本日は東京「君が代」裁判・4次訴訟の第10回口頭弁論。原告は、第8準備書面(個別事情)、第9準備書面(裁量権濫用の具体論)、第10準備書面(国家賠償における損害論)を提出して、争点となっている主張を一応終えた。
法廷では弁護団事務局長の平松真二郎弁護士が第9準備書面を要約陳述した。
今のところ最高裁は、卒業式等において起立斉唱の職務命令を受けた教員の不起立を職務命令違反として懲戒処分とすることを、教員の思想・良心に抵触することと認めながらも、かろうじて違憲ではないとの判断にとどまっている。しかし、その最高裁も、法的に実害をともなう減給以上の処分は過酷に失するとし、違憲とまでは言えないとしても懲戒権者の裁量権逸脱濫用と認めて違法とし、処分を取り消している。
従前、形式的機械的に不起立回数のみによって累積加重の処分を続けてきた石原教育行政の思惑は頓挫した。しかし、いま都教委は、複数回の不起立を理由とする減給処分を強行し、その違法が鋭く争われている。
平松弁護士の陳述は、最高裁判例の立場を前提に、「不起立による処分回数の累積のみによっては、減給以上の処分の正当性を基礎づける事情とはなし得ない」ことについての根拠について、実務的な指摘をするものだった。裁判官3名は、よく耳を傾けていたと思う。
そして、毎回の法廷で続けられている原告の陳述。なぜ、「日の丸・君が代」への敬意表明強制に従うことができないのか。どのように思想・良心を貫くことが困難なのか。それぞれの事情が語られる。今回は、身体の不自由な原告のお一人が、悩んだ末に君が代斉唱時に着席した経過を述べた。処分を覚悟して、生徒に恥じない教師としての姿勢を貫くための不起立。陳述の内容は後記ののとおりである。
なお、法廷後の報告集会で、求められて若手弁護士が印象的な発言をした。
「私の長男が、この春幼稚園を終えて小学校に入学しました。幼稚園の卒業式は、それこそ園児を主人公としたたいへんに暖かい雰囲気のもの。それが、小学校の入学式となると一変して儀式化してしまう。何度も、『起立』・『礼』の違和感。私には、起立・斉唱の職務命令はないがそれでも、不快な思いが拭えません。現場の先生方の気持がよく分かりました」
「同級生の親の一人にオーストラリア人がいて、感想を話し合う機会がありました。その人にとっても学校がまるで軍隊のように見えて、とても違和感が強かったようです。オーストラリアではあのような儀式は一切ないと言っていました。卒業式での国旗国歌は、都教委がいうように、国際儀礼や国際常識を学ぶ場ではありません」
もう10年以上も以前のことだが、ある弁護士が子供の入学式に保護者として出席したときの感想を次のように書いていたのを記憶している。
「君が代斉唱は不愉快だが、自分は保護者席で起立した。自分一人のことを考えれば、不起立はたやすいが、妻や子の立場もある。自分一人の不起立は自己満足に終わるだけ。とりわけ、妻はPTAでの活動を心していたので、その活動に支障が及んではならないと思ってのこと」という主旨。
私は思う。たやすいことでも、たやすいことではなくても、君が代斉唱を不愉快と思うなら、せめて保護者席で起立せずに着席してその意思を表せ。自分の身分を懸けて厳しい闘いを強いられている教員がいるのだ。「日の丸」「君が代」への敬意表明強制を暗黙のうちに肯定してはならない。そのような場面では、社会から自由を与えられた立場の弁護士は、その職業倫理において、斉唱のために起立してはならない。
今日の集会では、清々しいその若手弁護士の発言に拍手が湧いた。
(2016年5月6日)
**************************************************************************
原告意見陳述
私は、教職最後の卒業式で国歌斉唱時に起立しなかったために、職務命令違反を理由に都教委から戒告処分を受けました。私が不起立するに至った事情について、陳述致します。
私は、都立高校に国語科教員として37年間勤務し、後半の17年間は夜間定時制高校に勤務しました。夜間定時制の初めの勤務校・A高校で4年目を迎えようとする時、高血圧性脳内出血を発症し、一年間治療とリハビリのために休職しましたが、左の上肢・下肢機能障害により、身体障害2級の認定を得て復職しました。復職した4年後に10・23通達が発出されました。
私は、翌2004年4月、K高校定時制に転勤しました。入学式・卒業式の役割分担が式場内の時には、国旗・国歌の強制に従いたくないという思いは強くありました。同時に、間近になった定年退職後の生活の心配がありました。国歌斉唱時に起立しなければ、戒告処分があります。それは退職金及び年金の減額につながります。それが不安の種でした。身体障害者の私にとって、定年後に仕事を続けることに困難を感じていましたので、退職後の生計は退職金と年金に拠る外はないと考えました。入学式・卒業式に臨み、信条に反して起立することを考えるのは苦痛でした。悩んだ結果、私が行ったのは、開式と同時に起立し、新入生・卒業生の呼名が終了するまで起立していることでした。起立したのは国歌斉唱のためにではなく、新入生・卒業生を見守るためだと言う私自身への言い訳のためでした。客観的に見れば、国歌斉唱時に起立していたのですから、強制に屈した情けない姿、強制なのだから仕方がないとのあきらめや無力感を生徒たちに見せたことに違いありません。信条に反する恥ずべき行為をしたと思い、悩みました。
2011年3月のK高校定時制卒業式が、私にとっては、在職中最後の卒業式でした。その卒業式が近付く中、私は、卒業生と共に行った沖縄修学旅行のこと、共に学んだ沖縄戦の実相を度々思い返しました。この修学旅行で生徒だちと心を通わせる交流がありました。
私が修学旅行の前の年の3年生から担任した学級にKという多動性の落ち着きのない生徒がいました。彼の行動が原因となり、学級が授業中や考査中に騒然となることがありました。この件で、校長は企画調整会議で学年主任に対し、教科担当者を含めて一斉に取り組めるような具体策を提案するように指示しました。学年主任の報告を受けて担任団としては、教科担当者から授業時の状況や対応を聞き取ることにしました。問題になったK君には、持ち前の底力と気立てのよさがあり、私は、それらのよい点に着目し、それを引き出しながら、問題行動を改善するように仕向けようと考え、対話を繰り返しました。この過程で親との信頼関係も生まれ、親から相談を持ちかけられることもありました。K君は徐々に私たちの説得を受けとめるようになり、問題行動の改善を約束するまでになりました。
生徒たちが4年生に進級した翌年度に実施された沖縄修学旅行の時には、このK君と、もう一人、校長の指導に反抗したことがあるM君の二人が、足場の悪い戦争遺跡のガマの中で、足の不自由な私を気遣って交代で背負ってくれるということがありました。校長は、卒業式の式辞で、この事に触れ、「今年の卒業生には気持ちの優しい生徒が多かった」と述べました。K君とM君は「問題児」どころか、実に気持ちの優しい生徒たちなのです。このような生徒たちの姿を見て、私は、彼らの成長と私たち学年担任団の思いが受けとめられていたことを確信しました。私は身体に障害があるために、生徒指導に動き回ることには、辛いこともありましたが、生徒が成長する姿を見ることに喜びを覚えました。
沖縄修学旅行の時のK君との交流で記憶に残ることがもう一つあります。摩文仁の平和祈念公園を一緒に歩いていた時でした。K君が「ここはどういう場所なの?」と尋ねるので、私は、「今は平和の礎が並んで平和を祈る場所になっているけれど、沖縄戦最大の激戦地だった」と答えました。すると、K君が「え、ここが!」と驚きの声を発したのです。今、平和な光景が広がる同じ場所で、多くの人の血が流されたとは信じられなかったからでしょう。
このような記憶を蘇らせながら、今の平和がいつまでも続き、日本が再び戦争への道を突き進むようなことがあってはならないと思いました。国旗・国歌が、この国が犯した侵略戦争に、国民を駆り立てるために使われたのは、紛れもない歴史的事実です。そのような国旗・国歌の強制には従うべきでないという思いを強くしました。
卒業式が近付き、私がそのような思いを強くしている時、校長が、職員会議で卒業式の包括的職務命令を伝えました。私は職務命令に反対して、「予防訴訟で最高裁に公正判決を要請する署名には、元管理職も応じてくれた。校長の本音はどうなのか。私は不自由な身体なので、起立姿勢を続けるのは辛い。ましてや、信条に反するのだから、なお辛い」という主旨の発言をしました。私がそのような発言をしたからだと思います。卒業式の前日に、私は校長室に呼ばれました。校長は、「あなたが起立しなければ注意する。その時式は中断するし、生徒がざわつくかもしれない。皆が迷惑する。」と言い、起立するよう求めました。
卒業式当日、開式の合図と共に、私は起立し、国歌の伴奏が始まるのを確認してから、着席しました。式は何の混乱もなく続けられました。
私に対して科された戒告は決して程度の軽い処分ではありません。私のような身体障害者を含めた教職員の生活を経済的に脅かし、そのことによって起立することを迫り、精神的苦痛をもたらすものとなっています。
かつて私が心ならずも起立し、恥ずべき行為をしたと悩んだのも、その戒告の不利益を恐れたためだったことを、もう一度申し上げて、私の陳述を終わります。
本日(5月1日)の毎日によると、同紙のアンケート調査で、国立86大学のうち、76大学が今春の式典で国旗を掲揚し、14大学が国歌斉唱を実施したという。
