本日(8月3日)東京地裁民事第24部で、注目すべき判決が出た。新しい法解釈を含むところはまったくないが、インターネット上に氾濫する匿名言論の誹謗中傷記事に歯止めが掛かることを期待させる判決である。
在特会の京都朝鮮学校襲撃事件や徳島教組威力妨害事件では、首謀者だけでなく、付和雷同した参加者も有罪となり高額損害賠償責任を負担した。今度は、ネットだ。匿名に隠れての言いたい放題は通じない。ヘイト記事はなおさらのこと。本人は匿名に隠れて安全地帯にいるつもりでも、探し出せるのだ。住所氏名が割り出せれば、あとは簡単。本日のような判決になる。そして、弁護団は判決認容の170万円とほぼ1割の遅延損害金を厳しく取り立てるはずだ。
原告は女子高生。卑劣なネトウヨ君は、葛飾区四つ木の住人。このネトウヨ君が何をしたのか。判決から要約引用すれば、「被告は,平成26年9月8日,インターネット上のサービスであるツイッターにおいて,原告の写真を掲載し,『原告が,高校生平和大使に選ばれた。詐欺師の祖母,反日韓国人の母親,反日捏造工作員の父親に育てられた超反日サラブレッド。将来必ず日本に仇なす存在になるだろう。』との投稿をした。これは,原告の社会的評価を低下させ,原告の名誉権を侵害するものである。さらに,本件投稿は,原告の肖像権を侵害する。」
ネトウヨ諸君、原告の請求が満額認容されて、このツイッター1通が170万円だ。君も、「反日韓国人」「反日捏造工作員」などと書いてはいないか。口は災いの元、筆は損害賠償の源だ。悪いことは言わない。今後は慎んだ方がよい。君も、被告となり得るのだから。
興味深いのは損害論だ。170万円の内訳は以下のとおり。
ア 精神的損害に対する慰謝料 100万円
イ 調査費用
発信者情報開示の仮処分に関する弁護士費用20万円
発信者情報開示の仮処分に関する翻訳費用20万円
経由プロバイダに対する発信者情報開示手続に関する弁護士費用20万円
ウ 本件訴訟の弁護士費用10万円
実は、裁判所は判決理由の中で、「本件の慰謝料額は200万円が相当」と意見を述べている。しかし、原告が100万円しか請求していないから、その上限の判決となった。実質的に本件は270万円の判決と理解しなければならない。
匿名を暴くのには手間暇かかる。そのための手続費用が加算されることになる。これも教訓として世のネトウヨ諸君に知ってもらわねばならない。
本件の被告ネトウヨ君は、ネトウヨ族の代表として、貴重な体験をした。身をもって「匿名に隠れての言いたい放題は、実は真っ当な社会では通用しないことなのだ。」「調子に乗ってバカ言ってると、手痛い損害賠償の判決を喰うことになる」ことを学んだ。その学習費が170万円だ。世のネトウヨ諸君も貴重な教訓として、我が身を糺してほしい。
以下はNHKの報道。
「判決のあと、元記者の長女(原告)は、弁護士を通じてコメントを出しました。
この中で、当時の気持ちについて『ひぼう中傷の言葉が大量に書き込まれた時、私は「怖い」と感じました。匿名の不特定多数からのいわれのないひぼう中傷はまるで、計り知れない「闇」のようなものでした」と振り返っています。
その上で『今回の判決がこうした不当な攻撃をやめさせるための契機や、健全なインターネットの利用とは何かについて考える機会になってほしいと思います』と訴えています」
この言は立派なものだ。原告は「将来必ずや日韓の平和に貢献する存在」になるものと思わせる。
(2016年8月3日)
本日(6月2日)、横浜地方裁判所川崎支部が、以下の仮処分命令を出した(仮処分事件では、申立てた者を「債権者」、申し立てられた相手方を「債務者」という)。
当裁判所は,債権者に債務者のため30万円の担保を立てさせて,次のとおり決定する。
主文 債務者は,債権者に対し,自ら別紙行為目録記載の行為をしてはならず,又は第三者をして同行為を行わせてはならない。
行為目録
債権者(社会福祉法人)の主たる事務所(川崎市川崎区桜本○丁目△番□号)の入口から半径500m以内(別紙図面の円内)をデモしたりあるいははいかいしたりし,その際に街宣車やスピーカーを使用したりあるいは大声を張り上げたりして,「死ね,殺せ。」,「半島に帰れ。」,「一匹残らずたたき出してやる。」,「真綿で首絞めてやる。」,「ゴキブリ朝鮮入は出て行け。」等の文言を用いて,在日韓国・朝鮮人及びその子孫らに対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命,身体,名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し,又は名誉を毀損し,若しくは著しく侮辱するなどし,もって債権者の事業を妨害する一切の行為
これはすばらしい決定だ。「ヘイトスピーチを行う個人や団体に行為の禁止を認める仮処分決定は、京都地裁が『在日特権を許さない市民の会』(在特会)などに対し、京都朝鮮第一初級学校(京都市)近くでの演説禁止などを命じた決定(2010年)に続き、2例目とみられる。」と報道されているが、今回の仮処分はヘイトスピーチ対策法成立後のこの時期、天下の耳目を集めてのもの。影響は大きい。
仮処分命令は「地図上に同法人の事務所から半径500メートルの円を描いて、このなかのヘイトデモを禁止する」という内容。警察は、デモ隊がこのエリアで「デモしたりあるいは徘徊したり」することを阻止しなければならない。制止を無視するヘイトスピーチデモ参加者を、威力業務妨害で逮捕もしなくてはならない。
これから続々と同種仮処分の活用が日常化していくことになるだろう。ヘイトデモ禁止に実効性を有する仮処分戦術が進歩していくだろう。仮処分だけでなく、仮処分の取得をテコにした警察警備のあり方も厳格化されていくだろう。何よりも、仮処分だけでなく本訴の活用にも大きく道が開けた。この仮処分決定は、理由中で「ヘイトデモにおける差別的言動は、平穏に生活する人格権に対する違法な侵害行為に当たるものとして不法行為を構成する」と明記した。しかも、「人格権を侵害する程度が顕著」とも断じている。その結果、ヘイトデモ主宰者や幹部企画者だけでなく、すべての差別デモ参加者が共同不法行為の責任を負わねばならないことになる。損害賠償責任が生じ、ヘイトデモ参加者個人に対する財産の差押えができることになる。
決定書を見ると、債権者は、「在日大韓基督教会川崎教会を母体として社会福祉法人の認可を受けた川崎市内桜本地区の社会福祉法人で、その目的として,人種・国籍・宗教のいかんを問わず,福祉サービスを必要とする者が,心身ともに健やかに育成され,又は社会,経済,文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられることを目指し,個人の尊厳を保持しつつ,自立した生活を地域社会において営むことができるよう支援し,共生社会を実現することを掲げている」という。
裁判所の認定によれば、「川崎市臨海部は,戦前から,在日コリアンと呼称される在日韓国・朝鮮人(その子孫らを含む。以下同じ。)が多数居住する地域であり,特に債権者の事務所が所在する川崎市川崎区桜本地区はその集住地域であり,そのことは広く知られている。債権者は,同地区において,民族を理由に入園を断られた子供を受け入れる保育園を設立する,学校で孤立する在日コリアンの居場所を作る,在日1世の高齢者の福祉も手掛けるなど,民族差別解消・撤廃に向けて取り組み,社会福祉事業を行ってきたものであり,現在,同地区内ないしその周辺において,計9か所の拠点で,保育所,児童館,高齢者・障害者交流施設,通所介護施設等の施設を運営している。債権者の事業所及び施設は,債権者の主たる事務所の入口から半径500m以内(別紙図面の円内)に所在している」という。だから、ここが差別主義者の標的になるのであり、だからこそ卑劣な攻撃から防衛しなければならないわけだ。
裁判所は、住民の人格権尊重と、憲法21条の表現の自由との調整について、次のように判示している。やや長いが重要個所として引用しておきたい。
