6月8日の当ブログで、「経団連の政治献金あっせん再開は国民本位の政策決定をゆがめる」ことを書いた。https://article9.jp/wordpress/?p=2784
ここでは、いくつかの川柳を引用した。
役人の子はにぎにぎをよく覚え
役人の骨っぽいのは猪牙にのせ
言う事が変わった カネが動いたな
金(にぎにぎ)と接待(猪牙)、これが、富者の官僚・政治家懐柔の常套手段であった。現代の「政治献金」は「にぎにぎ・猪牙」と本質において変わるところはない。今も昔も、「にぎにぎし、猪牙に乗せられた」政治家・官僚は、「にこにこ」し「ぺこぺこ」する。しばらくして、庶民は「言う事が変わった カネが動いたな」と嘆ずることになる。
上記ブログで引用した各社の社説は、経団連の政治献金あっせん再開が「『政策をカネで買うのか』という国民からの批判を招く」ことではほぼ一致を見ている。
「だから、辞めろ」というのが、朝日・毎日・東京の立場。
「だから、批判をかわしてうまくやれ」というのが日経・産経・読売の姿勢。
あれから2か月余。改めて、政治家への金の拠出とは何かを考えて見たい。きっかけは、DHC吉田が自身を指して「日本国をより良くしようとして浄財を投じる人物がこの世にいる」と言っていることだ。吉田が渡辺に交付した8億円は、私利私欲を離れて、官僚制度の打破・規制緩和という、「日本を良くするための浄財」だったというのだ。経団連の言い分とよく似ている。これがはたして世間に通用するものであろうか。
経団連はこう言っている。
「経団連はかねてより、民主政治を適切に維持していくためには相応のコストが不可欠であり、企業の政治寄附は、企業の社会貢献の一環として重要性を有するとの見解を示してきた。」
さすがに、DHCよりは、多少なりとももっともらしい。しかし、これは、明らかにデマでしかない。
「民主政治のコストを企業が負担」してはならない。企業が自らの利益のために政治資金を拠出することは実質において賄賂として許されない。だからといって企業利益と無関係に資金の支出をすれば、株主の利益に反する背任となる。どちらにしても、許されない。
問題は、もっと根源にある。政治とは何か。その本質は利害相反する各グループ間の対立の調整にある。利益配分の調整と言ってもよい。
この世の中は、非和解的な対立で満ち満ちている。企業と労働者、持てる者と持たざる者、大企業と中小企業、事業者と消費者、賃貸人と賃借人、都市と農村、中央と地方、世代間、地域間、男女間、産業間の利益主張が矛盾し衝突している。その衝突はどこかで妥協し折り合いをつけなければならない。それぞれの主張と主張の間の妥協の調整が政治である。
政党・政派とは、特定のグループの立場に立つことを標榜し、誰かの利益のために働く組織のことだ。政治献金とは、そのどこかのグループの活動を、金銭をもってサポートすることにほかならない。
すべての人の幸せのための政治などということは空論である。現実には、それぞれのグループの利益のための綱引きが政治であり、政治献金も「日本国全体」や「国民全員」のためのものではあり得ない。相争うグループのどちらかへの肩入れ以外のなにものでもない。
経団連は、財界を代表して、企業活動の際限のない自由を求める立場に立つ。安倍政権の新自由主義政策を後退させてはならないと露骨に表明している。安倍政権とチームを組んで、労働者や消費者、農村や漁民、あるいは福祉を切り捨て、企業利益をはかろうというのだ。具体的には、原発を再稼動し、武器を輸出し、法人税を減税し、TPPを推進し、労働規制の徹底した緩和をねらう。経団連のいう「政治と経済の二人三脚」とは、大企業が安倍政権のスポンサーたらんとすることだ。となれば、自ずと政権はスポンサーの顔色を窺い、そのご意向を踏まえた政策を採用することにならざるを得ない。こうして、「言う事が変わった カネが動いたな」という、分かり易い事態となる。
民主主義とは、言論の応酬によって民意を形成すべきことを自明の前提とし、最大多数の最大幸福実現を目指す手続である。この民主政治の過程を歪める最大のものは、カネの力である。企業献金も少数金持ちの多額の政治資金拠出も、明らかに民主主義政治過程を歪めるものとして「悪」である。
DHC吉田の言う「官僚的規制撤廃、規制緩和を求めての政治資金拠出」とは、弱者保護のための規制を切り捨て、企業利益擁護に奉仕する役割を担うものでしかない。とりわけ、DHCが関心をもつ厚生・労働行政における規制とは、典型的な社会的規制である。消費者の健康を守るための製品の安全性の確保のための規制であり、労働者の人間らしい生活を守るための必要不可欠な労働基準規制である。その規制撤廃ないしは緩和のための政治資金拠出は、消費者や労働者にとっての「恐るべきカネ」「憎むべきカネ」にほかならない。これを「浄財」などとは噴飯ものである。
「DHCスラップ訴訟」とは、「政治的言論の自由」に対する威嚇と萎縮効果を目的の提訴であり、これに対する応訴は「言論の自由」擁護の闘いである。さらに具体的には、「政治をカネで買おうとする者への批判の自由」をめぐっての攻防がなされている。
この訴訟を通じて、「政治とカネ」の問題の本質を掘り下げ、裁判所に理解を得たいと考えている。同時に、DHC・吉田のような、カネの力で政治に介入しようとする思想や行動を徹底して糾弾しなければならない。
「DHCスラップ訴訟」第2回口頭弁論期日は、明後日(9月17日(水))の午前10時半。東京地裁705号法廷。可能な方には、是非傍聴をお願いしたい。
法廷での手続終了後の午前11時から、東京弁護士会(5階)の507号室で、弁護団会議兼報告集会が行われる。集会では、佳境に入ってきた訴訟進行の現段階ややせめぎ合いの内容について、弁護団からの報告がなされる。加えて、現実にスラップを経験した被害者からの生々しい報告もある。是非多くの方のご参加をお願いしたい。そして、政治的言論の自由擁護の運動にご参加いただきたい。
(2014年9月15日)
「DHCスラップ訴訟」第2回口頭弁論期日が近づいてきた。
9月17日(水)の午前10時半。東京地裁705号法廷。
表現の自由に関わる今日的なテーマの重要訴訟。可能な方には、是非傍聴をお願いしたい。
法廷での手続終了後の午前11時から、東京弁護士会(5階)の507号室で、弁護団会議兼報告集会が行われる。集会では、佳境に入ってきた訴訟進行の現段階ややせめぎ合いの内容について、弁護団からの報告がなされるだけでなく、現実にスラップを経験した被害者からの生々しい報告もある。前回(8月20日)の法廷も、事後の報告集会も、たいへん有意義で充実したものだった。今回も、是非多くの方のご参加をお願いしたい。そして、言論の自由という憲法原則を擁護し実現する運動にご参加いただきたい。
本件についてはその内容の重要性にかかわらず、マスメディアが関心を示すことなく報道はおよそ皆無と言って過言でない状態。その理由を解しがたいが、それもまた良し。ブログというツールをもってどれだけのことができるか、挑戦を続けたい。
ところで、私は自分の事件を「DHCスラップ訴訟」と勝手に名付けて、「DHCが起こしたスラップ訴訟」といえば私に対するものと僭称しているが、実は同様の事件は数多くある。
思い出されるのは、一昔前、貸金業界トップの地位にあった武富士が、自社への批判の言論を嫌って、メディアやフリージャーナリスト、あるいは消費者問題に携わる弁護士を被告にスラップ訴訟を連発したこと。一部は自ら取り下げ、あとはことごとく敗訴した。