昨年6月下村博文文部科学相(当時)が、すべての学長に入学式や卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請して大きな話題となった。下村が政治資金規正法違反の疑惑から事実上更迭された後、その地位を襲った馳浩文新文科相は、意味不明の「恥ずかしい」発言で不見識をさらけ出したが、政権の意向はしっかりと各大学に伝わった。
愚かな政権の愚かな「要請」の効果が注目されたが、毎日の調査では、前年と対応を変えた大学は15大学に及んだという。新たに国旗を掲揚したのが4大学。国歌を斉唱したのが6大学。斉唱まではしないが、国歌の演奏や独唱をプログラムに入れたのが5大学。じわじわと、「日の丸・君が代」包囲網が大学を押し包んでいくような不気味な空気である。政権だけでなく、これに心ならずも屈服した者が包囲網に加わる形となって抵抗者を孤立させていく。幾たびも目にしてきた光景ではないか。
要請に応じた形となった15大学は、いずれもアンケートには「大学として主体的に判断した」と答えたというが、うち6大学は「文科相要請が学内議論のきっかけになった」と認めているという。
国立大学は結束しなければならない。文科省に擦り寄る大学の存在を許せば、当然に差別的な取り扱いを憂慮しなければならないことになる。大学が真理追究の場ではなくなる虞が生じ、世人の信頼を失うことにならざるを得ない。
愚かな政権の愚かな「要請」は、本来逆効果を生じなければならない。これまで式典に国旗国歌を持ち込んでいた大学も、「文科省に擦り寄る姿勢と誤解されてはならない」「大学の自治に介入する文科省に抗議の意を表明する」として、国旗も国歌も式からなくする見識が欲しい。「文科相要請が学内議論のきっかけ」となって、国旗を掲揚したり国歌を斉唱したり、とは情けない。
大学とは、学問の場であり、学問の成果を教授する場でもある。学問とは真理の追究であって、大学人には、何ものにもとらわれずに自由に真理を追究しこれを教授すべきことが期待されている。言うまでなく、この自由の最大の障壁が権力である。学問の自由とは権力に不都合な真理を追究する自由であり、教授の自由とは時の権力が嫌う教育を行う自由にほかならない。
国立大学とは、国家が国費を投じて真理追究の自由と教育の環境を保障した場である。国家は学問と教育の両面に及ぶ自由を確保すべき義務を遵守するが、学問や教育の内容に立ち入ってはならない。そのような環境があって初めて、学問は進歩し承継され、学生も育つことになる。こうして、学問は時の政権からの介入や、奉仕の要請から遮断されることで、高次のレベルで国民の期待に応えることになる。
時の政権による教育内容に対する介入は、学問の自由・大学の自治を侵すものとして違憲・違法と言わざるを得ない。アベ政治の反憲法的な姿勢の一端がここにも露呈しているのだ。
この国立大学での国旗国歌問題の発端は、昨年(2015年)4月参院予算委員会における首相答弁だった。「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法にのっとって、正しく実施されるべきではないか」というもの。
知性に欠けるということは恐ろしい。恐ろしい反面の強みでもある。反知性の首相であればこそ、臆面もなく恥ずかしさも知らず、堂々とこんな短絡した「論理」をのたまうことができるのだ。憲法も、歴史の教訓もまったく無視して、である。
このアベ発言を、盟友下村が受けた。同年6月には、国立大学長を集めた会議で「国旗・国歌法が施行されたことも踏まえ、適切な判断をお願いしたい」との要請となり、後任の馳浩文は本年2月、岐阜大が国歌斉唱をしない方針を示したことに対し、「日本人として、国立大としてちょっと恥ずかしい」などと述べている。教育行政を司る部門の責任者の言がこれなのだから、国民の方がまことに恥ずかしい。
国民の精神的自由を保障するために、けっして権力が介入してはならないいくつかの分野がある。まずは教育であり、次いでメディアであり、そして宗教であり、さらに司法である。
教育の自由の中核をなすものは、憲法23条が保障する学問の自由と大学の自治である。また、メディアの自由は憲法21条が保障するところ。これによって、国民の知る権利が充足されることになる。信仰の自由や政教分離は憲法20条が保障している。裁判官の独立は行政権力からも社会的圧力からも守られなければならない。そして法曹が権力の僕であってはならない。特に弁護士は在野に徹しければならない。この各分野すべてが、濃淡の差こそあれ攻撃の対象とされている。
アベ政権は、国家主義や歴史修正主義の立場から、憲法改正に急である。国民の精神的自由保障に対する各分野への攻撃は、それ自身が政権の目的であるとともに、改憲への強力な手段でもある。国立大学での国旗国歌は、政権の策動を象徴するテーマとなっている。これを成功させてはならない。
(2016年5月1日)
舛添要一東京都知事が袋叩きの状態となっている。海外出張での大名旅行批判に加えて、週末湯河原別荘通いに公用車利用である。しかも、居直り開き直りの弁明が、火に油を注ぐことになった。よってたかってのイジメ参加は私の趣味ではないのだが、東京都や都教委と争う立場にある者として、やはり一言いわざるを得ない。
4月27日発売の週刊文春によれば、知事は情報公開による公用車記録簿で確認された限りで、2015年5月1日から16年4月8日までの間に、神奈川県湯河原町の別荘への往または復での公用車利用を48回している。16年4月22日(金)には、文春記者が、都庁から湯河原までの公用車利用を目撃しているとのことなので、これを含めると年間49回である。
知事は、ほぼ毎週金曜日の午後2時半には公務を切り上げ、公費で温泉付き別荘に向かったことになる。片道100キロで1時間半の行程。普通にハイヤーを使えば往復8万円の距離だという。年間に換算すると400万円ほど。これが、「都庁関係者から匿名を条件とした情報提供」によって「発覚」し、2年を経過した今頃初めて問題になっていることが信じがたい。関係者には広く知られたことであったろうに、また会計監査も経ているはずなのに、どうして今頃、なのであろうか。
私が問題にしたいのは、知事の弁明のうちの、「ルール通りで問題はない」という一言。4月27日の記者会見では、「ルール通りで問題はないから、今後も続ける」との趣旨で居直っている。知事が言うルールとは、「都の規則では、移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」ということ。この「ルールに従っているのだから何の問題もない」「あらためる必要はない」という弁明の意味を考えてみたい。
世論は「ルール通り」という知事の弁明に総批判と言ってよい。「ルールに従った知事」を批判し非難する世論の方が間違っているのだろうか。そんなことはあり得ない。世論の、「そんなルールがあろうとなかろうと、知事の弁明は詭弁に違いない。到底納得できない」という感覚の方が正しいのだ。
知事の言は、「本当にルール通り」なのか。そして、「ルール通り」であれば問題はないのか。そう、問い正さねばならない。
ルールもいろいろある。憲法のような根本ルールもあれば、末節のルールもある。法律や条例のような民意によって作られたルールもあれば、行政限りで作られた内部ルールもある。ルールを厳格に解釈しなければならない局面もあれば、そのことが詭弁となることもある。
知事は、ルールをもち出してはいるものの、そのルールに関する詳細な説明はしていない。できれば、「法に基づくルール」あるいは「議会が作った条例というルール」と言いたいところだが、知事は、そうは言えなかった。この「ルール」は、民意を反映して作られたルールではない。だから、そのルールに従っているとするだけでは説得力に乏しい。
東京都には、「東京都自動車の管理等に関する規則」というものがある。この「規則」とは、地方自治体が制定するものだが、国の法令に違反しない範囲で首長が定める。議会の議決を必要とするものではない。要するに、知事自身が作った内部規定に過ぎない。
その第9条によって、知事は「専用車」を使うことができる。その「専用車の使用について必要な事項は財務局長が別に定める。」となっている。通常の庁用車の使用時間は、「通常の出勤時限から通常の退庁時限までとする」とされている(同規則8条)が、専用車にはその時間の限定はない。ここまでは、ネットで容易に検索できるが、その先の「財務局長が定める知事専用車使用についての規則」は、見つからない。もっとも、苦労して見つける努力をするほどのこともない。
多分その「財務局長規則」の中のどこかに、知事が言う「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」という条項があるということなのだろう。
まず、知事の年間49回に及ぶ週末湯河原通いは「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」というルールに適合しているだろうか。
いかなるルールも文言が抽象的であることを免れず、具体的な事例への適用において宿命的に解釈を必要とする。ルールが許容(あるいは禁止)することが明確な範囲を中核として、その周囲に明確性の濃淡をなす部分があって、ルールで許容(あるいは禁止)された範囲の限界は必ずしも一律に決まるものではない。具体的な事例が、その不明確な限界の内なのか外なのか。その判断が解釈である。
知事が言う「ルール通り」は、知事自身の個人的な解釈によるものに過ぎない。それが、唯一の正しい解釈である保障はない。むしろ、かなり怪しい解釈と指摘せざるを得ない。