「人格権の侵害行為が,侵害者らによる集会や集団による示威行動などとしてされる場合には,憲法21条が定める集会の自由,表現の自由との調整を配慮する必要があることから,その侵害行為を事前に差し止めるためには,その被侵害権利の種類・性質と侵害行為の態様・侵害の程度との相関関係において,違法性の程度を検討するのが相当である。しかるところ,その被侵害権利である人格権は,憲法及び法律によって保障されて保護される強固な権利であり,他方,その侵害行為である差別的言動は,上記のとおり,故意又は重大な過失によって人格権を侵害するものであり,かつ,専ら本邦外出身者に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で,公然とその生命身体,自由,名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し,又は本邦外出身者の名誉を毀損し,若しくは著しく侮辱するものであることに加え,街官車やスピーカーの使用等の上記の行為の態様も併せて考慮すれば,その違法性は顕著であるといえるものであり,もはや憲法の定める集会や表現の自由の保障の範囲外であることは明らかであって,私法上も権利の濫用といえるものである。これらのことに加え,この人格権の侵害に対する事後的な権利の回復は著しく困難であることを考慮すると,その事前の差止めは許容されると解するのが相当であり,人格権に基づく妨害予防請求権も肯定される。」
この仮処分命令申立は5月30日で、予告された6月5日のデモを禁止する必要から、急ぎ本日(6月2日)発令となった。ただし、期限は6月5日までと区切られていない。その後もなお、有効なのだ。
また、デモの主催者は、市内2カ所の公園利用を市に申請していたが、市は5月末に不許可としている。市民の意識が中心となり、自治体や裁判所の手を借りることで、「日本の恥」というべきヘイトスピーチデモを根絶することができそうな予感がする。
安倍政権登場とともに、ヘイトデモは跋扈し始めた。ヘイトスピーチを許容する社会の雰囲気が安倍政権を作った側面もあろうし、安倍政権の右翼的体質がヘイトスピーチデモを煽ったことも否定し得ない。しかし、あまりにひどい差別言動には、さすがの安倍政権も距離を置かざるを得ない。世論に押される形で、政権には不本意なヘイトスピーチ対策法が成立し、川崎市もヘイトスピーチデモ排除に乗り出している。このタイミンクでの仮処分決定は、まことに貴重だ。勇気をもって、申し立てた関係者と、代理人の弁護団に敬意を表する。
(2016年6月2日)
熊本地震には驚いた。古語の「なゐ」は、「なゐ(大地)震る」が原義だそうだが、大地だけでなく人も震る。身も心も震える。被災地の方々は、さぞかし怖かったことだろう。心からお見舞いを申しあげたい。
5年前東北に起こったことも、昨日熊本に起こったことも、明日は日本中のどこにでも起こりうることだ。私は小心なので心底怖い。原発などを作ろうという人たちの神経が理解しかねる。再稼働を容認する社会の空気も恐ろしい。
地震に続いて、さらに怖いことが起こっているという。岩上安身さんから、こんなメールがはいった。
「今回の熊本での地震を受け、一部のネット上で関東大震災の虐殺事件を彷彿とさせるようなヘイトスピーチやデマが流されています。十分にご注意ください。警察は対応を。以下、ご参照ください。
https://twitter.com/IWJ_sokuhou/status/720607857314402306
このような行為はとても看過できないと思うのですが、ご意見を…」
検索すると次のような「ヘイトツィート」が、いくつも目にはいった。
熊本の朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだぞ
在日朝鮮人 が 熊本中の井戸 に 毒を入れて回っている というのは本当なのですか?
こいつらいつも井戸に毒流してんな
熊本で不逞朝鮮人が暴動を起こそうとしてるってマジ!?
朝鮮人が井戸に毒を投げ入れ回ってるようです!!!
熊本県民の皆さんは自警団を組織して自己防衛に努めてください!!!
朝鮮人かの区別には「がぎぐげご」と言わせてみればわかります!!!
騒ぎに乗じるのはこっちの趣味ではないのだけど鮮人どもが騒ぎに乗じて悪事を行うからしょうがないよねぇ…、と私は思うのですよ。
こういう時に暴言はもちろん盗みとか嘘募金とかやる中国朝鮮人にご注意。
まさしく、現代の流言飛語はツイートが媒体となる見本。「軽いいたずら」と見過ごすことはできない。この愚かな差別表現を芽のうちに摘まなければならない。このような複数のつぶやきが繰り返されて累積するうちに、尾ひれがつきリアリティを獲得するものとなりかねない。罪の深いことこの上ない。
このようなネット上のヘイトスピーチは、人種差別撤廃条約第4条の「人種的優越又は憎悪に基づく思想の流布、人種差別の扇動」にあたるものというべきであろう。国際社会は、日本にもこれを処罰できる法制を整えるよう求めているのだ。このような差別的言論の蔓延は、厳格なヘイトスピーチ処罰法制定の立法事実となるだろう。
現在、このツィートの「犯人」を警察が強制捜査し、処罰する権限はない。しかし、明らかに社会の安全に反する「ヘイトデマ」に惑わされることのないよう「対応」すべきは行政警察の職務である。公共の安全と秩序を維持するために、警察は、悪質な「ヘイトデマ」を否定しその影響を解消すべく広報活動を徹底しなければならない。
朝日(デジタル)にも、「熊本地震のデマ、ネットで出回る 安易な拡散には注意を」という記事が出た。こちらは、「ツイッター上には熊本地震を巡り、『イオンモールが火事』といったデマも出回った。中には画像付きで『熊本の動物園からライオンが逃げ出した』という内容も。」という中身。
ところで、熊本地震後のヘイトツィートの恐ろしさは、関東大震災後の混乱の中で、流言飛語が多数の在日朝鮮人(中国人も含まれている)殺害の要因のひとつとなった事件を思い起こさせるからだ。1923年9月1日震災から始まる軍と警察と民衆とによる朝鮮人・中国人虐殺である。日本の民衆の多くが暴虐な加害者となった恥辱の記憶。
資料は夥しくあるが、吉村昭の「関東大震災」(文春文庫)と、姜徳相の「関東大震災」(中公新書)の両書がコンパクトで信頼できる。前者が客観性にすぐれ、後者が在日の立ち場から「死者の怨念が燃え立つような」情念を感じさせる。そして、2003年8月に日弁連が、「関東大震災人権救済申し立て事件調査報告書」を下記のとおりまとめている。
http://www.azusawa.jp/shiryou/kantou-200309.html
私のブログも、やや長文の下記「震災時の朝鮮人虐殺から90年」を書いている。以下はその抜粋である。
https://article9.jp/wordpress/?p=1102
朝鮮人虐殺の主体は、日本刀・木刀・竹槍・斧などで武装した自警団であった。仕込み杖、匕首、金棒、猟銃、拳銃の所持も報告されている。自警団とは日本の民衆そのものである。「彼ら」と客観視はしがたい。自警団をつくったのは「私たち」なのだ。その自警団は、朝鮮人を捜索し誰何して容赦なく暴力を加え殺害した。「武勇」を誇りさえした。その具体的な残虐行為の数々は判決にも残され、各書籍にも生々しい。姜徳相の書は、「単なる夜警ではなく、積極果敢な人殺し集団であったことまた争う余地がない」「天下晴れての人殺し」と言いきっている。さらに、「死体に対する名状しがたい陵辱も、忘れてはならない。特に女性に対する冒涜は筆舌に尽くしがたい」「『日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない』との感想を残した目撃者がいる」と紹介している。
事後の内務省調査によれば、自警団は東京で1593、神奈川603、千葉366、群馬469など、関東一円では3689に達した。ひとつの自警団が数十人単位だが、中には数百人単位のものもあった。全体として、恐るべき規模と言わねばならない。
在日朝鮮人の被害者数はよく分からない。公的機関が調査を怠ったというだけでなく、調査の妨害までしたからである。一般に、その死者数は6000余と言いならわされている。上海在住の朝鮮独立運動家・金承学の、事件直後における決死的な各地調査の累計数が6415人に達しているからである。