武富士のスラップ濫発は、主観的には貸金業界への世論の指弾を不当として、巻き返しを意図したものであったろう。そして、自社への批判には損害賠償請求提訴をもって対抗すると宣告することによって、批判を予防的に牽制したのであろう。しかし、スラップの提起自体を、その異常な批判拒否体質の表れとして批判されるに至った。さらに、自ら提起した訴訟が連続して敗訴したことによるダメージは、貸金業界と武富士への世論の指弾をいっそう強める惨めな結果をもたらした。民事訴訟係属中に、武富士の代表者が刑事事件で立件されるというハプニングまであった。
「昔、武富士。今、DHC」である。DHCが、武富士と同じ轍を踏もうとしていると指摘せざるを得ない。みんなの党渡辺喜美代表(当時)への8億円政治資金拠出事件発覚後に限っても、DHCが提起したスラップ訴訟は、これまで判明している限りで下記の10件がある。いずれも、名誉毀損や人格権侵害として、本来問題となるような言論ではない。こんな程度の言論が違法とされたのでは、我が国の言論の自由は窒息死してしまう。
(1)提訴日 2014年4月14日 被告 ジャーナリスト
請求金額 6000万円
訴えられた記事の媒体はウェブサイト
(2) 提訴日 2014年4月16日 被告 経済評論家
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体はインターネット上のツィッター
(3) 提訴日 2014年4月16日 被告 弁護士(私)
請求金額 当初2000万円 後に6000万円に増額
訴えられた記事の媒体はブログ。
(4) 提訴日 2014年4月16日 被告 業界紙新聞社
請求金額 当初2000万円 後に1億円に増額
訴えられた記事の媒体はウェブサイトと業界紙
(5) 提訴日 2014年4月16日 被告 個人
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体はブログ
(6) 提訴日 2014年4月25日 被告 出版社
請求金額 2億円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(7) 提訴日 2014年5月8日 被告 出版社
請求金額 6000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(8) 提訴日 2014年6月16日 被告 出版社
請求金額 2億円
訴えられた記事の媒体は雑誌
(9) 提訴日 2014年6月16日 被告 ジャーナリスト
請求金額 2000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
(10)提訴日 2014年6月16日 被告 ジャーナリスト
請求金額 4000万円
訴えられた記事の媒体は雑誌(寄稿記事)
訴えられた側の問題とされている各記事の内容は大同小異。「見返りへの期待なしに大金を出すことは常識では考えられない」「8億円の政治資金拠出ないし貸付は、厚生労働行政の規制緩和を期待してのことだろう」との指摘を中心としたもの。中には、「渡辺氏の亡父(渡辺美智雄氏)が厚生大臣であった」「DHCはこれまで規制官庁から数々の行政指導を受けてきた」ことに関連しているという具体的な言及もあるが、誰もが考える常識的な推論を述べているに過ぎない。政治的な言論の範疇にない論及も散見されるが、目くじら立てるほどのものではない。
たった一つ、原告が各訴状の請求原因において、名誉毀損記事と主張した中に、もしかしたらこれは問題となるかも知れないという具体的な事実の指摘がある。
「実は、国税当局は吉田氏の派手なカネの使いぶりにかねた(ママ)から目を付けていた。今回、吉田氏が渡辺氏との1件を暴露したのも、国税当局から警告的なサジェッションを受け、『徳田虎雄氏のようになりたくない』と判断したからとも言われている(DHC関係者)」との記事。
これは、上記(7)事件の訴状請求原因の一節。全10件の訴訟の中で、この部分が唯一の具体性をもった事実摘示と言って差し支えない。ところが、この事件は、8月18日にあっさりと訴えの全部が取り下げられている。この記事の掲載が、公共の利害に関する事実に係るもので、かつ、その主たる目的が公益をはかることにあったことには疑問の余地がない。問題は、その記事の内容の真実性や、真実と信じるについての相当性の有無であるところ、このことについての攻撃防御は未決着のまま、DHC側からの幕引きとなった。
この訴訟が提訴後僅か2か月で取り下げに至った理由は分からない。取り下げ書には、「被告代表者が、知人を通じて原告らに謝罪をしたので、頭書事件を取り下げる」とだけの漠然たる記載があるだけ。その3日後の日付で被告側から、取り下げ同意書が提出されている。これでは、なにゆえの提訴で、なにゆえの取り下げなのか、さっぱり分からない。
確かなことは、原被告双方が相互に譲歩して和解による解決に至ったのではないこと。飽くまで、一方的な原告側からの訴えの取り下げによる訴訟の終了なのだ。被告からの謝罪の意思は、記録上まったく表れていない。前記のとおり、唐突な取り下げ書に原告が一方的に書き込んだ漠然たる記載があるだけ。なによりも、原告は「名誉の回復には、謝罪広告が不可欠である」との主張をしておきながら、謝罪広告なしの事件終了である。6000万円もの損害賠償請求の本気度を疑わざるを得ない。
問題は、「政治とカネ」にまつわる批判の言論を誰もが堂々と自由に述べることができるのか、それとも萎縮を余儀なくされるのか、という重大事である。あらゆる情報を持ち寄り、意見を交換して、不当な言論萎縮効果を狙ってのスラップ訴訟を許さぬ世論を作り育てあげなければならない。「DHCスラップ訴訟」の被告とその弁護団は、まさしくその核になろうとしている。是非、法廷と集会に足を運んでいただき、議論にもご参加いただきたい。
(2014年9月14日)
「DHCスラップ訴訟」進行のご報告である。
次回の口頭弁論が、9月17日(水)の午前10時半。東京地裁705号法廷で開かれる。これが実質的に第2回目の法廷。法廷終了後の11時から東京弁護士会(5階)の507号室で、弁護団会議兼報告集会が行われる。集会では、弁護団からの報告だけでなく、現実にスラップを経験した被害者からの生々しい報告もある。前回の法廷も、事後の集会も充実したものだった。今回も、是非多くの方のご参加をお願いしたい。
さて、現在の進行状況。そんなに難しい裁判をしているわけではない。争点は少ない。裁判所の判断が困難な事件ではなく、判決まで長期を要する裁判でもなさそう。
では、いったい何が問題となっているのか。
原告ら(DHCとその代表者吉田嘉明)は、「被告(澤藤)がブログで自分たちの名誉を毀損した」と主張して提訴した。その精神的損害の金額を最初は2000万円だと言い、突如6000万円となった。当初の2000万円についても、増額した6000万円についても、その算定根拠は示されていない。ことほどさように根拠定かならざる請求。金額で驚かして萎縮効果を狙っていることを自白しているに等しい。
これに対する被告(澤藤)側の主張は、「そもそもこんな請求が成り立つはずのないことは自明ではないか。こんないい加減な裁判は、門前払いでさっさと終わらせてもらいたい」というもの。裁判の土俵に上がっての「請求棄却」ではなく、門前払いの「訴えの却下」を求めている。
なぜ、「原告らの請求が成り立つはずもない」というのか。それは、憲法21条の命じるところだからなのだ。私はブログで、吉田嘉明から渡辺喜美への8億円のカネの授受を「政治を金で買おうとした」と批判した。吉田自身が、週刊新潮に書いた手記を根拠に、あとは常識的な推論を重ねたもの。大金持ちが、政治に巨額のカネを注ぎこんだのだ。批判されて当たり前。しかも、吉田は同じ手記で、自分の商売に触れてこう言っている。
「私の経営する会社は、主に化粧品とサプリメントを取り扱っています。その主務官庁は、厚労省です。厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけて来ます」
