澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

震災のいまだからこそ、より厳格な政府の監視と批判を。

熊本地震は14日の発生以来今日(23日)が10日目。当初、「あと1週間は余震に警戒を」という気象庁の警告を大袈裟ではないかと思ったが、まだ収まらない。九州には身内も知り合いもあり他人事ではない。また、明日は我が身かとも思わざるを得ない。こんなときにこそ、国民はその福利のために、国家を形成したことを思い起こさねばならない。

しかし、いつの世にも政権はしたたかである。戦争が起これば、政権の求心力は瞬時にして跳ね上がる。非常時における同調圧力が政権の求心力に転化するからだ。非常時の擬似一体感が政権を中心に形成される。政権批判は、タブーとなる。

災害も戦争と似た働きをする。恐怖した国民の心理が、容易に政権による統合に乗じられる。「こんなとき」に、政府批判などしている暇はない。現政権を中心に挙国一致で復旧・復興に当たるべきではないか。いま、そういう雰囲気が、演出されてはいないだろうか。

実は、その逆だ。「こんなとき」だからこそ、本当に、国民に役立つ政権であるかが見えてくる。その点を徹底して検証しなければならない。政府の対応の迅速さ、適切さ、真摯さを吟味しなければならない。適切な批判なければ、真っ当な政権は生まれず、真っ当な政権の運用は期待し得ない。国民の安心安全も絵に描いた餅になる。

そのような視点から、この間気になっていることを何点か指摘しておきたい。

まずは、政府の熊本地震現地対策本部長のお粗末である。
災害対策基本法(24条)によって、内閣府内に非常災害対策本部が設置された。河野太郎内閣府特命担当大臣が本部長になっている。これを東日本大震災時並みに、「首相を本部長とする緊急対策本部」に切り替えるべきとする意見も強いが、問題は閣内の非常災害対策本部が適切に機能しているかどうかである。

政府は4月15日松本文明・内閣府副大臣を現地対策本部長に任命し、熊本に派遣した。現地の政府側トップとして国と県の調整を行うべき重責を担ったこの人物。役に立たなかった。むしろ復旧作業の足を引っ張って、このままでは政権に打撃となるとの判断で、更迭された。一昨日(4月20日)のこと、任命期間はわずか6日間だった。

この人、いかにも国民がイメージする自民党議員らしい見た目とお人柄。全国的にはほとんど無名だったが、政府と現地を結んだテレビ会議の「おにぎり・バナナ発言」で、俄然有名になった。

テレビ会議で、河野防災担当大臣に、自分とスタッフへの食料差し入れを要請したのだ。「みんな(自分とスタッフ)食べるものがない。これでは戦うことができない。近くの先生(国会議員)に、おにぎりでもバナナでも何でもいいから差し入れをお願いしてほしい」というのだ。河野はこれに応じて手配し、熊本県関係の議員4人の事務所からおにぎりが届けられたという。

松本は、このことを記者団に得々として話している。「何々先生(議員)からの差し入れだということで、ありがたくいただいた」とまで。公明党も、さすがにかばいきれず批判にまわった。食料を用意して駆けつけているボランティアなどアタマの片隅にもないのだろう。

これだけでない。彼は、「屋外に避難している住民を今日中に屋内に避難させろ」という政府の指示を熊本県側に伝えて、「現地のことがわかっていない」と不快感を示されたという、例の事件の当事者としても著名になった。この政府指示は、安倍首相本人から出ていると報じられている。おそらくは、「迅速で適切な政府の対応の結果として屋外避難はなくなった」という「成果」を絵にすることにこだわったのだろう。

ところが、これをオウムの如く熊本県知事に伝えて、「余震の続くうちは心配で屋内では寝られないのだ。遠くの政府は、現地のことがわかっていない」と切り替えされて、これに同調。知事と一緒に中央を批判する形となった。安倍政権から見れば、こんな無能な者を目立つ位置に置いてはおけないわけだ。

菅義偉官房長官は一昨日(4月21日)の会見で、食料要請問題での松本の陳謝については「そうしたことがあったと承知している。誤解を与えることで陳謝したと思う」と述べたが、松本の交代はローテーションで更迭ではないと強調している。みっともない。

次は、またまたのNHK問題である。

以下は、「原発報道『公式発表で』…NHK会長が指示」との見出しの毎日の記事。
「NHKが熊本地震発生を受けて開いた災害対策本部会議で、本部長を務める籾井勝人会長が『原発については、住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えることを続けてほしい』と指示していたことが22日、関係者の話で分かった。識者は『事実なら、報道現場に萎縮効果をもたらす発言だ』と指摘している。
 会議は20日朝、NHK放送センター(東京都渋谷区)で開かれた。関係者によると、籾井会長は会議の最後に発言。『食料などは地元自治体に配分の力が伴わないなどの問題があったが、自衛隊が入ってきて届くようになってきているので、そうした状況も含めて物資の供給などをきめ細かく報じてもらいたい』とも述べた。出席した理事や局長らから異論は出なかったという。
 議事録は局内のネット回線を通じて共有され、NHK内には『会長の個人的見解を放送に反映させようとする指示だ』(ある幹部)と反発も聞かれる。
(以下略)」

毎日を追った朝日の報道には、次のような記事がある。
「会議の議事録は局内ネットを通じて関係職員も見られるようになっていた。職員からは『公式発表通りでは自主自律の放送ではない』『やっぱり会長は報道機関というものがわかっていない』といった声が上がっているという。」

何とも情けなくもおぞましいNHKではないか。国民は、NHKを報道機関と認識してはならない。安倍政権の報道部に過ぎないのだ。真実を真実として報道しようという姿勢はハナからない。権力の圧力に抗しても真実を貫くという、ジャーナリズム本来の姿勢は望むべくもない。あるのは、政府の意向を忖度しての、治安に資する報道であり、政府の政策に奉仕する報道の原則を貫こうという、尻尾振る忠犬の姿勢でしかない。

今、断層帶に沿って帯状に、前例のない群発地震が頻発して止まない。その断層帶の南と東の延長線上に、川内原発と伊方原発とがある。安倍政権は、原発再稼働を至上命題とする観点から、納得しうる根拠なく「両原発とも安全。何の心配もない」といいたいのだ。NHKがこれに拳拳服膺なのだ。そして、「原発の安全」と並ぶもう一つのキーワードが「自衛隊の活躍」である。官邸からの指示があったか、あるいは籾井の忖度か。いずれにせよ、NHKの報道姿勢は、安倍政権の思惑に沿うことが最優先され、真実を報道する姿勢ではない。大本営発表時代の再来ではないか。

さらにNHKを離れて政権の思惑を見れば、災害の発生を奇貨としたオスプレイの「活用」である。「被災者に役に立つのだからオスプレイ活用批判は怪しからん」という異論を封じる雰囲気利用の思惑が透けて見える。いつものことながら迷彩服姿で、軍用車両を走らせる自衛隊のプレゼンスも同じ問題をもっている。「せっかくあるものだから活用せよ」という論理だけでは、とめどなく憲法上の自衛隊合憲論に譲歩を重ねざるを得ない。自衛隊違憲論に踏みとどまることが肝要ではないか。

震災あればこそ、政権や、政権を取り巻く体制の本音や不備がよく見えてくる。「震災だから政権批判をせずに挙国一致」ではなく、「震災だからこそ、より厳格な政府の監視と批判を」しなければならない。
(2016年4月23日)

硬骨のジャーナリスト溝口敦が「不注意で視聴者の会賛同」

「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものがある。
「国民主権に基づく民主主義のもと、政治について国民が正しく判断できるよう、公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体です」と自ら称している。「国民主権」「民主主義」「公平公正な報道」そして、「知る権利の擁護」というのだから、一瞬これはリベラル派の市民運動組織かと思い込みはしないだろうか。

「政府が『右』というときに、『左』とは言えない」と、歴史に残る名言を吐いた「国営」放送局の会長を糾弾して、「公平公正なNHK報道を求め、国民の『知る権利』を守る活動を行うリベラル市民団体」のことではないかと、いかにも間違いが起こりそうではないか。

もちろん、呼びかけ人や賛同者の名前を見れば、誤解は吹っ飛ぶ。すぎやまこういちであり、渡部昇一であり、西修、東中野修道、呉善花、小堀桂一郎、西岡力等々のおなじみの面々。なるほど、ものは言いよう。「公平公正」とはアベ政権擁護の立場のこと、「国民の知る権利を守る」とはアベ政権の言い分を国民に浸透させること、「国民主権」も「民主主義」も政権の正当性の根拠の説明限りのもの。権力から独立してこそのジャーナリズム、という認識はない。

これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。

変わり映えのしない狭い右派人脈の名の羅列だが、その中で、たった一人、思いがけない名前を見つけて驚いた。「溝口敦」という名。これはインパクトがある。

この会のホームページを閲覧すると、13人の「賛同者」がメッセージを寄せている。そのなかの一人として、顔写真付きで溝口敦の次のコメントがある。
「NHK、民放を問わず、局の体質はゼイ弱です。ともすれば、権力と多数陣営に迎合しがちです。せめて放送法を盾に民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います。」

私は、溝口について特に知るところがあるわけではない。とりわけ彼の政治信条や政治的人脈については、何も知らない。右翼人脈との付き合いあって、こんな所に名前を出したのだろう。単純にそう思っていた。

溝口敦の名を知らぬものとてなかろう。ノンフィクション作家といってもよいし、ルポライター、ジャーナリストと言ってもよい。私の知る限り、最も危険な立場に身を置いてその姿勢にブレのない、稀代の物書きである。暴力団・創価学会・同和・サラ金・食の安全等々タブーに切り込む姿勢の果敢さにおいて、驚嘆すべき人物である。

暴力にも圧力にも筆を鈍らせることのない、不屈の姿勢においてジャーナリストの鑑のごときこの人物と、政権応援団右翼組織の奇妙な組み合わせ。奇妙ではあるが現実と受け止めざるを得ない残念な気持を印象にとどめた。

ところが、本日(3月18日)の毎日夕刊で、この「奇妙」の謎が解けた。この謎解きをしてくれた毎日の記者に感謝したい。

記事は、「特集ワイド」の「続報真相 改憲急ぐ安倍首相を応援する人々 『美しい日本の憲法』とは」という読み応えのある調査報道。

「安倍晋三首相が憲法改正を『参院選で訴える』と前のめりだ。この姿に喝采を送るのが、改憲を支持する『安倍応援団』とも呼べる人たちだ。首相に近いとされる彼らがどんな憲法観を持っているのか、有権者は知っておくべきだろう。一般には知られていない発言などを掘り起こしてみた。」というリードでその姿勢はお分かりいただけよう。記事の全文は下記URLでお読みいただける。
  http://mainichi.jp/articles/20160318/dde/012/010/017000c

記事中の「安倍応援団」の一つとして、「放送法遵守を求める視聴者の会」が出て来る。そして、記者も溝口に注目して、溝口を取材している。その結果が以下の記事だ。「溝口敦さん『不注意で視聴者の会賛同』」と小見出しが付いている。

 最後に意外な人物に登場してもらおう。暴力団問題に詳しいジャーナリスト、溝口敦さん(73)である。
 「国民の会」代表発起人でもある小川氏やすぎやま氏らが呼びかけ人となり、「公平公正な報道を放送局に対して求め、国民の『知る権利』を守る活動を行う任意団体」として昨年設立した「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」の賛同者に名前を連ね、多くの人を驚かせた。呼びかけ人の7人全員が、安倍氏と近かったり、改憲を支持したりしている人たちだったからだ。
  … …
 溝口さんに真意を尋ねると『不注意でした』と意外な答えが返ってきた。「『放送法遵守』というから、どういう人たちが作った団体か確認せずに『賛同する』としてしまったんです」。昨秋、前触れなく届いた封書に記入し、返送しただけだという。
 改めて自身の意見を聞くと、こう語るのだ。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ。もっと批判しなきゃ。キャスターが特定の立場で批判的発言をしたっていいじゃないですか。放送法1条は放送の自律の保障をうたっている。これが前提です。高市早苗総務相の『停波』発言はそれこそナンセンス。真実と自律を保障する放送法を盾に、政治権力と戦わなきゃ」
 溝口さんは同会に寄せたメッセージで「民主主義を守り、戦前への回帰を阻止せねば、と思います」と記していた。改憲論議についても同じことが言えるだろう。

この記事を読んで、私は胸のつかえが降りた。今日は良い気持ちだ。さすが正義漢・溝口敦の言である。「問題報道どころか、最近は安倍首相を立てるような報道やニュースばかりですよ」「政治権力と戦わなきゃ」とは、視聴者の会の主張とは正反対ではないか。それにしても、最近は右翼の言説がこれまでリベラル派が言ってきたことと紛らわしい。溝口でさえも間違うことを教訓としなければならない。

ジョージ・オーウェルの「1984年」に出て来る、真理省のスローガンを想い起そう。
  戦争は平和なり
  自由は隷従なり
  無知は力なり

 積極的平和主義とは平和憲法破壊のこと。
 公平公正とは政権批判抑制のこと。
 知る権利擁護とは政権の言い分を伝えること、なのだ。

あらためて、「視聴者の会」賛同者のコメントを見直してみる。もしかしたら、間違えた賛同者が、溝口の外にもいるのではないだろうか。たとえば、次のようなコメントに考え込まざるを得ない。

「特定の立場からの報道であるのであれば、その立場を明確に表し反論の機会を提供すべきです。中立公正を装って、特定の立場からの意見を表明することは、許されることではありません。」
「国民一人一人が、借りものの思想や価値観で判断するのではなく、自分の頭で考え判断できるようにするためには、放送内容の公平性と公正さを守ることが必須です。」
「1.マスコミは権力者である 2.権力者は国民がチェックできなければならない。」
「NHKの分割・民営化、少なくとも視聴料禁止、娯楽番組に限り双方向性で課金するようにすべし」
(2016年3月18日)

これは、大きな問題だ。ぜひあなたも、高市早苗と安倍政権に抗議の声を。

2月8日と9日の衆議院予算委員会における総務相高市早苗発言。放送メディアを威嚇し恫喝して、アベ路線批判の放送内容を牽制しようという思惑の広言。あらためて、これは憲法上の大問題だと言わざるを得ない。政治とカネの汚い癒着を露呈した甘利問題もさることながら、表現の自由・国民の知る権利、そして民主主義が危うくなっていることを象徴するのが高市発言。もっと抗議の声を上げなければならない。

表現の自由こそは、民主主義社会における最重要のインフラである。これなくして、民主主義も平和も、社会の公正もあり得ない。そして、この表現の自由とは、何よりも権力からの自由である。表現の自由の主たる担い手であるメデイアは、常に権力からの介入に敏感でなくてはならない。いま、放送というメディアに権力が威嚇と恫喝を以て介入しているときに、肝心のメディア自身に危機感が見えない。もっと真剣に対峙してもらいたい。

残念ながらメディアの反応は鈍く、中央紙の社説では下記の3本が目につく程度。
 毎日社説 2月10日 総務相発言 何のための威嚇なのか  
 読売社説 2月14日 高市総務相発言 放送局の自律と公正が基本だ  
 東京新聞 2月16日 「電波停止」発言 放送はだれのものか  

政府寄り・アベ御用達と揶揄されるスタンスの社も、メディアのプライドをかけて高市発言を批判しなければなるまい。この事態を放置しておけば、確実に「明日は我が身」なのだから。しかも、各紙とも系列の電波メディアを持っている。とうてい他人事ではないのだ。

メディアの反応が鈍ければ、主権者が直接に乗り出すしかない。そこで、ご提案したい。ぜひ皆さま、抗議の声明を出していただきたい。個人でも、グループでも、組合でも、民主団体でも…。声明でも、要請でも、抗議文でも、申入書でも…形式はなんでもよい。宛先は高市早苗と安倍政権。あるいは、各放送メディアへの要請もあってしかるべきだろう。手段は、ブログもよし。手紙でもファクスでもメールでもよい。

問題は、文面である。在野・市民団体の側の危機感は鋭く、高市発言以来昨日(2月16日)までに、多くの抗議の声が上げられている。その内、下記4本の声明や申入れが代表的なもので、ほぼ問題点を網羅している。いずれも、日頃からの問題意識あればこその迅速な対応としての声明文だ。それぞれに特色があるが、並べて読めば網羅的に問題点を把握できる。これを読み比べ、議論の叩き台として、見解をまとめてみてはいかがだろうか。

官邸の宛先は
〒100-8968 東京都千代田区永田町1-6-1
   内閣総理大臣 安倍晋三殿

下記アドレスから官邸へのメール発信が出来る。
  https://www.kantei.go.jp/jp/forms/goiken_ssl.html

総務大臣の宛先は、
〒100?8926東京都千代田区霞が関2-1-2
     中央合同庁舎第2号館
 総務大臣 高市早苗殿

総務大臣宛には、下記URLからメールで。
  https://www.soumu.go.jp/common/opinions.html

なお、2月8日衆院予算委員会議事録のネットでの公開はまだないが、下記のサイトで、記録を起こした全文が読める。「高市早苗氏『電波の停止がないとは断言できない』放送局への行政指導の可能性を示唆」
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160209-00010000-logmi-pol