ルールの解釈は、何よりもそのルール設定の趣旨・目的を把握するところからスタートしなければならない。また、いかなるルールも、高次のルールによって要件や効果が限定される。知事が公用車を利用する趣旨は、知事としての適正・迅速な公務の遂行に資するため、あるいは効率化のためのものであろう。そのことを離れての公用車利用は合理性を持たない。公務から公務への移動を公用車利用とすることの合理性に疑問の余地はなく、また非公務から非公務への移動の非合理性についても明白である。しかし、公務と非公務とをつなぐ移動については、管理規則の文言如何に関わらず、都有の財産である自動車を、都の公務員である運転者を使用して公用車として利用するに際しては、自ずから限度があるものと考えざるを得ない。
手法は二つある。
まずは、規則が「移動先か移動元が公務の場合は公用車で移動することができる」としているのは、公務地と知事自宅の移動を認める趣旨であって、自宅以外の遊興先や別荘地は含まないと解釈することができよう。ましてや、100キロ遠方の別荘地に毎週末の利用などは、到底規則の想定するところではない、と断じる手法である。規則が、行政内部で作成されたもので、民意を反映したものでないことがそのような解釈を支えることになる。都民の良識がこのような知事の公私混同の外形を有する公用車利用を許さない、としてよいのだ。
もう一つの手法は、権利の濫用ないしは逸脱とすることだ。規則の文言から言えば、確かに都庁と湯河原の別荘との移動に公用車を利用できることになってはいる。しかし、いくら何でも、知事にそのような形式的な解釈をさせて権利を認めるのは、実質的に法の正義に反する。知事の公用車利用は、権利の濫用ないしは逸脱と解釈するのだ。諸般の事情を考慮した結果とすればよい。諸般の事情の中には、この間に表明された都民の意思も重要なファクターとなる。
さらに、問題は知事の公用車利用が規則の解釈上可能か否かにあるのではない。知事に求められているのは、「自動車の管理規則」という些末なルールに従うことではなく、もっと高次の、「都民の信託に応える行政をなすべきとするルール」ではないのか、と批判することができる。都民から預託された税金の使い方には率先して節約の模範を示し、都民の声には誠実に敏感に対応して都庁10万の職員の範たるべきではないのか。それを、都民のほとんどが知らない「ルール」をもち出して、「ルール通りで問題はない」というのは、高次のルール無視という点で「問題大いにあり」と言わねばならない。高次のルールに違反するとは、法の正義に反すること、形式的には違法ではなくとも不当な行為として、反省と改善が求められるということでもある。
実は、東京都(教育委員会)の、教員に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発が、この知事の姿勢と同じ構造なのだ。形式的にルールに則っているのだから問題はない、という言い分。だから、まったく同じ批判が当てはまる。
都教委が「日の丸・君が代」を強制する根拠としての「ルール」は、学習指導要領のごく一部分の文言である。学習指導要領とは、憲法の下位にある法律の、その下位にある省令の、そのまた下位にある「文科大臣告示」でしかない。当然に、その解釈には上位のルールの制約を受けることになる。
しかし、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制は、思想・良心の自由を保障した憲法が許容するものではないというのが、教員側の立場。懲戒処分された教員の訴えに対して、最高裁は今のところ痛み分けとしている。最も軽い懲戒である「戒告」については懲戒は許されるとしたものの、思想・良心に基づく「やむにやまれずの不服従」と認めて、「減給」以上の処分はすべて懲戒権の逸脱濫用として違法と判断し、処分を取り消している。
それだけではない。最高裁は明らかに都教委に対して、違法とまではいえない戒告処分についても、当不当の問題は残るという姿勢を示している。教育を司る行政部門として、懲戒処分を濫発しての「日の丸・君が代」強制は、戒告処分に限れば違法とは言えないとしているものの、それでも決して褒められた行為ではない、という立場なのだ。
今回の批判にさらされている舛添知事の姿勢は、まずは端的にルール違反というべきものである。仮に、下位ルールには違反していないとしても、高次のルールには違反している。さらに、いかに言い訳しようとも、不当な行為であることは明白である。別荘通いの公用車使用の濫用と、良心的不服従者に対する「日の丸・君が代」強制による処分の濫発。両方とも、早急に反省して改めていただきたい。
(2016年4月30日)
安倍内閣発足以来、日本の言論・表現の自由は、惨憺たるありさまとなっている。
ほかならぬNHK(NEWS WEB)が、「報道の自由度 日本をはじめ世界で『大きく後退』」と報じている。本日(4月20日)の以下の記事だ。
「パリに本部を置く「国境なき記者団」は、世界各国の「報道の自由度」について、毎年、報道機関の独立性や法規制、透明性などを基に分析した報告をまとめランキングにして発表しています。4月20日発表されたランキングで日本は、対象となった180の国と地域のうち72位と、前の年の61位から順位を下げました。これについて「国境なき記者団」は、おととし特定秘密保護法が施行されたことなどを念頭に、「漠然とした範囲の『国家の秘密』が非常に厳しい法律によって守られ、記者の取材を妨げている」と指摘しました。」
日本は180国の中の72位だという。朝日は、「日本は2010年には11位だったが、年々順位を下げ、14年は59位、15年は61位だった。今年の報告書では、『東洋の民主主義が後退している』としたうえで日本に言及した。」と報じた。アベ政権成立のビフォアーとアフターでこれだけの差なのだ。
ところで、72位? 昨年から順位を下げたとはいえ、まだ中位よりは上にある? 果たして本当だろうか。この順位設定の理由は、「特定秘密保護法が施行されたこと」としか具体的理由を挙げていない。しかし、実はもっともっと深刻なのではあるまいか。
昨日(4月19日)、日本における言論・表現の自由の現状を調べるため来日した国連のデービッド・ケイ特別報告者(米国)が、記者会見して暫定の調査結果を発表した。英文だけでなく、日本語訳も発表されている。その指摘の広範さに一驚を禁じ得ない。この指摘の内容は、到底「言論・表現の自由度順位72位」の国の調査結果とは思えない。
最も関心を寄せたテーマが、放送メディアに対する政府の「脅し」とジャーナリストの萎縮問題。次いで、特定秘密保護法による国民の知る権利の侵害。さらに、慰安婦をめぐる元朝日記者植村隆さんへの卑劣なバッシング。教科書からの慰安婦問題のが削除。差別とヘイトスピーチの野放し。沖縄での抗議行動に対する弾圧。選挙の自由…等々。
ケイ報告についての各メディアの紹介は、「特定秘密の定義があいまいと指摘」「特定秘密保護法で報道は萎縮しているとの見方を示し」「メディアの独立が深刻な脅威に直面していると警告」「ジャーナリストを罰しないことを明文化すべきだと提言」「政府が放送法を盾にテレビ局に圧力をかけているとも批判」「政府に批判的な記事掲載の延期や取り消しがあつた」「記者クラブ制度は廃止すべき」「ヘイトスピーチに関連して反差別法の制定も求めた」などとされている。また、「(当事者である)高市早苗総務相には何度も面会を申し入れたが会えなかった」という。政府が招聘した国連の担当官の求めがあったのに、担当大臣は拒否したのだ。
今回が初めてという国連特別報告者の日本調査。あらためて、日本のジャーナリズムの歪んだあり方を照らし出した。これから大きな波紋を起こすことになるだろう。
**************************************************************************
◆国連報告者メディア調査 詳報に若干のコメントを試みたい。()内の小見出しは、澤藤が適宜付けたもの。
【メディアの独立】
(停波問題)
「放送法三条は、放送メディアの独立を強調している。だが、私の会ったジャーナリストの多くは、政府の強い圧力を感じていた。
政治的に公平であることなど、放送法四条の原則は適正なものだ。しかし、何が公平であるかについて、いかなる政府も判断するべきではないと信じる。
政府の考え方は、対照的だ。総務相は、放送法四条違反と判断すれば、放送業務の停止を命じる可能性もあると述べた。政府は脅しではないと言うが、メディア規制の脅しと受け止められている。
ほかにも、自民党は二〇一四年十一月、選挙中の中立、公平な報道を求める文書を放送局に送った。一五年二月には菅義偉官房長官がオフレコ会合で、あるテレビ番組が放送法に反していると繰り返し批判した。
政府は放送法四条を廃止し、メディア規制の業務から手を引くことを勧める。」
事態をよく把握していることに感心せざるを得ない。放送メデイアのジャーナリストとの面談によって、政府の恫喝が効いていることを実感したのだろう。また、安倍政権の権力的な性格を的確にとらえている。権力的な横暴が、放送メデイアの「自由侵害のリスクある」というレベルではなく、「自由の侵害が現実化」しているという認識が示されている。危険な安倍政権の存在を前提にしての「放送法四条廃止」の具体的な勧告となっている。
(「記者クラブ」「会食」問題)
「日本の記者が、独立した職業的な組織を持っていれば政府の影響力に抵抗できるが、そうはならない。「記者クラブ」と呼ばれるシステムは、アクセスと排他性を重んじる。規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し、密接な関係を築いている。」
