澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

震災時の朝鮮人虐殺から90年

本日は関東大震災発生から、ちょうど90年目にあたる。10万の人命を失った自然災害への記憶を喚起し、いかに備えるべきかの教訓を確認すべき日として重要な日である。しかし、それだけではない。この災害の混乱の中で、多数の在日朝鮮人・中国人と、社会主義者が殺害された記憶を留めおかねばならない。被害者にとっては悲嘆の日であり、日本の民衆の多くが暴虐な加害者となった恥辱の日でもある。

記憶に留めおくべき日はいくつもある。戦争被害を象徴する、東京大空襲の日、広島・長崎原爆投下の日、沖縄戦終了の日、終戦の日。戦争加害責任を象徴する日としては、南京大虐殺の日、重慶爆撃開始の日、柳条湖事件の日、パールハーバー急襲の日。そして、日本人として忘れてならない、9月1日震災から始まる軍と警察と民衆とによる朝鮮人虐殺である。

資料は夥しくあるが、吉村昭の「関東大震災」(文春文庫)と、姜徳相の「関東大震災」(中公新書)の両書がコンパクトで信頼できる。前者が客観性にすぐれ、後者が在日の立ち場から「死者の怨念が燃え立つような」情念を感じさせる。そして、ちょうど10年前、2003年8月に日弁連(会長本林徹)が、「関東大震災人権救済申し立て事件調査報告書」をまとめている。

朝鮮人虐殺の主体は、日本刀・木刀・竹槍・斧などで武装した自警団であった。仕込み杖、匕首、金棒、猟銃、拳銃の所持も報告されている。自警団とは日本の民衆そのものである。「彼ら」と客観視はしがたい。自警団をつくったのは「私ら」なのだ。その自警団は、朝鮮人を捜索し誰何して容赦なく暴力を加え殺害した。「武勇」を誇りさえした。その具体的な残虐行為の数々は判決にも残され、各書籍にも生々しい。姜徳相の書は、「単なる夜警ではなく、積極果敢な人殺し集団であったことまた争う余地がない」「天下晴れての人殺し」と言いきっている。さらに、「死体に対する名状しがたい陵辱も、忘れてはならない。特に女性に対する冒涜は筆舌に尽くしがたい」「『日本人であることをあのときほど恥辱に感じたことはない』との感想を残した目撃者がいる」と紹介している。

事後の内務省調査によれば、自警団は東京で1593、神奈川603、千葉366、群馬469など、関東一円では3689に達した。ひとつの自警団が数十人単位だが、中には数百人単位のものもあった。全体として、恐るべき規模と言わねばならない。

在日朝鮮人の被害者数はよく分からない。公的機関が調査を怠ったというだけでなく、妨害までしたからである。一般に、その死者数は6000余と言いならわされている。上海在住の朝鮮独立運動家・金承学の、事件直後における決死的な各地調査の累計数が6415人に達しているからである。

当時、東京・神奈川だけで、ほぼ2万人の朝鮮人がいた。事件のあと、当局は、朝鮮人保護のためとして徹底した朝鮮人の「全員検束」を行った。この粗暴な検束の対象として確認された人数が関東一円で11000人である。少なくとも、9000人が姿を消している。これが、殺害された人数である可能性があるという。

一部犯罪者傾向のある少数者の偶発的犯罪ではない。恐るべき、一民族から他民族への集団虐殺というほかはない。なにゆえ3世代前の日本人(私たち)が、かくも朝鮮人に対して、残虐になり得たのだろうか。当時、「混乱に紛れて、朝鮮人が社会主義者と一緒に日本人を襲撃しに来る」「朝鮮人が井戸に毒を入れてまわっている」「爆弾を持ち歩き、放火を重ねている」などの、事実無根の流言飛語が伝播し、これを信じて逆上した自警団が、朝鮮人狩りに及んだとされている。ではなぜ、そのような流言が多くの人の心をとらえたのだろうか。