また、参考とすべき放送法は
  http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S25/S25HO132.html

電波法は、
  http://www.houko.com/00/01/S25/131.HTM

代表的な4本の抗議声明とは、下記のA?D。いずれも、信頼できる団体の信頼できる内容。

A 2月10日 民放労連声明
 「高市総務相の「停波発言」に抗議し、その撤回を求める」
  http://www.minpororen.jp/?p=293

B 2月12日 放送を語る会・日本ジャーナリスト会議
 「高市総務大臣の「電波停止」発言に厳重に抗議し、大臣の辞任を要求する」
  http://jcj-daily.seesaa.net/article/433733323.html

C NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ 申入れ
  「高市総務相の「停波」発言の撤回と総務大臣の辞職を求める申し入れ」
  http://sdaigo.cocolog-nifty.com/blog/2016/02/post-e9fb.html

D 2月16日 東京弁護士会・会長声明
 「高市早苗総務大臣の「放送法違反による電波停止命令を是認する発言」に抗議し、その撤回を求めると共に、政府に対し報道・表現の自由への干渉・介入を行わないよう求める会長声明」
  http://www.toben.or.jp/message/seimei/post-425.html

それぞれの特色があるが、下記の点では、ほぼ共通の認識に至っている。
(1) 高市発言の「放送法の規定を順守しない場合は行政指導を行う場合もある」「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」の部分を問題として取り上げ、これを不要不適切というのみならず、放送メディアに対する威嚇・恫喝と把握していること。

(2) 高市発言が、「放送法4条違反を理由に電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した」ことについて法の理解を間違いとしている。憲法・放送法の研究者においては放送法第4条は放送事業者に法的義務を課す規範ではなく、放送事業者の内部規律に期待した倫理規定とみなすのが定説であって、権力規制に馴染まないこと。

(3) 高市発言は、安倍政権の報道の自由への権力的介入の姿勢の象徴であるとともに、高市自身の日頃の政治姿勢の問題の発露でもあること。

(4) 電波管理行政を所管する大臣からの、メディアへの威嚇・恫喝は、憲法21条の理念に大きく違背するものとして、憲法上重要な問題であること。

(5) 高市には閣僚としての資質が欠けているとして、本人には辞任を、政権には更迭を求めていること。(弁護士会声明だけは別)

以下、各声明・申し入れの特徴を略記しておきたい。
A 2月10日 民放労連声明
さすがに、対応が迅速である。高市発言を放送の自由に対する権力的介入と捉え、これを我がこととしての当事者意識が高い。その自覚からの次の苦言が印象的である。
「今回のような言動が政権担当者から繰り返されるのは、マスメディア、とくに当事者である放送局から正当な反論・批判が行われていないことにも一因がある。放送局は毅然とした態度でこうした発言の誤りを正すべきだ。」

また、問題の根源が未熟な政府の放送事業免許制にあるとして、次の提案がなされている。
「このような放送局への威嚇が機能してしまうのは、先進諸国では例外的な直接免許制による放送行政が続いていることが背景となっている。この機会に、放送制度の抜本的な見直しも求めたい。」

B 2月12日 放送を語る会・日本ジャーナリスト会議声明
高市総務大臣の「個性」に着目して背景事情を語り、その資質を問題として糾弾する姿勢において、もっとも手厳しい。

「もし高市大臣が主張するような停波処分が可能であるとすれば、その判断に時の総務大臣の主義、思想が反映することは避けられない。
 仮に高市大臣が判断するとした場合、氏はかつて『原発事故で死んだ人はひとりもいない』と発言して批判をあび、ネオナチ団体代表とツーショットの写真が話題となり、また日中戦争を自衛のための戦争だとして、その侵略性を否定したと伝えられたこともある政治家である。このような政治家が放送内容を『公平であるかどうか』判定することになる。
 時の大臣が、放送法第4条を根拠に電波停止の行政処分ができる、などという主張がいかに危険なことかは明らかである。」
「我々は、このような総務大臣と政権の、憲法を無視し、放送法の精神に反する発言に厳重に抗議し、高市大臣の辞任を強く求めるものである。」

C NHKを監視・激励する視聴者コミュニティの総務大臣宛申入れ
小見出しを付した3パラグラフから成る。もっとも長文であり、叙述も広範囲に亘っている。
1.倫理規範たる放送法第4条違反を理由に行政処分を可とするのは法の曲解であり、違憲である。
「最高裁判決は、放送法4条の趣旨を、『他からの干渉を排除することによる表現の自由の確保の観点から,放送事業者に対し,自律的に訂正放送等を行うことを国民全体に対する公法上の義務として定めたもの』と言っている。権力的な介入を認める余地はない。」

2. 停波発言は2007年の放送法改正にあたって行政処分の新設案が削除され、真実性の確保をBPOの自主的努力に委ねるとした国会の附帯決議を無視するものである。
「高市総務相は『BPOはBPOとしての活動、総務省の役割は行政としての役割だと私は考えます』と答弁し、BPOの自立的な努力の如何にかかわらず、行政介入を行う意思を公言した。しかし、権力的介入を防止し、社会的妥当性を踏まえた自律機能を発揮するのがBPOの存在意義。高市発言は、BPOの存在意義を全面的に否定するものにほかならない。」

3. 放送法第4条に違反するかどうかを所管庁が判断するのは編集の自由の侵害である。
 「政治的に公平だったかどうか、多角的に論点を明らかにしたかどうかは往々、価値判断や対立する利害が絡む問題である。そして報道番組の取材対象の大半は、時の政権が推進しようとする国策であり、報道番組では政府与党自身が相対立する当事者の一方の側に立つのがほとんどである。放送に関する許認可権を持つ総務大臣が、放送された番組が政治的に公平かどうかの審判者のようにふるまうのは、自らがアンパイアとプレイヤーの二役を演じる矛盾を意味する。その上、放送事業者に及ぼす牽制・威嚇効果は計り知れず、そうした公言自体が番組編集の自由、放送の公平・公正に対する重大な脅威となる。」

D 2月16日 東京弁護士会・会長声明
 高市問題に関する最初の弁護士会声明である。憲法21条についての実践的重要課題として迅速に取り上げた執行部に敬意を表したい。
最後は、「よって、報道・表現の自由を萎縮させ、国民の知る権利を侵害し立憲民主主義を損なう高市早苗総務大臣の発言に強く抗議し撤回を求めると共に、政府に対し報道・表現の自由への干渉・介入となり得るような行政指導や発言を行わないよう求める。」と結ばれている。ここにも見られるとおり、高市よりは、むしろ政府に対する抗議と要請になっていることに特色がある。

「菅官房長官や安倍総理も、この(高市)発言を『当然のこと』『問題ない』として是認している。しかし、このような発言や政府の姿勢は、誤った法律の解釈に基づき放送・報道機関の報道・表現の自由を牽制し委縮させるもので、我が国の民主主義を危うくするものである。」というのが基本姿勢。

「憲法21条2項は検閲の禁止を定めているが、これは表現内容に対する規制を行わないことを定めるものでもある。1950年の放送法の制定時にも、当時の政府は国会で「放送番組については、放送法1条に放送による表現の自由を根本原則として掲げており、政府は放送番組に対する検閲、監督等は一切行わない」と説明している。
放送法4条が放送内容への規制・制限法規範になるものではなく、放送事業者の自律性における倫理規定に過ぎないことは明らかである。」「政府が、放送法4条の「政治的に公平」という言葉に部分的に依拠しそれが放送事業者に対する規制・制限法規範であると解釈して、行政指導の根拠とすることは許されず、さらに違反の場合の罰則として電波法76条1項による電波停止にまで言及することは、憲法および放送法の誤った解釈であり許されない。」とする。
その上で、「放送法4条についての今般の解釈を許すならば「政治的に公平である」ということの判断が、時の政府の解釈により、政府を支持する内容の放送は規制対象とはならず、政府を批判する内容の放送のみが規制対象とされることが十分起こり得る。さらに、電波停止を命じられる可能性まで示唆されれば、放送事業者が萎縮し、公平中立のお題目の下に政府に迎合する放送しか行えなくなり、民主主義における報道機関の任務を果たすことができなくなる危険性が極めて高くなるものである」とたいへん分かり易い。