これを読めば、誰しも吉田の思惑が、「特別煩わしい規制チェックをなくしたい、緩和したい」と読み取るだろう。「私の経営する会社の利益のための規制緩和」、それこそが「官僚機構の打破」の本音だと、常識的に思うだろう。私はその常識を述べたに過ぎない。
ところが、原告側はこう言うのだ。
「被告は原告吉田が、訴外渡辺議員に8億円を貸し付けたのは、自己の金儲けのためであると断定的に記述し、もって当該事実を摘示したものである。その根拠は、『この世のすべてのカネの支出には、見返りの期待かつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの』という、被告独自の価値観にある。日本国をより良くしようとして浄財を投じる人物がこの世にいることを被告は知らない」
微苦笑を禁じ得ない。およそ、民事訴訟における主張ではない。
私は、「この世のすべてのカネの支出には、見返りの期待かつきまとう。政治献金とは、献金者の思惑が金銭に化したもの」という考えをもっている。だから、政治献金は民主政治を歪める危険があり、透明性の確保と規正とが必要だと確信している。もちろん、法もそのようにできている。
確かに、私は「日本国をより良くしようとして浄財を投じる人物がこの世にいることを知らない」。しかし、稀なる聖人の存否についての論争はまったく無意味なのだ。訴訟で争われているのは、「私の考えが正しいか、間違っているか」ではない。「日本国をより良くしようとして浄財を投じる人物がこの世にいるか否か」が争われているわけでもない。
週刊誌の「吉田手記」をどう読むかは、私の論評であり意見である。当然のこととして、論評や意見は自由でなくてはならない。もちろん、論評や意見の前提となる事実は主要な点において真実であることが求められる。本件においては、私が述べる意見が前提とする事実は、週刊新潮に掲載された吉田手記に基づくものなのだから、何の問題もありえない。私の論評ないし意見は、その自由が憲法で保障されているのだ。これに異論があれば、対抗言論をもって反論すればよいだけのこと。それだけの力のあるDHCであり、その会長ではないか。違法だと訴訟を起こすような問題ではありえない。
しかも、テーマは典型的な政治的言論、具体的には政治とカネの関わりの問題なのだ。言論の自由一般ではなく、民主主義政治の基盤をなす「政治的な批判の言論」についての自由が俎上に載せられている。私の言論は、最も尊重されなければならないのだ。さらに、原告らは、単なる私人でも一般人でもない。大企業であり、大金持ちであり、国民の健康に直接関連するサプリメント業界の最大手であり、その代表者である。もともと、国民からの批判の言論を甘受しなければならない「社会的強者」の立ち場にある。それだけではない。吉田が政治的思惑あって巨額のカネを公党の党首に拠出し、しかもそのことを自ら週刊誌に暴露したのである。その時点から、彼は政治家と同等にあるいはそれ以上に、政治的批判の言論を受忍すべき特別の立場にたったのだ。この点の自覚に欠けているが故に、自分に対する批判を嫌ってスラップ訴訟を濫発しているのだ。
以上のとおり、原告らが私の指摘のような批判を受けるべきはあまりに当然なのだ。批判の言論を受忍しなければならないのはあまりに明らかではないか。だから、本件を不適法な訴えとして、却下を求めているのだ。
ときあたかも、経団連が「政策をカネで買おうとしている」ことで世論の批判を受けている。たとえば次のように。
「経団連献金再開 露骨な政権擦り寄りだー経団連の榊原定征会長は、政治献金への関与を5年ぶりに再開し、会員企業に献金を呼びかける方針を表明した。
…経団連はアベノミクスを全面的に支持しており、結局、献金は自民党に向かうだろう。安倍晋三政権に擦り寄って、法人税減税などの大企業優遇策を実現しようとする意図は明らかだ。『政策をカネで買う』との批判が起きるのは当然だ。時代に逆行する方針の撤回を求める。」(9月10日 北海道新聞社説)
DHCに言わせれば、「この社説は、独自の価値観によるもの。総じて論説委員などは、日本国をより良くしようとして浄財を投じる企業がこの世にいることを知らない」ということになろうか。あまりに馬鹿げた「反論」であることがお分かりいただけよう。
(2014年9月10日)
本日、『DHCスラップ訴訟』で原告(DHCおよび吉田嘉明)からの「訴えの追加的変更申立書」に接した。私に対する損害賠償請求金額は、これまで2000万円だった。これを6000万円に拡張するという。4000万円の増額。一挙に3倍化達成である。
訴状において原告らの名誉を毀損するとされた私のブログは、次の3本。再度ご覧いただけたらありがたい。いずれも、政治を金で買ってはならないという典型的な政治的批判の言論である。
https://article9.jp/wordpress/?p=2371 (2014年3月31日)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
https://article9.jp/wordpress/?p=2386 (2014年4月2日)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
https://article9.jp/wordpress/?p=2426 (2014年4月8日)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
これに追加して、新たに次の2本のブログもDHCおよび吉田嘉明の名誉を毀損するものだとされた。これまで、「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズは、第1弾?第19弾となっているが、そのうちの第1弾と第15弾の2本が取りあげられたのだ。
https://article9.jp/wordpress/?p=3036 (2014年7月13日)
いけません 口封じ目的の濫訴
?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第1弾
https://article9.jp/wordpress/?p=3267 (2014年8月8日)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務だ
?「DHCスラップ訴訟」を許さない・第15弾
これまでは3本のブログ(その中の8か所の記載)で2000万円の請求。今度は、2本増やして合計5本のブログで6000万円。単純な差し引き計算では、「DHCスラップ訴訟」を許さない・シリーズの2本のブログが4000万円の請求増額の根拠。1本2000万円ということになる。
馬鹿げた話しだ。請求金額に何の根拠もないことを自ら語っているに等しい。要するに、「DHC・吉田批判を続けている限り、際限なく請求金額をつり上げるぞ」という、訴訟を武器にした恫喝にほかならない。
さて、4000万円増額の根拠となった2本のブログのどこが原告両名の名誉を毀損したものか。6か所あるという。以下のイタリック体の記載部分とされている。
「第1弾」5か所
?いけません 口封じ目的の濫訴
?私はこの訴訟を典型的なスラップ訴訟だと考えている。
スラップSLAPPとは、Strategic Lawsuit Against Public Participationの頭文字を綴った造語だという。たまたま、これが「平手でピシャリと叩く」という意味の単語と一致して広く使われるようになった。定着した訳語はまだないが、恫喝訴訟・威圧目的訴訟・イヤガラセ訴訟などと言ってよい。政治的・経済的な強者の立場にある者が、自己に対する批判の言論や行動を嫌悪して、言論の口封じや萎縮の効果を狙っての不当な提訴をいう。自分に対する批判に腹を立て、二度とこのような言論を許さないと、高額の損害賠償請求訴訟を提起するのが代表的なかたち。まさしく、本件がそのような訴訟である。