権力と一部メディアや記者との癒着が問題視されている。癒着の原因となり得る「記者クラブ」制度が批判され、「規制側の政府と、規制される側のメディア幹部が会食し密接な関係を築いている」ことが奇妙な図と映っているのだ。これを見れば、72位のレベルではなかろう。二ケタではなく三ケタの順位が正当なところ。
(自民党改憲案批判)
「こうした懸念に加え、見落とされがちなのが、(表現の自由を保障する)憲法二一条について、自民党が「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」との憲法改正草案を出していること。これは国連の「市民的及び政治的権力に関する国際規約」一九条に矛盾し、表現の自由への不安を示唆する。メディアの人たちは、これが自分たちに向けられているものと思っている。」
この指摘は鋭い。自民党・安倍政権のホンネがこの改憲草案に凝縮している。政権は、こんなものを公表して恥じない感覚が批判されていることを知らねばならない。
【歴史教育と報道の妨害】
(植村氏バッシング問題)
「慰安婦をめぐる最初の問題は、元慰安婦にインタビューした最初の記者の一人、植村隆氏への嫌がらせだ。勤め先の大学は、植村氏を退職させるよう求める圧力に直面し、植村氏の娘に対し命の危険をにおわすような脅迫が加えられた。」
植村さんを退職させるよう求める圧力は、まさしく言論の自由への大きな侵害なのだ。この圧力は、安倍政権を誕生させた勢力が総がかりで行ったものだ。植村さんや娘さんへの卑劣な犯罪行為を行った者だけの責任ではない。このことが取り上げられたことの意味は大きい。
(教科書検定問題)
「中学校の必修科目である日本史の教科書から、慰安婦の記載が削除されつつあると聞いた。第二次世界大戦中の犯罪をどう扱うかに政府が干渉するのは、民衆の知る権利を侵害する。政府は、歴史的な出来事の解釈に介入することを慎むだけでなく、こうした深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない。」
安倍晋三自身が、極端な歴史修正主義者である。「自虐史観」や「反日史観」は受容しがたいのだ。ケイ報告は、政府に対して、「歴史的な出来事の解釈に介入することを慎む」よう戒めているだけでない。慰安婦のような「深刻な犯罪を市民に伝える努力を怠るべきではない」とまで言っているのだ。
【特定秘密保護法】
(法の危険性)
「すべての政府は、国家の安全保障にとって致命的な情報を守りつつ、情報にアクセスする権利を保障する仕組みを提供しなくてはならない。しかし、特定秘密保護法は、必要以上に情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす。」
特定秘密保護法は、情報を隠し、原子力や安全保障、災害への備えなど、市民の関心が高い分野についての知る権利を危険にさらす、との指摘はもっともなこと。「市民の関心が高い分野」だけではなく、「国民の命運に関わる分野」についても同様なのだ。
(具体的勧告)
「懸念として、まず、秘密の指定基準に非常にあいまいな部分が残っている。次に、記者と情報源が罰則を受ける恐れがある。記者を処分しないことを明文化すべきで、法改正を提案する。内部告発者の保護が弱いようにも映る。」
「最後に、秘密の指定が適切だったかを判断する情報へのアクセスが保障されていない。説明責任を高めるため、同法の適用を監視する専門家を入れた独立機関の設置も必要だ。」
もちろん、法律を廃止できれば、それに越したことはない。しかし、最低限の報道の自由・知る権利の確保をという観点からは、「取材する記者」と「材料を提供する内部告発者」の保護を万全とすべきとし、秘密指定を適切にする制度を整えよという勧告には耳を傾けなくてはならない。
【差別とヘイトスピーチ】
「近年、日本は少数派に対する憎悪表現の急増に直面している。日本は差別と戦うための包括的な法整備を行っていない。ヘイトスピーチに対する最初の回答は、差別行為を禁止する法律の制定である。」
これが、国際社会から緊急に日本に求められていることなのだ。
【市民デモを通じた表現の自由】
「日本には力強く、尊敬すべき市民デモの文化がある。国会前で数万人が抗議することも知られている。それにもかかわらず、参加者の中には、必要のない規制への懸念を持つ人たちもいる。
沖縄での市民の抗議活動について、懸念がある。過剰な力の行使や多数の逮捕があると聞いている。特に心配しているのは、抗議活動を撮影するジャーナリストへの力の行使だ。」
政府批判の市民のデモは規制され、右翼のデモは守られる。安倍政権下で常態となっていると市民が実感していることだ。とりわけ、沖縄の辺野古基地建設反対デモとヘイトスピーチデモに対する規制の落差だ。デモに対する規制のあり方は、表現の自由に関して重大な問題である。
【選挙の規制】 (略)
【デジタルの権利】 (略)
さて、グローバルスタンダードから見た日本の実情を、よくぞここまで踏み込んで批判的に見、提言したものと敬意を表する。指摘された問題点凝視して、日本の民主運動の力量で解決していきたいと思う。
但し、残念ながら、二つの重要テーマが欠けている。一つは、学校儀式での「日の丸・君が代」敬意強制問題。そして、もう一つがスラップ訴訟である。さらに大きく訴えを続けること以外にない。
国境なき記者団もこの報告書を読むだろう。さらには、来年(17年)国連人権理事会に正式提出される予定の最終報告書にも目を通すだろう。そうすれば、72位の順位設定が大甘だったと判断せざるを得ないのではないか。来年まで安倍政権が続いていれば、中位点である90位をキープするのは難しいこととなるだろう。いや、市民社会の民主主義バネを働かせて、安倍政権を追い落とし、72位からかつての11位までの復帰を果たすことを目標としなければならない。
(2016年4月20日)
昨日(4月18日)、都教委との訴訟において久しぶりに敗訴の判決を得た。敗訴は辛い。辛いが、励まし合い、知恵も元気も出し合って闘い続けなくてはならない。少しでも真っ当な社会を築くために。
負けてもめげないという点では、都教委を見習おう。なにしろ12連敗しても、少しもへこたれず、反省のかけらすら見せずに、居直り続けているのだから。
昨日敗訴の事件は、「再雇用拒否」第3次訴訟と名付けた事件。東京都立学校の元教員3名が、定年後の非常勤職員の選考に当たって、在任中の君が代不起立のみを理由に不合格とすることは違法と主張して、東京都に計約1760万円の国家賠償を請求した事件。東京地裁民事19部(清水響裁判長)の判決言い渡しのその瞬間までは、勝訴判決があるものと思い込んでいた。都教委も、12連敗の次の13連敗目を覚悟していたに違いないのだ。なんとなれば、まったく法的争点を同じくする「再雇用拒否」第2次訴訟では、昨年5月東京地裁の別の部(民事36部)が、元教員22人が起こした別の訴訟の判決で全面勝訴して約5370万円の損害賠償を命じる判決を言い渡している。しかも、この判決は東京高裁でも1回結審で控訴棄却となっているのだ。都教委も、「どうして勝ったんだろう?」といぶかしんでいるに違いない。
2次訴訟も3次訴訟も、原告らはすべて卒業式で「君が代」斉唱時に起立しなかったことだけを理由に定年後の再雇用を拒否されている。懲戒処分を受けただけでなく、定年後年金支給時までのブランクは経済的に厳しい制裁となるのだ。「日の丸・君が代」不服従に対する、懲戒処分以外の制裁措置として実効性のあるこの再雇用拒否は都教委の大きな武器である。この武器をいったんは押さえ込んだと思ったのだが、昨日の判決は、この武器の使用を認めてしまった。だが、判決をよく読むと、裁判官が自信をもって書いた判決とは思えない。勝敗は紙一重。しかも、極めて薄い紙によって分けられたというほかはない。
**************************************************************************
まずは、原告団・弁護団の声明を掲載しておきたい。
声明
1 本日、東京地裁民事第19部(清水響裁判長)は、都立学校の教職員3名が卒業式等の「君が代」斉唱時に校長の職務命令に従わずに起立しなかったことのみを理由に、定年等退職後の再雇用である非常勤教員としての採用を拒否された事件(東京「再雇用拒否」第3次訴訟)について、原告教職員らの訴えを棄却する不当な判決を言い渡した。
2 本件は、東京都教育委員会(都教委)が2003年10月23日付けで全都立学校の校長らに通達を発し(10.23通達)、卒業式・入学式等において「君が代」斉唱時に教職員らが指定された席で「日の丸」に向かって起立し、「君が代」を斉唱すること等を徹底するよう命じて、「日の丸・君が代」の強制を進める中で起きた事件である。
都立学校では、10.23通達以前には、「君が代」斉唱の際に起立するかしないか、歌うか歌わないかは各人の内心の自由に委ねられているという説明を式の前に行うなど、「君が代」斉唱が強制にわたらないような工夫が行われてきた。
しかし、都教委は、10.23通達後、内心の自由の説明を一切禁止し、式次第や教職員の座席表を事前に提出させ、校長から教職員に事前に職務命令を出させた上、式当日には複数の教育庁職員を派遣して教職員・生徒らの起立・不起立の状況を監視するなどし、全都一律に「日の丸・君が代」の強制を徹底してきた。
原告らは、それぞれが個人としての歴史観・人生観・宗教観や、長年の教師としての教育観に基づいて、過去に軍国主義思想の精神的支柱として用いられてきた歴史を背負う「日の丸・君が代」自体が受け入れがたいという思い、あるいは、学校行事における「日の丸・君が代」の強制は許されないという思いを強く持っており、そうした自らの思想・良心・信仰から、校長の職務命令には従うことができなかったものである。