安倍政権は、今や誰の目にも、存立危機事態ではないか。アベノミクスは崩壊だ。閣僚不祥事は次々と出て来る。そして、メディアを牽制するだけが生き残りの道と思っているのではないか。なんとか生き延びて、悲願の改憲をしたいというのがホンネであろう。
一つ一つの課題に、抗議の声を積み上げたいものと思う。
(2016年2月17日)

高市早苗発言のホンネ

私、高市早苗です。総務大臣のポストにあって、微力ながらもけなげにアベ政権を支えています。甘利さん、島尻さん、丸川さん、岩城さんなど、アベ政権を支える閣僚の不祥事や問題発言、そして無能ぶりが話題になっています。しかし、私に関しては不祥事とも、問題発言とも無縁です。もちろん無能とも。私の発言はすべて計算ずく、言わば確信犯なのですから、島尻さんや丸川さん岩城さんなどと一緒にされるのは、迷惑至極と言わねばなりません。

アベ政権の反知性の姿勢が批判の対象となっていますね。島尻さん、丸川さん、岩城さんなどは、いかにも「反知性」を感じさせますが、飽くまでも私は別格です。私は、アベ政権の知性を代表して、アベ政権を支えるために日夜奮闘しているのですから。

総務省って昔の自治省と郵政省を統合したもので、郵政省が管轄していた電波監理行政は今総務大臣である私の手の内にあります。NHKも民放も、放送法の縛りの中での免許事業ですから、私の意向を忖度しながら動かなければなりません。それが当然、当たり前のことではありませんか。

放送に携わる多くの方には、私が何を考えているか、どうすれば私の意に沿う放送内容になるのか、またどうすれば私の逆鱗に触れることになるのか、よくご理解いただいています。それくらい気がきかなければこの世界で生き抜いていくことが出来るとは思えませんものね。「憲法9条を守れ」だの、「解釈改憲は怪しからん」だの、「アベ政権の姿勢はおかしい」「アベノミクスは大失敗」だのといえば、免許権を持っている官庁との間に無用の摩擦が生じてものごとが面倒になる、そのくらいのことは大人の分別をお持ちの方ならよくお分かりのはず。

でも、今に限っては、「よくお分かりのはず」では不十分なのです。テレビやラジオの放送事業に携わる者の大部分はものわかりのよい方ばかりですが、ごく一部ではありますが変わり者もいます。「ジャーナリズムの真髄は政権批判にある」などと訳の分からぬことを言う人たち。普段ならともかく、今はこういう確信犯的人物の出番をなくさねばなりません。そのために、放送事業者に絶えずシグナルを送り続けなければならないのです。

何しろ、これから無理をしてでも、国民に不人気な明文改憲をやろうというアベ政権なのです。今のメディアの状況が続けば、アベ政権批判が噴出して、もたないことになるかも知れない。その危機感は閣内全体のものとなっています。だから、私がアベ政権を支える立場から、メディアの政権批判を抑制するよう火中の栗を拾わなければならないのです。

私は知性派ですから、必要な限りでホンネを発言しつつ、突っ込まれても躱せるように、切り抜け策を十分に準備しています。それが、「忖度と萎縮効果期待作戦」あるいは「ホンネチラ見せ戦術」と言うべきものなのです。私の独創ではなく、敏腕の政治家や官僚の常套手段といってもよいのではないでしょうか。

「おまえ、人を殺すようなことをするなよ」とか、「嘘を言うものじゃないよ」と言えば、言われた方は怒ります。「オレを人殺しだというのか」「嘘つきだというのか」と。でも、「『人を殺すようなことをしてはいけない』も『嘘を言ってはいけない』も、当然のことを言ったまでのことで、あなたを人殺しや嘘つきと決めつけたわけではない。だからなんの問題もない発言」と切り返すことを準備しているのです。これがアベ政権の悪知恵、いや知能犯、でもなく知性のあるやり方なのです。

私は、2月8日の衆院予算委員会で、「放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合には、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性がある」と確かに言いました。でも、飽くまで、一般論を述べただけ、「人を殺すようなことをしてはいけないのは当たり前だろう」と開き直って切り抜けられるように計算した発言なのです。何が政治的な公平性を欠くものか、どこの局のどのような番組にその虞があるのか、具体的な決め付けは何もしていません。

それでも、停波可能性発言のあとに、「行政指導しても全く改善されず、公共の電波を使って繰り返される場合、それに対して何の対応もしないと約束するわけにいかない」「私の時に(電波停止を)するとは思わないが、実際に使われるか使われないかは、その時の大臣が判断する」と続けました。ここまで言っておけば、放送事業者には私の真意を十分に忖度していただけるはず、そして萎縮してくれることが十二分に期待できるのです。

当たり障りのないことを言っているようで、実は萎縮狙いの効果抜群の私の発言。知性派である私なればこそ出来ることで、私がアベ政権をけなげに支えていると申しあげた意味も十分にお分かりいただけるものと思います。

ところで、「政治的な公平性」とは何か、誰が判断するのか、ということがにわかに議論となってまいりました。

「政治的な公平性」あるいは「公平性を欠く」という判断は誰がするのか。その判断の権限は、主務官庁の責任者である私にあることは明らかです。私は、逃げることなくその判断をいたします。

考えてもいただきたい。民主主義の世の中です。選挙で主権者の多数からご支持をいただいて政権が出来ています。私の職責も、主権者国民から委託されたものなのです。私がその職責を果たさないことは、国民を裏切ることになろうというものです。

では、「政治的な公平性を欠く」とはどういうことか。私が申し上げましたとおり、「国論を二分する政治課題で一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに他の見解のみを取り上げてそれを支持する内容を相当時間にわたり繰り返す番組を放送した場合」で十分だと思います。これで、多くの放送事業者はものわかりよく、「憲法を守れ」「9条改憲反対」「アベ政権は非立憲」などと言ってはいけないのだと、正確に呑み込んでいただけるはず。これをアウンの呼吸とか、魚心あれば水心というものでしよう。これにツッコミを入れるなんて野暮というものではありませんか。

えっ? なんですって? 「あなたの目は結局政権だけに向いていて、国民の方には向いていないのか? とおっしゃるのですか」

その質問がおろかなのです。国民が選んだ政権ではありませんか。アベ政権こそが、国民の意思を体現しているのです。ですから、軽々にアベ政権批判は慎んで戴きたいという私の真意は、国民の意思を尊重することでもあるのです。お分かりでしょうか。

ああ、私って、なんて知性派。
(2016年2月14日)

水島朝穂「直言」が語る「メディア腐食の構造―首相と飯食う人々」

水島朝穂さんのメルマガ「直言」は、胸のすくような鋭い切れ味に貴重な情報が満載。教えられることが多い。
  http://www.asaho.com/jpn/index.html

その最近号は、明日(2016年1月11日)付の「メディア腐食の構造―首相と飯食う人々」というタイトル。ジャーナリストたる者が、「首相と飯食う」ことを恥ずべきことと思わず、むしろ、ステイタスと思っている節さえあるのだ。この人たちに、アベとともに喰った飯の「毒」が確実にまわっているという指摘である。その指摘が実に具体的であるところが切れ味であり、胸のすく所以である。

かなりの長文なので、私なりに抜粋して要点をご紹介する。ぜひ下記の原文もお読みいただきたい。
  http://www.asaho.com/jpn/bkno/2016/0111.html

水島さんは、「10年でメディアの批判力はここまで落ちたのか。劣化度は特にNHKに著しい」と嘆く。アベ政権は、「政府が右と言うときに、左とはいえない」という会長人事や、経営委員会に百田・長谷川のような右翼を送り込むだけでなく、論説委員や記者への接触によって籠絡していることを具体的に語っている。

批判力の劣化を嘆かざるを得ないNHK政治部記者3人の名が出て来る。まずは、ご存じ岩田明子(解説委員・政治部)。
この人は、安倍首相の「想い」を懇切丁寧に読み解いて、「安倍総理大臣は、日本が再び戦争をする国になったといった誤解があるが、そんなことは断じてありえないなどと強調しました。安倍総理大臣は行使を容認する場合でも限定的なものにとどめる意向で、こうした姿勢をにじませ、国民の不安や疑念を払拭すると同時に、日本の平和と安全を守るための法整備の必要性、重要性を伝えたかったのだと思います」と言っている。客観報道ではなく、「忖度報道記者」なのだ。