?DHCは、大手のサプリメント・化粧品等の販売事業会社。通信販売の手法で業績を拡大したとされる。2012年8月時点で通信販売会員数は1039万人だというから相当なもの。その代表者吉田嘉明が、みんなの党代表の渡辺喜美に8億円の金銭(裏金)を渡していたことが明るみに出て、話題となった。もう一度、思い出していただきたい。
?DHC側には、この批判が耳に痛かったようだ。この批判の言論を封じようとして高額損害賠償請求訴訟を提起した。訴状では、この3本の記事の中の8か所が、原告らの名誉を毀損すると主張されている。
?原告側の狙いが、批判の言論封殺にあることは目に見えている。わたしは「黙れ」と威嚇されているのだ。だから、黙るわけにはいかない。彼らの期待する言論の萎縮効果ではなく、言論意欲の刺激効果を示さねばならない。この訴訟の進展を当ブログで逐一公開して、スラップ訴訟のなんたるかを世に明らかにするとともに、スラップ訴訟への応訴のモデルを提示してみたいと思う。丁寧に分かりやすく、訴訟の進展を公開していきたい。
「第15弾」1か所
?私は、主権者の一人として「国民の不断の監視と批判を求めている」法の期待に応えたのだ。ある一人の大金持ちから、小なりとはいえ公党の党首にいろんな名目で累計10億円ものカネがわたった。そのうち、表の金は寄付が許される法の規正限度の上限額に張り付いている。にもかかわらず、その法規正の限度を超えた巨額のカネの授受が行われた。はじめ3億、2度目は5億円だった。これは「表のカネ」ではない。政治資金でありながら、届出のないことにおいて「裏金」なのだ。万が一にも、私がブログに掲載したこの程度の言論が違法ということになれば、憲法21条をもつこの国において、政治的表現の自由は窒息死してしまうことになる。これは、ひとり私の利害に関わる問題にとどまらない。この国の憲法原則にかかわる重大な問題と言わねばならない。
読者には是非熟読いただきたい。そして、それぞれの常識でご判断いただきたい。これが果たして「違法」なのか。このような言論が違法と烙印を押されてよいものだろうか。4000万円の損害賠償に値するなどということが、一体考えられることだろうか。
判断はお任せするが、私が先日法廷で陳述したことの一部を再度掲載して、ご参考に供したい。
「私の言論の内容に、根拠のないことは一切含まれていません。原告吉田嘉明が、自ら暴露した、特定政治家に対する売買代金名下の、あるいは金銭貸付金名下の巨額のカネの拠出の事実を前提に、常識的な論理で、原告吉田嘉明の行為を『政治を金で買おうとした』と表現し批判の論評をしたのです。
仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告らを模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされることでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。」
(2014年8月31日)
同期の友人から、便りをいただいた。ワープロで印字したものではない。「水茎うるわしく」とは言えないものの、手書きの便りは暖かい友情を感じさせる。内容は、『DHCスラップ訴訟』の被告準備書面に目を通しての感想。大局を見る視点の参考に値するものと考え、了解を得てその一部を紹介する。
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先日は、久しぶりにお目にかかって楽しかった。お元気そうでなにより。
私も弁護団の一員だが、東京には遠いし、若くもない。パソコンの操作も不得手だ。訴訟の方針は優秀な若手にお任せでよいと思っている。信頼できる学者のアドバイスも期待できるようだし、安心はしている。
それでも、もちろん気になって原被告双方の書面はよく読んでいる。今回の被告の反論を展開した準備書面も拝読した。その感想を述べておきたい。
結論的には、説得力のある精緻な内容の展開になっているし、訴訟としては圧倒的に有利な立場にあることを確認できて喜んではいる。しかし、正直のところ、今回の準備書面は私の考えていた内容とは少し違う。違和感がある。
ことの本質は、澤藤君の批判が果たして違法と烙印を押されるようなものなのかという一点にあるのだと思う。君は、財界の一端を担う吉田が政治家渡辺に多額のカネを渡したことを「カネで政治を買うもの」と批判した。いったいこの批判を違法などといえるのだろうか。最終的には、それだけが論点だ。
吉田の行動が違法か合法か、君の指摘が正確か否かは、二の次、三の次の問題に過ぎない。吉田が渡辺にあれだけの大金を渡したのだから、「カネで政治を買う」ものと批判されて当然ではないか。むしろ、君の問題提起は、違法どころか、重要で意義のあるものだと思う。そのことをもっと前面に押し出してもらいたい。
訴訟の争点が、大金を拠出したことについての吉田の意図や動機、あるいは吉田の行為の違法性の有無に絞り込まれるようなことがあってはならない。吉田の意図や動機がどうであろうとも、吉田のカネの出し方が政治資金規正法上適法であったとしても、澤藤君の批判を違法として封じることはできないと思う。この点を十分に意識してもらいたい。
今回の準備書面への違和感はその点にある。民主主義を守る土台としての「批判の自由」の意義をもっと前面に出してもらいたかった。少し、横着に言えば、吉田の行為が合法か否かは問題にならない。君の批判の内容が真実であるか否かも本来問題にはならないはずではないか。吉田が自らの手記で発表した行為が、君のような批判の対象となることは当たり前のことで、仮に君の批判の表現に誤った推測が含まれていたとしても、批判が許されないことにはならない。
民主主義を守るためには君がしたような批判が必要なのだ。その批判をきっかけに、真実の解明が進んだり、国民の議論が深まることが期待できるのだから、批判の言論そのものに保護すべき意義がある。けっして、批判が全面的に正確であることを要求すべきではないと考える。
そのような立場から、裁判所に「批判の自由」の意義や尊さを理解してもらえるように、この点を整理した書面を作成して提出してもらいたい。それが私の意見だ。参考にしていていただけたらありがたい。(後略)
(2014年8月22日)
昨日(8月20日)の『DHCスラップ訴訟』法廷後の集会で、ジャーナリストの北健一さんが報告した。主に語られたのは、スラップの威嚇作用と、それによる言論の萎縮効果である。萎縮効果は、当該被告にだけではなく、その周囲から社会一般におよぶことの危惧が強調された。「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」のだ。
会場発言でも、かつてスラップと闘って勝った経験者が、勝利をしながらも提訴されたことによる不愉快、手間暇、金銭的負担、膨大な時間の浪費、精神的負担を語った。スラップからの早期の被害者解放の手立ての確立や、スラップ提訴者に対する制裁の必要が共通認識となった。
DHCとその会長吉田は、私たち弁護団が確認しているだけで、損害賠償請求等の10件の提訴と、出版物販売等禁止仮処分命令1件の申立をしている。仮処分事件は7月17日東京地裁民事9部の合議体によって申立を却下されているが、他は未解決。
各件の個別の請求内容もさることながら、この提訴の数自体が、あたるを幸いの濫訴というほかはない。この10件の提訴によって、DHCは「自分を批判すると提訴の危険を伴うぞ」と多くの人を威嚇し、警告を発して恫喝しているのだ。