当時、東京・神奈川だけで、ほぼ2万人の朝鮮人がいた。事件のあと、当局は、朝鮮人保護のためとして徹底した朝鮮人の「全員検束」を行った。この粗暴な検束の対象として確認された人数が関東一円で11000人である。少なくとも、9000人が姿を消している。これが、殺害された人数である可能性があるという。
一部犯罪者傾向のある少数者の偶発的犯罪ではない。恐るべき、一民族から他民族への集団虐殺というほかはない。なにゆえ3世代前の日本人(私たち)が、かくも朝鮮人に対して、残虐になり得たのだろうか。当時、「混乱に紛れて、朝鮮人が社会主義者と一緒に日本人を襲撃しに来る」「朝鮮人が井戸に毒を入れてまわっている」「爆弾を持ち歩き、放火を重ねている」などの、事実無根の流言飛語が伝播し、これを信じて逆上した自警団が、朝鮮人狩りに及んだとされている。ではなぜ、そのような流言が多くの人の心をとらえたのだろうか。
歴史的には、朝鮮併合が1910年、最大の独立運動である3・1事件が1919年である。3・1事件には、200万人を超える民衆が参加し、7500人の死者を出す大弾圧が行われた。関東大震災が発生した1923年は、多くの日本人にとって、朝鮮独立運動の記憶生々しい時期に当たる。「不逞鮮人の蜂起」「日本人への報復的加害」の流言飛語は、それなりのリアリティをもつものであった。
自警団の犯罪は、形ばかりにせよ検挙の対象となり、起訴され有罪判決となっている。各地で裁判を受けた被告人の職業別統計を見ると、ほとんどが「下層細民」に属する人々であるという。「おのれ自身搾取され、収奪された人々が、自分たちの受けた差別への鬱積した怒りの刃をよそ者に向けた」「これは、日本帝国主義が植民地を獲得したことの盲点であり、植民地制度によってさずけられた特権であった」「朝鮮人は、軽蔑し圧迫するに適当な集団と見られたのである」という同氏の指摘は重い。
いま、「朝鮮人は殺せ」などと、ヘイトスピーチを繰り返して恥じない集団がいる。おそらくは、彼らは90年前の「都市下層細民」にあたるのだろう。「おのれ自身搾取され、収奪された人々が、自分たちの受けた差別への鬱積した怒りの刃をよそ者に向けたい」「自分たちよりも、もう少し圧迫されている存在を見下して安心したい」心情なのだ。しかし、今やそんなことが許される時代ではない。もともと、「在日コリアンは、軽蔑し圧迫するに適当な集団」ではあり得ない。平等の人格をもつ人権主体であることを知らねばならない。
90年前の日本人(私たち)がした民族差別に基づく集団虐殺を、けっして忘れてはならない。日本人自身の震災被害の甚大さに埋没させ、隠してはならない。その事実を見つめ、そこから教訓を酌まなければ類似の事件が起きかねない。日韓・日朝の友好関係を築くことも困難になる。熊本地震後の混乱のヘイトスピーチ。今こそ、歴史の教訓に学んだ対応をしなければならない。
(2016年4月15日)
私は、東京新聞とも中日新聞社とも、なんの縁故もない。が、この新聞の読者が増えて欲しいと思う。そのリベラルな論調が、社会に浸透して欲しいと思う。その思いから、本日の紙面を紹介して宣伝に努めたい。
まずは、毎号一面の左肩に定位置を占めている「平和の俳句」。戦後70年企画として始まったヒット連載。
今日の一句は、
昼下り妻に勝てない指相撲 (村松武徳(73)静岡県袋井市)
いとうせいこうが、「病によって半身マヒの作者。動かない方の手でなく、きっと動く手のことだろう。それでも指相撲に負けてしまい、笑いの出る平穏。」と解説している。このコーナーは、闘いとるべき厳しい平和よりは、のどかな平和のたたずまいが好もしい。
一面の記事では、「舛添都知事、海外出張費計2億円超 就任後2年で8回 共産都議団批判」の見出しが目を引く。
「舛添要一東京都知事が二〇一四年二月の就任後に行った八回の海外出張の経費が、合計で二億一千三百万円に上ることが分かった。共産党都議団が七日、一回当たりの費用は平均二千六百万円余で、石原慎太郎元知事の平均額を一千万円上回っていることを明らかにし、随行職員が多いためだと指摘。「『大名視察』との批判もある。都民の税金で賄われており、必要性を精査して経費節減の徹底を」と改善を求めた。」という都民への注意喚起の内容。
あの傲慢石原慎太郎を上回る金額というのだから、舛添要一恐るべしである。共産党都議団の資料を記事にすることに躊躇しない東京新聞の姿勢を買いたい。
「TPP 首相『丁寧に説明』と矛盾 衆院特別委 民進『隠蔽』と反発」という解説記事も充実している。「七日の衆院環太平洋連携協定(TPP)特別委員会で、TPP担当の石原伸晃経済再生担当相は交渉経過について、約二十回も『コメントを差し控える』などと繰り返した。安倍晋三首相はTPPについて『影響や対策を国民に丁寧に説明していく』と理解を求めたが、民進党は『隠蔽内閣だ』と反発、情報開示に関する追及を強める構え」という内容。論点の解説が分かり易い。
「茨城の元首長ら『安保法廃止を』 参院選へ市民連合」という記事もある。錚々たる呼びかけ人が、参院選だけでなく、次期衆院選での野党統一候補擁立を働きかける動きを報じている。
実は、最も感心したのは、第5面。社説と投書の欄である。
社説は2本。「年金運用損失 なぜ公表を遅らせる」と、「TPP本格審議 透明度を上げ、丁寧に」。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016040802000133.html
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2016040802000132.html
どちらも、落ちついた論調で説得力に富む。そして、どちらも鋭い政権批判となっている。とりわけ、「年金運用損失」の社説を読むと、安倍内閣の姑息な姿勢にあらためて憤らずにはおられない。
投書欄は、「発言」の表題。いつも、政府批判の論調というわけではないが、本日の投書は優れている。
「表現自由侵す広告は拒否を」 例の「右派論客らが名を連ねる「視聴者の会」の意見広告について述べたもの。「言論の自由圧殺に肩入れすれば、いつかメディア全体を縛ることになる」という警告。
「伊勢神宮での歓迎行事憂慮」 伊勢志摩サミットでの歓迎行事を伊勢神宮で行うとすれば、明らかな政教分離違反。もってのほかではないか、という盲点の指摘。
そして、「衆参同日選挙の混乱懸念」 同日選の複雑さとそれ故の混乱を懸念して、「そこまでして同日選を行う大義名分があるか」を問うている。
さらに、「容疑者の卒業取消疑問」の意見。「在学中のデモ参加などでの逮捕歴でも卒業取消ともなりかねない」という指摘に、なるほどと思う。
名物「こちら特報部」今日の記事の一つは、「警官に首を絞められた」《ヘイトスピーチ過剰警備》河野国家公安委員長が謝罪」である。「与党法案、実効性ゼロ」「警察への人権教育を」という小見出しも付いている。
歴史修正主義者・安倍晋三がヘイトスピーチと深く結びついていることは誰もが知ってはいるが、なかなか決定的な証拠は出てこない。今日の記事は、「ヘイトスピーチ問題をめぐっては、レイシストらのデモや街宣を護衛する一方、カウンター側を徹底して規制する警察の対応が非難を浴び続けてきた」という認識を基調に、警備の警察官がカウンター側の女性の首を絞めている写真を掲載して、問題提起したもの。これはインパクトが大きい。今後の追加報道を期待させる。
最後に、コラム「筆洗」も紹介しておきたい。
「世界で一番貧しい大統領」と呼ばれた南米ウルグアイの元大統領ホセ・ムヒカについて。次の個所がこの新聞らしい。
「自由。この人が語るこの言葉には特別な重みがある。彼は反政府勢力の幹部として捕らえられ、十数年間も獄中で過ごした。地面に穴を掘った独房に入れられ、一年余も体を洗えなかったこともあるという。それは狂気と闘う日々だったという。ムヒカさんは口に石を含み、叫び出す衝動を抑えた。穴に入り込んでくるカエルやネズミとパンくずを分け合い、彼らを友とすることで孤独を癒やした。そんな極限の生活を体験したからこそ、地球の資源を食い尽くすような大量生産・大量消費の虚構が見えたのだろう。」