ついで、田中泰臣(記者・政治部)。
「その『解説』はひどかった。例えば、採決を強行した安倍首相を次のように『弁護』していた。
『安倍総理大臣とすれば、安全保障環境が厳しさを増しているなか日米同盟をより強固なものにすることは不可欠であり、そのために必要な法案なので、いずれ分かってもらえるはずだという思いがあるものとみられる。また集団的自衛権の行使容認は、安倍総理大臣が、第1次安倍内閣の時から取り組んできた課題でもあり、みずからの手で成し遂げたいという信念もあるのだと思う。』」
これも典型的な忖度記者。

そして3人目が、島田敏男(NHK解説副委員長)。この人の名は、まずはアベの「寿司友」の一人として出て来る。もっぱら、西新橋「しまだ鮨」での会食なのだそうだ。

「メディア関係者との会食も、歴代政権ではかつてなかった規模と頻度になっている。このことを正面から明らかにしたのは、昨年の『週刊ポスト』5月815日号である。それによると、安倍首相は2013年1月7日から15年4月6日まで、計50回、高級飲食店で会食している。記事の根拠は、新聞の「首相動静」欄である。首相と会食するメンバーは、田崎史郎(時事通信解説委員)、島田敏男(NHK解説副委員長)、岩田明子(同解説委員)、曽我豪(朝日新聞編集委員)、山田孝男(毎日新聞特別編集委員)、小田尚(読賣新聞論説主幹)、石川一郎(日本経済新聞常務)、粕谷賢之(日本テレビメディア戦略局長)、阿比留瑠比(産経新聞編集委員)、末延吉正(元テレビ朝日政治部長)などである。

首相とメディア幹部がかくも頻繁に会食するという「腐食の構造」は、それまでの政権には見られなかったことである。「毒素」は、メディアのなかにじわじわと浸透していった。」

島田敏男への「毒素」のまわり具合については、水島さん自身の体験が語られている。
「NHKの『日曜討論』に呼ばれたのは、安保法案が衆議院で採決される4日前という重要局面だった。『賛成反対 激突 安保法案 専門家が討論』。控室での打ち合わせの際、司会の解説委員(島田敏男・澤藤註)は、『一つお願いがあります。維新の党の修正案には触れないでください』と唐突に言った。参加した6人の顔ぶれからして、私に向けられた注文であることは明らかだった。自由な討論のはずなのに、発言内容に規制を加えられたと感じた。実際の討論でも、私が発言しようとすると執拗に介入して、憲法違反という論点の扱いを小さく見せようとした節がある。結局、『法案が成立したら自衛隊は国際社会で具体的にどう活動していくか』という方向で議論は終わった。採決を目前にして、『違憲の安保法案』というイメージを回避しようとしたのではないか。それを確信したのは、帰り際、送りのハイヤーに乗り込んだ私に対して、その解説委員がドア越しに、『維新の修正案は円滑審議にとてもいいのですよ』と言ってにっこり微笑んだからである。車内でその言葉の意味に気づくのにしばらく時間がかかった。」

こうして、水島さんは「『日曜討論』は私の『島』だという顔をしている島田解説副委員長」について、「これ以上、『日曜討論』の司会を彼に続けさせてはならない。」ときっぱり言っている。はっきりものを言うことのリスクを承知の上での発言である。

さらに、水島さんは、浅野健一著『安倍政権言論弾圧の犯罪』(社会評論社、2015年)を高く評価して、その一読を勧める書評の中で、こう書いている。
「本書は著者(浅野)の最新刊。『戦後史上最悪の政権』が繰り出す巧妙かつ露骨なメディア対策の数々を鋭く抉りながら、他方、メディア側の忖度と迎合の実態にも厳しい批判を速射する。特に、一部週刊誌が暴露した安倍首相とメディア関係者のおぞましい癒着の実態を、本書はさらに突っ込んで剔抉する。」
「本書によれば、安倍首相は第2次内閣発足後、親しいメディア関係者と30数回も会食している」「時事通信解説委員(田崎)が最も多く首相と会食しているが、彼はTBSの番組で、『政治家に胡蝶蘭を贈るのは迷惑。30ももらって置くところがない。もらってくれと 言われ、もらった。家で長くもった』と言い放ったという。こんなジャーナリストは米国では永久追放になる、と著者は厳しく批判する。政権とメディアの関係を正すためにも、本書の一読をおすすめしたい。」
「米国では永久追放になる」という「こんなジャーナリスト」には、NHKの3記者も含まれることになるのだろう。

ジャーナリズムは、社会の木鐸っていうじゃないか。権力を叩いて警世の音を響かせるのが役目だろう。政権の監視と批判が真骨頂さ。権力と癒着しちゃあおしまいよ。安倍晋三なんぞと親しく飯喰って、それでズバリと物が言えるのかい。自分じゃどう思っているか知らないが、世間はそんな記者も、そんな記者を抱えているメディアも、決して信頼できないね。

民俗学では共同飲食は祭祀に起源をもって世俗的なものに進化したというようだ。「一宿一飯」「同じ釜の飯」という観念は世俗社会に共有されている。酒食を共にすることは、その参加者の共同意識や連帯感を確認する社会心理的な意味を持つ行為である。親しく同じ飯を喰い、酒を酌み交わしては、批判の矛先が鈍るのは当然ではないか。ジャーナリストが、権力を担う者と「親しく同じ席の飯を喰う」関係になってはいけない。

産経のように、ジャーナリズムの理念を放擲し政権の広報紙として生き抜く道を定めた「企業」の従業員が、喜々として首相と飯を喰うのなら、話は別だ。しかし、仮にもジャーナリズムの一角に位置を占めたいとするメディア人の、「腐食の構造」への組み込まれは到底いただけない。とりわけ「公正」であるべきNHKのアベ政権との癒着振りは批判されなけばならない。

アベ政権だけにではなく、アベと癒着したメディアに対しても、冷静な批判の眼を持ち続けよう。
(2016年1月10日)

太平洋戦争開戦の日から74年。再びの戦争を起こさない決意を込めて。

本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、こちらは「本郷・湯島9条の会」です。東京母親大会連絡会の方もご一緒に、昼休み時間に平和を守るための訴えをさせていただいています。少しの時間、耳をお貸しください。

今日は12月8日、私たちがけっして忘れてはならない日です。74年前の今日の午前7時、NHKは突然臨時ニュースを開始しました。このときが、NHKの代名詞ともなった初めての「大本営陸海軍部発表」。「帝国陸海軍が本8日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という、このニュースで国民は日本が米英と戦争に突入したことを知らされたのです。

日曜日の真珠湾に、日本は奇襲をかけました。向こうから見れば、宣戦布告のない卑怯千万なだまし討ち。その戦果は、戦艦2隻を轟沈、戦艦4隻・大型巡洋艦4隻大破、そして2600人の死者でした。この報に日本は沸き返りました。戦争は確実に国民の支持を得たのです。

戦後東大総長になった南原繁は、開戦の報を聞いたときに、こんな愚かな「和歌」を詠んでいます。
  人間の常識を超え学識を超えて おこれり日本世界と闘ふ
この人の学問とは、いったい何だったのでしょうか。政治学者である彼は、何を学んでいたのでしょうか。

1931年の「満州事変」から始まった日中戦争は当時膠着状態に陥っていました。中国を相手に勝てない戦争を続けていた日本は、新たな戦争を始めたのです。今でこそ、誰が考えても無謀な戦争。これを、南原だけでない多くの国民が熱狂的に支持しました。

戦争は、すべてに優先しすべてを犠牲にします。この日から灯火管制が始まりました。気象も災害も、軍機保護法によって秘密とされました。治安維持法が共産党の活動を非合法とし、平和を求める声や侵略戦争を批判する言論を徹底して弾圧しました。大本営発表だけに情報が統制され、スパイ摘発のためとして、国民の相互監視体制が徹底されていきます。

ご通行中の皆さまに、赤いチラシと白いチラシを撒いています。赤いチラシは「赤紙」といわれた召集令状の写です。本物を写し取ったもの。世が世であれば、これがあなたの家に配達されることになるのです。イヤも応もなく、これが来れば戦地に送られることを拒めません。それが徴兵制というもの。

赤いチラシが74年前の社会を思い出すためのもので、白いチラシは現在の問題についてのものです。安倍内閣が憲法を曲げて、無理矢理通した「戦争法」についての解説で、中身は以下のとおりです。

戦争法(安保法制)とは何か
戦争法とは何でしょうか。日本が海外で戦争する=武力行使をするための法律です。地球上のどこでも米軍の戦争に参戦し、自衛隊が武力行使する仕掛けが何重にも施されています。1945年以来世界の紛争犠牲者は数千万人に上り、第二次世界大戦の死者に匹敵します。そのなかで自衛隊は1954年の創設以来、敵との交戦で一発の弾丸を撃つこともなく、一人の戦死者も出さず、一人の外国人も殺してきませんでした。これこそ憲法9条があったおかげです。