歴史的には、朝鮮併合が1910年、最大の独立運動である3・1事件が1919年である。3・1事件には、200万人を超える民衆が参加し、7500人の死者を出す大弾圧が行われた。関東大震災が発生した1923年は、多くの日本人にとって、朝鮮独立運動の記憶生々しい時期に当たる。「不逞鮮人の蜂起」「日本人への報復的加害」の流言飛語は、それなりのリアリティをもつものであった。

自警団の犯罪は、形ばかりにせよ検挙の対象となり、起訴され有罪判決となっている。その件数は資料によって異なり判然としないが、「東京震災録」によれば、検挙者数として、東京1300、神奈川1730などの数値があるという。

各地で裁判を受けた被告人の職業別統計を見ると、ほとんどが「下層細民」に属する人々であるという。「米騒動のとき政府批判の先頭に立った立役者たちが、朝鮮人虐殺の下手人になっている」(姜徳相)という。「おのれ自身搾取され、収奪された人々が、自分たちの受けた差別への鬱積した怒りの刃をよそ者に向けた」「これは、日本帝国主義が植民地を獲得したことの盲点であり、植民地制度によってさずけられた特権であった」「朝鮮人は、軽蔑し圧迫するに適当な集団と見られたのである」という同氏の指摘は重い。

いま、「朝鮮人は殺せ」などと、ヘイトスピーチを繰り返して恥じない集団がいる。おそらくは、彼らは90年前の「都市下層細民」にあたるのだろう。「おのれ自身搾取され、収奪された人々が、自分たちの受けた差別への鬱積した怒りの刃をよそ者に向けたい」「自分たちよりも、もう少し圧迫されている存在を見下して安心したい」心情なのだ。しかし、今やそんなことが許される時代ではない。もともと、「在日コリアンは、軽蔑し圧迫するに適当な集団」ではあり得ない。平等の人格をもつ人権主体であることを知らねばならない。

日弁連の報告書は、朝鮮人・中国人虐殺への国の関与とその責任に焦点を当てたもので、当時の刑事判決書(山田昭次氏提供)と軍・警察関係の公的文書を資料として作成されており、極めて信頼性が高い。

人数は明確にし得ないが軍隊による朝鮮人虐殺があったこと。流言飛語の大きな原因として、内務省警保局発の虚偽内容の各地への打電があったことを認定している。
その打電内容は以下のとおり。
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。 既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」

90年前の日本人(私たち)がした民族差別に基づく集団虐殺である。けっして忘れてはならない。日本人自身の震災被害の甚大さに埋没させ、隠してはならない。その事実を見つめ、そこから教訓を酌まなければ類似の事件が起きかねない。日韓・日朝の友好関係を築くことも困難になる。

事件は、疑心暗鬼から生じている。日本の朝鮮に対する苛酷な植民地支配があり、これに抵抗する独立運動があった。その独立運動の激しさは、日本人に「朝鮮人は日本人を憎み、折りあらば復讐を企てようとしている」という疑心を生んでいた。このような背景があって、官憲がマッチを擦って、火は一気に燃え上がった。民族間の相互不信が募れば、かくにも爆発しうるという、余りに悲惨な好例ではないか。

しかも、最前線で「活躍」したのは、国内の貧困層であった。支配階級としてみれば、朝鮮人や貧困層の不満が体制批判に及ばないのだから、願ってもないことであったろう。

事件は、植民地支配や民族蔑視の矛盾の表出である。日本人としては、大きな負債を背負っていることを自覚しなければならない。極めて現在的な課題として、民族間の平等意識の回復をはからねばならない。マイノリティの人権を擁護する具体的な措置を講じなければならない。また、日本国内の格差や貧困、さらには差別の存在を解消すべきが課題である。

改めて、憲法前文を想起しよう。
「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」

韓国・朝鮮との間において、疑心暗鬼を生むことのない、平和で平等な国際関係を形成しなければならない。でないと、不幸は繰り返されかねない。

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Published in 日曜日, 9月 1st, 2013, at 23:17, and filed under 未分類.

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