ところが、都教委は、定年等退職後に非常勤教員として引き続き教壇に立つことを希望した原告らに対し、卒業式等で校長の職務命令に従わず、「君が代」斉唱時に起立しなかったことのみを理由に、「勤務成績不良」であるとして、採用を拒否した。
3 判決は、「君が代」斉唱時の起立等を命じる校長の職務命令が憲法19条及び同20条に違反するかという争点については、2011年5月30日最高裁(二小)判決に従って、起立斉唱命令が原告らの思想・良心及び信仰の自由を間接的に制約する面があるとしながら、公務員としての地位及び職務の公共性から、必要性・合理性があるとして、憲法19条及び20条違反と認めなかった。
4 また、判決は、都教委による10.23通達及びその後の指導について、卒業式・入学式等における「日の丸」掲揚、「君が代」斉唱の実施方法等について、公立学校を直接所管している都教委が必要と判断して行ったものである以上、改定前教育基本法10条の「不当な支配」に該当するとは言えないと判示した。
5 さらに、判決は、原告らに対する採用拒否は、都教委の裁量権を逸脱・濫用したものではないとした。非常勤教員の採否の判断につき,都教委は「広範な裁量権を有している」として、原告らの非常勤教員への採用の期待は、「事実上の期待でしかない」とする。その上で、本件採用拒否が「不起立を唯一の理由」とするものであり、「原告らが長年にわたり誠実に教育活動に携わってきた」ことを認定しながら、「本件職務命令が適法かつ有効な職務命令であるとの前提に立つ以上、原告らが本件不起立に至った内心の動機がいかなるものであれ、職務命令よりも自己の見解を優先させ、本件職務命令に違反することを選択したことが、その非常勤教員としての選考(本件選考)において不利に評価されることはやむを得ない。」とし、前記2011年最高裁判決に従い、「本件採用拒否が客観的合理性及び社会的相当性を著しく欠くものとはできない」とした。
6 しかし、本件と同様の事件(再雇用拒否撤回第2次訴訟)において、東京地裁民事第36部(吉田徹裁判長)は、2015年5月25日、東京都の採用拒否について、裁量権逸脱として違法とし同事件の原告らの損害賠償請求を認め、同事件の控訴審においても、東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)は、2015年12月10日、東京都の控訴を棄却している(東京都は上告中)。上記判決においては、「再雇用拒否は本件職務命令違反をあまりにも過大視する一方で、教職員らの勤務成績に関する他の事情をおよそ考慮した形跡がないのであって、客観的合理性や社会的相当性を著しく欠くものといわざるを得ず、都教委の裁量権を逸脱・濫用したもので違法である」と判示している。本判決は、これらの判決にも反する極めて不当な判断である。
7 原告らは、本不当判決に抗議するとともに、本判決の誤りを是正するために、直ちに控訴する。われわれは、引き続き採用拒否の不当性を司法判断にて確定するために努力する決意である。
以上
2016年4月18日
東京「再雇用拒否」第3次訴訟原告団・弁護団
**************************************************************************
判決の理由を見てみよう。判決理由は「本件の争点」として、以下の5点を挙げる。
1 10・23通達及びこれにもとづく起立斉唱の職務命令が、憲法26条、憲法13条、憲法23条及び旧教育基本法10条1項(現教育基本法16条1項)に違反するか(争点1)
2 同通達及び本件職務命令が「市民的及び政治的権利に関する国際規約」18条に違反するか(争点2)
3 原告らが本件選考において不合格とされたことは思想良心、信仰に基づく不利益取扱いとして憲法19条及び憲法20条に違反するか(争点3)
4 本件不採用に都教委の裁量権濫用・逸脱があるか(争点4)
5 原告らの損害額(争点5)
この争点1?争点3こそが、教員側の主たる主張だが、現実的に勝敗を分けるのは、「争点4」の裁量権濫用・逸脱の有無である。2次訴訟では、この点で教員側が勝っている。このテーマであれば、最高裁判決に縛られることなく、下級審裁判所が自分の頭で判決を書ける。ここで、現実に教員側勝訴の判決が続いているのだ。
その「争点4」について、本件判決はどう書いたか。下記は判決書きのうちの「当裁判所の判断」中の記載の抜き書きである。念のためだが、原告の主張の抜き書きではない。
争点4(本件不採用に都教委の裁量権濫用・逸脱があるか)
「証拠(甲1,甲4ないし甲6,甲50,甲51)及び弁論の全趣旨によれば,平成19年度から平成24年度までの非常勤教員の合格率は約96%から98%で推移しており,不合格となるのは少数に限られること,また,非常勤教員は再雇用制度の廃止に伴い,再雇用職員が担ってきた業務を担う役割を果たすものとして設けられたものであって,再雇用・非常勤教員採用選考実施状況(甲4)に照らし,現実にも,非常勤教員制度は,再雇用制度廃止の受皿としての機能を有していたものと認められ,これに反する証拠はない。かかる事実によれば,原告らにおいて,定年退職後も非常勤教員として勤務することができることを期待したとしても,そのこと自体は理解することができる。」
「進んで,本件不採用の理由について検討するに,…証拠(甲57から甲59まで,原告各本人)によれば,原告らは,それぞれ都立学校に在職中,定年退職に至るまでの間,教師として誠実に職務に取り組んでいたことが認められ,本件職務命令違反に係る本件不起立も原告らの歴史観ないし世界観等に基づくもので,積極的な式典の妨害行為をするような態様のものではなく,証拠上,本件職務命令違反に係る本件不起立以外に,原告らにつき,本件不採用に係る不合格の理由となるような事情は見当たらない。したがって,本件不採用は,専ら原告らが本件職務命令に違反したということをその理由とするものと推定され,これを覆すに足りる主張立証はない。」
「そこで,このような理由により本件不採用をしたことが裁量権の濫用・逸説となるかどうかについて検討するに,…原告らが地方公務員であると同時に教師であり,本質的に子どもとの直接の人格的接触を通じ,その個性に応じて行わなければならない教育に携わる者として,一定程度の教授の自由を有していたと考えられることが考慮されるべきものであり…、確かに,原告らが長年にわたり誠実に教育活動に携わってきたことに鑑みると,本件選考に係る都教委の裁量権の行使に当たっては,専ら原告らの本件職務命令の違反という事実だけを重視するのではなく,原告らの長年にわたる教師としての能力や適性,実績についても同程度あるいはそれ以上に重視して慎重に検討すべきとの考えもあり得るところであり,この点については,人事政策的見地からの当否の問題は残ると考えられる。」
結局、判決は、迷いながらも、「法的見地からみた裁量権の濫用・逸脱の問題としては,被告(都教委)に著しい裁量権の濫用・逸脱があったとまでは言い難い。」と結論した。上述のとおり、「人事政策的見地からの当否の問題は残る」と明言しながらのことである。裁判官は、「都教委のやったことは相当ひどいが、それでも違法とまでは言いにくい」としたのだ。越えてしまえば、なんでもない一線。行政を批判する勇気に欠けたと批判せざるを得ない。
2次訴訟における「民事36部の原告勝訴判決」と、3次訴訟における「民事19部の原告敗訴判決」とを分けるものは、まさしく人権感覚の差である。憲法感覚の差と言ってもよい。個人の尊厳、思想・良心の自由を出発点として果たしてこれを制約するに足りる必要があるかと発想するのか、それとも秩序維持の必要性を出発点としてこの秩序を凌駕するものとして個人の自由の価値を認めるべきかとの発想の落差である。
裁判官の資質としてもっとも重要なものは、何よりも人権感覚である。個人の尊厳への畏敬の念である。生身の人間への共感能力でもある。難波判決・大橋判決・宮川少数意見、そして吉田判決と、一連の「日の丸・君が代」訴訟は、何人もの真っ当な裁判官を見てきた。残念ながら、昨日はハズレ籤だった。気を取り直して、原告団と弁護団と支援の運動全体で控訴審に取り組む決意をかためよう。考えようによっては、まだ12勝1敗ではないか。この1敗で、へこんではおられない。
(2016年4月19日)
日本での表現の自由の状況を調査する国連人権理事会の特別報告者であるデビッド・ケイ氏(カリフォルニア大学教授)。滞在予定は4月12日から19日まで。この間に、「政府やメディアの関係者を含め、多くの人と会談したい」との意向を表明している。政府やメディア関係者だけでなく、ぜひ市井にある者の声を掬い取っていただきたい。
4月16日のグループヒアリングプログラムでの私の発言を当ブログでご紹介した。「日の丸」への敬意表明の強制は、ナチスのハーケンクロイツへの敬礼の強制と同じであることを理解していただきたいという内容。
実は、私だけでなく、「国連に障がい児の権利を訴える会」の代表として発言された渡辺厚子さんも、期せずして同様の趣旨の訴えとなった。渡辺さんは、自ら英文を朗読した。その日本語訳バージョンをご紹介したい。
想像してみてください。
あなたは、教員として、生徒に平和を愛する市民になってほしいと、心を込めて教育にあたっています。しかし政府が、生徒に愛国心をもたせるためと言って、学校行事でハーケンクロイツに敬礼し、ナチスを讃える歌を斉唱することを、義務とすると言い出しました。そしてもし従わなければ、職務命令不服従として、減給や、停職処分や、免職にすると。
この話は、時代錯誤的だと思われるでしょうか?