来年の3月に戦争法(安保法制)が施行(実施)されます
 戦争法の実施で、真っ先に戦場に行くのは若い自衛隊員です。放置すれば、現在の子どもが大人になるころ、海外での戦闘態勢はすっかり整ってしまいます。ドイツは侵略戦争を禁じた憲法解釈を1990年に変え、2002年アフガニスタンに派兵して55人の戦死者を出し、多くの民間人を殺傷しました。そのドイツが今、対ISの後方支援という名で1,200人派兵することを決定しました。
 そして、憲法9条を無視して戦争法(安保法制)を成立させ実行に移そうとしているのが今のわたしたちの国、日本なのです。

戦争法でテロはなくせません
 ISは、2003年に始まったイラク侵略戦争と2011年からのシリア内戦で生まれ、勢力を拡大してきました。イラク戦争の当事者であるブレア元英国首相は「イラク戦争がISの台頭につながった」と認めています。このことを認めながら英国は、パリ同時多発テロを契機に今シリアの空爆を始めました。わが国においても、戦争法によってISに空爆をおこなう米軍などへの兵站支援が可能になりました。

日本が米国から空爆支援を要請されたら、「法律がない」と言って拒否することはもうできません。今こそわたしたちが戦争法(安保法制)に反対し平和な日本、そしてアジア・世界に 向かって日本国憲法第9条を旗印に平和な日本・世界を実現しようではありませんか

今日12月8日は、なぜ日本は戦争を始めたのか、なぜあの無謀な戦争を止められなかったのか。そのことを真剣に考え、語り合うべき日だと思います。日本人の戦没者数は310万人。そして、日本は2000万人を超える近隣諸国の人々を殺害したのです。戦争が終わって、国民はあまりに大きな惨禍をもたらしたこの戦争を深く反省し、再び戦争をするまいと決意しました。まさしく、今日はそのことを再確認すべき日ではありませんか。

戦争は教育から始まる、とはよく言われます。戦争は秘密から始まる。戦争は言論の弾圧から始まる。戦争は排外主義から始まる。新しい戦争は、過去の戦争の教訓を忘れたところから始まる。「日の丸・君が代」を強制する教育、特定秘密保護法による外交・防衛の秘密保護法制、そしてヘイトスピーチの横行、歴史修正者の跋扈は、新たな戦争への準備と重なります。さらに戦争法による集団的自衛権行使容認は、平和憲法に風穴を開ける蛮行なのです。再びの戦争が起こりかねない時代の空気ではありませんか。

これ、すべてアベ政権のやって来たこと、やっていることです。先ほど、本郷・湯島九条の会の会長が初めて、ここでの演説をおこない、憲法と平和を守るために、アベ政治を許してはならないという訴えをされ、大きな拍手が起こりました。

地元9条の会は、今年一年間、毎月第2火曜日のこの場での宣伝活動を続けてきました。今年は今回で終了です。しかし、年が明けたらまた続けます。「戦争法廃止、立憲主義・民主主義を取り戻す」たたかいは、安倍政権を退陣させ、わが国が9条を復権させるまで、続けざるを得ません。そして来年こそは、しっかりと平和な日本を確立する大きな一歩を踏み出す年にしようではありませんか。ご静聴ありがとうございました。
(2014年12月8日・連続第982回) 

問題は、「権力からの圧力を感じる能力」の欠如だ

本日の毎日朝刊に、次の見出しの記事。
「籾井・NHK会長:与党聴取『圧力と捉えず』 やらせ疑惑巡り」
「NHKの籾井勝人会長は3日の定例記者会見で、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を巡り自民党が局幹部から事情聴取したことについて、『圧力と捉えるのは考えすぎだ』と述べた。放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は11月6日、自民党の聴取を『政権党による圧力』と批判する意見書を出している。
籾井会長は意見書の指摘には『コメントを控える』としたうえで、『(クローズアップ現代の報道に関する)我々の中間報告書が出た時点の話だから、説明に行っただけ』と主張。さらに『自民であろうが野党であろうが、説明に来いと言われれば行くが、そこで《この番組はどうだ》と(内容について)言われても、我々は《聞けません》という話だ』と述べた。」

読売もほぼ同じ内容で、見出しは「自民の事情聴取『圧力は考えすぎ』…NHK会長」。

産経(デジタル)が籾井の言葉を詳しく報道している。その一部。

「自民党の聴取については、あのとき、NHKの中間報告が出ていた。それを説明に行ったということだ。番組について、NHKがプレッシャーを受けたということはない。こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれないが、そういうことではない。NHKの中間報告が出た時点で、それを説明に行ったということ。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。こう言うと反発を食らうかもしれないが、事実はそういうことだ」

「??BPOの意見書などは、政権与党がテレビ局を呼んだことを「圧力」と指摘していた。だが、籾井会長自身は圧力ではないと受け止めているというか
はい。(そう考えてもらって?澤藤補足)結構です。言い過ぎかもしれないが。われわれは不偏不党でやっているので、自民党であろうが、野党であろうが、『説明に来い』と言われたら、説明には行く。そこで『この番組はどうだ』と(注文を)言われたら、NHKとしては聴けません、という話だ。われわれとしてはそういう認識で(説明に)行った」

「??BPOとは考え方が違うということか
BPOと考え方が違うとか、そういうことではなく、NHKとしてはそう思っているということだ」

籾井記者会見の発言は、実は大きな問題を露呈しているのだ。NHKはBPOの指摘をまったく理解していない。理解する能力をもっていない。だから、当然のことながら、BPOの指摘を真摯に受け止める姿勢に欠けている。

BPOはNHK自体の問題として、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を指摘した。さすがに籾井もこの点は理解しているようだ。しかし、BPOの指摘はこれだけでなく、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めている。これが真骨頂。

BPO意見書は、「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、BPOは、NHKの側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促したのだ。

籾井には、BPOから指摘のこの問題点の重要性が理解できない。だから自覚など生じようがないのだ。
「NHKがプレッシャーを受けたということはない。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。」というのは、おそらく彼のホンネなのだろう。

籾井は、自ら「こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれない」としている。自分では「自民党寄り」という程度の自覚なのかも知れないが、実態はとんでもない、そんなレベルではない。「寄り」ではなく安倍自民党と一体の存在なのだ。圧力とは、異質のものからの働きかけについてだけ感じられるもの。籾井は、高市や自民党から何と言われても、身内からの助言としか感じない。これを圧力と感じる能力を欠いているのだ。

言論人は、権力との距離を十分に意識し、自分が権力とは異質であることを自覚しなければならない。権力の行使のあり方には常に敏感でなくてはならない。自分に対するものだけでなく、他者に対するものについても、権力からの圧力は鋭敏なアンテナで覚知して、声を上げ抵抗する覚悟がなければならない。

籾井勝人には、そのような資質が決定的に欠けている。どっぷり浸かった権力との同質感がその妨げとなっている。戦前のメディアの多くは権力からの弾圧を感じていなかった。NHKは大本営発表に汲々とし、新聞は戦意高揚を煽って部数を伸ばした。自らを権力と同質のものとし、権力からの独立や対峙の気概をもたなかったからだ。

籾井勝人は、戦前のNHKとまったく同じ感覚ではないか。BPOの指摘をないがしろにするNHK会長は、やはり不適任。辞めてもらわねばならない。日本の民主主義のために。
(2015年12月4日・連続977回)

アベ政権の反知性主義に毒されてはならない

上村達男(元NHK経営委員)著の「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」(東洋経済新報社)が話題となっている。題名がよい。これに「法・ルール・規範なきガバナンスに支配される日本」という副題が付いている。帯には、「NHK経営委員長代行を務めた会社法の権威による、歴史的証言!」。著者は、人も知る「法・ルール・ガバナンス」のプロ中のプロ。その著者が、直接にはNHKのガバナンスについて報告しつつも、「規範なきガバナンスに支配される日本」を論じようというのだ。これは興味津々。

私はこの本をまだ読んでいない。11月29日(日)の赤旗と朝日の両書評を見た限りで触発されての本日のブログである。

NHKの反知性が話題になっているのは、およそ知性とかけ離れた会長のキャラクターによる。元NHKディレクターの戸崎賢二による赤旗の書評の表題が、「衝撃の告発 根源的な危機問う」と刺激的だ。NHK会長の反知性ぶりが並みではなく衝撃的だというのだ。その籾井勝人の「反知性」の言動を間近に見た著者の「衝撃の告発」「歴史的証言」にまず注目しなければならない。