誰だって、11件目の訴訟当事者にはなりたくない。だから、多くの人が筆を抑える。DHCのやり方を不愉快と思いつつ、現実に提訴されたときの煩わしさを避けた方が賢明と判断する。これが、DHCの付け目だ。かくて、言論の萎縮効果は蔓延する。
今日になって、その実例を教えられた。まず、下記の通知を紹介したい。個人のブログへのコメントである。作成名義の真正は定かでないが。
全文はこちらを参照していただきたい。
http://norisu415.blog.fc2.com/blog-entry-2057.html#comment5598
通知は「ブログ記事の削除要請の件について」と標題するもの。2014年8月19日付で株式会社ディーエイチシー総務部法務課杉谷義一名義(会社を代表するものではなく、一課員という立場としか考えようがない)の文書である。
「今般、貴殿は、本ブログ記事において、全体として弊社代表者を侮辱し、また、自ら「証拠もなしに」と何らの調査・取材も行っていないことを認めながら、弊社代表者が、「強烈な保身意識」のもとで渡辺議員を「警告、恫喝、口止め」している、「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」などと平然と書き、そのような人物が代表取締役会長をつとめている弊社の社会的評価を低下させ、弊社の名誉を著しく毀損しています。」
「弊社代表者」に対する意見を一方的に侮辱扱いし、独自の調査・取材がなければ意見・論評を行ってはならないとの決め付けは不当というほかない。また、「そのような人物が代表取締役会長をつとめている」ことを自認しながら、このことが公開されると会社の社会的評価が低下するというのは、諒解しがたい。
侮辱とは個人の名誉感情を害することであり、名誉毀損とは事実を摘示して社会的な評価を害することをいう。この通知は、その両者の区別を認識していない。また、代表者の個人の利益を守る趣旨でなされたものなのか、会社の評価を守る趣旨でなされたものなのか文意が明白でない。会社を代表した文書であるのか、代表者個人を代理した文書であるのかの性格が分明でないことからの混乱であろう。あるいは、会社と会社代表者が渾然一体となっていることがDHCの社内の実情なのかも知れない。
「貴殿が記事の削除に任意に応じて頂けない場合には、やむなく法的対応を検討せざるを得ませんので、できましたらそのようなこととならないよう何卒宜しくお願い致します。なお、本ブログ記事同様に、弊社代表者および弊社の名誉を毀損し或いは侮辱する記事を掲載した他のブログにおきましては弊社の指摘により記事の削除をして頂くことで円満解決しておりますことを、念のためお伝えしておきます。」
削除に応じなければ法的措置をとる旨を申し向けて、訴訟の負担の懸念から削除させようとするこの通知は、恫喝そのものといえよう。削除に応じればそれ以上の手段をとらないとの「飴」と、訴訟負担という「鞭」でブロガーを従わせようとしている。
もっとも、他のすべてのブログについて、「指摘」がなされ自主的な削除により「円満解決」したという趣旨であるとすれば、明らかな虚偽である。私のブログには何の「指摘」もなく訴訟が突然提起されているし、他にも無警告で訴訟が行われた例は確認されている。
さて、こんな申入を受けたら、あなたならどうする。
普通ならスパム扱いだろう。当たり前の感覚では、「警告、恫喝、口止め」「吉田のコメントは、念には念のヤクザの恫喝ではないのか」くらいで、訴えられるとは考えない。せっかく書いた記事を、これくらいのことで削除することはあり得ない。
権力や金力への批判こそジャーナリズムの真骨頂と考えている立場からはなおさらのこと。このような「強烈な保身意識」からなされた「警告、恫喝、口止め」に対しては、屈することはできないと考えるのが当たり前だろう。
ところが、ことDHCについては、この「当たり前」が通用しない。現実の問題として、DHCから「警告、恫喝、口止め」がなされると、抵抗することにはなかなかの覚悟が必要なのだ。
この申しれを受けたブロガーは、現実にどう対応したか。下記をお読みいただきたい。(ブログの特定は避けたかたちでの引用にしている)
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「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました。」
「一瞬、ただのスパムコメントかと思ったが、どうやらDHCは同様の手法で会社に不都合なブロガーに圧力をかけて回っている様だ。だとしても、こんな場末のパンピーブログにまで恫喝してくるとは、DHCとはケツの穴の小さい会社である。余程不都合な内容だったのだろうか(笑)。
笑ってばかりもいられない。と言うのも、DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高いからだ。実際、東京弁護士会の澤藤弁護士が、本ブログと似た様なことをブログに書き、つい最近DHCから2000万円の慰謝料を求めて訴訟を起こされている。」
「さて、本ブログはどう対処しようか。訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えないが、現実問題として本当に裁判を起こされても面倒だ。ついては、一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しようと思う。
もちろん、削除前のエントリーは保存しておく。澤藤弁護士の訴訟結果を待ち、澤藤弁護士が勝訴したら再アップしようと思う。」
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同じように、DHCから恫喝を受けたブログは無数にあるものと推察される。このブログの場合には、「本ブログが(株)DHCから恫喝を受けました」と宣言しているから、たまたま目についたもの。ひっそりと記事の削除に応じていれば、誰の目も届かないところで、DHCの「警告、恫喝、口止め」が成功を収めていることになる。これは、由々しき問題ではないか。言論が恫喝に屈しているのだ。
このブロガー氏は、気骨のある人とはお見受けする。DHCからの恫喝に不愉快をに明言しているのだから。そのブロガー氏も、「DHCの恫喝はただの脅しではなく刃が付いている可能性が高い」ことを考慮せざるを得えない。「訴訟を起こされて多額の慰謝料を支払う判決が下される様なエントリーとは思えない」と考えつつも、「現実問題として本当に裁判を起こされては面倒だ。やむなく一時的に当該エントリーのDHCに関する記述を削除しよう」という判断に至る。
残念ではあるが、「恫喝に屈してしまえば萎縮効果は際限なく広がる」の好例となった。「澤藤弁護士の勝訴の暁の再アップ」を期待するのみである。
明らかに、経済的強者の濫訴が言論の萎縮を招いている。昨日の法廷での私の陳述の一節を繰り返しておきたい。
「仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようなことがあれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告ら(DHCと吉田嘉明)を模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。」
その危機は遠くにではなく、既にそこにある。
(2014年8月21日)
本日は『DHCスラップ訴訟』の事実上の第1回口頭弁論期日。被告代理人と支援の傍聴者で法廷が埋まった。そこでの被告陳述と被告弁護団長の意見陳述を下記に掲載する。