タックスヘイブンで蓄財している政治指導者に読ませたい。海外出張に都民の税金を惜しげもなく2億円も使い込む都知事にも。
全体に紙面が伸びやかで萎縮を感じさせない雰囲気がよい。そして、分かり易く面白い。東京新聞が、この姿勢を続けて多くの読者を得ることができるよう願っている。
(2016年4月8日)
話題の書「奇妙なナショナリズムの時代ー排外主義に抗して」(岩波書店)に一通り目を通した。
これから、この書を手に取る方には、まず305頁の「おわりに」から読み始めることをお勧めする。この「おわりに」に、編者山?望の問題意識と立場性が鮮明である。何よりも、この部分は平明で分かり易い。編者であり自らも巻頭(序論)と巻末に2論文を執筆している山?が、ヘイトスピーチデモの風景に驚愕した心情を率直に語り、その違和感が本書のナショナリズム論の契機となったことが記されている。
ここで山?は、現在の政治状勢に触れて、こう言っている。
「安倍政権は『奇妙なナショナリズム』の時代に生まれた政権であり、また『奇妙なナショナリズム』を促進する政権でもある。」
「安倍政権は『日本固有』とする道徳・伝統・文化・歴史認識を国民に浸透させる意図を持つが、それは戦後の日本という国民共同体が醸成してきた道徳・伝統・文化・歴史認識とは異なる。その断絶性は「戦後レジームからの脱却」や「日本を取り戻す」といったキャッチフレーズに集約されている。被害者意識を背景にした歴史修正主義(侵略、戦争責任、敗戦の軽視もしくは否定)、排外主義やレイシズムを組み込んだ文化、国家主義的な伝統・道徳の復権は、戦後に形成されてきた国民共同体を堀り崩す。時代の区切りをめぐる意見の相違はあるにしても、安倍政権は戦後日本における従来の政権とは異質であり、「奇妙なナショナリズム」に完全に符合している政権であることは確認しておきたい。」
戦後民主主義を「戦後に形成されてきた国民共同体」とほぼ同義なものとして評価し、安倍政権と安倍政権を支えるものをそれとは断絶した異質なものとして警戒する立場を鮮明にしている。その「異質」が、「奇妙なナショナリズムの奇妙さ」となるものだが、ここでは、「歴史修正主義、排外主義やレイシズム」とされている。この基調が、この書の全編を貫いている。
以上の文章にも明らかなとおり、山?はけっして「革新」の側に立つ論者ではない。ナショナリズムを否定的で清算すべきものとは見ていない。「戦後に形成されてきた国民共同体」に親和感をもち、「奇妙ではない・ナショナリズム」には肯定的な論調である。その山?にして、安倍政権下のナショナリズム模様の奇妙さ・異様さは看過できないのだ。そのことは、次の結びの言葉にいっそう鮮明である。
「従来のナショナリズムと密接に結びついてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権が危機にさらされている情況において、われわれは、ナショナリズムの在り方を考えることなくして、現状に対峙することはできない。戦後日本のナショナリズムヘの郷愁や全面肯定を警戒しつつも、人々が自らのものとしてきた立憲民主主義、自由主義、平和主義、国民主権をナショナリズムとの関係で、いかに「保守」もしくは発展させていくべきか。本書がこうした問いを考え、行動するための一助となれば幸いである。」
この一文は、山崎の「日本国憲法の憲法価値を、従来のナショナリズムが支えてきた」という構図を鮮明にしている。この書の全体を通じて、「保守」や「従来のナショナリズム」は肯定的に語られている。私は、「普遍性をもった日本国憲法の憲法価値に、戦前を引きずるナショナリズムが敵対してきた」という認識をもっている。ずいぶん違うようにも思われるが、いま「奇妙なナショナリズム」が跋扈して安倍政権を生み、安倍政権がこれまでの保守政権や国民意識からは断絶して、「突出した反憲法的ナショナリズム」に依拠していることにおいては異論がない。言わば、邪悪な敵出現によって、「戦後民主主義を支えた保守」も「そのイデオロギーとしての従来のナショナリズム」も、論争の相手方ではなくなった。むしろ、頼もしい味方のうちなのだ。
では、「従来のナショナリズム」とは異なる「奇妙なナショナリズム」の、奇妙さとは何か。従前には、安定的な「国民国家」が存在し、これを支えるものとして従来のナショナリズムがあった。いま「国民国家」に揺れが生じ、これまで「国民国家」を支えてきたナショナリズムも大きく揺れて変容している。
その出発点は、「グローバル化」(情報と金融の分野を中心に国境を越えて人々を結びつけるもの)と「新自由主義」(国家や共同体から人々を解放し、人間を等価な市場的存在とするもの)だという。国民国家の境界も内実も曖昧・不安定になって、再定義が求められている。これに伴ってナショナリズムも変容しつつある。山崎は、「国民国家は先進諸国を中心に、他国との境界線で明確に区切られた安全保障、社会保障、国民共同体、民主主義の四つの層(レイヤー)の結合によって形成されてきた。」と立論し、いま、その4層のすべてでこれまでの国民国家では自明であったものが掘り崩されている、とする。
だから、「(かつては)国民国家システム形成の原動力となったナショナリズムが、(いま)グローバル化と新自由主義の中で、どのように境界線を引き直し、「われわれ」を模索しているのか、多層的な単位(政治的決定の単位、安全保障の単位、社会保障の単位、経済的な単位、文化的な単位)の間にいかなる関係を構築しようとしているのか。いかなる境界線についての正当化の論理を掲げているのか。」その問いかけが必然化しているのだという。
山崎は、これまでのナショナリズムと比較して、グローバル化と新自由主義という背景を持つナショナリズムの「奇妙さ」をいくつか挙げているが、その内の興味を惹くものを要約して紹介したい。
■「被害者としてのマジョリティ」という「奇妙さ」
少数派ではなく、マジョリティこそがむしろ様々な層における「被害者」(もしくは潜在的な被害者)であり、マジョリティが「力のない者」へ、さらには「マイノリティ」化しつつある、という自己定義をしている点に、このナショナリズムの「奇妙さ」がある。
ナショナリズムが自らの集団の危機を訴えること自体はたびたび観察されるものであるが、マジョリティでありつつも「想像された強者であるマイノリティ」によって被害を受けているという「被害者意識」を強く特つ点に特徴がある。この背景には、グローバル化による国民国家の融解が、既存の「力のあるマジョリティ」と「力のないマイノリティ」という図式が不明確になっているという認識がある。
マジョリティの側がその要因を外部に求めるとき、「われわれ」の権利を侵害し「権利を得ている(と想像する)マイノリティ」や「マジョリティと同等の権利を持つ(と想像する)マイノリティ」を立ち上げ、彼らが「われわれマジョリティの権利を奪っている」という感情を高めることになる。
■レイシズムに重点を置く奇妙さ
人々の同化による拡大ではなく、排除による国民の範囲の縮小を志向する点において、ナショナリズムの観点からは「奇妙さ」がある。従来のナショナリズムにおいても、レイシズムや排外主義の要素は存在していた。しかし既存の制度化されたナショナリズムによる国民像を逸脱して、それを解体する強度のレイシズムや排外主義が前面化し、普遍化の契機に乏しい歴史修正主義を強調する点において「奇妙さ」がある。レイシズムに基づく純化、排除や浄化を志向し、同化や統合もしくは拡張の思想ではないナショナリズムは、国民統合や国家建設を重視するナショナリズムや帝国主義的なナショナリズムの観点からは「奇妙さ」を醸し出す。その結果としてナショナリズムの特徴とも言うべき両義性が失われ、片方の要素(特殊性、排除、自然の強調)のみが重視されている点において「奇妙さ」が際立つことになる。
■「敵」とする外部の安定性の欠如という「奇妙さ」