「上村氏は2012年から3年間NHK経営委員を務め、籾井会長時代は経営委員長代行の職にあった。この時期に氏が体験した籾井会長の言動の記録は衝撃的である。自分に批判的な理事は更迭し、閑職に追いやる、気に入らないとすぐ怒鳴り出す、理事に対しても『お前なー』という言葉遣い、など、巨大組織のトップにふさわしい教養と知見が備わっていない人物像が描かれている。」

これは分かり易い。しかし、問題はその先にある。「反知性」の人物をNHKに送り込んだ「反知性主義者」の思惑が厳しく問われなければならない。
「著者は、こうした(籾井会長の)言動を『反知性主義』と断じているが、会長批判に終始しているわけではない。安倍政権が、謙抑的なシステムを破壊しながら、国民の反対を押し切って突き進む姿も『反知性主義』であり、政権のNHKへの介入の中で起こった会長問題もその表れであるという。」「NHK問題の底流には日本社会の根源的な危機が存在している、という主張に本書の視野の広さがある。」

朝日の方は、「著者に会いたい」というインタビュー記事。「揺らぐ『公正らしさ』への信頼」というタイトルでのものだが、さしたるインパクトはない。それでも、著者の次の指摘に目が留まった。

「公正な情報への信頼が揺らげば、議論の基盤が失われ、みんなが事実に基づかずに、ただ一方的に言葉を投げ合うような言論状況が起きかねない。『健全な民主主義の発展』に支障が生じるのではないか、と懸念する。」

民主主義は「討議の政治」と位置づけられる。討議における各自の「意見」は各自が把握した「事実」に基づいて形成される。各自が「事実」とするものは、主としてメディアが提供する「情報」によって形づくられる。公共放送の使命を、国民の議論のよりどころとなる公正で正確な情報の提供と考えての上村発言である。

おそらく誰もが、「あのNHKに、何を今さら途方もない過大の期待」との感をもつだろう。政権と結びつき政権の御用放送の色濃い現実のNHKである。そのNHKに、「議論の基盤」としての公正な報道を期待しようというのだ。それを通じての「健全な民主主義の発展を」とまで。

一瞬馬鹿げた妄想と思い、直ぐに考え直した。反知性のNHKではなく、憲法の理念や放送法が想定する公共放送NHKとは、上村見解が示すとおりの役割を期待されたものではないか。その意味では、反知性主義に乗っ取られたNHKは、民主主義の危機の象徴でもあるのだ。到底このままでよいはずがない。

さて、「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」という問について考えたい。この書名を選んだ著者には、「乗っ取られた」という思いが強いのだろう。では、NHKは本来誰のもので、乗っ取ったのは誰なのだろうか。

公共放送たるNHKは、本来国民のものである。国家と対峙する意味での国民のものである以上、NHKは国家の介入を厳格に排した独立性を確立した存在でなくてはならない。しかし、安倍政権はその反知性主義の蛮勇をもってNHK支配を試みた。乱暴きわまりない手口で、まずは右翼アベトモ連中を経営委員会に順次送り込み、その上で反知性の象徴たる籾井勝人を会長として押し込んだ。NHK乗っ取り作戦である。

NHKを乗っ取った直接の加害者は、明らかに安倍政権である。解釈改憲を目指しての内閣法制局長人事乗っ取りとまったく同じ手法。そして、乗っ取られた被害者が国民である。政権が、反知性主義の立場から反知性の権化たる人物を会長に送り込む人事を通じて、国民からNHKを乗っ取った。一応、そのような図式を描くことができよう。

しかし、安倍政権はどうしてこんなだいそれたことができてしまうのか。政権を支えているのは、けっして極右勢力や軍国主義者ばかりではない。小選挙区制というマジックはあるにせよ、政権が比較多数の国民に支えられていることは否定し得ない。自・公に投票しなかった国民も、この間の政権によるNHK会長人事を傍観することで、消極的あるいは間接的に乗っ取りに加担したと言えなくもない。

とすれば、国民が国民からNHKを乗っ取ったことになる。加害者も被害者も国民という奇妙な図。両者は同一の「国民」なのか、それとも異なる国民なのか。

「反知性主義」とは、国民の知的成熟を憎悪し、無知・無関心を歓迎する政権の姿勢である。自らものを考えようとしない統治しやすい国民を意識的にはぐくみ利用しようという政権の思惑といってもよい。反知性主義者安倍晋三がNHKに送り込んだ反知性の権化は、政権の意を体して「政府が右を向けというからいつまでも右」という報道姿勢をとり続けている。今のところ、反知性主義者の思惑のとおりではないか。

ヒトラー・ナチス政権も旧天皇制政府も、実は「反知性の国民」からの熱狂的な支持によって存立し行動しえたのだ。国民は被害者であるとともに、加害者・共犯者でもあるという側面を否定できない。再びの過ちを繰り返してはならない。反知性主義に毒されてはならず、反知性に負けてはならない。

厚顔と蛮勇の前に知性は脆弱である。が、必ずしも厚顔と蛮勇に直接対峙しなければならないことはない。大きな声を出す必要もない。心の内だけででも、政権の不当を記憶に刻んで忘れないとすることで対抗できるのだ。ただ粘り強さだけは必要である。少なくとも、反知性の徒となって、安倍政権を支える愚行に加わってはならない。それは、いつか、自らが悲惨な被害者に転落する道に通じているのだから。
(2015年12月1日・連続第975回)

怯まず臆せず、政権と自民党を批判したBPO意見書

このごろ巷に流行るもの、「不祥事に、第三者委員会」である。
第三者とは「当事者以外の者、その事柄に直接関係していない人を言う」と辞書は解説しているが、どうも身内のお手盛り委員会と疑われるものが多い。どうやら、「第三者委員会まがい」、ないしは「第三者委員会もどき」である。

不祥事の当事者は、記者会見で神妙に頭を下げ、「第三者委員会を設置して厳重に調査してもらいます」と呪文をとなえる。この呪文が案外に効くのだ。社会からの風圧を遮断し、その調査結果を待ってみようという気分にさせるのだ。そして、学識経験者や弁護士らから成る委員会(もどき)が、世間の記憶が薄れたころに、気の抜けたサイダーのごとき調査結果を発表をする。これが通例、これが通り相場の定番となりつつある。

ところが、昨日(11月5日)、NHKと日本民間放送連盟による第三者機関であるBPO(「放送倫理・番組向上機構」)がNHKの報道番組「クローズアップ現代」のやらせ問題で珍しく立派な意見書を発表した。これこそ、第三者委員会のお手本ではないか。

政権にも、与党にも、有力政治にも、そしてNHK当局に対しても、怯むことなく臆することなく、指摘すべきを指摘し、批判すべきを批判しているこの姿勢は十分な評価に値する。多くのメディアの論調がこの度のBPO意見書を肯定的に紹介していることは、この社会の健全さを示すものとして爽やかさを感じさせる。

第三者と銘打つ機関の調査結果が辛口であって当たり前なのだが、新聞には「異例の意見書」という大見出しが踊った。「やらせはなかった」というNHKの自己調査を「深刻な問題を演出や編集の不適切さに矮小化している」と批判し、「重大な放送倫理違反があった」「事実と異なることを視聴者に伝えた」と指摘した。(東京新聞)

このまっとうな結論に、NHK当局は「真摯に受けとめる。事実に基づき正確に報道するという原点を再確認し、再発防止策を着実に実行していく」と答えている。(東京新聞)

BPO意見書の異例はこれだけではない。つけ加えて、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めたのである。これが真骨頂。久方ぶりにまっとうな意見を聞くことができ、清々しい気分で朝を迎えることができた。

各紙が「NHKに自民圧力」「BPO 政府の介入を批判」「番組介入許されない」と報じた。「自民党国会議員らの6月の例会で『マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい』との発言があったことなどを『圧力』の例として列挙。高市早苗総務相が4月末、NHKを厳重注意したことも問題視した」「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、放送局側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促した。(毎日新聞)

この日は、タイミングよく「アベチャンネルはゴメンだ!」「怒りのNHK包囲行動」予定の日。包囲行動のボルテージは自ずから高揚した。NHK西門における、従軍慰安婦問題を追及してきた池田恵理子さん、沖縄辺野古から果敢に報道を続けている景山あさ子さんなど各界からのNHKの偏向報道に対する不満や叱咤激励のリレートークも自ずと力のこもったものとなった。出入りするNHK職員もさぞ肩身が狭かろう。