どこか独裁政治の行われている国の話でしょうか?
いいえ、これは、今、日本の教育現場で起こっていることなのです。
民主国家であるはずの日本で、今、侵略戦争の象徴『日の丸』「君が代』について、このようなことが行われているのです。
私を含め日本の多くの教員は、過去に、教育を通して戦争が美化され、結果として壊滅的な運命がこの国にもたらされた反省から、学校でのこうした愛国心の押し付けに対し警戒心を持っております。それでいくら職務命令があっても、学校行事での国家斉唱では、起立斉唱の際に立ち上がらず、黙って歌が終わるのを待つという、ささやかな抵抗を行ってきました。あるいは、歌の間だけ退席する、あるいは起立はするが歌わない、という形をとる教員もいます。いずれの場合も、我々の「抵抗」は、歌そのものが短いため、ほんの40秒かそこらで終わってしまうようなものです。
しかし、こうした非暴力で消極的な抵抗をする教員に対して、当局は容赦ない締め付けを行ってきています。斉唱拒否する教員を発見するために、学校行事の際には、監視員を各学校に派遣、ビデオを撮影して、ちゃんと国家斉唱をしなかった教師や退席した教師の氏名を確認し、報告するのです。
成熟した民主主義社会で行われていることとは思えない、こんなばかばかしいことが実際に行われ、不釣合いに重い処分が見せしめ的に下され、その結果として多くの教師が、教壇を、愛する生徒たちの元を去ってゆきました。
私自身も、停職1ヶ月、停職3ヶ月、停職6ヶ月、などの処分を受けました。私は養護学校教諭ですから、教えている生徒たちの中には、重度の障害を負って命に限りのある子もいました。そうした生徒にとっては、一日一日がとても貴重なのに、良心にしたがって行動しただけで、長期に渡って彼らの元を離れなければならないのは、耐え難いものでした。
我々教員は、力を合わせて訴訟も起こしましたが、最高裁の判決が出ても、当局は手をゆるめません。良心の自由、信条の自由を訴えるため、最後の手段として、私は、ジュネーブへいき訴えました。
今日、私はあなたに、特に、障害児への権利侵害について注意を喚起します。
障がい児学校には非常に重度の障がいのある子どもたちがいます。教師たちは彼らの命を支えるために常にケアをしています。しかし、君が代の時、立って歌えという命令は、そのような子どもたちのニーズにお構いなしに発せられます。教師は、子どもの装着するアラーム音が鳴った時、アラーム音を無視 して命令に従うのか、それとも、子どもの命に係わることだと処分を覚悟して、命令に逆らい対応するかの選択を迫られるのです。生徒の生きる権利は、政府の最優先事項で はないのです。
また、障害児達への合理的配慮がなされていません。通達前まではバリアーフリーのフロアー会場で式を行っていました。子どもたちには自分で車椅子をこぎ、動く権利が保障されていました。ところが当局は、フロアー会場の使用を禁じました。壇上に日の丸を飾りそれに敬礼させるため、全員の子どもを例外なく壇上に上げるよう命じました。スロープは狭く傾斜もきつく子どもがこいで上がるには無理があり危険なため、自分で動くことができなくなりました。尊厳が傷つけられています。
性教育についてお伝えします。
性教育は、障害児に限らずどのこどもにとっても重要です。障害児にとっては自分自身への肯定感、命の根源の尊重、又性被害や加害からの防御としても重視され取り組まれてきました。しかし政府は性教育をバッシングし,都立七生養護学校では,2003年性教育を行った教員は処分され、教材もすべて都議会議員によって持ち去られました。
最高裁判所は、2013年都議会議員や都教委を罰しました。しかし,彼らは未だに教材すら返却しません。
詳細は、「国連に障がい児の権利を訴える会」が提出した自由権規約委員会への「日の丸・君が代」カウンターレポートをご覧ください。
是非、日本の教員が,自由権規約18条・19条・24条にかかげられているところの良心の自由表現の自由を獲得し、その信ずるところにしたがって教育に従事できるよう、お力をお貸しください。(以上・渡辺厚子さん)
日本の教員から、このような訴えが上がることをケイ氏はどう受け止めるだろうか。今回の調査は、今月19日まで行われる予定で、最終日には中間報告が発表される予定と報じられている。中間報告も、最終報告も大いに期待して待ちたいと思う。
(2016年4月18日)
近々ロゴスから、ブックレット「壊憲か、活憲か」を出す予定で、原稿を書いている。
予定では、下記執筆者4人の共著。私一人が脱稿していない。
「〈友愛〉を基軸に活憲を」 村岡到
「憲法を活かす裁判闘争」 澤藤統一郎
「自民党改憲案への批判」 西川伸一
「五日市憲法草案は現憲法の源流」 鈴木富雄
128頁で1100円が予価。
私の、「憲法を活かす裁判闘争」は、岩手靖国違憲訴訟の経験を素材に今の時点で、憲法を活かす裁判運動の経験をまとめてみようというもの。できあがったら、お読みいただくようお願いしたい。
当時の資料に目を通していたら、靖国訴訟の原告のお一人、菊池久三先生(1916-1995. 北上市)が亡くなられたときの追悼文が出てきた。
「どんぐりころころ」という菊池久三先生の遺稿集の片隅に掲載していただいたもの。尊敬する先輩の生き方を書きとめておきたい。
筋を貫く生き方ー菊池久三先生の印象
手許のずいぶんと古ぼけた手帳を繰ってみると、久三先生との初めての出会いは一九八〇年一二月六日である。古い手帳から往事の懐かしい記憶がよみがえる。
その数日前、 懇意の柏朔司さんから紹介の電話をいただいていた。北上に政教分離の運動を進めているグループがあって、君の事務所を訪ねて行くから法律的な相談に乗ってやっていただきたい、という。その中心人物として「菊池久三」という名を初めて知った。岩手靖國違憲訴訟のプロローグである。
初対面の先生は、紛れもない「教師」だった。それも、「教え子を再び戦場にやってはならない」との思いを熱く語り続ける生粋の「教師」だった。この、出会いの日の印象は最後まで変わることはなかった。
法廷における久三先生の思い出の最たるものは、控訴審での本人としての証言だった。尋問は仙台の手島弁護士が主担当、私がサブだった。延べ一〇時間を越えた尋問準備の打ち合わせは、菊池先生には相当の負担であったと思う。
満席の法廷傍聴者は、政教分離運動の支援者が半分、公式参拝推進派の遺族会動員が半分。そのなかでの久三先生の証言は法廷を圧した。青年学校の熱意あふれる教師として子供たちに忠君愛国の教えを説いたこと、教え子の出征に際して「生きて還ると思うなよ、靖國神社で会おう」と送り出したこと、そして、その教え子たちの真新しいいくつもの墓標を見つけたときの悔恨。戦後は、再び教壇に立つ資格はないと思った自分が、「平和教育・民主主義教育を進めることで、贖罪したい」と思い返し決意したその経緯……。
その決意を一筋に貫いた人であればこその迫力に満ちた証言だった。堂々たる証言は、久三先生の堂々たる人生の発露であった。
訴訟が終わって、お目にかかるたびに私の子供のことを話題にされた。この点も教師なのだな、と印象を深くした。平和教育・民主教育を生涯の仕事とされた久三先生にとって、私は戦後初期の教え子の世代、私の子供は先生の最後の教え子よりやや若い世代。悲惨な戦争体験や戦前の不合理な社会の苦い体験が世代から世代にどう承継されているのか。平和や民主主義擁護の熱い思いがそれぞれの世代でどう育まれているか。気になってならなかったのだと思う。若い世代への期待もひとしおだったのだろう。
久三先生にとって、岩手靖國訴訟の提起は自分の生き方の貫徹の結果として、ごく自然なことだった。久三先生は、この訴訟に関わった私たちに、みごとな筋の通った生き方の手本を見せてくれた。やっぱりどこまでも、久三先生は人の師であった。
戦後の民主教育を支えた師を記憶に留めておきたい。
(2016年4月17日)
めぐり来る春は、卒業式・入学式のシーズンである。東京の春は、「日の丸・君が代」強制の季節。今年も、東京都教育委員会は、懲りることなく全教職員に対して、卒業式では「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱せよ」とする職務命令を発した。さらに、これに従えないとする者に懲戒処分を科している。昨日(4月5日)、卒業式の不起立で懲戒処分を受けた教員に対する、服務事故再発防止研修という名の加重懲罰が実施された。早朝8時半。水道橋の研修センター門前に、都教委に抗議し研修受講者を励ます60人が参集した。私も、マイクを握って、研修の責任者である総務課長に申し入れをした。
東京「君が代」裁判弁護団の澤藤です。本日、服務事故再発防止研修受講の業務命令を受け、不本意ながらもこれから研修を受けるためこのセンターに入構する教員を代理して、都の教育委員諸氏と、教育庁の全職員に抗議と要請を申しあげます。
まず、憲法19条を再読いただきたい。
そこには、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」と、強い命令形で書かれています。命令しているのは主権者である国民。憲法制定権者でもある国民が命令しているのです。命令されているのは、公権力を担う者。東京都教育委員会であるとともに、あなた方教育庁の全職員が「思想及び良心の自由を侵してはならない」と命令を受けているのです。
誰の「思想及び良心の自由」を侵してはならないとされているか。国籍や地位、身分、年齢や性別、思想・信条などあらゆる区別なく、すべての人に思想と良心の自由が保障されているのです。もちろん、懲戒された教育公務員にも自由が保障されています。
いかなる思想の自由、いかなる良心の自由が憲法上の保障を受けるものであるか。
憲法における自由とは、公権力の束縛からの自由を意味します。強大な権力を持つ国家を暴走させないための憲法なのですから、思想の自由とは何よりも国家が公定する思想の束縛からの自由でなくてはなりません。「国家は正しい」「国家には従うべきだ」「国家は大切なものだ」とする思想を拒絶する自由こそが最大限の保護をうけなければならないのです。