「敵」という外部の設定によって定義すべき「友であるわれわれ」の輪郭と内容が定まるとするならば、「敵」の不安定さは、「友であるわれわれ」の不安定さを招いてしまう。とりわけ領域主権国家システムからなる国際関係のナショナリズムにおいては「敵」とされる「外部」は一定の継続性を特つことが多いが、現代のナショナリズムにおける「敵」は「変易性」が高く多岐にわたる。とりわけ日本における事例では、外国人労働者や観光客、少数民族、近隣諸国のみならず国際機関、政府、政党、マスメディア、官僚、警察、女性、若者、生活保護受給者、原爆被災者、東日本大震災の被災者、脱原発運動、フェミニスト、他のナショナリスト、学校関係者、地域住民、障害者、反レイシストなど「敵」は多岐にわたり、その変易性も高い。その点において従来のナショナリズムとは異なる「奇妙さ」を持っている。
なるほど、安倍内閣の支持勢力も、その持って生まれた歴史修正主義も、ヘイトスピーチの蔓延も、橋下徹の政治手法の一定の「成功」も、そして米大統領予備選挙におけるトランプ現象も、このような説明枠組みで思い当たることが多い。注目すべきは、「奇妙なナショナリズム」の敵としては、多国籍企業もアメリカも政権も意識されないことだ。本当の奇妙さは、このあたりにあるのではないか。
グローバル化と新自由主義⇒国民国家の揺らぎ⇒ナショナリズムの変容
という構図自体は分かるものの、一般論と具体論との連結はよく見えてこない。何が、どのように、ネトウヨに代表されるような奇妙なナショナリズム変容をもたらしたのか、このあたりの丁寧な説明が欲しいと思う。そのような診断があってこそ、安倍や橋下やヘイトスピーチを克服するにはどうすればよいのか、処方も書けることになるだろう。次を期待したい。
なお、山?望論文の紹介で手一杯だが、この書の全体の構成(目次)は以下のとおりである。山?の問題意識で下記の9論文が並んでいる。
序 論 奇妙なナショナリズム? 山崎 望
第1章 ネット右翼とは何か 伊藤 昌亮
第2章 歴史修正主義の台頭と排外主義の連接 清原 悠
―読売新聞における「歴史認識」言説の検討
第3章 社会運動の変容と新たな「戦略」 富永 京子
―カウンター運動の可能性
第4章 欧州における右翼ポピュリスト政党の台頭 古賀 光生
第5章 制度化されたナショナリズム 塩原 良和
―オーストラリア多文化主義の新自由主義的転回
第6章 ナショナリズム批判と立場性ポジショナリティ 明戸 隆浩
―「マジョリティとして」と「日本人として」の狭間で
第7章 日本の保守主義 五野井 郁夫
―その思想と系譜
第8章 「奇妙なナショナリズム」と民主主義 山崎 望
―「政治的なもの」の変容
おわりに
著者のほとんどが、1970年代・80年代生まれ。若い気鋭の研究者(政治学・社会学・社会運動論・比較政治学など)らの意欲を頼もしいと思う。
(2016年3月20日)
昨日(1月10日)の毎日新聞に、「ヘイト集会拒否できる」「東京弁護士会がパンフ 自治体向け」の記事が掲載されている。ヘイトスピーチの集会に公共施設が利用される事態を防ごうと、東京弁護士会が利用申請を拒否する法的根拠をまとめたパンフレット「地方公共団体とヘイトスピーチ」を作製し自治体向けに配布している、との内容。
このパンフの内容となっている「地方公共団体に対して人種差別を目的とする公共施設の利用許可申請に対する適切な措置を講ずることを求める意見書」の発表は、昨年(2015年)9月7日のこと。以来4か月、東京弁護士会は、東京都内の全自治体や議会事務局、全国の弁護士会に配布してきたという。東京以外からも「参考にしたい」との問い合わせが相次ぎ、これまでに全国の25団体に送付。具体的な取り組みについて、東京弁護士会の担当弁護士と話し合いを始めた自治体もあるとのこと。
パンフの内容となっている意見書の全文は、東京弁護士会の下記URLで読むことができる。表現は慎重で穏やかだが、ヘイトスピーチの撲滅が国際条約上の国の義務となっているにもかかわらず政府は無為無策、これを放置している人権後進国日本の現状がよく分かる。
http://www.toben.or.jp/message/ikensyo/post-412.html
国がなんの施策も行おうとしない現状で、自治体がヘイト集会への会館使用を拒否することは、ヘイト対策として実効性のある手段の提供としてその着眼がすばらしい。しかも、このパンフは、実によくできている。表現の自由にも慎重な目配りをしたうえでの具体的な提言である。説得力がある。今後の課題は、これを全国の自治体に普及して啓発し、遵守してもらうよう粘り強く働きかけること、さらにはその実現のための実効的措置を追求すること、だと思う。
東京弁護士会は、日本が締結し批准もしている人種差別撤廃条約を根拠に、「自治体は差別行為に関与しない義務を負って」おり、「公共施設が人種差別に利用されると判断される場合には会館等の利用を拒否できる」だけではなく、「会館等の利用を拒否しなければならない」と指摘している。
もちろん、要件は厳格でなければならないが、昨今問題となっているヘイトスピーチの集会に、会館等使用を許可すれば違法となり、当該自治体の住民の誰もが、自治体の財産管理における違法を主張して、住民監査請求から住民訴訟を提起することができることになる。
また、この東京弁護士会の「反ヘイト・バンフ」が普及してくれば、自治体の首長や責任者がヘイト集会に会館使用を許可したことは、違法というだけでなく、過失の認定も容易になる。集会と、それに引き続くデモなどで精神的被害を受けたという被害者にとって国家賠償請求が容易になると考えられる。このような事後的な法的支援についても、具体的な方策が考えられてしかるべきではないか。
東京弁護士会意見書の意見の趣旨は以下のとおりである。読み易いように、カギ括弧などを入れてみた。
地方公共団体は,「市民的及び政治的権利に関する国際規約」及び「あらゆる形態の人種差別の撤廃に関する国際条約」に基づき,人種差別を撤廃するために,人種的憎悪や人種差別を扇動又は助長する言動など,人種差別行為を行うことを目的とする公共施設の利用申請に対して,「条件付許可」,「利用不許可」等の〈利用制限その他の適切な措置〉を講ずるべきである。」
この意見書の下記の言及は、襟を正して読まねばならない。
ヘイトスピーチなどの人種差別行為の放置は,社会に深刻な悪影響を与える。差別や憎悪を社会に増大させ,暴力や脅迫等を拡大させる。国連人種差別撤廃委員会が2013年の一般的勧告「人種主義的ヘイトスピーチと闘う」で強調しているように,それらの放置は,「その後の大規模人権侵害およびジェノサイドにつながっていく」。ナチスによるホロコーストやルワンダにおける民族大虐殺等だけでなく,日本においても,1923年に発生した関東大震災で,朝鮮人が暴動を起こしているとの流言飛語が広まり,日本軍や,民間の自警団によって少なくとも数千人の朝鮮人が虐殺された。これは,1910年に朝鮮半島を植民地とした後,被支配民族としての朝鮮人に対する蔑視と,植民地化に対する朝鮮人の抵抗運動に対する恐れから,日本国内で朝鮮人に対するヘイトスピーチが蔓延した結果であった。日本にもこのような過去があることが想起されなければならない(2003年8月25日付け日弁連「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺人権救済申立事件」勧告書参照)。
人種や民族間の差別意識は、人為的に創られ煽られて生じる。植民地支配や戦争の準備と重なる。アベ政権の好戦的な憲法改正の策動と切り離せない問題といわざるを得ない。
ナチスはユダヤ人をホロコーストの対象とした。その数、500万人を超す。一般のドイツ人がそのことを知らなかったわけではない。ある日ユダヤ人が消える。その財産は、ドイツ人に分け与えられる。あるいは消えたユダヤ人が占めていた地位をドイツ人が襲うことになる。こうして、ホロコーストは、ドイツ人に現実的な利益をもたらしたのだ。
社会の中の特定の集団を敵として、多数派が寄ってたかっていじめるとはそういう実利に結びつくことなのだ。恥ずべき泥棒根性といわざるを得ない。いま、ヨーロッパでもアメリカでも、そしてもちろん日本でも、弱い立場の人種や民族に対しての非寛容な空気の醸成がおぞましい。ヘイトスピーチの抑制は、平和に通じるのだ。東京弁護士会の試みを、成功を念じつつ見守りたい。