その後、宮下公園から渋谷ハチ公広場前をコースとしたデモ行進が行われた。コールも曇り空に負けまいと大きく響いた。「アベ政権は報道への介入をやめろ」「NHKをアベちゃんねるにするな」「NHKは政権の介入に屈するな」というコールはBPO意見書のとおりである。「籾井会長はやめろ」「NHKは国民の声を伝えろ」は当然の要求である。

「マイナンバーで受信料を徴収するな」は沿道の若い人々の大きな共感を呼んだ。携帯でシャメを撮る人が多いのも渋谷をデモする醍醐味。ちょっと長丁場の包囲行動は参加者や世話人の方には負担かとも思われたが、解散場所の宮下公園へ着いても快い興奮が充満してさりがたい気分が満ちていた。このような人々の声が、BPO意見に反映しているのだ。
(2015年11月7日・連続第951回)

勲章ー押し戴く人と、興味ないと言う人と

11月3日、憲法公布記念日である。「憲法大嫌い政権」と、「憲法守れと声を上げる民衆」とのせめぎ合いが続く中での憲法公布69周年。民主主義の世に、どうしてこんなぶざまな政権が存在しうるのか。つくづく思う。民主主義って何だ? 答えは出て来ない。

せめては「アベ政治を許さない」のポスターを掲げよう。下記のURLからダウンロードしたA4のポスターをクリアケースに入れて、午後1時本郷三丁目の駅頭に立った。
https://sites.google.com/site/hisaesawachi/test/sho_f.pdf?attredirects=0
妻と二人だけ、両手に各一枚。横断幕もビラの配布もマイクもない。ひたすら、人間掲示板として30分。休日のこととて人通りは少なかった。

さて11月3日、文化の日。これを「明治の日」にという右翼の動きがある。戦前は明治節。明治期には天長節だった。昔も今も、天皇制に絡めとられた日本を考えさせられる日である。

この日に、秋の叙勲なるものが発表される。毎年、春と秋とに各4000人にも授章がある。昔は、勲一等などの等級がつけられていた。特級酒・一級酒・二級酒、あるいは寿司を注文する際の松・竹・梅のあの感覚。下級の勲章は、「くんぱち」とか「くんろく」と呼ばれたようだ。今は、大・中・小だ。小綬章以下は都道府県で、中綬章は東京プリンスホテル「鳳凰の間」で伝達式が行われる。大綬章等勲章親授式は皇居で行われるという。

公的に、天皇の名によって人間を差別し格付ける愚かな制度。こんなものを欲しがる者がおり、もらって嬉しがる者がいて、制度がなり立っている。

驚いたことに、あのアーミテージが受賞者の一人となっている。よく見るとラムズフェルド(元国防長官)もだ。戦後の保守政権と天皇が、東京大空襲で10万人の住民を焼き殺した張本人、カーチス・ル・メイに勲一等旭日大綬章を授与したことを思い出す。彼らも、勲章もらうと嬉しいのだろうか。

ご存じ、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中の「小児」と題する一節。
「軍人は小児に近いものである。…軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなったものではない。勲章もーわたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」

まったく同感。芥川の時代から90年、敗戦をはさんで日本人はさして変わっていない。なぜ、毎年8000人もの人が、酒にも酔わずに、恥ずかしげもなく、勲章を押し戴いているのだろうか?

国家が国民を束ねる基本手段は、ムチとアメと、そしてダマシの3種である。私には、勲章がアメにもダマシにもなることが不思議でならない。

30代半ばの頃、私は岩手弁護士会の若手だった。全会員30人余の小会だったが、何度か長老弁護士に叙勲の機会があった。弁護士会長経験者は勲四等、東北弁連会長だと三等、日弁連会長やれば二等と相場は決まっていた。小単位会では、誰もが回り持ちで会長を務める。誰もが最低勲四等受賞資格者にはなるわけだ。もちろん、「在野を誇りとする弁護士に勲章はふさわしくない」という尊敬すべき辞退者は少なくなかった。が、尊敬すべからざる受勲者もあった。

受勲者があると弁護士会が祝賀会を催した。私は、たった一度だけだが、その祝賀会に出席したことがある。若気の至り。何度か経験した大きな禍根のひとつ。その時の受勲者は、榊原孝さんという長老だった。親しくはしていたが、戦前道場を開いて若者に臣民の道を説いていたという伝説のある方。岩手靖国訴訟では、被告代理人席に着座していた。当時の岩手弁護士会長は、後に社会党から代議士になった山中邦紀さんだった。弁護士には珍しい教養人。その山中さんが、私を説得した。「澤藤さん、ここは弁護士会の和を大切にしましょうよ」「勲章を天皇からもらうと思えば角も立つでしょうが、天皇は国民の象徴なのだから、国民からの表彰と思えばよろしいのでは」。

山中さんへの義理立てで心ならずも出席したその席に、勲何等かの叙勲の位記が恭しく飾られていた。御名御璽なるものを、このときはじめてつくづくと眺めた。主賓の榊原さんが、声涙下るスピーチをされた。
「私ごとき者に、陛下から過分の思し召しをいただき感激に耐えません」という趣旨で、私はこんな席に出たことを激しく後悔し、恥ずかしいと思った。以後二度と、「叙勲おめでとう」などと間違ったことを口にしたことはない。

先日、大学(1・2年生時)の同期会で金沢に遊んだ。誰も何者でもなく、何の肩書もない時代に知り合って付き合った仲間たち。今また、ほとんどが肩書なく、何ものでもなくなって気が置けない付き合いを復活している。「このグループは貴重な存在だ。昔のままで恰好つけなくても付き合える」という一人の述懐のとおり、みんなチョボチョボ、今さら恰好をつけてもどうにもならない。

私も含めその仲間のほとんどが叙位叙勲なんぞとは無縁、無関係。ところがたった一人、参加者の中に、国立大学名誉教授という「立派な肩書」をもつ者がいる。何のきっかけか、勲章の話しになった。誰かが、「おまえ、まだ勲章もらわないのか」と興味深そうに問いかけたら、名誉教授君はさらりと答えた。

「アンケートみたいな問合せがくるんだよ。勲章もらいますか、もらいませんかっていうような。ボクは、そんなのに興味ないから、もらいませんって回答したんだ。それだけのこと」

私は常々天皇制を罵倒し天皇制に無批判な世相を嘆いている。が、名誉教授君はそうではない。「どうしてそんなにムキになれるんだよ」と冷ややかなのだ。それでも、「勲章に興味なんてない」とサラリと言ってのけるさわやかさに感動を覚えた。やっぱり、昔の仲間はよい。いや、よい仲間に恵まれたというべきなのだろう。
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「NHK包囲行動」第2弾が11月7日(土)実施されます!
 NHK包囲行動『アベチャンネル』はゴメンだ! にご参加ください
 日時: 2015年11月7日(土)
  PM 1:30?2:45 集会:NHK(渋谷)西門前でリレートーク
  PM 2:45?3:15 宮下公園北側へ移動
  PM 3:15?3:30 デモコースの説明・諸注意、コールの練習
  PM 3:30?4:00 宮下公園北側からデモスタート、神宮通公園ゴール
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 告知チラシPDFダウンロード 
   表→http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/20151107/a117omotehoi.pdf 
   裏→http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/20151107/a117urahoi.pdf
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カンパのお願い :『アベチャンネル』はゴメンだ!NHK包囲行動第2弾
前回の8.25行動ではみなさまの多大なご支援をいただきました。今回の11.7行動はその時のカンパの残金で進めてまいりましたが、前回に比べ
(1) 今回は”西門前”だけでのリレートーク、コールなのでかなり細長い集団になります。そのため端の人にまでトークが聞こえるように音響効果をうまく考えなければならず、機材、調整技術等に費用がかかる。
(2) デモに必要な車、機材、プラカード等の費用など
のため、大幅な赤字になってしまいました。
 そのため大変恐れ入りますがまたまたカンパのお願いをしなければならない状況です。よろしくお願い申し上げます。
                   2015.10.20 NHK包囲行動委員会
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下記口座へ振り込みをおねがいします。
(1)ゆうちょ総合口座番号 10420-21759161 名義「NHK包囲行動実行委員会」
これはゆうちょ口座から振り込むときの番号です。
(2)ゆうちょ以外の金融機関の口座からの振込む場合は口座番号が変わって
  〇四八-048-2175916 名義「NHK包囲行動実行委員会」になります。
 (〔店名〕〇四八 (ゼロヨンハチ)〔店番〕048 〔普通預金〕 〔口座番号〕2175916)
よろしくお願い致します。
(2015年11月3日・連続第947回)

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