国家が国民に対して、愛国心の涵養を強制することはけっして許されません。自由主義の国家においては、憲法が最も警戒する思想こそ愛国心である、と言って差し支えないのです。
また、究極において、憲法とは国家と個人の関係の規律ですから、国家と国民個人との関係についての考え方こそ、憲法が最も関心をもつ思想領域なのです。この点についての国民の思想は、徹底して自由でなくてはなりません。国家が特定の思想を排斥したり、特定の考え方を押しつけることは許されないのです。国家と個人の関係についての思想こそ、他のいかなるテーマにも増して、幅の広い自由が保障されなければなりません。
ですから、国民は、国家大好きであっても、大嫌いであっても、まったくの無関心であってもいっこうに差し支えないのです。愛国心を強制することは許されず、国家の象徴である国旗や国歌に敬意を表明することの強制は本来憲法が許さないことというほかはないのです。
そして良心です。本日研修を強制される教員たちは、自らの教員としての良心を貫く立場から、「日の丸・君が代」への敬意表明ができなかったのです。戦前、天皇制とあまりに深く結びつき、子どもたちの心を軍国主義一色に染め上げる道具であった、学校儀式での日の丸と君が代。教師を志した初心に省みて、子どもたちの精神の自由を守るために、この歌と旗を受け容れることは出来ないと決意したのです。
本来は、国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」への敬意表明の強制からの自由が保障されなければなりません。しかし、今、「日の丸・君が代」が踏み絵となって、思想の転向が迫られ、良心がむち打たれる事態となっているではありませんか。是非このことを理解していただきたいのです。
したがって、本日の研修はまったく必要のないものです。いや、本日予定されている研修はけっしてあってはならないものというべきなのです。東京都の教育委員とあなた方教育庁の職員は、違憲違法な行為を強行しようとしているのです。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈せず、教員としての良心を守り抜いた教員ではありません。むしろ、あなた方、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。
とりわけ強く申しあげたい。あなた方は、教員との裁判で12連敗している。正確に言えば、判決と執行停止の決定ととをあわせて、この2年間というもの一貫して負けつづけています。これは重大事だと、自覚してもらわねばなりません。
たった一つでも裁判に負けた場合、都教委の行為が違法と判断されたのですから、まず違法な公権力の発動によって迷惑をかけた相手に対して心からの陳謝をすべきが当然の社会常識です。そして、自分が間違っていた旨を公表し、責任の所在を明確にして、責任者にはしかるべき制裁措置が必要です。それだけでなく、どこでどのように間違えたのかを真摯に反省することによって、再発防止策を見つけねばなりません。そして、その具体策を実行しなければなりません。そして、責任者には再発防止研修を受けさせなければなりません。
教育委員諸君と、あなた方こそが再発防止研修を受けなければなりません。本日の研修の主体と客体はまさに逆転しています。おかしいのです。
教育委員は、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。戦前の教育のどこがどう間違い、それをどのように反省して今日の教育法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員のあり方をどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。ついでに、国旗国歌法の制定経過とその趣旨もよく学んでいただきたい。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行動に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念にもとづく行為に対して「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による処分自体が思想・良心を侵害する公権力の発動として許されることではありませんが、これに加えて再発防止研修に名を借りた転向強要は、絶対にあってはならない違法行為といわざるを得ません。
そのような観点から、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげます。あなた方が本日行おうとしている研修の強行は、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為です。おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧の役人や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはない。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の研修受講命令を受けている教員たちは、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安易に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。この教員たちは多大な不利益を覚悟して、それぞれの良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人格、模範的な教員ではありませんか。是非、そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、心して研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
(2016年4月6日)
またまた、「またも負けたか都教委よ」である。
本日(3月24日)午後、東京高裁第4民事部(綿引万里子裁判長)は、都立高校教員の懲戒免職処分取消請求控訴事件において、東京都教育委員会の控訴を棄却する判決を言い渡した。しかし、都教委敗訴は、もはやニュースにならない。負けつづけているからだ。都教委が勝訴したら、それ自体が大きなニュースという時代なのだ。
この件は、都教委が当該教員に非違行為があったとして懲戒免職処分としたことに対して、教員が処分の取り消しを求めて提訴したもの。2015年10月26日一審判決があって都教委が敗訴し、これを不服として控訴をした都教委の再びの敗訴である。
担当の加藤文也弁護士からの報告は、「判決の事実認定も判断も、現場で生徒のためにがんばっている教員を励ます内容となっています。」というものだった。
都教委はこの件では判決で2度負けているだけではない。原告は懲戒免職処分の取消請求訴訟を提起しただけでなく、処分の執行停止(民事の仮処分に相当する)を申立て、一審・二審の両裁判所とも、この執行停止申立を認める決定を出している。都教委は、都合4件の敗訴「判決・決定」を受けたわけだ。
敗訴続きの都教委は、きっぱりと上告受理申立などやめるがよい。「違法」な免職処分を行ったことを真摯に謝罪して現職復帰を認めるべきである。その上で、どうして裁判所から違法と断罪される処分を発令してしまったのか、責任の所在を明らかにしたうえ、同じ過ちを繰り返さぬよう適切な措置をとらねばならない。
?2013年12月 東京地裁判決。再発防止研修未受講事件(原告Fさん・都立高校)で減給6月の処分取消。控訴なく確定。
?2014年10月 東京高裁判決。都立高教員の再任用更新拒否損害賠償請求を認容。都教委上告せず確定。
?2014年12月 東京高裁判決。都立高教員条件付き採用免職事件で勝訴。都教委上告せず確定。
?2015年 1月 東京地裁。都立高教員免職処分執行停止申立を認容決定。
?2015年 5月 東京地裁判決。再雇用拒否撤回二次訴訟(原告22名)原告勝訴。都側が控訴し高裁でも敗訴(下記?)。
?2015年 5月 東京高裁判決。河原井さん根津さん停職処分取消訴訟で逆転勝訴。都側が上告。
?2015年10月 東京地裁判決。岸田さんの停職処分・人事委修正裁決取消訴訟で原告勝訴。都教委が控訴し高裁で係争中。
?2015年10月 東京地裁判決 都立高校教員Oさん免職処分取消。都教委が控訴。
?2015年12月 東京高裁判決。東京「君が代」裁判三次訴訟。都教委敗訴(5名の減給・停職処分取消)について上告を断念。
?2015年12月 東京高裁再雇用拒否撤回二次訴訟判決 原告勝訴。都教委が上告受理申立。
?2016年 1月 東京高裁、都立高校教員Oさん免職事件執行停止決定。
?2016年 3月 都立高校教員Oさん免職事件控訴棄却 東京高裁判決。
これで、都教委は、自らが処分者として関わった教育裁判で12連敗!である。その内、7件が「日の丸・君が代」強制関係。その他が5件。その他の5件も、明らかに都教委の強権体質を表すものである。
これだけ多くの裁判を抱えるに至ったことだけでも都教委は恥とし反省しなければらない。さらに、12連敗とは、滅多にできる芸当ではない。前人未踏の金字塔というべきであろう。この不名誉な責任は、6名の教育委員にある。
「自分は職員の起案を了承しただけ」などという弁明はできない。そんな能なし委員は即刻退任してもらわねばならない。 教育委員にこそ、再研修が必要だ。
教育委員とは何者であるか。あるいは、あるべきか。地教行法第4条は、その資格要件をこう定めている。