なお、紹介されている具体例を挙げておく。
公共施設の利用拒否が可能になり得る具体的な例。
・人種差別集会を繰り返している団体や個人から申請があった
・施設の利用申請書に特定の民族を侮辱する表現が含まれていた
・集会の案内状に人種差別をあおる内容が書かれていた
施設の利用拒否が可能な人種差別行為の具体例
・「○○人は犯罪者の子孫」などの発言を繰り返す
・「○○人を殺せ」などのプラカードを掲げる
・「○○人のゆすり・たかりを粉砕せよ」などと告知して集会を開く
ここを出発点に、ヘイトスピーチ撲滅の動きを作り出せそうな気がする。
(2016年1月11日)
アメリカ南部・サウスカロライナ州の教会で9人が惨殺された。殺人者は21歳の白人男性、乱射された銃弾で亡くなったのはいずれも黒人の9人。現地時間6月17日夜(日本時間18日午前)のこと。教会で、無防備の人々を襲った悲劇。その理不尽に胸が痛む。
逮捕された犯人は日頃から人種差別の言動を露わにしており、典型的なヘイトクライムであると報じられている。また、この犯人は本年4月、21歳の誕生日に親から銃を買ってもらっているともいう。社会の暗黒と人の心の底に秘められた暗部とが噴出した印象。恐るべき社会の恐るべくも悲惨かつ醜悪極まる犯罪。
生まれながらの差別主義者はいない。生得の偏見はない。人は、物心ついてから理不尽な差別や偏見の感情を、社会や家庭から学んで獲得していくのだ。彼の地の黒人差別、ユダヤ人差別、ヒスパニックやアジア人に対する差別感情。そして、身近な問題として在日の人々への理由なき偏見、ヘイトスピーチ。どのようにすれば、差別や偏見を克服できるのだろうか。
惨劇の舞台となった教会は、マーチン・ルーサー・キング牧師が訪れたこともある、公民権運動にゆかりの場所であるという。「キングセンター」は、殺害された人々に哀悼の意を表すとともに「キング牧師の魂、そして、その哲学に従い、私たちはいかなる人種差別、憎しみ、戦争、そして、暴力に強く反対します」とコメントしたという。「差別、憎しみ、暴力、そして戦争」が、否定さるべき負のキーワードとされている。
たまたま、本日の赤旗文化欄「今月の詩」に、おぎぜんたの「虐殺記念日のヤモリ」という題の詩が紹介されている。「ルワンダの虐殺記念日の夜」にちなんだ沈痛な詩。その中で、次の歌の一節が引用されている。
ある人種が優れていて
ある人種が劣っているという哲学が
永久にこの世から抹殺されるまで
この世はいつまでも戦争だ
注がついている。「ボブ・マーリーの歌『ウォー』から(エチオピアのハイレセラシェ皇帝の演説をもとにした歌である)」と。キングセンターのコメントと符節がピッタリだ。今日だからこそ、この歌詞が深く胸にしみいる。
ネットで検索すると、こんな訳文も見つかった。
ある民族がある民族より優れている、または劣っている
そんな思想が、最終的かつ永続的に根絶され廃棄されない限り
いたるところで、戦いは続いていく
いかなる国においても、市民の間に差別がなくなり
人間の肌の色が目の色と同じく意味をなさなくなるその日まで
戦いは続いていく
この歌の中の「人種」「民族」は、いろいろに置き換えられる。宗教、言語、家柄、門地、地域、性別、年齢、職業、経済力、学歴、身体能力、容姿……。人と人の間に、尊厳における優劣があると認めるところに、諍いの火種が生じる。諍いは憎悪であり、暴力を生み、戦争にもつながる。
この歌の中の「戦争」は、象徴的な意味であるだけではなく、現実の国家間の武力衝突でもあり陰惨な殺戮でもある。
差別と偏見とは、社会に埋め込まれた毒物であり自爆装置である。その処理を誤れば社会が崩壊する。人類の壊滅にもつながりかねない。だから、社会は理不尽な差別と偏見を克服しなければならない。そのためのあらゆる努力をしなければならない。それが、あらゆる憎しみや暴力をなくし、さらには戦争をなくする正道となるだろう。
(2015年6月19日)
安田浩一著の『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書・5月20日刊)を読んだ。私は、鶴橋や新大久保でのヘイトスピーチを、知らないではない。先日は秋葉原で、ヘイトスピーチデモとカウンターと警察3者の軋轢の場に出くわしてもいる。私も編集に携わっている「法と民主主義」誌で2度の特集もしている。それでも、この書の読後感は「衝撃」というほかはない。この臨場感溢れるルポを取材し書き下ろした著者に敬意を表したい。
ともかく、この書は多くの人に広く読まれるべきである。評価・評論はじっくりと時間をかけて考えよう。政治学的に、文化論的に、経済現象から。あるいは社会学的に、心理学的に、もちろん歴史的にも…。さらには、国際的にも、学際的にも、そして最後に法的な観点から…。さまざまな切り口から、生起している現象のトータルな説明や、原因分析や、対応策が議論されねばならない。が、それより以前に、情報を共有しよう。何が起こっているのかを社会全体で確認しなければならないと思う。私も、認識が不十分だったと思うのだ。
この書は、延々とヘイトスピーチの実態を叙述する。「第1章 暴力の現状」「第2章 発信源はどこか?」「第3章 『憎悪表現』でいいのか?」「第4章 増大する差別扇動」「第5章 ネットに潜む悪意」「第6章 膨張する排外主義」…。差し支えない限りに実名で語られる。基調は「ヘイトスピーチは、表現の範疇ではない。生身の人を深く傷つける暴力そのものであり、社会を壊す」というもの。説得力に富み、たいへんな迫力である。とりわけ、「第4章 増大する差別扇動」を読むと息苦しくなる。
私の読後感の「衝撃」は、恐怖でもある。私たちの暮らすこの社会は、今とんでもなく病んでしまっているのではないだろうか。もしかしたら、壊れかかっているのではないだろうか。あるいは、日本の社会が腐りかけ腐臭を放ちつつあるのではないのだろうか。そういう恐怖である。論理も、会話も、心情も、まったく通じない人々の集団がこんなにも肥大しているのだという恐怖。
差別や排外主義、弱い者イジメは以前から社会に潜んでいるにせよ、それが恥であることは共通の認識だったはず。隠れての言動はあれ、公然と口にし、行動することは希なことではなかったか。しかもこれだけの集団で執拗に。クー・クラックス・クランでさえ覆面をしていたではないか。我が国で、白昼堂々と、大っぴらに差別用語を広言する人々の集団が街を練り歩くこの事態に薄気味悪さを通り越した恐怖を禁じ得ない。
在特会の京都朝鮮学校襲撃事件に際して、3人の子を同校に通わせていた父親の話が印象に深い(同書106ページ)、龍谷大学の教員である彼は、勤務先から現場に自転車で駆けつけた。「実は、彼ら(襲撃メンバー)を説得できないものかと考えていたんです。学校にわが子を通わせている親としては、問題はきちんと解決したいし、地元に住む人々と摩擦など起こしたくない。ここで生きていく以上、日本人との対立を望む在日など、いるわけありません。話せばきっとわかってもらえる。そんな気持でいたんです」
しかし、この常識的な考えは裏切られ、彼は現場で立ちすくむことになる。投げかけられた悪罵は「朝鮮人はウンコ喰っとけ!」というものだった。
以来5年間、彼は裁判の支援に走り回った。刑事では首謀者4名に威力業務妨害による懲役1年?2年の刑(執行猶予付)が確定し、民事訴訟では在特会に1200万円の高額認容判決が確定した。しかし、裁判で何かが本当に変わったのか、変わらないままなのか。彼も著者も、在日への冷たい視線は残ったままだという。
また、中学2年生の女子学生が、「そこで生きる人々を恐怖のどん底に落とした」という「鶴橋大虐殺スピーチ」も紹介されている。
「鶴橋に住んでいる在日クソチョンコの皆さんこんにちは!」「私もホンマ、皆さんが憎くて憎くてたまらないんです。もう、殺してあげたい」「いつまでも、調子に乗っ取ったら、南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ!」「ここはニッポンです。朝鮮半島ではありません。帰れー!」
なんということだろう。著者の表現のとおりに、息苦しいし腹だたしい。
