと狙っていただけに、南城市での敗北は痛手だ。」と評した。
ところで、全国の人々に、南城市の存在はどれほど認識されているだろうか。恥ずかしながら、私も「ナンジョウシ? どこ?」。
2006年、佐敷町・玉城村・知念村・大里村の合併で誕生した市だという。佐敷や玉城知念ならイメージが湧くのだが、どうも「南城」では。琉球王国を建国した尚巴志王の出身地でもあり、保守県政築いた西銘順治沖縄県知事(故人)は、南城名誉市民とのこと。西銘の男子二人は、自民党の国会議員となっている。本来保守の強いところなのだ。
学生時代に復帰前の沖縄に旅して、久高島で12年に一度午年の旧正月に行われる祭イザイホーのあることを知って、できれば見学をと思った。佐敷の馬天港から久高島に行く船便まで調べたが、わずかな宿代と交通費を捻出できず諦めたことがある。この馬天も久高も今は南城市だ。新市発足以来12年間の保守市政が、ここで「オール沖縄」派の市政に転換した意味は大きい。
次はいよいよ、名護市長選挙(1月28日告示、2月4日投開票)。「社民・共産・社大・自由・民進」のオール沖縄と、「自民・公明・維新」のオール保守の対峙という構図は南城市長選と同じ。ただ、オール沖縄側が現職で、オール保守側が新人候補と、攻守所が変わっている。
同市長選は、三選を目指す現職の稲嶺進氏(72)=社民、共産、社大、自由、民進推薦=と、元市議で新人の渡具知武豊氏(56)=自民、公明、維新推薦=の一騎打ちとなる見通しで、両陣営は選挙戦本番さながらの活動を繰り広げている。
下記は、本番さながらの選挙戦を闘っている現地からの檄。
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名護市民と沖縄県民の不屈の闘いの勝利を目指して。
名護市長選挙も告示まであとわずか。既に最終盤の模様です。
安倍反動内閣は2014年7月1日、憲法違反の集団的自衛権の行使容認と辺野古新基地建設の作業開始を同時に閣議決定しました。作業開始から3年半が経った今日でも建設工事は遅々として進まず、完成の目処が立たないのが現状です。それは県民の不屈の闘いによって拒否されているからです。こうしたなかで名護市長選挙が闘われています。
本来ならば当然に、辺野古新基地建設の是非が選挙戦最大の争点となるはずです。しかし、自公陣営とその候補者はデマと争点そらしに徹して、死にものぐるいで運動を強めています。
名護市民はSACO合意以降の20年間、日米両政府の悪政と闘ってきました。2010年1月には稲嶺市政を打ち立てて、市民が主人公の市政で市民のくらしと命を守る政治を貫いてきました。一方、市政の問題でも自公陣営とその候補者は市民の立場に立つことができず、対案すら提起できないためデマ宣伝に徹しているのです。
我々は市政の継続をめざして、この間全国の仲間のみなさんと団結して頑張ってきました。我々の闘いがオール沖縄陣営の団結と前進に大きく寄与しています。しかし、闘いを勝ち抜くためには最終の最終までの奮闘が必要です。共に頑張りましょう!
(2018年1月22日)