次いで、弁護士会館での報告集会。弁護団長・光前弁護士からの解説のあと、ジャーナリストの北健一さんと、メディア法の田島泰彦教授(上智大学)が、スラップに関する実践的な報告をされた。
すべてが、この上ない充実ぶりで、法廷と集会が、優れた「劇場」と「教室」になった。教室は人権と民主主義を学ぶ場。劇場は、学んだものの実践の場。両者とも、生き生きと志あるものがつどう空間。
応訴の運動を、「劇場」と「教室」にしよう。
まずは、楽しい劇場に。
演じられるのは、
人権と民主主義をめざす群像が織りなす
興味深く進行するシナリオのない演劇
誰もがその観客であり、また誰もがアクターとなる
刺激的な空間としての劇場。
そして有益な教室に。
この現実を素材に
誰もが教師であり、誰もが生徒として
ともに民主主義と人権を学ぶ教室。
今日が、開演であり、始業に当たる日。
ハッピーエンドでの卒業の日まで
充実した「劇場」と「教室」にしよう。
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『DHCスラップ訴訟』2014年8月20日期日
被告本人澤藤統一郎意見陳述
私は、被告という立場に置かれていることにとうてい納得できません。どう考えても、私に違法と判断される行為があったとは思えないからです。
私は、憲法で保障されている言論の自由を行使したに過ぎません。しかも、その言論とは、政治とカネにまつわる批判の言論として社会に警告を発信するものなのです。政治資金規正法に体現されている「民主主義の政治過程をカネの力で攪乱してはならない」という大原則に照らして、厳しく批判されるべき原告吉田の行為に対して、必要な批判をしたのです。
政治資金規正法は、その第1条(目的)において、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるように」としています。まさしく、私は、「不断の監視と批判」の言論をもって法の期待に応え、「民主政治の健全な発達に寄与」しようとしたのです。
私の言論の内容に、根拠のないことは一切含まれていません。原告吉田嘉明が、自ら暴露した、特定政治家に対する売買代金名下の、あるいは金銭貸付金名下の巨額のカネの拠出の事実を前提に、常識的な論理で、原告吉田の行為を「政治を金で買おうとした」と表現し批判の論評をしたのです。
仮にもし、私のこのブログによる言論について、いささかでも違法の要素ありと判断されるようであれば、およそ政治に対する批判的言論は成り立たなくなります。原告らを模倣した、本件のごときスラップ訴訟が乱発され、社会的な強者が自分に対する批判を嫌って、濫訴を繰り返すことが横行しかねません。そのとき、ジャーナリズムは萎縮し、権力者や経済的強者への断固たる批判の言論は後退を余儀なくされるでしょう。それは、権力と経済力がこの社会を恣に支配することを許容することを意味し、言論の自由と、言論の自由に支えられた民主主義政治の危機というほかはありません。
また、仮に私のブログによる表現によって原告らが不快に感じるところがあったとしても、彼らはそれを受忍しなければなりません。原告両名はこの上ない経済的強者です。サプリメントや化粧品など国民の健康に直接関わる事業の経営者でもあります。原告らは社会に多大の影響を与える地位にある者として、社会からの批判に謙虚に耳を傾けるべき立場にあります。
それだけではありません。原告吉田は、明らかに法の理念に反する巨額の政治資金を公党の党首に拠出したのです。しかも、不透明極まる態様においてです。この瞬間に、原告らは、政治家や公務員と同等に、拠出したカネにまつわる問題について国民からの徹底した批判を甘受すべき立場に立ったのです。これだけのことをやっておいて、「批判は許さない」と開き直ることは、それこそ許されないのです。
原告らの提訴自体が違法であることは一見して明白です。貴裁判所には、このような提訴は法の許すところではないと宣告の上却下して、一刻も早く私を不当な責任追及を受ける被告の座から解放されるよう要請いたします。
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被告弁護団長弁護士光前幸一意見陳述要旨
1 本件は、民主主義の根幹を揺るがす「政治とカネ」に関する論評の差止め請求、損害賠償請求事件である。被告が論評を発表した手段は、いまや市民にとって極めて一般的な方途となったインターネット上のブログである。また、被告が論評で取り上げた題材は、現金だけでも8億円が動いた有力政治家と大実業家の交際状況であり、現金を供与したのは、健康食品業界で飛ぶ鳥を落とす勢いのDHCオーナー原告吉田会長、受け取った政治家は、みんなの党の代表者であった渡辺喜美氏である。社会の耳目が集まるのも当然である。
2 本件裁判は、憲法32条が保障した裁判を受ける権利を濫用した違法な訴え、スラップ訴訟である。その根拠は、本日提出した準備書面1の第2?第4、さらに第6(これは、原告らが先般提出した準備書面1への反論)で詳細に論じているが、その骨子を述べれば、原告吉田と渡辺代議士が週刊誌や記者会見で明らかにした事実は、サプリメントの規制緩和という国家政策をカネの力で左右しようとするもので、政治資金規正法に違反する疑いが強く、このような経済的強者による法の無視、民主主義の冒涜行為に対しては、同法が、市民の厳しい「監視と批判」を期待し求めていること、被告の論評は、この法の要請にしたがい、原告吉田や渡辺代議士が明らかにした事実のみを掲げ、これを基礎として、原告吉田の行為を厳しく批判したにすぎないものであること、ところが、批判された原告らは、何の事前交渉もないまま、被告に対し、高額の損害賠償請求と論評の撤回を求める裁判を提起し、しかも、同様の訴訟を同時・多発的に(被告において判明しているものだけでも、当裁判を含めて10件)提起しており、とうてい、訴訟のまともな利用方法とは言い難いということである。法曹であれば、原告らの訴訟提起の異様さは、誰もが気づくことであり、自らのフィールドがこのように汚されることに、危惧や嫌悪を超えた義憤を感じるであろう。
3 原告らが、本訴状の作成にあたり参考にしたであろう、この種訴状のひな形、例えば、判例タイムズ1360号の4頁以下には、東京地裁プラクティス委員会執筆にかかる名誉棄損訴訟の解説があり、その24頁に、本訴状とよく似たウェブ掲載文書に対する名誉棄損訴状のひな形が出ているが、このひな型では、「第5 本件各記述削除の必要性」の項で、ウェブに掲載された記述の削除を事前に求めたが、これに相手が応じないことから裁判を提起したという事情が記載されている。このひな型に記載されているとおり、真に権利回復を求めるのであれば、提訴前に当該論評の取扱いをめぐって相手方と事前交渉(削除要求)するのが常識的である。ましてや、本件の被告は弁護士である。何の事前接触もなく、文字通り「十把一絡げ」に論評差し止めの裁判を提起するのは、あまり褒められたやり方ではない。
4 わが国においても、経済的格差の拡大が社会問題化しているなか、この種訴訟は、数年前からスラップ訴訟として問題となっている。立憲主義の要をなす司法制度が、経済の格差により、一方では利用が困難となり、他方では本来の機能を逸脱する不当な目的で利用され始めているからである。
前述のとおり、本訴訟は、政治的論評に対する名誉棄損事件として、その正当性が問題とされた事件であるが、被告準備書面1の第5で述べているとおり、被告が、その論評の基礎として掲げたものは、原告吉田が雑誌に寄稿した手記や渡辺代議士が記者会見で述べた事実のみであり、2007年9月9日の最高裁判決以降のわが国の最高裁や下級審の各裁判例に照らせば、論評の公共性、公益目的性から、いかに原告らの社会的評価を低下させたとしても、明らかに正当性が認められる言論である。勿論、この被告論評の当否は、国民、一人、一人がその思想・信条に基づいて判断すべきことで、裁判所が証拠調べの結果により黒白をつけられるべき性質のものではない。