彼らは、在日差別だけてなく、ニューカマーへの差別も、部落差別も平然と口にする。その口舌たるやすさまじい。書中には、在特会を「反日」攻撃の一員と遇する右翼とのつながりや、現政権中枢とのつながりも示唆されている。嫌韓本や嫌中書が売れる時代の背景もある。警察の対応も問題視されている。
会話を拒否し、言葉も心も通じない集団が、容易にネットで増殖されていく恐怖。しかし、最終章で「ヘイトスピーチを追いつめる」として、カウンターデモに起ち上がった一団のことも語られる。これが救いであり、希望である。
著者の次の感想は重い。
「いま、日本は憎悪と不寛容の気分に満ちている。差別デモだけではなく、ネットで、書籍で、テレビで、飲み屋の片隅で、あるいは政治の場で、差別が扇動されている。」
おそらく、この憎悪と不寛容の気分も、煽動されている差別も、国際協調や平和への敵対物である。改憲勢力を利するものでもあろう。とにもかくにも、この社会のほころびの原因と修復の手立てを考えねばならないと思う。
(2015年5月31日)
今日(5月10日)から大相撲夏場所が始まった。結びの一番に、逸の城が白鵬を突き落としで破って座布団が舞った。外国人力士の活躍が大いに土俵を沸かせている。ところが、これを不愉快とヘソを曲げている一群の人々がいる。「日本人の活躍がない「国技」を面白いなどとは不届き千万」、「そのような輩は自虐ファンだ」というわけだ。国籍・人種・民族の違いに過度にこだわる人々。その多くが、すべての人を平等と見る日本国憲法の嫌いな人たちに重なる。
憲法記念日には、憲法が嫌いな人たちも寄り合って集会を行う。憲法を攻撃するために集会を開く権利も、憲法を貶める言論の自由も、懐広く憲法の認めるところだから堂々となし得る。この人たちも憲法の恩恵に浴しているのだ。
今年の5月3日には、東京・平河町の砂防会館別館で開かれた公開憲法フォーラム「憲法改正、待ったなし!」が、そのめぼしいものだった。
主催は、「民間憲法臨調」と「美しい日本の憲法をつくる国民の会」。この集会の登壇者は次のとおりである。さすがに公明党関係者はいない。
古屋 圭司(衆議院憲法審査会幹事)
礒崎 陽輔(自民党憲法改正推進本部事務局長)
松原 仁(民主党、元国務大臣・拉致問題担当)
柿沢 未途(維新の党政調会長)
中山 恭子(次世代の党参議院会長)
森本 勝也(日本青年会議所副会頭)
舞の海秀平(大相撲解説者)
細川珠生(政治ジャーナリスト)
櫻井よしこ(両主催団体代表)
西 修(民間憲法臨調運営委員長)
相も変わらぬ顔ぶれの中で、人目を引いたのが舞の海の発言。この人は、現役時代は器用な相撲を取っていた。きっと世渡りも器用なのだろう。現役を退いてからは器用に相撲解説をし、右翼の政治集会でも器用に「珍説」を披露して期待に応えている。
舞の海の珍説は、嗤ってばかりでは済まされない。かなりきわどい内容。これは外国人力士に対する差別発言ではないか。ヘイトスピーチと言ってもおかしくはない。
以下が、産経の報じる舞の海の発言内容。
日本の力士はとても正直に相撲をとる。「自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう」と信じ込んでぶつかっていく。ところが相手は色々な戦略をしたたかに考えている。立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…。あまりにも今の日本の力士は相手を、人がいいのか信じすぎている。
「これは何かに似ている」と思って考えてみたら憲法の前文、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に行きついた。逆に「諸国民の信義」を疑わなければ勝てないのではないか。
私たちは反省をさせられすぎて、いつの間にか思考が停止して、間違った歴史を世界に広められていって、気がつくとわが日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際。俵に足がかかって、ギリギリの状態なのではないか。
今こそしっかり踏ん張って、体勢を整え、足腰を鍛えて、色々な技を兼ね備えて、せめて土俵の中央までは押し返していかなければいけない。憲法改正を皆さんと一緒に考えて、いつかはわが国が強くて優しい、世界の中で真の勇者だといわれるような国になってほしいと願っている。
言っていることが余りにせこくて情けない。論理が無茶苦茶なのは責めてもしょうがないだろう。なんでも日本国憲法のせいにするのも、右翼集会に出てきてのリップサービスとして目をつぶろう。しかし、外国人力士に対する差別には目をつぶれない。魅力ある相撲には拍手を惜しまない一般の相撲ファンにも失礼ではないか。
「日本の力士はとても正直に相撲をとる」とは、「外国人力士は正々堂々とした相撲を取らない」との中傷である。「相手は色々な戦略をしたたかに考えている」の「相手」とは文脈上外国人力士のことである。「外国人力士は立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…」とは、問題発言だ。こんなことを集会でおしゃべりする輩は相撲解説者として不適格と言わねばならない。
舞の海の発言は、明らかに民族的な差別意識からの発想である。力士を、「日本人力士」と「日本人以外=外国人力士」に分類して、「日本人力士」を「正々堂々と相撲をとる力士グループ」、「外国人力士」を「いきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たりする」力士グループというのだ。力士個人に着目するのではなく、カテゴリーでレッテルを貼る。これが差別の手法である。
なお、相撲ファンの一人としての異論も言っておきたい。舞の海は、「今の日本の力士は相手を信じすぎて勝てない」「相手を疑わなければ勝てないのではないか」というが、勝負よりも相撲の美学に惹かれるファンは多いはずだ。「相手を疑っても、相撲の品格を落としても勝て」と聞こえる舞の海説の言は相撲の美学を否定するものとして愚か極まる。右翼とは、伝統の美学を重んじる立場のはず。この集会参加者で苦々しく聞いた人も多かったのではないか。
また、日本人力士が外国人力士の席巻を許している理由を「相手を信じすぎて勝てない」などと言っているのは見当違いも甚だしい。「相手を疑ってかかれば互角の勝負が可能」などと負け惜しみを言っているのではお話にならない。番付通りの歴然たる実力差を潔く認めなければならない。その上で、日本人力士の活躍を期待するのであれば、この実力差のよって来たるところを見極め、克服する努力をする以外にない。大相撲関係者が、憲法の悪口でお茶を濁している限り、日本人力士の巻き返しは難しそうだ。
なお、彼の考える憲法改正とは、「諸国民の公正と信義に信頼することは愚かだ。諸国民の公正と信義を疑え」という一点。それが、「強くて優しい、世界の中で真の勇者」であろうか。堂々たる正直相撲の美学を否定して、「ともかく勝つ方法を考えよ」という相撲解説者に、国際的な「真の勇者」を語る資格などない。
迷解説者の妄言を吹き飛ばして、国籍や民族にこだわりのない、夏場所にふさわしいさわやかな土俵を期待したい。
(2015年5月10日)
私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は明後日4月22日(水)13時15分に迫っている。舞台は東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。
さて、私は、DHC・吉田から私に対する訴訟を「スラップ訴訟」と位置づけている。この場合のスラップ訴訟とは、権力者や経済的な強者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする提訴のこと。DHC・吉田は渡辺喜美に対して「届出のない8億円を拠出していた」ことを自ら曝露した。多くの論者がこれを批判したが、DHC・吉田はその内10人を選んでスラップ訴訟をかけている。私もそのひとり。トンデモナイ高額請求で、うるさい人物を黙らせようということなのだ。