4条1項「教育長は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育行政に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」
4条2項「委員は、当該地方公共団体の長の被選挙権を有する者で、人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有するもののうちから、地方公共団体の長が、議会の同意を得て、任命する。」
法が想定する教育委員(長)像は、「人格が高潔で、教育行政に関し識見を有する」教育長と、「人格が高潔で、教育、学術及び文化に関し識見を有する」その他の教育委員である。12連敗の教育委員諸君。諸君は、自分の責任をどう自覚しているか。
本日は、東京「君が代」裁判の弁護団会議。原告を交えた雑談の中で乙武洋匡元教育委員の不倫不祥事が話題となった。いま、暴かれているこの人物の行状。この人が、ごく最近まで東京都教育委員の一人として、多忙な不倫生活の合間に、片手間仕事の教育委員としての務めに従事していたのだ。到底「人格が高潔」でもなく、「教育、学術及び文化に関し識見を有する」とも言えない。これでも、委員が「務まった」のだ。
処分を受けた教員のひとりが、「こんな人物に処分されていたんだね」と呟いた。私には、痛々しく聞こえた。本気で教育に取り組んでいる現場の教員にとっては、なんとも情けない思いなのだ。
次は、4月18日に都教委が被告となっている再雇用拒否撤回三次訴訟(東京地裁民事第11部)の判決が控えている。おそらくは、これが都教委13連敗の日となる。
裁判所に、「違法」「違法」と言われ続けているのだ。これだけ敗訴を重ねて、その体質を改善しようとしないのか。舛添知事よ。オリンピックにかまけていないで、なんとかしなければならない事態だと自覚していただきたい。
(2016年3月24日)
昨日(3月21日)防衛大学校の卒業式が行われた。壇上正面に大きな日の丸。学問の自由とも、本来的な意味での教育とも無縁のこの場である。「日の丸」も「君が代」も、そして安倍晋三の出席も違和感がない。
安倍晋三が自衛隊最高指揮官として、かなり長い訓示を述べた。
「卒業、おめでとう。諸君の規律正しく、誠に凛々しい姿に接し、自衛隊の最高指揮官として、心強く、大変頼もしく思います。」から始まり、最後は「御家族の皆様。大切な御家族を、隊員として送り出して頂いたことに、自衛隊の最高指揮官として、感謝に堪えません。お預かりする以上、しっかりと任務を遂行できるよう、万全を期すことをお約束いたします。…平素から、防衛大学校に御理解と御協力を頂いている、御来賓、御家族の皆様に、心より感謝申し上げます。」と締めくくられている。
軍隊大好きのアベ訓示には美辞麗句が連ねられているが、防衛大学校の学生とは、どうも「規律正しく、誠に凛々しく、心強く、大変頼もしい」存在ではなさそうなのだ。また、自衛隊最高指揮官や大学校当局が、「学生をお預かりした責任に万全を期している」とは到底言い難い。安倍晋三は、「御家族の皆様」に感謝ではなく謝罪しなければならない立場にあるようだ。
今年の防大の卒業生は419人。その中での卒業後自衛官への任官を辞退する「任官拒否者」は47人、11%に達した。昨年に比べ2倍近い。このことが戦争法の影響と話題になっている。入学時は500人程度であったはず。卒業に至らなかった80人ほどの退学の理由にも関心をもたざるを得ない。しかし、格段に大きな衝撃は、防大生間の陰湿なイジメが明らかになったことである。しかも、そのイジメの内容が半端なものではない。こんなイジメをする連中には、およそヒューマニズムの片鱗もない。反知性的で、反社会的で、凶暴きわまりない。武器を扱う者たちの本性がこれだとすると、自衛隊とは恐るべき暴力集団と警戒を要する。
これまでも、自衛隊内の上官から部下に対するイジメが話題となったことはすくなくない。そのことによる自殺もあった。しかし、隊内エリート育成機関でのイジメは、これと質を異にする。自衛隊という組織の基本性格を形づくるものと指摘せざるを得ない。
この卒業式に先立つ3月18日、20代の男性が3697万円の損害賠償を求めて福岡地裁に提訴した。提訴後、この若者の母親が、記者会見して訴状の内容を語っている。
原告は、上級生のイジメ(正確には暴行あるいはリンチというべきだろう)に遭って、退学を余儀なくされた元防大生。被告は、国と暴行実行の上級生8名である。
朝日によれば、提訴の内容は以下のとおりである。
「防衛大学校(神奈川県横須賀市)の学生だった福岡県内の20代男性が、上級生らから暴行や嫌がらせを受けてストレス障害になり退学を余儀なくされたとして、当時の学生8人と国に計約3697万円の損害賠償を求めて18日、福岡地裁に提訴した。
訴状によると、男性は2013年4月の入学直後から、上級生らに「学生指導」と称して殴られたり、アルコールを吹きかけ火をつけられたりする暴行を繰り返し受けたほか、写真を遺影のように加工して通信アプリ「LINE」に流されるなどした。男性は「重度ストレス反応」と診断され、14年8月から休学。昨年3月に退学した。
男性側は「教官も学生間の暴力行為やいじめを認識していたのに、対策を怠った」などと主張。防衛大を設置する国にも賠償を求めている。
男性は14年8月、上級生や同級生計8人を傷害容疑などで横浜地検に刑事告訴。同地検は昨年3月、うち3人を暴行罪で略式起訴し、横浜簡裁が罰金の略式命令を出した。防衛大は今年2月、新たに関与が判明した学生を含め3?4年生12人と、当時の教官ら10人を処分した。
男性の母親(50)が18日、福岡市で会見し、『息子は自衛隊員になりたくて防衛大に入った。こんなことがあると知っていたら行かせなかった』と語った。防衛大学校は『再発防止に取り組んでいますが、訴状の内容を確認しておらずコメントは控えます』としている。」
毎日新聞の報道も同旨。以下は抜粋。
「防衛大学校の学生寮(神奈川県横須賀市)で起きた暴行事件を巡り、被害者で福岡県内に住む20代の元男子学生が18日、『上級生らからいじめを受け、大学側も適切な対応を怠った』として、国と上級生ら計8人に慰謝料など計約3690万円の賠償を求める訴訟を福岡地裁に起こした。
自衛隊内の暴力を巡っては、海上自衛隊呉基地(広島県呉市)の2等海尉が自殺未遂した問題で、両親が先月、山口地裁に提訴したばかり。
防衛大の教官については『暴行を認識しつつ、助けたり予防したりする対策をとらなかった』として安全配慮義務違反を主張している。元学生は体調を崩し14年8月から休学し、15年3月に退学した。」
本日(3月22日)付赤旗の報道がさらに具体的な内容を伝えている。
「原告の元学生が本紙の取材に応じ、胸中を語りました。
元男子学生は2013年4月に入学し、学生寮に入寮。しかし同年6月から14年5月にかけて上級生らから受けたのは『指導』と称して殴る、蹴るなどの暴行と、ロッカーにある私物を荒らされるなどのいじめの繰り返しでした。
『指導』は上級生らの気分しだいで繰り返されるといいます。元男子学生が、なかでも耐えられなかったことは、放課後に上級生から『風俗店にいき、写真をとってこい』という「指導」でした。
元男子学生が「行けない」と拒むと、「罰」がまっています。仰向けに寝かされ、上級生らが上から足で思い切り踏みつけてきます。
こうした暴行には「ネーミング」があります。例えば「○○ファイヤー」。下半身にアルコールをふりかけ、それに火をつけるという蛮行です。
熱さと痛みに耐えられず消そうとすると「まだ我慢しろ」と上級生の罵声が襲ったといいます。
理不尽ないじめと暴行に、思い悩んだ末に学校のカウンセラーに相談しましたが、返ってきたのは「1カ月我慢すればなくなる、辛抱しろ」という言葉でした。」
元男子学生は、振り返ります。「あのときはもうだめだ、と思った。最後の頼みの綱が切られた」。心身ともに絶望のふちに立たされ、『重度ストレス反応』と診断されました。14年8月、家族とも相談し休学しました。あわせて上級生ら8人を横浜地検に刑事告訴しました。同地検は15年3月、上級生3人を暴行罪で『略式起訴』し、残りの5人は起訴猶予にしました。横浜簡易裁判所は3人に罰金を命じました。
元男子学生は、防衛大を昨年3月に退学しました。被害体験から自衛隊への見方、考え方も大きく変化したといいます。
「実家の福岡が水害にあったときに、自衛隊が住民の救援のために働く姿をみて共感、自分も自衛官になると考えた。高校卒業で国立大学も合格していたが防衛大学校を選んだ。しかし入学して厳しい上下関係を利用した陰湿ないじめ、暴行の限りを尽くす上級生。これを容認する学校側の体質は許せなかった」
原告の元学生は2013年の入学である。この年彼をいじめた2年生が、今年(2016年)卒業している。神妙にアベの訓辞を聞き、帽子を投げた372人(任官拒否者は卒業式に出席できない)のなかに、彼に暴行を働いた者がいる。被告となっている者もいるはずだ。おそらくは、別の場面で別の下級生にイジメを行っていた者もいるに違いない。
「防衛大学校は、自衛隊のリーダー(幹部自衛官)を育成する日本で唯一の大学教育機関です。」と同校ホームページが言っている。卒業して任官すると直ちに曹長となり、半年で三尉となる。下級生をいじめた者が、そのメンタリティをもったまま、兵を指揮する立場に立つことになるのだ。必然的に、隊全体がイジメの体質をもつことになる。
こういう、隊内のイジメの体質は、旧軍時代からの傳統の受継というべきものなのだろう。軍隊とは、戦争をするための組織。戦争はお互いに相手を殺し合うこと、人間性や人権意識があってはなし得ることではない。敢えて不合理な蛮行を日常化する体質や感覚が必要なのだろう。仮に、旧軍からの傳統の受継でなければ、「軍隊というものは、理不尽に慣れなければならない。ようやく自衛隊幹部も一人前に理不尽なことができるようになってきた。それでこそ本来の軍隊に近づいてきた」と言うことなのだ。
(2016年3月22日)