5 裁判所が名誉棄損の要件判断で、原告らの請求を棄却するのは容易であろう。しかし、被告として敢えて求めたいのは、裁判所が、本事件をスラップ訴訟防止の橋頭保とすべく、訴権濫用についての十分な審理を遂げ、本件訴訟の実態を踏まえた適切、果敢な判断を早期に下すことである。
以上
(2014年8月20日)
私を被告とする『DHCスラップ訴訟』の事実上の第1回口頭弁論は8月20日(水)午前10時半に開かれる。場所は東京地裁705号法廷。誰でも傍聴可能である。予約も身分証明も不要だ。しかし、満席になると入れなくなる。これが現在のところ、やむをえないのだ。
その場合には、11時から東京弁護士会5階508号室で行われる弁護団会議兼報告集会にどうぞ。こちらも席が足りないかも知れないが、そのときは詰め込みでも立ち見でもなんとかなる。
この集会では弁護団長の解説や、スラップ訴訟に詳しい北健一さん(ジャーナリスト・出版労連書記次長)の報告がある。高名な田島泰彦上智大学教授(メディア法専攻)の研究者としての立ち場からの解説も予定されている。
その口頭弁論期日1週間前の今日(8月13日)、弁護団が被告準備書面(1)を裁判所に提出した。併せて乙号証と証拠説明書も。同時に110名の代理人弁護士の委任状も提出した。当日の法廷で私が行う意見陳述の要旨もである。すべて順調に推移している。あらためて、私は「恵まれた被告」であり「幸せな被告」であると思う。
被告準備書面の主たる主張は、「本件提訴は訴権の濫用に当たるものとして、提訴自体が違法。だから直ちに却下して澤藤を被告の座から解放せよ」というもの。
「訴権の濫用」とは、おそらく聞き慣れない言葉だと思う。本日提出準備書面の次の一節をお読みいただきたい。
「裁判制度を利用することは憲法上の権利である(憲法32条)。しかし、…民事訴訟制度は、事実関係に法を適用して社会に惹起する法律的紛争を解決するという理性的な制度として運営されるべきものであるから、当該訴訟提起が、制度の理念に大きく逸脱する場合は、権利(訴権)の濫用として、提訴行為自体が排斥される場合があることも当然である。このことを端的に示した東京高裁2001年1月31日判決は、『当該訴えが、もっぱら相手方当事者を被告の立場に置き、審理に対応することを余儀なくさせることにより、訴訟上又は訴訟外において相手方当事者を困惑させることを目的とし、あるいは訴訟が係属、審理されていること自体を社会的に誇示することにより、相手方当事者に対して有形・無形の不利益・負担若しくは打撃を与えることを目的として提起されたものであり、右訴訟を維持することが前記民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反すると認められた場合には、当該訴えの提起は、訴権を濫用する不適法なものとして、却下を免れない』と述べている(その原審である東京地判も同様の判断を示している)と解するのが相当である」
しかし、なぜ本件『DHCスラップ訴訟』が、「訴訟を維持することが前記民事訴訟制度の趣旨・目的に照らして著しく相当性を欠き、信義に反する」場合に当たると、考えられるのか。それは、準備書面を直接お読みいただくのが適切である。
弁護団の議を経てということになるが、公開の法廷で陳述済みの訴訟資料は、ホームページで公開したいと思う。DHC側が、いったいどんな主張をしているのか、また被告弁護団がどう応訴しているのか、じっくりと時間をかけてお読みいただきたいと思う。
私は常々考えてきた。法廷を公開するという意味についてである。もちろん、誰でも法廷傍聴は可能で、一応そのような運用はなされている。しかし、傍聴希望者が法廷のキャパを超えれば入場できなくなる。標準的な法廷の傍聴席はあまりに数が少ない。傍聴希望者多数と予想される場合には抽籤などしているが、傍聴希望者にキャパを超える理由で傍聴を断ることに本当に正当性があるのだろうか。
東京の事件を沖縄県民が傍聴しようと思っても、事実上無理な話だ。裁判は、アクセス可能なエリアの人々にだけ公開されているが、その以遠の人には事実上閉ざされている。さらに、である。民事事件の法廷を傍聴された方はお分かりだろうが、傍聴していても目の前で何が進行しているのかさっぱり分からない。法廷は、事前に作成された書面をここで陳述したことにする儀式を行うだけの場なのだ。傍聴人に、どのような書面を提出しているのか説明したり、書面を読ませてくれる親切は期待できない。
もちろん、特定の事件に関心を持った場合には、第3者の記録閲覧は可能(申立書に手数料として150円の印紙貼付が必要)だが、事件番号や当事者などの特定の必要はある。これも、謄写申請となれば利害関係人に限られ、その疎明の手続も面倒だ。
プライバシー侵害の問題は別として、裁判「公開」はインターネットによって可能となるのではないか。『DHCスラップ訴訟』は、インターネット公開するのに、最適のケースというべきであろう。原告両名は、自ら公開の法廷での訴訟を望んだ者である。経済的・社会的な強者であるばかりでなく、公党の党首に巨額の政治資金を拠出したことを自ら暴露する手記を公表した者としても、プライバシーへの配慮は必要ない。
公開の法廷で何が行われたのか、訴状・答弁書・原告準備書面・被告準備書面、そして提出された双方の証拠まで、じっくりとお読みいただきたいと思う。本来は、国民誰もが、公開の法廷でその内容を知ることができたはずの資料である。公開することも、アクセスにも遠慮は要らない。但し、訴訟上の主張や証拠に第3者が出てきた場合のプライバシーへの配慮は必要となる。その配慮はしつつも、公開を実現したい。
そうして、この事件を「劇場」にもしたいし、「教室」にもしたい。この訴訟はシナリオのないドラマでもあり、民主主義を学ぶ格好の素材でもあるのだから。
(2014年8月13日)
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『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。
また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義 許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
※昨日(8月9日)、上智大学の田島泰彦さんからお誘いを受けて、メディアに関係する研究者と弁護士とジャーナリストの集いで、『DHCスラップ訴訟』についてたっぷりと報告をさせていただいた。集団的自衛権や、日の丸・君が代、靖国問題、自民党改憲案や消費者問題ではなく、自分が被告になったこのスラップ訴訟でのまとまった報告は初めてのこと。
言論の自由に深刻な問題と受けとめていただき、熱心に聞いていただいた。「被害者本人として、この点をどう考えているか」という質問がいくつも出た。集いの参加者みんなが表現の自由の拡大を一面的に望ましいと考えているわけではない。過剰な取材や報道から、市井の人々のプライバシーをどう守るかに最大の関心を持っている人もいる。そのような立ち場の人も含めて、「本件スラップは人権と民主主義の双方にたいへん危険」ということで異論はなかった。
人間、励まされると元気が出る。声がかかったら、どこにでも出かけて行って『DHCスラップ訴訟』について語ろう。なにしろ私は、被害者本人である。こんな経験は滅多にできるものではない。貴重な語り部として、被害体験を大いに語るべき責務があろうというものだ。