このようなスラップ訴訟の被害は、フリーランスのジャーナリストや個人ブロガーなど恫喝に弱い立場の者に集中してきた。ところが、大手新聞社もスラップの対象となっている。これは、ジャーナリズム全体に由々しき事態ではないか。既に報道の自由そのものが被害者となっているのだから。
以下は、毎日新聞4月17日夕刊(社会面・第14面)の記事である。多くの読者には目にとまらなかったであろう、小さな扱いのベタ記事。しかし、記事の内容は見過ごせない。
見出しは「サンデー毎日記事巡り稲田氏が本社提訴」というもの。
「サンデー毎日の記事で名誉を傷付けられたとして、自民党の稲田朋美政調会長が発行元の毎日新聞社を相手取り、550万円の損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こした。17日の第1回口頭弁論で毎日新聞社は請求棄却を求めた。
訴状によると、サンデー毎日は2014年10月5日号で、稲田氏の資金管理団体が10〜12年、『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の幹部と行動する8人から計21万2000円の寄付を受けたと指摘。稲田氏について『在特会との近い距離が際立つ』とする記事を載せた。
稲田氏側は『寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない』と主張。記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させる』と訴えている。
▽毎日新聞社社長室広報担当の話 記事は十分な取材に基づいて掲載しています。当方の主張は法廷で明らかにします。」
原告は自民党の政調会長である。安倍晋三にきわめて近い立場にあると見られている人物。このような政権与党の中枢に位置する人物のメディアに対する提訴は、被告が大手新聞社であっても、記事の内容が意図的な事実の捏造でもない限り、言論封殺を目的としたスラップ訴訟とみるべきであろう。また、現時点における複数の報道による限り、提訴の内容はまさしく、「権力者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする」ものと考えてよいと思われる。
問題の「サンデー毎日」2014年10月5日号記事は、『安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月』というメインタイトル。大きな反響を呼んだ記事だ。サブタイトルは、「スクープ 国連が激怒」「自民党がヘイトスピーチ規制に後ろ向きな噴飯ホンネ」「山谷えり子との『親密写真』公開!」「お友達議員にバラ撒かれるカネ」「高市早苗とネオナチ団体」などと賑やかだ。しかし、サブタイトルに稲田の名がないことに注目いただきたい。
使われている写真は、「山谷氏を囲む在特会関係者」「ネオナチと高市氏(左)、稲田氏(右)の写真を報じる海外メディア」と、これは文句のつけようがない。
記事全体としては、「安倍自民と在特会」との蜜月関係を洗い出して、「今さら簡単に断ち切れないほど関係を深めている」「ナショナリズムを政権浮揚に使ってきたツケが回ってきた」と、政権の右翼化を批判したもの。
この記事に出て来る「シンパ議員」の名を挙げておきたい。
安倍晋三・山田賢司・高市早苗・下村博文・山谷えり子・有村治子・古屋圭司・衛藤 晟一、そして稲田朋美だ。稲田の名は最後に出て来る。扱いも、高市や山谷に較べて遙かに小さい。
稲田に関する主要な記事を抜粋してみよう。
「一方で在持会関係者が直接、自民党国会議員ににカネをバラ撒いているケースもある。稲田政調会長の資金管理団体『ともみ組』10〜12年、在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人から計21万2000円の寄付を受けた。稲田氏の事務所は『稲田の政治理念と活動に賛同してくださる個人を対象に、広く浅く浄財を頂いている。事務手続きに必要な事項、法令で定められた事項、政治資金収支報告書に記載された事項以外の情報は確認していない』というが、在特会との近い距離が際立つ。稲田氏といえば、高市総務相とともにネオナチ団体の代表と撮影したツーショット写真が流出し、2人とも『相手の素性や思想は知らなかった』と弁明した。」
この記事にクレームがつけられて、今年の2月13日提訴となっていたことは、4月17日毎日夕刊の記事が出るまで知らなかった。それにしても、疑問が湧いてくる。なぜ、稲田だけが提訴したのだろうか。他の安倍・高市・下村・山谷らは、なぜダンマリなのだろう。
資金管理団体『ともみ組』の政治資金報告書は誰でもネットで閲覧可能である(下記URL参照)が、サンデー毎日記者は、事前に稲田の事務所を取材している。そのコメントも丁寧に記事にしている。手続的に問題はない。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS2020131129.html
毎日新聞の記事による限りだが、原告稲田側は「在特会との近い距離が際立つ」とする記事が怪しからん、ということのようだ。「寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない」にもかかわらず、同記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させた」との主張のようだ。稲田も、在特会と近しいとされることは迷惑なのだ。せっかく「稲田の政治信条と活動に共鳴して政治資金を寄付した」在特会側は、この稲田事務所の連れない言辞をどう受け止めるだろうか。
朝日の報道はやや異なる。
「『在日特権を許さない市民の会』(在特会)と近い関係にあるかのような記事で名誉を傷つけられたとして、稲田朋美・自民党政調会長(56)が週刊誌『サンデー毎日』の発行元だった毎日新聞社に慰謝料など550万円の損害賠償と判決が確定した場合の判決文の掲載を求め、大阪地裁に提訴した。」
「稲田氏側は、在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけと主張。さらに『寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない』と訴えた。」
稲田の提訴目的は、いつまでも「在特会と近い関係」と言われることを嫌っての縁切り宣言にあったのかも知れない。それでも、「寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない」は、記事を批判し得ていない。サンデー毎日の記事は、「在特会との近い距離が際立つ」というものである。寄付を受ける者と寄付者との関係を「距離が近い」と言って少しも不都合なところはない。これは典型的な記事の「意見・論評」の部分である。意見・論評には幅の大きな表現の自由が保障される。これでは稲田側の主張が裁判所で認められる余地はない。
「在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけ」との稲田側の主張の真偽は第三者には分からない。しかし、サンデー毎日の記事は、「在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人」となっている。「8人がすべて在特会の会員」と言ってはいない。立証のハードルはきわめて低い。
摘示された事実には真実性が求められるが、「主要な点において真実であればよい」ので、必ずしも完璧な立証が求められるわけではない。また、真実であると信じたことに相当な根拠があれば毎日側の過失は否定される。こうして、表現の自由は保護され、国民の知る権利が保障される。
どう見ても、稲田側の勝訴の見込みはあり得ないが、「自分を批判すると面倒だぞ」とメディアを萎縮させる効果は計算しての提訴ではあろう。それゆえのスラップ訴訟である。
私は、DHC・吉田に対してだけでなく、社会に「スラップ訴訟は許されない」と発言し続けている。是非、毎日も同じように声を揃えていただきたい。
(2015年4月20日)