※このブログで、『DHCスラップ訴訟』進行をリアルタイムで報告することをお約束している。スラップ訴訟への法廷内外での対抗の在り方のモデルケースを示したい。理論的な蓄積や応訴のノウハウについても提供したい。このブログの「『DHCスラップ訴訟』を許さないシリーズ」を、スラップ応訴劇場ともし、スラップ対応教室ともしてみたい。その立場から、現在の弁護団体制や、確定しているスケジュールと、あと10日となった8月20日(水)法廷とその後の報告集会の予定についてご連絡する。
※現在、被告側の応訴弁護団員数は110名。8月20日次回期日出廷予定者は39名となっている。これは予想外。相当なものだ。弁護団参加者は、みんなが、「澤藤一人の問題ではない。人権と民主主義を侵蝕する問題として見過ごせない」と立ち上がっている。また、澤藤や弁護団中核の「この典型事件の応訴の過程で、これまでの理論や運動の経験を集大成して、他の事件にも使えるようにかたちにして残そう」ということに賛同して、次のスラップ訴訟は単独てでも受任できるように経験を積みたいとしてくれている若手もいる。弁護団もスラップ対策教室となっているのだ。
※当面のスケジュール
8月13日 被告準備書面(1)、乙号証、訴訟委任状、意見陳述書案各提出
8月20日(水)午前10時半 事実上の第1回口頭弁論期日
東京地裁庁舎7階 705号法廷(民事24部合議係)
通常手続以外に意見陳述があります
澤藤5分、当事者の立ち場で。
弁護団長5分、法的な整理を中心に。
誰でも傍聴可能です。しかし、満席となればそれ以上は入れません。
8月20日(水)11時? 報告集会兼弁護団会議(東京弁護士会508号室)
☆弁護団長報告
当日の法廷の解説、今後の進行見通し、争点などについて
☆北健一さん(「武富士対言論」の著者・出版労連事務次長)報告
スラップ訴訟の実態とその危険性。実践的な対応策など。
☆スラップ経験弁護士からの補充
☆田島泰彦さん(上智大学・メディア法)報告
スラップ訴訟と表現の自由、本件の進行に関して
☆スラップ訴訟や応訴の意義に関しての意見交換
☆訴訟の進行や主張・立証に関する意見交換
どうぞ、どなたでもご参加下さい。
ここも、劇場でもあり、教室でもあるのですから。
(2014年8月10日)
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『DHCスラップ訴訟』応訴にご支援を
このブログに目をとめた弁護士で、『DHCスラップ訴訟』被告弁護団参加のご意思ある方は東京弁護士会の澤藤(登録番号12697)までご連絡をお願いします。
また、訴訟費用や運動費用に充当するための「DHCスラップ訴訟を許さぬ会」の下記銀行口座を開設しています。ご支援のお気持ちをカンパで表していただけたら、有り難いと存じます。
東京東信用金庫 四谷支店
普通預金 3546719
名義 許さぬ会 代表者佐藤むつみ
(カタカナ表記は、「ユルサヌカイダイヒョウシャサトウムツミ」)
政治資金規正法は、1948年に制定された。主として政治家や政治団体が取り扱う政治資金を規正しているが、政治資金を拠出する一般人も規正の対象となりうる。政治資金についての規正が必要なのは、民主主義における政治過程が、カネで歪められてはならないからだ。
政治資金規正法第1条が、やや長めに法の目的を次のとおり宣言している。
「この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。」
立派な目的ではないか。これがザル法であってはならない。これをザル法とする解釈に与してもならない。カネで政治を歪めることを許してはならない。
改めて仔細に読み直すと、うなずくべきことが多々ある。とりわけ、「議会制民主政治の下」では、「政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われなければならない」と述べていることには、我が意を得たりという思いだ。
キーワードは、「国民の不断の監視と批判」である。法は、国民に政治家や政権への賛同を求めていない、暖かい目で見守るよう期待もしていない。主権者国民は、政党・政治団体・公職の候補者・すべての議員への、絶えざる監視と批判を心掛けなければならない。当然のことながら、政治家にカネを与えて政治をカネで動かそうという輩にも、である。
砕いて言えば、「カネの面から民主主義を守ろう」というのが、この法律の趣旨なのだ。「政治とカネの関係を国民の目に見えるよう透明性を確保する。金持ちが政治をカネで歪めることができないように規正もする。けれども、結局は国民がしっかりと目を光らせて、監視と批判をしてないと民主主義の健全な発展はできないよ」と言っているのだ。
「政治資金収支の公開」と「政治資金授受の規正」が2本の柱だ。なによりもすべての政治資金を「表金」としてその流れを公開させることが大前提。「裏金」の授受を禁止し、政治資金の流れの透明性を徹底することによって、カネの力による民主主義政治過程の歪みを防止することを目的としている。
今私は、政治とカネの関係について、当ブログに何本もの辛口の記事を書いた。そのうちの3本が名誉毀損に当たるとして、2000万円の損害賠償請求訴訟の被告とされている。私を訴えたのは、株式会社DHCとその代表者吉田嘉明である。
どんな罵詈雑言が2000万円の賠償の根拠とされたのか、興味のある方もおられよう。下記3本のブログをご覧いただきたい。
http://article9.jp/wordpress/?p=2371
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
http://article9.jp/wordpress/?p=2386
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
http://article9.jp/wordpress/?p=2426
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
いずれも、DHC側から「みんなの党・渡辺喜美代表」に渡った政治資金について、「カネで政治を買おうとした」とする批判を内容とするものである。
私は、主権者の一人として「国民の不断の監視と批判を求めている」法の期待に応えたのだ。ある一人の大金持ちから、小なりとはいえ公党の党首にいろんな名目で累計10億円ものカネがわたった。そのうち、表の金は寄付が許される法の規正限度の上限額に張り付いている。にもかかわらず、その法規正の限度を超えた巨額のカネの授受が行われた。はじめ3億、2度目は5億円だった。これは「表のカネ」ではない。政治資金でありながら、届出のないことにおいて「裏金」なのだ。
事実上の有権解釈を示している、『逐条解説 政治資金規正法〔第2次改訂版〕』(ぎょうせい・2002年)88頁は、法の透明性の確保の理念について、「いわば隠密裡に政治資金が授受されることを禁止して、もって政治活動の公明と公正を期そうとするものである」と解説している。
にもかかわらず、3億円、5億円という巨額な裏金の授受を規正できないとする法の解釈は、政治資金規正法をザル法に貶めることにほかならない。
この透明性を欠いた巨額カネの流れを、監視し批判の声を挙げた私は、主権者として期待される働きをしたのだ。逆ギレて私を提訴するとは、石流れ木の葉が沈むに等しい。これが、スラップなのだ。明らかに間違っている。
憲法と政治資金規正法の理念から見て、恥ずべきは原告らの側である。本件提訴は、それ自体が甚だしい訴権の濫用として、直ちに却下されなければならない。
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